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はてなキーワード: 消しゴムとは

2022-07-19

anond:20220719172629

あったとしても疑似相関くさい

これは男子もやってたりする

消しゴム好きな人名前を書いて、誰にも貸さず最後まで使い切る……のは意外と面倒で途中で挫折した経験のある女性は多いだろう

霊感商法に引っかかる女性の土台

何故か女児限定なんだけど、

幼少のみぎりに必ずと言ってよいほど

  

占い・おまじないBOOK

  

的な本を手に取る(目にする)機会がある。

男児あんまり興味を持たないけど、女児は必ずといっていいほど興味を持つ。

  

30年ほど前にMy birthdayという占い雑誌が一大ムーブメントを巻き起こして以降、

今でも本屋図書館女児向けの棚には必ず占い・おまじないの本があるし、

消しゴム好きな人名前を書いて、誰にも貸さず最後まで使い切る……のは意外と面倒で途中で挫折した経験のある女性は多いだろう。

  

個人的にアレが女性におけるスピリチュアルの奔りっぽい気がするというか、

あんまり良くないんじゃないかな? ……と。

  

あの流れがやがて女性向けにしか存在しない一冊まるごと占い特集に繋がり、

バイオリズムだのスピリチュアルだの自然派だのといった根拠に乏しい疑似科学的なあれそれの門戸になっている気がする。

  

追記

「私は信じてない」「私の周りにはいなかった」とのご意見理解できるし、

実際私も占いに毛ほども興味ない側の女だけど、

10年前に書店バイトをしていた頃から現在に至るまで

児童向け占い本の表紙は明らかに女児ターゲットとしたデザインだし、

複数女性向けのファッション誌は今でも年に一度は

“今年(上半期・下半期)の運勢特集

を組んでいたりと、

占い系の書籍雑誌市場女性ユーザ圧倒的多数なのは確かだと思うのよね。

2022-07-14

芸能界の穴がうまる速さが怖い

CMミュージカル風の女性の声が聞こえてきて、あ!って思ってからすぐに心が暗くなった。

さやかちゃんの声に聞こえた気がしたけど全然別人で、それに気がついてからそうだ、亡くなったんだって思い出して悲しくなった。

なんだろう。たしかに悲しい最期だったのかもしれないけど、そんなに消しゴムで消したあとさえ残らないくらいにきれいになくなっちゃうのかな。

なんというか、そこに空いてしまった穴を感じながら生きていたいのに、その穴すら最初からなかったみたいなテレビ空気がとても怖い。

別になくなった人に限らない話で、人間記憶力なんてそれくらいいい加減なものなんだなって思いながらも、でも、やっぱり自分応援していた人がそうなるのは率直に寂しい。

昔のアニメ声優が変わったところで、今のアニメ声優違和感しかないのと同じで、自分の中ではアナはずっとさやかちゃんなのだと思う。

それをなかったことのように一気に塗り替えようとするその力そのものが怖い。

時代を築いた人でさえそうなのに、誰にも知られないような自分なんてどれだけ早く人の記憶から消えていってしまうのだろう。

便利なのはかまわない。もう不便には戻れない。

でも、もうちょっと、そこにあいしまった穴の余韻を感じられる世の中がいいな。

わたしが消えてしまったときの穴の余韻を感じてくれる世の中であって欲しい。

2022-07-11

anond:20220711151630

新品消しゴムのケース外して緑のペン好きな人名前書いたら両想いになれるみたいなノリで言うな

2022-06-26

大子育てで得られる知識

1. ホイールローダーというはたらくくるま存在

2. 今時の色鉛筆消しゴムで消せる

3. チョロQは後ろに大きく引かなくても、小さく前後前後させるだけでゼンマイを巻ける

anond:20220626160105

下手に微妙な恋心とか、複数の男に迫られてしちゃう…みたいな葛藤を入れると気になるんだよな

消しゴム拾ってもらったくらいで逆レイプしますか?

ほぼ毎日レベル複数の男とヤリまくり断れない気持ちいいってそれ依存性かなにかでは?と

性感マッサージくらいまでいくと好き

エロ漫画すげー好きなんだけど、好きな男に振り向いて欲しくて逆レイプしだすヒロインじゃチンコたたないと気付いた

どうしてそんなにヒロインが恋してるのって言うと消しゴム拾ってくれたからとかそういうの

頭が納得できなさすぎてエロい気持ちになれない

あと、複数の男に迫られてどっちともセックスするヒロインもだめだった

セックス依存性なのか、治療エンドになるのかと意識が逸れてしま

2022-06-23

anond:20220623181046

「けいさんカード英語単語帳みたいなやつ)の一枚一枚に全部名前書け」← そこはシャチハタの出番では? もちろん芋ハンでも消しゴムハンでもいいんだけどさ。

anond:20220623002321

投票用紙に使われるユポ紙プラスチック製だからボールペンだとにじむ可能性がある

そもそも消しゴムでゴシゴシ消して改ざんすることを警戒しておいて、インク溶剤で溶かしたり、二重線で訂正したように見せかけることにケアしないのは片手落ちしか

 

追記

なんか間が削除されてたからつなげとく

anond:20220622225401

2022-06-20

anond:20220620124127

消しゴムを拾ってあげたのに泣き出されてから弱者を語ってくれ

https://anond.hatelabo.jp/20220620073825

他の男子からいじめられてる男子の落とした消しゴムを拾っただけで

奪い取るように持って行かれてお礼も言われなかった自分のような喪女もいる

底辺の男も底辺の女には冷たいんだわ

2022-06-18

ピンクハンカチしか持てない症候群

ごめん先に言うけどタイトルは若干盛った。本当はペールブルーも行ける。あと、明るい黄色浅葱色? あたりの「元気かつおしゃれな色」もドット柄だったら多分行ける。逆にピンクでも落ち着いたトーンと派手すぎるトーンは別にきじゃない。「ザ・ももいろ」という感じのキュートピンクが一番好きだ。

服ではピンク絶対に着ない。寝間着であっても、だ。鬼のように似合わない。私は知っている。ピンクの服はいかり肩の女を決して受け入れない。
それはそれとして、いつも身につける小物はかわいい色にしないと気が済まない。

ハンカチだけじゃない。ペンケース、手帳ボールペン(黒いインクペンであってもボディをピンクにしたいから、リフィル型の3色ボールペンを使っている)エトセトラメガネ拭きだってピンクを選ぶ。「外に出ていないけど、持ち歩くもの」は基本的ピンクであってほしい。この「ピンクじゃないと気が済まないリスト」にスマホが入らないのが不思議だなあと我ながら思ったけど、スマホまで行くと「外に出て」いるのだ。面積もでかいし、手に持って眺めている時間が長い。似合う/似合わない判定の対象になる。
大人になるとピンクを選ぶのが難しくなるのが、財布だ。許されるならばいつまでもピンクの財布を使いたい。けれども私がかわいいと感じる財布は、安っぽいとかそういう問題以前に、まずかさばる。どんなカバンに入れるとこれをちょうどよく感じるのだろうというような、ふっかふかの長財布である。もちろん重い。
若い頃はそんな財布でも平気で買い物に連れ歩けたが、年を取ると、いつでも持ち歩く財布のことは、まっさきに小さく軽くしたくなる。しぶしぶ機能性を取り、小さくて軽い財布の中からかわいいデザインを選んだが、やっぱり本当はピンクがよかった。

何故ここまでピンクの小物にこだわるのか、自分でわかっている。
子どもの頃、かわいい小物を持つことが許されなかったから。
小学生時代使用していた筆箱を、今でも瞼の裏に思い描くことができる。1年生から3年生までは、紙に血を落として少し時間が経ったあとのような、渋い赤色の無地の筆箱。4年生から6年生までは、ファッションブランドロゴが入った鮮やかなレッドの筆箱。どちらもぱちんぱちんと磁石でふたを開閉するタイプで、中には文具メーカーの大きな消しゴムひとつそれから平和の鐘」の箔押しがされた、学校から年に1回申し込み用紙が来て買うことができる、茶色鉛筆が5本(あれって1本いくらだっけ?)。
小学校時代に、みんなと同じかわいいものが持てなかった。それだけ。
小遣いは多めなくらいにもらっていたから、中学以降は普通に自分雑貨屋に行き(全国どこでも同じ雑貨が買える時代じゃなかったから、50km、100kmは遠征した)、好きなペンケースに好きな文具を入れた。でももう遅い、呪いはかかったあとだ。

50歳になっても70歳になっても、私はピンクハンカチを探し、ピンクの文具にこだわり、財布もピンクがいいんだけどなーと思いながら過ごすんだろうな。

2022-06-05

全てに行き詰まってる人の備忘録

あの日からすべて変わってしまった。

いや、ちゃん就活なりなんなりをロクにやらなかったせいなのもあるけども。

とにかく自身に、将来に向き合うことから逃げ続けてきた。

元々理系脳では全くなかった。小学校テスト算数はよく再テストになってたし。

高校受験の際市内でも割合レベルの高い学校合格できると塾の先生から言われた。

でも当時家庭の事情もあって確実に公立校合格たかたかレベルを下げて中の下くらいの高校受験し、無事入学した。

思えばこの頃から努力や挑戦から逃げる癖や他人の目を気にする癖が付いてしまっていたのかもしれない。

高校初の定期試験中学の時と同じように勉強して臨んだ。

そしたら学年2位の成績を取ることができた。もちろん苦手だった理系科目もだ。

ここで僕の勘違いが始まってしまった。

当時僕は自動車とか飛行機に興味を持っていた。まあエー○コンバットとかグラ○ツーリスモの影響もあるし、中学の時離れていたミ○四駆を再開したってのもあった。

ちょうどテストの成績も良く天狗になっていた僕は自動車の開発に携わる人間になると三者面談豪語した。

ただ決めたからには色々リサーチしておくべきだったのだが当時の僕は大学行けばまあなんとかなんやろみたいな感じでのらりくらり過ごしていた。

高校2年、数学系の成績が悪くなる。とは言っても充分上位にはいたので特に問題視はされず、教師からは是非この成績活かして推薦で大学に進んではと意見をもらっていた。

もちろん僕自身もハナからそのつもりだった。

ここでその道に進むとはどういうことなのか、というのをきちんと理解していなかったのがダメなところだった。

高校2年の冬辺りから音楽ゲームの影響で音楽(電子音楽)ハマりだす。

コレが後々いろんな出会いを生み出すことになるし結果的に今の状態を生み出すきっかけになる。

推薦入試県内の中堅私大合格した。もちろんオープンキャンパスにも足を運んだ上で決めた。ただ今思えばここで「県内で近いし大学生になれるならココでいーや」みたいな気持ちがあったのも事実かもしれない。

推薦が決まった後はまあそれなりに真面目に授業を受けつつ、友人が音楽製作始めていて僕も興味あるしやってみるかとiPhoneでいじくり始めた。

そしたらまあ思いの外楽しかった。ただ今思えばココでちゃん音楽勉強とか自分でしておけばよかったと後悔している。

なんやかんやで卒業大学生になる。

前期はまあそれなりに突破した。後期基礎科目なのにも関わらずいまいちついて行けず二つ単位を落とし、物理の授業はほぼお情けで合格と言ったところだった。

この時点で専門科目よりも教養とか英語とかの授業の方が楽しいと感じていた。今思えばこの気持ちに正直になっていればと思う。

そんな最中コロナ騒ぎが始まりオンライン授業になった。

世間大学生らしいことができないだのなんだので騒いでいたが、僕は電車に乗らんでいいし色々ラクできるしええやんみたいな気持ちになっていた。

というかこの時点でもう自動車開発とかの気持ちはなくなっていた。この頃に音楽製作によりハマりだして色々買い揃える。ただ基礎から努力を怠っていて色々不便を感じることもある。(この基礎から努力を怠る悪癖は後々牙を剥く)

オンライン授業のせいにするわけではないが、大して理解せずともまあ単位は取得できた。できてしまった。

大学3年、就職活動とか視野に入ってくる年になる。

しかし、メールとか掲示板とか見ないバカだった僕は就職ガイダンスにロクに参加しなかった。というか気づいてなかった。意識クソ低い系の学生だった僕はインターンとか意識高い系のすることやろとか思っていた。今考えるとアホ極まりない。

というか今考えると意識的にシャットアウトしてたかもしれない。

同時にもう大学の授業に面白みを感じてなかったが、真面目系クズな僕は超低空飛行ながらも単位を取り続ける。

ここいらで自分の考えていたモノ作りはある種芸術的な方向であったと気づくべきだったかもしれない。

というか大学生になるべき人間ではなかったことにさっさと気づくべきだった。

もうこの頃には自動車の開発とかには全く興味がなくなっていた。研究室の配属希望を出すが、自己PR解釈を間違えてクソみたいなことを書いたら第六希望くらいの大して興味もない研究室に配属される。

秋辺りからポツポツと1dayインターンとか行き始める。ちなみに自己分析だのspi対策だのES雛形作成だの全くしていない。

機械科だから機械仕事をすべきみたいな考えでその辺りの会社を見ていた。

特に企業研究とかしていなかった。バカだ。この時点で音楽のが楽しくなってそっち方面で何かできたらと考え始める。

そうこうしてる内にまあちょっと音楽関係でいいことがあったりとか実験がクソ忙しく(実際にはレポートとか課題とか先延ばししまくってたクズ)なって就活から遠ざかる。

というかオンラインガイダンスも後でまとめて受ければいいやで先延ばしにしてそのまま忘れるんだが。

年明け、1月になんとかレポートとか課題を出し終える。

レポートが終わった解放からだらけまくる。クズだ。

合同説明会かにも行き出す。今更かよ。合同説明会に行き、通路を通っただけでウチどうですかどうですかと声をかけられて、顔を覚えられたりして恐怖を感じ、トイレに逃げたりした。

3月エントリーが本格化してくる時期。ようやくエントリーシートなどに取り掛かり始める。が、ここで最悪のつまづきをする。エントリーシートが全く書けない。そもそも将来のビジョンって自分にあるのか。学生時代何を頑張ってきたのか。自分は何をしたいのか。何者なのか。急激にどうにもならなくなってくる。今思えばうつ病に両足突っ込んでいた。ロクに寝れなくなった。食欲もなくなり、ゼリーをかろうじて胃に流し込む日々。

コレもすべて大学生活、もっと言えば高校から自身の適性やキャリアプランを考えなかったツケなのだが。

こんな就活のしの字も分からない自分に誰かを頼る資格もないと考えひたすら内側で自問自答する日々。

就活の助けになるだろうと登録したエージェントからメール電話爆撃で電話に出るのも怖くなる。

このままじゃもうニートまっしぐらだ。周りに自身の、周りからいい子だと言われ続けた自分がこうなってしまうなんて。このままじゃ大学名前にも傷が付く。

そんな気持ちで一杯になった自分は急に自殺しようと自室の窓から飛び降りた。まあ直前で怖くなってしがみついたおかげで打撲と派手な擦り傷で済んだのだが。まあしばらくは上手く歩けなくなった。

この頃はロクに思考も出来てなかった。よく嘔吐もした。体重も落ちた。

からその場の楽ばかり選び、他人からいい子で見られる為に生きてきたことに気づく。真面目系クズだ。

そんな中、企業の方との面談が入る。そこでなぜこの大学に、この学科に入ったのですかと聞かれる。

そこでクソみたいな思考の僕は焦点の合わない目でこう答えた。

「い、家から近かったし理系なら就職が有利と聞いていたので」

クソみたいな考えだ。

そんな最中母親からこう提案される。音楽に興味があったなら卒業後に専門学校への進学も視野に入れてはどうかと。

昔(特に高校生)の僕はストレート大卒ではないといけないという考えに囚われていた。周り道した人と出会わなかったのもあるが。

作曲仕事にするのは難しいが、音響のこととかなら視野に入るのではないかというアドバイスも貰った。ちょっとその気になりつつ、それがある種就活からの逃げではないかと罪の意識に囚われ、いまいち吹っ切れない。

この頃は理由もなく突然泣き出したりとかもよくあった。

そんな状態で4年生卒業研究が始まる。もうこの時点で単位卒業研究以外すべて取り切っていた。

まるで興味のない分野、そもそも興味が薄れていた専攻、そしてこのような精神状態。決まったテーマ希望テーマから外れた。

研究室で昨年の論文に向き合う。が、何も知識がない、というか応用することが全くできなかった(数学公式を暗記して解くモノと思っていた)僕はもう何も理解することができなくなっていた。周りはどんどん前に進んでいるのに自分はどうして何もできないんだという気持ちになり、ますます自身を追い詰める。

研究室に行っても全く集中出来ず、じっとしていられなくなって席をよく立ったり、昔からの癖であった消しゴムペンの戦いごっこが辞められなかったり、高校数学知識が抜け落ちてたりしていた。というかどのように卒論を進めて行けばいいのか、という計画もできない。とはいえ研究室には行かなければという気持ちで毎朝嘔吐したりしていたがなんとか向かっていた。

5月、半ば辺りから徐々に食欲とかは回復していった。とはいえ集中力散漫なままだし頭の中にずっとラップがかけられている感覚は抜けないし、風呂に入る気力もなかったり、帰宅すれば即寝落ちみたいな日々が続くのだが。研究報告のパワポもロクに仕上げられず、自身を殴ったりした。

そんな中共研究者が失踪した。後で卒業研究2年目の先輩に聞いたのだが去年も1人失踪したらしいしなんなら所属学生全員卒論落とす可能性もあったとかなんだとか。

自身テーマ関係する部分の勉強会に参加した。しかし、教授の言ってることがまるで分からない。どうにもならない。卒論は書けるのか。

何も決定できずに時間けが過ぎていく。こんなの書いてる時間があったら少しでも先のことをやるべきだろうが。

結局全ては自分と将来に向き合おうとしなかったツケなのだが。

2022-05-08

テープ粘着痕は消しゴムで落とせる」なるほど

一瞬で落ちた

2022-04-10

万引きをする子どもだった。

それなりに名前が知れていて、金銭的には全く困っていないであろう俳優アイドル万引きを繰り返していたというニュース報道された。

彼が出演していた特撮も楽しく視聴していて、ゆるい人間性含めふわっと好きだったので衝撃的だった。

そして、長年忘れていたけど、自分自身万引きを繰り返す子どもだったことを思い出した。

時期としては確か小学校2、3年のころ、関西のど田舎祖父母共働きの両親と暮らしていたときのことだ。

そのころスーパーへの食料品の買い出しは祖父母役割で、自分も車に乗せられ同行するのが常だった。

基本じっとしていられない子どもだった私は、カートを押して店内をまわる祖父母の元を離れ、お菓子売り場や文房具売り場をうろつくことが多かった。

そしてその際、私は誰にも気づかれず、何度もポケットに入るサイズお菓子文房具万引きした。

私の家は田舎にしては収入が安定した世帯であり、チョコでも飴でもかわいい消しゴムでも、「これ買って」と祖母のもとへ持っていけば、大概はすんなり買ってもらえた。

から、何かがほしくて万引きを始めたのでないことは確かだ。

今回真剣に思い起こしてみたけど、盗ったお菓子を食べたり、文房具を使った記憶は全くない。

また、そのころの私は「万引き」という言葉を既に知っており、それが犯罪にあたるという認識もあった。

警視庁24時」的な、顔にボカシがかかった万引き犯がGメンに取り押さえられる場面をテレビで何度も見ていた。

窃盗症」や「クレプトマニア」で検索すると、「監視の目をかいくぐるスリル病みつきになり…」といった記述散見されるが、そういう高揚感を得てもいなかったと思う。

ただ淡々と、万引きを繰り返していた。

私が万引きから得ていたものはなんだったんだろう?

今の私の語彙で言うなら、「やっぱり大人は私のことをちゃんと見ていない」ということを確認していたのだと思う。

私が生まれる前から続く父の不倫、父との関係破綻仕事にのめり込むことで見て見ぬふりをする母、破綻した夫婦に変わって「家」の役割を担う祖父母、早々に実家に見切りをつけ都会の大学に進学した兄、その全員が、私のことを「若干落ち着きがないが聞き分けの良いいい子=放っておいてもいい子」と認識していた。

たぶん万引きをするたび大人を嘲り失望しながら、いつか見たドラマのように万引きが発覚し両親が店に呼ばれ、母親に泣きながら「なんでこんなことをしたの!」と聞かれる展開をどこかで望んでいた。

そしたら私も泣きながら、「さみしい」「かまって」「口を聞いて」と主張できるのに。

書いていて改めて思うが、滅茶苦茶な理屈である

別に聞かれなくても「さみしい」と主張する権利ぐらいはそのころの私も有していたし、お店に迷惑をかけていい理由には全くもってなっていない。

結局、私の万引き癖は突然終わりを告げた。

たまたま休みの日に父が私をスーパーに連れて行くことがあり、調子に乗って小さいサイズ折り紙を盗った私は、不自然ポケットの膨らみを父に看破され、往復ビンタ等の激しいお叱りを受けたかである

その際「以前にもお菓子文房具を盗った」ことを白状し、父とともにスーパー謝罪をし、お年玉貯金から盗品に相当する額の弁償を行った。

子どものしたことですから」と謝罪を受け入れてくれた店長さんには、改めて本当に申し訳ない気持ちだ。

ちなみにこの過程で、「なんでそんなことをしたのか」とは家族の誰からもついぞ聞かれることがなかった。

「いい子」からはみ出そうが、この人たちが自分内面に関心を寄せることはないのだ、と悟った私は、「じゃあ優等生でいた方が得じゃね?」という発想に至り、以後自立まで「聞き分けのいい子」で通した。

その後、家族祖母の大病、両親の離婚再婚などを経て、見る影もなく離散している。

あのころ言えなかった「さみしい」は、心の隅っこの方にまだいる気がするが、別に家族に期待せずともそれなりの人生が送れることも学んだ。

クソ長い自分語りになったが、要は万引き、あるいはその他の嗜癖も、その時のその人に必要な、なんらかの役割を持っているか嗜癖になっている。

不器用な、笑顔の似合う、お菓子作りの得意な、彼にとって万引きとはなんなのだろう。

何か別の、社会的に認められている行動で代替可能だろうか。

彼はそういう道を歩めるだろうか。

歩んでほしい、と思う。

できればそれをゆるいファンとして見届けたい、それが許容される社会であってほしい、と思う。

自分もまだ社会の一員でいたいので。

2022-04-02

anond:20220402120327

今は自分コンテンツ発信できる時代から

漫画にしても、昔は出版社さないと発表出来なかったけど、

今は自分で出来る

ツールも発達して、アナログだと消しゴム、定規、カッター使いこなさないといけなかったのが、

今はそういうのを学ぶ必要がなくなった=その分、本当に必要な事にリソースを割ける

2022-02-16

絵を描いてる時に左手ブラインドタッチ(?)するためのポチ

視線は画面、右手は板タブ操作左手キーボード操作という状態

消しゴム(E)押そうとしてRを押していた、みたいな事故の解消方法として

ホームポジションの印のようによく使うキーに印をつけて触ってわかるようにすることに思い至った。

条件は、

触ってわかる

ノートPCを畳んだときに画面に当たらない厚さ

小さめ

今日手に入る(=通販はなし)

安い

(※特殊キーボード等を設置するという選択肢はないこととする)

点字シールみたいのがあれば、それを分解して使えば最高なはずだと思ったが、その日に探した範囲にはなかった。

普通の丸型シールでも重ねれば行けるかもとは思った。しかし、紙で少し頼りなく、ちょっとでかすぎ、2800片とかとんでもない量で売っている。

キャラクターものの立体感のあるシールはよさそうだった。でもキーボードに貼れそうなのはシール台紙の脇役の部分(メインの虹の周りにちょちょっと配されてる星とか)でロスが多い。メインも別の所で使えばいいといえばいいのだが。

・昔あった立体テプラみたいの(青いラベルシール?にクレカみたいに文字刻印できるやつ)があったらそれもよさそうだと思ったが、機械必要そうなのでナシとした。

・半球形の透明の滑り止めシール(小物入れなどに貼るためのもの)は大きさ以外は限りなく良かった。惜しい。

結論

ネイル用のパーツシールを買った。100均で見つけた。

点字ドットくらいの大きさと形

・実際に付けてみたところかなり理想通りの仕上がりになった。

新たな問題

ネイルシールは爪に貼った上からトップコートを塗る前提で作られてると思われるので

接着力はあまり強くないかもしれず、これから実用しつつ様子を観察する必要がある。

(今のところはちゃんとくっついているが、爪を引っ掻けたりしたら簡単に取れる可能性が高い。アロンアルファで着けていいものかどうか)

・慣れの問題かもしれないが、文章を打つ時に若干気になる。(接着力弱めのもので試せてかえってよかったかもしれない。なおシールは直径1mmくらいなので、いちいち着脱するのはあまり現実的でない)

2022-02-02

世界堂へ行った

出張中、ちょっと文具関連の用事があって、次の予定まで時間があったので、東急ハンズは行ったことがあるのだが、行ったことのなかった世界堂に行ってみた。知ってる人はよく知っているだろうが、私はネットニュースでどこかの支店が閉店したというニュースをうっすら覚えている程度だ。今調べたが「額縁絵画はもちろん、画材デザイン用品・文具などを豊富に取り揃えています。」というチェーン店。(確かに額縁は他の文具店と違って力が入っていた。)

ぶらぶらと店内を歩く。油絵具やアクリル絵具、パレットパステル、水彩色鉛筆ガラスペン、羽ペン、色とりどりの筆ペン、マーカー、サインペンキャンバススケッチブック、模造紙、…

ペインティングナイフパレットナイフプラスチック製もあるのか! 使い捨てというのも合理的だ。

ふと目についたのが「スクリーントーン」。令和の時代にもまだ売っているとは。原稿用紙にしっかり転写するためのヘラのようなものも何種類も打っている。近くにはペンペン軸がある。「Gペン」「丸ペン」「スクールペン」 タチカワ、ニッコー、ゼブラ

スクールペン」。知識として触れたことはあったが単語として目にしたのは何年ぶりだろうか。

さまざまなパッケージペン先が売っている。丸ペン3本セット、Gペン10本セット、100本セット、3種類のペン先セット、ペン軸とセット…

ペン軸単品も様々な色、デザイン

つけペンがあれば当然インクもある。「まんが用墨汁」という商品名をみて思わずにっこりしてしまう。ラベル付け替えただけでしょうね。

まんが用原稿用紙なんてものもあった。雲形定規、吹き出し用定規(?)

まんが用のセットボックスもある。小学生向けかな。無印スタンダード)にデラックスタイプ2。何が入ってるんだろ。

自分でもまんがを描こうと思った少年少女は多かったのではないかわたしがこどもだった当時は(今は知らない)毎号投稿募集と紹介のページがあって、デビュー、金賞・佳作などのランキングと講評、それにまんがの描き方が数ページ載っていた、ような気がする。〇〇先生は墨汁を使っています。◎◎先生丸ペンで描いていますケント紙を使うのが一般的ですが、△△先生は画用紙を使っています。のような情報も載っていた。もちろんまんがの描き方だけの単行書もあった。

そんな頃のことを懐かしく思い出した。しかし、全体的に何とも言えない黄昏感が漂っていた。ほぼ無客だったし。

欠品があったのは売れて売れてしかたがないというよりは、補充がないという感じで(先入観か)、充実した品ぞろえは売れ残りという表現が近いのかもしれなかった。現実に、書籍のコーナーには色あせた1990年代参考書も並んでいた。


私の祖母趣味日本画をやっていた。増田の多くが知らないであろう、ほとんどが見たことがないであろう岩絵の具が何種類も彼女の家にはあった。ガラス瓶に入ったそれはとてもきれいだったのを覚えている。少女のころに日本画で身を立てたいと思ったことも少しはあったのかもしれないが、そこまでの才能か、熱意かがなかったのか、時代が悪かったのか、もちろんプロではなかった。

世界堂で見た、さまざまなアナログまんがの道具・材料。生き残りをかけて手を広げたであろう商品につく〇割引セール文字

おそらく、回転のいい商品はごく一部なんだろう。多色ボールペンを並べても、大型文房具店で買う人の方が多そうだし、最近カラーのマーカーも100円ショップで多色展開しているという(必ず全色そろっているというアドバンテージ専門店にはあるだろうが)。毎年電動消しゴムを買う人がそうそういるとも思えない。

完全に滅亡することはないかもしれない。だがコンピュータでなく、世界堂でなければ手に入らない道具や材料を使う行為は、美大生を除けば、日本画のようにごく少数の人が続ける稀な趣味になっていき、世界堂支店だんだんと減っていく。

そんな未来

2022-01-22

anond:20220122131858

小学2年生の時、よく女の子消しゴム隠されたりイタズラされてたんだけどアレってモテてたのかな?

2022-01-20

同和地区に生まれ

同和地区に生まれ育ち、多分『それなり以上の同和教育を受けた最後世代』だと思っている私。

私は昭和の終わりかけに、関西大都市に生まれた。自営業の父と専業主婦の母のあいだに生まれ、1歳児の頃から公立保育所に通った。

現在幼児もつ親でもあり、『保活』『保育園落ちた』などのワードネットで見るにつけ、自分の育った地域時代現代のどちらがおかしいのかわからなくなるのだ。

まず、私の母は専業主婦だ。母方の祖父と同居だったが、その祖父が要介護だったとか、母自身病気だとか何もなかった。1ミリも『家庭での保育に欠け』てなどいない私が、普通に公立保育所に通った。

母は私を幼稚園に入れたいと思ったそうだ。しかし、親族を含む周りの多くの人たちが、いつ保育所に預けるのか、保育所の申し込みをまだしてないのかとものすごくうるさかったらしい。『保育所が当たり前だった。同じ小学校に行く子は町内のどこかの保育所出身で、幼稚園に行く子なんていない』と言われたらしい。

母は心配しながらも私を保育所に入所させた。まず、町内に公立保育所がいくつもあった。1学年1クラス、私が通った保育所はその中でも人数が少ないところだったので、年長クラスで一緒に卒園したのは12人だった。最近の『保育所が足りない』どころか、どう考ても当時の子供の数を考えれば保育所が多すぎるくらいだった。

運動会宿泊保育、遠足卒園式などは合同で行われた。保育士さんはどうだったか忘れたが、市の公務員である給食調理員さんたちは、その町内の保育所のどれかにしか転勤しない。(当時給食調理員だった知人が近所にいたため、知っている)

今、雨の日でもお昼寝布団セットを自転車で運んでいる保育園パパママさんを見かけるが、私が通った保育所ではお昼寝布団の他、給食で使うスプーンや箸など、肌に触れるものや口に入るものも持参する必要はなかった。かばんに入れて持って行ったものは連絡帳以外思い出せない。

私は二人の子供を私立幼稚園に通わせた。ひとりは卒園し、ひとりは在園中。まあ、これでもかというほど指定用品を買わされ、毎日スライド式のカトラリーセットを始めあれこれ通園鞄いっぱいに持って行く。最初自分の子時代とのあまりの違いに驚いたが、『あ、こっちのほうが普通なんだ』と最近では思うようになった。

保育所時代はほぼ同和教育はなかったが、小学校に入ると一変した。

まず、入学時に必要もののほぼ全てが無料支給だった。ランドセルまでタダだった。母と一緒に入学用品を近所の『会館』に取りに行ったことを覚えている。鉛筆消しゴムまであった。筆箱は自分のものを使えたかな。それが最初の一回だけではなく、『とくしゅうひ』というものがあって、冊子が配られて必要学用品に丸をつけて提出すると支給された。これはいつの間にかなくなった。高学年になる頃にはもうなかったかと思う。

私の実家貧乏ではなかった。後に書くが、学用品無料支給してもらわないと就学できないほど生活に困窮している同級生などいなかった。

ランドセルデザインも何もかも皆同じ。ほとんどの学用品が全員同じだった。出どころが一緒だからそうなるんだろうけど、他の学校のことを知らないのでそれが普通だと思っていた。給食で使うお箸、食後に使う歯ブラシまで皆同じ。歯ブラシの色選びでじゃんけんしたことも覚えている。

それから子供会』というものがあった。放課後に行くところで、別に親が働いているからとか何もなく、ほとんどの同級生が在籍していた。行くか行かないか自由だったが、小学校の下校時に集団になって歩いて行ったことを覚えている。おやつが出たり、遊んだり、土曜日は昼食も出た。学童保育のような感じだったが、違いは『(ほぼ)全額無料』で『まあまあゴリゴリ同和教育機関でもあった』こと。そこで働く人たちのことは、先生さん付けではなく、『指導員』と呼んでいた。(例 田中指導員)

主に教えられたのは狭山事件のことで、歌まであった。私はその歌をなぜか今でも覚えている。小学校1年生のときから教えられる。それから、何の日だったかは忘れてしまったが、5月23日10月31日が近づくと、狭山事件のことをいつもより色々聞かされた。

大人集会もやっていた。たまに祖父について行ったことがあったが、集会最後シュプレヒコールがお決まりだった。後になって祖父はその集会になぜ参加していたのか母に聞くと、『お父ちゃん、その年確か町内会の役しとったかちゃうかな』そんな理由だった。

小学校の名札のところに『差別裁判をゆるさない』とかワッペンをつけて登校する期間があったりもした。『ワッペン登校』と呼ばれていたが、今考えるとすごい。小学生制服に、別にの子意思でもなくそういうワッペンをつけさせていたのだ。

学校道徳の授業は、同和問題を始め、とにかく何かと差別を絡めた内容だった。在日コリアン問題とか。私の子供が入学して教科書名前を書いていたとき道徳教科書何気なく見ると、『金の斧 銀の斧』の話が載っていたりして、自分ときとの違いにまた地味に驚いた。

小学校1年生に狭山事件のことを話してこれは差別だ!とか言われても正直よくわからなかったし、狭山がどこかもあまりよく知らなかった。『かなり昔、遠い関東で無実の人が逮捕されて、裁判が何か差別らしくて………』といった感じで記憶している。

他にも後で特殊だと気づいたことがある。天皇制否定国歌を教えない、卒業式定番仰げば尊し』はなぜそこがダメなのか忘れたが『我が師の恩』のところに文句がついていたっけ。

ある日の子供会の集会とき、『天皇制おかしい』という話を聞いたのをおぼろげながら覚えている。『天皇誕生日祝日なのはおかしい』と力説されたが、子供心に『学校休みになるんだし祝日にまで差別とか言うのか』と思った。

洗脳レベル教育だったが、低学年頃にはなくなっていった(後述)こともあり、『差別に負けない大人になってほしい!!』だとか『(何にか忘れたが)誇りをもってほしい!!』と言われても全くピンとこなかった。

ワッペンをつけたり、子供向けの集会があったりというゴリゴリ同和教育は私が高学年になるより前くらいから一気になくなった。そのため、冒頭に『最後世代』だと書いたのだ。

理由は、狭山事件容疑者とされた人が仮出獄となったからだと思う。学用品がタダとかそういうのも、その頃からだんだんなくなっていった。

一世代上、私の母世代は、狭山事件が起こった頃に小学生くらいなので、大人になり、子育てをする頃までずっと続いたということになる。

母は私立高校卒業しているが、『タダだった』らしい。無料から私立高校を選んだわけではなく、公立高校に行く学力がなかったかららしい。高校無償化なんてつい最近一部の地域で始まったことだが、これも『同和特権』のひとつだろうか。それよりも驚いたのが、自動車教習所授業料も『タダだった』と言うのだ。私も運転免許をもっているが、確か教習所に入るときは30万円くらい払ったと思う。それもタダ?

それから、これは自分家族はいないが、市の公務員になれるルートみたいなものもあったそうだ。失礼な話だが、『この人、どうやって公務員になったんだろう?』と思うような人が、市の職員だったりした。

母も私と同じで、そういう環境で周りもそれが普通だったし、他のところのことを知らないので、疑問をもったことがなかったらしい。大人になってから、『あれは普通じゃなかったんだ』と思ったという。

江戸時代身分制度の名残で同和問題差別があるわけではないと、成長するにつれわかった。私が背負ったランドセルも、入学試験で特待生だったわけでもない母がタダで通った高校も、税金から…と考えたら、嫌われるようなこともしてるよなあ、知らなかったとはいえ…といつからか思うようになっていった。

その後、高校大学と進むうち、部落差別っぽいものは時々あった。というより、特に悪気のない、同和地区に対するイメージを誰かが話しているのを聞くことがあったというくらい。

まず、『あのへんは治安が悪くて行くもんじゃない。どんなやつがいて何をされるかわからない。最寄駅で降りないほうがいい』と言っていたバイト先のおじさんとか。

かにイメージとして、ガラ悪いとか治安が悪いとか思われがちだが、これが意外とそうでもない。麻痺してるのか慣れきってるのかとも思ったが、夜になると人通りはほぼなく、ガラの悪い人や治安を乱しそうな人もいない。夜の町は、『ここ?本当に関西大都市?』と思うほど人通りもほぼなく静か。逆にそれが不思議だとか怖いだとかで動画サイトに載っていたりするが。

かに治安がよくて人が住みたいイメージではないよなと長年思っていたが、最近では転入者も増えて、昔はボロボロ団地ばかりだったところに一戸建ての家が建ち並ぶようになった。相変わらず市営住宅が多く、整備されているものの見た目がほぼ同じ。スマホマップが普及するより前は、宅配ピザ配達員さんが迷って電話をかけてくることもあるくらいだった。

そういう街はここだけではない。似たようなところをたまたま電車などから見ると、『あ、ここ…同和地区かも』とわかるようになった。

人生で、『あ、これが部落差別?』と思ったのは一度だけある。結婚ときだった。目の前でやりとりしたわけではなかったが、夫の両親は同和地区の嫁が来るのは嫌だと言っていた。私に直接言ったことはなかったが、義母から夫へのメールを見たら結構すごかった。

結局結婚したのだが、10年経っても『ほら、同和地区の人となんか結婚するから』みたいになったことはない。結婚を反対されたことを知った両親も、『まあ、そりゃ、どうぞどうぞ大歓迎ですってことはないよな』というような反応だった。従姉妹たちも同和地区出身でない人と結婚している。親である伯父と伯母は、娘の結婚相手の両親に出自を話したらしいが、それを理由に反対や差別はされなかったという。

私が昔受けた同和教育の題材にもよく結婚差別が出てきたり、同和の子貧乏いじめられて排除されて…みたいな内容が多かったが、思い出してみれば小学校同級生には食べるのにも困るような生活をしている子は誰一人いなかった。それでも色々支給されたり…あれは何だったんだろう?と思う。

これもまた同和地区特有の話だと知ったのだが、とにかく近所の人達情報を何でも知っている。私達世代はそうでもないが。今時隣の家の人のこともあまり知らないのが普通みたいな世の中だが、母より上くらいになると、『全くの他人のことを何でそこまで知ってるの?』と驚くほどだ。

私は聞いているだけのことが多いが、たまたま何となく会話にAさんという人が出てきたとする。たとえば私が『Aちゃんのお母さんが入院したんやって、Aちゃん大変そうで心配やなぁ』とか言ったとする。

すると母と伯母が、

『A?ああ、あの子な!うちの一学年下の子旧姓増田やろ?増田おっちゃんとこは立ち退きなる前は◯◯に住んでて、今団地入ってるやろ?おばちゃん滋賀から来た人やったわ。Aは高校出て化粧品屋に勤めとって、学会の男の人連れてきて結婚して西宮のほう行ったけど、結局別れて娘二人連れて帰ってきてたなぁ。増田おっちゃん怒ってたわ。あの子入院したんや、それは心配やな』

増田おっちゃん覚えてるわぁ、Aちゃんて姉ちゃんの一個下やったら、うちの二個先輩やろ?その子の弟がうちと同級生やねんけどな、中学同級生のCと結婚して、夫婦で市に勤めとったから、お金持ってんで。団地出て関空とかあの辺りに家買うたらしいわ。増田のおばちゃん不倫しとったん覚えてる?近所同士でようやるわぁとかみんな言うとったなぁ』

こんな感じ。一体何の話だったかこちらが忘れそうになるが、私の友人の母親実家事情を、同学年で仲が良かったわけでもない二人が知り尽くしている。

これは、同和地区出身者同士の結婚が多かったこともあるからかなと個人的に思っている。大人になってからは、では近所に住む誰かの会話に『私』が出てきたとすると、ここまで知られているのかとゾッとして、母に聞いたこともある。

『まあ、このへんやったらそうやろうな。でも、若い子らはそこまででもないと思うけど。うちの娘ていうことはみんな知ってるやろうし、行ってた学校ぐらいは知ってるやろな』

と、当たり前のことのように言われた。

同和地区も、私のように町並みでわかる人でなければあまり他の町と変わらないようになってきた。それに、顔を見たら同和地区出身者とわかるわけでも、戸籍を見たらわかるわけでもない。有名な同和地区が現住所や本籍であった場合はわかるかもしれないが。

解放会館も人権センターとか名前を変えた後、いつの間にかなくなった。『部落差別をなくそう!』『差別落書きを見つけたら云々』という文言が書かれた町内会ポスター掲示板もなくなった。私が少し通ったあの子供会もなくなった。

今でも、『住まないほうがいい町』とかググると私の地元が出てきて、理由に同和地区がどうのこうのと書かれているが、外から人はたくさん来ている。市営団地の入居者は全員知り合いだとか、市会議員や解放同盟コネ団地簡単に入れるという話も聞かなくなった。

実際、24年ほど住んだが、事件らしい事件ひとつも見たことがない。通り魔ひったくりに遭った人が近所にいようものなら3分で噂になるはずだが、これも聞いたことすらない。いや、別にB地区とか犯罪がとかヤクザがどうの、治安悪いとか言われてるけど、全然怖くないですよ、町も綺麗で平和で、他のとことそんな変わりないですよ』とここで主張したいわけはない。

イメージしかない同和地区と、そこに生まれ育った私とでは、全く違うだろうなと思って書いたに過ぎない。

改めて、自分の生まれ育った場所を考えてみたとき、そこがたまたま特殊なところで、確かに差別されたり嫌われたりしても仕方のない面をもっていて、でも何だか普通生活の中で出さないほうがいい話題』のひとつであって…

何かそんなことを思って書いてみた駄文だ。

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