はてなキーワード: テレビ放送とは
映画館は換気も十分だし話さないし飲食提供も無ければクラスターしねーんだろうが
8年待ったんだから後数ヶ月ぐらい待てる!とか言う奴はもうエヴァ観るな
借りた金の返済を8年待って2回も延期されたらキレるだろうが
緊急事態宣言が出たら延期します、って言っておけば別にキレねーよ
そもそも旧劇のときから、というかテレビ放送のときからこういう仕打ちを受ける度に「ふざけんな庵野」って言い続けてきたのがエヴァだろうが
25,26話で「ふざけんな庵野!」
破では「ごめんなさい庵野」
Qでは「ふっっざけんな庵野!」
だろうがどう考えても
「テレビ放送の最後は、いわば最高のテクニックで前戯してイク寸前だったところで突然「SEXとは何か」とか語り出したようなもの」
シンエヴァはQで勃起しなかった奴が次は体調万全でSEXするって言って8年待たせていよいよラブホまで予約して、ツール類・予習万全でやるぞ!ってなったら「ごめんビビったから別日で」みたいな感じだわ
こっちはもう濡れてんだボケ さっさとやることやれクソが
STAND BY ME ドラえもん 2を鑑賞してきた
前作も視聴済みだ
ドラ泣きと感動を押してるから見に行ったのだが拍子抜け
感動の押し売りをされてるから泣けないのかとも思ったが、ヴァイオレットエヴァーガーデンの映画ではガチ泣きしたので、やっぱりストーリーの問題なのだろう
ドラえもんもクレヨンしんちゃんも普段のテレビ放送では、くだらない馬鹿な日常(褒めてる)を放送してるからこそ映画のストーリーのギャップで感動するのだ
あんな内容で「ほら泣けよ!」って言われても泣けないわ
そして、タイムマシーンの設定も何故、結婚式開始前に戻れなかったのかも全く説明不足で分からなかったし
開始前に戻れば全て解決したのではと思って見ていた
今の所、それほど面白くもないが、ジャンプのテッパン作品という感じがする。誰でも見られる。
ここまで人気を博すのだから、きっともっと何か強烈な惹きがこれから出てくるのだろう。
MAPPAだなあ…という感じはあまりしないが、EDとかMAPPA感ある。好き。
あと、OP曲は「たぶん歌い手の作品だろう」と思ったらラストダンスの人の曲か。似た感じがするもんな。
ところで同ジャンプ人気作品である鬼滅の刃だが、アニメのリアルタイム放送時はAbemaで流れるcmが非常に煩くて嫌悪していた。
あの曲のサビとともに「がんばれおれ!がんばれ!」と繰り返されて非常に神経に触った
(あのcmを全く見ておらず、ufotable作品だと知っていれば普通に全話終了後に視聴したものと思われる)
そんな状態だったのに何故アニメを見て漫画も読むことになったのか記憶があやふやなのだが、多分他に何も見るものが無かったからだと思う。
見てみたら、冒頭の竈門炭治郎のポニテがとても可愛いと思ったから視聴を続けることになった様に思う。
あと、テレビ放送分では鬼舞辻無惨のパワハラ会議が一番好きな場面なので、あそこで一気に気分が上がった(最終回かよ)
あのビジュアルでイルカ先生の声で酷いことを言うとか最高だなと思った。
鬼滅の刃に感動しない
二回観たなりの感想を述べたい。原作は未読。今後の展開も知らない上で話す。(ぶっちゃけテレビアニメもまじめに観てない)
《映画:良かったところ》→《映画:良いとは思わなかったところ》→《鬼滅の刃は感動しない》
《映画:良かったところ》
この映画の素晴らしいところは、ジャンプ原作の王道の努力•友情活劇の中に非常に高品質な心情描写があった点だと思う。前半の炭治郎の夢の描写が素晴らしい。
家族との幸せな日常の夢に浸かる炭治郎。さっきまで列車に乗って鬼を探していたはずなのに、突然夢に惑わされた。夢を夢だと気付くまでの演出の仕掛けは、往年のホラー映画やSF映画を思い起こさせる。ねずこを運ぶ箱だったり、咄嗟に口に出る“昼間のねずこ”の違和感だったり。その加減が多すぎず少なすぎず非常に絶妙なのだ。ジャンプのアニメ映画だという大前提を守りながら、観客の我々は「炭治郎は本当に現実世界に戻るのか?」と不安にさせてくれる。六太の「置いてかないで!」という絶叫は悲しくも最高だった。子供の絶叫ってどうしてあんなに不安になるんだろう。初回観たとき泣いてしまった。再会できるはずのない家族ともう一度会えた炭治郎の喜びと後悔を観た我々は、夢から覚めるために進む炭治郎の辛さが理解できた。夢にいれば鬼なんて来ないのに、鬼を倒すために炭治郎は進んだ。そして、戦うために“自決”の賭けに出た。炭治郎は鬼を倒すために、自分の首を斬る選択までしてしまうのだ。なんて胆力だと、鬼と一緒に私も驚いた。そしてダメ押しのしんどいバージョンの夢。なによりも家族を優先してきた炭治郎が、父親母親弟たちに恨まれる様子を見せられる。そのときに「言うはずないだろ!俺の家族が!!」というセリフは演技演出共に本当に素晴らしかった。家族の死という最大のトラウマを乗り越えて、彼は鬼と戦って勝った。最高のカタルシス体験だった。今まで鬼滅の刃は流行っているからとりあえず観ていた作品だったが、ここまで観に来て良かったと思った。
あと、作画と音楽も良かった。ハイクオリティだった。声優の演技も高品質だった。
《映画:良いとは思わなかったところ》
新キャラ同士の戦闘にあんまり感情移入できなかった。顔は知ってるだけの先輩と、なんの前触れもなく現れためちゃ強い敵の急な戦闘に頭がついていかない。さらにこの二人も初対面同士だし。ヤタガラスにもアカザ打倒を命令されてもいない。アカザが“なんかいた”のだ。なんかいた、という理解しかできない。因縁もなにもないやつとの戦い入れる必要ある?煉獄さんがえんむとの戦いであんまり活躍出来なかったからアカザ戦投入したとしか思えない。戦闘が非常にぬるぬる作画だったし私が長子だから耐え切れたが、テレビ放送だったら耐えきれずチャンネルを変えていたかもしれない。
煉獄さんの親、お前なに言ってるの?「自分がどうして他の人間より強いか理解できるか」って、そんなこと言う親いるのか?少し斜に構えすぎかもしれないが、選民意識が強くはないか。煉獄父の奥方がそんなドストレートな言葉で表現するかいな。ノブレス•オブリージュを表現したいなら、「なぜ強い“火の呼吸”を我々が代々受け継いでるのか」とか………もっとオブラートに包めよ!若干鼻につくんだよ。
あと皆んな煉獄さんの死で泣きすぎ。先輩が命をかけて戦ってくれたので、ちょっと泣きたくなるのも分かるがあれは泣きすぎだろう。ほとんど寝てた善逸はなんで泣くんだ。炭治郎のメンタルは強いんだ。家族の未練を断ち切り鬼を倒す自決を繰り返す、ちょっと異常な強さのメンタルを持つ男だ。自分の意思で家族を振り切れるんだから、並の10代の精神力じゃない。そんな強い男が、顔見知り程度の先輩の死にあれほどまでに泣くだろうか。炭治郎は苦しくとも前に進める心の強さがあると思っていたのに、結局は号泣してる伊之助にハッパをかけられてしまう始末。おいおいどうしちまったんだよ。赤ん坊みたいに泣かないでくれよ。お前はこれまでの鍛錬と旅で強くなったはずなのに、先輩の死であそこまで泣かないでくれよ。この作品はやたら人が泣きすぎるんだ。
《鬼滅の刃は感動しない》
書いてて分かったことがある。鬼滅の刃のアニメは料理人の腕は神だが、レシピ作成者は二流だ。アニメーターの匙加減でなんとか名作の域に食い込んでいるが、元々の原作はかなりポンコツだ。たしかに面白いは面白いんだろうが、この程度の面白さだったら流行で終わる。なんとなく面白いが、人の生き方を変えるほど感動は与えない。私はそう思う。
あらゆるジャンルの作品で我々視聴者が求めるものは、『感動』の一点のみだ。作画がすごいとか、声優の演技がすごいなんてのはおまけにすぎない。視聴に耐えうればおおよその場合そこまで重要じゃない。
で、この感動を私なりに噛み砕いてみると、“昔の自分から生まれ変わる”ことの体験だ。映画『ラピュタ』で軍要塞からシータを振り向きざまにかっさらうパズーだとか、映画『ハウルの動く城』でソフィに「ようやく守るものが出来た。君だ」と言うハウルだったり。洋画でもいい。映画『タイタニック』にて海に沈むジャックをあとに自分の好きなように生きることを選んだローズなど。今回の映画でも、炭治郎がえんむに立ち向かったところなんて本当に感動した。現実を生きる我々にはしがらみが多すぎる。新しい選択肢を取るのは怖いし、自分で自分に不幸な暗示をかけてしまっている。でも、画面の向こうの彼らは、恐れの中でも古い自分を断って生まれ変わった。それを目の前で証明され、心が動くのだ。
長々と書いて申し訳ない。鬼滅の刃の話に戻ろう。この作品の最大の問題点は「あるはずのしがらみが都合よくぼかされてる」からだ。鬼殺隊でありながら鬼の妹を連れること、政府非公認組織の鬼殺隊、絶大な力を持ちながらただの鬼殺しに明け暮れる柱など、キリがない。今回だってそうだ。なんで精神の核を破壊しなかった。なんでえんむが人間を食わなかった。意図的に炭治郎たちが苦境に立たないよう誘導されている。そういうしがらみを無視されたまま話が進んでしまうから、ご都合主義だと思ってしまう。折角いい設定を持ってるんだから、ストーリーに生かしてほしい。鬼より悪どい柱がいてもいいし、警察に逮捕される鬼殺隊がいてもいい。ねずこが炭治郎の恋人を食べてしまってもいい。いくらでもあるんだから、アカザみたいなよく分からん敵をぶん投げて戦わせるんじゃなくてしがらみからけりをつけてくれ。原作がご都合主義に甘んじるポンコツだから、アニメの味付けがいかに最高でも私は感動しない。ハマらない。
鬼滅の刃が、日本人が一緒に楽しめるコンテンツになってくれたことは事実だ。皆んなが観ていた月9や朝ドラが、今は鬼滅の刃になった。立派なメインカルチャーだ。炭治郎たちは間違いなく時代を代表してる。
原作の一部で、ストーリーを左右する内容なのに、そこを取り出して映画化するのってどうなのよ?って思ってた。
アニメだけ見てる人が、内容わからないと困るんじゃないのか?と
内容も、原作読んでたら全部分かるものだから、楽しくないんじゃないの?とか。
楽して儲けようとしてるんじゃないのか?と思ってもいた
そう文句を垂れてたけど、観に行った。
アニメがよくできてたから、アニメ版で動いてるのが観たかった。
原作を知ってるだけに、あのシーンってどう映像化してるのかな?って思って観た。
観終わって、この方法、ありだな…と思った。
映画用のオリジナルストーリーなら、物語を左右する名シーンは、絶対に入れられない。
いうなれば、本編に関係のない、番外編のような内容に終始してしまう。
映画オリジナルキャラを中心に据えたストーリーになってしまったり。
しかし、原作抜き出し方式だと、物語の重要なシーンを、めちゃくちゃお金をかけてじっくり描けるんだなと。
映画を見なかったファンに対して、テレビ放送で内容のフォローは必要だと思うけれど、このやり方はありだと思った
とても満足してる私がいた
今朝、通勤中に思いついた。
女性の人権を軽くすれば、可能であればゼロに近づけることで少子化問題は解決に向かう。
厚労省の統計によると、50年前の出生率は今の3倍はあったようだ。その理由のひとつとして、女性の権利が今よりも制限されていたのが大きい。
ある昭和のⅤシネマで、ケツモチがソープランドにみかじめ料をもらいに行っていた。店内に接客スタッフはおらず、嬢が1人だけいた。ケツモチが店に誰もいないことを嬢に確かめると、それから実時間で十秒もしない間に強姦が始まった。
行為が終わった後に嬢は泣いているのだが、男が慰めるとまんざらでもない表情をする。そして、劇中時間で1~2週間後には2人の清い交際がスタートする。
今の時代に、こういう演出はできるのだろうか? 日本映画では難しいように思うし、作れたとしてもテレビ放送は無理だろう。クレームが殺到して、ツイッターやはてなブログのフェミニストに袋叩きにされそうな気がする。
でも、女性の権利レベルを低くすると、できればそこらへんを歩いてる犬猫くらいにすると、恋愛的・結婚的な意味で日本社会のためになるのではないか。理由は以下のふたつだ。
理由①
男が女を強引に誘えるようになる。今の時代は、嫌がる女性をしつこく食人に誘ったり、嫌がる女性を車の中に押し込んで、河川敷の駐車場(または住宅団地のできるだけ高いところ)に連れていって無理やり性交するとセクハラが成立する。
でも、嫌がっているからといって、恋愛不成立ということで本当にいいんだろうか? 女って、いい感じの男から誘われても嫌がることがあるんじゃないか? 本当は好きでも。そういう、いわゆる『好き避けの壁』を突破できた男だけが自分の遺伝子を残せる。
今ではそれがやりにくくなっている。上記のセクハラ問題だ。今の男は、昔の男に比べて女を強引に誘うことができない。無理して食事なんかに誘うことはできても、結果が悪ければハラスメントで訴えられて社会的な立場が危うくなる。
理由②
エロ漫画では強姦の扱いが軽い。あっちの世界でも強姦は重犯罪なんだろうが、登場人物はお構いなく無理やりなセックスに走る。
これが、もし現実化したら……例えば、学校でも職場でも、好きな時に女の手を握れて、好きな時にキスができて、好きな時に胸を触れて、好きな時にセックスできて、好きな時に子どもを産ませることができたら――それで、産婦人科での堕胎手術を禁止にしたら……それらが当たり前になったら、日本の出生率が上がる確率は100%だ。
え? 望まぬ子ができたらどうする? 国が面倒を見るんだよ。赤ちゃんポストの拡充を行って、親がいらないと判断した子どもは公共的な組織で育てるようにする。
大昔は、親から愛情を注がれなかった子どもは間引きされていた。それは人間の世界でも、動物の世界でも一緒だ。今だって、多くの親が子どもを殺してるじゃないか。間引きされるくらいだったら、自由に子どもを捨てられるようにすれば、あの子らだって生き延びることができたのに。
100年前に比べて、人間一人当りの価値は確実に上がっている。
昔だったら、いらない子どもは生まれた時に産婆に殺してもらったり、何年か育てた後に人買いに売ったり、誰にも知られずに始末すればよかったかもしれないが、今ではそれらの行為は犯罪として処される。
人間も、ペットも、エビみたいな食物でさえも、あらゆる命の価値が上がり過ぎている。ペットを傷つけるのはすでに犯罪だし、こないだようつべでエビかカニを生きたままミキサー機にかけて殺す動画をアップした人が糾弾を受けたというニュースを目にした気がする。
昔の女は、例えば、大学の掲示板に貼ってある求職カードの雇用条件のところに、「新卒の場合、女子は満24歳まで」「女性社員は30歳が定年です」「女性が応募できる職種は事務のみです」みたいなことが平気で書いてあったんだろう? 大学の先生が言っていた。
今でもそういう文化はある。例えば、総合商社の受付に行ってみろよ。大抵は美人がいる。あれって、男性社員へのサービスの一環として可愛い子を雇ってるんだろ? それで、女も高年収の男に出会うことができる。WinWinWinだ。
女性の社会進出や、男性との雇用条件の均等化が叫ばれて久しい。俺が生まれた時点ですでにそういう文化だった。でも、それじゃだめだ。女が貧乏じゃないと男と結婚しないだろうが! 女は結婚できない限り、社会的弱者でいてもらわないと世界が困るんだよ…泣
少子化に勝てる文明なんてあるものか。このままでは世界は滅びる。
だってそうだろ。科学や政治や経済が進歩して、豊かになればなるほど、結婚せずに1人でいることの幸せ感が高まっていくんだぞ? 異性と出会わなくても、アニメや漫画やゲームの世界で満足できてしまうんだぞ? ヒプノシスマイクてめーだよ。アニメ面白いじゃねーか。
女を誘っても、自分が本当に嫌われてるかを知る頃にはセクハラ事犯だ。誰が恋愛に挑むんだよ。誰が子どもなんて作ろうとするかよ。
俺はまだ学生だ。でも、これから新卒社会人になって、中堅社員の仲間入りをして、もしかしたら管理職になって、そんなこんなでおじさんになって、還暦になって、会社を定年退職して、おじいさんになる過程のどこかで、男も女も楽しめるセックスができるロボットか、セックスを脳内体験できるゲームが発明される確率はとても高い。9%だ。
そんなことになったら、人間としての男の価値も女の価値もゼロになってしまうじゃないか。
年老いた後の未来が怖い。どんなに恐ろしい世界が待っているんだろうか。公民館や集会所に行っても、プールに行っても、ゲームセンターに行っても、カピバラ園に行っても、月にできた観光施設に行っても、ジジイやババアだらけなんだぞ。
俺が50年後に生きていたとすると、そういう世界になっているだろう。
聖書を諳んじられて、音楽技術を把握していて、花言葉を理解できる奴だけが分かるという映画のワンシーンを称賛する人間の浅ましさよ。
そうだな。
「チンチンをシコると気持ちいぞ!これ豆な」
だ。
冷笑的に世界を揶揄するために語った言葉を、彼のシンパが面白がって広めただけに思える。
性器に摩擦を加えると流れる電気信号が神経を介して脳の報酬系と結びついているというのは非常にありがたいことなのだぞ?
擦る場所を性器から肛門に変えればいいだとか、妄想による興奮のみを楽しむにしたって同じだ。
性欲の解消は肉体を消耗していく。
なにより問題があるのは、性欲の最も素朴な解消法である異性性交を行うと妊娠という非常に悩ましい出来事がつきまとうことだ。
また、それは今や社会と混ざり合って単なる性欲の解消がひと目につかない場所で行わない限りは法的な処罰の対象となりうるようになっている。
一部ポルノの単純所持違反も考慮すれば、トイレに籠もっての自己手淫以外に安全と言える方法はないのやもしれぬ。
睡眠は地味に厄介で、たった1日の寝すぎが一週間続く生活リズムの崩壊の始まりとなる。
食欲の解消は、そこまでスピーディーな影響を及ぼすことは少ない……いや歳を取るとわずかな暴飲暴食、いつもよりたった1000kcal多い食事がいつまでも胃腸で処理しきれずに数日ほど不快感が続くことだってある。
肉体的欲求の解消は教養を必要とする度合いが低いのだが、肉体を媒介にするが故にオーバーランによって不快のリバウンドが発生するリスクが大きい。
なんだかんだいって教養を要するのだ。
最も広く用いられるのは大衆音楽の類だろう。
大衆音楽は非常に素晴らしい。
クラシックのようにその技巧への理解も必要としないし、高音質であることすら求めない。
宗教的な背景への理解は不要であり、現代社会的な価値観で紡がれる散文詩を理解するのに必要なのは単にその時代を生きてきたことぐらいだ。
児童文学を読むのが恥ずかしいというならハリーポッターについて語れる老人の数を考えてみればいい。
ハーマイオニーを知らないジジイの多くは単にアルツハイマーが進行しすぎているだけだ。
動画も自分に向いた作品を選ぶことが出来れば楽しむのは難しくない。
ただ、動画は表現の幅が文学よりかなり広がるため、NOT FOR ME問題が起きやすい。
向いてない動画はさっさと消して次に行くのがコツだ。
これはザッピングと呼ばれる技術でテレビ放送が始まった頃に産まれた生活の知恵だ。
漫画は、本当に難しい。
ただし消費のしやすさにおいて文学や動画より上なので、一度文脈を覚えてしまえばかなり人生が楽になる。
これも文脈の理解によって遊びの幅が広がる文化なのだが、それを掴みきれない人間は単に綺麗な絵が動くだけの画面を延々とポチポチして変わりゆく絵を見るぐらいしか出来ない。
絵をザッピングする(これは先程紹介した動画のザッピングを絵に対して行うということだ)のならば、ゲームよりSNSの方がいいだろう。
これには3つの処方がある。
イラスト系SNS(ピクシブ、skeb)と呼ばれるものを使う場合は好きな作品を探すのが容易だし、クオリティが高い作品に出会いやすく、同一作者の別作品にもアクセスしやすい。
スクレイピング系SNS(タンブラー、Instagram等)を使う場合は、同一作者の作品を探すのは難しくなるし、作品の質もばらつきが出るが、ザッピングという行為を楽しむのには理想的だ。
個人的におすすめなのがミニブログ系SNS(ツイッター、マストドン)で好きな絵柄の作者を大量にフォローしてしまうことだ。これを行うことで自分だけの最高のイラスト空間が完成する。
さて、様々な低次元趣味を紹介したが、どれも一定位以上の教養が必要となることが分かっていただけだろうか?
特に最後のイラストザッピングなどまさにそうで、単に綺麗な絵をペラペラ見たいという未就学児童レベルの娯楽ですら効率化を目指すにはある程度知恵を絞って情報収集する必要があるし、日々自分の生活を向上させる意欲を要求される。
悲しいことだ。
もしも、明日の朝、君が猛烈な頭皮神経痛に襲われ、次に目覚めたベッドの上で知能指数が下限を超えて測定不能になっていたとしたとき、君は何を楽しみに生きればいいのだろう?
食事を楽しもうにも、食べ過ぎればお腹が痛くなるという当たり前のことを理解する知性さえ失っていれば、それは満たされぬ精神的苦痛と満たされたのちの肉体的な苦痛に挟み込まれた苦悶の儀となるだろう。
ならば、何がある?
祈ることだ。
ただ、心を無心にし、無心を目指すことだけを目的に祈る。
なにもしないことを目指す。
それも、神へ祈るのではなく、いわゆる禅、瞑想のたぐいだ。
禅を高尚だと崇めるものよ、瞑想こそが格調高い儀式だと宣う者共、恥を知れ。
それは、三大欲求にさえ見捨てられた物に残された最後の娯楽、この世界の底辺だ。
そこから、そのふてぶてしい脚をどけよ。
ウルトラマンがテレビ放送されていない時期に子供時代を過ごした世代のことを言うらしい。
具体的にはウルトラマン80放送終了からウルトラマンティガ放送開始までの期間らしいので
私はウルトラマン80を幼稚園時代に見ていたらしく、家に絵本も人形もあったのを覚えてるのでウルトラマン空白世代にはギリギリ該当しないようだ。
むしろ小学校時代のガチのウルトラマン空白時代に毎日夕方に再放送していた昭和40年代のウルトラマンシリーズをよく見ていたのでそちらの印象は色濃く残っている。
(怪獣が)気持ち悪い、怖いという印象ばかりで、(ウルトラマンが)かっこいいとかすごいとかは全然なかった。でも何故か見れる限り毎回見ていた。多分怖いもの見たさだったのと、昭和40年代の人々はどういう暮らしをしていたのだろうという興味関心が強かったからだろう。
そのおかげで、昭和40年代は恐ろしい時代だったんだなーという印象がものすごく強くて、自分は昭和50年代以降に生まれてよかったなーとずっと思っていた。
(追記)
(1)2020/08/16
これ書いたきっかけは
紅白帽を立てにかぶった男の子のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_27.html
のコメントで「ウルトラマン空白世代」という用語を使っている方を見かけたことでした。
私もイラストのような、紅白帽を縦にかぶる行為をバッチリやっていました。
(2)2020/08/16
私にとってのウルトラマンはほぼほぼホラーのジャンルに近いものでした。
一番のトラウマは、ウルトラマン太郎でキノコの怪獣がテレビから出てくるというシーンでした。貞子の映画でも同じようなシーンがありますが、その100倍は怖かった記憶です。
仮面ライダーについても私はギリギリ空白世代ではなかったようで、仮面ライダースーパー1の記憶がウルトラマン80よりは多少はっきり残っています。テレビの主題歌をよく歌っていた記憶があります。
(3)2020/08/17
再放送やレンタルビデオDVD、オンデマンド放送などがあるから世代としてひとくくりにする意味はあんまりないという指摘がたくさんありました。まさにそのとおりで、(再放送の)地域差と個人差はかなりありますね。私のウルトラ経験も大部分が再放送によるものです。
正直言って、このような話題でこんなにたくさんの反応やブックマークが得られるとは全く思っていませんでした。これほどまでにウルトラマンが多くの人に愛されているということなんですね。ある意味、恐れ入りました。
https://www.comic.v-market.work/
というVRChatのイベントがTLで話題になっていたので入ってみた。
Comic V Market、略してComicVketという名前らしいがコミックマーケットとは一切関係が無く、VR法人HIKKYという営利法人が運営している商業イベントのようだ(商標権は大丈夫なんだろうか)
ちなみにTLで話題になっていたのはポジティブな意味では無く、VRソフトとして異常に重いというネガティブな話題だった。
ComicVket、我が家自慢のRTX2080Ti & メモリ32GB & 水冷マシンでも通常版会場はガックガクの後に突然落ちて最初の部屋送りになったので、マシンスペックに不安がある人はQuestにも対応の軽量版で見に行った方がいいかも?— 松VR🎩友黎火ちゃん🌗 (@matsu_vr) August 13, 2020
2080Superでも16fpsしか出てなくて本読むどころの環境じゃなかった...— なるがみ (@nalgami) August 13, 2020
RTX 2080とはNVIDIAが作っているグラフィックボードの現在最高クラスの製品だ。数字の後ろの文字が強さを示していてRTX 2080 Tiは最安13万円から買えるお大尽様向けのグラフィックボードだ。PCでは無く1枚のボード単体の値段である。
https://kakaku.com/pc/videocard/itemlist.aspx?pdf_Spec103=465&pdf_so=p1
1枚8万円からの2080SUPERでもデスストランディングPC版などが余裕で4K60fpsで遊べるくらい速い製品だが、それでも16fpsしか出ないとの事だ。
ちなみに、fpsとはFrame per secondの事で1秒当たりのコマ数である。
一般的なテレビ放送が30、スマブラやスプラトゥーンなどの対戦ゲーやレースゲームなど動きの速いゲームは60コマ、映画のようにスローで重厚感を出す映像は24コマで制作されているのが一般的だ。普通のPCのマウスカーソルやスマホのタッチスクロール操作も性能が酷くない限り60fpsで動いている(iPad Proなどは120fpsでヌルヌルを謳っている)。
そのような中で、コミックVケットの2080SUPERで16fpsというのは馬鹿げているくらい異常に重い。
この話題を見てコミックVケットには行ってみてその重さを確認して来たのだが(ちなみにQuest用軽量ワールドもPCで36fpsしか出なかった。VRの快適ラインは最低60、推奨75以上である)、ソフトの作り以上に著作権の面で問題があるのではという懸念を発見した。
コミックVケットは「バーチャル空間上の同人誌即売会」を謳っているのだが、販売されている同人誌に商業作品(アニメや特撮)などの二次創作物が含まれているのだ。
本家コミックマーケットはあくまで非営利団体のコミックマーケット準備会が「趣味の範疇、制作費の回収」という建前でイベントを主催しお目こぼしを貰っている状態だが、
コミックVケットは営利法人のVR法人HIKKYが主催し、ドン・キホーテやヒューレットパッカード、凸版印刷など名だたる会社がスポンサードしている営利イベントである。
そんな所で二次創作ガイドラインがある作品ならともかく、公式が無許諾の同人誌の作成を断っている版権についての二次創作の本がデカデカとVR空間上にあるため面食らってしまった。
VRChatはアメリカ企業が運営するVR SNSであり、知り合いしか入れないプライベートワールドと違いコミックVケットのようなパブリックワールドはTwitterや増田のように全世界からアクセスできるインターネット空間である。