はてなキーワード: 十人十色とは
https://www.jinken-net.com/gozonji/knowledge/0202.htmlによると、
私たちは、区別と差別の違いを考えずに何でも差別だと決め付けてしまいがちです。 「区別」と「差別」は同じ意味でしょうか?
国語辞典によれば、
「差別」は、「差をつけて取り扱うこと」「わけへだて」となっています。
「区別」とは、
十人十色といわれるように私たちはそれぞれ違った個性や能力をもっています。
区別とは、「男と女」「黒人と白人」「日本人と朝鮮人」といったように違いを表しただけのことで、地域生活においても、それぞれに違った特色が備わっている状態を言います。
従って、就職応募者に採用試験を実施した際に、会社が必要とする職種について能力や適性、試験の成績を総合して、上位から採用していくことは「区別」になります。
「差別」とは、
「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」をいいます。
「出身地」「職業」「学歴」「性別」「家柄」「民族」などによって、上下の値打ちをつけ、その人や団体の自由や権利を無視、侵害するなど不当性、不利益性を被る関係が生じることをいいます。
ということで、人権を考えるサイトですらこのように違いをはっきりさせているのである。
それを同じとする増田の意見は人権というものの勉強が足りない、残念な人間であるという事実だけが浮き彫りになるのだ。
ちなみに参加企業はコチラ
バイト8日目
スタートは
その後、スパルタ。
昨日、3木に香水について話し、
それを大関にちくった、報告したらしい。
大関にその件を言われる
返答したら、
大関、
今日に限ってつけてない。
やり方が汚い奴だ。
負の部分の発言はしないと決意。
ここの人達は
仕事に関しては助けてくれるが
販売接客(ここの人達)の実態なのかもしれない。Theビジネスライク。
まだ飲食の方が情があった気がする。
自分もどちらかと言えば
ビジネスライク派だったが、、
実際に経験してみると、
情の中で居たから無い物ねだりだったのだと
分かった。分かっただけ収穫
後、聞きたくないのに聞こえてくる
ヒソヒソと話してる内容と言えば
不満、悪口大会。
客来たらコロッと変わる。
ここの人達は素直ではないことは明確。
明日は誰だろう。
本屋は確定している
スパルタだったら最悪だ
そして、それも分からないの?と、貶す。
段々覚えていき次から率先して出来る
今月で辞めよう!
後、9回。
皆様、おはこんばんちは。
ここ最近、“アイドル○○の映像流出!”とか、“恋人とのLINE内容流出!”とかで芸能人が炎上する事が増えてきました。
特に昨今の大SNS時代、スマートフォンの出現によって、昔は週刊誌位しか無かった伝搬媒体が増加(増加なんて生易しい物ではないかも)によって、一度表に出てしまったが最後、完全なる沈静化は叶わず、ある程度の収束させることも難しくなっていると感じます。
私が身をおいているのはj界隈なので、それこそ末端含めると大体1月にひとつは、凄いときは1日単位で誰かしらの何かが流れてきます。そればかり追っかけてるつもりはなくとも向こうから流れてきます。
「信じてたのにショック!もうファン辞める!」 とかの本人非難や相手方に対しての中傷をするような所謂批判する内容と、
「○○だってイケメン(美女)なんだから恋人位いるでしょう、自分が付き合えるとでも思ってたの?」 とか
「アイドルだってひとりの人間なんだからプライベート位好きにさせたれよ」 とかの、擁護する内容のもの。
炎上騒ぎの後半は起こった事象より、この批判派と擁護派の論争が続く傾向にあると思います。
特にお互いアイドルや若手俳優女優同士とかだと、お互いファンない交ぜにして叩き合うので、控えめに言って暴言の地獄です。
因みに私は恋人いても全然いいし、プライベートはどうでもいいし、正直興味ない派ですが、流出批判派です。
この日記は、何で流出を批判するのか、エゴサが好きな元自担に何らかの形で届けばいいなと思って書いています。
(このあたりで粗方絞れそうですね。。)
語気も荒くなりますので、どうかご了承ください。
この“自分”という言葉ですが、何も滅私しろと言うことではなく、例えば俳優業なら“自分の演技”ですし、歌手なら“自分の歌”と言うことです。モノではないコト、更にサービス業などでないよりパーソナルな領域の部分です。
あなた方がこれ見よがしに付けているそのくそ高いお洋服・貴金属、より綺麗になるために費やす美容代・ジム代は、“自分”を対価にして貰ったお金で買っているわけです。
成功するしないはありますが、今地上波でコンスタントに出れている芸能人は、ぶっちゃけ自分のファンや同世代の人達平均より多くお金を貰っているはずです。
“自分”を売るわけですから、それだけのリスクを抱えるわけですから。そりゃその分お金は高くなるものです。
自分より貧乏なファンが、あなた方を応援するために、なけなしのお金で、細微な違いの初回版と通常版とか、全形態のなにがしやらを買うわけですよ。もっと応援したいから。
売れないと次の仕事がこないからと、同じ物を複数枚買ったりしているんです。
さて、形のない“自分”を商売道具にしているのだから、生活含めて律していかないと“自分”の価値は簡単に下がるんです。
芸能人にだけ厳しい?
そんなこと無くないですか?
“食品”を商売道具にしている飲食店は、その食品から食中毒等が出たら有無をいわさず営業停止になりますし、“商品”に不具合が起こったら自主回収やリコールがあります。
こと一般企業は形になっている“商品”に問題がなくても、従業員の素行でも名前に傷が付きますから、管理しなくてはならない範囲が広いです。
芸能人である以上、その仕事でお金をもらう以上、自己管理は徹底的にすべきと思うのです。だって商売道具だから。
それが嫌なら芸能人辞めればいい、その立ち位置をもっとしっかりやっている他の芸能人に明け渡すべきです。だって出来てないんだから。
こちとらファンは、あなた方にとって有象無象であることはわかっていますし、表に出ている部分が全てではないとわきまえてます。
でもさ、それでも信じて少なくないお金使って今まで着いてきたの。
裏切られるても、「生まれ変わります」の言葉信じてなんとか持ち直してきたの。
何でそんなところに行くのか。
今までの時間が虚無だよね。
頑張っている他の人が報われないし、失礼。
「ご心配おかけした」って言うだけでいい訳じゃない。
15周年、楽しく迎えられる気がしないね?
学歴職歴ではモテスペック満載のような米山隆一知事でさえ、出会い系に頼らなければ異性がゲットできなかったことにショックを受けている人は多い。
しかし、世の中には学歴職歴はからっきしでも平然とモテている奴もいる。つまり、ヒモやジゴロの才能のある奴だ。そういう奴はどういう能力に長けているのだろうか? 考え得る要素をばくぜんと並べてみる。
・容姿はずば抜けたイケメンでなくても可(顔面偏差値60以上は最低限)
・コミュ力が高い
・ワルを好むタイプならば不良の大物など臨機応変な人脈自慢ができる
・タイミングや欲しい物など相手のツボをついたプレゼントができる
・自分の店を持ちたいなど相手の願望に応じた「デカい話」が得意
・手をつないだり肩に手を回したりが手慣れていてさりげない
・ダメ過ぎない程度に女の方が構いたくなるウィークポイントも装備
…etcetc
言うまでないことだが、世の女性も十人十色である。ワルを好む女性もいれば、優等生を好む女性もいる。顔はそこそこ良いがちょっと服装がダサい男の方が自分が世話してやりたい心理が働く女性もいるだろうし、一方的にリードされるのが良い女性もいるだろう。
恐らく、ヒモやジゴロの才能に長けた男というのは、そういう女性ごとのタイプの違いを見抜いたうえで接し方の使い分けができているか、自分が御しやすいタイプに標的を絞り、さらにその中で逆らいそうにない相手に出会うまで何度でも何度でもアプローチをくり返しているのではないか。
――と、畳上の水練のように理論を語るのはたやすいが、いかにすればそのような臨機応変なコミュ力だの女性受けする引き出しだのが身につくかといえば「場数を踏む」しかないと思える。
つまり、トートロジーめくが、モテる奴はますますモテる。学歴や収入が高く医師や弁護士や政治家でも童貞センス丸出しのまま歳を重ねた奴は(たまたま超偶然そういうウブいエリートがタイプの女性に出会わない限り)、ひたすら不利ということなのか。
で、世の中面倒。
発達障害の子には「できることとできないことが人それぞれ違うから〜」って話をするし、十人十色なんて言葉があるんだ、分かってくれって感じ。
創作ができないと言えば技術や数が足りないと言われ、生きづらいと言えば人の目は気にするなと言われ。
自分ができてるからって世間の全員が全員できてるわけじゃない。
わたしは数学が苦手だから未だにルートの計算はよく分からないし、むしろ分数からよく分かってない。けれどそれが分かるわたしの母は小野妹子が男なことを、今日わたしが話して初めて知った(本当です)。
母が当然分かってる前提な分数の計算はわたしは苦手だし、わたしは知ってて当然だと思ってた歴史の知識を母は知らなかった。家族内でだってそんなことばかりなんだから、そんなもん広く世界見たら「それができたら苦労しねえよ」って思う人もいるだろう。
絵や文章が書けない…←頑張って練習しよう!で、あなたは書けたんだろうけどわたしはそうじゃない。
人の目や重圧を感じすぎて生きづらい←気にしなければいい、そもそも気にならないならどんなに楽か。
それができないから言ってんだ。できてるやつの話なんざ聞きたかねぇんだわ。
それを愚痴って誰かに言うわたしも大概か。静かに暮らしたいなあ。人間の生活におそらく向かない。宇宙かどっかに逃げてみたいね。これから一生乗ってたら太陽系の外に出れるのかなあ。くだらないことばっかり考える。
私は散々にお世話になった祖母が亡くなった時に、ほとんど悲しく無く涙は一滴も零れなかった。
俺ってサイコパスゥ~!フゥッフゥ~!とか言うつもりは無く、基本的にくそ女々しい人間である筈だが
受けた感情は事実であるとしか言いようがないので、その理屈を自分なりに明文化しておく。
なんとなくで生きていても、人の生き死にには程々に触れる事となる。
ある程度予測可能な「誕生」に比べて「死」は突発的であったり、予想が付くこともあったり衝動的であったり
残留した人達からすれば、十人十色の受け取り方がある。まず基本的には悲しい。
悲しさはまず間違いなく数値化が出来る。基本的に死は突き抜けて悲しい。
親交のある人間ほどその数値は大きくなり、遠縁の人ほど小さくなる。ただ人の死の悲しさポイントを数値化するのは
「なんかひどいな」という理由から誰もしていないだけだと考える。
私は死の振れ幅について思い至った。
20才の人間と80才の人間が居たとする。両名は原因不明の理由で前日まで健康であったにも関わらず
朝になって身内の者が起こしに来たら冷たくなっていた。とする。観測者は伴侶でも近しい友人でも良い。
そのどちらが「悲しさポイント」が高いだろうか?
条件を合わせれば合わせるほど、前者の20才の人間がダントツで「悲しさポイント」が高いと思う。
余命の差であったり、後腐れであったりの違いはあるだろうけど多くの人が自分と同じ結論に至る。たぶん
私はこの差を「人は長期的に死んでいるから残留ポイントが大きい人間ほど悲しさ指数は高くなる」と考えた。
長期的に死んでるってなんだ?と思うだろうけど、とりあえず生者ポイントが0で死者になると考えていただきたい。
20才の人間の生者ポイントは100に近い数値があると考える。よっぽどの持病を抱えていたり事故にでも合わない限り死なない数値である。
そんな人間の数値が不幸な事故で0にまで下がったら、その振れ幅の大きさは凄まじい悲しさポイントを稼ぐだろう。
その数値は60才くらいまでは緩やかに下降し、80才まで一気に加速して下がってゆき
その人の寿命が82才だとしたら80才の頃には10ポイント未満にまで下がっているのではないか?と思う
最初に挙げた祖母の例だが、祖母は65才位までは快活な人間であったし単身で都内に遊びに行けるほどにバイタリティのある人物であった
私が観測している限り、祖母の生者ポイントはその時点では80くらいはあると感じていた筈である。
もしも65才の祖母が急死でもしていたら、おそらく私は数年単位で立ち直れなくなり気をやってしまっていたと思う。
そこから加速度的に老いが発生する。老化とはどうしようも無く死を予感させ
本人はもとより周りの人間にも無意識化で心の準備を強いる。喜寿(77歳)を超えた頃、祖母は痴呆を患い少しずつ周りの物事を忘れていった
最初はどうでも良い事から忘れてゆき、私の事を私の兄の名前で呼ぶようになり、自宅に居ながら「家に帰りたい」などと言うようになった頃
祖母の生者ポイントは幾らくらい残っていたのだろうか?その期間に幾らか涙した記憶があるが、私の中での祖母の死は
痴呆の中のいずれかのタイミングで起きていたのだと思い至った。医者の診断する死と本来の死は違うのではないか?
記憶から忘れ去られた時を死とするお話は多いが、私個人としては死はもっと早まって訪れる者だと考える。
人が長期的に時間をかけて死んでいてそれを数値化した場合、その振れ幅が一番に大きいタイミングで「私の思う祖母」は死んでいて
心臓が止まり通夜があり・・・という期間は「後処理」としてしか思えないから悲しく感じなかったのではないか?
美少女コスプレ魔法少女アニメことCCさくらの新作を筆頭に萌えを研ぎすませたアニメがこれでもかと襲い来る。ハクメイとミコチの愛らしいデフォルメ体型に君は何を思う?三ツ星カラーズに真のロリコンを感じているか?はたまたりゅうおうのおしごとにこそロリ王の波動を見出したか?ゆるキャン△のキャラは何故あんなにも生き生きとしているのか。雨上がりのように訪れる恋は男女逆ならただのセクハラではないのか。ヴァイオレットエヴァーガーデンのこれでもかと並べられたむき出しの性癖をしかと見よ。萌えの形は十人十色ながらきっと誰もが気に入った萌えを見つけられるであろう萌えアニメの豊作クールだ。
今期はロボットアニメが二本も始まった。これは凄い。凄いことなんだよこれは。そしてどちらも出来が良い。これは本当に素晴らしい。明るいエヴァンゲリオンことシンカリオンは子供向けアニメにありがちなマンネリズムに囚われまいと物語に揺さぶりをかけようとする作り手の気遣いがあって信用度は高い。なんとエヴァンゲリオンコラボ新幹線が本当に登場するというのだからそこも注目だ。ダーリン・イン・ザ・フランキスはロボットアニメというよりも変態スケベアニメなのだが、作画の質は高いし世界には謎が満ち溢れSFアニメとしての意欲も強い。一見すれば作品の方向を見失わせるようなドスケベデザインや、少年少女の葛藤を剥き出しで描くことによって産まれた青臭さのジェットストリームは、人型ロボットという子供じみた無邪気さとベストマッチしているのではないだろうか。
今期はオリジナルアニメが強い。さきほど語った二つのロボアニメもそのオリジナルアニメである。原作付きであるはずのポプテピピックも、もはや原作の枠の向こう側に飛び出ているのでオリジナルアニメと言っても問題はないだろう。あるのかも知れないが私は無いと思う。他にもいくつかオリジナルなアニメとして注目したい作品がある。1つは刀使の巫女。だけど視聴を薦めるつもりはない。このアニメは余りにも危ういからだ。ストーリーはいつ破綻するとも知れないし、作品の作りたい絵作りもまだまだ見出しきれていない。美少女が刀を振り回したら面白カッコイイカワイイぜをコンセプトに左足が沈む前に右足を突き出して水面を走り抜けている状態が当面は続くだろう。このどこに向かうのかわからない所がオリジナルアニメの魅力なのだ。どこに向かうか分からないといえば『南極』こと宇宙よりも遠い場所だ。南極に向かうのは分かる。だけどそこで何をするのかが分からない。とにかく南極に行くわけだから観測隊に潜り込むために頑張るのは分かるが、それで南極に実際行ったらなにをするのかが未知数だ。危うい。この危うさが魅力なのだ。バクチってのは外れるから楽しいんだよ、だ。
もはや語るまでもない。今期でもトップクラスのアニメである。女の子がカワイイ。キャンプが楽しそう。冬のぼっちキャンプが寒そうで暖かくて季節感満載だ。皆でキャンプの準備するのが楽しそう。ただそれだけだ。それだけなのにどうしてこんなに時間が早くゆっくりあっという間にまったりと流れるんだ。
今季のアニメは豊作である。これは間違いないことなんだよ。他のクールと比較する必要なんて無い。今が楽しければそれでいいのだ。アニメ視聴なんてそれでいいのだ。これでいいのだ。
最後に謝っておく。
嫁なるものは俺の脳内にしかいないのでこれは実質的には俺の感想だ。
これでいいのだ。
人間にとっての救いとは何だろう。
ある人は信仰している神かもしれないし、好きな漫画家や作曲家だったり。十人十色である。救いに限らず、多くのものが十人十色であることを最近再認識した。
話は大きく変わるが、私はゲームが好きだ。ゲームは私にとっての救いだし、一生を共にする存在なのは確かだ。
そんなゲームにも様々なものがある。そして、ゲームはプレイしたプレイヤー達に評価が付けられる。中には「神ゲー」と言われるものもあれば「クソゲー」などと言われるものもある。
しかし、そんな「クソゲー」も多くの人には「クソゲー」でも中には「神ゲー」と感じている人もいる。そのことが実に面白い。これはゲームに限られたことではない。多くのことがこれに当てはまるのだ。
長く拙い文章を書いたが、伝えたいことは、自分と他人の何かが違くても、「自分の考えや救いを大切にしてほしい、信じてほしい。」ということである。
とても当たり前なことだし、今更何を言っているんだと思う人が多いと思うが、今の時代だからこそ忘れたくないことだからこそ書きました。
なんなはてなブログで地雷女についてのブログがバズってたの私も書いてみた。
私は自分で言うのは何だがある程度穏やかな方の性格であると思う。
それでも許せない時があるしむかむかしてしまう人種がどうしてもいる。
①喋り方が早口
いかにもオタクってかんじの喋り方苦手である。興奮して話したいことがあるならば、わかる。オタクだもの。私もそんな時多分ある。けれどいつでも畳み掛けるような話し方は違和感しか感じない。癖になってしまってるんだろうなとおもいつつも苦手な人種。好かれると疲れることは必須なので避けたい。
②見た目が汚い
ありがちである。たまにノーブラでうろついてる猛者もいてドン引きでしかない。せめておっぱいがある限りブラはつけて欲しい。あとなぜ女オタクには汚い天パが多いのか。論文でだしたらなかなか面白い議題のような気がする。
知るかとしか言いようがない。
誰にだって解釈違いはあると思う。仕方ない十人十色だもの。思考は考える人の分だけあると思うから仕方ない。でも「それは解釈違いだからやめろ!!」というツイートをみると押し付けがましくてめちゃくちゃ腹が立つ。お前の創作じゃない。私の創作だ。公式と違う点もあるかもしれないがノリと雰囲気で死にものぐるいで作ってる時なんて頭すっからかんなのでさ嫌ならブラウザバックしてほしい。
・即売会(イベント)の参加者は皆等しく参加者。お客様はいない。
などなどもう当たり前のようにしてきたから何を最低限とするのかは私はもう分からない。ルールをしらないでは済まされないようなルールもたくさんある。是非とも調べてほしい。
ここまで偉そうにつらつら述べてきましたが、私が腐女子になれたのは中学の頃からの友人のおかげだと思います。綺麗にお洒落し始めたのは高校の頃に出会った絵の上手なフォロワーさんのお陰だし、化粧始めたのは綺麗なレイヤーに近づきたかったからでした。
なんだかんだ素敵なヲタクに支えられてきたので出会いってほんと大切だなと常々おもいます。
最近すぐに心の包丁振り回しがちなので悔い改めて優しい人になりたいとおもいます。
初投稿。HIPHOP史にも社会学にも詳しくないんで諸々トンチンカンかもしれんけど、とりあえず殴り書き。
一応ネタバレ注意。
====
2週間くらい前のKOKを見に行きました。GADOROがだいぶ仕上げてきていたので、個人的には納得の優勝。ちなみに僕はダンジョンGADORO回とKOKを両方見られたので、もうGADOROの苦悩がスーパーハイビジョンで伝わってきたよね。いや~、持ってるよね。
んで、決勝の53 vs. GADOROだよ。僕は53→53→53→GADOROと挙げたけど、もはやどっちの勝ちかは一人ひとりの好みで決まってくるレベルにかなり迫っていた気がしたので、割れるのはしょうがないかなと僕は思っていたし、特に判定への文句もない。一応僕は一バトルとして見続けるよう努めたつもりではある。
問題は、このバトルに隠れている構図だ。
しばしば「日本のHIPHOPがメジャー化でダメになった」という話をCOREな方から耳にするような気がするが、僕はこう考える。「HIPHOP」がメジャーに媚び始めたというよりも、「日本人が想定する弱者」の像が変容したのだ、と言うべきではないか、と。
90年代当時(まで)は、テレビの影響力、集団行動力を重視する教育、いい大学・いい会社に入れば幸せになれるという信仰なんかがまだまだ根強かったはずで、それらが複合的に重なり、「安全第一の人生」を至高とする日本社会が形成されていたはずなのだ。そして安全を脅かす「ハミ出し者」を仲間はずれにし、自我を捨てて世間に身を委ねる則世去私イズムで多数派は安心感を得ていた。
まあ、阪神淡路大震災だのオウムだの酒鬼薔薇聖斗だのでそういった仮初の平穏にどんどん綻びが生じてくるわけだが、頑張って頑張ってみんな汚染水を除きまくっていたのだ。村上春樹の『アンダーグラウンド』あとがきでも、「地下鉄サリン事件実行犯たちを狂信者だとして遠ざける我々一般市民たちも、『何らかのシステムに自我を譲り渡している』という点で犯人たちと同じ翳を背負っているのではないか」という指摘がなされていた。
そんなstandardの波に排撃されたのがB-BOYたちというわけだ。僕みたいな聞こえても即答できないWanna b-boyが語るのもおこがましいのだが、黒人文化を濫觴とするHIPHOPは、90年代日本において「(虐げられてきた)俺たちだけの文化」という局地的受容がなされていたはずだ。「俺たちだけが真の音楽を知っているのだ」と互いを励まし合い、常人では知り得ない独自文化を発展させているのだとの自覚を懐きながら、Bのつくoutsiderたちは明日を生きる希望を得ていた。
この風潮なら、GADOROより53のほうが内部からの支持は強いということになり、MCバトルでも53の圧勝ということになるだろう。GADOROは大衆の中に帰れるが、53はそうではない。身の回りの仲間を守り、決して流行に媚びない53だけが、本物のB-BOYにふさわしいということになる。
しかし、だ。
僕が生きている21世紀の日本社会は、もはやハミ出し者が後ろ指をさされる時代なんかじゃない。一人ひとりが個性を求められるようになった、オンリーワンの時代になったわけだ。
原因は色々考えられる。個性を重んじる風潮が教育界で強まったこと、グローバル化の波が激しくなって社会人がコア・コンピタンスを求められるようになったことなんかがそうだろう。
インターネット、ことにSNSの爆発的普及はやはり大きい。一人ひとりの「リアル」に触れられるようになったことで、世界中に意見を発信できることはそう難しくなくなったし、それまで皆で一括りにしていた「大衆」も実は十人十色の人の集まりであって、決して「大衆」は無機質な集合体なんかじゃないのだと、みんなわかってきた。
まだまだ社会は発展途上だが、それでも少数派にとってずいぶん生きやすい世の中になったように思う。もちろんB-BOYだって恩恵を受けているはずなのだ。
じゃあ、社会から必要とされない恐怖と戦っている「弱者」とは、いま誰なのか。
それはずばり「個性を主張できずにいる人」ではないだろうか。
自分にしかできないことを自分は見つけられない中で、自分の代えを周りの人が見つけてしまうことに怯えている。
いま、日本人は「個性」に脅迫されているというのは、主語が大きすぎるだろうか。そう感じさせる創作物やら社会現象の例やらは腐るほどあるから、ここではいちいち出さない。
確かにGADORO自身は、「社会不適合者」から「スター」へとのし上がった存在なのだけど、「社会から必要とされる自分」を否定しない。
埋没の波から、前に、前に逃げ続けて、等身大の感情を表現して、世界で一人だけの存在として認知されたい、という、21世紀の「弱者」たちにとって、GADOROは希望とするに足る存在なんだと思う。
一方53は、「MASS 対 CORE」と最初のバースで吐いた(合ってる?)ことに象徴されるように、電波を受信できる人たちだけを助けようとしていたと僕の目には映った。
透明な存在として苦しむ現代人たちから共感を集めるのは、GADOROだ(僕は53も好きだけどね)。
そんな構図がKOKでは見え隠れした。
フリースタイルダンジョンも最近何かあったようだけれど、これからHIPHOPは、社会不適合者が生き残る術としてだけじゃなくて、怯えている人たちに「個性の手」を差し伸べる術としても発展していくのではないかな、と思った。
JKハルのシャワーうんぬんについてそれはもう十人十色の反応で見てて面白いけど、山本某の批判は無理筋ってのはその通りだとしてもディティールが雑ってのは言い逃れ用のない事実だと思うんだよね。
ただ、あの物語においてそもそもそんなディティールにこだわる必要性があったのか、ディティールにこだわることでクオリティが上がるのかっていうのはある。
異世界にシャワーがあるのが自然か不自然かは個人の感覚でしかないけど、シャワーという表現に対していわゆる現代的なシャワーからシャワーに類似した異世界独自の何かの可能性の示唆まで見てるとハルがシャワーを浴びる場面っていうのは人それぞれで想像する絵が違うんだろうなって感じるし、自分なんか結局その絵そのものが想像できない。
このへんのどんな絵を想像していいのか分からない、そもそも想像する必要すらないことを手抜きとか雑って言えばそれはその通りでしかない。
○○時代にはシャワーの原型があったとか、○○したら簡易シャワーなんてすぐにできるとか、そういうシャワーらしきものの話が出てくれば出てくるほど逆にシャワーの一言で説明をすませたのは雑だってことになる。不自然かどうかじゃなくて解釈の幅の広い単語を前振りなく出してきたって意味で。
けど、じゃあそれによって物語の本筋を理解することに影響があるかって言われたら全くない。本筋に関係ないことに説明の尺を取られてしまうとその分だけテンポも悪くなるわけで、小説は特にした方がいい手抜きとか読者が好きに想像していい部分ってのはある。シャワーはそういう部分だったってだけだ。
実際あそこの場面でシャワーの説明なんかされたらはぁ?ってなるだろうし。
でも、同時にそういう本筋と関係ないことがひっかかって先に進めない人がいるのもわかる。
なんか人気で映画にもなった「博士の愛した数式」って本があるんだけど、あれ興味があったけど本は手に入らなくて当時の通ってた図書館で聞いたら掲載された雑誌ならあるから貸し出してくれることになったのね。そしたら超すごい数学者で記憶障害があっても数学のことだけはスラスラ解けるみたいな博士が、一番好きだったはずの素数の話をする場面でその素数の定義を間違えるっていうクソみたいなミスしてたんですよ。本になったときに直されたみたいだけど。
まあ個人的にはふーんてなもんだけど、ガチ理系からはあれで完璧にしらけたという評価を頂きました。(そのほかの部分についても博士が理系じゃない人間が想像した理系って感じで違和感しかなくて血の通ったキャラに見えなくていまいちだったらしい)
他から見たらささいなことでも、特にそういった方面に知識があると、そういう些細なことこそ本当は違うのにっていう部分が気になって(まあ今回の場合は本当なんてものはないけど)話に入り込めないなんてことは普通にあるわけで、そういう観点から見たときに別にあのシャワーってシャワーである必要性は全くないんじゃないかと思うんだよね。体洗ったって話ができりゃいいんじゃない?と。
その本筋とは無関係の雑さによって顧客を逃していたとしたらもったいないと思うし、シャワーを体を洗ったと書いたところでそれこそ本筋の面白さに影響なんてないんだから、そこはそれこそそういったSF、ファンタジーオタクを見てきた編集者とかがアドバイスしてもよかったのかもしれないね、とは言えるかもしれない。
ただそれは「こうしたらもっとよかったかも」という話でしかないし、それが正解だとも限らないわけで、ダメな点では決してないと思う。
あとこれも本題関係ないけど「シャワーがあってもおかしくないだけの説明がある」(から雑じゃない)という反論についてはそれってあの世界は雑な世界ですと説明されていると言ってるだけで雑であることそのものの否定にはならないよなーと思う。雑であることそのものに意味があるとか雑であっても問題ないっていう反論はとてもよくわかるし同意するけど、説明されてるからセーフっていう論調は雑な説明と雑じゃない説明がある以上それだけだと雑であることの否定はできない。
正直、正直驚いた。
事実婚のような状態にあることは積極的に情報を集めなくたって分かっていた。
だからこそかもしれない。
あぁ、なんで結婚の報告なんてされなきゃいけないんだろう。結婚したのはプライベートの岡田准一さんなのに、芸能人としての岡田准一さんしか知らない我々にまで知らされたんだろう。
先に言っておくと私はジャニーズのみなさんが結婚することに対して好意的な意見を述べまくる方である。
オタクはジャニーズタレントの人間としての幸せすら奪うのかと言われればそれは私のスタンスではないですと返す。
もちろんオタクだって十人十色であることは言わなくてもわかるだろうが。
私は結婚したい人が結婚するのはとても幸せなことだと思うし、なんだかんだ思うこともあるけど結局生きていればよい。
しかも報告されることに対してもまあ結婚したら報告までがセットよね、と思っていた。が、今回でそれが揺らいでいる。
私も22日の夜に知った勢だったが、最初はここまで心を乱されることになるとは思わなかった。あの夜は純粋な驚きと、そして岡田担の友人の心配をしていた。
私はV6の違うメンバーを担当にしている。タイプとしては割と彼だけ見ていて、彼がいるV6が好きなオタク。オンリーかというと他のメンバーも好きなので少し違うとおもう。
だからいきなりショックを受けることは無かった。おめでとう、幸せになって欲しい、でも友だちの岡田担のあの子はいまなにを思ってるんだろう、と連絡を待った。
比べるのはご法度なのかもしれないけど、今回は荒れようが凄まじい。(と思う)
彼の結婚を取り巻くすべてが、岡田担をはじめとするV6のオタク(オタクじゃないって人はファンと読み替えて)やジャニオタ(主語を大きくし過ぎている感はある)の心を削いでいるように感じる。
自担がもし結婚発表するなら嫌な発表の仕方ランキング1位に躍り出た気すらしている。
私より数倍長い期間岡田担としてV6を好きな友人と連絡を取っているうちに、私にもくるしみが流れ込んできた。
アイドルとしての彼を見つめてきた友人の時間も思いも一晩で泡になって消えた。
いや、本当は、見ない振りしてきたいろんなことがあったのだ。その時の出来事は飲み込んだつもりでいてあの日まで生きてきた。
好きな気持ちに嘘はないけど、ずっと付き合ってきた消化できてない記憶があった。
だからクリスマスイブの結婚発表で頭を揺さぶられ、全部吐き出してしまった。
彼はアイドルとしての自分を何年も何年も見続けてきた人がいることを知ってるんだろうか。誰にもこのやり方を咎められなかったんだろうか。
秘密のままじゃだめだったのか、だめだったんでしょう。仕方ない、仕方ないことだ、私たちがどうこうできることじゃない。
彼が楽しそうにしているのがいちばんだって今年のコンサートのあとに話していた友人はころされてしまったのかもしれない。
私は今それが最もつらい。