はてなキーワード: 私の履歴書とは
17歳でバイク事故に遭い右腕が一生動かない状態になりました。
以来、転職先を探し続けて4年目。
唯一、契約社員で2件勤めたがどれも長く勤めたいと思える会社では無かった。
もちろん、ハローワークにも通いましたし、紹介もしてもらいました。
ですが、どこの会社も『転職回数が多い』や『退職理由についてこだわる』傾向が見られました。
また、面接では、心理カウンセラーらしき資格を持っている方と思わしき人物からも『服用している薬の名前』を聞かれた。
この服用中の薬名を聞いてくるところなんかは、法律に抵触しないものの、完全なグレーゾーンです。
つまり、服用している薬名から『精神疾患者』を避けているという面が伺える。
さらに会社側は、そういう人物については老若男女問わずに回避可能であること、リスク回避と言えば聞こえはいいが、労働者の『可能性』を完全否定している。
それと、私は15歳から就職し、かつ、夜間高校に通っていたので、他人よりも転職回数は多めです。
他人よりも3年は早く社会に進出しているため、転職回数は増える傾向にある。
しかし、採用担当者は、履歴書を読んだイメージから、「転職回数が多い=要注意」と判断している様子。
私、自分自身の技能を上げるために、体が不自由ながらも2013年に『普通2種運転免許(タクシー)』を取得、さらに2015年には『フォークリフト免許』を取得しています。
私の履歴書を見て、この資格に反応した方は1名はいましたがあとは「あぁ、そう」程度しか見ていない。
物流系の仕事も全滅、ハローワークも全滅、障害者専用サイトもほぼ全滅。
世の中に、働く気力のある障害者がいても、全く無視ですか、実社会は・・・。
誰も私を理解しようとしない、あくまで書類のみで判定している。
私としては日常生活で発生する問題は、全て自分でこなすので、『何が出来ますか』よりも『何が出来ませんか』の方が答えやすいのですが、そのように伝えても採用担当者は理解していなかった。
そういった面を全く配慮しない採用担当者のレベルの低さに困っている。
悪事以外は何でもやるつもり、TVに出られるなら出演料さえ頂ければ、TVにも出ます。
車もあるし、2種免許も持っているので、なんとかなるかも?!(無理かな)
こんな状態の私。
年老いた母親と同居していますが、支払いが多く、母親の年金に食い込んで生活しています。
本当なら、母親へは、元気に『いってきます』と『ただいま』を言いたい、働き盛りのこの俺に何か仕事くれ!
阿部さん助けて~!
無職になって求職活動中の俺が思った最低限守って欲しいなと思うこと
まず、応募したら返事をください。
通過でも不通過でも、埋まってしまいましたでも求人は嘘ですでも構いません。
最低限、応募者へ返事をしてください。
もちろん、事前に「不採用は通知しません」等と明示出してたらそこまで求めませんが。
「1週間以内に返事をします」と言ったら1週間以内に返事をください。
もし何らかの要因で合否を伝えることが難しいなら、期日までに「返事が遅れます」という一言をください。
役職まで言ってくださいとは思いませんが、せめて自分の名前ははっきりと名乗ってください。
あなた方は私の履歴書を持っていますが、私はあなた方の履歴書を持っていません。
相手が話してる時は顔を見る、ノートPCの画面で壁を作らない、敬語を使う等
初対面の人と会うならば最低限の礼儀は守ってください。
そんなに難しいことでしょうか……?
匿名で書こうと思ったのは、まぁ自分の名前を晒すのはどうかと思ったから。
うん
10月上旬より転職活動をして、なんだかんだ休止を含めて11月下旬まで活動してました。
今の企業にものすごい不満があって、年収やら職場環境の改善やら求めて転職を決めての活動。
いろいろ迷うこともありましたけど、無事内定を頂いてε-(´∀`*)ホッとしています。
まぁ転職ってみなさん、人それぞれ思い出がありますよね。あそこの会社ではうまく志望動機が言えなかったとか、待遇が悪そうなので思わずぽろっと言ってしまったとか、行きたくないけど本命前の練習で受けたら通ってそこに行く羽目になったとかetctec...
今回日記で残そうと思ったのは、転職の採用面接で1社ほど嫌な面接をされたから。ちょっと備忘録的にも皆さんにも知ってもらおうかなぁっと思いまして、今回転職で経験したことと嫌な面接を思い出代わりに記述します。
そこで、最初に今回の転職を開始した時のことを書こうと思います。何も知らずに転職サイトに登録してエージェントの方にあったり、非公開求人に応募したり、自己応募したり、そして面接へ・・・。面接の項目でたった1社ほど嫌な面接をされたので、記述します。
○転職開始
自分自身右も左もわからない状態で転職サイトに登録しました。転職のやり方が分からずに、「とりあえずここの転職サイトに登録してみるお・・・」ってな感じでした。
WEB履歴書では学歴を細かく記述するサイトもあれば、学歴は最終がきちんとわかればいいだけっといったところもあります。
自分が登録したところは最終学歴だけを記述するところでした。その後職歴やスキル、資格などを記述します。どのサイトもそうですが、ここは細かく聞かれます。
WEB履歴書「TOEIC何点?普通自動車免許持ってる?その他資格は?プロマネ経験あるよね?えっ?何?やったことない?ださwww」
自分の場合、職歴の部分はかなり埋めることが出来ました。人によって違うと思いますが、結局応募した企業が求めるスキルや経験があるか?なので、多く埋めて意味が無いことが往々としてあるんじゃないかなっと思いました。もちろん幅広い知識・経験が多いと多くのチャンスが来るのは事実ですが、その分その分野における専門的知識が浅いと判断されることもあります。
その企業がどういう人を求めているかによって決まるので、多い少ないは気にしないでいいと思いますし、実際に書類選考で落ちてもマッチングしなかっただけなので、特に気にすることはないと思います。
私の場合、「今までのご経験と企業が求めるキャリア・スキルが若干異なった為」という理由で何個か落とされました。
登録したあと、エンジャパンやリクルートなどはエージェントとの面談が設定されます。転職希望者にはエージェントがお話を聞いて、転職するしないを含めて、真剣なアドバイスをしてくれます。特に転職するしないもアドバイスしてくれます。安易な転職理由ですと「今の企業で頑張ってみてはいかが?」というふうに諭されることも多いです。私の場合、現在務めている会社の将来がすでに危うくなっていた為、そのようなアドバイスはありませんでしたが、実際にそのようなアドバイスをした、されたという方に転職活動で出会ったことがあります。
エージェントは、親身になって真剣なアドバイスをしてくれますが、その一方でかなり機械的な対応をします。
性格診断などを事前に受けさせて、自分の性格にあった企業はどのような企業か説明してくれたり、職務経歴書・履歴書記述のアドバイスなどをしてくれます。それらはだいたいパターンが決まっています。
とくにエージェントの説明でパターンが決まっているのが「書類選考通過率は2割ですので、多くの企業を受けてください」というものです。
この多くの企業を受けてくださいというのには、賛成もあれば反対もあります。
反対の意見として、納得出来ない企業に入社するというのを上げる人がいます。
30代で転職を多く繰り返す人が時々見受けられますが、その人は多くの企業を受けて、受かった企業の中から妥協して入社します。つまり、自分が納得行かない部分もその時は受けれ入れて、入社するという選択肢を選びます。そのため、入社後不満をもち、再度転職をするというのを繰り返してしまいます。特に転職は内定が出ても5日未満で内定承諾書提出を求めるところが多いです。長くても2週間待ってくれるかどうかでしょうか?
多くの企業を一度に受けるということは、妥協してしまう企業も中には含まれる危険性も伴います。
そのため「自分にあった企業を1社ずつ受けていく」というのを進めている方もいます。
賛成の意見として、早く応募しないと枠が埋まってしまうというのを上げる人がいます。
一方で、転職の場合は、倍率が非常に高い場合が多く、早めに応募しないと枠が埋まってしまいます。
私が見た中で一番ひどかったのは、169名応募して枠が1名でした。
選考は応募者順に行われることが多く、遅めに応募すると時すでに遅しということが往々としてあります。そのため、少しでもいいかなっと思った企業はどんどん応募しろというかたもいらっしゃいます。
私の経験から言うと、納得できる企業には応募して、できない企業は応募しないほうが良いと思います。
その結果同時進行が1社2社しかない、一方である時期は同時進行が10社もあるという状況が出てきても、個人的にはいいと思います。
多く受ける受けないより、行きたい企業の募集が出た時にすぐに応募できるかどうかが大事だと思いました。
エン・ジャパンですと、(確か)月曜日と木曜日に求人が更新されます。リクルートですと毎日求人が更新されます。その時にメールなどでおすすめ求人などが届くと思いますが、その求人でいいのがあれば、すぐに応募すべきだと思います。
エージェントによって、転職成功率が左右するというのはあまりないと思います。
私の場合、ついてくださってエージェントがかなりいい人で、メールなども丁寧に対応して頂きました。本当に感謝しています。
メールの返信が本当に早く丁寧で、私一人のためにかなり多くの時間を割いて頂き、本当にいい人に巡り会えました。
本題に戻りますw
・性格診断などの結果の通知
・非公開求人のご紹介
などが行われます。
この非公開求人ですが、
「おすすめできる企業かどうかを転職サイトが審査し、審査に合格した中で、企業が非公開を望んだ場合非公開求人としています。」
という説明を受けました。非公開求人に応募できるかどうかは、転職エージェントが判断するので、おそらく「誰も彼も面接したくない。求人にマッチした人物と面接(書類選考)をしたい」という企業が利用しているのではないでしょうか?
中には公開できない求人というのも中には存在すると思いますが、私には縁のない求人だと思いますm(__)m
エージェントを通じて非公開求人に応募したら、あとは書類選考面接SPIテストなどが待っています。
実際にはエージェントの方で、テスト内容をある程度持っているので、どのようなアピールをしたらいいのかアドバイスが有ります。
○公開求人での応募
さて、私が嫌な思いをしたのは公開求人でした。
あとからエージェントから聞いたのですが、公開求人と非公開求人では審査が若干違うとのこと。また、もし面接をまともに行わないような企業であれば、指導が入り、悪質な場合は取引を行わないと言った措置も取るそうです。
非公開と公開でどのように審査が違うのかわかりませんが、若干ゆるくなるのではないでしょうか?もし知っている人がいれば教えて下さい。
公開求人で、GISの会社を見つけ、「面白いことをやっている会社だなぁ」と思い、応募しました。
(小さい方です。ド―――(゚д゚)―――ン!)
この時点で若干おかしいと気がつくべきでした。
日程調整が明らかに慣れておらず、日程調整だけで12,3通メールをやりとりしました。
○日の○時に来てくださいと日程を一つしか掲示しない(ここまでだと、他の企業もやっているところはあります)、その日程に関して変更が入る、変更をこちらに掲示したにもかかわらず担当のものに最終確認してから決定するっとメール。まぁまぁ、ここまではまぁしょうがないなぁっと思うのですが、当日の持参物に関しても、あとから追加があったのはさすがに「はじめに行ってくれれば…」と思いました。
結局、日程も持参物も混乱した状態になってしまったため、こちらがメールで綺麗にまとめて、確認をしました。
これで日程調整は完了。あとはお伺いするだけです。
当日
受付にお伺いして「面接を受けにきました」という内容を伝えます。
受付の人は「あぁ」と面食らった状態で、面接室に通してくれました。どうやら、本職(?)の受付の人ではなく、臨時の人で対応がわからなかったみたいです。みたいですというのは、帰りは別の人がいて、キリリとした顔をしていたので、私がそう思っているだけですw
通された部屋で「書類に記入してお待ちください」と言われました。
私が「はい」と返事をして、一例。ドアを閉めて受付の人が奥に下ります。
通された部屋の机の上に2枚の書類がありました。1枚は個人情報取り扱い同意書。はい、同意させていただきます。
もう一枚が、健康診断の問診票(?)のようなもので、今までかかった病気や、健康で働けるか?といった設問でした。
問:いままでかかった既往症を記入してください
--
きおうしょう【既往症】
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A2%E5%BE%80%E7%97%87-239267
--
お、おう…。
とりあえず、風邪って書いておきました。
最後に「嘘偽り書いてませんよ」ってところにサインして判子押して終了。
とりあえず、この時点で、この会社やばいというふうに結論付けました。
「応募した理由は?」
から始まりました。うん。自己紹介ないのはびっくりした(自己紹介ない会社は他にもあります。そのような会社が初めてだったので驚いただけです。なお名刺を渡してくれる会社など、普通は面接官の自己紹介があります)
色々と質問に答えていくのですが、とにかく高圧的だったのを覚えています。
「よく国立大学受かったねw」
といったものでした。
そうこうするうちに、面接官が一人増えました。
増えた面接官は私の履歴書・職務経歴書を事前に読んでおらず、突然呼ばれました(面接終了後、軽くお話をしたのですが、面接官予定はなかったそうです)。
結局その人はあまり質問できずに終わりました。あとにも先にも、突然面接官が増えたのは初めてでした。
○結局
しかし、自己紹介がなかったり、高圧的な質問だったり、失礼なことを言われたり、面接官が増えたり、あとにも先にもこのような会社はここだけでした。
小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県生まれ神奈川県・東京都育ち(1歳から小4まで東京/中学から神奈川/高校東京)
利根川進 ── 京都大 ── 愛知県生まれ富山県・東京都育ち(小学校富山/中学から東京)
白川英樹 ── 東工大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち(小3から岐阜)
朝永振一郎 ─ 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち(小学校から京都)
下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府生まれ長崎県育ち(幼少期に長崎/中学でまた長崎)
根岸英一 ── 東京大 ── 満州国生まれ神奈川県育ち(小学校から神奈川)
東京大7
京都大5
名古屋大2
■生まれ
大阪府2
■育ち
京都府3
http://kamomenome.exblog.jp/14156659/(元ソースから間違いを修正)
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湯川秀樹(出生地:東京都)両親は和歌山県 ※中間子論は計算間違いであった
江崎玲於奈(出生地:大阪府)親は大阪府、三重県 ※助手のアイデアのパクリ
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下村脩(京都)両親は長崎県 父が福知山連隊所属のため京都生まれ
根岸英一(満州)親は東京都、本籍は日本橋、目黒の根岸家に戦災で親戚が大勢つめかけたため神奈川移住
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わたしは1926(大正15)年9月19日に、愛知県の豊橋で生まれた。軍人だった父の
小柴俊男がそのころ豊橋の陸軍第18連隊に所属していたからだ。
母親は、はやといって、千葉の木更津の農家の末娘だった。木更津高等女学校を出て、
父と結婚した。どういうなれそめで知り合ったのかは知らないが、父も千葉の館山の
父は農家の三男に生まれて、中学に通うのも親せきの造り酒屋で小僧代わりに働きながら
学費をだしてもらった。さらに進学する学資はないから、学資不要の陸軍学校へ進んだらしい。
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祖父の塩川三四郎は1873年生まれ、政治家を志して長野県から上京し、東京帝国大学法学部を
卒業した。そして、渡辺千秋(長野県出身)の次女・千夏と結婚した。
「野依」は母方の血筋で、福岡県の東部、築上郡吉冨町に行き着く。「立野屋」の屋号をもつ
庄屋で酒づくりをなりわいとする大地主であった。
(野依良治『私の履歴書 事実は真実の敵なり』日本経済新聞社)
http://kingendaikeizu.net/gakusya/noyori.htm
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E8%84%A9
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朝永振一郎の父三十郎は、東京で真宗大学在職中に旧川越藩士大枝美福の長女ひでと結婚している。
朝永振一郎「なぜ京都にいながら東京弁使っているかっていいますと、おふくろが埼玉県生まれで、
おやじは長崎生まれで、中学の頃東京に出て、ずうっと東京にいた。そういうわけで、家庭では
東京弁を使っておりました」(『回想の朝永振一郎』みすず書房)
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私の父は仏壇屋の家業を継ぐのを拒み、文学者になろうと家をとびだした。東京で私が生まれた。
母は福島県の出身だった。しかし私が2歳のときあの大震災に遭い、一家はやむなく福井に戻った。
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利根川勉「私の親父は守三郎といいまして、福山藩(広島県)の貧乏侍の息子でした。ところが
同じ貧乏侍の利根川という叔父に子供がなくて、岡本という家から養子に行きました。
家内の父方は弘前藩士(青森県)の家系でした」(利根川進受賞時に父・勉氏へのインタビュー)
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北大理学部を受験した時、母は「落ちてくれ」と本気で祈っていた、と譲さんは明かす。
恩師は「章君を大学に進ませて」と勧めたが、家計に余裕がない。町で理髪店を営んだ
山形県出身の父の定輔さんは1946年に51歳で死去。長男の鈴木さんは16歳だった。
(「タウンガイド札幌2010年10月11日)(母ナエも山形県出身)
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私見だが、夏目漱石の三四郎が文壇で評価され、「日本近代文学の祖」になった理由は、案外単純な理由な気がする。
「三四郎に描かれてる帝国大学の学生模様が、文壇主流派にとって『インナーな話』で懐かしかった」から、
分かりやすく書くと、文壇の大御所たちも東京帝国大学の出で、だから夏目漱石の三四郎は「東京帝国大学物語」で、心地良かった。
それまで「東京帝国大学物語」を書いた作家はいなかったから、その意味では夏目漱石の目の付け所はシャープだった。
よく考えたら、東大生の日々を描いた小説って、「三四郎」以降、存在しないんじゃないか?
東大生自身にも責任があるが、東大OBは、「三四郎」みたいなリアルな「東京大学物語」の小説化を怠ってきた、
一方で、ライバルである京大は、最近「鴨川ホルモー」で登場したりしてるのが羨ましい。
実際、東大が舞台の小説は後森鴎外と大江健三郎にしかないようで、このままでは世間は東大は「江川達也のマンガの世界」と誤解しちゃう。
※いや、東大の様子は、東大OBの「私の履歴書」を断片的に繋ぎ合わせれば、判るかな?
「三四郎」時代の東大は、あれはあれで趣きはあるが、工学系統が全く描かれてない点で今の東大とは別物。
せいぜい生糸工業と綿紡工業しか日本になかった三四郎当時の東大工学部と、現代の東大工学部で、「プレゼンス」が雲泥の差なのは当然。
http://www.nytimes.com/2011/01/28/world/asia/28generation.html
敬称略。
東京 ― ホリエケンイチは有能な自動車エンジニアだった。日本ではこのような若い人材が、ハングリー精神あふれるライバルの中国や韓国と渡り合い、現在の地位を保つために必要とされている。30代前半のとき、彼は主要自動車会社に勤めており、先進的バイオ燃料のデザインによって評価を得ていた。
しかし、多くの日本人のように、彼は非正規労働者だった。時限付き(temporary)契約のもとで、雇用保障もほとんど無く、そのほとんどが40代後半である正規労働者に比べて半分の給料しかもらっていなかった。彼は10年以上正規労働者になろうと努力したが、ついに辞めた。時限付き契約だけではなく、日本そのものを、である。
ホリエは語る。「日本の会社は年老いた労働者を守るために若い世代を浪費している。日本では私の道は閉ざされている。台湾では私の履歴書は完璧だと言われた」
経済大国としての地位が揺らぐ中、日本は努めて、減ってゆく若い世代の生産性と起業精神を解放しなければならない。しかし日本はまさに正反対を行っているように見える。その結果、成長は衰え、年金問題を増加させ、この木曜日にスタンダード&プアーズが日本国債の格付けを下げた主な理由の一つとなった。
"The Truth of Generational Inequities" (訳注・『世代間格差ってなんだ』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569790216)の共著者である城繁幸(36)(訳注・http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/)は語る。「若い世代の間では、どれだけ自分たちが頑張ろうとも、前に進むことはできないという意識がある。どの道も閉鎖され、頭を壁にぶつけているようなものだ」
年老いてゆく人口が日本の経済を停滞させ、既得権益を貪り、既に階層的な社会構造をより強固に、保守的にしていると、若い人々や専門家は警告する。その結果、日本は座して何もせず、成熟した経済が育てるべき新しい製品や会社や産業を実際に作っていかなければいけない時に若者を過小評価している。
ソニーやトヨタやホンダを作った国は、ここ数十年、若い起業家や社会のゲームを変えるような会社(Google や Apple のような ― どちらも20代が作った会社だ)を育てることに失敗してきている。
若者の雇用状況は、日本が二流であることを強調している。日本が何十年も停滞した結果、すべての世代で非正規雇用は増えてきているが、若い世代は一番痛くこれを食らっている。
昨年は15歳から24歳までの労働人口のうち、45%が非正規雇用者だった。この数字は1988年には17.2%であった。さらに、より上の年代の非正規雇用者率と比べても2倍近くの数字である。古い世代が古い方法に執拗に固執しているのだ。日本のメディアは日本の第二就職氷河期が深刻かを伝えている。2010年10月時点で、卒業生のうちたったの56.7%しか内定を得ていない。これは過去最低である。
世代間格差について研究してきた秋田大学の島澤諭教授は語る。「日本は世界で一番世代間格差のある国だ。日本が活力を失ったのは、古い世代が道を譲り、新しい世代にチャレンジして成功する機会を与えないからだ」
多くの国家が高齢化社会にあるが、日本の人口の惨状は本当に酷い。2055年までに40%の人口が65歳以上になるだろうと予想されている。いくつかの結果はずっと予想されていたことだ。例えばデフレである。多くの人が定年し、貯金で生活するようになると、出費を抑え、日本の国内消費の沈滞をさらに強くする。ところが、あまり予想されてこなかった効果として世代間格差の現れがある。
至る所で格差が格差を生んでいる。ホリエが指摘したように、会社が若い労働者を押しなべて低賃金で先の見えない仕事をさせ、結果的に古い世代にラクな仕事を残しておくためのコストを負わせている。またある人が言うところでは、年金制度が古い世代を優遇するようにねじれているため多くの若い労働者は支払いを拒否したり、アメリカ人にも馴染みのある "Silver democracy" (教育よりも高齢者に遥かにお金をかけること)が起こったり、時代遅れの雇用制度が disenfranchised (訳注・直訳では参政権を奪われたという意味らしいが、ここでは特権に預かれないという意味か?)な若いロストジェネレーションを生み出してきている。
明治大学4年のイノウエナギサは、仕事なしで卒業して給料の高い仕事に就ける機会を永久に失うよりも、大学で5年目を過ごすことを考えているという。これはつまり、日本の会社が、日本の企業文化により順応するとされている新卒ばかりに安定した正規の仕事を与えるからである。
皮肉なことに、イノウエは大企業で働きたいわけではなく、ただ NGO の環境団体に入りたいだけなのだ。しかしそれをすることすら彼女に正規雇用への道を閉ざすのだという。
「私はただ人と違ったことをすることができる自由が欲しいだけなのです。しかし、人と違ったことをするために支払うコストが大きすぎるのです」
多くの専門家は、厳しい経済情勢によるプレッシャーが日本の "one-size-fits-all" な(型にはまったことしか許さない)雇用システムに加わったと指摘する。明治大学のオンライン調査によると、18歳から22歳の若者のうち3分の2が、リスクを負ったりチャレンジしたりしたくないと感じている。そのかわり、彼らは内向的で、大志を持たずに生きることに満足するか、あるいは少なくとも諦めているという。
東京大学教育学部の本田由紀は語る。「古いシステムと若い世代にはミスマッチがある。多くの若い日本人が、彼らの親の世代のような仕事一辺倒の生活スタイルを望んでいない。しかし彼らには選択肢がないのだ」
民衆の怒りに反応して、厚生労働省は昨年の終わりに、雇用者に、卒業から3年までを新卒とみなすように通達した。さらに、新卒を採用した会社は最高で180万円の奨励金を出すことにした。
しかしながら、企業精神の不足ほど、若い企業にとっての障害、ひいては日本の経済の悲惨さを顕著に表しているものはないだろう。(訳注・id:oga_jp さんの訳、「恐らく起業の不全こそが、若年事業家の直面する最もあからさまな障壁であり、日本経済の行く末を悲惨にするものである」を参考にしました。ありがとう)
2009年に日本では株式公開(IPO)が19しか無かった。アメリカでは66だ。さらに、通産省によると、日本の起業家のほとんどが高齢である。2002年には日本の起業家のうち、20代は9.1%しかいなかった。アメリカでは25%だ。
日本の起業家で、自身の経験を元に本を書いた板倉雄一郎(訳注・http://twitter.com/yuichiroitakura)は語る。「日本はゼロサムゲームになってしまった。既得権益を享受する層は、新参者は彼らを狙う盗人であると恐れ、ビジネスをしようとはしないのだ」
多くの日本の経済学者や政策立案者(訳注・policymaker; 政治家ではない)は、起業精神を育てるのが日本の経済の病気への特効薬だと、ずっと主張してきた。これは歴史的前例に基づいていることでもある。日本は戦後の灰の中から、若い起業家が大胆なスタートアップを生み出し、世界を席巻したのだ。
しかし、多くの人々は、日本の経済はその全盛期から骨化してしまい、革新的な会社がもし生まれたとしてもほとんどないことだという。それはなぜかというと、多くの人々は日本で最も知られたインターネットの大君、堀江貴文の悲運を挙げる。
2000年代の初めに彼が突如登場したとき、彼は最も日本的でない人物だった。茶目っ気のある30代の前半で、会議室にTシャツを着てきて、図々しくルールを破り敵対的買収を始め、再び活性化してきつつあった日本の経済がついに飛び跳ねようとしていた時勢に乗った。彼は5年前に、古典的な天罰のように証券詐欺で逮捕され、メディアは彼を不快でやりたい放題のアメリカ式資本主義の象徴として悪者扱いした。
2007年に裁判所は、彼を会社の記録を改竄したとして有罪にした(まだ上告中であるが)。しかし、何人もの若い日本人が、取材中に若い世代の倦怠感を説明するときに堀江を取り上げるのである。彼らにとっては、堀江は別のものを象徴しているのだ(訳注・前段落の「資本主義の象徴」対して)。つまり、保守的な体制に潰された若きチャレンジャーだと。彼らに言わせると、堀江の逮捕は、「ボートを揺らすな」という若い人への警告であったという。
37歳になった堀江はメールで語った。「あれは、伝統が作り上げた秩序に静かに従っていたほうがいいというメッセージだったのだ」
He remains for many a popular, if almost subversive figure in Japan, where he is once again making waves by unrepentantly battling the charges in court, instead of meekly accepting the judgment, as do most of those arrested. (訳注・「判決を素直に受け入れるのではなく、懲りずに戦い続け、もう一度波を起こそうとする破壊分子のような人物としてまだ有名である」?)彼には総理大臣を超える50万人以上の Twitter のフォロワーがいて、人々をシステムに立ち向かうように促している。
25歳の大学院生にして、日本人が希望を失う中で幸せであり続けるための方法についての本(訳注・『希望難民ご一行様-ピースボートと「承認の共同体」幻想』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334035787)を書いた古市憲寿(訳注・http://twitter.com/poe1985)は語る。「堀江は模範的な人物に今までで一番近い存在だ。彼は古い日本と新しい日本のせめぎ合いを代表している。」
古市や他の多くの日本人は、若い人は怒りや抗議を見せないという。そのかわり、彼らは自分を責めてドロップアウトしたり、親の世代より遥かに制限された展望の中で満足感を見つけようと、進んで諦める道を選んだりするという。
このような空気の中、若い政治家たちは同じ世代を政治に感心を持たせるのは大変だという。
高橋亮平(訳注・http://twitter.com/ryohey7654)は東京都市川市の元市議会議員で、他の若い政治家と共にワカモノ・マニフェスト(訳注・http://www.youthpolicy.jp/)の活動に加わった。これは若い日本人が自分たちの主張を表明するためのものだ。
2009年の終わりに彼は、市が若い家族や教育に投資を移すプラットフォームを掲げて市長に立候補した。しかし若い人はほとんど投票に関心を示さなかったので、市の最も有力な投票ブロックである退職者や建設業などの50代や60代に牛耳られた層に迎合するしかなかった。
高橋は語る。「時間が経つと、それだけで古い世代が力を持ってしまう。彼らは何もせずとも増えていくのだ」
彼はその選挙に負けた。彼は、日本が "silver democracy" つまり多くの予算が高齢者のために使われる社会、になってきているという痛いレッスンだったという。
専門家は、不足していく予算をどんどん切っていくことは、日本の若者が、現在の退職者が受けてきた利益を最早絶対に享受できないということを意味するという。試算によると、今日生まれた子供は、既に退職した人に比べて、年金、健康保険、その他の政府の支出を120万ドルも下回る額しか受け取れないことになる。年金だけを見てもこれは何万ドルにも何十万ドルにもなる。
結果として、日本の若者は集団でこのプログラムから逃げ出している。35歳以下の若者の半数が、年金を払っていないのだ。たとえこれが将来、彼らが年金をまったく受け取れないということを意味するものだとしても。高橋は言う。「フランスでは暴動が起きる。日本では単純に、払わないだけだ」
もしくは、ドロップアウトするだけだ。日本の最初のロストジェネレーションが10年前にしたように。
キョウコは、彼女の就職の見通しがこれ以上悪くなるのを避けるため、苗字を名乗るのを避けた。ほぼ10年前、早稲田大学の3年生だったとき、彼女は戦後の日本で踏みならされた、日本のトップ起業に入る道を進むつもりだった。彼女は、日本の起業が好む勤勉で服従的な人物に見えるように、熱心だが主張しすぎないように努めた。
10社ほど面接をウケた後で、彼女は軽いノイローゼになり、辞めることにした。以前は憧れた父親のような会社の戦士にはなりたくないのだと気付いたのだという。
卒業するまでに仕事を見つけることが出来なかった彼女は、フリーターという階層に入るほかなかった。低賃金な短期の非正規労働に甘んじる底辺層の若者のことである。2004年に卒業してから彼女は6つ仕事をしたが、そのどれも、失業保険も、年金も、毎月の給料も15万円以上払うことはなかった。
29歳のキョウコは語る。「これは私がなりたかったものではなかったと気付いた。でも、自分自身でいたことの代償がこんなに大きいのは何故なのだろうか?」
私はマクロ経済問題、貿易、国際金融、産業政策、独禁政策、公共部門のスト権の問題等々、応用経済学の様々な分野に関心を持ってきた。器用貧乏と揶揄された事もある。
金融政策も私が長年にわたって関心を持ち続けた問題のひとつである。私は日銀のエコノミストたちと真っ向から対立して論争した事が何回かあった。
1回目は1960年代前半の吉野俊彦氏との論争である。当時の私はマクロ経済と国際金融関係は万事ケインズ的に考えていた。他方、吉野氏は金本位制主義だった。J・M・ケインズにとって、金本位制は「大嫌いなもの(bête norie)」だったが、吉野氏にとりケインズとケインズ経済学は”bête norie”だった。生意気な若造であった私を相手に議論に応じてくれた吉野氏に、私は深く感謝している。しかし、基本的な経済哲学が違っていた。
2回目は「73-74年の大インフレーションは日銀が起こした」と言う趣旨の76年の論文で金融政策を厳しく批判した。当時の日銀幹部が田中角栄首相の「日本列島改造論」に遠慮して金融引き締めが遅れ、マネーサプライが膨張して石油危機以前に大インフレが始まったと私は論じた。
3回目は77年以降の私に対する外山茂理事(当時)の厳しい批判と、私の反論である。「日銀派」を代表する外山氏は欧米の標準的な金融理論以前の古い考え方で、手品のように恒等式から様々な結論を導くが、私にはその論理がわからなかった。
80年代後半から90年代初めにかけての「バブル」現象についても、日米経済摩擦の下で日本の黒字をさらに増やす恐れのある金融引き締めを日銀がためらった事が一因であると私は考えた。
しかし政治・行政からの独立性を大幅に強化した新日銀法が98年に施行された後の日銀の金融政策は、「100点満点に近い」と私は述べた。
これに対し、今度はかなりの人数の経済学者が反発した。要するに「もっと早くゼロ金利にしろ」とか「為替介入の効果を『不胎化政策』で減殺するな」という主張だ。私が大学院で指導し共著もある岩田規久男さんや、かつての東大の同僚の浜田宏一さんが一番厳しかった。ゼミOBの山本幸三衆議院議員も日銀叩きで名を馳せてきた。
私はあまりにも「日銀バッシング」がひどいと感じ、白川方明さん(当時日銀企画室審議役)と相談して八代尚弘さん(同日本経済研究センター理事長)にお願いして、討論の場を設定してもらった。論争は「金融政策論議の争点」という本になった。同書には小宮ゼミ仲間が日銀批判と反論の両方に何人も登場した。
日銀の政策委員会や支店長会議の写真で、小宮OBの白川総裁と大学院で教え「現代国際金融論」の共著者でもある須田美矢子委員の二人のお姿並んでいるのを見ると、私は不思議な気持ちになる。
私はいつも始まりは「少数派」であり、今もその気持ちは変わらない。しかし、しばらく前にマル経の若い人に「小宮さんこそ多数派でしょう」と言われて驚いた。「多数派」と言われるという事は、もうあまり斬新な意見を述べる舞台には登場しないと言う事で、現役ではなくなったわけであろう。(日本学士院会員)
別れ話がこじれた結果、「別に付き合う相手なんて誰でもいいんだからわざわざ君のような面倒な相手とつきあう必要はない」という趣旨の捨て台詞を吐かれてふられたことがある。結婚の話も出た相手だった。その言葉に私は自分でもびっくりするくらい深く傷つき、立ち直るまでには1年半時間がかかった。一時は誰とでも寝るということをやってみようかと思ったくらいだった。どうしてそう思ったのかはよくわからないけど、そのときはそうすると納得できるんじゃないかと思えたのだ。余計な話になるが、私の両親はとんでもなく保守的な考え方をする人達で、私は「結婚するまで処女でいるように」と躾けられて育った。つまらない冗談のようだが本当のことだ。さすがに20歳を過ぎてそれを額面通り受け取ることはできなかったが、それでも全く無視はできないという程度の束縛感はあった。だから自分がそう考えたこと自体が結構な驚きだった。
面倒な相手という点については、まあそう言いたくなる気持ちもわからなくはなかった。取り立てて異論はない。「面倒だから別れたい」と言ってもらえれば私もすんなり納得していたと思う。問題は「誰でもいい」の一言だった。我ながらいくら何でもそこまでショックを受ける必要はないだろうと思ったが、駄目なものは何をどう頑張っても駄目だった。悲しくてまともにものを考えられなかった。
時間が経って落ち着いてから、私は相手に何を求めていたのだろうとよく考えた。そして相手は私に何を求めていたのだろうと。
小学生の頃よく読んだ「赤毛のアン」シリーズに、何巻目だったかは忘れてしまったが、「人間は20歳くらいでその輪郭が決まってしまう」というような一文が出てくる。私はそれを真に受けて10代の数年間を過ごしたので、20歳くらいまでに何とか自分の方向性を確立しなければならないという強迫観念があった。そして20歳になる頃には本を読んでばかりいる生意気な理屈好きの小娘になった。ある時期からは手に取った本に書いてある映画を見て音楽を聴くようにもなった。村上春樹を読んでビーチ・ボーイズを聞きイオセリアーニやアルトマンを見るようになった。アーヴィングからヴォネガットに手を出し古典を読むようになった。そのうちペーパーバックも読むようになった。新しいものを知るたび少しずつ世界が広がっていくように感じられ、すごく楽しかった。でもそういう楽しみを誰かと分かち合うことはなかった。私の属しているところではそういうのは何と言うか、知的な気取りの一種のように見なされていたからだ。私は1人で図書館にこもり1人でタワレコに通い1人で映画館に出かけた。両親は極端に人付き合いが悪い娘にひとしきり説教を垂れたが、私としてはそれに特段不自由を感じなかった。友達がいて知り合いがいて1人の時間がある、それのどこが問題なのかと思っていた。確かにそういうのは客観的に見てあまり魅力的な姿とは言いがたかっただろうが、私は毎日いろいろと必死で魅力などというものについてじっくりと思いを巡らす余裕はなかった。そんなことについて考える暇があるなら丸善まで出かけて本棚を物色する方が100倍楽しい。私は何かの答えをそれなりに必死になって探している最中で、魅力なんてものは後回しにしておけばいいと考えていた。
一方、というか当然というか、私は「若い女性」という自分の属性にどうしてもうまく馴染めなかった。若い女性であることをすごく窮屈に感じた。そしてその窮屈さをなかなか言葉に表すことができなかった。人並みにフェミニズム関連の本も読んだけど、それはどれも目の前のあまりにもベタな現実とはうまく切り結ばなかった。例えばがつがつと本を読む若い女性は私の周囲にはいなかった。有り金全部を使う勢いで映画を見る若い女性もいなかった。本当にものの見事に誰一人としていなかった(たぶん趣味に関して引きこもっていたせいだろう)。私の周囲では、一般的に若い女性はそういうことはあまり好まないものだという観念が割と根強くあった。そういうのは趣味として上品に嗜む程度に留めておくべきものであって、没頭するべきものではなかった。もちろん若い女性の精神分析の専門家だとか映画監督だとかいう人がいるのは知っている。統計の授業を担当なさった先生はUCLA帰りで、とんでもなく優秀な上におよそ文化と名の付くものなら何にでも博識な女性だった。でも彼女たちは言ってみれば「私の履歴書」みたいなものだった。自分に特段優れた才能が備わっているわけではないことにはとっくに気づいていたので、それらはただ単に雲の上の出来事でしかなかった。たぶんそういうのは選ばれた若い女性だけに許された特権なのだ。それに特権を維持するのは見るからに大変そうだ。そう思っていた。私は自分の置かれた状況にはそれなりに満足していた。家族は私に呆れながらも基本的には好き勝手にさせてくれていたし、友達も私がよくわからない何かにかまけているからといって意地悪をするようなこともなく優しく放っておいてくれる。環境にはずいぶん恵まれたと思っていた。もし私が男の子だったらもっと堂々とできたのかもしれないが、男の子は男の子でいろいろと大変そうだとも思った。ここから出て行きたいとは思わなかった。うまく言えないのだが、どこかにあるはずの理想の地を探すことではなく、今いる場で何とか居心地のいい状態を確保することの方が建設的な考えのように思えた。
そんな状態にもかかわらず、お付き合いする相手が現れることがあった。縁があったのは同級生や会社の先輩といった人達で、音楽や映画の話がきっかけになることが多かった。好みが似ている人とは話がしやすい。自分が基本的に聞き手に回ることしかできないとしても、親しみのある世界の話ができることはとても嬉しかった。社会人になってからはなおさらそう感じるようになった。女の子同士がお茶だけで何時間でも話しまくるように、好きなことの話だけで1日中笑ったり驚いたり考え込んだりできるのは本当に楽しかった。でもそれと同時に、1人で楽しむことを選んだ領域に人を介在させるのは少し怖いことだと感じた。そこでは1人で過ごすことを選んだはずだ。そのルールを変えたりしてひどい目にあったりしないだろうか。でもひどい目ってどういうことを言うのだろうか。よくわからなかった。でも、はっきりと意識に上らないくらいぼんやりとした一瞬の感覚だったにもかかわらず、その嫌な感じはなかなか消えなかった。
相手との距離が近づいてしばらくすると、私はびくびくするようになった。付き合い始めて1年も経つと、仲良くなるきっかけだったはずの私の趣味嗜好のようなものが、次第に相手を苛立たせるようになってきたのがはっきりと感じられた。私が何の気なしに漏らす一言に相手がすごい剣幕で「普通の女の子はそういうことは言わないものだ」と怒り始めることも珍しくなかった。その都度、私がどちらかというと普通じゃないことは私もあなたも承知しているはずだったと思いますが、あなたの言いたいことはたぶんそんなことじゃないんでしょうね、と思いながら黙って聞いた。自分でこんなことを言うのはばかみたいなのだが、私が縁あった男性は目立たないけれどしっかりしていて人の気持ちを察するのが上手な人達だった。どうしてそんなに人当たりがいいんだろうと思ってよく見てみると、誰と接するときでもフェアであることを優先させているのがわかった。女の人からの評判はよく(ただし決してモテるという訳ではない)、マッチョな男の人からは幾分軽んじられているふしがあった。そういう人をここまで怒らせるからにはたぶんこちらに非があるのだろう、と私は思った。だから相手を怒らせそうなことは片っ端から控えるようになった。でも、そうなるとそこにあるのはただの力関係だけだ。会話の内容が当たり障りのない世間話のようなものになり、映画館やレコードショップを避けて出かけるようになり、そうして程なくして別れることになるのだった。
相手の年齢や社会的な属性が違っても別れる理由は同じだった。ある時の別れ際に冒頭のことを言われた。私がショックだったのは、いつの間にか関係がすっかり塗り替わってしまっていたことだった。友達の延長みたいにして付き合い始めたつもりだったのに、それとはかけ離れた関係を作り上げていた。最終的に私は規格外の若い女性でしかなかった。更にショックだったのは、「誰でもいい」と言われて最大限に傷ついている自分だった。仲良しの友達に言われたとしても十分ショックなフレーズだとは思うが、私の受けたショックはそれだけでは説明がつかなかった。付き合っていた相手にだけはコンビニで飲み物を選ぶように私を選んだと言ってほしくはなかった。でもいつの間にかそうなっていた。相手が最終的に私に求めたのは女の子らしい女の子であることだった。それと呼応するようにいつからか私も、私が私であることの担保を相手に求めるようになっていた。いつの間にそれを求めるようになっていたのか、自分のことなのにまるで理解できなかった。付き合い始めた時の気持ちははっきりと思い出せるのに、その時は担保なんて関係なく楽しいことや嬉しいことはその意味を意識する必要もなくシンプルにそれだけだったはずなのに、見た映画に興奮して渋谷から千駄ヶ谷まで意味なく歩いてしまった私は相手に会うとうまく口がきけなくなっていた私とまるで矛盾なく同じ私だったはずなのに、それらがきれいさっぱり失われてしまっていることがうまく飲み込めなかった。でも、お互いに求めるものがそれだけになった時点でそこにはもう役割だけしか残っていない。確かにそうなってしまえばいくらでも代わりはいるのだ。お互い相手にその望むものを差し出す余地がないのは嫌になるくらいよくわかっていた。何だか騙されてたちの悪い契約を結んでしまったような気分だった。でもそれに荷担したのは他ならぬ自分だったのだ。
[一万時間][努力][天才][反復][質より量][閾値][九九]
Genius is 1% inspiration, and 99% perspiration.
Thomas Alva Edison
イチローに学ぶ「天才」と言われる人間の共通点 - 電子書店パピレス
イチローに“偉大《いだい》な才能”を与えたのは、名古屋空港の近くにあるバッティングセンターである。
イチローは小学三年から中学三年までの七年間、そこに毎日通いつめた。
それも一週間に一日くらいは休むといったレベルの生易《なまやさ》しいものではない。
一年間に三六三日通いつめたという。休んだ二日は、バッティングセンターが休業した、正月の二日間だけだった。
天才と言われる人間であっても、絶《た》え間ない精進《しょうじん》を繰り返して、初めて彼らは成功者の仲間入りをすることができる。
イチローが一流選手としての称号《しょうごう》を得たのは、二一〇本の安打を打ち、打率三割八分五厘で首位打者に輝いた九四年の秋である。
なんJ PRIDE : 【野球】門田博光(40) .311 44本 125打点 OPS1.062
ホームランバッター門田博光氏が・・・《500本塁打は誰でも打てる!》|ベースボールバイブル
門田博光の本塁打一閃―ホームランに魅せられた男 : 門田 博光 : 本 : Amazon.co.jp
http://www.h-kadota.net/profile.html
小学校の頃からプロ野球を目指し、中学、高校(天理高校)と野球部に籍をおいたが目立った成績もなく、
ホームランも公式戦はおろか練習試合でさえも打つことは出来なかった。
40歳を迎えた1988(昭和63)年には打率.311、44本塁打、125打点で2冠王に輝き、チームが5位ながらMVPを獲得。
ホームラン記録は王氏(現ダイエー監督)、野村氏(現楽天監督)に続き
史上3位の567本を打った。
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あらすじ検索サイト あたまにスッと入るあらすじ:無形の力 楽天を応援しようという気になる野村克也氏の私の履歴書
2年目で解雇されそうになるが、泣いて頼んで残して貰う。
それまで歯が立たなかった大投手稲尾も、クセを発見して3割近くまで打ち込むことができるが、同僚の杉浦がオールスターで3人一緒になった時に、稲尾にばらしてしまう。
404 Blog Not Found:一発は百の空振りから生まれる
伝説のインドの天才数学者ラマヌジャンは、貧乏で進学できなかった子供時代、
一人で分厚い数学の辞典「純粋数学および応用数学における基本結果概要」にでてくる5000の公式、方程式を丸暗記していたそうだ。