はてなキーワード: 営利団体とは
これについてはどっちもあるなぁと思った。
企業はあくまで営利団体であって新人教育を行う機関ではないけれど、自分のそしてチームのアウトプットを増やすには人を育てないといけないんだよね。
「世間はお前らのお母さんではない」という厳しさと「俺たちはチームだ!」という優しさの両方が必要なんだよね。
結局、啐啄同機というのかな、どちらにもその気持ちがないとダメってことなんだろうけどね。
糞なコミットをガンガン出したり、ちょっと調べればわかるような質問をガンガンしたりして、先輩の時間を削っていくというのも問題だけど、自分でやろうとしすぎちゃって聞けば10分でできることに10日かけたり、場合によっては匙を投げるのも問題だとも思う。
極端な話、先輩が教えることをサボって後輩の業績が下がったり最悪辞めたとしても、先輩が自分の業務で高い業績をあげていれば評価されて昇進するでしょう。
あえて極論を出したんだろうけれど、これはさすがに違うかな。一人採用するのはそれなりに手間とお金がかかる。
それをカバーし、後輩を育てれば出せたであろう業績も含めて一人でカバーするというのはさすがに難しいんじゃないかな。
さらに、後輩が嫌な思いをして辞めたとなると、就活市場での会社の評判はさすがに下がるよね。
その辺のフォローアップも含めれば残念な先輩の悪影響は計り知れない。
世の中にはほんの2%分のイートイン脱税すら許さない正義マンとやらが存在するらしいが、はっきり言ってちっぽけな正義だ。他人の納税の監視でなく自分の納税で正義を果たすべきなのに、と思ったので私自身の正義の行動をここに記してみる。
収入印紙は国が、収入証紙は地方自治体が発行している。通常は国や地方自治体に対する手続きに収入印紙や収入証紙を利用するが、何も使わずに燃やすことで納税が可能となる。1万円札を燃やすのは、日本銀行券の流通量を減らして政府が目指す緩やかなインフレに寄与するためだ。
ここ2・3年ほど上記の方法で毎月3万円を納税(寄付?)している。年収が何千万円も何億円もある人にとっては小さな金額だが、私の手取りは月15万円程度なのでこれが限界だ。本当なら、私の正義の行動を身の回りの人に勧めるべきなのだが、とても理解されるとは思えないので、消費税増税を機にこの匿名ブログで布教する。余剰資金をもっと有意義なことに使うべきだという意見もあると思うが、有意義に使える人はいるのだろうか。少なくとも私の職場など周囲の人にはいない。職場の同僚が生活費以外に金を何に使っているか、そしてそれがいかに無駄かを示そうと思う。
このように職場の愚かな人間どもに私の正義を説こうとも、逆に金をたかられてしまうこと必至である。ここまで読んでみると、私のことを無欲・無趣味な修行僧かと思うかもしれないがそんなことはない。趣味は散歩して図書館へ行くことであり、将来の夢は一冊でも多くの本を死ぬまでに読むことだ。たまたま、趣味に金がかかっていないだけであり、決して3万円分燃やすために生活を切り詰めたり趣味を我慢しているわけではない。
消費税増税で物価も便乗値上げの感があるが、それが続くようなら燃やす額を下げるだけだ(というより減らさざるを得ない)。また、燃やしている収入印紙:収入証紙:日本銀行券の比率が1:1:1であることに特別な考えがあるわけではない。金額面でたまたま切りがいいのでこうしているだけだ。もし、金融などに詳しい人がいたら適切な比率を教えてほしい。納税や寄付に関しても、もっと良い方法や納税(寄付)先があるというなら、その意見も欲しい。ただし、寄付金控除やふるさと納税をするつもりはない。寄付や納税は何らかの見返りのために行うものではないからだ。日本人としての正義で日本の将来を支えたいので、海外に投資などをするつもりもない。
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
結論から言うと、かなりの確率で、収入の大小にかかわらず広告やアフィリエイトやっていると商用利用と見做される。だから、広告貼ってアフィリエイトブログやっている人は、自分のやっている事が商用利用、営利行為だという前提で色々と動くべきだと思う。知ってさえいれば対処はいくらでもできるし。
たとえば、ソフトウエアライセンスなどには商用利用を禁止した上で安価に販売しているものがあるけど(アカデミック版とか)、そう言うのを使って広告やアフィリエイトを貼ったブログやそのネタを作るとライセンス違反になっちゃったりする。
ちょっと前に、画像引用/転載/流用の件について色々と言われている件あったよね。ちょっと気になって調べてみた。
と言う見解が多く見られる。けど、これは結論から言うと間違いだと思う。一般には通用しない。ネット民、それも、サイト経営などをやっている人が多いとされるはてな周辺における感覚のズレだと思う。
いろいろな所の規約を調べたけど、収入を得る契約の広告(アフィリエイトを含む)があれば商用利用、営利で、少量で個人なら営利目的で無い、とする一般的な根拠は出てこなかった。ふわっとしたイメージによる解釈だと危険。
一応ネットで創作活動をしている1人として、自衛のためにどうするべきかを考えたって話です。
どちらの主張を支持するとかではありません。それから、どこまでが引用か、と言う話についても別ね。
まず「商用利用」の辞書的な、そして一般的な法律用語的な意味を調べると
「営利を追求して同種の行為を反復継続する活動」(大辞林より)のための利用、と言うことでよさそう。そして事業規模の大小が問題になるケースはある様だけど、基本的には旅館業法など、特定の法律を解釈するときに使われる例外っぽい。
辞書で調べると
とある。このまた「商用」とは
② 商業上用いること。
ここで気付くのは
というところ。
で、法律で言うところの営業とは?と調べると、こんなページが出てきた。
【業法の『業・事業・営業』の基本的な解釈(反復継続意思・事業規模・不特定多数)】
ざっとまとめると
営利とは「金銭的な利益を得ようとすること」で「反復継続性がある」と言うのは、例えば知り合いに頼まれたから100円で買った物を1000円で売った、みたいなのは「業」にならない、と言うことのよう。
で、広告収入やアフィリエイトは「金銭的な収益をえる」ための契約そのものだし、違う目的のために広告が必須と言うケースは少ないと思うので営利目的そのものだ。設置したらそのまま継続的に行うものなので、素直に判断すると商用ってことで解釈は固いと思う。
ただ、ここで「事業規模で判断する」と言う場合もあるらしい。これは民泊の解釈で出てくるものらしいのだけど、地方で大きなイベントをやるときに、年に数回、地元農家がお金をいただいて旅行客を泊める、と言う場合も旅行業法や民泊関連の許可が必要なのか? と言う場合には「社会通念的に考えて」営業では無い、と判断するらしい。ただ、古物営業法みたいに一回でもやったら営利だという厳しい解釈もあってよくわからない。
著作権法で、そのままずばりの商用の定義はない。ただ、営利という概念は出て来る。そして、やっぱり事業の大小は出てこないので、広告やアフィリエイトを貼ったら駄目そう。
公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。
まずは前項で説明した「営利」の考え方をそのまま流用できそうなのと、さらに「営利を目的としない上映等」として「営利」とそれ以降を分離せず条件として扱っているケースが多いっぽい。
ということで、この解釈でも金額の大小とか、実施している人が個人である場合は可、といった解釈はでてこず、営利、あるいは金銭の授受の有無のみになっているので、広告を貼っている、アフィリエイトをやっている、と言う事は商用とみて良いと思われる。
ちなみにこれ、結構問題になるやつ。これ山ほど判例があって、かなり厳格に解釈されていてめんどくさい奴です。
https://business.bengo4.com/practices/517
イベントなんかする人は気をつけてくれ。ほぼ身内だけだけど会場費にするからと実費で入場料とったりするとひっかかる
「運営費にするので、目標お一人300円募金ご協力お願いします」と紙を貼って箱置いておくのは問題無いらしい。
これも、上記法律の解釈論と同じ。広告やアフィリエイトは営業。広告やアフィリエイトを貼ったら駄目そう。
国税局はそれが商用なのかそうじゃないのかとかはあんまり関係なく、金が入ったらちゃんと申告して払え、と言うスタンスっぽい。
利益を得る目的で、同種の行為を継続的、反復的に行うことをいいます。営利目的がある限り、現実に利益を得ることができなかったとしても、また、当初、継続、反復の意思がある限り、1回でやめたとしても営業に該当します。
と言うわけで、上記法律の解釈論と同じ。広告やアフィリエイトは営業であり、ただこちらでは「事業規模」という概念が全く出てこない所がポイントっぽい。
ちなみに、このページは印紙税法に関連する文脈からの質問なので、そのあと商法上の解釈について踏み込んでいくけどそこはちょっと話が違うようだ。
この他に、NPO法人や一般社団法人の「収益事業」ってやつの解釈を見たんだけど、こっちはあんまり参考になりそうに無かった。定型的に上げられた業務に入っていれば収益事業で納税対象、そうじゃなけりゃいらん、みたいな感じでNPO法人以外には適応できそうにない。
ただ、ここでNPO法人の場合いくらアフィリエイトをやっても納税対象にはならないっぽい解釈をみつけて、そういえば最近やたらとNPO法人がやっているアフィリエイトブログみるのはこのせいなのかなとか、これはこれで調べるとおもしろそう。
みんな大好きWeb上のパブリックエネミーでお馴染みJASRACはこう定義していて、何らかの収入があれば営利目的と明確に書いている。
情報料または広告料等収入を得て行う配信、および収入の有無にかかわらず営利を目的とする者が行う配信をいいます。
※非営利団体または個人の方が、広告収入のみを得てダウンロード配信を行う場合は、例外的に非商用配信の取扱いとなります(商用配信の特例)。
ポイントは「何らかの収入があるWebサイトでの音楽利用」は商用配信だが「個人の人が広告のみなら特例で非商用扱いにする」と言うこと。だからどちらにしても、広告あり、アフィリエイトありは商用利用になるみたいだ。
JASRACの規約は文化庁に届け出て認可を得るものなので、法解釈よりも営利目的の範囲が広いということはあまり考えられないのもちょっと頭においておくといい。
新聞や一部の雑誌などをコピーする時にまとめて窓口になってくれる団体。
いろいろと調べたのだが、ここはそもそも「私的利用の範囲に含まれないのならば、金を払え」というスタンスのようで、非営利だろうと営利だろうと個人だろうと、料金の別の区分がないようだった。ボリューム割引はあるようだけど。
著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
と言うことになるんだけど、この解釈では「利益を得ようとして複製したら個人的利用では無い」という解釈が普通。たとえば「限られた範囲」というのは、数人のグループのよく知った仲間うち、みたいなのも含まれるらしいのだが、そこで無料で配るならともかく、その中であっても金をとったら私的複製の範囲から超えるようだ。ここでも金額の大小は出てこない。
実際にはWebに不特定多数で上げた時点で私的利用じゃないんで、こんなシーンが実在するかわからんけども、商用利用とはどう解釈されるか?と言うがかりとして。
MicrosoftのLicenseの中には「商用利用権」という概念があって述べている。ここも「営利を得る事を目的」としていて、個人などに対して特例を儲けてない。
例えばOfficeなどは、Academic版などを買うと商用利用権がついてこない。これに関連して定義を確認すると
商用利用とは
と定義している。ここで、素直に読むと「収益を得る事を目的」たとえば「少額なら」とか「個人利用ならよい」という様な概念はない。
アフィリエイト契約は明らかに収益を得る目的になるので、営利目的とされるっぽい。
そのほかいろいろな所を確認してみたけども、少額、あるいは広告収入のみの場合は商用利用とみなさないと言う規約がある所は見当たらなかった。いや、昔はそう言う規約があった記憶があるのだけれど、見当たらない。だれか見かけたら教えて欲しい。
Webが広告収入を中心に莫大な利益を上げる時代になった今、そのような例外事項は時代遅れと見做されているみたいだった。
クリエイティブコモンズライセンスにはND,非営利のみ許可というライセンスが存在する。で、これは非営利の定義が出てきて営利を「主たる目的としない」場合には非営利とみなすことができそうだけどわざわざ特別にそうしているみたい。
「非営利」とは、商業的な利得や金銭的報酬を、主たる目的とせず、それらに主に向けられてもいないことを意味します。本パブリック・ライセンスにおいては、デジタル・ファイル共有または類似した手段による、ライセンス対象物と、著作権およびそれに類する権利の対象となるその他のマテリアルとの交換は、その交換に関連して金銭的報酬の支払いがない場合は、非営利に該当します。
ここでようやく「商業的な利得や金銭的報酬を、主たる目的とせず、それらに主に向けられてもいないこと」と言う解釈が出てきている。おお、ついに、と思ったのだが、これについてこういう解説記事がある。
https://wiki.creativecommons.org/wiki/NonCommercial_interpretation
ざっくり言うと、意図的に柔軟に緩く解釈ができるようにしてある、グレーの領域が多くて解釈には議論がある、と言う事が書いてある。
つまり一般的な解釈だと厳格になるから、CCではわざと緩くした、と言う事のようだ。だからこの解釈は一般的な非商用の考え方として適用は出来ないと思われる。
この他に、他の解釈では、一般的に営利団体にいる上で使用すると営利だと言う所は揺るがないのだが、ここでは営利団体にいても使用する行為が営利で無ければ使える、と書かれていたりするので、ちょっと特殊っぽい。
ただ、最終的に迷ったらNCが付いてない奴にしといた方がいいよ、とも言われている。
広告収入がごく僅かしか無い私のようなブロガーは、広告剥を剥がした方が色々と面倒が無くてよさそう。
そんなわざわざ実験してデータとって検証してなんてやってる間にもクレームがバンバンきて視聴者が離れてスポンサーがとれなくなって経営が傾いていくくらいなら、
クレーム件数に応じて先手を打って自主規制していくのは経営者としては合理的な判断と思うがな。営利団体で金を稼ぐのが目的なんだから。
で、そんな理不尽な状況がいいと思ってるの?
モザイクって実際にはセックスしてないって建前だからじゃなかったっけ?
セックスするために女性を派遣するのが売春防止法に引っかかるって立て付けだったような。すまんあやふや。あんまり覚えてない。
これはまぁわかる。
表現の自由と他の法の競合だな。