はてなキーワード: スピリチュアルとは
わかるよ。大人になると確かに幸福感が変わる。子供の頃目指していた大人になれていないし。
子供の幸福感の正体ってなにかな?自由に夢を描いたり、欲しいものが手に入ることなんじゃないかな?
だけど大人になると、根拠がない幸せには不安が芽生えてきてしまう。
これは、棚ボタの幸せに一喜一憂することのバカらしさを学んだからじゃないでしょうか?
“何のために”欲しい物を手に入れるのか、手に入れて何ができるのかを考えだした。それは決してネガティブではないと思います。
例えば、子供は「うんこ」とかのリアクションで笑える。ハラハラドキドキの、ワンパターンな映画でも素直に楽しめる。意味やテーマを咀嚼せず、反応しているだけだから。
でも大人になるにつれて(頭が良くなるにつれて)「うんこの何がおもしろいの?」「あの映画と同じテーマだよね」って気づきはじめる。裏側の意味を楽しむようになる。
ワンランク上がるって言い方は語弊を招くかもしれないけど、意味のないものに楽しさや幸せを見いだせなくなった。ただそれだけじゃないかな?
そして、それを受け入れてみるのはどうでしょう。
と言うのは、幸せになろうとするんじゃなくて
ってこと。
大人の幸せは「今の自分を肯定すること」だと思います。今の自分が未来に繋がってるから。今の自分にしっくりきてないのに、バラ色の未来を描くのは難しい。
あなたはそれがわかっているから、バラ色の未来が描けないでいる。頭がいいんだよ。根拠もなくハッピーな未来を夢見るのは、子供だからできること。
だけど不幸だとは思っていない。自己実現はともかく、ある程度の欲求は満ちている。
可もなく不可もなく幸せです。
とか、そこらへんの考え方の根本的な部分が知りたいのかもです。
「諦め」って言葉はネガティブに使われがちだけど、元来は「明らかにする」って意味だし、悟り。明らかなうえで受け入れる。
妥協は受け入れないで、擦り合わせること。
自分の場合は、暗→明のほうへ人生が180度変わる出来事があった。とは言っても、精神的な変化だから、きっかけらしいきっかけはないけど。
ただ、それ以前が底辺すぎたから平穏を手に入れて嬉しいと感じた。
「幸せって精神的なものなんだ」って気づくと同時に欲が消えた。煩悩が消えた感じ?冒頭の例のように、奥行きが必要になってしまった。
あ、欲がなくなったと言っても食欲と睡眠欲はあるよ。性欲はなくても困らない。
時々「鬱なのかな?」って心配にはなるけど、死のうとは思ってないから大丈夫なんだと思う。
で、気とかオーラとか占いとかスピリチュアルとか、なぜか周囲にそういう人たちが増えて、一般的にあやしいと思われている分野へ足を突っ込んだ。
最初は、あなたと同じで疑り深くて苦手でした。今でも信じてないです。
でも「なぜそう言えるのか?」を調べていくのは楽しい。いずれも元を辿ると西洋哲学や東洋思想にたどり着く。
すると、人が人であるがゆえの悩みは普遍的で、それを整理する方法も大昔から研究され尽くしていて、それなのに未だに人は悩み多き生き物なんだってわかった。
ハードは進化してるけどソフトはあまり進化していないって。だから生きてるんだなって思えました。考える葦なんです。
前者は「内なる子供」で、後者は「高次の自分」と訳されるけど、適当にアレンジして「子供性」と「大人性」で解釈するとわかりやすいかな?
そのバランスを意識しなきゃいけない時期に差し掛かっているのかもしれませんね。
二十歳になったら成人式やって法的に大人になるけど、本当に大人になる瞬間は、経験によって人それぞれにバラバラで、
あなたが今置かれている状態は通過儀礼ではないかと思います。自分は20~24歳までモラトリアムになって、24の時に脱皮した。
大人性というのは、いつも自分を律したり、自分に指図している自分。
一方の子供性は、ありのままでいようとする自分そのもの。子供は「快・不快」に敏感。
ハイヤーセルフは、自分をあるべき姿へと導いている。だけどインナーチャイルドが時々「私って幸せなの?」と問いかけてくる。
心をないがしろにして自分を律しすぎている時には「素直に泣いてもいいよ」って子供が出てきていて、
ウダウダが長く続けば「あんた、ヤバイんじゃないの?」って大人が出てくる。
ややスピった考えを言いますが、
と考えてみてはいかがでしょう?律している自分も必要だし、駄々っ子の自分も必要。
「よくわからないけど、幸せじゃない。おかしいな」って感じている。今、そういう状態だよね?
今は心の中にいる子供がグズグズしている。そう考えると、啓発より癒やしかなぁと思います。
自分だって考えたら自分を上手く癒せないけど、自分の子供だって考えたら少し優しくなれませんか?
子供だと思ったら「泣くな、元気出せ」って言えないでしょ?
「無邪気に幸せを感じていた子供の自分」を否定しちゃうと辛いです。
それはそれ、仕切り直しの気持ちで「子供の頃はこうだったけど、今の自分はこう」って考える。
今が充たされないと、未来は見えないです。
あちこちのサイトを見るとわかると思いますが、インナーチャイルドとかハイヤーセルフが出てくるサイトには
天使やら偉大なるマスターやら、神秘的に説明されていて、知性面から捉えると「あやしい」ですw
でも、
これも持論だけど、啓発って「気づき」を得ることだから、人に教えてもらうもんじゃないと思います。
啓発本は「こうしたらイケてる奴になれるぜ」ってやつだから、すでに前向きな意志が持てて、契機づけたい時にのみ有効。
「教えやがれ!この野郎」って思える時に読むのがおすすめで、やる気が落ちている時にはあまり意味がない。
啓発本には啓蒙的なものが多すぎるし、意識だけやたら高くなっても、肉体がついていかないと使えないです。
スピ用語を使わずに伝えるにはどうしたらいいかな?と思っているうちに、長文になっちゃいました。
上手くまとめられていないと思うので、わかりにくいところはまた質問ください。参考になれば幸いです。
ドン底まで堕ちれば、今とても幸せだって思える。ネガポジと同じく幸せもその程度だよ。
比較対象を持つと、どこまで行っても満たされない。
今、不幸なんですか?
誰か死にましたか?騙されましたか?事故にあいましたか?病気してますか?
不幸じゃなければ、幸せではないの?幸せにとらわれすぎたら、しんどいよ。
何かを信じるってのは大変だと思う。
それなら、自分が何かに打ち込んで満たすのみだと思う。手当たり次第に打ち込めるものを探す。
宝探しがいつかは充実に変わるかもしれないし。体感が納得に変わると思う。
「みんなと同じ」で安心できなかったら幸せではない。スピリチュアルはその逆。
例えば、私の場合は、道を歩いていて猫を見つけて少しの幸せを感じるんだけど
こればかりは人それぞれだもんね。だからやっぱり自分で見つけるしかないんじゃないかなー?
お前は幸せなのか?と聞かれたら、世間一般のリア充ではないし問題も抱えているよ。
だけど不幸だとは思っていない。自己実現はともかく、ある程度の欲求は満ちている。
可もなく不可もなく幸せです。
打ち込める何かを持つって大切かもねー。
「片付けの魔法」の本旨は「物ひとつひとつと向き合え、なんとなくで物を持つのをやめろ」ってことだから、物に「様」付けも私には違和感なかった。なぜブラだけ?とは思ったけどw スピリチュアルというよりむしろ、物を持つ意味を突き詰めて、読者一人ひとりに物の持ち方を考えさせるという点ではロジカルな本だと思ったけどなぁ・・・
片付けができなくて、本に頼ることを思いつく人に多いパターンが2つある。
・片付け方を知らない
・片付けそのものが苦手
そもそもニガテだのと言ってやらないのは、自身なのである。
このような本を買う人は「どうにかしたい」という思いは持っているはずである。
しかし、1冊の本で人が変わる人は稀であり、学習→反省→実行→手を抜く→投げ出す…というようなサイクルに陥る可能性が高い。
そしてまた「どうにかしたい」という思いが高まり、その類の本のリピーターとなる。
ただ、後者の方はスピリチュアル、風水、禅などのマーケットともシナジーを見込める。
とかそういうことなんじゃないかなーと、
兄弟へのプレゼントに、その類の本を選びながらつらつらと考えました。
とりあえず要らないものが多すぎるように見えたので断捨離本にしましたが、読んだ直後だけやる気があったようですね・・・
機能してるのかしてないのかわからない村人候補者ブクマ数上から10人のブックマークやtwitterを見てみた。
10000超えは6人だけ。
他、やる気あんのか。
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結婚したみたいでブログの更新は止まっているがブログではネットネタやマスコミの報道姿勢について語ってる。
ブコメも少なくtwitterも日常のことを書いていて穏やかな印象
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サイト:
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ホッテントリを全てブックマークしている感じだが、ブクマするのが早いので新着を全てブックマークしてると言ったほうが正しいか。
まさにWebにしゃぶりついている。
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id:kanoseとid:otsuneのみをお気に入りしてて、ブックマークもネットネタが多い。
ブコメは少なめだがたまにホッテントリでスターつけられてるのを見る。
サイトははなまるマーケットの情報とウェブサービス紹介メインという意味不明なブログ。
twitter見てても温厚そうだが引き寄せの法則などスピリチュアルなものについては攻撃的な口調になってる。
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2chまとめ多め。
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twitterはブックマークからのツイートのみでブコメはなし。
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ブックマークはホッテントリ多いけど、他のブックマークはオリジナリティあってなかなか面白い。
アーティスティックな村人として頑張れ。
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他にもブックマーク数上何人かみただけだが、機械のように無言でホッテントリをブックマークする人間ばかりでまともな人間が少なすぎて予想以上に書くこともなくはてなの少子高齢化深刻だと思た。
ちょっと追記
改行するかどうかは俺の人生の問題であり増田が読むぶんには改行する必要はないので読みやすいように好きにすれば良いと思うのだがBGMに関して言えば俺はあの女と音信不通になってから作家の滝本竜彦が言うところの「脳がワーとなる状態」になってしまいSSRIの魔法の力もだんだんと効かなくなってきたので考えた結果やはり薬はダメだスピリチュアルだという結論に達し鎌倉の建長寺に座禅をしに通ったのだがそこで坊主が禅の公案の解説をしたうちのひとつに「両手を打つと音がするがでは片手にするとどんな音がするか?」みたいなものがあってああこれがジョンケージがインスパイヤーされた話かと思ったがたしかに考えてみれば俺はぐるぐると自分の記憶に苦しめられているので今現在のまわりの音だけに集中するのはとてもよいことかもしれないし試してみる価値はあるかもしれないと思って部屋にいるときは飛行機が上空を横切っている音に耳をそばだて外にいるときはお姉さんがカツカツ歩くのを感じとり寝るときは自分の呼吸で鼻笛がスピスピなるのを聞いている。
膵内分泌腫瘍の発覚したジョブズは、スピリチュアルに依存した結果、手術を9ヵ月遅らせた。
その愚かな、本当に愚かな選択が、あと30年はあったであろう彼の寿命を8年に縮めてしまった。
ジョブズらしい、とこの行為を評する向きもある。そんなバカなことがあるか。
癌治療の選択という一点においては、彼はスイーツ女にも劣る判断力のなさ、思慮の浅さを露呈し、醜く死んでいった。
死屍累々の試行錯誤を、統計学の力を借りてなんとか学問らしくしているだけにも思える。
それでも高度な教育を受け論理的思考を身につけた多くの学者が、
最も有効と思われる方法を探そうと暗闇の中に日々努力した結果が今の医学なのだ。
いち人間やいち集団の唱える民間療法とは情報の質において一線を画す。
今人類が手にしているちっぽけな医学上の証拠は、名もない数百万、数千万人の命の上にできている。
それを軽んじて良い結果が出ると思うほうが、誤りなのだ。
認知心理学やってたことが大きいんだと思うけど、霊的体験とやらはきっと、恐怖が認知ミス引き起こしたとか
何でもないものを幽霊だと認知したとか、そういうのだろうと考えてる。だいたい目が見えるとはどういうことかというと(ry
とことん冷静でも認知ミスは起こるものだし、正確に把握できるとも限らないのが人間だから。だから信じる気になれない。
なんだけど、たとえばここ5年だけでも、身の回りのちゃんとした人たちが「そういう経験がある」ってぼそっと言ってて、真面目に考えてみたくなった。
普段からスピリチュアルな発言の多いやつは除いても、冗談では絶対にスピリチュアルトークなんかしない人たちがぼそっと、そういう話を告白する。
院で理系研究者やってるとか、認知科学やってる奴とか、そういう、人の認知システム分かってそうな奴までも、そういう経験があるとか言うんだ。
無論懐疑的に。たぶん疲れてたか、恐怖に支配されてたかと思うんだけど……でも研究室の先輩も同じこと言ってんだよ……こええよ。とか。
大抵の場合、「あそこにいる/いた」ってのが一致してるのがひっかかる。「いた」という幽霊の特徴も。
あと、そういう奴らが酔っ払って、守護霊とやらの話をし始めたことがあって、人の斜め後ろ上をちょっと見て、コメントするんだけど
そのコメント内容が、一致してる。全く交友関係のないグループから自分の守護霊とやらについて同じようなことを言われて、どうもひっかかってる。
もちろん、そういう存在を信じるかっていうと、やっぱりできない。
でも、何か自分は壮大なドッキリに巻き込まれてるんじゃね?って気持ち悪い感覚がある。
考えるのも無駄かなーって気もしてきたんだけど、なにせスピリチュアルトークなんかできるキャラじゃないので、リアルでは相談もできない。
それになんとなく、そういう話は避けたいって空気もある。誰だって怖い話は嫌だしな。
なので、ネットでみんなの意見を聞きたい。もしよければ、だけど。
みんな、幽霊についてどう考えてるんだろうか?
これナツの人とかがしょっちゅう言ってるけどマジで意味わかんないんだよね。
(ご本人に質問しようにも、すごく丁寧に話しかけててもすぐイラつき感出してくるから会話にならない)
それは男でも可能性あると思います。
男であれば、学歴や収入(ステレオタイプな男性的魅力)がなくとも、
AKB48の押しメンを選ぶように、あるいは指名するキャバ嬢を選ぶように、一般女性の容姿を値踏みすることが出来る。
腹のうちで思うのは大いに自由だが、発言することも許される。
時と場合により非難されることはあれど、欲求そのものを否定されることはない。
どんな男でも、若く美しい女を声高らかに欲する権利があるのだ。
そんな失礼なことを「出来る」というのはどこの社会なのか、
少なくともあなたの育った社会と世間なんでしょうが巨大主語で一般化はしないで欲しいと思います。
個別の話でいいなら「今の人キモ~~~い♪」とか「今の人超かっこいいんだけど!」とかやってる女性の集団よくいますよね。
そんなの一般化して「女性全部がそうだ」とか「女性の権利だ」とかは思いませんけど。
それが、女はどうか。まず、優秀な男を求める権利がある女は、とても限られている。
それは、何よりもまず、若さや美しさを備えた女だ。
そうして、優秀な男を求めることが許された美しい女ですら、その欲求をあらわにすることは困難だ。
内心「高学歴!高収入!」と思っていても、何かしらオブラートに包まなくてはならない。
「私があの人を愛しているのは、何よりもまず心根の優しい人だからよ」などと。
マジレスしかしない原始人(は、原始人を馬鹿にしすぎですが)の村にでも行ったらいいじゃないですか。
容姿は先天的である部分が大きいが、学歴や年収は努力である程度手に入る。
そういう、努力し成功する能力を持つ男に憧れるのは、自由経済社会では至極合理的であるにも関わらず、
そういう話を女がするのは下品とされる。
男がするのも下品です。
ていうかあなたは下品になる権利が欲しいのか、下品な男を糾弾したいのかどっち何ですか?
後者なら賛同するけど前者ならあきれる。
もし前者なら、育ちが悪いんでしょう。
男は今でも女を選ぶ立場で、女は今でも抑圧されている。
「不細工で貧乏な男でもAKBに投票が出来る」みたいな現象を指して言ってるなら、
不細工貧乏女性が投票できる男性も世の中には五万と用意されてると思います。
うわあ、
じゃあ今からさっさとやればいいじゃないですか。
要は勇気が無いんでしょ?
男の価値を、若さと要望で見る人、ATM能力で見る人、いろんなのが一定数いますよね。
勉強を頑張っても、正規雇用されて働いても、見目麗しくなければ、女として、すなわち人として価値がないと思わせる男が大嫌いだ。
それはあなたの性根が下品で、同じように下品なタイプの人間からの評価ばっかり気になって気になって仕方がない、というだけだと思います。
そんな私は美人です。
やべー、UFO、見ちゃったよ。
不思議体験は初めてなんでめちゃくちゃ興奮した。
仕事帰り、人気の無い道でふと頭上に何かが横切ったので見上げたら、
「青く発光した何か」が高速で右から左に飛んでった。
一瞬の出来事だったけど5~6秒はあったかな?
流れ星をたまに見るけどそんなんじゃなかった。
流れ星が米粒サイズだとしたらバスケットボール大の大きさで、映画みたいに綺麗に青く発光していた。
近いような遠いような、距離感がはっきりしない感じだった。
驚くのが、その帰り道の前に同僚とUFOの話をしていたこと。
同僚が同じ市内で昔見たという話を聞いた直後なんで、偶然にしては出来すぎだと思う。
あとUFOといっても、「青く光った何か」で、どちらかというとスピリチュアルな感じがした。
霊とか信じてないけど誰かの魂だったのだろうか? ドラゴンボールみたいにビューンと飛んでった。
忘れないようにメモ。
これまで四つの観点からカルトについて述べさせていただきました。しかし、「入会防止」の目的なので、それに関連する内容に言及されており―学問的に説明が不十分でもあります―。オウムのすべてが網羅されているわけではありません。ましてや、私はカルトのすべてを論じることのできる立場ではありません。その意味では、本文は「オウムへの入信を防止するための手紙」でしかないかもしれません。
この理由で、カルトへの入会を防止するためにも、実学としてカルトのすべてを知るためにも、専門家による著書『マインドコントロールとは何か』(西田公昭 著 紀伊國屋書店) をお勧めします。
また、本文にはオウムの教義の概念が氾濫しているので、皆様にどのように受け取られるか気掛かりでもあります。これまでも、私は多くの方々から質問を受けてきました。説明責任があると思い、できる限り回答させていただきましたが、私どもの愚行をお伝えすることには失敗することが多かったです。殊に宗教的経験に係わる話になると、その方の人生経験に沿うように別の解釈をされてしまうことが多々ありました。人は自身の経験に基づいて物事を理解するものですから、無理もありません。
ですから、この度は説明方法を変え、具体的な描写とそれを説明する文献の引用を加えました。それでも、理解が困難な点があると思いますが、ご容赦願います。
現在、私はオウムの教義や麻原の神格を全否定しています。その正当性の根拠だった宗教的経験について、脳内神経伝達物質が活性過剰な状態で起こる幻覚的現象として理解しており、教義のいう意味はないと考えているからです。
それだけに、いかなる理由があれ人間として許されない罪を犯したことは、慚愧の念に堪えません。亡くなった皆さまのかけがえのない生命は取り戻すことができないこと、ご遺族の皆さま、重傷を負われた皆さまやそのご家庭の皆さまの苦しみが今後も続くであろうことを考えると、後悔の念ばかりが浮かびます。
また、オウムの教義や麻原から心が離れた今、私は無信仰の状態にあります。しかし、宗教の価値は認めています。信仰によって人格を高められた方々が多数いらっしゃるからです。人間には超越的な存在を感じる資質が備わっているのでしょう。それは、人類が誕生して以来、いかなることがあっても―権力から弾圧されても、科学が発達しても―、宗教が存続していることが証明しています。その資質によって人格を高めることは、決して否定できません。そして、超越的存在自体も、私などが否定できることではありません。
「超越的存在も否定できない」と申し上げると、これまで私が述べてきたことと矛盾していると思われるかもしれません。実は、「宗教的経験は脳内伝達物質が活性過剰な状態で教義のいう意味はない」ということも、私の個人的経験によってそう感じているだけであって、客観的真実ではないと自覚しています。私の経験に基づいて、多くの方々にそれを納得していただける程度の説明をすることは可能と思いますが、科学的に厳密な証明は不可能です。元々、この種の概念は、科学的な証明が可能なように定義づけすることができないからです。そのため、カルトの超越的世界観についても、それを科学によって排斥することは、極めて困難です。
また、前に「禅」の瞑想の例を挙げましたが、それは、オウムの技法と本質な違いはありません―もちろん、教義は大違いですが―。つまり、オウムは多くの文化遺産を採用―濫用というほうが正確かもしれません―してきたのです。この場合、伝統的に承認されており、有益性もある瞑想技法と“オウム的なもの”として排斥したら、社会問題になりかねないでしょう。そして、この事情はほかのカルトについても同様でしょう。このように、社会的要因によっても、カルトを構成する要素を排斥しきることは難しいのです。
これらのエアポケットにおいて、カルトはいつまでも生息し続けるかもしれません。
たとえば最近は、「スピリチュアル」が話題になっています。これはいまだ「カルト」とはいえないかもしれませんが、その超越的世界観が有益なものか有害なものか注意深く見守る必要があると思います。もし、恐怖を喚起する概念が含まれているならば、影響を受けやすい人は日常生活に支障をきたすでしょう。また、「スピリチュアル」が集団化すれば、個人の価値観が相当受容して、社会通念から逸脱した行動をとる人も現れるかもしれません。
以上の状況においては、結局、各個人が「カルト」を理解し、その基準を定めるしかないでしょう。本文が少しでもそのお役に立てれば、幸いに思います。
平成二〇年六月二五日
平成二〇年一〇月二七日改訂
◆参考記事リンク
『駅長日記:サリン事件実行犯広瀬健一氏の手記をUPしました』
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
『オウム真理教元信徒広瀬健一の手記を一部公表。順次追加』(2011年~公開)
◆皆さんに読んで欲しい記事リンク
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。
生きがいや仲間を作りたがる人がいるね
他人のモラルを糾弾するのは金をかけずに、社会にこういう活動をしていましたという実績を作れるから
人権活動家にとってはコストパフォーマンスがいいのかもしれない
他人の迷惑顧みずモラルを他人に押し付けて仲間内で承認ごっこしてウケている分には幸せそう
そうそう、最近「某児童女性支援団体」から「あなたが購入した○○○は『児童ポルノ法』に違反するので告発します。
告発を取り下げて欲しければ電話連絡して下さい。」という手紙が全国のあちこちに送りつけられている問題が発生しているそうだから
他の増田達に注意喚起しとくね
アタシぃー、オンナだけど自虐を込めてそう感じるわ
占いとかにのめり込んで周囲に占い奨めてどん引きさせるのってたいてい女じゃん
「相性占い」「パワーストーン」「「厄年」とか女性雑誌に書いてあったら気にするし
TVで「トマトがいい」と紹介されればスーパーでトマト買ってきて押し付けるのよね
この根拠の無き受け売りからくる「善意の押し売り」ってやつ マジめーわく
いやそれ宣伝だからと言っても「TVが言ってるから」「雑誌に載ってたから」
これだよ
芸能人のこと可哀想と言えないほど、マスコミに洗脳されてるじゃん
まだ、アイドルの話された方がマシ
あれははまっている本人が金つぎ込むだけで周囲には布教しないから
この前「ホストに金払えないおばさんは安価なホストとしてアイドルに走るんだろうね」
という話をしてて「一口馬主」みたいだなと思った。
アイドルにはまる人ってたいてい微妙な容姿のおばさんが多いけど
アイドルの話をしてる時は目がハートマークになって生き生きしてるからな
同じ金を搾り取られるなら「不安」から金搾り取られるのと「ファン」の愛で金絞り取られるの
アイドルなら「誰かを好きになった」という甘い思い出が残る
ブサなおばさんでも誰かを愛したいし好きな人には大切な存在だと思われたい
愛に満たされない中年女は占いよりもアイドルに走った方が幸せになれると思う
女は愛に満たされていないと往々にして変な方向に走りがちだけど、どーせ走るなら
生きてて良かったと思える方に走っていけ
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
最近はてブで高岡英夫関係のエントリが上位に来ているのをよく目にする。
コメントを読んでいると、割とナイーヴに受け止めている人が多いようだ。
別に高岡英夫の理論が間違っているとか、体操の効果がない、とか言いたいわけではない。正しいかもしれないし、効くかもしれない。
ただ、ニセ科学批判の好きな人が多い一方で、高岡英夫(や、似たようなオッサンたち、さらに言えばスピリチュアルくさいライフハックやら)が割とすんなり受け入れられてしまうのがちょっと不気味なのだ。
最近はどうなのか知らないが、武道・格闘技にやる側として関わっていた人なら、高岡英夫の名は小耳に挟んだことのある人は少なくないと思う。一時福昌堂系の格闘技雑誌などによく登場し、ディレクトシステムなる理論だか図面で、色々な達人の動きを分析してみせていた人だ。ヒクソンのDSとかいうのもあった。人体に色んな線を入れた図面なのだが、こうした図は高岡の特殊能力(?)で読み取られるものらしい。さらに、宮本武蔵のDSと称するものを一億だか一千万だか、ものすごい値段で売っていた記憶もある(値段はよく覚えていないが、とにかく破格だった)。
高岡英夫の話は、一見もっともらしい。わたし自身も、一時期興味を持ち、「統一棒」なるすりこぎみたいな棒を買って練習していたことがあるくらいだ。
武道・スポーツの話をするのに、東大出のオッサンがソシュールだの持ちだして理屈をつけて語る。しかも結構説得力がある。割と賢い目のアスリートたちが魅了されたのにも訳はあるのかもしれない。
しかし、もっともらしい理屈を語るだけなら、この世界では珍しい話ではない。理屈の筋が通っていることと、実際にスポーツ理論として機能することの間には、かなりの溝がある。
格闘技ファンの中では伝説的な怪しいオッサン、堀辺正史(追記:名前間違えてました、スイマセン)だって、初期の頃の本はとても面白かった。多分中国拳法の理論を色々継ぎ接ぎして組み立てたのだろう。特に伝統武術系をかじったオタクの心には、グッと掴む不思議な魅力があった。その後の堀辺氏の凋落ぶりは、格闘技ファンなら誰もが知るところである。
吉丸慶雪なども、理論だけならかなり魅力的だ。理論書好きの武道オタクにはたまらないものがある。わたしも持っている。
この辺のおもしろさを全部認めた上でなお、この人達が実際にこの理論に基づいて強いのか、あるいは弟子たちがこの理論で強くなったのか、というのは、全然別問題だ。
武道やスポーツの理論書というのは「ツボ」があって、そこをうまく押す文章を書けば、ある種のオタク系アスリートをひっかけることは容易いのだ。
中国武術系などは、理論が非常に発達していて、とても面白いのだが、この理論通りにできるかというと、必ずしもそうではない。理論を実践につなげる訓練がないと役に立たない(ただ分析の役には立つ)。この辺は「戦う編集長」山田英司氏などがよく語っているところだ(山田氏には直接お目にかかったことがあるが、別に達人ではないものの、本当に強い。トリックと口ばっかりの中国武術家では全然ない。普通に喧嘩の強いオッサンだ)。
大分話がズレてしまったが、高岡英夫も似たような部類のインチキくさいオッサンだということは、よくよく認識しておいた方が良い。
繰り返すが、彼の理論や体操が無効だと言いたいのではない。実際意味があるかもしれない。少なくとも読んでいる分には面白い。面白いからこそ危ない。おまけに彼の商売は相当えげつない。人間的にはまったく信用ならない人物だと思う。
ついでに言えば、堀辺氏も、本人は(若い頃は)本当に強かったのだと思う。動きのキレが確かに違う。しかし別に彼は、彼の理論で強くなった訳ではないだろう。また、その後のコロコロ変わる態度や凋落ぶり、道場生に対する不埒な行いの噂を聞けば、人間的には信用ならない人物に見える。少なくともわたしなら近寄らない。ビデオは見たいが。
ゆる体操がビジネスに効く!とかノセられているライフハッカーたちは、その辺をどう受け止めているのだろうか。
ニセ科学は許せなくても、科学の名を冠したり、科学くさい言葉遣いをしていなければ、一転無防備なのだろうか。
科学者が一般書を書くと、せっかく面白いことを書いてきたのに、最後の章で哲学やら政治思想のようなものを書き始めて、これがびっくりするくらいナイーヴで幼稚なことがある。それと同じようなものなのだろうか。
全部わかって乗っているなら止めないし、実際個人的には、高岡のようなパチくさいオッサンが多少世の中にいるのはむしろ面白いと思ってはいるのだけれど、運動音痴科学好きのライフハッカーが、ナイーヴにコロコロ転がされているのだったら、他人事ながらちょっと心配だ。
せめてニセ科学に対するのと同じ程度の警戒心は持った方が良いんじゃないか。
あるいは、それくらいの寛容さとテキトーさを、ニセ科学にも適応してやってくれないか。インチキくさいものが多少あった方が世の中面白いし、高岡にコロっとやられている人をこうして眺めるように、ニセ科学にまき上げられている人たちも「アホやなぁ」と「寛大」に眺めてやったらどうだろうか。
いやまぁ最後はイヤな言い方してごめんなさいだけれど。