はてなキーワード: 関東地方とは
B.中央の対義語(中央政府に対する地方自治体、国管轄対象に対する自治体管轄対象)
D.東京以外
おまいらの言う地方って具体的にどこだよ
よく地方語りや地方叩きの文章が見受けられるが、文脈から判断しようにもA・C・Dどれか分からないケースや
混在してるケースもあって事実誤認を大量生産してるぞ。いいかげんにしろハゲ。
おまいらの言う都内って具体的にどこだよ?
A.23区内
B・23区内のうち下町ではないエリア、畑や田んぼがないエリア
都内は不動産が高いとかさも当たり前のように言う人は多いが、お前の言う都内ってどこだよ
青梅とかあきる野とか完全に田舎価格だろ。その場合の都内はAかBなのか?
しかし「都内は不動産が高い」に便乗して「首都圏は不動産が高い」や「関東は不動産が高い」とか言う奴まで出てくるのはどうなのよ
はーいはーいはーい、俺も俺も俺も!
ざっくり言えば、良かった(ざっくりすぎ)。
もう一度見に行きたい。
近年、そういう映画にはとんと当たってなかったので。
ただ反面、疑問点や、ちょっとリアリティーに欠けたかなという点も。
この映画のすごいところは、そういった点すら減点要素にはなりえないところ。
以下に記す。
(※個人の感想です)
なんというか「トーキョー対ゴジラ」のような印象。
「ニッポン対」っていう割には、東京(と関東地方)以外の土地が不自然なくらい出てこない。
5秒くらいインサートされる「ヒロシマ」「ナガサキ」の写真くらいじゃない?
よその土地が出てくるの。
中盤、ゴジラくんったら東京のど真ん中であれだけ盛大に火吐いてるから、キー局の機能は失われてしまってるはずなのに
何事も無かったのかのように放送が続いている。
(例えば、「最終兵器彼女」なんかだと、テレビ放送の機能なんかは失われていく描写だよね)
だけど、そういう描写はない。
別に無いなら無いで、ストーリーテリングの上で絶対不可欠というもんでもないし、構わないんだけど
この映画が紐つけられる「3.11」以降という文脈でいうと、首都一極集中型のこの国で
首都が機能を失ってしまったときどーするの?っていうこの国の弱点がなんの議論もされずに残されているという問題がありまして、
そこに関する見解が何も提示されていないという腑に落ちなさは少々残りました。
(とはいえ「3.11」云々は作り手側が喧伝しているというより、受け手が勝手に関連付けてるだけとも言えるので、
・東京に原爆を落とすという国連(アメリカの傀儡)決議がされたときに、登場人物の誰もが怒りに震えてるんだけど、
個人的にはあまりその怒りを(日本人なのに)自分のものとしては感じられなかった。
「ヒロシマ」「ナガサキ」に続く、3発目の原爆をこの国に落とそうということに憤っていらっしゃるようですが
1発目、2発目とは状況も意味も違うので。
もちろん生死という概念すら凌駕している可能性のある最強生物に対して原爆というある種レガシーな兵器が通用するかという
疑問はあるんだが犠牲者を計画の段から見込まないといけない「ヤシオリ作戦」よりも、原爆投下の方がはるかにスマートなやり方のような気がした。
むしろ、Hatenarとして折に触れて見聞きする機会のある「東京対地方」論で、いつも散々にこきおろされる「地方」にいる身としては
「ざまあみさらせトーキョー民!おごりくさった天罰じゃ!!」くらいのことは感じました。スッキリ!
…というくらい、「東京」と「地方」が分断されてしまってる現状、
やっぱり「ニッポン対」っていうよりは、「トーキョー対」にしてくれた方がすっきりするな。
けど、街が壊されていく様子とか、人が逃げ惑う姿、この映画の核と言える描写のリアルさはシリーズ随一だと感じた
(とくに船が積み重なっていく様子とか、押しつぶされたマンションの中にいる住人が流されていくカットとか)。
当方は東日本大震災が発生した時に震度1すら観測されなかった西日本の街に住んでいて、「3.11」という言葉にあまり
リアリティーを感じてなかったんだけど、
そんな人間でもこの作品を見て、あの日の記憶からは逃げられないんだと感じた。
それほどあの地震が残した爪痕は大きいということを思い知った。
お台場が燃えている→東北が被害激しいらしい→津波が来るぞ!逃げて→(絶句…)→原発が危ないらしい!→ハーイ/
ここまで24時間未満。パソコンの前に噛り付いて動けなかった。
実際、関東大震災の記録も集めてみると範囲も広いし、被害も東日本大震災に匹敵するほど大きい。
にも関わらず、この3.11が日本人にとって特別大きく感じるその理由は、
①ビデオ技術(ここでは単に映像なのではない、フィルムではなし得ないほどの情報量をもつメディア)が開発されて
②リアルタイムでその映像をやり取りできるほどの高速ネットワーク回線というものがそろった後の時代において、
この国が迎える、初めての破局的な災害だったからだという側面もある。
そういえば911が起こるまで、200mを超えた高層建築が実際、どんな風に崩れるかなんて人類の誰一人として想像できなかっただろう。
そういう意味では初代ゴジラ以降、60年余の間に人類がアーカイブしてきた全ての映像が、庵野秀明という最終アンカーの目を通して
わたしのことでけんかはもうやめて!
みんなのこと、まってるから!
http://www.city.hanno.saitama.jp/0000009075.html
http://nenogongen.jp/blog/?p=840
http://maruchiba.jp/osusume/cycle-tourism/station.html
▼館山市
http://www.city.tateyama.chiba.jp/sports/page100089.html
http://www.townnews.co.jp/0609/2016/01/29/318511.html
▼伊豆市
【サイクルメッカ伊豆】バイクラック(サイクルラック)のあるお店・施設|伊豆市観光情報
http://kanko.city.izu.shizuoka.jp/form1.html?pid=4050
▼袋井市
サイクルステーション
昨日母親と一緒に晩ごはんを食べながらテレビを見ていたら気づいたことがある。昨日のことを思い出しながらつらつらと書いていこうと思うが、その前に前提として俺の個人的な情報を伝えておくと、俺は年齢が30代で実家暮らしの男、家には年金で暮らしている(本人の口から直接聞いたわけではないが、おそらくそうだという確信が俺の中である)母親とあと犬(だいぶ年老いている)という家族構成だ。家の正確な場所は、インターネットに書き込むと危ない(それぐらいは俺でも分かっている)ので、正確な場所は教えないが、だいたい関東地方だと書いておく。ひとつ前の文章から分かる通り、俺はあまり頭が良くないし、そのこともしっかりと自覚しているつもりだ。これは幼少期に親戚の女性(顔などは正確に思い出せないが、おそらく40代半ばくらい)にも言われたことなので、(ちなみにその親戚の助成はおそらく俺の親戚の中でも頭が良いほうだと思う。なぜなら、俺の一家(父と母(父は10年ほど前に死んだ)は俺から見てもあまり世間的に頭の良くない人たちなのだが、その女性が俺の父親や母親と会話する様子を見ても、頭の良さが見て取れたからである)俺の中では個人的に印象深い言葉となっており、俺が自分という人間が頭が良くないということをしっかりと自覚出来た体験であるためだ。頭が良いか悪いかという問題は俺の人生での大きなテーマとなっていて、幼少期(親戚の頭の良い女性から自分たちの一家が頭が悪いと自覚させられた日)から現在(つまり今この文章を書いている俺)まで、その「頭の良さ」「頭の悪さ」をどうやって計測するかが、俺の中で大きなテーマとなっていた(このことを考えるためには大学に行くのがいいと思ったのだが、俺は学校の勉強があまり得意ではなかったし(それは俺が頭があまり良くないためであるが)、それに俺の一家はあまり大学というものをよく知らなかったため、結局大学に行くことが出来なかったのである。)俺は小学校や中学校で頭があまり良くないせいでイジメに近いことをされていたが(高校であまりなかったのは、多分俺と似たあまり頭の良くない人たちばかりがいたところだったからだろう。俺はその高校では普通か少し頭の良い場所にいれたと自分でも分かった。)
色々と話が長くなってしまったが、昨テレビを見ていて日気づいたことを書こうと思う。昨日、八時ごろに母親と母親が買ってきたコロッケなどを食べながらテレビを見ていた。(テレビの内容はあまりよく見ていなかったので覚えてないが、それは俺にとってはいつものことだ。俺はあまり集中力がないから、そのせいで子供の頃から現在まで何度も怒られた、だから気づいたこととテレビには関係がないと思う)テレビを眺めながら、俺はいつもの様に何か考えていた。すると気づいたことなのだが、それは「頭が良い」「頭が悪い」ということをどうすれば知れるかということだ。これまで学校や家や仕事場で色々な人を見たり、色々な人に聞いてみたりしてきたけど、「頭が良い」「頭が悪い」ということがよく分からなかった。俺は自分があまり頭が良くないと自覚することが出来たし、俺の母親に聞いてみても母親もあまり頭が良くないと言っていた。(俺の母親を見ていても俺の母親は頭があまり良くないのだろうと子供の俺から見ても母親があまり頭が良くないことが分かった。それに母親は親戚に頭が良い人があまりいないということも言っていた)俺が色々な人に頭が良いか悪いかを聞いてみると、あまりみんなそういうことを考えていないようだったのか、一言二言で返事がかえってくる。(これは俺があまり仲良くなれないことが問題でもあるのだろう)そこで思ったことは「頭が良い」「頭が悪い」はその人が自覚しなければ「頭が良い」「頭が悪い」という状況にならないと思った。俺は「頭が悪い」と自覚しているから「頭が悪い」が、母親は「頭が悪い」とあまり自覚がない。「頭が良い」「頭が悪い」というものがわからないのなら、「頭が良い」「頭が悪い」とはならないのだろう。「頭が良い」と気づいていた親戚の女性も「頭が悪い」と教えられた俺も、その「頭が良い」「頭が悪い」の状況を自覚したのが問題なんじゃないかということを昨日テレビを見ていて気づいた。
・特徴となる色や形(「大きい」はあまり特定力の高い単語じゃなさそう)
・分かれば大まかな生物の分類(セミならセミ)を、カタカナで(生物の正式名称は普通カタカナで表記されているので)
このくらいの情報を適当にぶっこんで、画像検索し、近そうなものを探していく。
昆虫や野草の類はマニアがたくさん居て、生物の特徴がよくわかる写真を上記のような情報とともにブログに載せていたりするので、だいたいこれで分かる。
外国の生物などは難しいが、それでも似た写真から生物のより細かい分類(ハルゼミの仲間のようだ、とか)を推定して、絞り込んでいくことで結構分かる。
当方,共働き30歳代女。会社でダイバーシティなんとかで駆り出されるのに,毎回,理不尽を感じる。
そんな時間があったら,さっさと仕事終わらせて帰宅したい。もしくは研究時間に充てたい。
そもそも理系の職場で,9割を占める男性社員は,そんな活動していることすら知らないし,無関心。
女性社員は少ないので,毎回,新入社員向けのリクルートページに使われるのも勘弁してほしい。
ダイバーシティ教育が必要なのは,無意識でセクハラまがいの発言をしている9割の男性社員の方だろう。こっちは普通に仕事がしたいだけ。
先日,出張の合間に,ある関東地方のショッピングモールへお昼を食べに行ったら,あまりの女性率の高さに愕然とした。
職場に女性がいないと思ったら,こんな所にいたのか。みんなベビーカーやら子供連れ。
2008年11月24日 : オホーツク海 - Mj 6.5、深さ492km、Mw 7.3、深さ491km
2010年11月30日 : 日本 小笠原諸島西方沖 - Mj 7.1、深さ494km
↓
2011年3月11日: 日本 三陸沖 - Mj 8.4、深さ24km
2013年5月24日 :オホーツク海 - Mj 8.3、深さ598km
2015年5月30日:日本 小笠原諸島西方沖 - Mj 8.1、深さ682km
↓
2015.9.11 ?
ちなみにうるう年を考慮に入れたマヤの予言の日は2015年9月3日
自分の知る限りの話ではあるが、いま現在アイドルが大きなコンサートやイベントを関東地方以外でやることが多い気がしてならない。
たとえばAKB48は長らく東京で行うのが通例となっていた選抜総選挙を福岡で行い、嵐は秋に宮城県でコンサートを行い、関ジャニは関東をすべて外したコンサートツアーをするし、ももクロも春と夏の大きなライブを関東以外で開催している。自分の知る限りではこんな感じ。地域の活性化が一番だと思うけど関東地方に住むヲタどもに「行きづらいだと?自分たちはいつもこんな思いをしています!!」という意識を植え付けさせるためでもあるのかなと感じています。
ちなみに。
わたしは関東地方に住んでいるけれども、俗にいう北関東なので東京まで軽く片道3時間はかかります。電車も通っていないので言うなれば陸の孤島。しかし関東在住というだけで恵まれている扱いをされるのが常。この板挟み感。
絶望的な人生を歩んできた私がこのご時世にて結婚できるポジションにいる奇跡
友達は出来ても続かず、対人恐怖状態。
大学にて大学に全く馴染めず、友達どこらか知り合いさえいない。
ただし、この頃カウンセリングやACに関する本等読みあさり、親から受けた傷についてはある程度回復、
地獄の就活期間、ネクタイしただけで吐きそうになる。将来を絶望したが卒業三ヶ月前にて就職決まる。
色々ひどい目に合いながらも10年働き、ここ数年、日曜さえないブラック職場だが、
自殺を考えたとかそのレベルの絶望を分かってくれる人がいい。ボッチ歴ありとかニート歴ありとかすごくうれしい。
なのでここに書かせて欲しい。
まで
たまたま記事が目に入ってきたのですが、思うところがあったので書かせて頂きます。
当方関東のどこかに住んでいる二十代後半男で、歴史系ウェブサイトを立ち上げる為に頑張っているところです。
仕事柄いろんな場所に行き、地域の裏山なんかに眠っている中世の城跡の歴史などを調査する為に茂みの中に入って行く事が多いのですが、
中世の城跡、つまりかつて戦国時代に軍事拠点であった場所の地権者って、代々農業を営んでいる方が大変多いのです。
それはなぜか。
私自身の話が分かりやすいかと思うのですが、私の実家のお墓は地域の小高い山の上にあります。
地域に数件ある増田家の墓のみがその小高い山の上にあり、増田家以外の墓の多くが同じ地域の低地にあるお寺の敷地内にあります。
てっきり増田家は地域の爪弾きもので、いじめられっこだったのかと勝手に思っていましたが、
どうやらその墓地周辺が中世戦国末期の城跡の主郭付近であり、増田家はその城主だった、とのこと。
そして現在の増田家は、やはり農家。江戸時代は庄屋さんで地域でも裕福だったが、やはり農家。
なぜ農家になったのか?
仮に小寺家としますが、小寺家の重臣として召し抱えられて、現在の実家近辺の統治を任されていたとの事。
その小寺家は隣の隣の隣ぐらいの町を拠点とする赤松家(当然仮の名)によって追放され、
増田家は赤松に下り(前述の低地のお寺は赤松の菩提寺の末寺)、その赤松も
当時関東平野制覇を目論む小田原の後北条家にやがて下ることになる。
北条家は赤松家を頭としその地方一帯を統治する◯◯衆を組織し、
増田家もその◯◯衆のメンバーとして、引き続き実家付近を拠点に統治を続けたとのこと。
そして問題の小田原征伐。豊臣とその取り巻きにて小田原を包囲し、関東地方一帯の小田原方の城郭が同時に攻撃を受ける。
上杉・前田・真田に攻められた八王子城の惨状や、忍城の成田家の奮闘はこの時の事で、うちの実家付近の拠点は簡単に落城。
増田家の筆頭は小田原城に籠もり、◯◯衆として勇敢に立て篭った、のかもしれない。
そして小田原北条家は滅亡し、関東の統治ネットワークはそのまま徳川家に与えられ、関東には徳川の家臣が流入してくる。
元々関東のそれぞれの地方を統治してきた◯◯衆の大半はその際に潔く農業を取り仕切る庄屋層に転身し、
残りの一部は徳川への仕官を申し出てたりして引き続き武家である事にこだわり続けたとさ。
かくして、関東の大半の武士が農家になり、少数の徳川家臣による統治を受け入れた。
この話を土地の古老に話したりすると、忘れ去られていた「イエ」の記憶を取り戻したようで、いたく感動される方が多い。
また逆に、「当家は代々武士の家系で・・・。」といった方に話をすると、複雑な顔をされる方が少なくない。
身分は固定されたもので、名前とともに受け継がれるようなイメージを漠然と抱いている方に多いのですが、
「単に先祖が徳川方に付いて頑張っただけ」というストーリーに聞こえ、どうも「武士の家系」イメージに合わないらしい。
(ちなみにこれらは関東の話ですが、土佐の長宗我部と一領具足の結びつきが幕末の坂本龍馬の時代まで尾を引いた事を考えると、全国各地である事なのでしょう。)
この話を踏まえて、血筋とは何なのか。
「イエ」の物語やその教訓は代々守り伝える限り残るが、
遺伝的な意味での「血筋」がはっきりと出るのは数代の限りなのではないかと考えている。
農家さんの多くが確かに自分たち自身を「ただの百姓」と呼び、学も無く品格も無い、と自虐的に語るが、
失われた歴史をストーリーとしてお教えすると、生き生きと誇りを取り戻す。
しかしながらそれまで受けてきた教育は変わらないし、次世代に何を教え残すかも教育者としての自分次第。
ちなみに「農民」で一括りにされる事が多いですが、庄屋層は江戸時代からかなり恵まれた教育環境にあったとのこと。
うちのばあちゃんも地域で唯一女学校に行かせてもらえたらしく、単に士農工商とかいうファンタジーではくくる事が出来ない場合が多い。
家庭環境の違いは生まれによって確かにあり、教育の質は当然大きく変わってくる。
また、「武士の家系」という代々受け継がれる「イエ」の物語が作り出す誇りと自信も大きいのかもしれない。
千葉県の某所にやはり「武士の家系で・・・。」という誇り高き地主タイプの方がいらっしゃいました。
その方の家はやはり小田原北条家に仕えていたとの事でしたが、なぜか江戸時代を通して武家として、徳川から本領を安堵されていたとの事。
何だろうな・・・。と思い調べてみると、何の事は無い、北条家に仕えながらも徳川家と内通をし、小田原征伐では豊臣側に付く代わりに、本領安堵の約束をしていたという(うろ覚え)。
「武士の家系」物語が作り出す誇りというものも、割と中身の無いものである。
(ただし、これも一つの歴史であり、武家としての「イエ」の歴史を守る、という意味では尊い決断なのかもしれない。)
教育の質に関しては、言わずもがなであるが、近代的な教育と人材登用システムが構築されてからはそのシステムをよく理解している事が肝心なのは当たり前で、
教育水準の高い家には、良い教育方針と良い物語が備わっているのかもしれない。
「物語」によって得られた誇りを胸に、立身出世を志す感覚が備わっているかどうかは大きい。
教育の機会も家庭の経済状況などに左右されてきたが、時代とともに様々な仕組みが生まれてきた。
貧困を理由とした教育機会格差の問題は、薄められてきた。「志」の教育を出来ているかが大きいと思う。
最後に大事になるのが、攻略法教育。つまり「受験」というペーパーテスト人材登用システムの攻略法を伝授できるか否か。
現代の引きこもりの人々は、高い志を母親、あるいはテレビや漫画から植え付けられてきたのに、
攻略法を持たないのでその理想と現実のギャップで屈辱感にまみれて腐っていく。(かなりもったいないと思う。)
そして、教育とは代々受け継がれるもの。早く気づいた方が有利なのは、間違いない。
明治時代から気づいている家庭もあれば、最近気づき始めた家庭もあるだろう。
①姉歯物件は大震災でビクともしなかった ⇒http://spotlight-media.jp/article/50466214100990319
②大震災で配管が断絶した(つまり、建物がそれなりに地震で変形した)ものもあった ⇒http://blogos.com/article/92808/
の両方の主張は、いずれかが全数調査を行っていない限り「ウソを言ってないというレベルでは」「自分が調査した範囲では、という但し書きの下では」同時に成り立ち得るが、あまり意味が無い。
東日本大震災は、地震そのものの揺れのレベルは非常に小さかった。ここで言う「揺れのレベル」というのは「一般的な建築物を揺らす能力」という意味だがこれは震度を意味しない。震度が高くても建物が全く壊れない地震もあれば、震度が低くてもメチャメチャに壊れる地震もある。この辺は高校か中学で習う「共振」を思い出せば何となく理解できるんじゃないだろうか。要するに地震そのものの持つ周期と建物が持っている周期が一致すればより建物は揺れやすくなる。建物と共振しやすさは、震度の計算にあまり加味されていない。これが東日本大震災で「揺れのレベル」が小さかった、と書いた理由だ。
この前の震災では地震の継続時間が長かったから超高層ビルがめちゃくちゃ揺れたとかニュースが流れたが、一般の建物を崩壊させるほどのパワーはほとんどなかったと見ていい。
もちろん局所的に地盤が軟らかい土地などでは大きな被害を受けた建物もあっただろうし、もちろんその逆もあっただろう。
要するに地震そのものに対する認識が雑だと、この種の議論はまったく空転するのである。いくら建物が強かろうと、それを上回る程度の「揺れのレベル」の地震が来れば壊れるだろうし、逆に弱小建物も「揺れのレベル」が小さければ壊れないのである。
長谷川豊が言っている、
当時、震度5か6でパターンと倒れると報道された姉歯元1級建築士が設計したマンションは果たしてどうなっているのか?!答えは…
ビクともしていなかった。
当時、姉歯氏はこう語っている。
「耐震に関してはかなりの強度を保っておりますし、震度7や8にも十分耐えられるはずです」
そう、関東地方にある姉歯物件は実はフジテレビ関係者も住んでいた。お台場にあるフジテレビ本社にはかなり交通の便の良い所に姉歯物件が存在するのだ。ちなみに、それらの姉歯物件だが、少なくとも僕の知る限り…
1棟もヒビ一つ入っていない。
国土交通省省の定める耐震強度がそもそも、あまりにも強すぎる設定になっているだけで、姉歯氏の計算通り、1000年に1度の地震が来ても、彼らの物件やマンションはビクともしなかったのだ。
は、まったく地震に対する議論が雑である。専門家ではないので仕方ないかもしれないが。地震に対する言及は
・1000年に1度の地震 ⇒ マグニチュードはその程度の頻度になるかもしれないが、マグニチュードは揺れの強さではない。「揺れのレベル」も表さない。
・そもそも震度8などない(最大で7。姉歯の言葉の引用のようだが。)
だけである。上でも書いた通り、震度7でもまったく建物が壊れない場合もある。
では逆に、震度5で姉歯物件は倒壊しうるか?と言われれば、「倒壊しうる」と俺は答える。
http://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/kyoshin/kaisetsu/comp.htm
上記を参照すると、震度5強で周期1.0秒(建物の周期に近いところな)だと加速度は100gal~200gal程度だろうか?(重力加速度は980galなので重力の1/10~1/5の「地面の揺れ」)
建物に「地面の揺れ」が伝わると加速度は増幅される。その倍率を仮に1.5だとする。そうすると建物に作用する加速度は100gal~200gal×1.5で150gal~300galだとする。
通常建物は重力の0.5倍の加速度(490gal)で倒壊しないよう設計されるとして、それが耐震偽装により半分まで落とされた場合どうなるか?
490gal×1/2=245gal
これが耐震偽装された建物の耐えられる加速度だ。地震によって150gal~300gal程度の加速度が作用したら?
安全率、建物の劣化程度、局所的な地盤条件その他諸々条件を考慮したとしても、「倒壊し得る」という答えが妥当だ。100棟あれば少なくとも1棟くらいは倒壊する可能性が高い。
そんなような簡単な計算に基づいた推測からすると、姉歯は相応に叩かれるべきだったと思うし(叩かれ方は妥当ではなかったと思う。それは同意できる。)、姉歯物件は震度5強でも倒壊し得る。
長谷川豊は「あの姉歯物件は東日本大震災でビクともしていなかった。」とあくまで特定の地震に対する結果のみに限定しているとはいえ、姉歯物件が安全であるかのような書きっぷりにはやはり納得がいかない。
関東地方に関する学習の時間コマ数は、九州地方や東北地方の時間コマ数と大差ない。
確かに面積的には、或いは歴史的経緯的には、都道府県数的には、
「各地方ともに、均等な時間割り振りで学習する」のが正解だが、
北海道地方や四国地方に関する学習時間より、長く確保しても、「GDP的には」不思議ではない。
「埼玉県や千葉県について、学習する内容なんて、そんなに出てこないだろう」というのは、
例えば圏央道毎に進出している物流倉庫とか、アウトレットパークとか、
各種企業の研究機関(例:ホンダの狭山)とか、北海道経済や四国経済より
⇒従来、各地方について2コマづつ、均等に割り振って学習しているのであれば、
メディア制作会社のほとんどが首都圏にある事もあり首都圏の情報が全国に多く報道されるが、
まず首都圏とそれ以外の地方がどのような構造と関係になっているかを理解する必要がある。
皆が東大・有名大企業に入れる訳ではなく、皆が東京でしか成立しないようなマニアックな分野に関心がある訳ではない。
メジャー分野に入り込むことが出来ないからマニアックあるいはニッチ方面から切り込むしかないという点ではマニアタイプは養分タイプの派生なのかもしれない。
マニアあるいはニッチという分野は一般にメジャー分野のおこぼれ、一過性の流行によって発生するものであり、
地元の旧帝大国立大に落ちたから上京してマンモス私大に行った。地元で希望の仕事にありつけないから上京した。
言葉を選ばずに直接的な表現をすると”地元での生存競争に敗北した”のである。
地方の勝ち組は東京の勝ち組より能力的な意味でのレベルは低い。
相対的に競争が緩いので能力値を過剰に高める必要がないからである。
大学受験で例えると、北大より東大のほうが難しいのは言うまでもない。
大学受験ではなく、地元にいてもパッとしないから東京で逆転を狙うという
抽象化された基準がよくわからない可視化しにくい話になると多くの人は上記の簡単な理屈もわからなくなる。
地方の競争で勝てなかった能力の人が東京の競争でおいしいポストを獲得出来る訳がない。
しかし東日本大震災が終わってからも首都圏への人口一極集中は止まらない。
客観的に他者から見た能力値は高くないが、自己愛と自己評価が高く見栄と外見と評価を過剰に意識するパーソナリティを持った人間は
特に田舎であるほど多く、そのような人間が養分タイプ首都圏民として最も適性がある。
お金がある人=全国レベルでの競争で成功を収めた勝ち組タイプ首都圏民のことである。
お金がない首都圏民=養分タイプ首都圏民はどうなのか? 実は地方民より人生の質(quality of life、QOL)は低い。
地方では公立教育機関が強く、首都圏では私立の教育機関でなければ難関大学に合格する事は難しい
都道府県・地域別有効求人倍率 (千葉・埼玉・神奈川の有効求人倍率は実は全国最低水準である)
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002pf1g-att/2r9852000002pf87.pdf
旧帝に勝てない東工大
http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/27_kdata/index.html
研究者が所属する研究機関別 配分件数 上位30機関(平成24年度 新規採択分) 10ページ
http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/27_kdata/data/haibun-mext_241026.pdf
現実を見たくないから地方(なぜか養分タイプ首都圏民にとっての”地方”は寒村や離島だったりする)を
意識的に、あるいは無意識的に自らより下位の存在として位置づけて「地方に住むよりマシ!地方に住むよりマシィィ!」と自分を信じこませている。
電通その他のメディア制作会社からマーケティングで煽られて、本来必要のないものを買わされたり、しなくてもいい行為をさせられながら
(政府・企業からのマーケティング実験、勝ち組から過大に搾取される過酷な環境にどこまで耐えられるか絶えず実験されている=まさに人体実験都市圏である)
関東と関西は昔はよく比較されたものだが一極集中が進んだ関東は”関東地方”ではなく”首都圏”と自称することが多くなり、
関西みたいな田舎と比較するなウゼェ!という反応をすることが一般的になった。
表面的な部分だけ見て田舎と切り捨てる関東民も、東京は大阪にタンコブがついた程度の都市であると考える関西民も
現実と統計が読めない無知である。関東民は”見た目の”統計を見て等身大の関西を見ているからまだマシであると言えるか。
(大阪都など、やたらと”東京になりたがる”大阪の某市長はそう言えば数学を捨てて私大洗顔で早稲田に行った人だった)
関西は関東と比較して所得が低く、街の風景も一部を除いては変わり映えがせず古臭い。
それもそのはずで、若いうちから女性の人口が男性より多い。 不詳あん分に用いた平成22年国勢調査の人口 http://www.stat.go.jp/data/jinsui/9.htm
女性の賃金は全体的に低めなので http://nensyu-labo.com/heikin_kaisou.htm
関西は貧乏人が多いと決めつけるのは早計である(親元暮らしが多く可処分所得を自分のことに費やしているため、独身女性はむしろリッチである)
(ヤリマンが多い関東 http://2r.ldblog.jp/archives/3341243.html と処女が多い関西? http://anond.hatelabo.jp/20130124013141 これは希望的観測w)
というふうに
それぞれの要素があまりにも対称的なので比較されるのであって、規模を比較されているのではない。
大学受験は国公立大学が普通で、国公立に落ちた人がしぶしぶ通う私立大学は例外
結婚するなら女性は処女が普通で、非処女は性犯罪や不幸な恋愛を経験した女性を許容する例外措置
中小企業がどれくらいあるかご存知でしょうか?
なんとその数は約430万社、日本の企業数の99.7%、雇用の約7割を占めます。
http://www.meti.go.jp/information/recruit/keizai/chuushoukigyou/01.htm
そのため、本来の”例外”が力を持って原理原則を見失い、何が普通なのかわからない人が首都圏に大量発生する。
それが拡声器の役割をするメディアに載って全国に撒き散らされる構造をしている。
首都圏発の情報は割り引いて受け取ったほうが良い。常識や原理原則はテレビ雑誌インターネットの記事になく、
「常識」や「原理原則」は”多数派の人間たちがとっている手段や価値観”と考えるとすると、