私は散々にお世話になった祖母が亡くなった時に、ほとんど悲しく無く涙は一滴も零れなかった。
俺ってサイコパスゥ~!フゥッフゥ~!とか言うつもりは無く、基本的にくそ女々しい人間である筈だが
受けた感情は事実であるとしか言いようがないので、その理屈を自分なりに明文化しておく。
なんとなくで生きていても、人の生き死にには程々に触れる事となる。
ある程度予測可能な「誕生」に比べて「死」は突発的であったり、予想が付くこともあったり衝動的であったり
残留した人達からすれば、十人十色の受け取り方がある。まず基本的には悲しい。
悲しさはまず間違いなく数値化が出来る。基本的に死は突き抜けて悲しい。
親交のある人間ほどその数値は大きくなり、遠縁の人ほど小さくなる。ただ人の死の悲しさポイントを数値化するのは
「なんかひどいな」という理由から誰もしていないだけだと考える。
私は死の振れ幅について思い至った。
20才の人間と80才の人間が居たとする。両名は原因不明の理由で前日まで健康であったにも関わらず
朝になって身内の者が起こしに来たら冷たくなっていた。とする。観測者は伴侶でも近しい友人でも良い。
そのどちらが「悲しさポイント」が高いだろうか?
条件を合わせれば合わせるほど、前者の20才の人間がダントツで「悲しさポイント」が高いと思う。
余命の差であったり、後腐れであったりの違いはあるだろうけど多くの人が自分と同じ結論に至る。たぶん
私はこの差を「人は長期的に死んでいるから残留ポイントが大きい人間ほど悲しさ指数は高くなる」と考えた。
長期的に死んでるってなんだ?と思うだろうけど、とりあえず生者ポイントが0で死者になると考えていただきたい。
20才の人間の生者ポイントは100に近い数値があると考える。よっぽどの持病を抱えていたり事故にでも合わない限り死なない数値である。
そんな人間の数値が不幸な事故で0にまで下がったら、その振れ幅の大きさは凄まじい悲しさポイントを稼ぐだろう。
その数値は60才くらいまでは緩やかに下降し、80才まで一気に加速して下がってゆき
その人の寿命が82才だとしたら80才の頃には10ポイント未満にまで下がっているのではないか?と思う
最初に挙げた祖母の例だが、祖母は65才位までは快活な人間であったし単身で都内に遊びに行けるほどにバイタリティのある人物であった
私が観測している限り、祖母の生者ポイントはその時点では80くらいはあると感じていた筈である。
もしも65才の祖母が急死でもしていたら、おそらく私は数年単位で立ち直れなくなり気をやってしまっていたと思う。
そこから加速度的に老いが発生する。老化とはどうしようも無く死を予感させ
本人はもとより周りの人間にも無意識化で心の準備を強いる。喜寿(77歳)を超えた頃、祖母は痴呆を患い少しずつ周りの物事を忘れていった
最初はどうでも良い事から忘れてゆき、私の事を私の兄の名前で呼ぶようになり、自宅に居ながら「家に帰りたい」などと言うようになった頃
祖母の生者ポイントは幾らくらい残っていたのだろうか?その期間に幾らか涙した記憶があるが、私の中での祖母の死は
痴呆の中のいずれかのタイミングで起きていたのだと思い至った。医者の診断する死と本来の死は違うのではないか?
記憶から忘れ去られた時を死とするお話は多いが、私個人としては死はもっと早まって訪れる者だと考える。
人が長期的に時間をかけて死んでいてそれを数値化した場合、その振れ幅が一番に大きいタイミングで「私の思う祖母」は死んでいて
心臓が止まり通夜があり・・・という期間は「後処理」としてしか思えないから悲しく感じなかったのではないか?