はてなキーワード: 都市とは
・追記
とても勉強になるまとめをみつけたのでお知らせしたい。
どういうわけかうまくリンクを貼れないが、ここ→ www.green.gifu-u.ac.jp/~bhdlab/?p=1391
以下、増田の駄文。大変不勉強で、特定の方々をディスったりして申し訳なかった。こんなものをみる無駄な時間を節約してほしい。
ーーーーー
実は、恥ずかしながら、治水のことなど今まではっきり考えたことはなかった。
休日で暇だったのが幸いして文献を読みまくることができた。
一部、ツイッターなどでは事実上、運転を開始した八ッ場ダムが2日間で満水にしたことで
何が税金の無駄だ…台風19号 「八ッ場ダム」賞賛の声が相次いでいる – ジャストニュース
ガンダムになぞらえるなど、まるでヒーローのような扱いだ。へー、ダムってすごいんだな、と思った。
それに対して、冷静な反論も多く見られた。いわれてみれば、
利根川水系の治水対策は、八ッ場ダムだけが頼みの綱だったわけではないし、むしろ未完成の現在では既存の利根川流域の治水計画の範囲外のはずだ。
台風接近中、いろいろ文献を読んでみた。日本の治水というのは、思ったより興味深いものだった。
数々のツイッターが注意しているように、今回の台風19号の八ッ場ダムの治水効果は技術的な検証を待ってから、というのはその通りだと思う。満水したからといって大騒ぎするのは早計。
とかね。
百歩譲って、流域全体に均一に雨が降るという前提なら成り立つんかね??定量的って、、、、全く。
そのなかでも、ちょっと気になったのは、以前より長い間、八ッ場ダムの反対運動をしてきていると思しき人たちのツイッターやブログの書きぶり。
あしたの会とかそんなやつ。以下、「彼ら」。
ひとことでいうと、彼ら、存在しない夢の総合治水像ですべての物事を語っている印象だ。しかも上記のツイッターと同レベルで科学を装っているから始末にわるい。
具体的にもっとも違和感を覚えたのは、堤防管理では越水耐性を強化すべきとしている点。
堤防で水際の越水対策をきちんとやっていればダムなど必要ないというわけだ。
一方、国交省は、堤防の耐越水技術は確立されていないとして、導入にすら消極的だ。
それに対して、彼らは、いやそれはダム偏重の治水だケシカラン!安価で確実なものができるはずだ!ダム派の陰謀だ!と主張。
おおむね、こんな感じ。
応答する論理がぶっ飛んでしまって、彼らは自分だけ左翼っぽい政治闘争のレールに勝手に乗っかってしゃべっていて、
話がかみ合わなくなっている印象だ。
ダム反対派ってこういう感じなのか、、と実感した。今後はそっ閉じかな、と。
少し時間をさかのぼって、昨日の未明のことを話す。読売新聞が、「利根川決壊の恐れ」とのニュースを報道した。
国土交通省関東地方整備局によると、埼玉県久喜市栗橋の利根川で氾濫危険水位を超え、13日午前3時以降、同県加須市の利根川と渡良瀬川の合流点で越水し、堤防が決壊する恐れもあるという。このため、両市は防災行政無線などで近隣住民の避難を呼びかけている。
すでに、昨日の時点で、いろいろ文献をあさってて、関東平野の治水にちょっとは詳しくなった気になっていたころだった。
決壊すれば、近隣住民の避難どころの話ではなく、下流域の春日部市から江戸川区に至るまで広範囲に水没し、カスリーン台風の二の舞になる恐れがある、ということがとっさに分かった。
水位情報を確認すると、確かに、栗橋の観測地点において、氾濫危険水位を超えてじわじわ水位上昇中だった。堤頂から2mくらい下まで水位が来ており、台風の強風によるうねりを考慮すると、越水が気が気でない状況。
そこで同地点の洪水対策をググってみたら、彼らのウェブサイトがヒットした。
NHKが報道した利根川の決壊を想定した浸水のシミュレーション | 八ッ場(やんば)あしたの会
彼らは、2017年当時、NHKが報道した利根川の決壊を想定した浸水のシミュレーションを批判し、次のように主張する。
今回のシミュレーションは、利根川の栗橋付近(埼玉県久喜市)の決壊で溢れた洪水が、中川(農業用水の排水河川)を通して東京都内まで短時間で到達するとしたものです。利根川の氾濫洪水が流下するバイパスに中川がなることはあり得ることだとは思いますが、そもそも、利根川の栗橋付近の堤防が決壊する危険性がどの程度あるかが問題です。
栗橋付近から上流の利根川中流部右岸および江戸川上流部右岸では、土地を買収して堤防の裾を大きく拡げる首都圏氾濫区域堤防強化対策事業が国交省関東地方整備局によって進められています。
へー、そうなんだ!やるじゃん、国交省!と安心したのが、彼らの主張を見た最初だった。
ところが、このページの締めくくりに書いてあった文章に違和感を覚えた。次のように彼らは締めている。
この事業は浸透に対する堤防の安全性を確保することを目的とし、国交省は超過洪水対策ではないとしていますが、これだけの堤防強化が行われれば、決壊する危険性がほとんどなくなることは明らかです。その点で、今回のシミュレーションは前提が現実と遊離した仮想計算といえます。
NHKの報道は、利根川の栗橋付近で行われてきた首都圏氾濫区域堤防強化対策事業や堤防の現況などには触れませんでした。洪水への備えは必要ですが、利根川決壊の恐怖を必要以上に強調する報道は、果たして防災の役に立つのでしょうか。
まず第一に引っ掛かったのは、国交省が同地点で実施した堤防強化事業を"超過洪水対策”ではない、としている点。
超過洪水対策?なんのことを指しているのかわからなかったので、検索してみたら、例の耐越水堤防をめぐるダム反対派と国交省のやり取りがヒットしたというわけだ。
次に疑問を持ったのは、
と結論づけていることだ。国交省が超過洪水対策じゃないっていってるじゃん??根拠がわからない。
しかも、この記事を読んだのは、国交省がまさに台風19号により栗橋付近での決壊の恐れを警告したニュースをみているときだ。
つまり、彼らは国交省の堤防強化事業について、越水対策の下駄を勝手に履かせて、その効果を信じているが、国交省は昨日時点で、すでに堤防強化された箇所において、なおも越水の危険を警告した、という構図。
現実と遊離しているのは一体どちらなのか??
さらに、たった今気が付いたのだけど、
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00552.html
によれば、栗橋付近の工事、まだ終わってないか、ほぼ終わったばかりじゃねーか!
2017年に終わってるとか嘘じゃねーか、騙されたぜ。
もうひとつ違和感が残った彼らの主張に、カスリーン台風の評価がある。
カスリーン台風襲来時、たまたま運よく吾妻川流域の降雨が少なかったというのが俺の理解だ。
それに対して彼らは、国交省はカスリーン台風同程度の台風が来たら被害が大きくなるというが、それは妄想だ、カスリーン台風時でも吾妻川流域は持ちこたえたんだよ、と主張。おおまかにいうと。
これもさっきのツイッターと似て、彼らのお花畑では、流域全体に常に均一に雨が降ってんだろう。
それにしても、彼らは、なぜ、それほどまでに堤防事業を全力で信頼しているのか。その答えは、彼らの思い描く理想の総合治水像にあった。詳細は彼らのサイト。
大まかにいうと、ダムに過度に依存せず河川改修やソフト対策を中心とした総合治水モデル。へー、脱ダムの主張ってこんな感じなんだと感心。
確かに、流域によっては、河川改修の方が費用は少ないという試算を出せる場合もあるだろう。雨水対策や遊水地効果を狙って水を河道から逃がす発想も大切だ。
従来の治水の思想は、「貯めて、流す」という言葉で表現されるように、「水を河道に封じ込めて人間が流量をコントロールする」というもの。
近年は、彼らになびいたわけではないだろうけれど、ダムを大きな治水の柱としつつも、特に首都圏では雨水対策はかなり充実してきているように思える。
しかし、問題は、近年の気象現象の変化によって増大する大規模水害。この発想でどこまでいけるのか?
一体、どこまでのハザードを国や広域自治体(県)が想定すべきかどうかにも関わってくる。
財政的な現実性を踏まえれば、100年確率で検討するよりも、50年、30年確率で検討したほうが安価だ。
人命を守ることを優先し、床上浸水は阻むが、場合によっては、床下浸水は我慢してもらうといった発想だ。
例えば、2010年に当時の橋下大阪府知事が決定した槙尾川ダム建設中止はそうした費用対効果の分析に基づいている。
流域を個別にみていけば、最適解はそれぞれ異なるだろう。
比較的規模の小さな流域では、高いコストでダムを作って「貯める」中心の治水を行うよりも、むしろ頻度の高い少々の洪水には我慢してもらう、という発想はありうるかもしれない。
なんでもかんでも山河をコンクリートで固める時代は確かに終わったと思う。
だからこそ土砂災害防止法が2001年制定され、避難などのソフト対策へのシフトも謳われた(土砂災害はちょっと別ジャンルだが)。
しかし、政治的意思決定は、自治体の財政的なインセンティブに左右されてしまう可能性もあるかもしれない、というのが当時の橋下府政に関する文献をみた印象だった。
そうすると、広域自治体によっては、経済的に安価なよりコンパクトな治水事業が知らず知らずに選択されかねない。
住民の目からすれば「ちょっと床下浸水くらい我慢してね、あとは自助だよ、自助、逃げろ走れ、だよ」と広域自治体から言われ、
基礎自治体からは、市町村合併して公務員縮小してるところなんで、避難体制整備まで人回せません。。みたいな、ね。
正直、日本の中山間地域含む地方は、そんな風に途上国化してもやむを得ない状況だと思っている。
しかし、首都圏を洪水から守るという発想は正直、次元が違うというのが、ここ二日間、暇に任せて学んだ印象だ。
総合治水の在り方は、守るべき価値の大きさとのバランスだと思う。栗橋付近決壊で、東京ダウンタウン住民数百万人に、一斉に逃げろ、みたいな構図は、正直ありえない、あってはならない。
国のシナリオでは100兆円34兆円(*訂正)をこえる被害想定も算出されている。
百歩譲って、首都圏を守るための治水事業においても、脱ダムして、河川改修を中心とした対策にシフトすべきだ、としても
彼らのように、現実にありもしない堤防の越水対策などを謳って独自の想定シナリオを提案し、脱ダムの必要性を訴えるのは、行政サイドからは話がズレているとしか思われず、空回りするだけだろうと思われた。
河川改修の重要性、これに異論があるわけではない。例えば新潟三条を流れる五十嵐川とか、拡幅工事がなかったら終わってたわけだし。だけどダムを否定する論理にはならない。
しかし、議論するなら説得力は相当に必要だ。相手にされなかったときに、やっぱりダム利権が絡んでいるからだ!と政治闘争路線に走るのも彼らのお決まりのコースなのが残念なところ。
ドラえもんの道具を謳いたいなら、それは科学論文で証明してもらわないと。
科学技術的な論文で勝負してもらいたい話を政治の話にすり替えるのは卑怯だし、見苦しい。
そんなことを思いながら、貴重な休日が終盤に差し掛かりつつある。。
+++++
追記その1訂正
首都圏大規模水害の被害想定は34兆円が正解。土木学会が取りまとめた高潮被害と混同してました。。
追記その2
長くなりすぎるので割愛したけど、調べている途中で見つけた新潟県及び三条市の過去15年年にわたる五十嵐川の治水の取り組み、見附市の刈谷田川の田んぼダム、ソフト・ハードの絶妙な組み合わせ。素晴らしいものがあると思った。
市町村合併云々のくだりは倉敷市真備町の事例を参考にした。雨水対策は、中堅都市では岡崎市の住民参加型の取り組みも興味深く拝見した。
本来このような話を本文で書くべきだったのかもしれないがあしからず。
追記その3
「彼ら」含めた原告団が最高裁まで争って敗訴決定したのは2015年こと。住民の疑問点は一顧だにされなかったと憤慨されている記事もある。しかし、そのあとにも引き続き、いろいろと従前の主張を繰り返しご発言なさってるという状況は留意しておいてもいいことだと思ってる。治水の話かと思いきや、左翼レッテル張りの記事に見える(個人の感想です - fn7のコメント / はてなブックマークに対するコメントとして。→ええ、そうだよ、思いっきりディスってるよ。
負けたなら黙れっていってるわけじゃないが、高裁判決に対してろくに反論もしてない時点で、キャッチボールになってないんだよ。そういうものを無視して同じ主張を繰り返すくらいなら、主戦場を変えたら?って思う。
視線恐怖などがあり東京から人口20万人の都市へ引越したが、逆にすれ違う人が少ないため余計に気になるし歩道が整備されてなかったり道路も入り組んで細かったりで結構前や後ろから来る通行人、自転車などを常に気にしなければいけなかったり、この辺の老若男女は細い道でもかなりの確率で避けない。こちらが避けなければぶつかるだろうと思う事がしょっちゅうだ。自分は東京だとお互い避け合うことが常だったのに何故。
人が少ない方が逆に意識してしまうなんて住んでみないと分からなかった。しかし家を購入したためもう簡単に東京には戻れない。
人が少ない地域は、東京に出掛けて帰ってくる分にはのびのびできるが毎日いると気が狂いそうだ。透明人間になりたいし沢山の人間に紛れて他人を認識したくない。本当に生きづらい。
これが首都圏を直撃するんだ。間違いなく誰も体験したことのないことになる。超過密都市が受ける災害としては世界最大規模になるかもしれない。
はっきり言って備えてどうこうできるもんじゃないよ。バッテリーや水を多少買い込んでどうにかなるレベルじゃないよ。
もし千葉みたいなことが都内で起こったらどうなるか。大渋滞でインフラが死ぬ。電気の復旧はままならない。基地局が電源枯渇したら携帯もつながらなくなって詰む。都心のインフラはノーミス前提でないと回らないんだよ。
だから「備えよう」は間違っている。必要なのは逃げることだ。地震と違って台風は「ほぼ完全に予測された見えている災害」なんだ。
遠くの温泉でも実家でもいい。さいわい3連休だ。特に予定のない人は首都圏から離れて台風をやり過ごしてくれ。もし何もなかったらそれでよかったで済む。もし何かあったら、そのまま地方で復旧するまでやりすごしてくれ。どうせ仕事どころではなくなるから。
仕事で離れられない人や、動きたくても動けない人もたくさんいる。その人のために過密をできるだけ減らしてあげてほしい。
いのちをだいじに
==以下、引用==
(略)
以下の記述は、記憶によるもので、あいまいな点が多々ありますし、小沢さんの言葉ではなく、私が自分なりに解釈、要約して書いている部分もあるので、誤解や間違っている部分があるかもしれないことを念頭にお読みください。
小沢さんは、これから自分の語ることは誰か特定の人を攻撃するものではないので誤解しないでほしいと何度も断った上で、「アートという罠:アートではなく」という講演を開始されました。
小沢さんが取り上げたのは、「なぜイギリスの行政は貧しい地区でのアート振興にお金を出すのか、彼らは何を狙ってアートを援助したのか。」という問題です。
行政的にはその答えは明瞭で、
第二に、職を作るためであり、
第三に、セルフ・エスティームを高くするためであり、
第六に、再犯を防止するため
なのですが、小沢さんはこういったアート政策が、実は新自由主義、ネオリベラリズムの息のかかったプログラムそのものであると指摘されました。
ネオリベラリズムとは、簡単にいうと、人びとを激烈な競争に巻き込んで、優勝劣敗、弱肉強食のジャングルの法則を貫徹し、社会を一部の大金持ちと、残りの貧乏人に分断し、様々な格差が拡大することをもって良しとするような主義・主張です。
勝ち組の新自由主義者たちは、アートを媒介にして、貧しい人たちが暴動を起こさないよう社会の中に取り込もうとします。こっち側に入れてあげるよ、といった彼らの傲慢さは、ソーシャル・インクルージョンとでも言えば、何かカッコよく今風に響くから不思議です。
なぜ、ソーシャル・インクルージョンをネオ・リベラリストたちには必要とするのでしょうか。端的に言えばそれは、暴動を抑え、革命を阻止するためです。そんなこと「野蛮」なことを、夢にも思わない人間を作り出すためです。
(略)
「企業的な社会、セラピー的な社会」で小沢さんは、セラピストの前で自らを語ることは、実は「灰色」=システムが用意した一定のヒエラルキーの下に、「あるべき自分」を位置づけて、希望を失っていくプロセスなのだと批判していました。
小沢さんは今回の講演で、同じことがイギリスのコミュニティアートにも起きているといいます。
セラピストが皆、気持ち悪いくらい落ち着いた低い声で、その患者たちをシステム内に柔らかく取り込むように、コミュニティアートも、誰にでも受け入れられるような、丸っこく優しくゆるーいアートを媒介にして、貧しい人達が「暴発」しないよう、その力、希望をソフトに去勢して、システム内に取り込んでいる、と批判しているのです。
イギリスではソーシャル・インクルージョンを目的にすると企画書に書けば、補助金が比較的容易に降りるということもあって、この言葉が大氾濫しているそうです。
そして、実際に許可して一年で700億円もの金を分配している男は、アートのことなど何も分からない小役人で、アートを通じて、貧乏人の心に野心を高めさせ、燃えたぎらせ、優秀さへの野望を常に胸に抱いて他人を出し抜こうとする嗜好など、ネオ・リベラリストたちが好む欲望を植えつけることをアート政策の目標にしているのです。
小沢さんは、こうしたイギリスの取り組みが「コピペ」されて実施されたのが、大阪ではないか。世界と地域はつながっているのだと主張されます。
The Economistとかいったネオリベの雑誌を好んで読み、「アーツとビジネスの融合した創造性豊かな都市をめざす「創造都市戦略」を掲げた」(ウィキペディアから)關淳一第17代大阪市長を名指しで批判している最中で、なぜかスカイプの音声が乱れ、もう時間ですからと急かされて、最後は駆け足気味の話になって終了。
小沢さんは1時間の講演を予定していたようで、話を止められた後、両手を頭に組んで仰け反っていた姿から、もう少し語りたいことがあったように見えましたが、私の気のせいでしょうか。
それにしても、これほど過激な、これほど尖りまくった講演は聞いたことがありません。
下手すると、企画の趣旨を全てぶち壊すような、シンポジウム関係者を激怒させ、二度とお呼びにかからないようなリスクをあえて冒して、小沢健二さんは自らが信じることを堂々と語ったのです。資料を持つ手は微かに震えていたとしても。
「アートの力を信じる」というシンポジウムで、「アートという罠:アートではなく」という、まるでちゃぶ台をひっくり返すような講演をやる蛮勇さ。なんという毅然さ、なんという美しさだろう。私はただただ感動していました。
小沢さんは、どこにも帰属せず利害関係を超越した場所から、誰も反論しようがないお行儀のよい正論をぶつだけのイデアリストではありませんでした。
アートしている人たちの苦労を理解した上で、行政からのお金であっても貰えるものならば、貰っていたほうが良いとはっきり言われました。
しかし、彼らの意思、権力作用を十分理解しながらも、それを逆手にとって、何か思いも掛けないあらぬ方向に投げ返してやること、突拍子もない事件を呼び起こすこと、例えば、親のカネを使って自由に遊ぶ頭のいい不良少年、内から食い破るエイリアンのように振る舞うこと、
これは私の解釈ですが、そんな但書きを小沢さんは付けたかったのではないかと推測しました。
==引用ここまで==
父親が失業し、そのままメンタルを壊して仕事をせず、母親が地元の低賃金のパートでしのいでいる状況。一応持ち家はあるけど他に資産はなく、父親の前職もかなりの低賃金だったので家の貯金もゼロ。兄弟はまだ小さい。だから家にお金をいれてねとこちらも低賃金でバイトしてました。
大学に行きたかったのは高2から。「この学問って面白そう」というのに出会ってしまい、地元の国公立にはその学科はなく、ちょっとだけためていたお金で受験料と交通費を出して、家出同然でこっそり受験し、教育ローンで初年度納入金を払って寮に入りました。その後も学費免除と給付の奨学金と貸与と最低限のバイトで過ごしました。
そうやってはいった大学は楽しかったです。講義もよかったし、コミュ障ながらそこそこ気の合う友人もできたし、コテコテに卒業旅行にも行きました。今はそこまで良くはないけど、同じ都市の会社に就職して諸々の金を返しています。
今でも大学の四年間は一番よい思い出だし、そこで出来た友人たちが一番の友人です。
たぶん、お金がない、地方の生まれで一番たいへんなのは、受験するまでで、増田さんはまさにそういう状態なんだと思います。周りの人たちの声、親の「子どもに借金を」なんて聞く必要はありません。結構みんなカジュアルに借りているし、バイトがのってきたり学内の別の条件のよい奨学金に通ったら打ち切ればいいんです。なんかJASSOの回し者みたいだけど。
そもそも大学に進学する程度でそんな図太さを持たなきゃいけないこと自体、地方生まれの金無家庭に生まれただけで…って不条理ですよね。自分も大学で会った、「たまたま近いからここにした」とか「親の会社に入るから就職しない」みたいな人々をみてぐぬぬとなりました。ただ、自分より「楽しんでいる」ように見える人は無限にいて、そういうのに負けを感じるよりも、自分なりの楽しみ方を探さないと負けだと思ってます。
ひとまず「やりたいこと」から入りましょう。支援や援助って意外と見つかるもんですから、状況に負けて可能性を絞ることはしないでください。
とあるコンサートチケットの高額転売について、色々考えた事があるので記録しておく。
チケット高額転売とは、その名の通りチケットを定価を超える金額で販売する行為である。
高額転売と聞くと大量のチケットを高額で売り捌く業者、所謂転売ヤーを連想しがちだが、その内業者と思われる割合は意外と少ない。
では他には誰か。
それは非常に悪質な、しかし悪質という自覚のないファンたちによる転売なのである。
ここで一例を挙げる。
友達を誘って行けばそれまでだが、折角なら2公演分入りたい。
なので、残りの1枚は同じコンサートで他の日時のものと交換する。こうすれば金銭も発生しないで、2公演楽しめてハッピー。勿論、合法。
自分のチケットの座席は3階席の後列で需要が少ない。地方公演のチケットなので、人気都市の公演に行きたくても同じ会場同士でしか交換できない。平日なので土日公演と交換してもらえない。
ここで、一度転売し換金してから、希望の公演のチケットに金を積んで入る、という行動を取る。金を経由しチケットを得る。
そうすれば相場の差額を払うだけで当選していない公演に入れるのだ。
相場が定価の5倍だとすると、定価5000円のチケットが大体25000円で取引される。
自分のチケットは何らかの理由で、相場で18000円分の価値しかないが、人気都市・人気日時・良い座席のチケットは70000円で取引されている。
交換してもらえるはずがない。価値も需要も埋められない差があるからである。
しかし例えば同じ会場、少し良い座席、土日公演のチケットが26000円で取引されてるとする。勿論自分は交換したいが、相手にとってメリットは少ない。
(勿論一定数定価主義のファンも存在するが、運良く交換成立する場合は稀である)
そこで一度転売、換金し8000円金を積んで26000円のチケットを手に入れる。
もし残りの1枚を友人に譲ってしまうと2公演目は26000円のマイナスだが、転売すると8000円マイナスで済む。
この場合18000円、定価の3倍強の高額転売だが、その売り上げは26000円のチケットを売った別のファンへ流れている。ファンは結局アーティストの為に金を使い、別のファンもアーティストに払う。
ファンの同士の中で金が回り、アーティストの為に消費される金である。
単純に、通路横席、最前席、いわば「神席」などと呼ばれる座席と、3階の後列や埋もれ席など、「天井」などと呼ばれるクズ席が同じ金額で売られているのに問題がある。
もしくはコンサート中盤と最終日が同じ金額、地方公演と人気都市公演。
肉眼で見れ、触れそうな位置でパフォーマンスをする2時間と、豆粒くらいの見えてるのか見えてないのか、TVで見ている方がマシな2時間が同じ金銭価値な訳がない。
コンサート中盤の中弛みしてきた公演と、最終日の涙ながらに気合の入った公演が同じでいいのか。
基本的にランダム、良い公演良い座席に当たるかは運だ、と言われている。
もしくは手数料である。良い座席、良い日程、良い会場を当てた人へのチケット分プラスアルファの手数料である。
ある界隈では最前席は20歳以下の若いファンしか当たらないという、公表されてないが共通認識の裏ルールがある。若くないが金のあるファンは、絶対に手に入れる事のできない若さを金で買っているのである。
この様に他にも公表されていない選択基準があるのかもしれない。それらは全て運という言葉で片付けられている。
1枚のチケットに、条件が揃えば20万だの30万だの法外的な金額がつく。そしてそれを買うファンが存在する。少なくない数、存在している。
しかし、どうしてもそれが悪だと思う事ができない。良い座席にはその金額に見合う価値があると思い、法外な金額を積んでしまっているのである。
実際、その価値はある。と思う。
通路横の座席の、すぐ近くをアーティストが通り、匂いを感じ、顔を目視でき、喉から声を絞り上げる姿を見れ、マイクが拾わない声を聞ける、そんな生の体験と。
ステージから遠く離れた天井席で、豆粒のようなアーティストを双眼鏡で必死に追いかけている、悲しくなる絶望感。
その2つを経験してしまうと、とてもじゃないが同じ価格だと思えない。
その気持ち、金を出してでも運を買いたいという気持ちは十二分に理解できる。
問題は、運営から離れたファン同士(もしくは転売屋)の間で金が動いてしまっている点である。
だからやはり、金銭差がなく運のみでチケットが選ばれる制度自体に問題がある。元凶である。
舞台であればS席、A席、B席…など前列の座席程料金が高く設定されている場合がある。金を出せば対価としてより良い観劇環境を手に入れられる訳である。
この制度自体は問題ないが、現時点で高額転売は多数存在する。やはり値段設定と座席の区分が相場と合っていない上、日時による区分が存在しないのである。
全席オークション形式にすれば金を払いたいファンは自分の希望する座席に入れる。金のないファンは去るしかない。これなら
運営に金が入り、金があるファンはいくらでも払う。正にwin-winな関係である。
誰かに仲介される事なく純粋なチケットへの対価が金額に表れる。
小金持ち程度のファンも集まれば立派な金づるである。新規ファンを常に増やしたい運営にとって得策とは思えない。
特にSNS主体の現代では、金は無くとも拡散力のあるファンはアーティストの立派な広告塔なのだ。少しの太客よりより多い茶の間ファンなのである。
また道徳的にもよろしくない。という風潮が現在存在しているだろう。
運営から離れたところで相場が生まれる、というのはある種の主張である。
定価以上の金を払ってでもよい席に入りたい、それだけの価値がそのチケットには存在する。良いチケットをくれ、その分金は払う。
しかしその声が届く事はない。
高額転売は終わらない。
今の千葉がそうじゃん
自衛隊24万人が国民の敵だと定義する小西を当選させる反日左翼都市が千葉
現役自衛官が選挙結果に怒り「田母神元空幕長の落選ありえない」
落選させた選挙区では、自衛隊員として働きたくないと語る隊員もいる
落選させた選挙区では、自衛隊員として働きたくないと語る隊員もいる
落選させた選挙区では、自衛隊員として働きたくないと語る隊員もいる
落選させた選挙区では、自衛隊員として働きたくないと語る隊員もいる
落選させた選挙区では、自衛隊員として働きたくないと語る隊員もいる
https://news.livedoor.com/article/detail/9580968/
おまえは国民の敵だ!」 防衛省の統合幕僚監部に勤務する30代の3等空佐が、野党議員に対して浴びせた罵声が物議を醸している。
追記: see https://jp.reuters.com/article/wrapup-saudi-attach-idJPKBN1W22KF
この問題について、二つの方面から考える必要があると思います。すなわち、兵器の性能と報道の実態についてです。
まず兵器の性能ですが、イエメンフーシ派/イラン革命防衛隊が爆撃に使用する主力ドローン爆撃機は 200kg の爆弾を装備し 1000km 前後を飛行する能力があるとみなされています。作戦において航空機が直線的に飛行することはほぼ考えられないため、せいぜい半径 300km 程度しか攻撃できないものと思われます。
今回攻撃をうけたダンマームはフーシ派支配地域の先端(サウジアラビアのナジュラーン)から 1200km 近く離れています。攻撃がイランによるものだとした場合、以下のような可能性があります
という都市はブーシェフルしか存在しません。ここはイランの核開発の拠点の都市として知られているので、米軍の衛星などにより厳重に監視されているものと思われます。そうした都市から直接爆撃機を運用することはちょっと考えづらいと思います。
またイランのドローンが 3000km を飛翔可能であると想定すると、イラン領土内から直接エルサレムの爆撃が可能になります。もし、イランがそうした兵器をすでに運用していた場合、イスラエルがここまで「冷静に」事態を取り扱っていることはかなり不自然です。
ということは、仮にイラン、イエメンフーシ派が攻撃を行なったと考える場合フーシ派はサウジアラビア領内を陸路長距離侵攻してサウジ領内に仮設の飛行場を作り作戦を遂行する能力を持っていることになります。ドローン一機とそれに関連する機器を最大限切り詰めても大型トラック 2 台分にはなると思います。今回の攻撃ではドローン 10 機を使ったというのがイラン側の宣伝なのでそれだけでトラック 20 台です。それに加えて仮設の飛行場を設定するための機材や人員の輸送、警備兵力などを入れるとおそらくトラック 50 台近い車列になるものと思われます。
このような大部隊がサウジアラビア領内に密かに侵攻し、ドローン爆撃を行っているというのは一見極めて異常な事態です。しかしサウジアラビアの人口密度は極めて希薄であることを考えると不可能ではないと思います。またリヤド近郊のパイプライン攻撃、今回とは違う油田攻撃など「そういう手段が確立されている」としか思えない攻撃についてもこれまで報道されてきています。
次に報道についてです。まずよく言われる「なぜこの時期に」という問題ですが、正直なところこの時期も何もあったものではないです。これまでにあったことですが、リヤドが弾道ミサイルで攻撃されたことが報道されましたし、石油パイプラインが攻撃される事例もありましたし、先月末にはサウジ国内の別の油田が攻撃されています。石油関係以外に目をむけると、軍事設備、行政設備、要人の暗殺、空港爆撃などイエメンによるサウジ航空攻撃は多岐に及んでいます。またナジュラーン、ジーザーンをはじめとした複数の都市が陸路から侵攻を受けています。こうした話はアラビア語メディアには頻出していますが、欧米、日本、中国といった先進国はこれまでほとんど無視を決め込んできました。
どちらかといえば「よくある攻撃だったはずなのに今回だけが大きく報じられている」ということが問題だと思います。
先月の攻撃ではサウジアラビア石油大臣は「サウジアラビア全体の石油生産には影響を与えない」という言い方をしていました。すなわち、該当の施設は生産を停止するが、他の施設の増産で対処可能という意味です。しかし今回は攻撃一回で「サウジの石油生産能力が一時的に 50% ダウンする」ということがストレートに発表されました。ここまで大打撃をうけるということは、つまり、攻撃されずに残っていた油田の稼働率を限界まで上げることで対処していたところにさらに攻撃を受けた結果ついに対処の限度を超えたということです。
今回の攻撃は「よくある攻撃」でしたが「最後の一撃だった」とも言えるものです。また今回の攻撃は先進国民の生活に直接影響があるもので、そうしたこともあって「よくあること」なのに報道が多くなってしまったのだと思います。
ではサウジアラビアの意向はどうかというと、ムハンマド皇太子独裁体制のほころびを隠すことが全てだったと思います。これまでサウジアラビア国内はイラン/イエメンの攻撃により大被害を受けていたと考えられます(ドローン10機による攻撃程度で石油生産が半分も破壊されてしまったことがなによりの証拠)が、こうした事実をサウジアラビアはなるべく隠蔽しようとしてきました。8月終盤ごろからいよいよ被害が隠し切れなくなってきた、あるいはムハンマド皇太子更迭の準備が整いつつあるということなのでしょう。