はてなキーワード: 演繹とは
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
このキャラクターorカプ関係性はこうである、これが自分の解釈!
こういうのよく見る。
私は本当に解釈ってやつを言語化するのが苦手で、できる人すごいなって思ってる
なんで苦手なのか?解釈を決め打つと、二次創作の幅が狭くなるので。自分で自分に無意識で制限かかるというか。
解釈には幅がある?
それとも解釈と、こういうものが見たいから描くはまた別のはなし?
私のスタンスはどれなんだ
このキャラはこう考えてるはず!とは少し違う?
でもこういうシチュエーション・こういうリアリティライン・こういうIFならきっとこうするかも。の上で話を考えてる。
リアリティラインを私の得意な方面に寄せがち。なので本編とは少し倫理観の雰囲気がズレる。
本編通りのキャラクターではない気がする。
解釈の方がなー。
それと解釈は別と思ってるが。
Aくんはきっと家族がいないから今のような性格になったに違いない。とかは解釈なのか?設定捏造?
風呂入ってる時に敵に襲われたらどうするの図みたいなやつ?
ああいうの見るの大好き。
あれは解釈かもなぁ。○○な時、各キャラはどういう行動とるか。それをあらゆるシーンで考える。
あれを単体で考える時と、同人誌の話考える時で多少誤差が出る。
二次創作は演繹タイプで作れる人の方が圧倒的に向いてると思う。キャラ動かしてなんぼなので
眠くて頭回ってないな
また後日考える。ここは私の日記帳なので。
サイコロがわかりやすいと思うのでその例に乗っからせてもらうと、
「サイコロを何度も振ったら、1の眼が1/6と割合(たとえば1/3。p値は0.0001未満)で出た」ときに
(a) 偶然である。低い確率で起こることが今回起こった、というだけである。
(b) 「1の眼が出る確率は1/6よりも高い」と考えるべきである。我々には知らないことがたくさんあり、このサイコロに関しても然りである。
どっちで考えるか、ということだと思うんだよね。
演繹的推論に慣れている人の多くは(a)で考えるわけだけど、上のように書けば、「同様に確からしい」という自分で置いた仮定を信じ過ぎだとわかってもらえると思う。
他方、万事につけてわからないことが多い人は自然と(b)で考えがちで、傾向としては情報処理能力が低いので自分たちの考えをちゃんと言語化できていないことが多いけど、別にクレイジーなことを言っているわけではない。
久々にプロット考えてる
二次創作だが。
設定やこういう話がやりたいというのはポンポン出てくるが
エピソードへの落とし込みが出来ない
本当に話作る能力が鈍ってる感じ
森博嗣は作業にとりかかればすぐ出来ると言っていて、本当に天才なんだなと思った。
そもそも普段の思考の深さ・物事の捉え方・IQの高さがそうさせるんだろうか?
筆が進まない
それだと周りの装置をガンガン動かす必要がありそうなのに動いてないな。
着地点もまだぼんやりしてる。
本来演繹的なやり方苦手なのかも。先にオチやメインシーンきちんと練るか。
天才肌の創作人の頭の中をもっと覗きたい。覗いたところで自分が同じように実践するのは難しいんだろうけど…
もう2日くらいずっとぐるぐるしてんな。
同人友達はおろか、普通の友達とももはや数年以上疎遠なんだけど。
うーんどうしようかな
頭が固まってる感
好きな作家の同人誌パラパラ読んでるけど今やるべきはなんかそういうことじゃない気も…
うーんうーん
タイトルのまんまなんだが、これを知らずにそのままスライドして教えてる人がいるから困ったもんだ。
もちろん、人によってはそのままの方が理解できる子もいる。しかし、ダメだったときに別の方法を知っていた方がいい。
まず、みんなが英語の勉強で想像しやすいのは高校生のやり方だ。これは、抽象的な知識をもとにする方法だ。英語にはこういうルールがある。だから、このルールを応用すると、英文が読めるというものだ。演繹だと考えると分かりやすい。
こんな感じで高校生と同じように小学生も教えてないだろうか。実はこのやり方が人によっては合わないことがあるのだ。
小学生は脳が発達段階だから、抽象の能力が人それそれなのだ。だから、ルールがこうだから、このように応用するという方法は人によっては合わないのだ。
ではどうするか。逆のことをしたらいい。帰納的に英語を学ばせたらいい。大量に英語与えたらいいのだ。すると感覚で英語を理解することができるようになる。それで抽象の能力が発達したら、中学や高校で理論を学べば良い。
こんな方法があるなら学校でやればいいじゃないかと思うかもしれないが、それは無理。時間があまりにも足りない。この方法はようは私たちが日本語を学ぶプロセスに似ている。だから、かなり時間が足りないのだ。
最近の中学や高校は文法をしっかり教えないという話を聞いたことがないだろうか。実は、学校では帰納的な学びかたにシフトしつつある。
でも結果はどうか。大失敗している。そんなの当たり前で、時間が足りないから中途半端になっているのだ。
文法を教えるというのは限られた時間の中で英語を勉強することにおいては最適の方法だ。しかも、中高生なら抽象の能力も発達している人が多いから、理解もできる。だから、学校で文法をしっかり教えるのは、良いことだと個人的に思っている。
今の学校は文法をあまり教えず、中途半端な量の英語を読ませてるだけだから、どっち付かずの状態なのだ。
よく文法をやるやらない派が喧嘩しているが、そんなのどっちでも良い。どっちも英語ができるようになるし。ただ、時間という制約を考えると文法を学ぶのが良いってこと。
俺は絵を描くのが趣味だ。独学で絵を描いている。
絵を描いていて割と最初に気がつくのは、視点を固定しなければ絵はぐちゃぐちゃになってしまうということだ。
例えば、人物の全身像を描いているとする。もしそのとき、人物の顔を割と近くから真正面に見ているとしたら、その人の足は上から見下ろすように描かなくてはならない。そういうルールがある。
もっと極端なことを言うと、ある人物の左向きの横顔を書いているのなら、その人物の顔の右半分は描かない。視点は一つに固定するから、左向きの横顔が見えるとき顔の右半分が見えるわけがないのだ。
絵はこのように「どの視点から見ているのか」を気にして描くのが基本だ。視点が変われば見え方が変わるということを把握しなければならない。
視点が変われば見え方が変わるというのは価値観みたいなものもそうだと思う。
例えば「真実はいつも一つ」という言葉があるが、これは人ひとりの主観から見ればその通りだけれど、俯瞰して何人もの人を見てみると、その人の数だけ真実があり、決して一つとは言い切れない。
視点を語るとき、忘れてはならないのはピカソが創始したキュビズムと呼ばれる様式だ。
このキュビズムの何が革命だったのかというと、冒頭で述べた視点の固定をしていない絵を成立させた点にある。
左を向いた横顔と同時に顔の右半分が見える絵がキュビズムの絵だ。キュビズムの絵には、さまざまな視点が同居している。左を向いた横顔を見る視点と、顔の右半分を見る視点、それらが同居しているのである。
神様でもなんでもいいけれど、自分の中で絶対に動かない価値観を設定し、そこから演繹するようにしてものの見方を構築していくのも悪くはないと思う。
ヤバイのは「ヤバイ」とかいうレッテルと丸のままの逆質問だけで何か言った気になってるあなたのコメントの支持者だと思う。それでは単に「私には説明不可能です」と自白してるだけでしょう。
元増田は学校で習ったっていないなら、どこかで学んだはず、のように言っていて、演繹したり何かの考えを応用してると思うならそれを示せばいい。
Domino-R 常識という意味では、「禁止が明示されていない事は全て許されてる」という発想自体が非常識。個々のケースの問題ではないし規約の問題でもない。常識的には、可能と明示されてること以外は不許可と考える。
それはとても明確な常識への説明だけど、でも到底信じられないよ。
例えばイヌを連れた女性が頭を撫でていいですよ、と明示的に許可してくれたので頭を撫でた後にアゴをコショコショやったら、オイ!アゴは許可してねぇぞ! とキレられたら?
hara_boon 学校に全てを求めるな定期/そもそもIDを売るのが本来の目的から違うので、「IDを売ってもいい/売る機会がある」をどこで習ったか?のほうが気になるけど、そこはいいんだね
学校に全てを求める、なんて誰も言ってない。自分の偏見にすべての文章を当てはめるな定期。
本来の目的から違う流用はあちこちにあると思う。ゲームソフトの友達同士の貸し借りとか図書館とか。卒業アルバムを性的な視線で見てしまう、などなど。それぞれに謎があり本件のそれも確かに気になるけど、元増田氏はそこはいい、とも言ってない。ただフォーカスを絞ってるだけでしょう。
演繹は、一般的な法則や原理から個別の事例や現象を導き出す方法です。12 例えば、「すべての人間は死ぬ」という大前提と、「私は人間である」という小前提から、「私は死ぬ」という結論を出すのが演繹です。2
帰納は、個別の事例や現象から一般的な法則や原理を見つけ出す方法です。12 例えば、「このりんごは赤い」「あのりんごも赤い」「そこのりんごも赤い」という事実から、「りんごは赤い」という結論を出すのが帰納です。3
演繹と帰納の違いは、推測に使う「一般論」が既知か未知かという点にあります。2 演繹では「一般論」が既知であり、それを根拠にして個別的な結論を導きます。
帰納では「一般論」が未知であり、それを発見するために個別的な事実を集めます。
私:私は「一般的な法則や原理」が存在するかを人間は感知しえないという意見(例えば、「すべての人間は死ぬ」と断言することは難しいと考える)を持っています。この観点からすれば演繹という方法は存在せず、演繹と考えられているいる思考のプロセスは、帰納を行っている間のいちプロセスなのではないかと考えます。
AI:なるほど、興味深い意見ですね。私は、演繹と帰納は相互に補完的な関係にあると考えます。
例えば、「すべての人間は死ぬ」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、個々の人間が死ぬという事実を観察する必要があります。
これは演繹的な思考法ですが、一般論の妥当性を検証することで、帰納的な思考法の信頼性を高めることにもつながります。
例えば、「りんごは赤い」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、さまざまな種類や色のりんごを観察する必要があります。
これは帰納的な思考法ですが、新しい一般論を発見することで、演繹的な思考法の可能性を広げることにもつながります。
したがって、私は演繹と帰納は存在しないというよりも、互いに依存しながら物事を推測する方法だと考えます。
私:帰納法についてはもっともだと思いますし、その方法は存在すると言えると考えます。しかし、演繹法についてはどうでしょうか。仮定の上に仮定を重ねることを許容するならば、帰納法と組み合わせて物事を推測する方法が成り立つと考えます。ただしそれは、あくまで不完全な前提の上での思考・推測なのだと心得た上で行う必要があると思います。
AI:私は、演繹法も帰納法も不完全な前提の上での思考・推測であるという点に同意します。
演繹法は、一般論が真であると仮定して個別的な結論を導きますが、一般論が真であるということは証明できません。
帰納法は、個別的な事実から一般論を見つけますが、個別的な事実がすべて観察できるということも保証できません。
ですから、演繹法も帰納法も絶対的な真理を導く方法ではなく、相対的な妥当性を持つ方法だと考えます。
その意味では、演繹法も帰納法も存在すると言えるのではないでしょうか?
あなたが今持っている情報によって、事物は演繹され、記憶上にない事柄が計算されるとする。
このとき、あなたがオリジナルで見つけ出した技術や定理の類が情報となる場合もあるし、他者から受け取ったケースもある。
ここで重要なのは、他者との相互作用が関係する場合、双方の利害が一致しなければ情報があなたにとって不利になるように計算されるということ。
例えばあなたが権威主義の学者と相互作用したとする。あなたが「AIで数学の定式化を自動化できる」という情報を持っていると、権威主義の学者はそれを潰しにかかるのである。
つまりあなたがフォローすべきなのは、弱者にチャンスを与えるタイプの一部の海外勢(強者)か、または天才的知能を持つタイプの弱者であることがわかる。
訓練を積むと、まずいコウモリが現れたら、それがコウモリであるとわかる。
謎の文字列: 011010010100011000111111110000100010101000001000110011100000000011110000011101010011101
早まった一般化 (hasty generalization)
詳細は「早まった一般化」を参照
A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というものは暴力を好む生き物なのだ」
Aの発言は、少ない例から普遍的な結論を導こうとしており、早まった一般化となる[注 2]。仮に「男というものは暴力が好きなのかもしれない 」と断定を避けていれば、その発言は帰納となる(帰納は演繹ではないので、厳密には論理的に正しくない)。Aの発言を反証するためには、暴力が好きでない男の存在(ある男は暴力的でない)を示せばよい。Aの発言は、「1は60の約数だ。2も60の約数だ。3も60の約数だ。4も60の約数だ。5も60の約数だ。6も60の約数だ。つまり、全ての自然数は60の約数なのだ」と論理構造は等しい。
この種の話法例は容易であり「ある貧困者が努力により成功した」「ある障害者が努力により成功した」などの論調により統計的な検証を待たずして命題として認証される誤謬の原因となる可能性がある。ある貧困者や障害者が「努力」を要因として成功したとしても、それは問題の解決にとって論証的に有効な提示となりえるかどうかは分からない。都合の良い事例や事実あるいは要因のみを羅列し、都合の悪い論点への言及を避け、誤った結論に誘導する手法は「つまみぐい (チェリー・ピッキング)」と呼ばれる。また、極稀な例を挙げ、それをあたかも一般的であるように主張することもこの一種となる。
●大筋では同意できる(「規範」「規範的主張」の理解についてはちょっと違うような気がするけれど)。
●ただ、「前提」として提示されている知識を知らなくても理解できると思う(というか、知っているとかえって混乱しそうな点もある・後述)。「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味が分からなくても、児童虐待がその例であることが読みとれればよいはず(ここがポイントだろう)。すなわち、「児童虐待に反対する人は、全ての人が児童を虐待することに反対するに決まっている」ということは、おそらくほとんどの人が理解できるだろう。そして、それと同じことを(倫理的)ヴィーガンもやっているのだという趣旨が理解できれば、そこで両者に共通する要素が「正義の原理に基づいた規範的主張」だとわかる(ひいては、「正義の原理」の意味もなんとなく推測できるだろう)。これだけで、元ツイート「その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。」への回答としては十分であろう。
●(倫理的)ヴィーガンの主張は功利主義によって正当化されることが多いという知識を考慮し始めると、「正義の原理」という文言にはかえって混乱しそう。というのも、一般的に「正義の原理」と聞けばロールズの正義論を思い浮かべるだろうが、ロールズの正義論は功利主義を批判しているからだ。それに、ロールズのやり方で(倫理的)ヴィーガンの主張が正当化できるのかもちょっとよく分からない。谷口さんが、(おそらく)素人相手にそんなに難しいことを言っているとは考えにくい(もしかしたら本当に難しいことを言っているのかもしれないが)。したがって、この場合の「正義の原理」を「その人の倫理的立場の基礎をなす(一般的な)規範的主張」というぐらいの意味(だと思う)」としているのには(とりあえず)同意できる。
●それと、「書いてあることをその通りに読めばいい」と言っているが、「演繹」という言葉はツイートには出てこないし、「正義の原理」について倫理学の知識がある視点に立ってしまってはいないか。上に書いたように、別に「演繹」という言葉を知らなくても(また、「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味を知らなくても)ツイートの趣旨は十分(推測によって)理解できると思われる。
このまとめ記事(「ヴィーガンは個人の趣味の話などではなく、正義の原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前」 https://togetter.com/li/2013016 )のブコメを見てびっくりしたんだけど、このまとめの中心となっているTarouphoさんのツイートの意味が取れてない人が多過ぎる(いつものことだがね)。
例えば、
TANI_Röhei@赭埴庵 🏴 @Taroupho 何を勘違いしているのか知らんが、ヴィーガンは(少なくともその一部の派閥は)個人の趣味の話などではなく、正義の原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前でしかないのだが。児童虐待に反対する人は、全ての人が児童を虐待することに反対するに決まっている twitter.com/otapediatricia… 2022-12-16 15:26:57
と言うツイート( https://twitter.com/Taroupho/status/1603637788272111616 )があるけど、このツイートが言っているのは(書いてあることをその通りに読めばいいのだが)、
「少なくとも一部のヴィーガンは、彼らが正当だと受け入れている規範的主張から演繹される結論として肉食を否定しているのであって、それを他人に対しても受け入れるよう迫るのは当然である」
ということ(多分)。ここで前提として以下を確認しておく。
以上の点を踏まえれば、先のツイートの内容は大体理解できるだろう。
オタ小児科医 @otapediatrician
その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。 twitter.com/kohakunodarlin…
2022-12-16 05:19:03
要するに、「ヴィーガンが『他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき』と主張しているのがおかしい」という主張に対し、「規範的主張とはそういうものだ」と言っているのであって、今回のまとめのトップにある田村淳のツイートへの直接の言及ではない。そもそも「一部の過激なヴィーガン」の話をしていないということ。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。