はてなキーワード: 自尊心とは
小さい頃からよい子であるように育てられた。私はもともとの気質として依存的なところがあって、あらゆることを一人で判断するのが苦手であるし、自分の感情よりも他人から褒められることを優先するべきだという考えが染み付いている。良い子でいることは楽で、自尊心が満たされる行為だった。今までの人生でゆっくりじっくりと「よい子の呪い」を自分にかけながら生きてきたのだ。
大学受験が迫ってきたとき、将来は直に人のためになるような仕事に就きたい。結婚も出産もしたいと思った。だから医療系の資格を取ることに決めた。
大学に通う中で辛いことや、この仕事をやっていく自信を無くすことは何度もあったが、勉強していく中で「これが一番やりたいと思える仕事だ」と感じられるようになった。結婚しても、出産しても、仕事を続けたいと思った。
一方で、私はそもそも結婚したいのか?出産したいのか?という、今向かって行っている方向を全否定するような疑問が湧くようにもなった。小さい頃から父親に、「結婚出来ない女はかたわと一緒。」「○○ちゃんは早く結婚すると思うな。」「○○ちゃんは嫁いでいくから…」「勉強なんか出来なくていいから男を見る目を磨け、家事を完璧にしろ。」と言われてきた。私は、父に 結婚するのが当たり前であるという父の考えを刷り込まれているから結婚しようとしているんじゃないのか?父に馬鹿にされたくないから結婚したいんじゃないのか?父に「女は結婚したら仕事をやめるものだ」「女は家事が出来なきゃいけない」「俺は男だからいいけど…」など、男だから、女だから、と言われるのが嫌で仕方なかったのに。私は本当に結婚したいと思っているのか?
結婚しても仕事をするって、当たり前のようにやっている人もいるけれど出来る自信がない。(私は物事を同時に行うキャパが小さい。)今 付き合っている恋人は、「自分は古き良き日本男子だ」とか「俺は家事はできないから」なんて言っているし、いつも夜遅くまで仕事をしているから率先して家のことをやってくれるとは思えない。
ずいぶん脱線してしまった。よい子の呪いがかかっていることで、結婚したいという気持ちが、自分の本当の気持ちなのか 親を安心・満足させるめなのか判断がつかないのだ。もし私が結婚しなかったら、父は私を罵ると思う。馬鹿にすると思う。それは嫌だ。結婚したら、出産を望まれる。恋人も子供が好きだ。でも結婚して出産したら、父は仕事をやめろと言うと思う。私は仕事を続けたい。でも仕事と家庭を両立するようなキャパはない。実家に帰るたびに仕事をやめろだとか子供を作れだとか言われてはかなわない。子供を産んだら今度は、子供が可哀想だから仕事をやめろと言われるだろう。何をどうしたって全てが丸く収まることはないのだ。
はじめに、これは私の醜い心の内を整理する為に書くものだと明記しておきます。
今日、2年描いた自ジャンルから撤退して、推しカプを描くのをやめることにした。
私は同人活動をしている。インターネットでぽちぽちサイトをつくって遊び出してから、同人誌を制作している今までを含めて大体10年ぐらい。カウンター機能やアクセス追跡機能をつけてもアクセスしているのは自分だけ、という時代を経て、ピクシブで小説なり漫画なり描けば、ランカーとまではいかなくても、タイミングが良ければランキングに載るレベルの評価を貰えるようになった。
私が今日まで描いていた自ジャンルは、オリジナルアニメ作品で、規模としてはかなり大きい。その上、その作品のカップリングの中でも、二番手人気のカプにハマったので、書き手も読み手もかなり人口が多かった。特に、初期は書き手も少なめだったので、その頃ピクシブに投稿された人気作品には、10000単位でブックマークがつくほどだった。
私の漫画にも、10000以上のブックマークがついた。そのカプにハマってから初めて描いた長編漫画だったので、思い入れを込めて描いたものだった。そこから、フォロワーが2000人ぐらい増えた。それ以降、私がピクシブに投稿した作品は、必ず1000以上のブックマークがついた。
もちろん、ジャンル効果なのは分かっていた。漫画が評価されたけれど、私は決して絵が上手いわけではない。元々小説を書いていたから、ある程度ストーリーをつくり慣れていただけで、褒めていただけるのは話の内容が殆どだ。更に、その頃の推しカプ作品では10000ブックマーク越えなんてざらにあったので、今改めて当時の投稿者たちにランクをつけたとしたなら、私は中の下ぐらいだろうなというのが本当のところだった。
実際、イベントに出たところで、新刊は売れてもせいぜい100冊。他の参加者が新刊完売と嬉しそうにツイッターで報告する中で、私が新刊を完売したことは一度だけ、それも100冊だ。
そう分かっていたけれど、それでも、嬉しかった。
元々同人活動よりも早く、インターネットで作品を投稿するばかりだったので、お金を払って本を買ってもらうよりも、私は、自分の作品を読んでほしかったのだ。読んで、ブックマークしてもらって、タグ付けでもコメントでもメッセージでもツイッターにリンクを共有して一言添えるでも何でもいい、出来れば感想が欲しかった。
それが、自ジャンルに来て変わった。私の作品を好きだとメッセージをくれる人がいれば、イベントで面識もない私の為に手紙を書いてきてくれる人がいて、更にはメッセージで「翻訳する為に転載させてほしい」と拙い日本語で断りを入れてくる人もいた(これに関しては二次創作、腐向けなのもあり、丁重にお断りしたが)。
私の、私の為でしかなかった作品を、好きな人が沢山いる。おそろしい喜びだった。私の、推しカプに対する熱を表現する為の作品づくりは、いつからか、その人たちの目を気にし始めた。
ツイッターの存在もそれに拍車をかけた。ツイッター上には、推しカプの絵を日々量産しては、1000RT、10000RTを稼ぐような人たちがかなりの数いた。更に、ピクシブで人気のある投稿者は、おおむね1000人以上のフォロワーがいた。
しかし、私にはそれがなかった。元々、ツイッターであまり呟かない性格だし、上記の理由で、絵も全くと言っていいほどに描かない。ツイッターに上げた10RT程度の漫画が、ピクシブに上げた途端1000ブックマークつく、というのが私だった。
羨ましくて、絵を描く用のアカウントをつくって、そこで毎日むりやり描いたが、100RT程度が限界だったので、打ち止めた。
そんなふうに数字を気にしているうちに、周囲に敵対心までもがわき始めていた。
くわえて、推しカプはアニメ(原作設定)で現代に生きる兄弟なのだが、パロディというか、パラレル設定も多い。アイドル設定もあれば、妖怪設定もある。更に、アニメが終わってからは、アプリゲームのパラレル設定からしか供給がなかったので、溢れるほど派生がある。
けれども、私は、原作である本来の兄弟の推しカプ以外、何一つ萌えなかったので、兄弟の推しカプを永遠と描いてきた。しかし、書き手が多ければ似たような話が増えるのも仕方なく、そのうちに、推しカプ内ではパラレル設定が次から次へと流行り、もてはやされるようになった。
敵対心というよりは、山月記風に言えば、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」というやつなのかもしれない。好きな書き手がいても、自分より評価されているのが――それも自分の好きではないパラレル設定で――が悔しく、また、ツイッターでフォローしても他の人のようにフォローバックしてもらえないのが恥ずかしく、私はとうとう、ピクシブで絵を描く他の人の作品を見れなくなっていった。
そうなると、自然、イベントに参加しても、ほとんど交流することがない。数少ない仲良くしている人がその場にいなければ、もう、ずっとスペースに座っている他ないのだ。
それも、盛り上がっている初期の頃ならよかったのだろうけれど、アニメが落ち着いてからは、目に見えて右肩下がりだった。同人誌が売れない。差し入れが減って、手紙どころか、ピクシブでメッセージも貰うことはない。私を好きな人と交流したくて、ツイッター上で自家通販をしたけれど、申し込んでくれた3人中2人に連絡なくキャンセルされた。新刊の告知ページに、コメントはつかない。私の本の通販の有無なんて、もう誰も気にしていないのだ。
描く意味があるのだろうか、と思ったことがショックだった。描き始めたはじまりは、間違いなく、私がこのアニメを好きで、このカプが好きだ!と思ったから、描いたはずだったのに。いつからか、人に褒めてもらう為に描いていた。作品ではなく、私を見てほしくて描いていたのだ。
私の本を買いに来てくれる人がいる。本を買ったあとから、以前に出したこの本が好きでした、と直接一言くれる人がいる。
でも、私は、それでは足りなかった。ごめんなさい。
WEB拍手やask、質問箱、いろんなツールが流行したけれど、そのどれもに手を出さなかった。同人誌の奥付にもつけたことはない。手を出すべきだったんだろうか。私も、他の人みたいにツイッター上で返事をしてみたかったけど、もし誰もメッセージをくれなかったら、どうしたらいいんだろう。
自ジャンルが好きだ。推しカプが好きだ。自分の描く推しカプの話が好きだ。でも、そんな気持ちで描き続けて、疲れてしまった。だから、今日でおしまいにする。
同人自体はどうせ辞められないけれども、次に何か描くのはまた気が向いたらにする。そうじゃないと、いつか誰かにとんでもない迷惑をかけるような気がするので。
彼に二択を迫ったのだ。
まず別れてほしい。そしてその時に、私を選ぶか、奥さんを選ぶか決めてくださいと。
そして、仮に前者だった場合、離婚するまでは会わないので、離婚をしてきてくださいと。
世間体がどうとかいう問題ではなく、セカンドとして生きていることでこの数年自尊心が日々削られていた。そのことは最初はわかっていなかったが、ここ一年ほどでぼんやりと形が浮き彫りになり、彼に決断するように伝えた。
でも、こうやって文章にするとどうしても私が甘いような気がしてしまう
別れたとして、彼に私を縛る力はないのだ。
だから、とりあえず別れる。その後は知らん、というのが正解なのかな。
ちゃんと本気でやってくださいって言っちゃって。
まさかあれで全力でやってるなんて思えなかったんだ。
オマエこの案件は手抜きしているだろう?と問い詰めたくなる
レベルだったんだぜ?
そのちっぽけな自尊心とやら、踏んづけちゃってごめんな。
とある業界の仕事が好きで長年続けていたのだけど、最近になって会社を辞めた。
理由は職場環境にある。どんなに自分が誇れる仕事でも大好きだと思ってやってる仕事でも、環境が地獄だと心が死んで好きなものが嫌いになってしまうことを実感した。
文章下手かもしれないけどとにかく言いたいのは、職場の環境に悩んで死にそうになってる人はガンガン転職していいってこと。特に人間関係は経験上一度もうダメだこの会社と思ったらどんなにそこで頑張っても自分がしんどくなるだけ。社内に味方がいないというのはとてもつらい。
どうやって心を殺されていったか、手順はこうだ。
まず所属していたチームのヒエラルキーが問答無用で最下位。そのチームというだけで雑な扱いをされるもんなんだけどまずその風潮がおかしいってことにどうして誰も気づかない。自分の挨拶は無視されるのに先輩の挨拶は通る。社内での露骨な差別。
「お前が死んでも代わりはいるもの」とばかりにオフィス内全体が雑。自尊心がなくなる。
あれ?みんなにこのチーム丸ごと見えてない?あれ?みたいなことはもちろん日常茶飯事。集合写真でも当然のようにはぶられる。自尊心がなくなる。
わからないことは上司や先輩誰に聞いても知るかよと言われるので頼りにせず全て自力で解決。むしろ人に頼ってはいけない、自分は人に頼るダメなやつと思い始める。自尊心がなくなる。
タイムカードなにそれ?シフト制だけど希望休なんてものはないし有給なにそれ?朝は誰より早く出社して全員が就業時間ぴったりに仕事を始められる準備をするのが当然になってくる。し、誰にもそれを止められない。タイムカードはデジタルだから改ざん可能だやったね!
さっきも言ったけどシフト制だから突然休むとチームの仕事が回らない。張ってでも行く。
祖父が亡くなった朝、その日はチームの仲間が全員休みで自分がいないと仕事が回らないからと出社した。判断力が狂ってる。
結局早退して次の日会社に行くと、お悔やみどころか昨日お前が帰った後大変だったと先輩上司からのバッシング。みんなじーちゃん大事にしような!
そうしている間に上司は有給使って海外旅行とか行ってたなぁ……お土産みんなには配ってたなぁ……
エクセルで写真編集しろ?ポスター校正?それは専門の業者に発注したほうがいいっすよ先輩!!!やりまぁす!
上司のミスなのにしこたま怒鳴られていやあなたのミスですよって指摘しようものなら無言の圧力!いや今自分のミスって気付いたやんけ謝罪なしかい!!もういいよ甘んじて受けますよその説教。自信なくすし自尊心もなくなる。
評価などされない。体調不良なら冷えピタしてレッドブルかっこみながら仕事するのが当然、心配はされない。クレームの電話と小一時間戦い受話器を置いた後でも周りは我関せずと静まり返る。お疲れ、の一言があれば救われただろうに。
他にも都合のいい時だけ都合のいいように使われる奴隷のような扱いを受けてきてあーそうか透明人間だからみんなには見えてないんだーとか聴力を一切シャットアウトしてパソコンに没頭したりと無心じゃなきゃやってられないぜって感じだったわけで、そうなってくると自然と自尊心がなくなる。
自尊心がなくなる。
唯一お互いに仲間であるはずのチーム内でも亀裂というかなんというか生まれてくるわけだ。みんなも奴隷のように働いているから自分の保身で精一杯で人を思いやる心を忘れてしまう。
半年で4人の奴隷が辞めていった。4人で回すチームなのにね。確かに誰かが死んでも代わりはいたけど短い人3ヶ月持たなかったね。みんな毎日泣いてた。
こうして味方がいなくなり、自分自身にも自信がなくなり、そんな状況で働いてもうまく行くわけもなく社内で一番何もできないダメ人間と自分で自分の評価を落としてしまう。自尊心が消えた。
ただ仕事は好きだった。濁しまくっているからこの感動をうまく文章で伝えられないのが悔しいけど社内で評価されなくても自分の仕事は別のところで活きてると知っていたし、どんなに自尊心をなくしてもこの仕事が好きだということだけがモチベーションだった。
でも心を殺された先駆者が口を揃えて言うように、心が削れて死んでいくと、好きだったものが好きじゃなくなってしまう。
嫌いになると言うより興味をなくす。貴重な休日に外出する気力もなく布団に引きこもるし新しい情報を収集する気が起きない。自分で自分がおかしくなってることに気付いているのにどうしたらいいかがわからない。原因は明白、だけど仕事をしなくちゃならない。仕事をしなくちゃ。会社に行かなくちゃ。
そうだ、考えることをやめよう。
ただただ朝起きて会社に行って仕事をして帰宅するそれだけに全生命パワーを注がないと人としての形を保っていられない感じになってくる。友達からのLINEとか返せるわけがない。Twitterも見ない。
毎朝の通勤で泣きながら歩き、帰りも泣きながら歩く。普通じゃない。けどこの時はもう自分が悪いからこうなってるんだと思ってる。頑張るしかないと思ってる。
頑張ってもどうにもならないこともある。
この仕事を嫌いになる前にもう辞めようと決心して上司にどれだけつらいか、この環境がどんなにおかしいか、自分以外のチームの全員が精神的に参っている、訴えたけどうわべだけの「そうなるまで気づかなくてごめんね」をもらった。そう言われるのは知ってたよ先に辞めていった綾波達もそう言われてたからね。マニュアルかよ。この人たちには血が通ってないんだ。
もっとつらい環境で仕事してる人もいるとか、その程度で泣き言かよとか、そうじゃなくて自分が今しんどくて死にかけてるんだったらそんなところ居る必要ない。
仕事辞めて転職して、めちゃくちゃ心が回復したし好きなものを好きだと思える毎日は楽しい。新作映画のチェックをする余裕もあるし休日無駄に美術館とか行っちゃう。楽しい。
毎日地獄のように過ごしてて正直ずっと仕事辞めたい辞めたい辞めたいってなってる人はある程度自分の人生に無責任になって一旦放り投げるのもアリだと思う。死にながら毎日を消費するよりずっとマシ。
少なくとも仕事辞めて転職して生き返った人間がここにいる。職種も違うけどこれはこれで楽しいから逆に視野広がったしキャリアアップである。仕事辞めてもなんとかなるよ。
あと社内に味方がいなくても誰かしら味方はいることを忘れちゃいけない。それが家族なのか友達なのか知らんが頼れる人には甘えていい。
どうでも良いけどなんのための社内義務ストレス値チェック診断なのか。あれかなり数値オーバーしててお前の精神状態ヤバいぞってメールバンバン来てたけど医者にかかろうとすると内容を会社側に開示するシステム、プライバシー皆無すぎて自己申告できるわけねぇーーー
仕事は大事だけど自分の心身よりも大事な仕事はないと思った。以上。
長いのに読んでくれてありがとう。
もう全部剃るとか脱毛するとかそういう感じにして全部無くしてツルッツルにしたい。
別にパイ◯ンが性癖とかそういうんじゃなくて、ただ単に脇毛とかそういうムダ毛処理の感覚で鬱陶しいから無くしたい。絶対無い方が快適だと思うんだよ。
でもアンダーが鬱陶しいのと同時に自分は凄まじい大浴場好きだ。近所のスーパー銭湯とか、温泉とか、そういうところが大好きで結構な割合でよく行く。日帰りでも泊まりでも行く。日々の癒しだ。
でもそういう人目があるところに出入りする時パ◯パンってどうよ?????ってなってしまって、結局やめとこってなってしまう。私そういうところでパイ◯ンの人見たことないし。
確かに炎上した元ツイートはどうしようもないその人の特性(男であること)で排除している点で差別だと思う。この人からはそんなに感じないけれど、この人を擁護する意見には、それは流石に男憎しがすぎて論理的ではないのでは…みたいなのもちらほら見受けられたし。
でも現実性なくない?とか、犯罪みたいな都合の悪いことを全部男に押しつけて女同士で起こる可能性考えてないのかよ、みたいな反論はあまりにも的外れだと思った。
そもそも元ツイの人は男が全部悪い!という意味じゃなくて、性犯罪の面で、ただ一部の危害を加えてくる人のせいで全ての男の人にビクビクしないといけなくて辛い。いつ何されるか分からないからいつも気張ってないといけなくてしんどい。疲れた。みたいな、愚痴まじりのつぶやきだったはずなのに、え、公用地ですか?インフラは?っていうのが論点になっているのが謎すぎる。そんなの明日会社行きたくねー!爆発しろ!みたいなつぶやきに、爆弾自分でつくるんですか?そんな知識あるんですか?入手経路はどこから?って返すのと同じでしょ。
あと、男全員を悪者にするなよって意見は本当にその通りだと思うんだけど、どうしても女の人は警戒しなきゃいけないんだよ。別に男が嫌いな訳じゃない。少なくとも自分は。自分は恋人もいるし、話してて楽しい男友達もそれなりにいるけど、やっぱり夜道で後ろに人がいたら速歩きで距離取ろうとするし、知らない男の人に話しかけられたら女の人に話しかけられるより冷たい態度をとってしまう。それはやっぱり、一部の男の人に当たり前に危害を加えられるからであって、その人が危害を加えてくる人か分からないから。例えば、街を歩けば強引にナンパされて、断ったら死ねよブスって暴言吐かれて。女性専用車じゃない車両に乗ったら痴漢されて。ヒトカラしてたら男子大学生の集団がいきなり入ってきたり、夜道で家まで送りましょうか?って声かけられたり、3万でどうですか?って急に言われたりして。全部自分が経験したことだけど、電車の中で痴漢されて精子鞄にかけられたり、スカートの中盗撮されてた友達たちも居るから自分はまだマシな方なんだなって思う。こんな一回されるだけで自尊心がボロボロになるような経験が、女子会で笑い話として消費できるくらい日常的なことになっている。
そんなしんどい毎日があるからこそ、多分女の人が男の人を警戒するのは、小学生が変質者避けの為に大人全員を警戒するのと一緒で、もちろんいい人が99%なのは分かってるけれど、目の前にいる人がもし残り1%だったら?と疑ってしまう。本当は男か女かなんて意識せずに暮らしたいよ。こんにちは、って言われたら笑顔でこんにちはって返したいし、夜後ろで人が歩いてたら、純粋に今日もお仕事お疲れ様って心の中で思いたい。たまに街で道を聞いてきたおじさんに、ありがとう、助かったよ。とか言われると罪悪感でいっぱいになる。ああ、なんでこんないい人疑ってしまったんだろうって。人を信じられないってなんでこんなにしんどいだろう。
この件で、男の人はなんで理解できないんだ!というつもりは全くない。だって本人の経験してないことはやっぱり理解しづらいと思うから。自分だって他のマイノリティの人達のつらさは本質的には理解できてないと思うし。でも、この女だけの街のツイートへの反応に、女の人がいつも感じていないといけないリスクのことだったり、行動が嫌でも制限されてしまうことへの言及が全然なくてなんだか虚しくなってしまった。マイノリティがする差別は綺麗な差別、なんて言うつもりはないし、擁護するつもりもないけど、実現性とか排除の論理とかの話をする前に、どうしてツイ主がこんなツイートをしたのか考えてほしかった。少しでもいいから言及してほしかった。皆で関係ないところで叩きあって、どんどん断裂を深めていって。多分ツイッターで議論してる人たちにとっては、この女特有のしんどさは議論する価値もないどうでもいいことなんだなって、別に特筆すべきこともないし心を痛めることもない被害妄想にすぎないのかなって、きっとこのまま無視されて明日も明後日もこんな日々が続くのかなと思って絶望した。本当につらいんだよ。助けてよ。でもこんなこと言ったら、女は何かをしてもらうのを期待してばっかで何にも自分で行動を起こす気ないじゃないか。結局特権階級が欲しいだけじゃないか。って言われそうで言えない。
どっちが好きかという話
学力、運動、外見、行動について、あれだけ比較される時期は人生で他にない
努力は皆多かれ少なかれしてるんだ
だから、学生は理不尽な、あるいは理不尽でなくとも現実を突きつけられるような自尊心との喪失と戦わなければならない
翻って社会人の良いところは、それぞれ少しずつ別の仕事をしているところだ
全く同じ存在、しかも年齢まで同じな者が一箇所に居るというのはあまり存在しない
例え仕事仲間が自分より優秀でも、逆に劣っていても、お互いの得意分野ではそこそこ戦える状況になる
例えば、月あたりの生産高が500で、社内の順位が100人中90位、1位の生産高が1000だったとする
これはとても悔しいけど、500分の給料を貰うと考えると納得ができる
500というのはある程度絶対的な値なんだ
これが学生だとこうならない
テストの点数が500点で、学年の順位が100人中90位、1位の点数が1000点だったとする
500点というのに意味が生じない、あくまで90位という相対位置だけが重要視される
また、90位じゃなくて例えば10位でもそれほど嬉しさがない
実際、中学生の時に150位/250人から20位/250人に上がったことがあるが、嬉しいのは1ヶ月だけで
あとは「上の19人に比べてどうか」「前回より良かったか悪かったか」という相対的発想にしかなれなかった
集団生活の秩序という名目のもと、一部以外は全て同じであることを求められる
すると、どうしても皆残りの違いに注目せざるを得ない(学力、運動、顔立ち、体格、性格、行動)
私はハゲている。
毛は勝手に生えてくるし勝手に抜ける。生えてほしいところには生えてくれないのに、要らないところの毛はやたらと伸びる。
自分の体に生えている一番長い毛は乳首の横に一本だけ生えているチーくん。もはや友達だ。大切に伸ばしている。
女性が脱毛にお金をかけるのは自分のコントロールの効かない部分を制御するためなのだ、という文章をどこかで読んだ。たしかに自分も自分のコントロールの効かないハゲに頭を抱え、更にハゲを助長させている気がする。
ハゲはつらい。部下の女性と目が合わず、彼女の目線が上の方に行くのが分かる時が何よりつらい。風が多少なりとも吹いている日は前を向いて歩けない。濡れるとさらに悲惨だ。海やプールへの誘いを一体何年断り続けているのだろう。ちなみに私はまだ20代なので、同僚たちのフサフサで艶のある髪を見て自尊心が傷付けられる。
ちなみに皮膚科に通っている。肌が弱いのがハゲの原因の一つにあるみたいだ。でも治療の成果が出ている気はしない。AGAについても調べたが、薬の副作用が怖いなと思って以来気が進まない。スキンヘッドにする勇気はまだない。頭の形が悪いし、頭皮に湿疹があるからできるだけ隠したい。
その人類は毛が一本も生えない。その代わり、オシャレカツラ産業がとても盛んだ。人々は自分をオリジナリティ溢れるカツラデザインで表現する。カツラの色や形にも流行や世代があって、カツラを見ればその人がだいたいどんな人間なのかが分かる。
まつげやまゆげが無いのは目に悪い気がするから、目を保護するためのつけまつげ、つけまゆげが普及している。あとつけ鼻毛も。つけ陰毛で愛を表現する人たちなんかも現れる。
人類は毛をコントロールし、デザインし、肉体のすべての制御を手中に収める。人類がまだ制御できないものは死とうんこくらいだ。
そんな世界になったら、チーくんと離別することにはなるものの、ハゲによって磨り減った私の心は輝きを取り戻し、海に行ったり風雨の中を堂々と歩いたりできるようになるのだ。自分が制御できないもので判断されることは減り、我々は我々のことを自分の思うままにデザインすることができる。
でも、私は飽くなき人類の一員なので、毛の制御だけに飽き足らず、健康な肌や、凛々しい目や、高い身長に憧れて、それら全てを制御できる世界を夢見ることだろう。そんな世界での外見は、インターネット世界のアバターみたいなものなのだろうか。
だいたい皆同じような美しい体や顔を持っていて、派手な装飾品やありえない色合いで差異を付ける。しかしそんなアバターばかりが増えてくると、自分のありのままを受け入れる「自然派」が一番だみたいな主張をする人たちが現れる。
世界は「アバター派」と「自然派」と「中間派」に別れ、それぞれに所属する人間たちにはなんとなく特有の傾向が生じてくる。そして終わりのない論争が起きる。昼下がりのワイドショーでそれぞれの派閥に所属する人間たちが唾を飛ばし合う。
「人間は与えられたものを受け入れるべきだ」「いいや、与えられたものだけで生きて行くのに苦痛を感じる人だって居る」「自分が苦しいと思うものだけ改善すればいいじゃないか」そんな怒号が飛び交うワイドショーから『今日のわんこ』にチャンネルを変えるところまでを想像し終わると、私はいつも考えることをやめて、頭皮に軟膏を塗り、チーくんが今日も元気かどうかを確認する。
現代文の授業で山椒魚を初めて読んだとき、この捻くれ者は、私によく似ていると思った。だが決定的に違うところがある。それは山椒魚は世界の神であったが、私は神にはなれなかったという点においてだ。その違いとは些細なようであって、とても重大なことであると私は思う。それは、私が誰かの神に、世界になりたいのに、なれない不完全な出来の人間であるからだ。
まず前提として、この文章はすべて、井伏鱒二氏の短編小説である「山椒魚」を借り、私が私について語るだけの、極めて主観的でくだらないものであるということを示しておく。恐らく十八の人間が書く文章なんてたかが知れていると思うが、それでも私は山椒魚にとてつもない親近感を抱いているのである。それについて少しばかり、私が今まで思ってきたことを書けたらいいと思う。
まず「山椒魚」とは一体何かということを明確にしておく必要がある。山椒魚とは前述したように、井伏鱒二氏による短編小説である。山椒魚は自身の身体が成長しすぎてしまったことによって、住処である岩屋から出られなくなってしまう。外に出ようと幾度となく繰り返す山椒魚だが、それが叶うことはついになかった。外の世界を自由に生きる生物たちに嫉妬を抑えきれない山椒魚は、ついに悪党となり、山椒魚は岩屋に入ってきた蛙を閉じ込め、自身と同じ状況に追いやることで、自身の精神の安定を保とうとしたのである。蛙は屈することなく二匹は岩屋の中で激しい口論を二年にも及んで繰り広げるが、空腹で動けなくなり、死しか望めない蛙に対して、ようやく山椒魚は友情を感じるのだ。山椒魚は聞く。「お前は今、何を考えているようなのだろうか?」と。それに対し蛙は、「別に今でも、お前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのだった。
この山椒魚を初めて読んだ時の感想は、「二年も口論を繰り返していたのか」とそれに尽きる。だが数回これを読み深めていくうち、山椒魚とは、ただ友達が欲しかっただけの、普通の人間なのではないかと思うに至ったのだ。山椒魚には寓意が込められており、簡単に例えを出すならば「うさぎとかめ」のように、ほかの生物やもので真意や本質を遠回しに伝えるというものだ。私の中で山椒魚は普通の人間であるし、出られなくなった岩屋は肥大した自意識であり、蛙はそれらをすべてわかっていた人間なのだ。これらも前提に、本題へ入ろうと思う。
何故この文章の題名を「山椒魚は世界の神であるか?」にしたかは至極単純である。私にとって山椒魚は、世界の神であるからだ。もっと突き詰めて言えば、岩屋の中に閉じ込められた蛙の世界であり神であるということだ。まず先程書いたように、岩屋は肥大した自意識であると私は思っている。山椒魚はその自意識に閉じ込められた、或いはそこから出ることを拒んだ所謂可哀想な人間に過ぎない。蛙はその山椒魚の自意識を満たすため利用された、こちらも可哀想な人間であるという認識をしている。山椒魚は蛙を利用し監禁することによって、死の間際に、世界となり神となることに成功したである。
人間が人間の神になるために必要なことは、その標的からすべてを奪うこと以外に存在しない。山椒魚は蛙を自分の住処に閉じ込め取り入れることによって、蛙からありとあらゆる自由を奪うことに成功している。それがなければ山椒魚は神になれなかったし、もしかしたら山椒魚は図らずも神になっただけかもしれない。だがそれだけ、人間が人間の神になるということは難しいことなのだ。それが善悪のどちらに所属するかはまず置いておくとして、私はそれをやってのけた山椒魚を素直に尊敬する。山椒魚は悪党となることで蛙を閉じ込めたが、この時の山椒魚の心境を鑑みるに、標的が蛙であった必要はなかったのだと思う。よくニュースで聞くような、無差別殺人犯の言う「誰でもよかった」と同じように。ただこの「山椒魚」にとって、この蛙が蛙でなかった場合、二年間口論が繰り広げられることも、最後にようやく友情が芽生えることもあり得なかったのではないだろうか。
しかし、だからといって山椒魚が神であるということに相違はない。閉じ込められた蛙にとっては、憎むべき対象も、愛すべき対象も、結局は山椒魚しかいなかったのである。蛙は最後に「今でも別に、お前のことを怒ってはないんだ」と言った。それはおそらく、蛙自身も、山椒魚を神とすることで救われた一人の人間だったからだと思う。山椒魚が蛙を閉じ込めたとき、蛙は、閉じ込められた岩屋の中で堂々と「俺は平気だ」と宣言する。それは山椒魚を見くびってのことだったのか、それとも逆に、山椒魚ならば…という、敬愛の証だったのかもしれない。ただ私が思うのは、おそらく蛙も、もしかしたら山椒魚と同じような立場になっていた可能性があるということだ。メタフィクションのような話になってしまうが、蛙は山椒魚よりも体が小さいので、少なくとも岩屋から出られなくなってしまうということは考えにくい。なので、自由に飛び回ることのできる外の世界―要するに「山椒魚」の世界観で「社会」で、同じ立場になっていたかもわからないのだ。山椒魚は肥大した自意識から出られなったが、それはあくまでも人間の内側で起こっている出来事に過ぎない。自身の激しいナルシズムが引き起こす極端な自己評価と他者評価のギャップに悩み、それを見栄で隠そうとしたために発生した、ある種一時的な反抗期のような、よくよく考えてみれば、我々も通ったことのあるような道でしかないのだ。だが蛙は人間の内側でそれを発生させてはいない。人間と人間が大量に入り混じる、失敗の許されない、いわば監獄のような世界でそういった問題に悩まされていたとしたら、それはきっと山椒魚よりも可哀想で哀れな姿になっていたに違いない。山椒魚は蛙を閉じ込めることで、自身と同じ状況の人間を作成し、その結果精神の安定を保とうとしたが、それは蛙も同じだったかもしれないということだ。蛙は山椒魚に「わざと閉じ込められる」ことによって、可哀想な人間に捕らえられ逃げられない自分を作り出し、自分の社会に対する折り合いのつかない問題から逃げ出そうとしたと考えれば、最後の「今でも別に、お前のことを怒ってはいないんだ」というセリフにも納得がいく。
この文章を書くにあたって、自分の「山椒魚」に対して抱いた如何ともし難い薄気味悪さというのは、蛙によってもたらされた山椒魚への許しが生み出したものだと気付いた。小説であると一言言ってしまえば確かに終わりなのだけれども、例えば自分が身勝手な理由で他人に監禁され、しかもそこで死を迎えなければならないとなった場合、最期に相手を許すことが出来るものだろうか。それが愛する人や家族ならいざ知らず、どこの誰ともわからない人間にいきなり監禁された時点で、普通に考えて怒りなんて言葉では済まない。それこそ二年間によって繰り広げられた喧嘩でさえ、この最期によればおつりがくるほどだと思う。最初こそ「二年間も口論していたのか」なんて暢気な感想を抱いたけれど、少し考えてみたら、最期の蛙の言葉は、私にとっては最早呪いだ。もしも私が山椒魚だったとして、自分が閉じ込めた相手が死の間際に自分を許す旨の発言をしたら、嬉しさも喜びも何も感じることは出来ない。むしろ、「この人は今まで何を考えて自分の思い通りになってくれたのだろう」という不信感すら残ってしまうだろう。自分という一人の人間を殺したという事実から逃げるなよという、怨念のようなものさえ感じさせる。それを考えると、山椒魚が蛙を閉じ込めたというよりも、蛙のほうが、山椒魚を好きに操っていたようにしか考えられないのだ。蛙は山椒魚のことを、自分と似た人間だと思い、自身が社会に出たことで削られてしまった自尊心や自意識を回復するために、「わざと山椒魚と一緒にいた」ようにしか思えない。物理的にそこから出られなかったとしても、こころだけでも自由になることは出来たはずなのだ、山椒魚と違って自由に泳ぎ回ることが出来ていた人間ならば。だがそうではなかった。ということは、蛙は自由に泳ぎ回っているように見えて、その実、社会という檻から逃げられず、自分を肯定するために必死だった、ただの哀れな、普通の人間でしかなかったのだ。
最後にもう一度、これは私が井伏鱒二氏によって描かれた短編小説「山椒魚」を借りて書き殴っただけの、主観的で陳腐な文章であることを明記しておきたい。ここに書かれていることはすべて、私が勝手に作り上げた妄想であって、おそらく山椒魚には、これよりももっとポジティブなメッセージ(寓意)が込められていることだろうと思う。しかし私にとって「山椒魚」は、どうにもポジティブなものとは受け取れなかった。可哀想な人間が寄り添って、互いの削れた部分を埋めるために、互いの世界になろうとする。そんな常人には理解出来ない、孤独で閉鎖的でどこまでも自分本位な人間の本質を描いているように見えたのだ。
私は山椒魚に似ている。けれど私は誰かの世界にはなれなかった。私にとっての「蛙」がこれから現れることはあるのだろうか。山椒魚が蛙を操っていたのか、蛙が山椒魚を操っていたのか。本当のことは、誰も知らない。
了
よく、女は大変て言う
男性のほうが恵まれていて、女性は自分の足で立とうにもいろんな枷がある、みたいな
それは自分の仕事を持ち、自分で自分を食べさせるのが当たり前と考えている女性にとっては確かにそうだと思う
働くことにプラスしていろんなことをやらなきゃいけない立場にどうしてもなるし
でも、私のような、1人で立ちたくない、立てない、無能で自尊心の低い女にとっては、
なんて女って恵まれてるんだろう、という話になる
男の人は、専業主夫になるような人は、そうはいってもすごく少数だ
男の人は、まず働かないといけない
タイトルのとおりだけど。
子供の学力を全体的に上げるためには義務教育の場にも能力別クラスを導入するのが一番だと思う。
今の義務教育って平均点レベルの子供に合わせた一律教育で、平均を逸脱して理解の早い子にも遅い子にも苦痛になってる。
理解の早い子は機会を損失してるし、遅い子はどんどん周りから遅れてしまう。
年に数回の学力テストをやって、その点数別に各クラス20~30人ずつくらいの能力別クラスを編成するのがいいと思う。使うのは同じテキスト。
進学塾では普通にやってることだから、学校でもやってやれないことないと思うんだけど、モンペとか「子供の自尊心が~」とかなってできないのかな。下位層にも手厚く優しくという目的があれば、その辺もカバーできるんじゃないかと思うんだけど。