はてなキーワード: 接見とは
みたいな皮肉を言いたいわけじゃない。
どういうことかっていうと、SNS禁止にして密室感を出してしまったせいで何が正しい情報なのかわからなくなってしまった。
当たり前だけど、例の表現に反発する人はこのルール守らないからいくらでも映像が出回る。
でも反論する側の人はルールを守って映像を取らないから反対意見が弱くなってしまう。
名古屋でやってるんじゃ、ほかの地域の人はそう簡単に直接見に行けるもんじゃないし。
これはどう考えてもいい手段じゃないと思う。
まぁ以前からネット上では左派は100%負けると公言してたからそういう風にした気持ちもわかるんだけどさ。
それ全然別の話でしょ
近所に虐待児童(従軍慰安婦)がいて昼間からフラフラしてかわいそうだとする
ふつうにできることは全部やるよ
学校とかに必要なお金をあげる(すでに財団つくらせリストもださせ支払った)
でももううちも貧乏になってしまったんでこれ以上お金あげてられません(所得税災害加算、消費税増税)、
それよりうちの子が虐待待遇にならないようにしなきゃ(国内法整備。強姦罪を強制性交罪にする、リベンジポルノ法、児童ポルノ法など)。
これどこかおかしいとこある?
女性って過剰にご親切だしそれは女性性としていいところでもあるんだけど
唯一「余計なお世話の見極め」ができないんだよね
慰安婦の展示って女性芸術家によるものでしかも同情的内容だったんじゃないの
なんか「みんながいってるから」ストレス受けてワーって吹き上がっちゃうの一番迷惑行為だとおもう
「文系の学問において資料の実在を証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。
Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味でWikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。
参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!
参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます。
このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります(最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。
えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リストが存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。
これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。
a)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
b)増田はうんこを漏らした。一方、同人作家はおしっこを描いた。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
c)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います。
日本の出版の問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います。注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。
もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題にしかなりません。しかしいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述の典拠はいったい何なのか」という根本的な問題を惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説を初心者向けにわかりやすく纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)
もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。
増田はうんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.
MLA style:
増田はうんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対に必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。
“自分の実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系の論文での引用見たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね
理系の学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系の論文はちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。
このうち、理系の論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文の重要な核を占めているのです。
たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまでハゼの遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。
しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本は研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。
私が最初の増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合、理系ではこういう資料は引用しないですよね(最近だと古天文学で歴史的史料を引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。
もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります。文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったものが資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地の言語を習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語の話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。
文系の生データは出典となる書籍だったり、原典の資料がある場所と。原典の原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式が理想ってわけか。一時情報が当事者の証言なら信憑性高いって判断にはなるし
違います! 当事者の証言だからといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪で裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女の証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。
歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき、日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカの外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものだから。
なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学の入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたから虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?
(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります。特に科学史や史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)
図書館にScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノードの消滅にも耐えられる。しかし日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマは逮捕なので
出来るといいな、じゃなくて、既にあります。
たとえば国立国会図書館のデジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館のデジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFでダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀のドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。
しかし、当たり前ですが全ての史料が電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも近現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権の問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料にアクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。
また、多くの国では、公文書館の史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所のちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本は戦前の外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。
(さらに言うと、史料が必ずしも公的な機関によって保存されているとは限らず、貴族や武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族の屋敷には私設の文書館が付属している場合もあり、日本の歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールド・ハウスに赴いて史料を収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)
ただ、「みんなが読みたがる重要な史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスやオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内の研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学の研究者は結局それらを所蔵している大学の図書館に行く必要が……
注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛の意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな
注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報を摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。
これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者のあいだから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)
注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語の二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者の仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通のニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。
物理分野では「参考文献」の意味が増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。
誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。
や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。
あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生に上から目線でアドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます。史学科出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科の常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?
「体罰は昔は常識だった!俺も体罰を受けて育ってきた!」と言っても問答無用で処罰されるんだから。
「『お〜いお茶』は昔は女性蔑視の意味だった!『フリマでクッキーでも売れ』は昔なら女性蔑視だった!」とかいう価値観を若い人に押し付けて来ないでほしい。
まあ、「昔はそうだったんだよ。今はいい時代になったね」くらいの意味で歴史を振り返ることには意味があると思うけどね。歴史を繰り返さないためにも。
私は散々歩み寄ってきたけどね。内心では「意味わかんねぇ」と思いつつ、でも「ほんの10年で社会は大きく変わるから、そういう時代があっても不思議ではないよな」と自分を納得させて来たよ。直接見たことも感じたことも一度たりとてないけど、あなた方の言葉を信用して来たよ。
今までは「自分メデューサなので・・・」と言ったら学校の先生、高校、大学の面接などは鏡越しに会話をしてくれました。
でも企業面接では直接見ないと失礼とのことで直接目をみたら面接官が石化してしまいます。この時点で落とされます。(ちなみに治癒費の金の針代はこちらが負担しています。)
なので、1月ごろから電話面談をしてくれる所を探して、ついでにリモートワークできると楽かなとおもって何件か受けたんですけど、
やはり「社長面接」は直接じゃないと難しいらしく辞退となります。
今はなんとか、母親が首だけになって盾として働いて残してくれた遺産があるのですが、髪の毛の蛇たちのエサ代を考えたら後1年持つかどうか…
諦めて風俗店への面接(受付などの方です。受付だと目を合わせなくてもいいので。)も数店いったのですが、「メデュ子ちゃん、身体がすっごくきれいだし、おっぱいも大きいから嬢のほうでどうかな」と言われてしまいます。
Yahooニュースに産経とFNNの記事が増えてきた。とくにここ何日かは国会での追及が厳しくなったせいか、与党を擁護するような見出しがYahooトップページに出ていて、印象操作がひどい。
ただし注意深く見ていると、時間帯によって傾向が異なる。夜8時くらいから深夜にかけては、与党を批判する記事がYahooトップページに出ることが多い。
推察されるのは、Yahooニュースの中の人のトップが政権寄りということ、しかし時間帯によってはチェックが甘いのか政権批判の記事を載せやすいということ。あるいはもっと単純に、政権や産経からお金が流れていて経営判断として割合が多いのかもしれない。
もともとYahooコメントのひどさには定評があるけど、これもPV数を稼ぐために放置している説があるし、あまり深く考えずお金のために産経を増やしているのかもしれない。そしてYahooは別に報道機関ではないので、中立的でないと批判するのも難しい。べつに中立的である義務はないからだ。
とすれば考えられる方策は、Yahooニュースをなるべく見ないこと。最新のニュースが見たければ新聞社のサイトを直接見るか、またはYahoo以外のポータルサイトを見に行く。はてブの新着記事を見るのもいいだろう。とにかくYahooを見に行かないことが大事だ。
ふと気付いたのだが、現実で猫を見かけるよりもネットで見かけるほうが多くなった。こういう逆転は、実は珍しいのではないか?と思い始めた。もちろん、パンダを目で見たことがある人よりも、テレビで見たと言う人のほうが多いだろう。希少な動物だし、日本にいるパンダは数えられるほど少ない。雀はどうだろう?あれだけの個体数で朝チュンチュン言ってるので、当然直接見る機会の方が多いだろう。じゃあ猫はどうなのかというと、確実にネットの方が沢山いる。氾濫していると言ってもいい。昔は、たまにどこかの飼い猫が鈴をつけて歩いている姿を見る機会が多かったはずだ。野良猫にあったら、とりあえずモノで釣って近寄ったりしたはずだ。そういった経験の価値は、今はメディア猫に比べて相対的に上がっている。メディア猫の振りまく喜劇的な可愛さに僕らの胃はもたれ気味で、どうしたってあのツンケンした現実の猫とふれあいたくなる。そうしてまた「猫を飼いたい」という偽物の気持ちを植え付けられた人々は今日も猫の居ない生活に首をかしげることになる。おかしいな、メディア猫はあんなにも居るのに、現実では全然見かけないじゃないか。。
ここから先は完璧に想像なのだが、日本の高度経済成長時代、裕福な家庭の象徴として「ペットを飼う」が掲げられた。立派な一戸建て、最新の家電、頑丈な車、広い庭、そして片隅には犬小屋があり、ゴールデン・レトリバーがいびきをかいている。ペットを飼う余裕すらないのは、中流とは言えない。彼らはこぞって同調し、しかし「なにを飼うか」で個性を競っていた。下らない流行りに付き合わされたのが猫たちである。様々な品種改良が進み、もはや家の中でしか快適に暮らせないまで進化させられてしまった彼らには高い値段が付き、飛ぶように売れた。一方で、捨てられる猫が増えた。もともと繁殖力の強い生き物だから、全国的に猫だらけになった。しかし10年も経てば、野生の猫は力尽きる。彼らの相手はいつの間にか、戸建ての一軒家からコンクリートの階層ビルに変わっていた。人間のご相伴に預かれなくなった猫たちは、やがて数を減らしていった。
そんな猫たちに分け隔てなく優しさを振りまいて、ご飯を食べさせるついでにうちの子にしてしまう男がいた。僕の叔父だ。彼は長い間祖母と二人暮らしで、ふたりとも猫が大好きだった。いつの間にか祖母の家は猫屋敷になっていた。祖母も叔父も、自分の家に何匹猫が上がり込んでいるか把握していなかった。そんな中の一匹に、チイがいた。チイは猫らしい猫だった。小さな僕がよちよち階段を登って必死で追いかけるのに、彼女はするりと脇を抜けて逃げてしまう。とても人見知りな猫だった。僕は彼女を一度くらい撫でたかった。毛並みに触らせてほしかった。ついぞ彼女が姿を消すまで、僕は撫でることができなかった。
いま猫が好きなのは、そういう原体験のおかげかもしれない。居なくなった猫の毛並みを想像して、ずっと別の猫のことを可愛がり続けるのかもしれない。そんな気持ちは猫にとっては知ったこっちゃない。我が物顔でご飯をねだり、好きなときに遊んで寝るだけだ。僕にも猫の気持ちなんて分からない。この世の誰が猫の気持ちを知っているだろう。ただ、そうした中でもなんとか上手くやっていくことができる。お互いの勝手を暗黙に認めて、自分だけのことを考えて共生する。そういうのが生活というのだろう、となんとなく思う。
祖母がもし居なくなったら、あの元猫屋敷には叔父しかいなくなってしまう。僕は叔父がクラシック・ギターを弾くのが好きだった。その昔、禁じられた遊びを弾く叔父がとてもかっこよくて、僕もギターを弾き始めた。またあの家にいつか、もうちょっとしっかりしたら、遊びに行きたい。縁の下に、光る眼。
巡査部長、調書改ざん…消せるペンで表現直す : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ttp://b.hatena.ne.jp/entry/osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120822-OYO1T00758.htm
「令状出てますんで」突然の家宅捜索 できあがっていた調書:朝日新聞デジタル
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASQ2K5QP5Q10UTIL02K.html
報告書によると、同年9月に宇和島市内のスナックに酒を飲みに行き、当時容疑者として浮上していた男性と会った。自営業者の男性が「やったんやないん」と聞いたところ、「うん。おれがやったんよ」と話し、「死体の他の部分はどこへ隠したん」との質問に、「山よ」と答えたことになっている。
しかし、自営業者の男性は取材に対し、「警察は来ていないし、報告書にあるような内容は話していない」と証言。
ttps://web.archive.org/web/20060404232408/http://www.asahi.com/national/update/0404/OSK200604030107.html
1999年桶川ストーカー殺人事件 冤罪を訴え続ける“首謀者”「再審請求がダメなら一生獄中です」
実行犯の店長が逮捕後、「武史に頼まれてやった」と供述したことだった。
無実を探せ! イノセンス・プロジェクト — DNA鑑定で冤罪を晴らした人々
ttps://www.amazon.co.jp/dp/4877984240
ttps://www.nikkei.com/article/DGKKZO53083870X01C19A2MM0000/
指紋認証は500円あれば作れる「偽指紋」で簡単に突破できることを示すムービー
ttps://gigazine.net/news/20211124-fingerprint-hacked-for-5-dollar/
ttps://b.hatena.ne.jp/entry?url=http%3A%2F%2Fmembers.jcom.home.ne.jp%2Fmiurat%2Fad040722.htm
「指紋鑑定におけるダブルブラインドが採用されたのはごく最近」
ttps://twitter.com/otakazu/status/376536776015220736
教授は「(DNAは)偽造することができます。ほんのちょっと混ぜただけであなたを犯人にすることも簡単にできます」と恐ろしいことをいう。
法医学者の「DNAは別のものに簡単にくっつけることができる」という言葉に愕然とする。
ttps://news.goo.ne.jp/article/galac/entertainment/galac-20150811111259169.html?page=1
How flies could potentially put an innocent person's DNA in the wrong place
ttps://twitter.com/NatGeo/status/701877902187614208
できあがった調書を、書記官が読み上げる。速すぎて、Yには何を言っているのか分からなかったがYにはどうでもいいことだった。調書にサインをして拇印を押すと、やおら腹が立ってきたYは、調書を手に取り、ライターで火を付けようとする。慌てるI検事に、「土下座しろ」とYが言うと、I検事は床に額を押しつけた。
巡査部長、調書改ざん…消せるペンで表現直す : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ttp://b.hatena.ne.jp/entry/osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120822-OYO1T00758.htm
【独自】検察事務官が特捜部の書類変造、印影をコピーして貼り付け…火災後に一部見つかる(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/b620c7ea088a91e5d8e17685bd37c86e6920dc00
被疑者が署名押印したページだけを生かして、その他のページを別のものと差し替えて、捜査官が契印をしてしまうと、容易に贋の調書が出来上がってしまうのです。
「私がサインした調書は6ページか7ページくらいで、こんな10ページをこえるものではありません。そして結論が違います。これでは私がこのメールを前町長の当選依頼だといっているのと同じではありませんか。私は当選依頼ではないと言っているのですから真逆です。私のサインした供述調書は別のものです」
本人の調書を読んでいただいたところ「内容が違う・・・」と言われたのです!
紙の調書にしても、袋綴じし、両者割印が社会常識であるのに、それを絶対にしない。最後の頁に被疑者の拇印だけである。取調官の拇印も押さない。調書のコピーも渡さない。これでは、いくらでも差し替え自由である。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/SukiyakiSong/status/25104726020
問題点は次のとおりだ。
②文中の供述内容の訂正印やページ間の割印は、作成者である警察や検察しか押印せず、被疑者には捺印(指印)させないこと
中略
しかし、訂正箇所もページ間の割印も被疑者には捺印(指印)させないのであるから、被疑者が署名指印した最後のページだけ残して、後はバソコンでどのようにでも作り変えれるのである。
調書の改竄(かいざん)を防ぐ方法がある。それは、契約書では当たり前の方法でありお金も掛からない。その方法とは、全頁に割り印を押させることである。
調書は契約書のように2部作成し、割り印をして双方が持たないといけないという実例
ttps://b.hatena.ne.jp/entry?url=https%3A%2F%2Ftwitter.com%2Fworks45%2Fstatus%2F28886387378
可視化というのは、取り調べの模様だけを録音録画して
おけばよい、ということにならない。調書作成過程も全部
含めて、必要だろう。
逮捕されたことに関しては「ショック」だと話し、悔しさをあらわにした。「ああ、捕まってしまった」と考えると夜も眠れないと明かし、両手で頭を抱えた。9人目の被害者の携帯電話が発する微弱な電波が逮捕のきっかけになったといい、電源を切らなかったことを後悔。証拠隠滅など、やっておくべきだったことが「めちゃくちゃある」と強調した。
白石被告は、事件の詳細について問うと「そこは有料です」と、たびたび指でバツマークを作り口を閉ざした。「対価を頂ければ、労働として誠意をもって対応する」と説明。金銭を支払う意思のある接見相手を「魅力的」と表現し、金額次第で手紙のやりとりや書籍の執筆にも応じる考えを示した。
なかなかサイコっぷりが凄い。