はてなキーワード: 大根役者とは
自動車で移動するか電車で移動するか考えた時、高速代やガソリン代も考えると電車の方が安いな、という話をしたら「4人で割ったら自動車の方が安いです」と言われました。
ディズニー+のプレミアムアクセスの料金2980円(税込3278円)高いなーと思いつつも払いましたが、「カップルで見ることを想定している値付けでしょう」と言われました。アッハイ。
https://www.cinemacafe.net/article/2021/06/21/73463.html
https://virtualgorillaplus.com/movie/black-widow-review/
あたりを読んでいただければと思うのですが
5、6年前まではハリウッドのセックスシンボルと言われていたスカーレット・ヨハンソンがセクシーだから売れたと言われたくないのはよくわかるし、事実ただの大根役者なのにセクシーだからという理由だけで人気があるのだとも思わない。でもブラックウィドウのスカーレット・ヨハンソンの撮られ方。
やけに尻Assが強調されている。
頭やうなじや肩は写らず、下半身の背中側・ひかがみ側・ふくらはぎ側だけ写ってるカット(去り行くシーンなど)が多いのよ。
え?女性監督だったよね?? 女性監督が女性の尻を美しいと思って強調して撮影してても全然おかしくないけど。
出身「組織」によって自分の子宮が摘出されていることはアベンジャーズでハルク相手にブラックウィドウは告白していました。
本作では、同組織に育てられた妹分のキャラクター(ミッドサマー)と二人で、内性器(子宮の他、卵巣、卵管)が摘出されたことを父親に話すシーンもあります。
「組織」にはブラックウィドウの分身ともいうべき、「幼いころに組織に拉致されて組織に洗脳されて組織に訓練されて殺人マシーンに仕立てられた女性」が沢山いる。彼女らを解放する≒女性解放の映画というわけです。
なんで尻の話を書いたかというと、
女性ホルモンを分泌する臓器がないのにあんなに(スカーレットヨハンソンレベルで)女性のセクシーさを顕現する人体が育つのか
て疑問が・・・
・調達屋
・敵の親玉
私が「ピエール瀧は、違法薬物密売組織にとって優良顧客だったから、映画等の大きな役(=違法薬物を買えるぐらい高額のギャラを貰える仕事)を優先的に回してもらえていたのではないか?」という仮説を提唱したところ、何人かの人間からは「ピエール瀧は演技が上手い」という反論が有ったが、それは本当のことだろうか?
仮に、それが本当だと仮定しよう。
その場合、電気グルーヴの活動の片手間に役者の仕事をしていたピエール瀧に、演技の専門的な訓練を積んだ人間たちが、その専門技能の分野に於いて軒並み「敗北」していたということになる。それは専門家として「恥」ではないのか?日本の役者たちは、ピエール瀧に負けるような大根役者ばかりなのか?
そのような「能力に疑問符が付く専門家」に果たして存在価値が有るのだろうか?
また、それだけ大根役者揃いということは、日本の役者業界は、育成と訓練のノウハウが乏しいということの証ではないだろうか?
さらに、演技の仕事と並行して長年に渡って違法薬物を使用していたということは、結局のところ、ピエール瀧が演技の仕事で得た高い評価は「ドーピングしたアスリートが獲得した金メダル」と同じく紛い物に過ぎず、そんなものには何の価値も無い。
ドーピングしたアスリートやSTAP細胞をデッチ上げた研究者が追放されるべきなのと同様、違法薬物を使用していた芸能人も、業界から追放されるべきと私は考える。ピエール瀧が再出発するならば、芸能会以外で再出発してもらいたい。泡銭を手にしたならば、再犯の可能性が高まるのだから。
自作ならちょっと水切りしないと果汁ボタボタで味が薄まるからあっというまに重さが半減する(かさはそれほど減らない)
それを売ってる揚げ物弁当にのせてみぞれカラーゲだのみぞれカツ丼だのにすればあっという間になくなるはずだ
錆びたハサミを研ぐときも大根の切れ端に粉のクレンザーつけてこすればピカピカ
スーパーなんか刺し身のツマだけでも売ってるとこあるしなんならツマ削りマシンも市販されててローカロリー味噌汁の具にもなるというので人気なのになにをいっているんだおまえは
あと切り口にペタっとラップはりつけて冷蔵庫にいれればいつまでもくさらないしなんなら塩ふっておけばたくあんに進化しようとする
もうすぐ29歳になる童貞です。吐き出させてください。
お互いを深く知るためのコミュニケーションなのに、会話そのものが目標になってしまっていて、気を遣っているつもりでも、結局は自分が傷つかないように、当たり障りのない、面白みもない会話しかできない。年頃の男なら知っていて当然の知識も、できて当然の振る舞いもできない。料理の美味しいお店も休日の人気スポットも知らない。好きなものはあっても、他人と比べて低俗だと思われるのが怖くて、その良さを語るほどの知識も語彙力もない。
「自分は女性との付き合いが下手だから、こんな自分では相手を楽しませられない」と勝手に諦めて、結局失礼な態度を取っていることに気がつけない。
「自分に興味があるなら向こうから色々聞いてくるはずだ」と自意識過剰になりながら、自分からは決してそのようなアクションは起こせない。
悪い印象を与えたくなくて、相手を喜ばせる言動よりも自分が安堵するための言動しかできない。一歩踏み込んだ質問をすべきなのに、「相手が不快な気持ちにならないかな」などと無駄な心配をしているようで、そんな質問をする自分が気持ち悪がられないかと考えているにすぎない。
こんな拗らせ方をしていても、それを矯正しようとすらできない。
そのくせプライドだけはやたらと高くて、相手の些細なミスや性格の不一致に憤りを覚えたり、冗長なLINEのやりとりにウンザリしたとしても、それを指摘する勇気はない。
自分がまともな恋愛もできない欠陥人物だと評価されるのが怖くて、古くからの友人にも職場の同僚にも、自分が童貞であることを打ち明けられない。
セックスやエロには憧れを抱くくせに、嫌悪感と虚無感とプライドが邪魔をして風俗店に行くこともできない。
身だしなみに気を遣っているようで、トレンドの服を買うほどの自信も意欲もない。
そしてなによりも、「自分はそこまで悪くはないよなあ」などと根拠のない自信に自惚れ、自分の異常な欠陥を直視できていない。
さぞ日常生活もコミュニケーションが取れないのかと思うだろうが、消防士として勤めている都合上、職場内での会話も、一般市民の方々と会話をする機会も多い。
特に救急隊員として出動した際は傷病者の怪我や病気の状態を訪ねたり、病院に着くまでの間に世間話をしたりもする。
傷病者の不安を和らげようと、柔らかい言葉と表現を使い、時には冗談も織り交ぜる。
職場内では、人それぞれの性格や雰囲気を見て、冗談と真面目を使い分けて話すことができているつもりではある。
これらはあくまでも仕事をこなすために必要な所作で、深く踏み込むつもりがないからできる、一種の演技・役割のようなものだと思っている。
本来の自分はこんなに明るくないし、冗談も言わないし、理解力のある人間ではないと自覚している。
上辺だけでもいいからそのコミュニケーション能力を使えばいいだろう、と思うだろうが、それができないからこんな酷いことになってしまったのである。
更に言えば、消防士であることを鼻にかけて、自慢気に誇っているのも非常に良くない。
僕は自分がコミュニケーション能力のある人間のように振る舞うくせに、コミュニケーションが取れないと嘆く、ペラッペラで芯のない大根役者なのだ。
コミュニケーションを取るうえで多少の齟齬はあって当然だし、相手に不快感を与えないような言葉を選んだり、悪いところよりも良いところを探すのが当たり前であるのに、僕はその当たり前が、女性相手にはできない。
凝り固まった固定観念、一方では高くもう一方では低い極端な自己評価、周囲の人間を心の底から信頼できない疑心暗鬼。
恥を捨てて素直に話すだけでいいのに、それができない。
関わった人を傷つけ、不快な思いをさせるだけ。
いつかは一歩踏み出せると信じ、誰かが手を引いてくれるのを足踏みしながら待っているだけのクズ。
それでも、なんとか変わりたいとは思っている。
思っているだけ。
無理だろうけど。
が、相手役は東出昌大でよかったのだろうか、演技が大根だと感じた。これはいったいどうなんだろうか、とずっと頭の上に??を浮かべながら見ていた。
杏はさすがの演技とキラキラした存在感、原田泰造の全開の泰造っぷり、儲け役をマンキンで見せてくれた和田正人、役どころを掴んだ財前直見、宮崎美子への開眼(あんな性の悪い演技するなんてもう!好き!)、キムラ緑子の手練れに翻弄される、吉行和子のぬか床ナレーション。
そして何よりも、近藤正臣の存在感あるダメオヤジぶり、ほれぼれするような古い大阪弁と貫禄の演技。
毎週のテーマのごはんの美味しそうさ、食べるシーンのうつくしさ、高畑充希の瑞々しさと歌唱力への驚き、関西制作回ならではの茂山逸平を堪能など、話始めるときりがない良さだったのだが、西門悠太郎役は東出でよかったのか、と思いながら見ていた。
役どころには合っていたと思う。「家」と「妻」と「己」との間に宙づりになり、カチカチに硬く、あまり人生を上手くやれない男。やりたいことも能力もあるのに上手く回せずひたすら不遇を生きる男、狂言回しでもある主人公の妻に引っ張られて自分の人生や家ともやがて融和していく、気の毒で不器用で愛おしい男。
東出昌大は、大根役者なのか。初めて演技を見たのが「ゆうたろうさん」だったので、役どころと合っていたのだろうと思う、あー大根だ、と一刀両断にはしなかった。不器用無骨演技をしてるのかなと思ってたのだが、他の演技や映画を見ても落語ディーパーなどでの素のしゃべりを見てもあんな感じなので、演技じゃなくて素でやってたかアレ、まぁ役者って役どころでもあるからそれはそれで、サイコパス役とかストーカー役とかドはまりしてたし、そういう役者になればいいよ、と納得させていたのだ。そしたらリアルもサイコパス寄りだったんかなーという気持ちになってきた、不倫騒動の件で。
そもそも、杏が、双子が生まれた次の年にまた子供産んだ時にこつんと小さく引っかかっていた。双子ちゃん産んですぐ年子って杏ちゃんの体とか子育てとか…金持ちだから金で解決できることも多かろうが、金では解決できない母体の健康とか行き届かなさとか大丈夫…と心配し、でもまぁ女優さんは育児休暇期間をまとめた方が仕事復帰しやすいだろうし、夫婦で決めたことなわけでと思っていた。
んだけど、東出昌大は、双子が産まれてやっと離乳食で何とかなるかなぁという乳児育児真っ最中に次の子を仕込んでて、更にその最中にも平行して不倫を続けてたってことになる。相手の女優も不倫匂わせインスタ疑惑があるメンヘラタイプだ…不倫相手を見る目も無い。相当クレイジーでサイコパスというか…セックス依存か何かなのかなとすら邪推が捗る。へっぽこ系サイコパス。
アマチュアだが劇団に入って演劇をやっている。やってみて面白かった事を挙げていく。
・顔はメイクでどうにかなる!
俺は男だが、人の容姿はメイクでこんなにも別人に変身できるのかとビビった。
イケメンにもブサイクにもなれるし老いたり若返ったりもなれる。
いや、乱暴な感想だとは思う。メイクと言っても舞台メイクと日常のメイクは全然別物だし、メイク映えするかしないかは個人差があるのも解る。
でも普段化粧なんかしない男からすると、メイク面白ぇ!っていう衝撃を味わえた。
地顔の造形に拘って悩むのが下らなく思えた。
思うんだけど、何で男は化粧しない文化なんだろう?男がファンデ塗る程度でも気持ち悪がられたりするよな?
眉毛描くだけでもちょっとイケメンになるやん。男性メイクが流行れば顔面コンプから救われる人もいるんじゃないだろか。
素人劇団なので役者は稽古に数ヶ月かけるんだけど、数ヶ月の間ずーっと同じキャラクターに向き合い続ける事になる。
最初は、ソイツがどんな理由でそんな台詞を吐くのか、どうしても心情が理解できず納得できない台詞が一つや二つ、必ずある。
一言を言うのがすげー大変だったりする。
たった一言に納得できないだけで、そこの芝居がマジで上手くいかなくなるのだ。
それやってると、理解できなかった台詞が理解できるようになる。というか自分の中で辻褄が合う解釈が出来上がって、その台詞に必然性が生まれるっつーか。
そうすると初めて芝居に血が通った気になり、意味不明だった他人に歩み寄り同一化できたような気になる。
そこで、この脚本書いた人はここまで深く考えていたのか、スゲーな!!と物書きへの畏怖を覚える。
・異世界に没頭できる。
リアルな大道具と小道具と衣装とメイクと照明と音響の力で、そこが現実ではなく芝居の中の世界になり、自分は別人に変身し、作った感情がリアルに胸に湧く。
これが凄く気持ちいい。
テレビも映画もゲームも無かった昔の人達でもこういう体験はできたんだなぁ…
他のキャストの演技が上達すると、それに呼応して自分の演技が上達する事が往々にしてある。
相手の台詞に力が宿って自分に届き、それまで出せなかった感情を引き出して貰う事がある。
逆にこちらの台詞にも力が宿って相手の芝居が変わる瞬間がある。
これがなんつーか、日常には無いコミュニケーションであり濃い感情のやりとりって感じなんだ。凄く面白い。
・不平等なんだけどそこがいい
例外もあるけど、男の役は男が、女の役は女が、老人の役は老人が務める、みたいに、自分の性別や年齢や容姿、あらゆる面で配役が制限されまくる。
それに演技の上手い人よりもハマり役の人が主役に選ばれる事もある。
でも、主役が美味しくて脇役が不遇って訳じゃ無い。物語に登場する人物は老いも若きも男も女も悪人も善人も色んな役所にそれぞれ作り込む余地があり旨味があって、各人が一生懸命になる。
むしろ嫌われ役とか小心者の役の方が面白かったりする。またどんな大根役者にも必ず「ソイツにしかできない芝居」がある。
顔やスタイルや頭や性格がいい人が正義とかいう一元的な価値観とは違った、もっと多面的に人間の魅力に目を向けないと芝居が完成しない。
前より人間に優しくなれた気がする。
厄落としのつもりで書き捨てる。
サブカルオタクをそこそこの年数やっている人であれば、好きな作品がアニメ化、コミカライズ、ノベライズ、舞台化、実写化した経験がある人は少なくないだろう。いわゆるメディアミックスというやつだが、コンテンツ提供側の思惑はさておき、既存ファンの立場からするとよいことなのか悪いことなのか、実際に体験するまでわからない。
せっかくアニメ化したのに原作で好きだったシーンが悉くカットされていたりとか、実写化したのにおでんの具にした方がまだましな大根役者が推しを演じてたりとか、まあそういう感じのがっかりメディアミックスは枚挙にいとまがない。反対に、メディアミックスが人気を博してファンが急激に増えた結果、新参と古参(原作信者)の間で溝ができることもある。
で、これを書いている私は、割とメディアミックス前の原作をひたすら愛でる、いわゆる古参の原作信者になってしまうことが多かった。学生の頃はアニメに期待をかけすぎたせいで「あんなに楽しい原作がどうしてこんなアニメになった!」「アニメだけ見た人に『原作もつまんなそうだな』と思われるのは嫌だ!」と何度も泣いた。
だいたいメディアミックスに潤沢な予算をつけてもらえるような巨大ジャンルにハマることがあまりないので、仕方がない。予算がない→アニメ等の出来がいまいち→新規ファンがつかない→新参ファンが現れないので、古参新参バトルで思い悩むことがない…というのはまあよかった。
なお某覇穹は許す許さない以前に、思い出すと感情が虚無になるからなにも言えない。言えないんだ。
本題。そんな自分が珍しく新参側にまわったジャンルでのことだ。
もともと歴史の長い原作があり、数年前にコミカライズされた。そのコミカライズされた漫画にハマり、漫画の最新巻の内容よりもさらに先を知りたくて、綱を手繰り寄せるような調子で原作にもハマった。ストーリーがおもしろいし、キャラも魅力的だった。
私と同じように、漫画からハマって原作も好きになったという新参ファンが大勢いた。しかも昔から原作が好きだった古参ファンも漫画を好意的に受け入れてくれている人が多かった。原作がおもしろいのが大前提として、漫画版の評価が客観的に見てとても高いのだ。ファン歴を問わず語り合える友達がたくさんできたのは、幸運だった。
そのうち、二次創作も始めた。ありがたいことに、何冊か出した同人誌に好意的な感想をたくさんいただいたりもした。オタクライフは充実を極めていた。
そんな中、ツイッターで知り合ったのがAだ。推しが共通していた。
原作をていねいに読み込んで熱心に語っている人だった。ジャンルのオフ会で実際に対面してみると、清楚で物静かなお嬢さんといった雰囲気の女性だが、話す内容はズバッとしていてキレがいい。オタクらしくややこじらせている。ツイートの文面から受ける印象そのままだったと思う。
そのオフ会を機に、首都圏近郊の同士数人が集まってごはんに行くことが増えたので、私もAも飲み食いしながら推しを中心に原作のこと全般について語り合った。これまた充実していた。
そんな中で、私も他の人も、Aが長いこと我慢していたことに気づかなかったのだ。
Aの正体は、だいぶこじらせた原作信者だった。こじらせすぎて漫画版のアンチになっていた。
ツイッターではそれらしいそぶりは見せなかったが、オフで会っているときに「私あまり漫画版好きじゃないのよね」「(私)さんは原作好きなのに漫画も好きなの?」と言っていたこともあったような気がする。そのときは正常性バイアスみたいなものが働いて、それほどの人だとは認識できなかった。
そのうちAはツイ垢を非公開にしたりなんやかんややった。次に私が見たときには、FF欄から私やジャンルクラスタの名は消え、プロフィールに堂々と「漫画版が死ぬほど嫌い」の文字が載っていた。
以前Aとつながっていた人たちもこれに気づき、対象をぼかしつつ「あの人どうしちゃったの…?」「仲良く過ごせていたと思っていたのに悲しい」とつぶやいていたことをよく覚えている。
先にも書いたように、漫画版から参入してきた新参ファンが多く、また漫画版を好意的に受け入れている古参ファンも多いジャンルだ。漫画の最新話が出るたび、フォロイー全員がそろって「最新話のここが最高だった!」「今後の展開を踏まえてこう変えてくるなんてさすが!」等絶賛するタイムラインは、Aにとってさぞ居心地の悪いものだっただろう。
いったん区切りをつけたつもりのAは、プロフィールのみならずツイートでもこれまでの鬱憤を晴らすかのように、大っぴらに漫画版を叩き始めたのだ。
もうだいぶ前に見たきりなのであいまいだが、Aのつぶやきはこんな内容だったと思う。
このあたりで語られている改変はもちろん事実で、原作・漫画の両方を兼任するファンからは「漫画という表現媒体・ジャンル・時代に合わせた改変」と受け止められている箇所だ。
ここが改変されているから嫌い、というボーダーラインは個々人で差がある。ドン引きしつつ、そこが嫌いならまあしょうがないだろうなあ、と思う自分もいた。
で、さらに遡ってみると
などのツイートも出てきた。
総合すると、Aは
(漫画版作者が直接制作しているわけではないので、漫画版派生のアニメは許容する、ということらしい。私にはちょっと理解しがたかったが)
ということが読み取れた。
自分を含め、それまでジャンル内でつきあってきた人たちは、原作・漫画版のどちらも好きな人ばかりだったので、交流を切られる対象となったのだと思う。仲良くしていた時期のツイートや風貌を知っていると、Aが豹変したように見えた。
結局Aはツイッターから姿を消したが、Pixivで二次創作の新作を挙げるたびに、その作品キャプションで漫画版を口汚く罵り続けていた。初めは彼女のことを気にかけていた人たちはいなくなったのは自然の流れだ。代わりに、Pixivの新作が上がるたびに「またあの人暴れてるよ…」というニュアンスのツイートがこっそり流れることもあった。私は無駄と知りながらも彼女の作品(中身は見ない)を「違反報告」し続けた。
過去、別ジャンルの古参原作ファンだった自分を思い出すと、好きな作品のメディアミックスが気に入らなかった場合はその媒体をなかったことにして原作だけ楽しむようにしていたと思う。なにかの拍子に思い出してしまったときは、気心の知れたジャンル友達と「ほんとあの実写版の主人公のセリフ改変わけわかんなかったよなー」などと笑い話のネタにするのだ。
Aがそうできなかった理由は、まあわかる。好きなものを存分に語り合えるファンはたくさんいたのに、自分と好悪を同じくするジャンル友達に巡り合えなかったからだ。彼女は孤独だった。漫画版のあれもこれも嫌いだ!と愚痴を言える場所は5ちゃんねるしかなかったのだ。
その後ずいぶん経ってから、結局私はそのジャンルを離れることにした。たくさんの友達ができたし、まだまだ好きでいたかったが、「そのジャンルを好きでい続けるメリット」を「そのジャンルを好きでい続けるデメリット」が上回ってしまったからだ。
デメリットの理由はいくつかあったけれど、Aの件も含まれた。Aの強烈な「嫌い」という名の毒ガスを浴びた結果、自分の中の「好き」という気持ちが弱っていたのだと思う。
偶然とは恐ろしいもので、今週、久しぶりにAのツイ垢を見つけてしまった。つい最近まで鍵垢にしていたのを公開にしたらしい。
彼女は元気だった。元気に(鍵垢で)漫画版叩きをやっていて、「そろそろ漫画版のファンも少なくなってきたから外に出てもいいかな」(意訳)とつぶやいていた。
またあの疲労感に見舞われた。できる範囲で健全に楽しもうとしていた自分のふんわりした「好き」という気持ちより、Aの確固とした「嫌い」という気持ちが勝ったのだと思った。なんというか、次元がちがった。
手持ちのすべてのアカウントでAをブロックした後に、これを書いている。
一般的に幸福と快楽を伴う「好き」という気持ちは、あまりにもデリケートで、自分の手で守らないと弱ってしまう。他人であるAをどうこう変えることはできない以上、私は早めにAの存在をシャットアウトして、私の「好き」を守ってあげないといけなかったんじゃないかと思う。まあ相手をブロックする以外に具体的な守り方はわからないのだが。
おそらく死ぬまであの調子のAを内包して、ジャンルは今後どうなるんだろう。もう自分には関係ないけど、ちょっとだけ気になった。
タイトルが言いたいことの全てなのであとは蛇足なのだけれども。
シン・ゴジラ、観た。もうなんていうか最高なのだけれど、他にいろんな人が感想を書いてくれているのでここでは書かない。
ただ、一つだけ思うことは。この映画の動員が多くの人を動員して、興行収入が歴代ゴジラ最高とか、そうはいかなくても今年のトップ収入になるぐらいになってほしいなあ、と。
この映画、徹頭徹尾、総監督・脚本である庵野秀明の考えが注ぎ込まれている。その考えを実現するために、樋口真嗣が、東宝が、その他大勢のスタッフと役者が頑張っている、という構図に思える。庵野秀明の「やりたい!」を、周りの皆が「やろう!」と考えて実現している。
これ、かなり凄いことなんじゃないか。クリエイターの考えたことを思う存分サポートして、こうやって作品として完成させている。ある人物のこだわりを貫き通して、それが形になっている。クリエイターとしては最高の環境だ。
クリエイターが想いを貫き通すことで、商業的にも成功すれば、「クリエイターには金を与えて思う存分やらせよう、スポンサーは口出ししなくていい(しないほうがいい)」という流れができるのでは。スポンサーの政治力によって、クリエイターがやりたくもない要素(取って付けたような恋愛要素、作品に不釣り合いな主題歌、不相応な大根役者のゲスト出演などなど)を強いられる、といったことが少なくなったらいいなあ、と思う。
http://news.livedoor.com/article/detail/11834365/
作品の好き嫌いはあるとは思うのだけれど、とかく多くの人が観て、好きになってくれる人がもっと増えてほしい(その分嫌いな人も増えるのは仕方が無い)。
望むと望まざると関わらず、権威を持つということは、そういうことだ。
今回は映画関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
「誰がどう見ても駄作」の批評への信頼度は高いが、そうじゃないときは個人の限界をモロに露呈させているからさ。
例えば、調子に乗って無意味な続編を作った映画として、私は「トワイライト・サーガ」系列をよく挙げるのだが……。
おっと、勘違いするなよ。メインターゲット層にのみ視点を絞っていえば、「トワイライト」はその役目を間違いなく果たしている。
ただ、分不相応に流行り、調子に乗って無駄な続編を作ったのがダメというだけさ。
特に、そのシリーズの中でも「エクリプス」は、蛇足と駄作の境界で反復横とびしているような出来でね。
シリーズも板についてきただろうに未だ大根役者、デフォルト顔がお口ポカーンヒロインのベラ。
少年雑誌のラブコメ漫画も失笑するレベルの、「ニュームーン」での不自然な三角関係を無理やり継続。
明らかに吸血鬼エドワードのほうになびいているのに、ベラが狼男ジェイコブにキスを要求したときは、新喜劇ばりのズッコケをしてしまったよ。
シナリオも、シリーズ全体から考えて不必要だと断言していい内容の薄さ。
唯一褒めたいアクションシーンすら、カップラーメンができるのすら待ってくれない。
75点だ。
「トワイライト」、「ニュームーン」よりも高い点数をつけてしまったんだ。
しかも、あのサイトではかなりいい方だということも、信頼を損なうには十分な理由だね。
最終作で、無駄にパート1、2に引き伸ばした「ブレイキング・ドーン」の批評?
ないんだな、これが。
あと、これは私にとっての例で、他にも明らかに変な点数をつけて批評をしているから、試しに探ってみるといい。
とはいえ、これは超映画批評に権威なんてないという話なだけで、そもそも個人の感想なんてアテにならないものさ。
もちろん誰にだっていえるが、大事なのは君が実際に観て感じた体験、それこそが真実なんだ。故に、己自身という「個」に勝る評論家は存在しない。
批評がなければ映画が観れない、或いは批評を読んだだけで映画を観た気になるような輩でなければの話だが。
まあ、色々けなしたが、酷い低得点のときは割と信頼できると思うので、あのサイトは話半分で読むことをオススメするよ。
その二択だけ?……じゃあ、スーパーマンで。
バットマンはカッコイイかもしれないが、私からすればあれはコウモリのコスプレしたおっさんなので。申し訳ないが。
私がそう思うのは、やはり数十年前のTVドラマの影響が強いね(OPでひたすらバッマーンっていうやつだ)。
ファンにとっても、バットマンを世間に知らしめたという意味で功績は評価するが、いかんせんコメディ色の強さが今のダークな世界観を好む層には合わない。
映画でバットマンが、ボンバーマンのように爆弾を持って走るシーンや、サメを撃退するシーンはいま見ても面白いが、滑稽すぎるともいえる。
残念だが、いまのバットマンに望まれていないんだ、そういうのは。
私だって、好きなバットマンの映画を挙げるなら「マスク・オブ・ファンタズム」を挙げるしな。
とはいえ、アニメイテッドシリーズのとあるエピソードで、TVドラマ版バットマンの俳優が声優で参加したこともあるし、やはりTVドラマ版を無下に扱っちゃダメだとも思うんだ。
くれぐれも、リスペクトを忘れないことだよ。
「ダークナイト」の吹き替えを観た時、声優がちゃんとクリスチャン・ベイルのバットマン喋りをマネしていて吹き出しそうになったんだが、つまりそういうことだ。