はてなキーワード: 頭でっかちとは
みんな2022の新作『うる星やつら』に対して格式高く接しようとしすぎてウケる。
単純に何も考えずにラムちゃん可愛い!絵や色が綺麗!ドタバタでなんか賑やかーとか、分析眼で見すぎ。
小学生や中学生に本当にウケてるのは、そう言う単純に何も知らなくても楽しめるってことなんじゃないの?
オレたちは情報を知りすぎてるんだよ、押井守が原作が旧作が!ってそんな小中学生の子どもいるか?
頭空っぽにしてラムちゃん可愛い!じゃだめなの?ラムちゃんを始めとするキャラがキャッキャやってて楽しいってのをって思うけどな。
トムとジェリーがあーだこーだ言ってるヤツいるか?(比べやすいから言ってるのでどちらが良いとか悪いとかの意味では無いからな)
あれもドタバタを楽しむもんだろ?
あまりにも前評判とか旧作のデカさが邪魔してオレたちは新作うる星やつらを純粋に楽しめないんだよ、きっと。
当初は自分を始め、昔からの熱心なファンしかウケないんじゃないの?って思っていたけど
だから何も情報がないスポンジのように染み込む小中学生にウケてるってのは、これ真理なんじゃない?
本当に小中学生にもウケてるようで、これはこれでうる星やつら好きな若い人が増えてって嬉しくて楽しいことだろ?
気楽に観て楽しかったらよし、楽しめなかったらそれまでの話しじゃないの。
人生は有限だし、触れる事のできるコンテンツなんて全体の中の一握りの一握り。だからこそ限られた時間の中で普遍的に好かれる、自分にとっても良いと思える可能性が高いものを選び抜かないといけない。凡作に付き合う暇などない。
名作は凡作駄作との差異によって名作たらしめられる。凡作の何が悪いかを知る事で初めて名作の良さを知る事ができる。名作ばかり観ていたら、それは自分にとって普通のものになってしまう。
良いものは良い。駄作など関係なくこの世に本質として存在する美に迫った普遍的な良さというものは存在する、という本質主義的な考えに立つか、いや本質的な価値など存在しない。実存と差異によって「良いもの」が浮かび上がるのだという考えに立つかの違いなのではないか。
あと、後者の方がより作り手側に立った側面が強い気がする。良いものの良い部分を取り入れようと思っても何が良いのかが分からないと無理だし、悪いお手本を見る事の大切さ、みたいなのは当事者性の強い問題だと思う。
チェンソーマンでもデンジくんに「クソ映画のある世界の方が良い」みたいな事言わせてたし、クリエイターにはそういう意識があるのかもしれない。でも悪役にこそ作者の主張が込められていて、主人公が一般論や良識でねじ伏せるのが定石だ、みたいな話もあるしな。
「名作」と言っても、それそものの出来の素晴らしさを讃えられたものとエポックメイキングな価値を評価されたものがある。後者は過去にない新しい価値や手法を世に突きつけたという文脈があってのものだし、それはまさに「差異」が価値を生み出している訳で。何も知らない人が、絵ならキュビズムやら印象派やらの代表作を見ても、知識がなければ変な絵だとか寝ぼけた絵だとしか思わんだろうし。映画ならヒッチコックなんかを今観ても、教科書を読んでるような気分になるだろうし。新しい手法を使いつつより洗練されたフォロワー作品の方が面白いだろうし、今の人にとってはそちらの方が魅力的な訳で。
でも、教科書に載ってるような絵画を見てよくわからんけどなんかいいなーと思ったり、2001年宇宙の旅を観て退屈だけどなんか凄いっぽいと思う事もあるだろう。その「なんとなく」を説明できないのなら、それは本質的な美があるという話になるんじゃないかと思う。
デビッド・ライス氏と白饅頭氏が互いを批判する文章をブログ,SNS上に投稿している。しかし,以前からこの両者の発信する文章を読んできた私としては,両者の主張は根本的なところで対立はしておらずむしろ同じ方向を見据えて書かれているように見えた。
ではなぜ,ライス氏と白饅氏は対立するに至ったのだろうか。結論から書けば,両者は主張の内容は近しいものだが,その主張をどのようにして一般に発信するべきかという点において大きな価値観の相違があった。その相違にばかりに注目し批判を繰り返した結果,現在の不必要な対立を生じさせたと私は考える。
両者は互にレッテルを張り合い,主張をよく確かめずに感情的な言葉を投げ合っているように見える。しかし,ライス氏と白饅頭氏は現代の言論界において重要な役割を担っており,こんなところで格を落とし合っている場合ではない。
実際に両者がブログ,SNSに投稿した文章から,なぜ不毛な対立が生じたのかを見ていこう。
ライス氏は2022年11月2日,自身のブログ「道徳的動物日記」に,『「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感』というタイトルの記事を投稿した。その中で,氏は白饅頭氏の言説について
“弱者男性論者たちはアカデミシャンではなく、コンプレックスや差別を煽ったうえでnoteやYouTubeで言動を売って稼ぐ「商人」だ」”
と批判した。
弱者男性論者である白饅頭氏がアカデミシャンではないというのは事実だ。彼は学部卒で,大学等には属さず個人で発信を行っている。「商人」というのもやや悪意のある表現ではあるが,noteや書籍を販売しているとい点では間違った表現ではない。
だが,アカデミシャンでないことも「商人」であることも,白饅頭氏の論を誤りだとする根拠にはならないはずだ。ここでライス氏が批判しているのは言説ではなく,白饅頭氏の立場と手法だ。氏の言説が誤りだと主張するならば,具体的に彼の文章を引用するなりして,どこがどう誤りなのかを論理的に説明するべきだろう。
また,ライス氏は2021年4月3日に現代ビジネスに『「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由』という記事を寄稿した。その中で,
“弱者男性論でおこなわれているのは、「女性」(または「フェミニスト」「リベラル」)という属性を仮想敵にして、自分たちのつらさの原因はすべて彼女たちに責任があると主張することで、弱者男性である読者たちの溜飲を下げさせるための議論だ”
と書いた。ここで批判されているのは“溜飲を下げさせるための議論だ”とあるように,弱者男性論の主張する内容ではなくその目的だ。もちろん,その弱者男性論によって留飲を下げている男性も少なからずいるだろう。
しかし,それが決定的に弱者男性論を否定する根拠になるだろうか。卑小な目的で立てられた論であろうと,それが誤りだと証明するには論を構成する根拠や理論についての誤りを指摘するべきだ。
上記のように,ライス氏は弱者男性論を批判しながらも,その批判内容は専ら論者や読者の問題を指摘することに終始し,弱者男性論を構成する根拠や理屈についての矛盾を殆ど指摘していない。
ライス氏は上記の記事の中で,弱者男性論がある程度は妥当であることを認めてすらいる。しかし彼はその妥当性を認めながら,それが社会に与える悪影響のみを強調し,弱者男性論をこき下ろしている。これはややバランス感覚に欠けた主張だと言える。
なぜ彼はこのような一方的な主張をしたのか。それは,彼がネット論客と呼ぶ者たちによる弱者男性論が盛り上がりを見せていたからだ。ライス氏は先ほど引用したように,ネット上で学位を持たない者が政治的な主張をし注目を集めることに対し強い拒否感を持っている。彼からすれば,学位を持たず大学にも属さない者の発信する政治的主張はSNS上でフォロワーに対してアピールするだけのものにすぎず,学術的な裏付けのない稚拙な主張に過ぎないようだ。
たしかに,ネット上で政治的発言をするアカウントの発信する内容は仲間内に向けてのアピールに終始しがちな傾向があることは否めない。
しかし,白饅頭氏の発言のほとんどは客観的な妥当性を意識しているものだ。彼のどの主張にしても,必ず明確な根拠を示しながら筋道を立てた発言を行っている。弱者男性論にしてもそうだ。
SNS上には白饅頭氏と同様にアンチリベラル的な主張をするアカウントが数多く存在し,数万のフォロワーを獲得しているものもいるが,彼ほどの存在感と影響力を有している者は他にいない。それは,白饅頭氏の発言する内容がアンチリベラル層だけでなく,中立・一般層にたいしても説得力を持っていることの証左と言えなくもない。
ライス氏は白饅頭氏のTwitterやnote上での発言を批判している。ライス氏によっては,SNSのような誰でも発言が可能な空間では論理的に正しい意見よりも大衆の感情を煽る意見の方が支持を得やすい。だから白饅頭の主張は誤りであるにも関わらず支持されるのだという。
しかし,白饅頭氏が発言を行っているのはTwitterやnoteのような誰もが発言できるメディアに留まっていない。現代ビジネス,プレジデントオンライン,BLOGOSといった,中立性を保ったある程度格式のあるWEBメディアにおいてもその主張が掲載されている。これは,彼が一般メディアからもある程度の評価を獲得している根拠であり,仲間内に向けて偏った発信ばかりをしているというライス氏の主張を否定するものになる。ちなみに,現代ビジネスにはライス氏も寄稿している。
ライス氏は学術的な背景のある言説を至上のものとし,ネット上での言説を程度の低い物と見なす価値観を持っているようだが,これは偏った価値観だろう。
ネット上では素人の発言が可能だが,それに対して専門家が批判を加えることも可能なのだ。生半可な言説では,素人がネット上で自らの論が正しいと広く認めさせることは,実際のところかなり困難だ。ネット上で政治的主張をするアカウントのほとんどは仲間内で価値観を確認し合うことしかできないのが現実だ。
そんな中で,広い層からの支持を集め,書籍を出版するまでに至った白饅頭氏の言説は,一考に値するものであると判断されるべきだろう。たとえ学位がなくとも。
それに,学術分野での肩書を持つ者の発言が必ずしも正しいとは言い難くなってきているのはライス氏も理解しているはずだ。実際に,彼のブログでは大学に属する研究者の著書や発言の誤りを指摘する記事が多く書かれている。
ライス氏は,ネット論客の主張は仲間内へのアピールばかりで発展性も新規性もないと言うが,学術の世界ではそうでなはいと言えるだろうか。学術界でも,特定のコードに反する内容の主張が正当な理由なしに発表を拒否されるという事例が少なからずあったはずだ。
ライス氏は学術的であることを重要視しているが,それだけを至上のものとし,そうでないものを見下すような態度はそれこそ閉鎖的で彼の指摘するネット論客の悪い特徴と同じだ。
2022年12月20日,白饅頭氏はライス氏のツイートを引用リツイートしこのように書いた。
“社会正義の総本山アカデミ屋を称揚する奴がいうのマッチポンプ感があって草”
たしかに,社会正義を定義しがちなアカデミア出身のライス氏が,社会正義に疑問を呈する内容の本を紹介するというのはやや疑問を生じさせるものかもしれない。
しかしながら,ライス氏は普段からアカデミアの主張する社会正義について無批判だったわけではない。彼のブログを読めばわかることだが,学術的な地位のある人物の著書についても内容に疑問を感じる点があればしっかりと指摘をしている。
ライス氏はアカデミアを重要視こそしているが,かといって盲目的に信奉しているわけでも無い。
“いやだから、君のような人文アカデミア礼賛ネット論客が「露悪的なおもしろさ」とか語るのダブスタもいいとこでしょ。”
白饅頭氏はライス氏を“人文アカデミア礼賛ネット論客”と呼んで揶揄している。これは,ライス氏が人文アカデミアについて批判的な視点を持ち合わせていることを無視した発言だ。
“インテリの本って普通に読みにくくて面白くないという根本的問題があるんだよな。
おもんなくてわかりにくい文章を書いているだけの分際で「高尚なことをやっている」とのぼせ上がっている奴らの商売が破綻するなんて当たり前でしょ。
「本当に頭のいい人は一般の人でもわかりやすく説明する」みたいな論調には与しないまでも、かといって「複雑なものを複雑なまま理解するのが知性だ」みたいなのも、インテリの自惚れが含まれていないわけではないだろう。“
これは名指しこそしていないが,ライス氏の著書に絡めた発言ととることができる。たしかに,ライス氏の著書は硬い文体でやや学術寄りの内容でもあるため,読むために労力を要する。
だが,ライス氏の著書はより厳密な内容で社会について論じたものであるという点から,白饅頭氏の著作よりも優れていると言える。本自体の売り上げで言えば白饅頭氏のほうが圧倒的ではあるが,それは彼の知名度と,内容の易しさによるところが大きいだろう。ライス氏の著書は本人の知名度も低く,厳密で硬い内容であるために気軽に手に取れる本ではないものの,より厳しい視点を持つ読者にとってはライス氏の方が優れたものとなるはずだ。
白饅頭氏は難解な内容について“インテリの自惚れ”と言っているが,これはただの暴言だ。ライス氏の著書が難しい内容となっているのは,学術的な視点からより厳密に理論を展開しようとしているからであり,アカデミア出身としての自負心と責任感によるものだろう。アカデミアを腐したいあまり,不適切な言動をしてしまっている。
“ 世間知らずのインテリくずれがパソコンカタカタで俺に勝つなんて甘い。フォークリフト乗ってから出直せ。”
“世間知らずのインテリくずれ”とは,おそらくライス氏のことだろう。しかし,ライス氏は大学院を卒業した後企業勤めやフリーターをしながらブログを執筆していたため,白饅頭氏の言う世間知らずは根拠のないレッテル張りだ。インテリという言葉には明確な定義がないためはっきりとしたことは言えないが,少なくともライス氏は修士課程を卒業しているという点で学部卒の白饅頭氏よりも学術的な視点でのアドバンテージがあることは確かだろう。インテリくずれという揶揄も,適切な発言とは言い難い。
白饅頭氏はライス氏を頭でっかちで世間知らずな,大衆の苦労など知らない嫌味なインテリなのだと思い込んでいる節があるように見える。
しかし,ライス氏のブログを読めばわかることだが,彼は社会に出て様々な苦労や葛藤に出会い,しっかりと現実を見据えたうえでその経験を活かしながら発言をしている。決して白饅頭氏が言うような,苦労知らずや頭でっかちではない。
白饅頭氏はライス氏のブログや著書に関して,“つまらない”や“わかりづらい”,“売れない”と評している。たしかに,ライス氏の硬い文体は読む人によってはつまらないと感じるかもしれない。だが,社会について論じる以上は厳密かつ真剣な文のほうが望ましいというのも,一般的な考え方ではある。ライス氏の文章はライトな読者層にとってはつまらなく感じるかもしれないが,言説に対してより高い基準を求める読者にとっては大いに満足のいくものであるはずだ。
白饅頭氏はより広く読まれることを目的としだ文章を書くため,その内容を可能な限り平易なものにしている。彼からすれば,ライス氏の文章はわかりづらく自己満足的なものに見えるのかもしれないが,分かり易さを求めることで論理的な強度が低くなることも事実だ。ライス氏の文章は批判的な視点を持った読者に対しても説得力を持つように書かれているため,どうしても文章が複雑化することは避けられないだろう。それをわかりづらいの一言で済ませるのは不当な評価だと言わざるを得ない。
白饅頭氏の著書がライス氏の著書よりも売れているのは確かだが,市場での評価が必ずしも言説の正しさを格付けするものではないはずだ。先程も書いたように,白饅頭氏の本が売れているのは知名度と平易さによるものが大きく,世間で売れる本の殆どがそうだ。
白饅頭氏は読みやすさを重視するあまり,学術的な厳密性を軽視しすぎている。たしかに厳密性を求めた文章は難解で読みにくくなるが,一定レベル以上の読者はそう言って文章を求めるようになるにも確かだ。白饅頭氏の文章は新規の読者を獲得すことには適しているが,高い基準を求める読者からは不満を覚えられる内容だろう。
また,白饅頭氏はアカデミアに対して偏見を抱いているようにも見える。彼の発言を見ると,アカデミアとその出身者はアカデミア内でのコンセンサスに沿った発言しかできないと思っているようだ。
しかし実際には,アカデミアとその出身者には多様な背景と思想をもった人々がおり,時には学会での権威に背くような意見発表されているということは彼が知るべき事実だ。
これまで書いてきたことからわかるように,ライス氏が重視しているのは学術的な姿勢と厳密性だ。一方で白饅頭氏が重視しているのが人気と分かり易さだ。両者が重視しているものは両立が困難であり,それゆえに互いが敵対的な姿勢を取るようになってしまったのだろう。
くだけた表現をするなら,ライス氏は「ガチ」であり白饅頭氏は「エンタメ」だ。どんなコンテンツであっても,ガチとエンタメは対立しがちであると同時に両方が必要とされるものだ。
ここで,格闘技の興行を想像してみよう。コアな格闘技ファンを満足させるためには,当然実力のある選手同士の対戦を見せなければならない。しかし,実力があっても知名度は低いという選手が多い。知名度の低い選手では,新規のファンやライトなファンを呼び込むことができない。そこで,実力はともかく知名度のある選手の試合も組まなければならない。
実力のあるガチの選手と知名度のあるエンタメの選手,共に興行を成り立たせるために必要な存在だ。白饅頭が朝倉未来なら,デビッド・ライスはヴガール・ケラモフだ。
ライス氏のような,学術的な背景から厳密な文章を書ける作家も,白饅頭のような分かり易くて売れる文章を書ける作家も,言論の世界を成り立たせるために必要な存在のはずだ。
両者は現在のリベラルやネット世論に対して同様の疑問を呈することもあり,思想的な共通点もあるように見える。冷静な対話を重ねれば,互いの考えについて理解を示し合うことも可能なはずだ。
ライス氏と白饅頭氏はこれから日本の言論界をリードする存在になり得る作家であり,こんなところで小競り合いをして格を落とし合って欲しくない。
こちらこそまとまりのない駄文を読んでいただき、ありがとうございます!
同意出来ない部分は当然お互いあって当たり前だと思ってますので、自分もいくつかお答えしたいと思います。
田嶋氏についてはやはりアンチ的な批判をする方が多いのではないかと思います。ただ、サッカーに興味がない人が多いのかも知れないとも思います。
ちなみに田嶋氏はアンダー代表監督をちょっとやってたくらいなので結構育成やグラスルーツ側に重きを置いてるって印象でした。原氏の方はJを優先する感じかなと。
だからフル代表に対しては鈍く、その結果ハリル問題があそこまで拗れたのではないかと推測してます。(監督へのケアとか…)
秋春制は私も反対でしたが、冬季の問題が解決出来るなら欧州のマーケットに合わせたスケジュールにしたい気持ちも理解してます。
ショートカウンターというかトランジションサッカーはオシム監督からの流れだろうなと。
自分も知らなったですが、反町さんはラングニック氏の元にも勉強しに行ってたみたいですので。
だからJFA側は割と共通認識のある人選だなとは思いますが、それを押し付けるタイプのアプローチはしないだろうなってのが森保さんだと思います。
確かにクラブ以上の進化は難しいのかなとは思いつつ、今の国際マッチデーのスケジュール上連携を取るのかなって私は考えますね。
南米の話は、正直私は南米(主にブラジルですが…)ってスタイルがない強みで勝負してたのかなって個人的には思ってました。
要はオフェンスは2-4人で即興をなんでもやれる強み(これは幼少期のサッカー環境なのかな?とは思います。)と全員で守る(ただし一対一)ディフェンスが敢えて言えば南米のスタイルなのかなと。
だから全員で守るってところに組織で崩されるパターンと、即興の中心を消されるパターンで欧州にやられてたかなと推測してます。
最後にサッカーインテリジェンスですが、これは今からの育成の大きな課題かなと思います。と言うのもこればかりは日本が急進的に進歩した分まだ文化的な側面が追いついてない部分もあるし、そもそも日本人は頭でっかちになりがちですね。
「自己肯定感低い人あるある」っていうのTwitterでたまにRTされたりするが、それをみて「人の目を気にしたりして大変だな」と思っていた。
つまり僕は自分のことをそれほど自己肯定感が低くない、むしろ高いと思っていた。
でも最近もしかしたら実は結構低いかもしれないと気づき始めてきた。
『ぼっちざろっく』流行ってますよね。主人公のぼっちちゃんはギターが上手いのに、実力に自信を持ちつつも、他人の評価を気にしていて、目の前の観客も怖がっていた。それでぼっちちゃんが「本当の敵は目の前の観客じゃない。観客は自分を求めているんだ」ということに気づき、一歩踏み出せた演奏ができた。
そんな成長エピソードがあるわけだ。
僕もその自分に自信を持ちつつも、人が怖いというのはわかるという気持ちになったが、むしろそれは普通のことだと思った。自己肯定感が低い人は自信もないものかと思っていたので。
例えば僕がぼっちちゃんだったとして、ギターが上手いとしたら(別に僕自身はひけるわけではないが)、まずYoutubeに上げることがなかなか難しい。上手い人が出てきて、この演奏がダメだとかいわれるかもしれないし、ギターのことを全然わかっていない素人でも「プロの〇〇さんより全然下手ですねー」みたいなことを言われたりしたら立ち上がれなくなりそうなので、まず人に見せることはできない。
家族や友人でも無理だ。
きっとギターとかバンドとかやっていて、理解してくれる人ではないと見せられないだろうなと思う。
そして、そんなに悪意ある言葉を言う人って実は少ないとは思うけれども、でも社会は悪意に満ちているとどこかで思っている。
小学校の頃、信号のない横断歩道を渡るのが怖かった。車が減速することなく、むしろわざと加速して突っ込んでくるとおもったから。
免許証取りたてのころ、車線変更が怖かった。後方の車がわざと加速してぶつかってくると思ったから。
中学の頃学校が怖かった。教師が私生活を縛り付けようと宿題を多く出そうとすると思ったから。
大学の頃教授が怖かった。重箱の隅を突っついて単位をくれずに留年させるんじゃないかと思ったから。
学生の頃、就職が怖かった。私生活や趣味は悪で起きている時間をすべて労働に捧げるようにわざと上司が仕事を振ると思っていたから。
新入社員のころ、彼女がいることを会社にバレるのが怖かった。結婚など守るべきものがあると分かったとたんに逃げ場のない重労働部署に飛ばされるかと思ったから。
結婚したころ、町内会が怖かった。家庭への不当な干渉をするんじゃないかとおおもったから。
20代後半ともなれば、だんたんその不安は杞憂だったとわかるわけだが、生まれてからずっと他者が悪意を持っているとずっと思っていた。(そして今でもほんのりそれは思っている)
悪意は上司、先輩、社会、国家など権威あるものから不条理に降り注ぐと思っていた。
だからそれから身を守るために、大学にいったり、論理学を学び屁理屈で言いくるめようとしてくる人からの自衛をみにつけたり、歴史や外国語を学びちょっと頭がいい風を装ったりした。
まあこの文章を見て分かる通り、そんなに学が身についているわけではない。
僕がいわゆる『理解ある彼氏くん』枠で結婚したのも、妻が権威ある悪意から遠い弱い存在だったからかもしれない。
ただ妻は弱い人間ではなかった。苦手なことはあるが、それを打開するためにいろいろ挑戦している人だった。
悲しいとか辛いとか悔しいとかではなく、涙が止まらなかった。
だが不可能だった。子どもがいるにもかかわらず、涙が止まらなかった。正直混乱した。
僕は相手から言質を取られないように遠回りに外堀を埋めてから話す癖があり、それは人によっては不快な思いをさせてしまう悪い癖だと思う。
夫婦喧嘩で〇〇を言った言わなかったから、過去の違う話まで掘り起こされて喧嘩がエスカレートすることもあるので、僕は議題を棚卸して何について話しているのかと責任の境界を決めたがる。
それは共感とは遠く、冷たい印象を与えることになるというのは僕は理解している。
だがそれは今回のこととはまた別なんだ
ただその冷たい印象を与えている僕に対するカウンターとして妻が言い放った「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という言葉を聞いて、いままのでの喧嘩の内容なんか吹き飛んで、ただ泣くことしかできなかった。
僕のクソ小さな自尊心は「中堅よりは上だけれどもハイレベルというわけではない」と言いたいが、世間ではそれほどでもないとは思われているだろう。
だが、妻は大学には行っていないので、大学に行く人というのは基礎能力が高いという素朴な期待を持っているようだ。
で、なんであの言葉で僕は泣いたのか。
あの言葉を受けた時、僕の脳内では幼いころの情景がフラッシュバックしてきた。
祖母が「あなたのお父さんはとても頭がいいから。あなたも頭が良いんだよ。おじいちゃんは〇〇賞もとったからあなたもすごいんだよ」とずっと言ってきて僕はそれが誇りだった。
クラスでは物知りで通っていたし、小学生ながら月刊ニュートンを読んでいたのはちょっとしたドヤれるポイントでもあった。
実際父はすごかったらしい。らしいというのは小学生に上がる前に亡くなったからよく知らない。
ただ僕が逆立ちしても入れないような大学にそれほど勉強せずに入ったそうだ。
高校時代にその研究をしたいがために当時の有名な教授がいる東京ではないがトップレベルの国立大に入るように勉強していたが下宿代が当時のうちの家計では出せなかったようで、都内のそれでもハイレベルな有名大学にはいった。(今にして思えば子離れできていない祖母が渋ったのではないかとも思うが、)
都内のハイレベル私大にはその国立大の先生と同じくらいにその分野で有名な人らしく、それで進学先を決めたようだ。3年の夏まで必死に勉強していたが、私大に進路を変えたのでそれからは遊んで暮らしたそうだが、ちゃんと合格したそうだ。結構な浪人生があこがれる私大だっつーのにね。
そして父は研究者になった。んだが、今の僕の年齢よりもずっと若い時分に死んだ。平成をたった数日しか生きられなかった。おそらく今も生きていたら教授とかになってたんだろうなとは思う。実際同僚の人はその大学で教授をやっているらしく、何回かテレビに出た時に母が父の友人だと教えてくれた。
祖父は自分の生業の分野でナントカ賞をとって有名な人とかと写真うつったりしていた。
そんなこんなでその嫡流の僕は変な期待と受けていた。父が若くして死んだこともあるのかもしれない。
人の偉業で褒められる。小さい頃は良かったが、ちょっと分別がつく頃には結構キツイものがある。僕がやったわけではないし、僕が今やっていることは何も評価されていないのだから。
母はそんな環境が嫌だったからかもしれない。だから引っ越したんだろう。
女手一つで僕と妹を育てた。とはいっても母も実家が太い系なので相当恵まれて育った。
母は大学を言っていない。研究者と事務の人という出会いで結婚したそうだ。
だから正直学がないというか、僕の勉強に対して口を出すことに自信がなかったんだと思う。だから僕の好きな分野、科学のことの話し相手になってくれなかったし、成果を評価してくれることもなかった。ただ「難しくてわからない」というだけだった。
僕は生まれてことこのかた賞状をもらったことがない。妹は絵画コンクールで、英語スピーチコンクールで、そして学校で選抜された海外派遣なんたらで数多くの栄誉を持っている。
僕は何ももらっていない。歯が綺麗で賞はもらった。絵もうまくない。楽器も弾けない。英語もできない。文章も書けない。ゲームもうまくないし、話もうまくない。モテない。バイト先ではいじられキャラだった。いじってほしくはなかったがただ「要領がわるい」ということでいじられキャラになった。
そう要領がわるいんだ。
妻は大学には行っていないが、絵が上手い。工作が上手い。それを作って売れるほどうまい。創作ができる。
「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という妻が放った言葉で、これらの過去のこと家族のこと妻のこと今のことすべてが分かってしまった。
頭がいいわけないということを分かるのが怖かった。
僕は何者でもないといわれるのが非常に怖かった。僕のアイデンティティは「すごい祖父、すごい父から生まれた、すごい子」であり、それが解体されるというのが辛かった。でも僕が縋れるのはその祖父と祖母が言っていたそれしかなかった。
凡人であることを誤魔化すべく、頭でっかちな知識と、頭がいい風を装っていた。バイト先でいじられても「でもあいつらより偏差値高いし」って思って意識を保っていた。
自分がただ怖がっているだけなのに、相手が悪いことをしようとしていると思って、目上の人や教師や社会が不条理に僕に何かを強いると思っていた。
悪意が逆転していた。自分が向けていた敵意を僕は被害者意識を持っていただけだった。
根拠のない自信をもつことはある意味必要だと思うが、僕の場合はその程度が強すぎたのかもしれない。
自信があることで身を守れると無意識で感じていて、自分に自信があると思い込ませていた。
妻に出会うまでは恋が多かった。
だが、モテなかった。
自分から行くタイプではない。ただ悶々と彼女が欲しいとずっと思っているような人だった。
今思えばただ自分を認めてくれる人が欲しかっただけかもしれない。
人の話を聞いてみるとそんなに好きな人が何人もずっといるというのは珍しいというのが分かった。
ティーンの頃の僕は恋に恋をしているに近かったが、自信があれば自律できていて、自分を肯定(好いて)してくれる人を必要以上に求めることもなかったのかもしれない。
僕はうちの子供には子供自身のことで褒めるように、そしてちゃんと成果をみて、子供興味あることをちゃんと調べて対等に接するようにしようと思う。
幸い子供にマウントを取るようなことはしなかった(とは思う。自分の中ではないと思う。わからない。不安だけど)
うちの子は昆虫とか生物とかいろんなことを僕に教えてくれるし、僕も飼育について聞いたりしている。
それでも人は怖い。
能無しとも思われたくないし、趣味に口も出されたくない。
でも実は友人が欲しい。
そんなこんなで引っ込み思案なまま大きくなってしまった。
ぼっちちゃんみたいに何か自己表現でもしたらまた何か変われるかもしれないな。
『理解ある彼氏くん枠』で結婚したということを話したが、つまり妻はある精神的なハンディキャップを背負っているので僕がいろいろサポートしているところがある。
ただ僕はいろいろ限界が来て喧嘩してしまうことも多々あるけれど、それでも日々は平和だ。
つきあっていたころのままの関係性が続いているし、手をつないだり、二人で出かけたり、一緒に遊んだりすることもあの頃のままだ。
だが、妻は僕に守ってほしいという気持ちが強く、僕が弱いところを見せてほしくないと思っているところがある。
僕があの日泣いたとき、なぜか怒られた。「泣いたら私が悪者じゃない!!」って
僕はさすがに謝罪した。「さっきの喧嘩の流れとは別の件でないている。あの話とは別なんだ。個人的な理由で泣いているだけなんだ。(まだ自分でもなんで泣いているのかもわからないので)なんかわからないけれど心の柔らかい場所が反応したような感じがして」とまあそんな感じで伝えたんだけれども
妻は毒親サバイバーでもある。だから過去の辛い話などを聴くこともあるし、その段階で妻が泣き出すこともあるので、そういう時は抱きしめたりして、そうすると落ち着いて、妻はそういう関係が好きらしい。
実は僕もそうしてもらいたいと思っているが、逆の立場にはしてくれないようだ。
僕も誰かに依存したいが、僕は生涯の伴侶は妻だけだし、妻以外に心を開くのはどこか浮気のように感じてしまい、正直無理だ。
そんな行き場のないこの気持ちを吐き出せるところはどこにもなく、
トイレの便器にはなしても/dev/nullに投げ出しても、どうしようもないので、ネットに放流して誰かに読まれることで慰めることにしよう。
皆、読んでくれてありがとうございます。
深夜のテンションで書いたものがホッテントリに上がっててびっくりしていたのと、
そしてまた悪い癖でこの世に悪意しかないとおもっていて、「絶対炎上している」「きっと、『お前は恵まれている癖に何いっちょ前に気取った悩み装ってるんだよ』みたいなコメントがたくさんあるんだ」と思って開くことができませんでした。
でも100件以上ついたら、気になって仕方ないので思い切って開いてみたら、なんとまあ善意ある方が多いこと。
重ねて余談だけど。
これ、日本以外では多分ちゃんと意識されてるから、例えばオバマが差別用語に言及するときも「Nワード」なんて、黒人のオバマが差別的な意味で使うわけのない言葉すらも伏せ字で引用するし、伏せ字ですら騒がれるほどその単語の存在を持ち込むことを禁忌視されてるわけだ。
別のパターンでいうと、「自殺」「事件」「災害」の映像を、報道目的であろうと二次加害を引き起こしかねないものとして垂れ流しは避けるのも同じ理屈といえる。
「どう見えるか」っていう素直な感じ方を日本の意識高い感じの奴って(そうじゃないのもだけど)軽視し過ぎというか、神経が鈍すぎるように感じる。
安全対策というのはどんな現場でも最終的には人間が注意して確認することで成り立ってる
その上で人間にはうっかりミスがあるのでシステムで補助してあげる必要がある
「停車後バスの一番後ろまでいってアラームを解除しなければいけない」というのはまさにそれだ
ところがはてなの一部頭でっかちには悪意を持って必要な手順をとばしたり、警告を無視する人間を想定し
「人間が介在せずに完結しないと不完全であり無意味」みたいなこと言い出してシンプルで効果の高いシステムを否定し
実現可能性の低い複雑怪奇な「おれのかんがえたさいきょうのしすてむ」を披露するバカがいるんだよね
そんな人間が起こす事故を完全に防げるシステムなんて存在しないよ
男性の性欲が怖いなってずっと思ってたんだけど、よく考えたら自分は全くモテないし幸いなことに直接的な性的加害を受けた事はほぼないといえるのに、何でここまで拗らせているんだろう?と考えて気付いたこと
ここもそうだし、Twitterや匿名掲示板やその他の場所で男性(と思われる)ユーザーの最低な発言が多すぎる
それに、ネットで被害経験を話す女性も多くてこんな最低な言動をする男性が現実に数多く存在してるんだって実感したのも大きいかな
あとは以前興味本位で登録した出会い系サイトのおじさんたちからの怒涛のメッセージが本当に気持ち悪くて怖くて、あれがかなりのトラウマになっている気がする
多分私はこのネットがある時代に生まれなければここまで過度に怖がる事はなかったんだろうなと思う
ネットから男性がこう考えているのかと情報を仕入れすぎたことで、頭でっかちになって変な拗らせ方をしているのかもしれない
普段リアルで接する男性(女性もだけど)は私の事を下に見て素っ気ない対応をしてくるか、対等な存在として対応してくれるかのどちらかが基本で、性欲を感じる事は別にないし
「昼働いて夜寝るのが正しいなんてない」とかいう屁理屈は良くあるけど、実際にはサーカディアンリズムは「遺伝子レベルで」組み込まれているので
「フカフカしたソファ」および「それに座る人(主に女性)」を指す言葉。「お花畑左翼」みたいに頭でっかちで現実を見ていない恵まれた人に対する揶揄らしい
具体的にはTERFがTRA女性について言及する際に使用されたり、セックスワークに否定的な論者がセックスワーク論に賛成する女性を批判する際に用いられる。昔でいう「名誉男性」に近い使われ方に見える
2020年終盤から使用が確認でき、2022年になってから流行りだし、2022年3月以降はジャーナリストの郡司真子さんが頻繁に使用しまくっている
https://twitter.com/search?q=%E3%83%95%E3%82%AB%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A1&src=typed_query&f=live
「重複」を「じゅうふく」と呼ぶ人に対して、「ちょうふく」だろ……と脳内で小馬鹿にしてたり、神社で参拝するときにやたらと正式な作法を気にしてたりと、若い頃はやたらとルールを守るのに厳格だったと思う。
年を食ってると、前者については伝わればいいだろという考えに変わってるし、後者についてはそこまでキッチリする必要はないし、テレビでどこぞの神社の神主から神を敬う気持ちがあれば細かい作法はいいという発言もあったから、神社側もそこまで気にしてないんだろう。
今思えば若い頃は変に老害化していたというか、情報を詰め込みすぎて頭でっかちになってたのかもしれん。
むしろオッサンになってくると、物事に寛容になってくるというか、まあ別に良いじゃないと細かいことをスルーしたり、なんか新しい文化を見ても、変に否定するんじゃなくて、そういうのもあるのかと肯定することも増えてきたと思う。