なんかよぉ……
最近思うんだけどさ、みんな何か一つに寄りかかろうとしすぎじゃない?
Twitterだかxだかについて皆が話してるのを眺めてて思う……
1人に、1か所に全てを求めようとしすぎ。
例えるなら、田舎のバカでかいショッピングモールみたいな感じ。
昔は違ったじゃん。野菜は八百屋で、魚は魚屋で、本は本屋で買ったじゃん。
絵はpixivに(その前は個人サイトに)、動画はYouTubeやニコニコに、好きな人の日記はブログに、知りたいことは検索エンジンに、それぞれを見たい時に見たい場所へそれぞれアクセスしに行ったじゃん。
それが一箇所で手に入るのがTwitterで、それをすごい!画期的!って楽しんでる期間がしばらくあったけれど、そろそろそれが当たり前になってきて、品揃え悪いなとか、私は今甘い物食べたくないのに勧めてきて不愉快、みたいなことが増えてきてる。甘い物が見たくない気分ならモールを出て漬物屋にでも行けばいいんだけど、そのへんのコントロールがどんどん下手くそになってないか?日曜日に買い物するならモールでしょみたいな。何にも深く考える段階がない。Twitterがカスになったと感じるのは、もちろん事実そうなのだと思うが、こっちのコントロール機能がカスになってきているというのもあると思う。
そりゃショッピングモールは便利だし、楽だからその価値はすごいものではあるんだけど、それならその便利や時短を享受しようという心構えでいるべきなんだよな。〇〇屋に行くって行為って、それなりに何か求めて身構えて行くってことだし。そういう身構えがないと、何かと不愉快は増えるものだ。覚悟していれば受け止められるものも急だと受け止めにくくなる。見る物のコントロールは、ほとんど精神のコントロールに直結しているので、その辺が上手な人は自分の機嫌をよく保つのも上手い気がする。
人もおんなじ。生み出す作品が良い人も、人格が信頼できる人も、容姿が良い人も、楽しい気持ちの日に会いたい人も、悲しいときに慰めてほしい人も、全部別のカテゴリで、自分の気持ちで付き合い方を変えて良いのに、それら全てを兼ね備えた人を求めてるみたいなところあるよね。そうじゃないなら殴ってもよし、みたいな。
これってAだと思う、という人に、いやこいつにはBって視点が欠けてるぜ、いやお前はCってことを分かってない、みたいな喧嘩が今日も起きている。それって、別に喧嘩するようなことじゃないじゃん。それぞれの意見が集まることはいいことであって、それを聞いて自分の中でABCの配分を調整して自分の意見をクリエイトすればいいだけなのに、発言するなら最初からABC全部セットにしてお出ししないと許さねぇ、っていうのはやっぱり求めすぎなのではないか。.
その上で、今そのショッピングモールが潰れそうになってるわけでしょ。もうそのショッピングモールが儲ける影で街の本屋や魚屋は潰れてて、行くところはぐんと減っちゃっている。依存してた場所がなくなるからみんな右往左往してる。
企業はいつだって全てのシェアを掌握したがる。みんなもそれが楽だから最大手に乗りたがる。でもそれが進み切って最大手が死んだ時には、焼け野原と、右往左往する人間しか残らない。全てが完全な優れた推しに全てを委ねて貢いだのに、それが沈んだら何にも残らない。そのために切り捨てた友や時間やチャンスの死骸が転がるばかり。
今からでも、意識的にいろんなものに寄りかかりたいな、と最近思う。Twitterってザッピングしてるようでいて結局Twitterというものに依存してるからあんまり意味ない。Twitterを見たい気分の時に能動的に、積極的にTwitterを見て、そうじゃない時には別のSNS見て、探したいものは自分で検索して、本読んで、新聞読んで、テレビ見て、近所の友達と喋って、遠方の友人とも喋って、職場の人と話して、そして何も見たくない時は何も見ないでいたい。惰性で暇を持て余すのでなく、積極的に暇人になりたい。そういうふうにやっていきてぇな。意識的に…能動的に…