はてなキーワード: サルバドール・ダリとは
Twitter(X)でもいいけど、TLの雰囲気を悪くしたくないからとりあえずここに吐き出しておく。お披露目から二晩三晩経っても、脳内から感情が消えなくて生活に支障が出だしたので供養の意味も込めてる。割と感情のままに書き殴ったから乱筆乱文。
先に本旨を要約すると、私はポジティブな感情からネガティブな感情に変化し、今は少しずつ前向きになってきている。
雑な言い方をすると、呪術オタが雑考察してフジを腫れ物扱いして燃やしてんのがキツすぎ。作者よりも呪術オタの挙動がフジファンの傷を抉ってる。でもだんだん立ち直ってはきてるしついでにお願いがあるよ。ということ。
【↓↓↓↓↓以下約5,500字↓↓↓↓↓】
8/25の夜、配信でじゅじゅフェスを観ていて、最後に巻頭カラー絵のお披露目があった。人生の半分をフジファブリックにどっぷり浸かって生きた私は、ひと目でアルバム『CHRONICLE』を模していると気付いた。
結論から言うと、好きなバンドと好きな作品が思わぬ形でコラボしたことに驚きと歓喜が止まらなかった。
そのときの感情をTwitterの本垢(フジファブリックはじめ音楽と日常メインにつぶやく)に突発的に書きなぐって投稿した。ひと目見て気付いたこと、そして作者も私の好きなバンドのファンであることが伝わってきたことなど。
そして、呪術廻戦にハマってから作った、漫画アニメだけをつぶやいたり、ファンアートにいいねしたりするアカウントで、ファンたちの感想(じゅじゅフェス)を拾っていった。
そこで私はショックを受けた。呪術廻戦ファンの間でイラストに対して「正気を疑う」「倫理観ない」「不謹慎」「バンドのファンや遺族に失礼」などの言葉が並んでいたからだった。
さらにはひと目見て「犬がいる!かわいい!」と好意的に受け取っていたアカウント主すらも「オマージュ元を知って地獄に落とされた」という主旨の投稿をしていた。
このショックを言語化するのに時間がかかって、友達の力も借りながら受け止めて今に至る。
正直に言うと、これらの呪術廻戦ファンの声を受けて、私は ①悲しみ ②怒り を感じている。
そして今は、これらを踏まえて ③祈り に近い感情も浮かんでいる。
①悲しみ に関して
私の人生をかけて愛したバンドとアルバムの名を用いて作者にヘイトを向けている投稿が散見されること。
フジファブリックという文字、志村正彦の人生の結集といえるアルバム『CHRONICLE』の文字と、「吐きそう」「気持ち悪い」「正気を疑う」「地獄に落とされた」「倫理観おかしい」という強い批判、もとい軽蔑の言葉が並んでいること自体が悲しくて悲しくてたまらない。
彼らにはもっと前向きで明るい言葉が似合うのに。「変態的かつ普遍的な美しさ」「クセになるサウンド」「新境地」「世代を越えて愛される」など、フジファブリックを応援してきたファンやメディアは素敵な言葉を紡いできた。
作者に批判の言葉を向けさえすれ、誰かを不快にさせる行為や言動は行為者の一面に過ぎず、行為者そのものの価値観や人間性を否定するものではないと私は思う。
そして私は同時に五条悟オタでもあり、作中で亡くなったことに悲しんだ経験もある。
ちょうどその話が掲載されてから1年弱経とうとしていることも思い出し、その当時は私の落ち込んでいる様子を見かねた友達や同僚が励ましてくれた。一方で、デリカシーなく「死んじゃったねw」と心のヒビを直接割る言葉をかけてきた人にも遭遇した。
このようなことを、五条悟を愛する人なら、少なからず経験したのではないだろうか。
同じように、五条悟を愛するがあまり、フジファブリックファンの心に残る微かな傷を、その強い言葉でほじくり返しているかもしれないことは考えられないだろうか。
作者はこういうことも勘定に入れて、「諸々の意味を込めて」とあえて濁したコメントしたのではなかろうかと私は思う。
6年半も続く大作を描き上げるにあたって、これだけ出版業界の不況の中、掲載誌の売上を落とさぬよう、耐え難いプレッシャーや責任を感じながら物語を続けていく自身を、軸となるフロントマンを喪って再始動した経歴をもち、過酷なプレッシャーの中それでいて15年も走り続けたバンドと重ねたのかもしれない。
②怒り に関して
こっちのほうがショックの中に占める割合が大きい。
前述した強い軽蔑の言葉にフジファブリックを並べてほしくないという怒りは先立つ。
次に、メンバーのパーソナルな情報が、漫画のファンによる考察(という体裁の下衆の勘繰りと言いたいくらい)の道具として利用されたことに怒りを感じている。
ご存知の通り、志村正彦は2009年12月24日に29歳という若さで突然この世を去った。これは揺るぎない事実である。
しかし本来、生年月日と同じように命日も非常にデリケートな個人情報である。彼がミュージシャンとして世に出ることがなければ、近親者は知れども、世界中の誰もが知り得なかっただろう。
対して創作物の登場人物はどうだろうか。物語において読者は、登場人物の動きを第三者的に、いわば神視点で見守ることができる。キャラクター同士の内緒話だって筒抜けだ。そうした舞台上の人物たちと観客とはいわゆる“恋愛テクニック”のように「秘密の共有」ができる。この恋愛にも似た興奮を私たち読者は楽しんでいる節があると思っている。
フジファブリックはバンドという周縁はコンテンツだとしても、メンバーは実在の人物であるがために、当然プライバシーを尊重されるべきである。実際、ファンやインタビュアーはメンバーの私生活に関して踏み入ったり聞き出そうとしたりしない。
命日や享年というデリケートな情報を持ち出して、その事実を安易に繋げたうえに、尾鰭をつけてありもしないストーリーを勝手に繋げていく行為が、私には他人の家に土足で上がりこむ行為に見えてならない。
曲がりなりにもオタクなら、プライバシー情報とコンテンツたらしめるものを分けて考えてほしい。
例えば、2つの事実にA、B、C、Dの4つの共通点があるとして、AとBとを繋げば万人が心地よく終われるものを、いくら線で結べるからといって、CとDを繋いで、恣意的なストーリーを生み出されては、どちらの側も良い気持ちはしないだろう。
だから、「この位置に五条悟が配置されているから…」「バンドは存続しているから五条悟は死から復活する」など、死去の事実からの逃避や不確かな根拠を並べ立てられるのは、両者のファンとして理解に苦しむ。
Twitter(X)では常日頃からしょーもない話題が炎上しているが、よくある例として「これでは〇〇が可哀想」という構造をしているものがある。
こんな親に育てられて可哀想、こんな飼い主に育てられて可哀想、こんな環境に放り込まれるなんて可哀想…など枚挙に暇がない。
それと同列で、当人の感情を勝手に想像してバンドのファンや家族に対して「嫌がっている」「失礼だ」とレッテルを貼る行為はそれ自体が失礼に値するように思える。
私自身、人生の半分といえど他と比べるとまだまだファン歴は浅いものだと自覚しているが、
曲がりなりにも十数年応援してきた身としては、苦しみや悲しみを押してまで志村正彦の全てを提供してくださっている志村家と地元有志の皆様には感謝してもしきれない。どんなに苦しもうとも、それ以上に彼の生きた証を残したいという使命のもとご尽力くださっている姿を見れば、どんな形であれ、一人でも多くの人に彼の存在が知られることは彼らへの報いではなかろうかと私は考えている。
だからこそ、彼を取り巻く話題は明るいものであってほしいし、そうなるよう関係者もファンも努力している。
それを、「ファンではないけど」「バンドは存じ上げなかったけど」と枕詞を載せて外野から関係者ヅラして物申していることが腹立たしくて仕方ない。許可取り云々の話ではない。無知蒙昧を晒し、それがフジファブリック関係者に届くことこそ最大の無礼ではないのか。
あとイチャモンついでに、現体制の3人のメンバーを「残りのメンバー」って言ってるのは何なんだ。3人は残りものなんかじゃない。言葉尻を捉えるようだが、夫を亡くした妻を未亡人と呼ぶような気味悪さが残る。甚だ不快だ。
個人的に言い得て妙だと思ったのが、志村時代をリアルタイムで知っている先輩ファンの「ファンでもない奴らが騒いでいる」「不謹慎厨じゃねーか!」という発言だった。正直この発言のお陰で少し溜飲が下がった。
フジファブリックはメンバーも関係者もファンも優しい人ばかりだから、強い言葉に対して萎縮する(私もその内の一人)のではと思っていたが、ファンコミュニティで軽蔑ではない言葉で真っ当に怒りを表出できる人の存在に救われた。持つべきものは信頼の置ける先輩ファン。
もちろん、一連の話題にモヤモヤが抑えきれず、私が呆れた呪術廻戦オタクのように作者や作品への痛烈な批判を長文で述べた先輩ファンもいた。
奇しくもこれの執筆最中に更新され、何周も読んだが、確かに納得できる内容で、その視点も勿論いちファンとして持ち合わせている自分を認識できた。
あらゆる表現物すべてにおいて、意味や意図が付随する。それら全てを拾ったとして、特に何を取捨選択するか、とりわけ「何を言わないでおくか」も巷で話題の“教養”とやらに含まれるのではないだろうか(一つ留意しておきたいのが、表現の意図として無意識に語られるもの、特に特定の属性への偏見や差別に関しては無視してはならない)。
少し脱線するが、ネットで語られるような“教養”と“雑学”はしばしば混同されているように感じる。いたずらに知識量を増やし自己のための娯楽として完結するものではなく、悲劇の再来の抑止や自分自身や後進の未来と社会を豊かにするために、蓄えた知識の中から取捨選択し、それらを原動力として行動することを教養と私は呼びたい。
③祈り に関して
簡潔に言えば、こんな言いがかりやイチャモンをつけている暇があったら、問答無用にフジファブリックを聴いてください!ということ。
件の『CHRONICLE』でいえば、志村くんの犬(モジャっていいます)だけが正面を向いていて、それ以外の総くんダイちゃんかとをさんの犬は横を向いています。
対して、巻頭カラー絵は、五条悟と虎杖悠仁の犬が正面を向いています。
この背景には、『CHRONICLE』まで(厳密には志村Vo.時代最後のアルバム『MUSIC』まで)のフジファブリックは、明確に「リーダー志村正彦」という線引きがあって、いわばフジファブリックという物語の主人公をずっと務めてきた事実があります。
そしてリーダー亡き後、3人がパワーバランスを強化しながら調和させ、いわば三位一体の形でそれぞれが主人公になって物語を作っていきました。
これを踏まえて考えてみるとどうでしょう?
映画化も決定した懐玉・玉折編で主人公だった五条悟、そして本編で主人公の虎杖悠仁、両者は同格に物語の主人公であることが示唆されるでしょう。
さらに、アルバムがスウェーデンでメンバーが寝食を共にして制作されたこともあり、寮生活を送る4人とレコーディングに勤しむ4人の仲睦まじさを重ねることができます(詳しくはアルバム同梱のDVDにドキュメンタリー映像が収録されています)。
また、10thシングル及び3rdアルバム収録の「若者のすべて」が現在進行形で大ヒットしたこともあり、そこだけを世間一般に切り取られがちという煮え切らなさをファンは常々抱えています。「五条悟?イケメンだから人気なんでしょ?」にも通ずる消化不良です。
フジファンなら同意してくれるかもしれませんが、志村正彦は変態で捻くれていて一途でお茶目で繊細で孤独な男なんです。
暇つぶしに花屋の女性店員とデートする妄想をしたり(花屋の娘)、酒の力を借りないと甘えられなかったり(ロマネ)、海辺で泣いている女性をお嬢さんと呼ぶ気障ったらしさがあったり(NAGISAにて)、自分を獣に喩えて思いっきり飛び出す大胆さがあったり(モノノケハカランダ)、
それなのに、否定される事が怖かったり(バウムクーヘン)、大切な人を亡くして何年経っても忘れないと覚悟を決められるのに(黒服の人)、相手は自分のことをすぐに忘れてしまうと悩んだり(クロニクル)、そんな卑屈な考えをを誰かに否定してもらいたがったかと思えば(エイプリル)、君がいなくても元気でいられると強がるふりして泣いちゃったり(Bye Bye)、非常に魅力的な人物です。
そんな男の姿も、たった一人の大切な人に素直になれなくて、だけども本当はすごく寂しかった不器用な男の姿も、どこか似ている気がするんです。
ちなみに私の見解としては、志村正彦は相当なハジケリストです。
北欧の熊と太極拳使いの髭面の男性を戦わせたり(熊の惑星)、踊ろうぜと誘っておきながら黙れと言ったり(TAIFU)、走る足音がドラえもんやタラちゃんの比ではない異音だったり(銀河)、かなり尖ってます。
このハジケリズムは3人にも受け継がれ、サルバドール・ダリが発起人となってタコスパーティーをうやむやに開催したり(アンダルシア)、言い間違いから曲を生み出したり(東京)しています。
最後に、現体制の3人のメンバーは言わずもがな、たくさんの名曲を生み出し、私たちを慈しみ寄り添ってくれています。
ツアーラストや周年のホールでも、招待されたフェスのアリーナでも、地方の観客がすし詰めになるような小さいライブハウスでも、必ず「僕たちは誰かの居場所になりたい」「今フジファブリックでい続けられるのは皆さんのお陰」と伝えてくださってます。
Twitterにも書いたのですが、私の本心は、「どんな形であれメンバーが生み出した楽曲を愛してもらいたいし、バンドと共に豊かな人生を送ってほしい。生きていようが亡くなっていようが、その人が存在した事実、バンドの曲が生まれた事実、楽曲が様々な人の人生に関わった事実は消えないので、悲しみも抱えつつ前を向いて生きていく糧になってほしい」ということです。
フジファブリックのお陰で人生が豊かになって、呪術廻戦に生き様を教わったオタクの感想でした。
P.S.それっぽいキーワードを検索したら筆者を特定しやすいように書いたつもりです。もしそれっぽいな〜というアカウントを見つけたら、私事ですが現在就活中ですので、オススメのホワイト企業を教えてください✌️
赤:樗木周平@東京38 緑:岡田英明@兵庫44 白:池田和記@東京27 青:柴田俊@愛知45
ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 アブラナ(科
・04 ノバク・ジョコビッチ
・05 [3択]2(番
・09 [近似値]8分53秒61
・13 『ベルサイユのばら』
・14 Mrs. GREEN APPLE ミセスグリーンアップル
・15 水晶体
・18 サルバドール・ダリ
・19 初天神
・26 ニューバランス
・27e ほいけんた
こういう発言する人ってMidjournyとかStable Diffusionとか使った事無いんだろーなーってマジで思う。
『AI絵画』はpromptと呼ばれる一種の呪文のようなもので、その書き方は https://midjourney.gitbook.io/docs/user-manual などに記述がある。
『AI絵画』は既存の画像をベースに構築してゆくものだけど例えば「ダ・ヴィンチとサルバドール・ダリ」の画風を組み合わせて、えちえちなイラストを描く、ということだって出来る(するかしないかは別)
言ってみればコラージュアートを煮詰めたようなのが現状のAI絵画であって「思い通り」のものを作ろうとしながらも「思いがけない」ものが出来てしまうことをどうコントロールしてゆくかの行為ともいえる。
『AIに90年代までのエロゲの絵柄を全て学習させても、2000年代以降の新しい画風は生み出せない』かどうかは
https://www.instagram.com/explore/tags/midjourney/
を数日間追ってから言っても遅くはないと思うよ。
過去にエロ絵を描いた人が叩かれているらしい。なのであるエロ絵師の話をしたい
彼は貧しい農村の出身だった。家中の金をかき集めてボザール(日本で言う藝大)を出たものの、賞に落選した後は肖像画やエロ絵描きをしていた。
ここはちょっと説明が必要かもしれない。当時、絵画は写真の役割を担っていた。つまり売れない絵描きは金持ちのポートレート写真や、ポルノ写真で食い繋いでいたのである。暮らしは貧しかったらしい。ついに奥さんは結核にかかり亡くなってしまった。
あるときミレーは画廊の前で彼の絵を眺めている2人の若者を目撃した。若者の1人が「この絵の画家を知っているか」と聞くと、「うん、裸の女しか描かないミレーという画家だ」ともう1人が答えた。その会話を聞いたミレーは、生活は苦しくなるだろうが、もう二度とエロ絵を描くまいと心に誓ったそうだ。
彼は自分の故郷を題材に選んだ。清貧な農民の暮らし、貧しい中の敬虔な信仰を彼は鮮やかにキャンパスに描き出し、人々の心を打った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/落穂拾い_%28絵画%29
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jean-François_Millet_-_The_Sower_-_Google_Art_Project.jpg
「エロ絵を一度でも描いたことのある人間の絵を使ってはいけない」なら岩波書店アウトでしょう、という皮肉なんですが誰にも伝わってなさそうで絶望しています
ミレーも話してた若者も「エロ絵を一度でも描いたことのある人間の絵を使ってはいけない」的な価値観の言動をしているこのエピソードをそういう皮肉の意で使うのはおかしいのでは
えっ そんな言動していませんが?
当時のミレーはただのエロ絵描きと見られていた、若者の会話を聞いてブチ切れて好きな絵を描くようになったというエピソードです
https://ja.wikipedia.org/wiki/晩鐘_(絵画)
例えばこれ、ミレーの描いた「農民が神に祈りを捧げる絵」なんですけれど、サルバドール・ダリはエロ絵解釈してまして、
サルバドール・ダリは、男性を、交尾の後にメスに食べられる運命のオスのカマキリに見立て、勃起した股間を帽子で隠しているという独特な解釈を行い、それに基づいて『たそがれの隔世遺伝』(1933-34年)などの作品を制作した
こんなん。どう思う? 私はダリの絵は好きだけどこの解釈はないわーと思ってるわ。この絵だけじゃなくて大量に2次創作みたいのしているんよ。本人的には尊敬してるっぽいんだけどさ! ないわーー ほんとこの人の解釈ありえんわーー
でもダリの2次創作絵を無くせなんてことは言わないし、ダリが独自解釈するのも自由だし、私も自由に文句言うぞ。
いや、まじでダリの画集の解説よむたびにイラッイラしているのでつい書いてしまった。ごめんよ。
あとごめん、温泉娘のイラストは見た感じ私にはエロには見えなかった。ただ、そう見る人もいるんだろうね。
えええ?? あの絵でエロ絵描いてたん??! 作風ぜんっぜん違うじゃんか?! そっちのがびっくりだわ!
一方葛飾北斎は「ちんちんヌルヌル」みたいなフェミ激怒レベルのPNを用いエロ絵を描きまくった
まあ、外人とサヨからしたら小島のジャップ猿の作品なんぞただの落書きなんだろうがね、ミレーという世界的有名画家と比べるな!とかキレそうなので
ひゃぁーーーー 葛飾北斎は別格だわ!! そうだね、浮世絵があったね。増田は頭いいなぁ。
近代美術史に思いっきり影響を与えたのが浮世絵ですよ浮世絵! 影響大きすぎてどこから話せばいいかわかんない。
モネとかドガとかセザンヌとか・・・ えーと、『印象派以降の絵画ってよくわかんないなー』みたいなこと思ったことない? その辺り、芸術が一気に自由になったその大元凶が浮世絵なんですよ。
西洋美術って、写真のかわりみたいな発展の仕方したのね。写真みたいに正確に、解剖学とか遠近法とかきっちりした絵を描いていたわけ。でも、浮世絵はその辺全部無視して 思いっきりデザイン的な絵を描くのね。大胆な構図重視でおもいっきり誇張したりデフォルメしたり、色彩表現も独特ですごい鮮やか。トーンつけたり(影を入れたり)しない。絵ってこんなに自由でいいんだ・・・!って当時の人たちにものすごい衝撃を与えたの。それでみんながいろんな手法を試し始めて現在に繋がるの。
ポルノとかブロマイド写真、観光土産のポストカードといった、微妙な立ち位置だった浮世絵が、美術史に多大な影響を与えたなんておもしろいし、現在の価値観で下賤なものでもなるべく規制しない方がよいのだろうね。
関係ないけど、モデルが居てそれを描く絵画ならエロ絵というよりヌード画として見れるしエロさよりも美しいとか素晴らしいとか思う、しかし現代のTwitterに居るエロ絵師の性癖全開な妄想を元に描いているエロ絵はイカ臭くて気持ち悪りぃと思ってる、なんでお前の性癖を通りすがりの全く関係ない俺が目にしなくちゃいけないんだよって思うな。例えばツイッター内で「緑茶」とサーチしてみ。
ははぁ、なるほど。それは同情するなぁ。
私もエロは苦手なんだけど特に嫌な目にあってないのは Twitter をやってないせいかもしれないな。
Twtter 側でどうにかできないものだろうか
なんで世の中萌え絵ばかり溢れるかって、それ以外にお金を出してくれる人がいないからだよね
最初の一歩は萌え絵以外を描いているひとを支援することではないかな
たとえば Pixiv で「オリジナル」タグで検索して気に入ったイラストにいいねしてコメントして回るだけでずいぶん変わると思うよ。
両大戦間のヨーロッパで広く展開された総合芸術運動。この名称は1917年詩人ギヨーム・アポリネールが、自作の戯曲の装置を担当したパブロ・ピカソの舞台美術を指して言ったことに由来するが、24年アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム第一宣言』において、精神分析的な考察を加えた「夢の全能性への信頼に基づく」芸術の総称へと採用し、以後も指導的役割を演じた。
マニフェスト的にはロートレアモン(イジドール・デュカス)やアルチュール・ランボーの強い影響下にあった「シュルレアリスム」は、当初は文学運動としての側面が強かったが、「オートマティスム(自動記述)」の理念は造形芸術にも強い影響を及ぼし、20世紀美術の一大潮流を形成した。
代表的な人物にルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、アントナン・アルトー、ルネ・シャール、ルネ・マグリット
サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト(ともに後に除名)、アンドレ・マッソン?、ジョアン・ミロなど。
パリを拠点に活動していた多くの作家は、30年代末にはナチスの台頭によってアメリカに逃れ、アーシル・ゴーキーという最後の後継者を見出した後に終焉を迎えた。
シュールは終わったのだ。
アニメーターやイラストレーターに当たる方々の苦痛に満ちた生活についての書き込みは、ネットでよく見られる。
ただ、彼ら絵描きがしんどい日々を送るのは人間性、生活スタイルなどを考慮すると致し方ない部分が見られるのも事実だ。
自営業者の端くれとして、そんな彼らにアドバイスをしておきたい。
・コミュニケーションを円滑にする
著名人の逸話を例とすると、ピカソの話は人口に膾炙するものだろう。
「ピカソさん、私あなたの大ファンなんです。この紙に一つ絵を描いてくれませんか?」
ピカソは紙とペンを受け取ると30秒ほどで絵を描き、手渡しながらこう言ったそうです。
「1万ドルだ」
「この絵を描くのにたった'30秒'しかかかってないのですよ?高すぎます!」
「30秒ではない。40年と30秒だ」”
有名な話なので細かく解説はしないものの、この話を鵜呑みにする方は危なっかしい。
この発言が許されるのは、見知らぬご婦人からピカソに絵を描いてほしい、と頼まれるほどの画家だったからである。
勲章を賜るほどの評価をなされていない凡百の絵師がこんな発言をしたらどうなるか、考えるまでもない。
これはピカソだから許される考え方だ。サルバドール・ダリにも似通った逸話がある。
少なくとも、彼らは1万ドル払ってでも落書きや髭が欲しい、と思われているのだ。
また、ピカソの逸話らしいのだが(真偽不明)、ピカソは普段の支払いは小切手で済ましていたそうだ。
受け取った人はみんなあのピカソの名前が入った小切手だから、取っておけば価値がつくかもしれない、と思い引き落とさなかったそうだ。(生前ですらそう思われているのがピカソらしい)
奇天烈人ピカソは、こうも処世に長けていた。詰まる所、ピカソほど凄くもない絵描きが、ピカソレベルの処世術を身に着けているのだろうか。
人付き合いが不得手であっても、ご用命があればいつでもどうぞ、ぐらいのことはして欲しい。
アドバイスとして、あなたもおそらくそうであるように、人間はサービスは割安を好む。
絵が上手いだけでなく、納期変更に順応してくれる、だったり、酒の席での一発芸が上手い、ということでも付加価値となる。
・モノを知らない
微分積分はわかるだろうか。共産主義の成り立ちはわかるだろうか。海外に行ったことはあるだろうか。年金の手続きはわかるだろうか。恋はどんな味かご存知だろうか・・・。
全部修める必要はまあないだろう。しかし、もし一つもなんとなくすらわからないようであれば、社会情勢が不安定な往来で、そのアンテナの低さは致命的だ。
絵描き同士で「あの雇い主は金払いがいい」とか「あっこは仕様変更が多すぎる」とかの情報共有は積極的だろうか?
創作の参考になる経験を嬉々として語らいあったことはあるだろうか?
内省してみてほしい。
大事な一例として紹介しておく。がっちりマンデーという番組のコーナーの一つに、ニトリの社長の飲み会はどんなものか、という特集があった。
そこでは、小泉元首相のようなビッグネームが当たり前のように出席しており、商談の取り付けすら決まっていた。
このように世の中にはビジネスチャンスが広がっている。モノを知らないということは、それにすらアクセスできないことになってしまう。
(余談だが、財政緊縮を目的として郵政民営化を成し遂げた小泉元首相が、その席の中で金は使ってナンボ、という旨の発言をしていた。筆者に郵政民営化の真なる失敗を予感させることになった。)
値切られないようにするのは実はとても簡単で、引く手あまたになればいい。
逆に、あなたを引く手が少ないのは、あなたの怠惰に原因がある。(親が大体の家庭では勤め人であることにも遠因はあるだろうが)
2、新規で手に入れた顧客が、定期の顧客にするための営業活動はどれぐらいしているのか
3、見込み客はどう作っているのか、どう探しているのか
おおよそ上記の三点に尽きる。
自営業は勤め人とは違い、このような泥臭いことでも自力でやらなければならない。(勿論、経理や年金も)
これらの要素において楽をしたいなら、アンテナの広さやコミュニケーションが大事になってくる。
割りの良い外注先を常に知っておくべきだ。
とりあえず、今回はこれにて筆を置く。(基本的な話ばかりで申し訳ない・・・)
なお、雇われのアニメーターなどについては別の話なので、触れないでおく。
追記;
私のダイアリーにしてはご意見をいくつかいただけたので、返信しておきたい。
>>イラストレーターも要は自営業なんだよなあ 資本主義社会で生きていく以上は絵の能力だけってわけにはいかない
おっしゃる通りです。資本主義においては、絵の能力は換金手段の高々一要素でしかない、というのを念頭において行動するところからがスタートだと思います。
少々お頭が残念で世間知らずだが人柄は純粋な(普通に就活してもブラック企業を引き当てそうなタイプ)底辺で二極化してる感じ
後者のような、世間知らずに分類され悪用されやすい人こそこれらの事実を知るべきですし、もしそうなら今からでも公務員にでもなるべきなのです。
自身の身の丈すらわからない者は、悪辣な輩からひどい目に遭わされるのは仕方のないことなのです。
それでも専業の絵描きとして生きたい、という方に向けての初歩的な手引きなのです。
>>おおかた親から店を受け継いだだけのボンボンがビジネス書読んで適当フカしてるだけだろうと思う。
層があることも知らないんじゃね…
あくまでも端くれですので、ご容赦ください。
私の身の上の都合上、俗に下層と称されるべき方々とも面識があるつもりです。
そういう人々が周りにいる限り、成功するのは困難であろうことも実感済みです。(勿論、当人の人格にも言えます。)
それでも、誰かの成功のほんのきっかけになれば、という所存です。
>>この増田みたいにショボい自己啓発本の抜粋みたいなものでも ただで読めて少しの間でもみんなでコメントしあえれば たしかに割安の娯楽にはなるよな
あなたに申し上げるなら、ここに書いていることは商売における原則論です。
言ってしまえば、算数では足し算より掛け算を先に、だとか、水は100度で沸騰する、というようなことしか述べていないのです。
それを自己啓発と同等のもの、と感じてしまうのは大変危険です。
ピエロになること自体はやぶさかでないので、ご自由に取り扱ってやってください。
>>拙者ITドカタでござるが知り合いが登壇するというからクリエイター系のイベントに参加したところ名刺交換激しくその知り合いもクライアント候補に名刺凸しててOh~と思ったでござるね。。。
無能こそ公務員や自衛隊に所属すべき、というライフハックが広まっていないのは残念な話です・・・。(あまつさえそれを民衆自身が削減していること自体が無念極まりないです・・・。)
無理にとは言いませんが、あなたはそのご知り合いからだけでいいので、貢献できることがあれば引き受けてみてください。
>>言ってることはよく分かる
本来は自営業者であるのにネットでよく見る愚痴はサラリーマン労働者臭がする
自己責任とまでなじる気はありませんが、周りも自分のクソさを我慢している、という視点が欠落しているようでなりません。
日曜日の11日にサルバドール・ダリ展を見に東京新国立美術館行ってきた。12月12日までだけど最終日は平日だから、サラリーマンは日曜日の11日が実質の最終日。
16時くらいについたけど、えらく混んでた。なんと80分待ち。東京の美術館は混むと聞いていたがまさかこんなに混むとは思わなかった。
遊園地でもないのに80分も待つのはさすがにつらいので、休憩所でコーヒーを飲みながら17時くらいまで待った。待ったが、行列が少なくなる気配がないので仕方なく行列に並んだ。
18時にようやく入れた。閉館時間は18時なのだが、18時35分まで延長されるらしい。だけど館内も無茶苦茶混んでいる。ダリのシュールレアリスム時代の絵は緻密な描き込みが良いのだが、人が多すぎるのと観覧者が全く動こうとしないせいで作品は遠目でしかみれず。時間もないので全ての作品を駆け足で見た。じっくり見れなかったため、印象に残っている作品はまったくなかった。
東京で美術館巡りしている人にこの話をしてみた。東京で著名な作家の展示を見たければ平日に見に行くか早起きをして朝に見に行くしかないらしい。地方の美術館だとこんなに混まずにゆっくり作品がみられるのに。東京の美術館では混雑のせいで名画の感動が台無しになっている気がする。
東京に来て5年くらい経つが、わかってはいたけど何をするにも混んでしまう。最初はあまり地元ではみられない人混みが面白くてよく出かけてたけど、もう休日は混んでいるところへ出かけることがなくなった。地元に住んでた頃は山や花火大会へ行ったり、休日は駅前で買い物をしたり、美術館巡りをしていたのだが、東京は高尾山もクソほど混む、イベントごとがあれば身動き取れないほど駅前も混むわで、ここ最近はあれだけ好きだったことを我慢するようになってしまった。東京では保育園の倍率が高いから、倍率が低い所へ引っ越したり「保育園へ入りやすい駅」とか調べてるんでしょ? それってバッドノウハウじゃない? 地元では待機児童なんてほとんどいないよ。
今は東京は自分にとってただ息が詰まる仕事があるから仕方なく住んでいる場所でしかない。いまはただ人混みがあまりない空いている地元で自分が好きなときに好きなだけイベントごとを楽しみたい。
今回の件は置いておくとして、「筒井康隆を二、三冊読んで気が大きくなったオタクでも、そんな恥ずかしいことやらないんじゃない!?」という風刺のサムさをつつくものが典型的な批判だろう。
ただちょっと待ってほしい。
例えば下の記事を読んでみよう。
http://kyoko-np.net/2013110501.html
政治ネタで申し訳ないが、なかなか洗練されているのが分かる。
とはいえ、これは風刺とは言いがたい。
むしろ「バラバラに獲得した情報の断片が一気に繋がることによる快楽」があるように見える。(例えば今回では鳩山さんの「ルーピー」「トラスト・ミー」などの様々な言動が一つの記事上にバーッと載っけられている)
虚構新聞の記事は、ある意味子供っぽい全能感(自らをモンティ・パイソンになぞらえた当人に従ってサルバドール・ダリ的とでも言おうか)を与えてくれるように思われる。
ただ大切なのは、このような幼稚な快楽の摂取があくまでも「アイロニーとしてやっているんですよ」という大義名分によって正当化されることだ。
よって、虚構新聞のことを「バンクシーに憧れた田舎の大学生みたいでイヤ!」というように「風刺のサムさ」のみで批判するのは単純すぎやしないだろうか。