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はてなキーワード: ホモ・サピエンスとは

2021-05-14

anond:20210513200129

それを言うなら本家霊長類最強のアレクサンドル・カレリンを挙げよう。レスリング130kgで13年無敗、五輪3連覇。特に、130kgで地面に全力で這いつくば五輪選手を背筋力で持ち上げて投げる前代未聞のリフトが恐ろしすぎて、その体勢になると対戦相手フォール負けを選んだとか胸熱。今なお斯界では史上最強代名詞

ちなみに、出生時すでに体重が6.8kgあったらしい。本当にホモ・サピエンスであるかどうかすら疑われる。

2021-05-03

恋愛弱者男性存在必然

ここでいう弱者男性とは、恋愛における弱者である経済的・肉体的弱者を指さない。

定義曖昧にしているので議論錯綜するのである


進化生物学とか、進化心理学とかいジャンルがある。

人間の不可解・非合理的な行動を理解するには、進化過程から紐解く必要がある。


また、傾向と個々の個体の趣向は別である

全体としての傾向の話をしている時に「私は違う」という例外を持ち出されると議論が進まない。


我々はサルである

サルとは、ヒトを除いたサル目のことであり、生物学的にいえば、ヒトはサル一種である

諸兄は既に、サピエンス全史(上・下)をお読み頂いているはずなので、詳述は省くが、我々の本能は400万年から10万年前までの間に形成されている。

農耕を始めたのは1万年ほど前からだ。

法という考え方が生まれたのが4000年ほど前だが、呪術物事を決める習わしは、2000年ほど前まで続いている。

産業革命が200年前。ホワイトカラーが単なるオフィスワーカーとなって50年ほどだ。

自由恋愛結婚するのが当たり前になって何年だろうか?


しかホモ・サピエンス本能は、10万年から基本的に変わっていない。


男は女とセックスがしたい

およそ400万年前のホモ属の祖先は、ある選択をした。

男は、セックスがしたいので女に給餌した。

女は、よく給餌してくれるオスに、見返りとしてセックス提供した。

自分で餌を確保するメスより、オスに貢がせるメスの方が生き残り、子孫を増やした。

これは、あなた方が選択したのではなく、その選択をした個体の子孫が生き残ったという話だ。

400万年の淘汰の結果、我々の本能は、そのような男女関係最適化されている。


男は本能としてセックスがしたい。なぜなら、セックスに興味のない個体の子孫は残らないからだ。


女は格上の男が好き

ホモ属のメスが、より安定的繁殖を行うのに最適と判断するオスは、基本的に屈強なオスだ。

餌の確保とは、狩猟に依らない。

自分よりも劣ったオスが集めた餌を強奪する方が、より労力がかからいからだ。

法や治安誕生する前に、暴力的に強いオスに、性的な魅力を感じるメスの子孫が残った。

不良やヤンキーオラオラホストモテるのは、これが遠因である


から女は本能的に、格下の男に性欲を感じない。生殖をしたいとは思わない。それは本能から


メスは本能的に、強いオスに性的な魅力を感じる

弱者男性が、性的女性から相手にされないのは、生物学的に当たり前なのである

選択肢は二つに一つしかない。1. 強くなるか、2. 諦める。


しかし多くの民族は、第三の選択肢を採用した。

この第三の選択により、本来は生き残らなかったはずの、恋愛弱者男性遺伝子も残ってしまった。(恋愛弱者女性も含む)


それが皆さんである


ヒトは生まれながらに業を背負っている

現代に住む我々は、個々人の選択によって男女関係を作ったのではなく、400万年かけて現在の男女関係本能)を作った種の末裔なのである

セックスが欲しくないオスは、メスに給餌しなければいい。巣作りも必要ない。

だがヒトの本能は、セックスを欲する。

昔、禁欲するために坊さんになる男ってのは、恋愛弱者だったんだろうな。

2021-04-24

一夫一婦制という「パートナーをあてがえ」論

ホモ・サピエンスの多くの社会一夫一婦制に移行したのは、複数婚制では性病蔓延して人口が維持できなくなるからという説がある。一定説得力があるように思う。

https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/10628

だが、仮にそれが理由だとするならば現在社会一夫一婦制(というかモノガミー中心制)を維持する動機は乏しい。性病にかからない・治療する方法は劇的に進歩したのだ。

にも関わらず、現代社会でも依然、複数交際相手を持つことに対する世間の目は厳しい。同性愛離婚など『以前は厳しかったが今はそうでもない』事と比較すれば明らかだ。

では、なぜ今でも一夫一婦制を維持しようとする動きが根強いのだろうか。それは結局の所、「美男美女金持ちだけにパートナーを独占させることは認めない。

美男美女金持ちも、そうでない人も、平等に『パートナーは1人まで』と制限を課すことでパートナーを得られる人を増やすべきだ」という考えが根底にあるのではないかと推測される。

だがそれは結局の所、「複数パートナーを選ぶ自由」を制限して平等を実現しようという発想であり、弱者男性論が言う「女をあてがえ」論と変わりはないではないか

2021-03-21

anond:20210321010921

まぁ確実に競合するし、実際にホモ・サピエンス以外のホモ人類ホモ・サピエンス存在によって淘汰されたっぽいのでウマ娘世界では人間が淘汰されていないなら隷属してるのが流れだろうなと。

おそらくはウマ娘倫理観の発展も人間並みだろうし隷属って考えるのが流れで、ウマ娘国家体同士の戦争の中でアメリカ南北戦争アジアアフリカなどの植民地解放独立戦争に相当する戦があったのではないか仮定してみた。

優性主義あたりのいざこざもサラブレットや農耕馬あたりで踏襲できるんじゃないかな?

2021-02-17

anond:20210217042551

野良フェミニストの多くは家父長制は=「男が強いっぽい雰囲気を醸し出してる」ぐらいにしか考えてないから。

男が女を優越しているのは単にホモ・サピエンス生物としてのあり方に過ぎない。

2021-02-16

パスワード絶対メモ

夜はつい過去の失敗や絶望など、負の記憶を芋づる式に次々と思い出してしまう。

今夜思い出してしまったのは「随分前に作った、パスワードが紛失して削除出来なくなったYouTubeチャンネル投稿動画」だった。

所謂黒歴史である

(幸い顔や個人情報漏れる内容では無いが。)

そのチャンネル動画には検索であっさり辿り着けるため、また黒歴史と言えど自分の作った物である以上度々懐かしみに行くため、定期的に覗いていた。

で、今夜もああ、あれまだあるんだな……とYouTubeを開き、検索欄にチャンネル名をぽつぽつと打ち込んで検索すると、ギョッとした。

チャンネルがあるのだ。

2個も。

我が愛すべき負の遺産チャンネルはただの一つ、小坊の私がワクワクしながら作ったものだけだと思っていたのに。1個だと思ってたから恥ずかしいと思いつつも時々眺めてたのに!2個じゃん!!おばか!!!

どうやら謎の2個目のチャンネルは、パスワード紛失のために負の遺産チャンネルに入れなくなった過去の私が、仕方なく作り直したチャンネルらしい。

おわかりかもしれないが、チャンネル存在自体覚えていなかったという事は、この2個目のアカウントパスワードも当然今は紛失している。

二度も同じ過ちを繰り返した事に気付かされて普通にショックを受けた。こんな学習能力の低さでホモ・サピエンスを名乗る方が、こんなチャンネル存在よりよっぽど恥ずかしいと思う。私は恥ずかしい。

ちなみに2個目のチャンネル設立された日時は、1個目を設立してからおよそ2年後である事もわかった。つまり2年もあったというのに、私は「パスワードメモをとる」という何とも初歩的なミス修正出来なかったわけだ。

昨今のスマホGoogleアカウントパスワード記憶してくれる機能には頭が上がらないが、どうにも不安が募る私は、これを書くためだけに作った出来たてのはてなIDパスワードを、ノート手書きメモするのだった。

件のチャンネルは今後も消せそうにないので、時々眺めて懐かしみます

2021-02-04

anond:20210204030839

何をもって滅んだと見做すのかって話にもなりそうだね。

日本在住のホモ・サピエンスが一瞬で死滅するわけでもないし。

2021-01-04

anond:20210104121123

そもそも増田認識での最初人類って猿人(ルーシーアルディ)?

それともホモ・エレクトスホモ・サピエンス

 

いずれにせよ、哺乳類では一般的交尾手段では?

 

ちなみに人類は所構わずセックスちんこまんこってやってる個体

積極的に淘汰してきたよ

ボノボとは違った文化進化だね

まぁ成体になるまでの育成コストいからね

2020-12-11

よく野蛮さを表すのにゴリラに例える人がいるけど、ゴリラはとても繊細で優しい、ホモ・サピエンスなんかよりよほど紳士的な動物だよ。

2020-11-03

潔癖グロ

広告創作物などの表現に対し、

「これは性的表現から公的な場では取り下げろ」

「こんなに胸が強調されている、これは女性性の搾取だ」

気持ちを表明するする方が多くいらっしゃるようです。

そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者

自分意見は正当である、その表現を取り下げろ」

と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。



この内容の言動を唱えている方の大半は、

その表現の印象が過激だとして変更を迫りますが、

人により性的であると感じる度合いは様々であり、

制作側の、どの程度の表現規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、

徐々に該当する表現であるものを増やすことで、

結果的に世に出る表現の幅を狭めてしまっています

このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、

「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、

「わかってくれないあなたたちが悪い、理解不足である

として、放暴的に意見押し付けている状況である理解しています



論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います

私たちはこの性的表現によって傷ついたんだ、私たち被害者だ」

このように気持ち表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります

ですが、この表現論理性を持たないものであり、

現に一般創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。




私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。




この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまりエロ表現」ですが、

現在では、エロ表現は、年齢的な制限場所制限等、

またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、

様々な”ゾーニング”がなされており、

こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています



エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、

同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います

私たち意見は正当だからそんなことはしなくてもよい」

と感じる方もいらっしゃるかと思いますが、

正当性を持たせるためには、そこに論理整合がなくてはなりません。

論理整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。



性的表現は苦手」だと感じる人は、

社会において一定存在することは私は認めます

ですが、論理性を持たない、個人感情である一介の表現ですので、

それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。



人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。

少なくとも哺乳類一種であるホモ・サピエンスという種として生まれ私たちは、

生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます

私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます

生殖機能から発出する性意識衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います

更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます

社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当ものであるとして端に追いやられてきました。

しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するもの蔑ろにされるべきではないと考えます

表現は、苦手な人がいるのは承知し、配慮しつつも、

表現自体が蔑まれ排斥されるようなものではないと考えます



細胞を分裂させて、自分クローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか

私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか

そのどちらかの当事者であれば、この性表現排斥しようという意見は飲み込むことはできます

しか私たち人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。

そこからまれる性表現も、大切にされるものであると考えます

上記理由から、私は性表現排斥という言動について、正当性はないと考えます




上記人間が、排斥標榜する言動に至るようになったのは、

一重に、その社会において、社会という基準において

正当性がないと言っているのだろうと考えます

これは、私たち生活している中で動いているその社会自体が、

まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、

生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います

私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。

そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、

理性で性的衝動を抑え込むことで、生物社会を回すことに成功しているのだといえます

忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。

上記言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます

からこそ、このような言動が出てくるのだと考えます


「性表現は女を搾取している」

というのは、その性表現の中に、

現在社会的な価値観内包されており、

実際に、

活動がどのようなもの理解できず、負担をかけてしまうことであったり、

双方の意思なしに快感一方的に感じていることであったり、

それによって心理的ストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います

しかし、この論理で話を進めると、

そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現ゾーニングされるべきであり、

ただ身体を魅力的に表現することや、生殖器の描写

双方の同意があって、適切に性行動が行われている表現

加虐側がそれをしたことにより不利益を被る表現も同時に組み合わせた表現

については、本来ゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。



また、ゾーニング排斥排除意味で使われている方が多く散見されます

https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582

ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、

派生してゲーム等でのレーティングでは、表現過激からスコア付与し、

あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、

その表現自体排除排斥するためにレーティングを行え、というのは、

レーティングを行うのではなく、気に入らないもの検閲を行えと言っているのと同義であり、

検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています

排斥排除しろ表現するのはヘイトスピーチに当たります

また、ゾーニング言葉より、

「この表現過激から、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」

というのであれば理解できます

しかし、表現自体を憎む方は、

製作者が別のプラットフォーム等に表現を表したとしても、

自身がそのプラットフォーム自体管理者ではなかったとしても、

どこまでも製作者を追い続け、「不適切から取り下げろ」と迫ります

プラットフォームが認めている表現であれば、本来意味からゾーニングは適切になされているのであり、

不快である表現する側がゾーンから異端であるのだと思います

たとえ表現者が、

ただ身体を魅力的に表現することや、生殖器の描写

双方の同意があって、適切に性行動が行われている表現

加虐側がそれをしたことにより不利益を被る表現も同時に組み合わせた表現

から外れた社会的に逸脱した過激描写をしていたとしても、

プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています

その表現を現世から消し去ろうという目的

表現製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為

表現の自由を脅かす行動で咎められるべきです。

表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)

このような排斥言動も、上記理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。

女性から男性から、その他の性だから、何かの加害者から被害者から言ってもいいんだ、という理由にはなりません。




私は、現状のような、

潔癖であることが何よりも是であり、性的表現一般社会に全く表出されるべきではない

という今の社会規範には些かの疑問を覚えます

私は、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部であり、

そこからまれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。

ただし、性的表現が苦手という人の立場にも配慮し、

潔癖すぎる表現と、性的すぎる表現の、中間の均衡を狙う表現

一般社会において普遍的に用いられるのが望ましいと思います

社会的に上だ、下だ、どの程度お金を稼いだか、貧乏

そんな金銭中心の表現が氾濫している昨今ですが、

大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか

恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか

社会的な規範でいえば

どうすれば相手気持ちを考えられるか、ですとか

気持ちを伝えて仲良くなる方法、ですとか

どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか

もっと性を身近なものとして取り上げてもいいと思いますし、

それに付随する性交表現や、性器表現も直接的でいいと思います

私たち本来有する機能であり、大半の方は性行為経験することになるからです。

もっと社会が性に寄り添ってもよいのではないかと考えます



子どもが見たらどうするのだ、という意見もありますが、

子ども大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、

低年齢の時から、しっかりと、まずは”自尊心”の育みと、

段階的に性の知識を育んでいき、人とのコミュニケーション

思った感情相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、

そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、

性的ものに触れるというのが望ましいと考えています

ですから社会的に逸脱した行為社会ゾーニングを行うとして、

一般社会では適切に性的表現咎められるべきではないと考えますが、

場所的に小学校の周り等には、

小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板

ドンと建てられるのは私でも少し抵抗があるので)

周りから一定範囲にはそういったもの掲載しない等の規則が出来ればと思います

子ども学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、

性というもの抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います




翻って、

「これは性的表現から公的な場では取り下げろ」

「こんなに胸が強調されている、これは女性性の搾取だ」

このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます

この表現により傷ついた、不利益を被った方は沢山います

現在の「エロ表現」と同様な、年齢の閲覧制限場所による制限必要なのではないでしょうか。

一方的ヘイトに私は耐えられません。多くの創作者も同じ思いだと思います

2020-10-31

潔癖グロ

広告創作物などの表現に対し、

「これは性的表現から公的な場では取り下げろ」

「こんなに胸が強調されている、これは女性性の搾取だ」

気持ちを表明するする方が多くいらっしゃるようです。

そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者

自分意見は正当である、その表現を取り下げろ」

と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。



この内容の言動を唱えている方の大半は、

その表現の印象が過激だとして変更を迫りますが、

人により性的であると感じる度合いは様々であり、

制作側の、どの程度の表現規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、

徐々に該当する表現であるものを増やすことで、

結果的に世に出る表現の幅を狭めてしまっています

このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、

「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、

「わかってくれないあなたたちが悪い、理解不足である

として、放暴的に意見押し付けている状況である理解しています



論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います

私たちはこの性的表現によって傷ついたんだ、私たち被害者だ」

このように気持ち表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります

ですが、この表現論理性を持たないものであり、

現に一般創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。




私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。




この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまりエロ表現」ですが、

現在では、エロ表現は、年齢的な制限場所制限等、

またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、

様々な”ゾーニング”がなされており、

こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています



エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、

同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います

私たち意見は正当だからそんなことはしなくてもよい」

と感じる方もいらっしゃるかと思いますが、

正当性を持たせるためには、そこに論理整合がなくてはなりません。

論理整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。



性的表現は苦手」だと感じる人は、

社会において一定存在することは私は認めます

ですが、論理性を持たない、個人感情である一介の表現ですので、

それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。



人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。

少なくとも哺乳類一種であるホモ・サピエンスという種として生まれ私たちは、

生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます

私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます

生殖機能から発出する性意識衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います

更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます

社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当ものであるとして端に追いやられてきました。

しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するもの蔑ろにされるべきではないと考えます

表現は、苦手な人がいるのは承知し、配慮しつつも、

表現自体が蔑まれ排斥されるようなものではないと考えます



細胞を分裂させて、自分クローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか

私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか

そのどちらかの当事者であれば、この性表現排斥しようという意見は飲み込むことはできます

しか私たち人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。

そこからまれる性表現も、大切にされるものであると考えます

上記理由から、私は性表現排斥という言動について、正当性はないと考えます




上記人間が、排斥標榜する言動に至るようになったのは、

一重に、その社会において、社会という基準において

正当性がないと言っているのだろうと考えます

これは、私たち生活している中で動いているその社会自体が、

まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、

生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います

私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。

そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、

理性で性的衝動を抑え込むことで、生物社会を回すことに成功しているのだといえます

忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。

上記言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます

からこそ、このような言動が出てくるのだと考えます


「性表現は女を搾取している」

というのは、その性表現の中に、

現在社会的な価値観内包されており、

実際に、

活動がどのようなもの理解できず、負担をかけてしまうことであったり、

双方の意思なしに快感一方的に感じていることであったり、

それによって心理的ストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います

しかし、この論理で話を進めると、

そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現ゾーニングされるべきであり、

ただ身体を魅力的に表現することや、生殖器の描写

双方の同意があって、適切に性行動が行われている表現

加虐側がそれをしたことにより不利益を被る表現も同時に組み合わせた表現

については、本来ゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。



また、ゾーニング排斥排除意味で使われている方が多く散見されます

https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582

ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、

派生してゲーム等でのレーティングでは、表現過激からスコア付与し、

あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、

その表現自体排除排斥するためにレーティングを行え、というのは、

レーティングを行うのではなく、気に入らないもの検閲を行えと言っているのと同義であり、

検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています

排斥排除しろ表現するのはヘイトスピーチに当たります

また、ゾーニング言葉より、

「この表現過激から、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」

というのであれば理解できます

しかし、表現自体を憎む方は、

製作者が別のプラットフォーム等に表現を表したとしても、

自身がそのプラットフォーム自体管理者ではなかったとしても、

どこまでも製作者を追い続け、「不適切から取り下げろ」と迫ります

プラットフォームが認めている表現であれば、本来意味からゾーニングは適切になされているのであり、

不快である表現する側がゾーンから異端であるのだと思います

たとえ表現者が、

ただ身体を魅力的に表現することや、生殖器の描写

双方の同意があって、適切に性行動が行われている表現

加虐側がそれをしたことにより不利益を被る表現も同時に組み合わせた表現

から外れた社会的に逸脱した過激描写をしていたとしても、

プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています

その表現を現世から消し去ろうという目的

表現製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為

表現の自由を脅かす行動で咎められるべきです。

表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)

このような排斥言動も、上記理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。

女性から男性から、その他の性だから、何かの加害者から被害者から言ってもいいんだ、という理由にはなりません。




私は、現状のような、

潔癖であることが何よりも是であり、性的表現一般社会に全く表出されるべきではない

という今の社会規範には些かの疑問を覚えます

私は、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部であり、

そこからまれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。

ただし、性的表現が苦手という人の立場にも配慮し、

潔癖すぎる表現と、性的すぎる表現の、中間の均衡を狙う表現

一般社会において普遍的に用いられるのが望ましいと思います

社会的に上だ、下だ、どの程度お金を稼いだか、貧乏

そんな金銭中心の表現が氾濫している昨今ですが、

大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか

恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか

社会的な規範でいえば

どうすれば相手気持ちを考えられるか、ですとか

気持ちを伝えて仲良くなる方法、ですとか

どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか

もっと性を身近なものとして取り上げてもいいと思いますし、

それに付随する性交表現や、性器表現も直接的でいいと思います

私たち本来有する機能であり、大半の方は性行為経験することになるからです。

もっと社会が性に寄り添ってもよいのではないかと考えます



子どもが見たらどうするのだ、という意見もありますが、

子ども大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、

低年齢の時から、しっかりと、まずは”自尊心”の育みと、

段階的に性の知識を育んでいき、人とのコミュニケーション

思った感情相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、

そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、

性的ものに触れるというのが望ましいと考えています

ですから社会的に逸脱した行為社会ゾーニングを行うとして、

一般社会では適切に性的表現咎められるべきではないと考えますが、

場所的に小学校の周り等には、

小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板

ドンと建てられるのは私でも少し抵抗があるので)

周りから一定範囲にはそういったもの掲載しない等の規則が出来ればと思います

子ども学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、

性というもの抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います




翻って、

「これは性的表現から公的な場では取り下げろ」

「こんなに胸が強調されている、これは女性性の搾取だ」

このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます

この表現により傷ついた、不利益を被った方は沢山います

現在の「エロ表現」と同様な、年齢の閲覧制限場所による制限必要なのではないでしょうか。

一方的ヘイトに私は耐えられません。多くの創作者も同じ思いだと思います

2020-10-14

anond:20201014101102

そもそも殺し合いそのもの人間遺伝子に刻まれてると思った方がいい先祖が実行してきた歴史からな。

ホモ・サピエンスが競合となる類人猿と争って殺しあったりしてた可能性もあるし、実際に殺して食った跡とかも見つかっとる。

2020-10-11

(続き)ヴィーガン否定中国共産党の夢を見るか

anond:20201011103550

文字数制限のため続き

スリーS @Super_S_Shoborn

報復排除による危険性を無制限正当化するのもまた危険です。極端なことを言ってしまえば『貴方の周りの空気保護する。吸えば貴方に対して報復する』ということも殺人正当化悪用されてしまますね。従って人間への危険性が最小になるように線引きする必要があります。今の所設定されているベターな線引きはヒト及びヒトに所有される(動物含む)物ですね。

その線引きに動物まで含めてしまうと、動物資源によって生存している人間及び今後そうなるかもしれない人間(つまり万人)は生存手段を奪われた形になります。鯨も飢饉時は立派な食料です。狩猟には継続的経験必要ですので、飢饉時だけは鯨を殺していいと言われても狩猟出来ずに餓死です

箱のなかの海 @kawa_machi

さて、また最初の問に戻ってきました。 ”ヒト”とは何でしょう?

遺伝情報認知判断能力苦痛を感じる能力YHWHがそう定めた?

報復危険性を無制限正当化できないなら、それを制限して正当化する基準必要になります

空気はおそらく”人”や”動物”ではないと私も思います。では何を基準に、そう判断するのでしょうか。

少なくとも

危険性が保障されているから、危険からやってはいけないという簡単ロジック

でないことは合意できたと考えて良いですか?

スリーS @Super_S_Shoborn

個人的意見ですが、関係性によってヒトはヒト足りうると思っています。従って遺伝情報認知判断能力苦痛を感じる能力という一個体を観察するだけではヒトをヒトだと理解出来ないのでしょうね

合意してませんね。鯨のために報復する人間いるから鯨を殺すのは危険だと認めますが、鯨を殺す手段を失うのはそれ以上に餓死リスクを伴うから、鯨のために報復する人間排除してまで鯨を殺す手段を維持しなければならないとは言っています

箱のなかの海 @kawa_machi

詩的で良い表現と思います

さて、関係性という言葉定義はまだわかりませんが、例えば犬や馬に対して関係性を感じる人はいるでしょう。一方で、犬や馬は食用に殺されてもいます関係性を結び得る相手を”ヒト”とするなら、馬や犬は”ヒト”ですか? 殺すべきではありませんか?

単純に考えるなら、危険だと認められる行為はやってはいけないでしょう? 危険でもやるべきとするなら、別の価値判断必要になります

スリーS @Super_S_Shoborn

関係性を結び得るからヒトとは言ってません。『親子』も『繁殖可能』も『可食かどうか』も『毒が効く効かない』も『危険かどうか』も関係性ですね。どれか一項目該当するものがあればヒトとも言ってませんし 確かに危険だと認められる行為はやってはいけませんね。動物愛護団体だろうが人間生存手段となる動物報復するのは自殺行為からしてはいけませんよね。

医療食料問わず動物資源人間生命であるので、その使用禁止生存手段放棄であり自殺行為です。また、人間から動物資源という生存手段剥奪はその人間から排除対象となるので、これもまた自殺行為。二重の意味危険行為なので動物権利を与えてはいけません。

そうですよね

箱のなかの海 @kawa_machi

では、 >関係性によってヒトはヒトたりうる という文における関係性の定義は何でしょうか?

危険性という定義を、個人に対する報復 ではなく 人類の存続に対する妨害 まで拡大したという理解で良いですか?

スリーS @Super_S_Shoborn

自分にとって他者環境はどのような性質を持つか、他者にとって自分はどのような性質を持つか、という意味で言っています

個々人の存続に対する妨害ですので、全く拡大しておりませんね

箱のなかの海 @kawa_machi

その意味で、馬や犬はヒトと関係性を持ち得ますか?食用の馬や犬は存在しても良いのですか?

奴隷解放論者に対して、「私の存続には黒人奴隷搾取することが必要です、妨害しないでください」という白人農場はいたでしょう。しかし、黒人奴隷解放されました。

動物解放論者に対して、「私(たち)の存続には動物搾取必要です。妨害しないでください」という人はいるでしょう。なぜ、動物解放されなくても良いのですか?

スリーS @Super_S_Shoborn

関係性を持ち得る。

食用の馬や犬は存在しても良い。

動物解放してはいけない。

散々動物資源人間医療食料的に生存手段であると言っているのに話を聞いておらんのですか?

箱のなかの海 @kawa_machi

大丈夫、聞いてますよ。

聞いた上で、「当時の黒人奴隷人間(その定義黒人奴隷は含まれていませんでした)の生存手段であった」 と言っています

あなた基準適用すると、医療・食料用のホモ・サピエンス存在しても良いとなりませんか?銃火器を苦にしない国は、人体実験をやり放題になるように思いますが。

人体実験が解禁になったら、これまでとは段違いのスピード医療進歩するでしょうね。 歓迎する人(その多くは力を有する人でしょう)も多そうです。

スリーS @Super_S_Shoborn

既に実際に『人間安全に取り扱う範疇』で人間医療資源として活用されています同意を元にした骨髄バンク、生体臓器移植、死後・脳死後の臓器移植献血があるのをご存じないのですか?

箱のなかの海 @kawa_machi

もちろん、限定的にはすでに医療資源として活用されています。 私が想定するのはそれ以上のものです。

何故、人間けが安全に”、”限定的に”取り扱われなければならないのでしょうか?

あなた基準では、危険性を感じない国家は、人間不安全に扱っても倫理的問題が無いように思います

スリーS @Super_S_Shoborn

人間に限らず動物だろうが植物だろうが機械だろうが安全手法で取り扱っているんですけど……危険性が異なるからその取り扱い方が異なるだけで。

国家人間にとって危険システムであるというなら、それは人間国家人間にとって危険システムのまま対処しなかったツケを支払っているだけです。国家だろうが機械だろうが、安全に取り扱わなかったら痛い目を見るのは当然では?

箱のなかの海 @kawa_machi

ええ、なので国家危険に感じない範囲人間不安全に取り扱って良いということですよね?と聞いています

ホロコーストで殺されたユダヤ人たちは対処しなかったツケを支払っただけで痛い目を見るのは当然であり、ナチス倫理的問題はない(もしあるとすれば戦争に負けたことだけ)と。

不安全に扱う”というのは誤解を招くかも知れない(不安全に扱った時点で問題が有る)ので、”いわゆる人権無視して”くらいに置き換えてください。

スリーS @Super_S_Shoborn

ツケを支払う方になってしまった側にとっては問題ですし、国民国家の扱い方が未熟だった時代でもありますからそのような結果になってしまったのは当たり前です。当時放射線危険性を知らなかったキュリー夫人放射線被爆により健康を損なったのと同じように。国家国民の脅威にならないよう次に活かすしかないです。それと倫理の話はしていません。人間にとって危険から人間には問題だったとは言っています

知ってますか?日本国憲法では『国民不断努力』によって、自由権利を保持しなければならないって書いてもいるんですよ?

箱のなかの海 @kawa_machi

ちょっとお返事がよくわからないのでもう一度聞きますが、 国家危険性を感じない範囲で、人間をいわゆる人権(個人の生死など基礎的な権利も含めて)を無視して取り扱っても良いのですか?

危険性というのも曖昧ですが、あなた基準からすると、「反政府組織政府転覆可能なほどの力を持つようにならない程度で」 とでも言えるでしょうか。

もちろん知ってますよ。だから、 「国家危険性を感じなければ何をやってもいい」 「中国共産党人権を守る必要がない」 などという言説を否定しようと努力しています

否定するというのは言葉が過ぎましたね。 個人がどのような思想を持ってもそれは自由なので。 言説が”広がらないように”に訂正します。

スリーS @Super_S_Shoborn

暴力という手段であっても国民国家制御する方法を持たない国家ならしても良い。国民にとってはとても不幸なことですけど。

勿論国民や他の国家には、なされるがまま黙ってろとは言ってません。機会があったらぶっ壊して作り直せと言っておきましょう。天安門事件香港など負け続きなだけです

箱のなかの海 @kawa_machi

なるほど。

あなたの仰る、どちらが大きな暴力を扱えるかだけの論理では世界は良くならないと私は思いますが、論としては一貫しています

願わくばあなた強者蹂躙されませんように。

議論ありがとうございました。

スリーS @Super_S_Shoborn

はいお疲れ様でした

箱のなかの海 @kawa_machi

ということで、肉食を正当化する論理の一つは、生命などの基礎的な権利をも含めた個人の諸権利を、(条件付きなものの)国家が好きに取り扱うことを良しとするところまで行き着きました。

他者危害を加えることを正当化するのってちゃんと考えるとホント難しいよ。

難しいんですよ。ほんとに。

スリーS @Super_S_Shoborn

国家人権人間の作った道具なので、人間にとって危険ならその都度安全になるようパッチを充てる不断努力をしなければならないって話でもあります

ヴィーガン否定中国共産党の夢を見るか

ヴィーガンになると精神が病んでしまうのも無理ない

https://togetter.com/li/1605085

コメント欄より

なかなかおもしろいやり取りだったので、備忘録として


議論の流れを変えない範囲コメントの順番を入れ替えた

また誤字脱字が明らかな場合はそれを補った


箱のなかの海 @kawa_machi

他者権利侵害すべきでない”という一般的道徳観を動物まで広げるなら、ヴィーガンのような主張になるのは自然なことではある。

人と動物は違うと言うなら、その線引きをどこに置くかの明示は必要だけど、論理的妥当基準を出すのはかなり難しいよ。

自分リバタリアニズム消極的自由から肉食を正当化できるか悩んだことがある。

今のところ子供(→契約主体になりえない存在)に対する パターナリズム対応を援用して考えてるけど、お肉を食べたいがために無理してないと聞かれたらちょっと困る部分も無いとは言えない。

お肉美味しいから食べるけど。

倫理判断普遍可能である」「遺伝差異自体差別をする理由にはならない」「動物人間と同じように苦しむ」「認知能力契約能力等、動物人間区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける。 (Wikipedia 動物権利)

他者を食べることを倫理的に正当化するには、これらの前提のどれかを弱める必要がある。

ヴィーガンの多くは「植物動物人間と同じように苦しむ」を弱めて、植物を食べているように思うし、 自分は「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」を弱めて肉を食べている。

kusorip @kusorip2

人権は人の作った道具に過ぎないので、人が快適に過ごすために如何様にも定義変更可能なんだが 勝手に都合よく定義を狭めて理論ぽく仕立ててるだけでガキの屁理屈まりなんだよなぁ

箱のなかの海 @kawa_machi

人が作った道具であり、適宜変更ができると言うのはそのとおりなんだけど、その快適に過ごすべき”人”って何なのかという話。

人と動物の違いは何を基準にどこで線引きすべきか? 遺伝情報? 認知判断能力苦痛を感じる能力YHWHがそう定めた?

他者危害を加えることを正当化するのってちゃんと考えるとホント難しいよ。

誤: 人と動物の違いは

正: 快適に過ごせる”人”とそのために危害を加えても問題ない”動物”の違いは

人権定義問題なのではなく、人権適用される/されない対象定義問題にしている と言ったほうがわかりやすいかな。

スリーS @Super_S_Shoborn

危険危険でないか、だよ。人間集団危険性を保障し合うが、動物はそうでないか区別可能

箱のなかの海 @kawa_machi

危険性を保証し合うと言うのは、法律(してはいけないこと)の概念をを持つという理解で良いですか?

そうなると、ある種の知的障害者や1, 2歳までの子供は人間ではないので殺していいことになりますがそれで良いですか?

逆に、ルール概念を持てる動物(例えば、ある程度以上の哺乳類はそうでしょう)は”人間”なので殺してはいけないことになりますね。

スリーS @Super_S_Shoborn

知的障害者だろうが幼児だろうが、その家族報復しうるし、その境遇に陥るかもしれない人間が次は我が身次は我が子と考えて排除しうるので、危険性は保障されてますので問題ありません

危険性が保障されてるから危険からやってはいけないという簡単ロジックです

大ざっぱに言ってしまますと、全ての人間任意人間から危険性を保障されているので、その危険性が保障された人間安全に取り扱う為に人権に沿う必要があります。言い換えれば、人権人間安全に取り扱う規範だと言っています

箱のなかの海 @kawa_machi

なるほど。しかし、「危険からやってはいけない」は「危険でないならやってもいい」に繫がりますよね。

例えば、家族がいないまたは家族報復しないことを約束して譲る場合どうでしょうか。悲しいことですが、親から虐待を受けている子供障害者など、可能性は十分考えられると思いますが。

また、次は我が身、我が子と考えるかも微妙だと思います

食用の豚は殺されていますが、だからといってペットとして豚を飼っている飼い主(保護者)が「次は自分の豚が殺されるかも」とは考えないでしょう。

親が自分の子供を殺す(故意または未必の故意)場合報復危険は無いので問題なくなりますね。

パチンコ中に車の中に放置されて亡くなった子供がいたとして、その親が近くに暮らしていたとしても、「自分自分家族が殺されるかも」とは思わないでしょうし。

危険性を保障されているという言葉定義がよくわかりませんので、もう少し詳しく説明ください。

家族報復する危険報復しない、できない場合は?

周囲の人が次は自分と思って排除してくる危険→そう思わないような場合は?

また、 「人権人間を取扱うためのものである人間とは人権で取り扱われるものであ(動物はそうではない)」 はトートロジーです。何を基準人権で取り扱われる”人間”を決めるのか?と問うています

スリーS @Super_S_Shoborn

家族が居ない、または見捨てられた等の天涯孤独者は天涯孤独者同士危険性を保障し合っています。では天涯孤独乳児はどうか。普通の子供でも親が死ぬ等で天涯孤独になります。親の危険性の保障から外れえる子供を守るために「危険でないならやってもいい」という人間排除するでしょう。

からも見捨てられ誰も報復せず次は我が身我が子だと考えて誰も排除してくれない子供はどうか。子供にそういう危険性がないことを調べる必要がありますが、それを調べることもまた危険であるのでやってはいけまん(続く)

家族報復する危険報復しない、できない場合は? 周囲の人が次は自分と思って排除してくる危険→そう思わないような場合は?』

かに必ずしも家族や同じ境遇の人が報復排除をしてくれる訳ではありません。そのような危険性が保障されない人間が潜在しています。彼らは自身危険性が無いと判断されることは死刑宣告にも等しい。従って危険性を判断するような人間排除するでしょう。つまり危険性がないことを調べる事自体危険でやってはいけないことなのです

さながら、危険性が保障されない人間危険性を保障された人間擬態するように。山に生えるキノコが可食か毒か見分けがつかず、見分けることも危険であるならば、山に生えるキノコは全て毒と判断して食べてはいけないと判断するように

箱のなかの海 @kawa_machi

なるほど。 ある程度以上の知能を持つ動物も、自分自分家族、群れを傷つける他者排除しようとしますが、それらの動物危険性を保障しあっていないのでしょうか。

人間がそれらの動物を傷つけた時に報復危険性を感じないのは単に人間がそれらの動物より強いからですが。

動物の(勝手な?)代弁者である動物愛護団体などから報復危険性を感じないうちは動物には”権利”がなく、彼らが強大な力を有した段階で”権利”が生じるとなりそうです。

それは、過去王侯貴族が下々の者の人権を決めていた時代と何が違うのでしょうか?

実際のところ、権利は力の獲得とともに増えてきたという歴史はそのとおりではあるものの、

少なくとも理念上は、

力の有無や数の大小ではなく、一人ひとりが等しい人権を有しているというのが現代では概ね合意であるはずです。

動物には力がないか人間にとって危険性がなく、だから動物を傷つけても良いという”危険性の論理”はこの合意に反しますし、弱者マイノリティへの攻撃に容易に繋がりかねないのではないでしょうか?

スリーS @Super_S_Shoborn

医療食料問わず動物資源人間生命であるので、その使用禁止生存手段放棄であり自殺行為です。また、人間から動物資源という生存手段剥奪はその人間から排除対象となるので、これもまた自殺行為。二重の意味危険行為なので動物権利を与えてはいけません。

全ての人間任意人間から危険性を保障されている(自分はそう主張している)ので、弱者マイノリティへの攻撃に容易に繋がりません。

動物報復しますが、人間にとって大した危険ではなく、それ一頭を銃等の動物では認識出来ない武器で殺せば再報復されません。人間危険なのは動物と異なり火や毒、自動車銃火器等の過剰な攻撃力を持っているからです。毒を使う動物はいますが、それを報復には使いません。『過剰な攻撃力』を持ち、かつそれを『報復等に使用する』生物はただ一種、ヒトのみです。故に人間にとって人間特別です。他に該当する動物が居るのでしょうか?

箱のなかの海 @kawa_machi

2点教えてください。

1. 過激動物保護団体は多く居て、その中には銃火器などで武装しているものも有りますよね。 単に危険性の大小なら、下手な人間マイノリティよりもよほどある種の動物のほうが危険性を保障されている(報復可能性が高い)と思いますいかがでしょう。

2. 本当にすべての人間同士で危険性を保障しあっているのでしょうか。 例えば、ウイグルの人々が中国共産党上層部報復できるとは思えないのですが。 仮に米国を動かして、米中戦争が起きたとして中国が勝った場合は?

端的に言うと、 「どうしていじめダメなの」という問に対して、 「先生に怒られるから」と答えられてるような感覚があります

それは実際には大きな理由ではあるのだけど、それをメインで答えるのはまずいだろうという感覚です。

スリーS @Super_S_Shoborn

1. 危険性の保障を代行・専門化・強化した警察司法という組織の方が基本的に有能です。

2.国家という組織人間運用すれども人間のものではありません。人権は『人間が』人間安全に取り扱う規範ですので、国家個人では基本的機能しません。中国みたいに強い国家にとって人間は脅威ではないので、中国人権を守る必要がありません。では何故人権を守る国家があるかというと、国家比較的弱いか国民運用している国民主権国家からですね

箱のなかの海 @kawa_machi

1. 確かに警察司法のほうが優秀です。しかし、危険性で問題になるのはどちらが大きな力を持っているかではなく、ある閾値以上の力を持っているかでしょう。

戦車戦闘機よりマシンガンの方が弱いですが、普通の人にとってはどちらも脅威です。

2. 人権とは、単に人間であるということに基づく普遍権利。「対国家権力」または「革命権」から由来している。ブルジョア革命資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代憲法の不可欠の原理」とされる。 人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり(略)  Wikipedia 人権

えっと、その人権定義は少なくとも一般的に受け入れられている定義ではないですよ。 対国家、つまり自分より強い相手に対するものです。

箱のなかの海 @kawa_machi

ちょっと議論が発散してきたのでまとめますね。

人と動物との違いはなにか?という問いに対して、

1. 傷つけた時に報復される危険があるのが”人”で危険がないのが”動物

2. この危険とは殴る、噛むなどではなく、銃火器などの過剰な武力を指す

3. 報復するのは傷つけられた本人ではなく、それを見た他人でも良い

という基準が出されました。

それに対して、

1.例えばクジラを傷つけた相手銃火器を用いて報復すると宣言する愛護団体存在したら、クジラは”人”の基準を満足しますよね?

2.銃火器などを苦にしない強い個人や団体(国家)は、弱い立場ホモ・サピエンスを傷つけても倫理的に問題ないとなりませんか?

という2点を質問しています

スリーS @Super_S_Shoborn

警察司法の方が基本優秀なので、過激動物保護団体テロリスト認定して取り締まってその保障無効化してますね。

銃火器などを苦にしない強い個人(超科学異星人だろうがスーパーマンだろうが)や団体(国家)が弱い立場ホモ・サピエンスを傷つけても、その個人や団体(国家)にとっては問題ありません。同じように強い力である台風が我々の人権を慮ってくれるんです?

箱のなかの海 @kawa_machi

なるほど。そこまで力を信奉し、強者は何をやってもいいとお考えならそれはそれで筋が通っていると思います

願わくば、その考えが弱い立場に向かないように、また貴方強者蹂躙されませんように。 どちらにしても、中国には住まないほうがいいと思いますよ。

攻め方と守り方は非対称で、普通は攻め方が大幅有利です。本当に取り締まり完璧にできるなら、アメリカ911を受けずにすみました。

同じ様に、畜産業者は過激愛護団体に対して警察を完全に信用できないでしょう

スリーS @Super_S_Shoborn

自分スーパーマンでも独裁者でもないことを知ってますし、立場が弱かろうが強かろうが人間ちょっかい掛けて好き好んで危険を被ろうだなんて思ってないのでご心配なく。

それに『安全』というのはリスクゼロという完璧を表す言葉ではありません。人間対象に限らず、危険性を小さくする為に安全な取り扱いを行っていますが、自動車安全運転してたって事故は起きます警察を信用しないのは自由ですが、警察という抑止力がなければもっと被害を受けていたのは想像に難くないでしょう

BLM運動警察機能不全に陥った結果を見ればわかることです

箱のなかの海 @kawa_machi

警察がなければもっと被害を受けていた と 警察があっても被害を受ける危険がある は矛盾しませんよ。

報復される危険があるなら(実際に日本では太地町が有名ですし、海外ではもっと大きなテロも起きています)、あなた基準ではそれは”人”であり、傷つけるべきではないのでは?

スリーS @Super_S_Shoborn

報復排除による危険性を無制限正当化するのもまた危険です。極端なことを言ってしまえば『貴方の周りの空気保護する。吸えば貴方に対して報復する』ということも殺人正当化悪用されてしまますね。従って人間への危険性が最小になるように線引きする必要があります。今の所設定されているベターな線引きはヒト及びヒトに所有される(動物含む)物ですね。

その線引きに動物まで含めてしまうと、動物資源によって生存している人間及び今後そうなるかもしれない人間(つまり万人)は生存手段を奪われた形になります。鯨も飢饉時は立派な食料です。狩猟には継続的経験必要ですので、飢饉時だけは鯨を殺していいと言われても狩猟出来ずに餓死ですPermalink | 記事への反応(1) | 10:35

2020-10-01

暴力に囚われていない」という幻想

 僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。


 人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラトロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンス分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、文明を伝えてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。

 ここで言うところの「暴力」とは戦争軍事力媒介にした暴力行使を指しているわけではない。

 暴力は我々の身近に存在している。

 ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。


 それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったかである

 例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要ものとは暴力である

 例えば、そんな事態においては武器必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志必要になる。

 これは余りにも自明である

 無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人間暴力を振るってくることも大いにあったであろう。そのような人間に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。

 更には、そのような暴力防衛自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的暴力行使可能性があったことを、認めなければならない。


 繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、例えば、我々の遺伝子レースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代存在したということになる。仮に、たった百万年から我々にとっての遺伝子レースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者存在することとなる。とにかく、我々は遺伝子キャリアとして長い時間を旅してきた。

 その膨大な関係者は、恐らく長い間暴力と共に遺伝子の旅を送ってきた。

 そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。

 まず挙げられるのは、殺人

 強盗

 強姦

 傷害

 恐喝

 その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。

 何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。

 我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。

 それを止めることによって、周囲の遺伝子キャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったかである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子キャリア頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなってしまうからである

 恐らく、ありとあらゆる種類の暴力行使は、我々の遺伝子レースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。

 つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。


 それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである

 何かを盗んだことがあるということである

 誰かを傷つけたことがあるということである

 誰かを犯したことがあるということである

 誰かを騙したことがあるということである


 誰かにまれたことがあるということである

 誰かに傷つけられたことがあるということである

 誰かに犯されたことがあるということである

 誰かに騙されたことがあるということである


 その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである

 我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。

 我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。


 我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。

 我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。


 例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代存在することになる。そして、当然そのような世代は必ずしも一人の人間継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟姉妹存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。

 我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年歴史において暴力を振ったものなどいないと言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。

 我々は暴力と共にある。我々は(そして私は)、これから暴力を振るい、そして暴力を振るわれるだろう。

 これまでもそうだったし、これからもそうだろう。我々は生きなければならないからだ。

2020-09-04

anond:20200904232038

例えば、心理学という言葉はあまりにも乱用され過ぎているけれども、科学としての心理学は非常に客観的だよ。(まあ、あまりにも客観的なので「ただの統計」と揶揄されたりもするけど。)

「目の前の現象を観察して、法則見出し言語化する」という営みの対象ホモ・サピエンスであろうが、「こころ」であろうが、科学科学だし、非科学非科学。ただまあ、自然科学よりも遥かに難しい対象から自然科学よりも遥かに「わかること」は限定されるけれども。

自然科学だって、例えば地震予知は非常に難しくて、未だにほとんど何も分かっていないという状況だけれども、「だから研究するだけ無駄」とは誰も言わないでしょ?

「非常に難しい」ことと、「不可能であることは全く違う。「不可能」だと主張するなら、それこそ科学的に証明される必要がある。

2020-09-03

モテない、結婚できない、子供が持てなくてツライと

思えるような人間になれなかった。

何回思考をやり直しても、『現状のホモ・サピエンス個体数を充分に確保しており、むしろ過剰な人工により資源の浪費が発生している。今は人工の抑制に務めるべきである

という結論しか達しない。

かに孤独感や虚しさといった感情が私の脳内観測されることはあるのだけれど、結局それは生物の脳がCPUのように電圧だけでなく、神経伝達物質演算使用しているだけであって、脳が見せている幻想しかない。

2020-08-23

暴力に囚われていない」という幻想

 僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。


 人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラトロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンス分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、集落を作り、文明を伝えてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。共通利益としての安全を求める性質が、かつての我々にあったことは否定しないが、恐らくそこには絶えざる暴力連鎖があった。

 ここで言うところの「暴力」とは戦争軍事力媒介にした暴力行使を指しているわけではない。

 暴力は我々の身近に存在している。

 ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。

 繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、当然そこに至るまでにシームレス旧人類種のグラデーション存在している。我々の遺伝子レースきっかり三十万前に始まったわけではない。あるいはそれは五百万年前かもしれないし、一千万年前かもしれないし、一億年前かもしれない。あるいはもっと前かもしれない。

 例えば、我々の遺伝子レースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代存在したということになる。仮に、たった百万年から我々にとっての遺伝子レースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者存在することとなる。

 とにかく我々は遺伝子キャリアとして長い時間を旅してきた。


 そしてそこには必然的に、暴力行使がまとわり付くこととなった。

 それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったかである

 例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要ものとは暴力である

 例えば、そんな事態においては武器必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志必要になる。

 これは余りにも自明である

 無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人類暴力を振るうことも大いにあったであろう。そのような人類に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。

 更には、そのような暴力防衛自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的暴力行使可能性があったことを、認めなければならないであろう。

 そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。

 まず挙げられるのは、殺人

 強盗

 強姦

 傷害

 恐喝

 その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。

 何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。

 我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。

 それを止めることによって、周囲の遺伝子キャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったかである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子キャリア頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなるからである

 恐らく、ありとあらゆる種類の暴力行使は、我々の遺伝子レースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。

 つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。


 それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである

 何かを盗んだことがあるということである

 誰かを傷つけたことがあるということである

 誰かを犯したことがあるということである

 誰かを騙したことがあるということである


 誰かにまれたことがあるということである

 誰かに傷つけられたことがあるということである

 誰かに犯されたことがあるということである

 誰かに騙されたことがあるということである


 その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである

 我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。

 我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。

 我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。

 我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。


 例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代存在することになる。そして、当然そのような世代は必ず一人の人間継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟姉妹存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。

 我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年歴史において暴力を振ったものなどいない、と言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。

 我々は暴力と共にある。我々は(そして私は)、これから暴力を振るい、そして暴力を振るわれるだろう。

 これまでもそうだったし、これからもそうだろう。我々は生きなければならないからだ。

2020-08-21

anond:20200820101508

火星で生まれた人」がホモ・サピエンスでなく、火星独自進化した火星であるという前提

かつ、その火星人が地球に来て地球言葉を話そうとしているという設定で考えてみると

 

1)コンタクトしようとする相手言語に合わせる(日本人相手なら日本語を、中国人相手なら中国語を話す)

2)その時点で最も「地球公用語」と呼ぶにふさわしい言葉を話す(現代なら英語だろう)

3)火星人にとって発声やす言葉を選んで話す

 

この中のどれかではないだろうか

2020-08-13

anond:20200813151416

ちなみにホモソーシャル場合ホモというのは同一、同質の、という意味接頭辞で、ギリシア語のὁμός(英語で言えばsameなんかと語根が同じらしい)が元。

ホモ・サピエンスのホモラテン語人間意味するhomōなので全く意味が違います。語根も違います

許して欲しいのはこっち

まさかギリシア語ラテン語で全く違う言葉だったとは知らなかった…

増田のお陰で勉強になったよ、ありがとう

anond:20200813141641

anond:20200813141253

後半部分についてはここにある通り元々が男性と深く結びついた語彙だからという話に過ぎないよ

女性関係については分析言及が少ない、と思うならご自分でなさればいいと思うよ

本当に全くないのかは謎ですが。



かに、同質性から来る女性への偏見配慮のなさ(≒ミソジニー)はホモソーシャルの側面として槍玉に上がるだろうけど、同性愛差別がどうこうというのはマジで謎だし

そのホモと言えば男性同性愛、ってのが至極浅い理解で、お前がそれに引っ張られてるだけだよねという気しかしないのだけど

ちなみにホモソーシャル場合ホモというのは同一、同質の、という意味接頭辞で、ギリシア語のὁμός(英語で言えばsameなんかと語根が同じらしい)が元。

ホモ・サピエンスのホモラテン語人間意味するhomōなので全く意味が違います。語根も違います

anond:20200813135838

この増田の読解力が低いのか、こちらの読解力が低いのか、あるいはその両方か

かにホモソーシャル」という言葉本来性的関係を含まない社会的同性関係の話」を指す言葉だけど

実際にホモソーシャルという言葉男性同士の付き合いに内包されると言われるミソジニー女性蔑視)・ホモフォビア同性愛嫌悪)を批判する時に使う場合殆どだよ

例えば「ホモ」という言葉本来ホモ・サピエンス(人間)の略称の筈だけど実際ただ「ホモ」と言うとホモセクシャル同性愛者)を指すような物

女性同士の「性的関係を含まない社会的同性関係の話」を指してホモソーシャルという言葉を使ってる人はあまり見た事が無いし、大体男性批判がセットだよね

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