はてなキーワード: 焚書とは
インターネットで「(90年代のオタクネイティブは秘していたような、女性に対して暴力的な言語表現が一般化してしまった」理由として、
00年代以前のインターネット社会では「女性がマイノリティだった」というのが大きいのだと思う。
女性嫌悪的な記事や、『ま~ん()』『腹パン』『糞女』などの『女性に対する明確な差別的言論』やセクシズムに溢れた表現が、
住み分けされることなく偏在し、男女双方の性嫌悪を再生産し続けている、という現状を重く捉えるためである。
後半、ポルノメディアのゾーニングについても触れるが、弊害が大きいのはむしろ、差別言論のほうであるように感じる。
かつてアングラサイトだった2ちゃんねるは、まとめサイトの存在によって「公」空間に引きずり出されてしまった。
ソース元となる「ニュース速報系」は、かつては「極端な思想同士が延々とプロレスをしている」一元さんお断り空間だったが、
雑談系板の分離、アフィリエイト排除のための板新設などを繰り返した結果、かつての「喪板(=モテない男性文化)」的な、
非モテ・ミソジニー文化が幅を利かせる空間として先鋭化した。客層をターゲットした広告が配置され、結果として女性差別と、男性向けの性表現で溢れかえる。
新たな住民が流入し、育ち、巣立っていくサイクルの中で、一般的な女性が見たら嫌悪感を持つ空間が醸成されてしまったのはほぼ必然といえる。
たまに誤解している女性がいるが、これを「日本社会の差別性の象徴」と捉えるのは正確ではない。
「もともと限られた男性たちが醸成した空間が、外部者である女性の目に触れるほどに一般化してしまった」が正しい。
なお、ここまでの推察は、既にあるまとめサイトをどうこうすべきという話ではなく、「結果としてやむを得ず現状がある」という過程の話である。
多くのインターネットサービスが提供しているのは、異文化衝突に対する、技術的アプローチによる解決だ。
Google的な広告モデルは、個人需要に対して徹底的にパーソナライズされる仕様になっている。受け付けない広告は、右上などに表示された×ボタンを押せば表示を止められる。
例えばtwitterは本来TLがデザインできる空間なので、攻撃的なタイプの「弱者男性(女性車両反対)」層、ツイッターレディースなどの、
IS○S的な用途は、本来、サービスのデザインに反する。「嫌いなものはブロックして見ない」が正しい使い方となる。
また、facebookは年々ポリティカルコネクトネス的な締め付けを強めているので、猥雑なインターネット空間が受け付けない層はそちらへ行くのが妥当、という側面はある。
とはいえ、情報リテラシーが高い、あるいは自制可能な人間ばかりでない。
そして、往々にして人間は、自分の空間をデザインすることではなく、差別者を批判することではなく、
『嫌いな』表現を攻撃する行為に労力を割いてしまう。現状、技術的手段が有効に活用されているとは言いがたい。
性差別を受ける体験から性嫌悪を強め、あらゆるセクシズム的な表現に対するアレルギーを発症する人は多い。
社会における表現の自由は「人権の総量」と同義であるといって過言でない。
表現規制が基本的人権の侵害に及んだ場合、社会的人権の確立が十分でない子供、そして次に女性が権利を奪われる。
この例は、事実上の男性向けポルノ規制法である青少年育成条例周辺の改正案が、全て、「子供の権利を奪う」方向に進んでいることに顕著だ。
焚書を及んだナチス・ドイツや、青少年健全育成法との内容的類似が指摘される、戦前の国家総動員法が物語る通りである。
一部東南アジア国家では強硬な規制政策が取られているが、独裁政権が横行し、「エロ本を買うより女を買うほうが安い」といった状況だ。
タイでは軍事政権に対するクーデターが起きたものの、短い平穏のあと、名君の死による大変な混乱が起きているのは周知の通り。
さて、「表現の自由」論について多くの行数を割くことは、ここではせず、過去や他国の先例に触れるに留める。
論じたいのは、見た目のイージーさに対して重要なリスクを持つ「社会法による規制」に訴えず、
女性が差別表現に傷つかないネット空間を用意するにはどうしたら良いのか、という部分だ。
まとめサイト女性の目に触れる、ということは、扱われるトピックに、女性にも共通する需要があり、
一般メディアのセクシズムに不満が出る、というのは、逆に捉えれば「セクシズムが除外された空間に需要がある」ということだ。
「クリーンな」と書いたが、女性向けキュレーションメディアの多くは
女性の趣味嗜好は細分化しやすいので、隙間需要はおそらく多い。
女性向けで、かつ、現行のまとめサイトに近いものとして「ガールズちゃんねる」「GIRL'S TALK」などがある。
まだ十分に一般化していない印象があるが、これらは、需要を上手く捉えたサービスだと思う。
ところで、女性向けキュレーションメディアの大半が「セックス」「恋愛」を全面に出している。
セクシズムこそが人を惹きつけ、湯水のように金を出させることは否定のしようがない。セクシズムは男性のみならず、女性にも深く根付いている。
社会的な建前が排除された女性向けメディア、「ガールズちゃんねる」「大手小町」あたりを見ても、女性の女性による女叩きは溢れかえっている。
それらを除外したサービスを作ったところで、収益を上げづらい(作るメリットが薄い)であろう、という推論は成り立つ。
視界内からセクシズムを排除したいならば、自らをゾーニングし、徹底的に安全な場所に引きこもる他はないだろう。
ここまで敢えて触れなかったが、女性向けのネット文化は、存在しなかったわけではない。
日本は性文化においても、女性への「slat shaming(ふしだら侮蔑)」的感覚が強く、また、女性のほうが趣味が細分化しやすい事情もあり、
女性向けの性表現は自ら「隠れている」のが実情だ。学級会文化、と揶揄されるように、同調圧力が非常に強い。
一般化する前の、かつてのオタク文化に近い傾向を持っているとも言える。
ただし、女性が男性向けの性表現に嫌悪感を抱くのと同様、本邦の男性も女性向けの性表現に嫌悪を抱く。
あらゆるネットサービスで問題となる、「腐叩き」に顕著だが、「腐叩き」が問題になっても、「女叩き」が問題になることは少ない。
「マイノリティ」の弱みだが、女性のインターネット利用は既に一般化しており、そもそも男女の大きな人口差はないので、人数的にはマイノリティではない。
「最近の腐女子がやりすぎている」のではない。男性向けの性暴力表現の一般性を考えれば、表に出てくるのは至極自然な現象だろう。迫害するほうが不当だ。
男性性への嫌悪から、女性差別表現と共に氾濫している男性向けポルノの規制を求めれば、女性向けの性表現も規制を受ける。
「ミラーリング」に必要なのは、個別のキンタマ潰しでもなく、ポルノバッシングでもなく、女性向けのポルノを、公空間に氾濫させることだと思う。
なお、筆者は少女の表象を好み、男性向け文化を主に嗜好してきた性別女性だが、
BL愛好女性の語りが好きだし、女性向けのゴアな表現の行き着く先がどのようなものなのか、強い興味がある。
同性が表象によって「性的消費」されることに抵抗はないし、異性に対しても特にない。
個人をイリーガルに侵害しない範囲に限るが(実在者の加害行為を扇動する気はない)、文化としては、更なる先鋭化に期待する。
攻撃的に、あるいは非攻撃的に、「自粛を求める」というものだ。何故書かなかったか。そもそも無理だと考えるからだ。
殴ったところで、他者加害傾向の強い人間は「反応があった」事実に溜飲を下げるだろうし、
攻撃的でない人は傷つき、嫌悪ないし憎悪を増幅させる。前向きな進展が起こるとは考えづらい。
空間のパーソナライズという形での技術的解決は更に模索されるべきだが、人間はそも身勝手で、経験外の事象への想像力を欠いた生き物だ。配慮を求めるのは非常に難しい。
一般社会では許されないような表現が溢れかえるインターネットの「公空間」だが、「すでにそのように形成されてしまった空間」において、性差別の欲望に抗うのは難しい。
現在の本邦において、男性も女性も、「男性嫌悪」「女性嫌悪」を内在させている。
「女性向け」のインターネット空間では、女性は性表現への渇望を隠さないし、お行儀よく振舞っているわけでもないし、男性を「消費」しもする。
最初から女性がインターネット空間でマジョリティだったとして、「自粛」などできる筈がない。これはそういう問題だ。
想像不可能な事象に人間は「配慮」なぞしないし、想像力の欠如は、体験することによってしか補われない。
男性にも、目に見える範囲で同性の表象が理想化され、客視され、消費される体験が必要なのだと思う。それこそが戦うこと、ミラーリングになる。
裏返しに言えば、ときに男性のオタクが憧れるように、「憧憬され」「求められる」のは、「女性」の特権ではないはずだ。
相互に消費し、消費され尽くす経験を経て、住み分けやお互いの線引きを探るか。社会法による規制という形で表現の自由、幸福に生きる権利が奪われることを望み、
共に滅ぶことを選ぶか。
「女性の生きづらさ」を改善するためには、空気を、構造を変えなければならない。
それは、「黙らせる」のではなく、自らが声を挙げ、表現することによってしか実現されない。
追記:本稿で取り扱いたかったのは、主として「女性に対する差別言論」が全く住み分けされない(されづらい)現状だったのですが、
表現上、ポルノメディアとの区別が曖昧になっていたので、一部をリライトしました。
ポルノメディアはかなりの割合でsexismを含むと認識していますが、それが単純な女性差別であるとは捉えていません(17:38)
ドラえもんと図書館戦争だけの家庭と、3歳までに1万冊の絵本を読み聞かせする家庭
http://topisyu.hatenablog.com/entry/how_to_use_library
ドラえもんは、言っちゃえば、勉強も運動もできないのび太によるドラえもんを使った一発逆転ストーリー(とその甥っ子が受け止めている可能性はある)。ドラえもんばかり読んでいることを心配するより、そういうストーリーを心が求めている背景に焦点を当ててみるとまた違った展開もあったかなという気はします。甥っ子は学校でいじめられていないかとか、勉強ができなくてコンプレックスを感じているんじゃないかとかですね。
まず、トピシュの言う通りドラえもんを読む「理由」を考えるのは、思考実験として面白いと思う。
ただ、そんなの本人との対話無しには、冗談抜きに無限に近い可能性が考えられる。
ジャイアンに感情移入して、理不尽な暴力を振るう様に憧れている。
スネ夫に感情移入して、色々買ってもらえる裕福さに憧れている。
ドラえもんに感情移入して、他人に力を貸せるような技術や力に憧れている。
ガチャ子マニアで、目を皿にして、ガチャ子が出ているシーンを探している。
実は祖父が安孫子で、その祖父に世界で一番面白い漫画だよ、と紹介されたから心酔している。
実は前世がトキワ荘の座敷童で、あの頃自分が見守っていた若者達の行く末に思いを馳せている。
実は正真正銘のタイムトラベラーでもうすでに自分の居た時間軸では焚書され失われたドラえもんが読めるということがただただ嬉しい。
いやもう、滑稽無糖な理由も含めて、山ほど思いつけるんですよね。
で、これらの理由とトピシュさんの言う
ドラえもんは、言っちゃえば、勉強も運動もできないのび太によるドラえもんを使った一発逆転ストーリー(とその甥っ子が受け止めている可能性はある)。
って、そこまで大差のある意見ではないと思っている。
極論だけど、僕が上げた滑稽無糖な理由の可能性が”ない”なんてことはないよね、しかもこれは甥っ子の脳内の問題なのだから、事実としてタイムトラベルできない事とか、事実として座敷童がこの世の中に居ないこととは、これらの可能性が”ない”理由にはならない。
何しろ、魔女裁判をガチでやるのが人類だし、狐憑きがガチでいたのが人類なんだから、甥っ子の頭の中は自由なんだと思う。
要するに「先入観」をどこまで持っていいのか? みたいな話になるのかなあ。
これはもうインターネットでリアルタイムで発言のやり取りが出来るわけじゃない人らしい発想でもあると思う。
全部を質問してやり取りしてたら日が暮れるから、ある程度はこちらで質問を先読みして答えないといけないっていうね。
ONE〜輝く季節へ〜は、言っちゃえば、勉強も運動もできない折原によるえいえんのせかいを使った一発逆転ストーリー(とその甥っ子が受け止めている可能性はある)。ONE〜輝く季節へ〜ばかり読んでいることを心配するより、そういうストーリーを心が求めている背景に焦点を当ててみるとまた違った展開もあったかなという気はします。甥っ子は学校でいじめられていないかとか、勉強ができなくてコンプレックスを感じているんじゃないかとかですね。
シノハユは、言っちゃえば、異性愛も近親愛もできないシノによる同性愛を使った一発逆転ストーリー(とその甥っ子が受け止めている可能性はある)。シノハユばかり読んでいることを心配するより、そういうストーリーを心が求めている背景に焦点を当ててみるとまた違った展開もあったかなという気はします。甥っ子は家庭で虐待されていないかとか、恋愛ができなくてコンプレックスを感じているんじゃないかとかですね。
クロスボーンガンダムゴーストは、言っちゃえば、ミネバのその先もニュータイプ論もできない長谷川によるサイキッカーを使った一発逆転ストーリー(とその甥っ子が受け止めている可能性はある)。クロスボーンガンダムゴーストばかり読んでいることを心配するより、そういうストーリーを心が求めている背景に焦点を当ててみるとまた違った展開もあったかなという気はします。甥っ子はサンライズからF91以降の時代を押し付けられているとか、カトキハジメのデザインにコンプレックスを感じているんじゃないかとかですね。
アクシズ落としは、言っちゃえば、ララァを母親にすることも人類の革新を題目にスペースノイドを引っ張ることもできないシャアによるアクシズを使った一発逆転ストーリー(とシャアが受け止めている可能性はある)。アクシズを落とすことばかり考えていることを心配するより、そういうストーリーを心が求めている背景に焦点を当ててみるとまた違った展開もあったかなという気はします。シャアはナナイとの関係がうまくいっていないとか、アムロの嫁のチェーンかベルトーチカにコンプレックスを感じているんじゃないかとかですね。
トラフィックス3は、言っちゃえば、エストを自分のファティマにすることもジークのように国を統べることもできないヨーンによるアイシャを使った一発逆転ストーリー(とちゃあが受け止めている可能性はある)。デコースを倒すことばかり考えていることを心配するより、そういうストーリーを心が求めている背景に焦点を当ててみるとまた違った展開もあったかなという気はします。ちゃあは桜子との関係がうまくいっていないとか、姉のアイシャにコンプレックスを感じているんじゃないかとかですね。
時は201X年、巷では誰が作ったのか分からないアニメが動画サイトを中心にカルト的な人気を博していた。
噂では完全な個人製作で、作者は作品の完成と同時に、貧困にあえいで自殺したらしい。
商業的には失敗したが、内容は素晴らしく、社会現象にまでなるほど。
秋葉原の一角にファン達が集結し、この作品の同人活動だけで生活する集団が現れる。
彼らの熱心な布教活動のおかげで、世代も性別も、趣味趣向も超えて広く愛される作品となった。
クールジャパンで一山当てたい政府も、海外に輸出しようと企んでいたりする。
だがどうにも、おかしい。
このアニメのファンには、ただの熱狂的なファンでは説明のつかない異常な行動が目立ちすぎる。
同人活動をやっているのは、始めこそコアなオタクしかいなかったが、
やがてそれまでオタク趣味とは一切無縁だった中年男性やらヤンキーやらフェミニストやらまでこぞって同人活動を始める。
しかも彼らのスキル上達も異常な速度で、すぐさま商用になるような作品を量産するようになる。
そして何かに取り憑かれたように作品を作って、寝食もおろそかにして死者が出るようになる。
世間はそれをキモオタ怖いなぁ、なんて冷ややかな目で見ているが、実は彼らは芸術作品を通して感染するウィルスのような物にやられている。
アニメ、音楽、小説、歌、イラスト、漫才、ジョーク、ありとあらゆる物が感染源になる。
これは生物的なウィルスではなくて、ある種の感動を味わうと人間の脳の神経回路の一部が変化してしまうことが原因で発症する。
この神経回路が脳内にできあがると、同じような感動をもう一度味わいたいという中毒症状が出る。
例えば件のアニメ動画を不眠不休で24時間見続ける生活を送ってしまうとか。
すると彼らは自然に同人活動を始め、感動の再生産を始めるというわけ。
これに気づいた人々が警告を発するが、そんなバカなと政府含め世間は取り合わない。
そして感染は広がり続け、いくらなんでもおかしいと、政府が件のアニメおよび周辺作品を取り締まろうとする。
だが、時既に遅く、感染者達はアニメ動画やそのスピンオフ作品に頼らずに感染者を増やす芸術表現を編み出していた。
もはや感染経路はアニメや同人誌だけではなく、小説や音楽、果ては世間話のついでに交わされるダジャレにも及んでいた。
政府関係者にも発病が相次ぎ、政府機能がマヒしかかる危機に見まわれる中、
消防、警察、自衛隊、総力を上げて感染者と思しき人物を逮捕、拘束していく。
素人集団が自警団を立ち上げて、さらに状況は混乱を極めていく。
もちろんネット、テレビ、ラジオ、新聞などのメディアは検閲されるかシャットダウンされる。
人々はおよそ娯楽と呼ばれる全ての娯楽を捨てていく。
文字を書くことはおろか、鼻歌を歌う事も冗談を言うことも危険視される社会ができあがる。
それでも感染は止まらず、事態を重く見た米政府は日本の主要都市50箇所を核攻撃し、約8000万人が死亡する。
海外に住んでいる日本人は無条件で隔離され、リンチに遭い、日本産の絵や日本語で書かれた文章が徹底的に焚書される。
そこまでやっても感染は止まらず、やがて人々はあらゆる文明活動を捨て、人類は滅びる。
どうよ?
面白くね?
横だけど、焚書と出版社の都合での停止を同列にしたら行けないだろ。
http://b.hatena.ne.jp/rag_en/男女/
id:Mukkeは差別をなくそう! って言ってるだけじゃないか、表現規制をしようだとか、そういうSSをまとめアンテナに載せるなとか言ってるわけじゃないのに、過剰反応しすぎ。
だいたい、どんな理由があろうと、同性愛者であることを揶揄うような創作物を「おもしろーいwwww」なんて言って言いわけねえだろ。
匿名掲示板だからゲラゲラ言えるだけで、よく公の場でこんなこと言えるな。
焚書しようなんて言ってなくて「こういう作品は差別的表現があるから、注意しましょうねー」程度なのに、大げさにとらえすぎ。
表現規制だとか以前の問題だ。
あんなものを読んで実行しているやつに碌な奴がいた試しがない。
ビジネス書マニアの発言や行動って、ビジネス書に書いてありそうなことばかりで、寒いし、上っ面しか学んでないからか不快極まりない。
「君の言うことは理解できるよ?」
というのがあるんだが、これがまた不愉快なんだよ。
多分会話術みたいな本に「まずは相手に同意していることを示せ」って書いてあるからよく言うんだと思うけど、実際は俺の言うことを全く理解してないから腹立つ。
俺の言うことを本当に理解してたら絶対にしないであろう行動をいくらでもしやがる。中身が全く伴っていないんだよな。
同じビジネス書好きの同僚も、ビジネス書の引用をして部下に指示をしたりアドバイスをしたりしてるけど相当寒い。部下に「それ、ビジネス書に書いてあったんですか?」って言われてるしw それでその後、部下のマネジメントのビジネス書を読み始めて、隣にいる自分は笑うしかなかったな。
ビジネス書に書いてあることは正しいと思うよ。でも、あそこに書いてあることをビジネス書を読むことで身につけることは不可能。ああいうのは実際の仕事の過程で自分で見つけ出すものじゃないの。そういうものではないと自分の血肉にならないし、上っ面だけ真似ているものは見抜かれる。
以下ははてな等で行われる「私モテ」に関する想定問題集と推奨される回答。
1. もこっちのキャラ造形は「泉こなた」を連想させる。オタクキャラであったこなたと同様にオタクはもこっちに自己投影している。オタクの自己愛が駄々漏れである。幼児的だ。未成熟だ。許されない。このような作品を見ているオタクは成熟するべきだ。
2. 私モテの主人公の内面は男オタクである。しかし外面は女性として描かれている。つまり喪女を消費して搾取している。私モテは男性オタクによる性消費である。このような作品を見ているオタクはジェンダー的に正しくない。差別者であり政治的に許されない。自己反省をするべきだ。
3. 私モテは女性性を搾取している。女性へのヘイトスピーチである。このような作品が作られているのが日本のオタク文化の構造的問題である。慰安婦問題にも通じる構造である。差別的社会構造に加担するオタクは許されない。自省するべきである。ジェンダーについての勉強が足りない。反省が足りない。差別的社会構造を野放しにしているどころか無邪気に構造から産出された差別的偏見的抑圧的作品を消費することで構造の強化に加担しているオタクに表現規制に反対する権利はない。オタクの自省の無さが橋本と石原を産んだ。反表現規制は笑うべき論だ。
4. モテない男が空想の中で女性に自己投影をしている。これは女性の女性性を消費する行為だ。更にはトランスジェンダーに対する差別でもある。現実で努力とリスクを負うこと無く空想を愉しむ行為は自らの男性性からの逃避である。男性が持つ加害性に対する自省が足りない。市民社会の一因として男性の加害性に向き合い男性としての自覚を新たにせよ。それが男性として生きる道である。それが男性としての責任である。男性性からの逃避は許されない。お前は男だ。男としての自省が足りない。男として生きろ。男の責務を忘れるな。お前は女ではない。お前は女にはなれない。染色体から逃げるな。男性ジェンダーから目を背けるな。逃避するな。空想に逃げるな。男の義務を果たせ。現実と戦え。
5. 非モテ男という自らの現実を空想で女性に投影している。自傷的自己愛に耽溺する行為である。非モテのウィンプ性が駄々漏れである。お前たちは堕落した醜いウィンプだ。だがしかし実のところお前たちはマッチョであり強者なのだ。オタクが好む作品がその事実を示している。私モテを見ればわかる。お前たちは自らのマッチョ性から目を背けている。醜いナルシズムに浸る行為であり許されない。自らの強者性と無自覚な加害をウィンプの態度で覆い隠しているのだから単純な暴力よりも邪悪である。私モテを見ることは女性へのDVに等しい。現実と戦え。成熟しろ。自省が足りない。反省するべき。
6. 私モテは学校で孤立している黒木智子が自分は男にモテないのが最大の問題と思い込んでいるように描いている。したがって私モテは男女二元論的ジェンダー規範に加担している。私モテは異性愛社会の権化だ。つまり同性愛者に対する差別である。セクシャル・マイノリティへの配慮が足りない。政治的に正しくない。自省しろ。反省しろ。お前が同性愛者あるいはその他のセクシャル・マイノリティだとしても異性愛社会の差別的構造を内面化しているだけだ。可愛らしさを是とする理想化された女性像に囚われた同性愛者でありながら非モテ的心性に共感するお前は黒木智子に対する自己投影を行いジェンダー規範を強化している。許されない。お前のしていることは抑圧移譲だ。お前は女性への抑圧者だ。お前は社会の生き辛さを強化している。差別的社会構造への加担者である。許されない。反省するべき。自省しろ。
7. 私モテ読者は女性への抑圧者だ。見ればわかる。作品が示している。おまけに日本社会の差別的抑圧的社会構造に加担する無自覚な加害者であるオタクが邪悪な欲望に塗れた作品を描いて消費することで抑圧された女性の苦しみを搾取している。私モテが存在することで女性が生き辛くなる。許されない。自省しろ。反省するべきだ。私モテは性差別でありヘイトスピーチに等しい。更にはセクハラである。私モテの存在が性暴力である。辛い。苦しい。規制しろ。焚書するべき。されたくなければ自省の態度を示せ。お前たちは政治的に正しくない。女性へのヘイトスピーチを娯楽として消費しているのだから規制されて当然。自省しろ。反省しろ。
8. 以上のように私モテが差別であり偏見でありヘイトスピーチであり抑圧であり生き辛さを生み出す邪悪な社会構造の根本原因であることが理解された。お前たちは何故自省しないのか。反省しろ。自省しろ。弱者に対する態度を示せ。被差別者に対する態度を示せ。マイノリティに対する態度を示せ。私モテはウィンプを偽装したマッチョであり弱者を偽装した強者であり無自覚な加害者であり無自覚な差別者であり無自覚な偏見を眼差すひ弱で醜い零落したいじめられっ子でぼっちの気持ち悪いモテないオタク男が性欲に塗れた自らのナルシズムを慰撫するために作り出した黒木智子という自傷的自己愛のカリカチュアを性的に愛でるオナニーであり即ち女性のモノ化でありハラスメントであり性的搾取であり性消費であり性暴力のイコンなのだ。私はそれを指摘した。故に私は道徳的に正しい。倫理的に正しい。政治的に正しい。私こそが弱者の擁護者でありマイノリティの庇護者である。だがお前たちは邪悪だ。許されない。自省しろ。反省しろ。お前たちが悪いのはどう考えてもお前らが悪い。許されない。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。自省しろ。反省しろ。
1.
うるせえ死ね
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妥当性に欠けているだけだったり、倫理的に問題があるだけだったり、多少なりとも批判精神を持っていたり、読みやすい台本形式でなかったりすれば、ここまで批判されなかったのではないか。
ということであれば、それは作品の瑕疵なわけで、そのファンをまとめて魔女裁判みたいな話にはならないんじゃないかな
日ペンの美子ちゃんが黙っちゃいないぞ
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130115/1358256185
とか読んで。
(だから、上の記事に対する直接的なレスとはとても言えないのだが)
まおゆうを取り巻くアンチの言説は、まおゆうという作品に対していろんなツッコミをする。それは、
(たとえば、1年で農業改革なんて出来ねぇよ、とか)
おもにこの2方向に集約されると思う。
(あとは、ファンや作者に対する人格批判なんだが、その話はこの文章後半に持ち越す)
上記の2点はたしかに疵である。結果物語は駄作になり得るレベルの疵かもしれない。
が、それは要するに、究極的には小説としての巧拙の問題なのだ。
ここで言う巧拙っていうのはやれ台本形式がどうしたとか文章のレベルがどうのこうの言う最近のラノベ語りではなく、物語の展開から隙を取り除く程度の意味合いだ。
巧拙の話で言えば、ダメな作品が世の中にあるのは当たり前だし、むしろ良いことだ(母数的な意味で)。
それがメジャー化したところで別段何の問題だって有りはしない。「それ以外の選択肢」があふれた現代なのだから。
しかし巧拙の程度の問題に対して、どうも、アンチの人は常軌を逸して過激なように思える。
Twitterでは焚書を促したりする人や、ファンにたいして自殺を勧めるような表現まで見えるわけで、それはどうにも違和感がぬぐえない。
上のURLも楽しんでいるだけのファンにガソリン放火をして自分も燃えながらゲラゲラ笑っている絵面に見える。
ここにはなんかもっと、個人のアイデンティティを賭け金にしたなにかがあるのを感じてしまうのだ。
まおゆうにおいて経済がどうこうとかいうのはテクスチャであるというのは見れば判るわけだけど
そのテクスチャを通して、あるいは取り除いて、まおゆうという物語の言っていることはほぼ1点に集約される。
それは「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る」ということ。これだけだ。
まおゆうに激しい拒絶反応を示す人々は、どうも、まさにこの部分が受け入れられないように見える。
「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る」という考えそのものが受け入れられない。
もっといえば「人間の努力で何かが改善できる、何かが為せるだなどといった欺瞞を高所から語るな」と憤ってるように見える。
それが良いのか悪いのか、とくに、そんなもん世間様に開陳して良いのかどうかは横に置く。
彼らがそういう憤りを感じているのは、現代社会において、リアルだととても強く感じるのだ。
いま思えば、初期にまおゆうを礼賛した人々は「人間は自らの努力で社会を改善することが出来る」ということに感動を覚えていたようだ。
まおゆうがそれに値する作品か? という話に接続したいわけではない。
どう感じるかは個人の自由なのだからその感想自体はまったく間違っていない、という話だ。
しかしその一方で、「人間は自らの努力で社会を改善することが出来る」という作品や、それを無邪気に礼賛する人というのは、
ある視点から見たら、どうしようもなく無神経で、脳天気で、生かしておくわけにはいかないほどいらだたしさを持つと言うことも、理解出来る。
この問題はとても深く、大きい。それは圧倒的な断絶だ。
(こう書いてしまうと作品のコアファンや作者には申し訳ないけれど)もはや、まおゆうは、どうでもいい。
まおゆうに描かれている作中の問題提起であるとか、作品の疵であるとか、小説としての上手い下手であるとか、そんなものを越えた問題がここにある。
こう例えると卑近になってしまうかもしれないのだが、
それは、小中高とよい大学に入れば幸せになると言われ多くの時間を苦痛な勉強に費やし、大学に入っても就職のために歯車的なロールを強要され
しかし実際ふたを開けてみれば、終身雇用も崩壊し経済はガタガタになり、どんなに働いても給料は高齢者の年金で吸い上げられ自分はもらえないと知ったような。
いわば、洗脳に近い価値観インストールを受けたけど、それらはみんなうんこでした――みたいな人間が、
「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る!」なんて朗らかな事を言われたら殺意を覚えても仕方がない。
その殺意の前には、作中が中世に近いファンタジーで、いま実際の現実は21世紀なのだなんていう「歴史オタ」のいいざまはなんの意味を持たない。
まおゆうを認める派と認めない派の対立というのは、おそらく、すでにまおゆうとは関係ない次元にあるように思う。
この問題点に接続したことが、まおゆうの最新の価値であるように思う。
2013/01/16:誤字なおしたよーごめんよ