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山一證券に内定が決まってた同級生がいた世代。なので、記憶がちょっと曖昧なところもあるかもしれないが許してほしい。
山一廃業のニュースが流れた日、内定をもらっていたその人は大学に姿を見せなかった。翌日青白い顔をして現れ就職相談課へ向かったが、状況はどうにもならないようだった。
10人に内定を出していた企業は、2月になって1人を除いて内定取り消しを知らせてきた。そんなことがあちこちで起こった。
内定を取り消された者への補償など、誰も何も言わなかった。だってそれは仕方がないことだから、不況だからね。山一が倒れるくらいだから他の企業も潰れてもおかしくないだろう? そういうリスクがあるのはわかってるんだから、なんで公務員試験を受けなかった? そんな空気だった。もっとも公務員試験も教員採用試験も受けたところで採用される確率はとても低く、強いコネでもないと決まらない時代でもあった。
当時の空気感は今と全く違うし、知らない世代には通じないものがあると思う。そんな話をしていきたい。
まず、当時はインターネットがそんなに普及してなかった。地方に行くほどその傾向は高く、他所で何が起きているかを把握するまでに少し時間がかかった。一番早くてテレビ、それから翌日届く朝刊。口コミの伝播も遅かった。東京で流行っているファッションやアイテムが地方に届くまでにも、半年くらいかかっていた。
就職のための情報収集もとにかくアナログで、ホームページのある企業はまだ少なかったし、あっても用を成さないものと見做されていた。だからリクルートがくれる分厚いカタログについてくるハガキで資料請求。
そんなことをしてると部屋中企業案内のカタログだらけ…になると思うだろ? 企業はハガキにある大学名を見て送ってこなかったりもしたから、そんなに増えないのだ。そして応募しても当たり前のように落ちるし、酷いところは結果も知らされない。絶対電話で結果は連絡しますといっても、かけてこない企業の方が圧倒的に多かった。電話代もいちいちかけるには高いもんな。当然封書での不採用通知もほとんどくることはなかった。履歴書も戻ってくることはほとんどなかった。
パソコンよりワープロのほうが普及していたけど、増田のいたゼミは卒論を手書きで出してた割合の方が高かった。そして履歴書は当然手書き。当時はそんなソフトもない。(頑張れば履歴書も作れたかもしれないが、当時の手書き文化の前で認められることはなかっただろう)そんな手書きの履歴書を何十、何百枚と書いて各企業に郵送していた。当然、コピーなど許されなかった。ペンだこができるまでボールペンを握り続けた。ちなみにボールペンも昔はたいして種類がなくてソフトグリップなんてものはまだ多くなかった。だから履歴書も手を真っ黒にして書き続けるしかなく、その多くが徒労に終わった。
ちなみにあの頃ケータイは高すぎて、学生は皆ピッチ(PHS)かポケベルを持ってた。田舎住まいだと実家に帰ると電波が入らなくて、履歴書にも家電の番号を書いていた。
しかしながら増田の周りの女子大生、特に短大生の内定率は高かった。まだ腰掛けが当然の時代で、30歳前、早ければ25歳くらいで女性社員は結婚を理由にどんどん退社していく。つまり常に会社には若い女性が入れる隙間があった。そして企業がそんな若い女性に求めるのは、「将来的にいいお嫁さんとして最適な時代に辞めていくこと」でしかなく、学生側もそれを良しとしていた。総合職を目指す女子大生は求められていなかったのだ。そこは厳選された男子学生の席だった。
男女雇用均等法はまだ、あってないようなものだった。インターネットが普及していないかったから、今のように誰でも気軽に告発するようなこともできなかった。そういったことは共産党に相談するしかなく、それはとても高いハードルだった。
氷河期世代を理由に今も不遇をかこっているのがおじさんばかりなのもそこに理由がある。あの当時、女子大生、短大生はサクッと内定を獲得し、数年働き、そのほとんどが結婚を機に職場を去っている。そして家を建て、車を買い子供を産んだ。
もちろん、そうはいかなかった女もいる。これを書いている増田だ。中学生の頃から母がフルタイムで働いていて、自分でもそうするのが当たり前だと思っていた。だから分不相応にも就職活動ではキャリアを目指したいなどと言ってしまった。
結果、どこにも決まらなかった。そんなものはまだ必要とされていない時代だったのだ。
内定先を見つけられないまま卒業式を迎えた。求人誌で見つけた大手企業のアルバイトに応募したら案外あっさりと決まった。社員登用もありなんて書かれると人は弱い。そんなことは結局起きなかったが。
アルバイトながら4月1日に勤務開始。仕事は主に伝票計算。社保も厚生年金も入れず自分で払うと最低時給の給料は吹き飛んだ。そしてその職場には、同じく就職できなかった女子がいた。卒業した大学は増田よりはるかに上のランクだった。こんな人でも決まらなかったのか。彼女はやはり25歳になる前にお見合いをして職場を去った。
増田も30前にしてやっと手に職をつけることができた。アルバイト先を辞めて実家を出て、なんとか就職できた。
数年働いた後、昔のバイト先が消滅したとバイト仲間から知らせを受けた。紙と手でチェックしていた伝票計算の仕事が無事にすべてIT化され、施設自体が閉鎖、アルバイトも全員解雇されたのだ。
だが昔の仲間を労っている暇はなかった。キャリアも何もないアラサーの女は多少のことで辞めはしないだろうという激務につぐ激務で、体を壊した。
転職しようと就職支援の会社に行くと「年齢とキャリアがミスマッチですね」と言われ、紹介できる会社はないと遠回しに言われた。ずっとこの言葉はついて回るのかと思いながら、別の会社を経由して無事に転職した。このときにはもう、履歴書を手書きで出す必要はないと言われた。いつのまにか時代は変わっていた。ネットに落ちているExcelの履歴書をダウンロードして入力して、プリントアウトして提出した。あっさりしたものだった。
無事に転職した直後に、リーマンショックがきた。暮れのテレビでは派遣村のニュースをやっていて、自分もいつそこへ行ってもおかしくないと痛感した。当時付き合っていた人は不況の煽りを受けて職場が倒産し、その後変な山師みたいなおっさんについてベトナムに行くと言って連絡が取れなくなった。風の噂で今は日本にいると聞いたが、どうしているのかまでは知らない。
それから震災やら大コケするビッグプロジェクトやら家族との別れなど、色々なことに遭遇しながら、今も一人で生きている。会社は辞めたが、仕事はしている。久しぶりに自分で健康保険と国民年金を払ったら、思った以上に高くなっていた。この先もずっとこんな感じで生きていくと思う。職をつけてよかった。
増田には今、大学の同級生たちとのつながりがほとんどない。世の中にSNSが普及したころ、彼女たちは子育ての真っ最中でそれどころではなかったのだ。Facebookで卒大のグループを見てもそれらしいアカウントは見つからなかった。かろうじて繋がっている数少ない友人たちもLINEをやるくらいで、SNSで積極的に発信することはない。特に言うべきこともないからだ。
自分がWebの仕事を続けているのは、インターネットの希望を今でも、わずかに信じているからかもしれない。
それは電気屋さんの店頭のPC-98シリーズのマウスで下手くそな絵を描いて、店員さんに褒められた日の思い出かもしれないし、ADSL接続でエッチな画像を探し回った日の情熱かもしれない。
個人ホームページに感じた得体の知れない情念かも知れないし、PHSで送り合った短文コミュニケーションの喜びかもしれない。
mixiを使いこなしてコメントをもらったときの、未知の出会いへの喜びかもしれない。
どこか遠くを目指して、どこかにこことは違う限りなく広い世界があるはずだと言う憧れ、まだどこかでそういうものを信じているのかもしれない。
iPhoneが日本に上陸した直後からiPhone完全処理までの間の自分の気持ちをどこかに書いておきべきだと思った。GWでちょっと時間があいたのでやっておく。
当時、私はW-ZERO3を使用していた。当然WILLCOMだ。
仲間内もみんなW-ZERO3だった。ちょっと携帯に趣味のウエイトが大きいとdocomoの携帯の2台持ち。会社持ちの携帯がある向きはAUも持ってた。
私含めてみんなの評価は、端末の出来はものすごくうらやましいが、でもソフトバンクなんだよな~だった。
みんなYahooBBでひどい目にあった経験(正確にはひどい目にあった人からそのへんにいるパソコンの大先生扱い無料サポート要員扱いされてトラブル解決を手伝わされた経験)などがありイメージが悪かった。
正直、あの会社にお金を流したくない。かといって、端末ははちゃめちゃに魅力的だ。
結局、会社から支給された向きと、携帯に趣味の重点を置いている奴が2台持ち3台持ちの端末として導入していった。
今と違ってソフトバンクは「いつなくなるかわかんねー」扱いもされていた。やばくなったジェイフォンがコロコロ名前変わって大丈夫なのかなんかみたいな。なのでメイン回線をそっちにというのはちょっと二の足を踏む感じだったんですね。
まあウイルコムの方が先になくなったんですけどね。
MNPはもうあったから電話番号は変わんないけど、みんなキャリアメール使ってたから移行難しかったしなあ。いまみたいにアンドロイド端末ならメインはgmailとるからそれで全部済ますでしょみたいな時代じゃなかったです。キャリアメールは来たらすぐ気づくけどgmailはメーラー立ち上げて受信しなきゃみたいな感じの時代。余計に2台め3台目じゃないとiPhoneは持てなかったな。もとからジェイフォンやらボーダフォン使ってたら躊躇なく移行してたと思う。
そんでもって自分は当時ちょっと生活苦しいのと携帯にそこまで趣味の重点がなくて、結局iPhoneは持たなかった。うらやましいなーうらやましいなーって思いながらウイルコムが滅びるまで Advanced/W-ZERO3[es] つかってて、滅びてワイモバイルになってソフトバンクに買われちゃったからメールアドレス据え置きのままソフトバンクでアンドロイド端末を使っています。なんでせっかくソフトバンク系に来たのにiPhoneじゃないかというと、当時のラインナップとんでもねー馬鹿にしてんのか系型落ちiPhoneしか選べなかったんよね。OSのサポートすぐ切れるやんけみたいな。まあadesに比べれば天国なんだけどAndroid端末もちゃんと天国だからさ。あれ違ったかな。PHSからの乗り換えキャンペーンは型落ちアンドロイドしかなかったかも?PHSから携帯に乗り換えた後のキャンペーンでやっとiPhoneが選択肢にあって型落ちで高価だったんだっけ。記憶が曖昧だけど、馬鹿にすんなだからソフトバンクなんか嫌いなんだって思ったのは覚えている。
無印W-ZERO3でアプリとかブラウザとかメーラーとか2chビューアとか使うと本当に本当に重たかったんだよね。サイト表示待ちでカップラーメン作れるわみたいな待ち時間だった。一刻も早くiPhoneになりたかったよね、当時は。
というよりここで言うところの毎日朝晩濃厚セックスがしたかったんだな
LINEもなければグリーもモバゲーも無い。ガラケーどころかPHSって知ってる?くらいの昔
婚活なんて言葉も無いし相談所もあったかもしれないけどヤバいのとの区別がつかなかった
ねるとんパーティに参加した事もあるが女がサクラだったみたいで告白してOK出るけど二度と会う事は無かった
そんな中でどうやって相手見つけたかっていうとツーショットダイヤルだった
今でいうところの出会い系ってやつか
街中歩いてると「女性無料」とか書かれたティッシュ配ってるようなやつ
相手は年上で既婚子無し
それで俺と知り合って向こうと別れて俺と結婚するという流れ
非モテがどーしても結婚したいってこれくらい行動したらできたという一例
詐欺みたいな業者に何度も引っかかってるのでおススメはしないし
俺が相手見つけたツーショットダイヤルも別に良いところでも無ければ、
たまたまサクラじゃなかったってだけで、我ながら相当運が良かったんだと思う
なんの参考にもならんね
正確には覚えていませんが、(劇中ではテロップで明示されていた)1990年代から2010年代までの近い過去が舞台で、ストレート携帯電話(PHSかも)やカセットテープ再生機(ウォークマン)が出てきます。
1990年代にその時代にはなかったものが映らないようにするために高田馬場BIGBOXなどの建物はCG処理されています。
問題は自動車で、LEDヘッドライトで青エンブレムのEVを写さないという狙いはいいのですが、カローラやマーチなどの一般的な車ではなく、ホンダのBeatやリトラクタブルヘッドライトの外車など「カーマニアが大事に保存していた」みたいな車が目立つんですよね。
交通事故死の出てくる映画はスポンサーのCMの関係で地上波で放送しづらいそうです。本作もガチャンと交通事故死します。事故死は当時のVWゴルフとトラックの衝突ですが、交通事故の原因となる暴走でゴルフを追いかけていた犯人が運転していたのはトヨタ・日産・ホンダ・マツダ・三菱・米国車でもなかったので、スポンサー問題にも気を遣っていたのかもしれません。
祖父が数ヶ月前に亡くなった。
第6波真っ最中で、葬式もなくただ焼いただけなので葬儀には行っていない。
昭和のクソ親父を煮詰めたような、どうしようもないじーさんだった。
苦労人ではあった。祖母方の曽祖父の家業を継ぐために婿養子に入った五男坊。でも継ぐ前に家業が潰れてしまい、駐車場の警備員から身を起こして子供三人育てるための金を稼ぎ、最後には先生と呼ばれる職に就いていた。
定年まで飛行機の距離に単身赴任していて、その頃はまあ多少ウザいけど長期休みに会うくらいなら我慢できるレベルだった。
先生と呼ばれていた頃の名刺をいつまでも持っていて、私を含む孫に会うと、毎回必ず「何かあったらこれを見せろ、"○○先生の孫ならなんとかします"って言われるから」と言って名刺を渡してくる。祖母と話したくて電話をすると、必ず祖父が最初に出て開口一番しばらく電話をしなかったことの嫌味を言われる。「なんだ○○は。最近電話もしてこなくて何やってるんだ」毎回毎回毎回最初にこれを言われる。マッチがつけられないとか鉛筆をナイフで削れないとか、老人ができることができないとここぞとばかりに「なんだこんなこともできないのか。お前は馬鹿だなあ」と馬鹿にしてくる。アラフォーの今ならはいはいで済ませられるけど、高校生の自分には我慢ならなかった。
それでも祖母が好きだったから、電話はしたし祖母の家にも盆と正月には行ってた。それが大学生になったら、祖父は体を触ってくるようになった。最初はたまたまかと思ったが、運転中に助手席に座って太ももを触ってきたので意図的だと言うのがわかった。そのときは咄嗟に大声を出して振り払い怒鳴りつけた。普段は上から目線で嫌味ばかり言ってる癖に、こっちがガチギレするとビビって何も言わなくなる小心者だった。私より若かった従姉妹は、会うたびにデブだ痩せろと言われて泣いていたらしいことも同時期に知った。社会人になって祖母にPHSをプレゼントして、祖母の家には行かなくなった。
祖父は歳をとるにつれて本当に傍若無人になっていったらしい。祖母が足を悪くして、出かけるには祖父に車で送ってもらうしかなくなってしまったのだが、祖母が友人と会いに行くといっても連れて行かなかった。友人が祖母の家に遊びに行くと、怒鳴りつけて家にあげなかった。祖母の妹や自分の娘ですら、気に入らないことがあると怒鳴りつけて追い出していたらしい。認知症の兆候だったんだろうね。極め付けは、祖母が料理できなくなったので祖父がスーパーに弁当など買いに行くわけだけど、スーパーに入ると店員を呼びつけて、欲しいものをメモした紙を投げつけて「そこに書いてあるやつを持ってこい」とかやっていると。祖母の家のすぐ近くに祖父の妹が住んでいて、そのスーパーに行ったときにそんな話をされて針の筵だったそうだ。
そんな祖父が亡くなった。
客観的にみると、祖父は祖父なりに大変だったのだと思う。ああいう性格だから地元に友人は一人もおらず、定年後は家でテレビを見ているだけだった(だから電話にも毎回必ず祖父が出た)。でも何十年も、回数は少ないとはいえ話すだけで必ず嫌な思いをさせられる祖父を可哀想だとは思えない。かといって亡くなって嬉しいわけでもない。正直なところ、大学生の頃に亡くなっていたら大喜びしていたと思う。我ながら残酷だし勝手だけど、とにかく早く死んで祖母を解放して欲しかった。
嬉しいという感情はないけど、安堵の思いでいっぱいだ。もう祖父はいない。祖母も家にはいないしもう何もわからなくなっているから電話することはないんだけど、あの耳に残っている声、「なんだ○○は。最近電話もしてこなくて何やってるんだ」という言葉はもう二度と聞かなくて済む。そして書いていて気づいたけど、親戚がわざわざ私に祖父のあれこれを聞かせてくることがなくなるということに、多分一番ほっとしてる。自分のこういうクズさは祖父から受け継いだのかもしれない。
昔を懐かしみながら書いた
まだまだ出てきそうだけど飽きたからもういいや
これ年代バレるな
昔は今でいうPVEでネカマに親切な非モテ男性が笑い者でした。
ネカマがモテるのは理解のある彼女だからという正にフェミニストがカチンとなる事実が可視化。
4人以上の同時プレイが当たり前のご時世、「確かにオタク差別は過去もの物だな」となるか「Amazonプライムオプションなし以外のサブスクを受け入れられない老害共はオタク向けゲームと常識人向けゲームの違いがわからん」という事実が可視化されるかの瀬戸際になっていて、「PVPでそこそこ勝ちつつ人に親切にする」が「30年前のこづかいでゲーム機じゃなくPHSを買って人付き合いをする」に匹敵する裏の通過儀礼になっている。
念のために書いておきますますと、純粋にスペックが低く、大衆文学世代の俗物にごちゃごちゃ言われ、理解のある彼くんになれないだけで人生の合間にオタクをやっている(はっきり言って真面目に働いている)常識人ですからね。
吾輩は黒電話からポケベルとPHSを経てスマホに至った世代である。
ある時、吾輩はいつものバーミヤンで一人火鍋しゃぶしゃぶ100分(レモン塩だし&白湯スープ)を堪能していた。
大人一人で火鍋しゃぶしゃぶ食べ放題コースを食べているのを見かけたら黙って見守るがよい。
そういうオーラを出しながら食べていた吾輩に反応したのか、斜向いの家族連れの息子兄弟がテンション高くなって大声で話していた。
吾輩は別段、子供の大声など気にも留めていない。ましてやバーミヤンの火鍋しゃぶしゃぶだ。
だからそんなに静かしなさいなどと怒らなくてもいいよママさん。
ママさん、周りに気を使う必要などないのだ。こちらは火鍋しゃぶしゃぶに集中しているだけだから。
そんなことを思いながら吾輩は、火鍋しゃぶしゃぶの肉のお代わりをタッチパネルで注文した。
その肉のお代わりがネコちゃんロボットで配膳されてきたとき、斜向いの息子兄弟のテンションは爆発した。
おいおいおいおい。おいおいおいおい。
黒電話からの歴史のある吾輩ならともかく、君たちがテンション上がることはないだろう。
どちらかというと、ネコちゃんロボットを見て騒ぎたくなっているのは吾輩の方だよ。
君たちはもっとこう、さもネコちゃんロボットが当たり前のように振る舞ってもらわないと。
なぜデジタルネイティブ世代のお子様なのに、ネコちゃんロボットごときでワーワー騒ぐのだ?
俺はブックオフが大好きだ。
昔から俺の知識と好奇心の供給源であり、今でもそれは変わらない。
本屋は新しい世界の出会いというけども、それはブックオフも同じこと。出版関係から忌み嫌われようとしても、ユーザーの立場からすればブックオフはありがたい。はてなだと妙に出版社や作者側に立ちたがる人が多いけどな。
なにせ安い本ならとりあえず110円で買えるんだから、なんかタイトルで興味を持ってパラパラ見て、とりあえず面白そうなら躊躇せず買える手軽さは普通の本屋ではよほどの金持ちではない限り考えられん。Kindleでも無理。
さすがに110円、220円のコーナーなら最新の本は並ばないけど、少し前の本でもそこまで情報が古いとは思わん。年を取ると2015年くらいでもつい最近だし。
それに古い本なら、ああそんな時代あったなーと懐かしむ楽しさもある。今さらPHSの本や昔のiPhoneの本を買って読むのも楽しい。
とりあえず失敗しても懐が傷まない程度に色んな分野へアクセスできるってのは、スゴイことだと思うぞ。
図書館を使えよっていう人もいるだろうけど、うちの近所の図書館はそんなに品揃えが良くないし、新刊が頻繁に入ってくるわけでない。ブックオフだと、在庫が入れ替わるし、そもそも別店舗に行けば別の本との出会いがあるわけだから、よほど専門的な本を読む場合でない限りはブックオフの方に軍配か上がると俺は思うがな。
ガラケー、PHS、京ぽん、りなざう、W-ZERO3、Android、iPhone、全部持ってたけど、ダントツでメニューが意味不明なのがガラケーだった。
メニューが覚えきれないし、マニュアルもわかりにくいし、同機種持ってる人なんか滅多にいないから人に聞けないし、それでガラケーは電話だけ、メールやウェブはPHSや他の端末でってやってた。
https://anond.hatelabo.jp/20211026193844
で、「iPhoneがなぜ日本人に受け入れられたか」を書いた増田です。ブクマが1600もついていてびっくりしました。いままでどんな気合い入れてブログを書いてもブクマ100もいったことがないのに、勢いに任せて書いた増田が1600とは…こういうのみんな知らなかったんですかね。
いろいろ言及してくれた人がいるんで、答えられる限り答えていきたいと思います。
まあ、隠す必要ないよね。そうです。ハイ。名古屋の工業系の大学を出て入りました。あの頃の三洋はすごかったんだ。二次電池、太陽電池、デジカメ、無線通信など、地味に覇権取ってた技術分野がいくつもあった。新潟で半導体も作っていたし、有機ELだって開発してたんだ。パナからは下に見られていたけど、社風はちょっと緩くて、でも活気があっていい会社だった。守口に本社ビルが建ったときは誇らしかったんだ。なんでこの大企業がこうも容易く瓦解して消滅してしまったのか、今となってもよくわからない。新幹線の窓から見えるソーラーアークに「SANYO」とあったのが、「Panasonic」に変わっているのを見たときの衝撃は、今も忘れることができない。
あ、これはまあ、そうですね。事実上の消滅、といったらいいかな…
>日本メーカーのAndroid端末開発の悲喜こもごもを教えて
俺は携帯絡みの仕事で最初にやったのがPHSのCS(基地局)だったんだ。今や三洋が基地局を作っていたなんて知る人も少ないんじゃないか。DDIPocket(その後WILLCOM、そしてSoftbank…)でその仕事していて、CDMAを手伝ったあと、KCP+というクソみたいなプラットフォームでみんなが死んでいるのを横目で見つつ、横須賀で次世代通信の基礎研究みたいなことをやっていた。なので端末の開発はあんまりやってないんだ。でも、三洋の携帯は良かったんだよ。そりゃパナやNECに比べたらブランドや知名度で劣ったけど、中身は全然負けてないつもりだった。ワンセグをつけたのも有機ELディスプレイを付けたのも三洋が最初だし、何より俺らはあのアメリカでしこたま売ってた。
だがいつの間にか三洋の携帯事業はだんだん先行きが怪しくなっていて、ノキアと合併するという話をずっと聞いてたんだけど、なんかしらんけど結局京セラに売られることになった。京セラは厳しいけど温情あるところだったらしく、残ってパナに身売りされた部門よりかはずっと良かったんじゃないかな。俺は京セラには行かず別の会社に移籍してLTEとかしてたんだけど、そこでiPhoneの発売でいろんなもんがすっちゃかめっちゃかになるのをやや離れた場所から見ることになった。その後は凋落する日本の携帯業界とともに生きてきますた。
>iPhoneが出たときにガラケーにかなわないと思ったのはお前の見る目がないからだ
(笑)まあ、そうだよね。それは本当にそうだと思う。ただ、当時出たばかりのiPhoneは、ちょっと重たいサイトを見るとすぐにブラウザが落ちたし、孫さんはこれで仕事が捗るぞみたいなこと言ってたけど、こんな不安定なもの仕事に使えっかよと思ったのも確か。ガラケーのほうがずっと安定していたんだ。その後iPhoneが急激に改良されていったのはご承知の通り。当時はiPhoneの未来性を語るギークも多かったけど、女子高生がNECの二つ折りにじゃらじゃらとストラップをつけて、あらゆる機能を使いこなし超高速でケータイ打ちしてたような時代で、別にメニュー階層なんかもそう複雑でもなく、これがiPhoneより使いにくいなんて思わなかったんだ。先見の明がなかったことはそのとおりだと思う。
>Androidの出始め、海外メーカーのはそんなにダメ端末ではなかったよね
はい、これもそうですね。HTCやサムスンは当初からしっかり作り込んだいいのを出していた。日本メーカーが安定した端末を出せるようになったときには、すでにiPhoneの覇権が確定していたのは前に書いたとおり。ただ、ソニーだけは例外で最初からそこそこ安定したものを出していたし、途中まではグローバルマーケットでガチで戦っていた。とはいえ、確かソニー・エリクソン(後にソニーモバイル)って当時英国の会社だったような。
>iPhoneが普及したのは端末や操作性がAndroidに対して洗練されていたからで、キャリアの戦略や日本メーカーの不手際だけで語るのはおかしい
これも、そうだとは思う。ただ日本だけが突出してiPhoneのシェアが高い(2位以下に10ポイント以上の差をつけている)理由は、キャリアの戦略や日本メーカーの不手際が原因と言っても差し支えはないと思う。
でも、iPhoneが洗練されているってのはどうもやっぱり納得できないんだよな…確かにiPhone5くらいまではそうだったかも知れない。ただその後はUIなんかもひたすらAndroidで先行しているものを取り込んでいったでしょう。通知エリア、戻る機能、大画面化、アイコンのグループ化、ウィジット、カーソル移動…iPhoneがAndroidと比較してそんなに洗練されたものなら、どうしてAndroidのマネをする必要があったのか。また端末はどんどん重くメタボリックになっているし、ノッチはデカく指紋認証も不可で、充電端子の統一もできず未だにデジタルコンテンツのアプリ内購入もできない。それで最高のユーザー体験とか聞くと、寝言は寝てから言えよと思ったりするよな、正直。俺はよく画面分割してYoutubeを再生しながらLINEとかするけど、それすらまだiPhoneはできないんでしょ?
以前はAndroidが高機能高性能で推してiPhoneはユーザー体験がすごいんだと言われてきたけど、今はどちらかと言うとiPhoneのほうがAチップの高性能を売りにして、ユーザー体験は変な所にこだわっておおよそ実用的ではない。その点もAndroidが優れていると言い切っちゃうと荒れそうだからこのへんでやめとくけど、ぶっちゃけ大して変わらんと思うよ。
まああとは、AppleWatchやiPadやMacとの連携が優れてるみたいな話になるんだろうけど、そのへんは使ってないのでよくわからない。個人的な思いで言えば、個人情報から決済から操作性から何から何まで一社に依存するってのは怖くないんかなって思う。Appleは個人情報保護が優れてるって人もいるけど、実際のところは彼ら中国政府にベッタリで、その要請に従って中国企業に個人情報の管理とか任せたりしてるぞ。
俺が本当にこいつらすごいなと思ったのは、Appleではなくサムスンやファーウェイだった。サムスンはGSMとかから今のスマホの時代に至るまで、グローバルに君臨しつづけているほぼ唯一のメーカーだ。そりゃ過去には日本の技術を盗むとかもあったかも知れないが、日本を追い抜いたあともずっと成長を続けているし、しかも端末のコア部品の大半を内製できて、それらがみな競争力を保っている。こんなオバケみたいな連中は他にいない。
ファーウェイは基地局でとてつもない技術力と競争力を持っていたのもあるが、端末だって短期間にすごいのを出してきた。SoCも内製していたし(製造はtsmcだったけど)、その設計思想や性能はAppleに劣らないくらいだった。そして安かった。安く作れるってのはそれ自体がすごい技術力なんだ。実は俺はファーウェイが躍進して、高慢ちきなAppleを奈落に落とすことを密かに期待していたんだけど、そうはならなかったね。でも彼らはきっといつか這い上がると思う。それが日本にとっていいことかどうかわからんけど。
思うに、日本でiPhoneのシェアが高止まりなのは、中韓に対する根強い差別意識もあるような気がする。日本人はアメリカの作るものは大好きだが、中韓については未だに彼らの技術や製品を認めたくない思いがあるんじゃないかな。欧州なんか行くとサムスンやらXiaomiやらのスマホの機能やデザインを褒める声を聞くけど、日本でそういう人はあまり見ないよね。
>老害め
このコメントが結構あったね…iPhoneが出たときに俺は40歳前後。若くはないけど老害じゃないだろうとは思う。ただ今の若い人は、僕らみたいな年代の人間が日本の産業を焼け野原にしたと思っているのかも知れない。まあそれはそれで確かにそういう一面もある。でもまあ、なんというか、この20年、日本はやるべきことは必死にやってきたと思う。
いま話題の半導体だって、パナとルネサスは共同で微細化の研究に取り組んで世界の先端を行っていたし、富士通は最新の工場を三重に建ててファウンドリビジネスにも取り組もうとしていた。ASMLの独壇場であるEUVリソグラフィだって、実は日本が先行して産学共同で先駆的開発をしていた、なんてもう言っても誰も信じないんだろうな。プラズマや液晶だって有機ELだって、実際のところ日本企業は果敢に攻めていた。世界で求められるキーデバイスは何かはちゃんと把握していたし、それでなんとか世界の一角に残ろうと必死だった。後からならなんとでも言えるが、その時々での判断が遅かったとか合理性を欠いていたとは思えない。でも、なぜかその大半が裏目に出てしまった。技術はあった、人もいた、行動もした。でもダメだった。
太平洋戦争の歴史を読んだりするのが好きなんだけど、あれも途中からやることなす事の大半が裏目に出るようになるんだよね。インパール作戦や特攻のような不条理な作戦もあったけど、全部が全部そうでもなくて、その時はこういう道しかなかったのだろうと思えるものもたくさんある。でも、どうしてかその大半は裏目に出てしまう。そんなときは人生にもあるし、国にもあるんだろう。
俺は、あの三洋電機があっというまに崩壊していったのを見ているから、いま世界を席巻しているAppleやらサムスンやらtsmcだって、いつどうなるかわかったもんじゃないよなって思うよ。富士通やNECみたいに卓越した技術を持っていても、長い時間をかけて凋落していった企業だってある。逆に言えば、ほんの20年くらい前までAppleなんてニッチで時代遅れのPCメーカーだったんだ。日本だっていつまでもダメな国じゃない。社会が変わるときは一瞬で変わる。老害って言われるのは悲しいけど、でも君らと一緒にまた上がっていける日は来ると思うな。
追記:iPodのことを何度か書いている人がいるけど、俺の周囲の人たちでiPodを使っている人は殆どいなくて(ちなみに言うとWalkmanだっていなかった)、大体が中韓の作ったmp3プレーヤーを使っていた。格段に安かったし、iTuneとかいうできの悪いソフトを使わないでも、フォルダごと音楽ファイルを放り込めば再生してくれたからだ。俺も名前忘れたけど韓国メーカーのやつを使ってたと思う。これって自分の周囲があらかた理系でメーカーだったから、割と特殊なのかも知れない。ただ全く無関心なのではなく、飲食店で注文を取るお姉さんがiPod touchを端末に使っていたのを見て、ああイノベーションってこういう形も取るのかと感慨深く思ったのを覚えている。ちなみに当時auはガラケー向けに音楽配信サービスをしていて、もちろん三洋の端末も対応していたんだけど、実際それで音楽聞いてる人を見たことなかったな…(ぶっちゃけ、ビットレートが低く、音もそんなに良くなかった)
なので、iPodを使ってた人がiPhoneを受け入れたという説は、そうかも知れないけど自分にはわからん、となるのであった。ごめんね。否定しているわけじゃないんですわ。こうやって現場の人に周りが見えてなかったってのも、我々の敗因のひとつなんだろう。