はてなキーワード: 前近代的とは
「俺たちが考える国民のためになる政策」をやっていないと思うから
「その調子でもっとバンバンやれ」と言うのは矛盾ではなく筋が通る
「左翼リベラル派が安倍政権から10万円もらうのはおかしい」と言う右派は
憲法改正や竹島奪還、北方領土奪還を実行しても反対するのだろうか???
あるいは安倍晋三がいきなり心変わりして
平和憲法の絶対維持や尖閣諸島を中国に譲ると言い出しても支持するのか???
を重視しているのかも知れないが
左翼リベラル派が前近代的価値観より合理主義的な損得を取るのは矛盾しない
高度経済成長期までは社長や政治家に忠誠を尽くせば利得が得られた
しかし、21世紀に入って以降の自民党政権が進める新自由主義は
勤労者を差し換え自在のパーツのような非正規雇用に変えてしまった
企業が家族のように従業員の面倒を見ることを辞めてしまった状態で
かつての時代の主君に対する臣下のような忠誠を期待するのは無理な話である
「アハハ、しょうがねえなあ」と聞こえよがしに言って苦笑して見せるオッサンになるべきなのだろうか?
無論、黙っている方が波風は立たない可能性は高い
が、泣いている幼児の親は「うわー自分いま車内のみんなに迷惑かけてる! 怖い怖い怖い! こら泣き止め泣き止め泣き止め!」と焦っているかも知れない
成人男性が率先して「泣いている幼児に怒るなんて大人げないぞ」と意思表示する意味でも、冒頭に触れたような、昭和臭いオッサンしぐさが案外と有効なのかなあ
などと思ったのであるが
が、自分(50歳手前完全にオッサン)より若くて神経質な者が、「公共の場で泣く幼児なんて迷惑! ハラスメントだ!」などと権利意識全開で言うのなら
知能指数(IQ)のスコアが過去100年にわたって着実に上昇を続けている。「フリン効果」として知られる現象だ。この上昇は図形合わせなど“文化の違いによらない”と考えられるテストの結果から生じている。
現代の生活は抽象的な思考をますます必要とするようになっており,それがフリン効果をもたらす根本的な原因になっていると研究者たちは考えている。先進的な知性は技術を生み出し,それがさらに知性を高めるというフィードバック関係を生み出しており,この関係は衰える兆しを見せていない。
フリン効果が今世紀中に終わりを迎えるとは考えにくい。将来は,あなたも私もひどく前近代的で想像力の欠けた人物に見えるような世界になるのだろう。
日経サイエンス 2012年12月号特集:「限界」を科学する 知能は伸び続けるか http://www.nikkei-science.com/201212_096.html
キッタネー少女像。
天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習
まるパク!
現代アートに求められる
面白さ!美しさ!
驚き!心地よさ!知的刺激性
が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ— 貞本義行@腰痛 (@Y_Sadamoto) August 9, 2019
というツイートに対して、
https://t.co/3wqZGCqLzd"所詮個人の(特定集団の、というべきか)感想だし何を言おうが勝手だが、胸の悪くなるような悪意でグジュグジュの言語感覚が本当に気持ち悪いので、人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人だな、と思った。
特に胸糞悪くなる様な文章では無いと思うのだけれど、どのあたりがそうなのだろう。もちろん、胸糞悪いというのも、個人の感想なら勝手だし、ブコメを書いちゃ駄目な人だとも思わなのだが。
私の書いたことを反復してやり返されてるあたりに煽りを感じなくもないけど、
上記ツイートを読んで胸が悪くならない人にとっては正当な疑問だと思うので、
説明を試みる。
「キッタネー」なんて言うのは、論評の範囲を外れた軽蔑の吐露でしかないと思うが、
ここは文頭でもあるし、多少どぎつい表現で書き出して読み手を引っ掛けるのは、
ぎょっとするけど、まぁ何を言うのか読んでみるか、と思わされるところはある。
ただし問題は、後段で「キッタネー」と思う理由の言語化を試みていないところにある。
あえて斟酌するなら、技術の不足や表現の杜撰さによって不快を感じた、ということで、
イラストレーターの鋭敏な美的感覚からすればそういうこともあるだろうと思う。
「そんな重いものを表現するのに、そんな適当な仕事でいいのか?」という方向で、
表現の意図を(賛同しないにせよ)酌んだ上で、その実現における難点を、
実物に即したかたちで(つまり実際に観察した上で)言語化しているのであれば、
「キッタネー」と文頭で言うことぐらいは許されると思う。
でもそれをしないで「キッタネー」とだけ言ってるので、やはり論評とは言えない。
単に政治的文脈に対する不快感を、仮構した芸術的不備に転嫁しているように読める。
ただしこれだけなら「感想」の範囲ではあって、明確な悪意までは感じない。
単にぶっきらぼうで露悪的な言動を好む人なんだな、と思うだけ。
「天皇の写真を燃やし〜」という作品についての論評として書かれているのだが、
ここで「風習」という語を選択するところには、明確な悪意が込められている。
この文脈(作品の表現の引用元を指摘する)で「プロパガンダ」と連結しうる語は、一般的には
「手法」、次点で「技術」「様式」、あるいはちょっと意味を拡大して「文化」といったところである。
しかしそれらの語を選ばず、あえて非標準的な「風習」という連結語を選ぶことの含意を分析すると、
「プロパガンダ」に「風習」という語が含む土俗的、前近代的なイメージを付着させ、
かつそれを、発言者が揶揄の対象としている(おそらく)東アジアの一民族が古来から持つ習俗、
と考えていることが見て取れる。
言い換えるなら、特定の民族に対して「未開人」「土人」などと呼称するのと同型の差別的な認識を、
しっかり内面化し、かつ機会があれば表現するのをためらわないからこそ、
「風習」という語が(「手法」や「文化」を押しのけて)ここで選択されているわけである。
作品についての論評の一部(引用元の指摘は端的な論評と言える)ということで、
ギリギリ許容されうるのかもしれないが、婉曲的なヘイトスピーチである。
婉曲的、は外してもいいかもしれない。
「現代アートに求められる」もの(あまり一般的ではないようだけど)を列挙して、
これは個人の感想であって、自由に発言されるべきものだとは思う。
より辛辣にすべく「低俗な」と付け足すところに、悪意の奔出が感じられるのだが、
「発言者がウンザリすること」自体を「低俗(下品で程度が低い)」だと言っている、
とも解釈しうるので、「(作品が)低俗なことにウンザリ」と補うべきだったと思う。
悪意が先走りすぎて言語が崩れている箇所、と言える。
「胸の悪くなる」とまで言ったのは、こういうところである。
4)「育つのを期待していたんだがなぁ……」
言うまでもなく、展覧会の将来を勝手に先取りして否定して悲観してみせるのは、
現在行われている展覧会あるいは個別の表現の評としては、意味のあるものではない。
発言者としても「これは良くないな」と思ったからこそ、自己リプライで要望を書いて、
自分の望むようなものであれば応援したいのに、というポーズを見せているのだと思われる。
あと、ドクメンタや瀬戸内芸術祭にだって、発言者が不快に思うような
プロパガンダと解釈しうる展示がまったくないとは思えないけど(なにしろ大きいから)、
それはまた別の問題である。耳に入らなければOKなのかもしれないし。
ただし、勝手によその芸術祭の権威を借りてきて論難の武器に使うようなのは、
あまり責任感のある言動とは言えない。虎の威を借るなんとやらに見える。
名前を出すなら、せめて一つくらいはモデルケースを挙げて論じて欲しいところである。
ついでなので、上記ツイートに自己リプライで書き足されている部分についても、
悪意を感じる箇所を指摘しておく(埋め込みは省略)。
どのメディアを指していってるのか知らないけど。
6)「プロパガンダをアートに仕込む行為も全く否定しないけど正直
アートとしての魅力は俺には全く響かなかった」
アートとして失敗してると思うなら、プロパガンダとしても効力は薄いと予測できるわけで、
ひっそり敵失を喜んでいればいいんじゃないでしょうか。
そういうわけにもいかないのかな。
以上のようなわけで、拙ブコメの
「人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人」
というのは不当で過剰な個人攻撃だったかも、という視点から再検討してみたんだけど、
主に2)の理由によって、撤回するほどでもないな、という結論になりました。
もちろん露悪的な言い方であることは進んで認める。
元増田の言い分は分からなくもないが、高い給料を払って優秀な記者を雇い、きちんと裏をとった取材をしたうえで複数人のチェックを得て記事を作り上げるという既存マスコミの枠組みが、ネット社会の安易なスピード重視に負けてしまって良いのだろうか?
現状の新聞記事がそれほどレベル高いとは思っていないが、それなりの頭脳の持ち主に記事を書かせてきちんと裏をとり、誤りがないよう校正もする…という仕組みは従来の新聞社のやり方を踏襲しないと維持できないと思う。
今どき紙に刷って自転車やバイクで配達するのが前近代的だと言われればそれまでだけど、紙の新聞がなくなると印刷業界とか販売店、広告業界に与えるダメージも大きいと思う。
きちんと取材しているのか怪しいネット媒体に頼るのがどれだけ危ういことか。紙媒体に頼らず、新聞社はデータで配信して金を取るのがこれからの正しい姿かも知れないが、紙を全廃するのはいかがなものかと思う。
現行法制下の「結婚」というシステムをベースにした考えに拘泥して、逆に全体が見えなくなってるのでは?
「結婚は前近代的な制度」云々というが、そもそも「前近代/近代」の対立よりずっと以前から婚姻というものは汎世界的に存在しているわけで、「共同体によるあるパートナーシップの承認」が共同体の安定維持のための手段として適切であることは歴史的に証明されていると言っていい。だから、現行の社会で、あるタイプのパートナーシップが社会的に認知されているなら、共同体の安定維持のためそれを共同体として「公認」するのは何ら不自然なことではない。同性婚を「現行の結婚制度に載せること」と「同性によるパートナーシップを婚姻と呼ぶこと」とは別なことと考えてほしい。そして、前者の困難さは後者を否定する理由にはならない。ことの本質はそういうことだと思う。
その観点からすれば、そもそも増田の疑問や反論は範囲の狭い問題提起であることが分かる。
たとえば「重婚の否定」は、別に男女の権力性に基づくものでなく、単に「パートナーシップ制度」自体を不安定にするから問題であるとか。近親婚の否定は、むしろそれこそ大人と子供の権力性による制限や、また、家族制度という(もう一段階上の)社会基盤を不安定にするという問題を含んでいるから問題になりうる。そもそも、現代においても、私たちの暮らす社会は「完全な個人主義的世界」にはほど遠く、たとえば子供の育成一つとっても、家族という基盤無しに行うことは現実的に考えづらい(言い換えれば、それを実施するには大きな負担が各所にかかる)。増田が考えるほど私たちは「近代的」ではない。同性婚というものが過渡的で不完全なシステムでしかないことにはもちろん同意するが、だからといって一気にパートナーシップ制度を激しく「近代化」しても、それは私たちの実感とはほど遠いものにしかならないだろう。「婚姻」というシステムから一気に人々と解放するというのは残念ながら空理空論のレベルの話だと思う。
これは2019年の増田なんだけど、この時の話から全然先に進んでなくて驚きだな
古い家制度とは全く異なる貞操の義務を相互に負う新しい制度が必要な時期になったんだよ
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わかる。同性婚単独で問題を考えると、現行の結婚制度との整合性が全然取れない。
というのもそもそも結婚という制度自体、当人同士の事情を鑑みず他人が家族の形に口を出し縛る制度なんで、
縛りというのは下のこと
(1)異性同士がパートナーにならなければいけない(→これは今変わろうとしている)
(2)性交渉の相手と子供を育てるパートナーと相続の対象は同一にしなきゃいけない
(4)親兄弟、はたまたおじおばと甥姪もパートナーになってはいけない
同性婚でよく言われる「選択肢が増えるだけで誰も損をしない」という主張は、この(1)~(4)の縛りすべてに対してきちんと整合をとっているのか?
ここを放っておいて野放図に賛成しているのは、単に「声が大きい人間に便宜を図っているだけ」に見える
具体的には以下の2点が気になる
一番問題になるのは(3)。今重婚が否定されているのは、たとえ成人した当人同士が納得していても
男女の権力差がある以上どうしても男性優位になることが免れないからだ
だとして、男女の権力差がない同性婚の3人婚・4人婚を否定する根拠は?
選択肢が増えるだけで今結婚している人が困らないなら、同性婚は3人以上が行ってもよいのでは?
(4)の縛りも近親交配で血が濃くなることを防ぐためだと思うけど、そもそも子供を作れない同性婚で縛りを加える必要はないのでは?
これらの縛りを同性婚に加えるのなら、その理由は「マジョリティである異性婚の人間に悪影響を与えない範囲で権利を許可する」しか考えられない
(4)に反対し(1)に賛成する意見の根拠として「親族は既に相続の対象や緊急連絡先として取り扱えるが、同性カップルにはその手段がない」という批判がある
実は同性カップルも養子縁組ができるので法律上の問題点は現行制度上でも回避できるのだが、
もうちょっと手続きを楽にしたいという意図があるのかもしれない
そこで考慮すべきは(2)だ。
財産の相続や家計の管理を特定のパートナーと行いたいと考えるのなら、別にそこに性愛が伴っている必要はない
性愛が問題にならないのなら、そのパートナーは3人・4人でも問題ないし同性愛者以外でも同性をパートナーにして問題ないだろう
こう考えると、元増田のいうとおり法律的に家族と同等の権利を得るパートナー制度を整備して
同性愛者以外に様々な家族を作りたい人間に対応するほうが、よりリベラルな態度のように思える
[参考]
同性愛者でも異性の家族を迎え入れた例。こうした事情に汎用的に対応できる方がよい
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cdce24be4b01571365beb3b
恋愛と性指向の性が異なっている人の例。単なる同性婚の許可では対応できなさそう
http://nightyqueer.hatenablog.com/entry/2018/01/29/223807
冒頭にも書いていたとおり、これら諸問題は結婚という制度自体が個人主義と相性の悪い前近代的なものだから発生している
この制度に無理に新しい権利主張を対応させようとするから問題なのであって、
ただし
「なら古い結婚制度というものは解体しよう」という意見には反対する
最初のスタンスだった「他の人に影響はなく、新たな選択肢を加えるだけ」という前提に反するからだ
↓
法律いじらないって言うんなら「とりあえず目につくものだけ承認する」でもいいよ
身近の同性カップルを祝福してなさい
「現在の倫理で絶対に認められない」は同性婚も同じだったんで、いずれ行き着く
今でも遡上にあげようとしてる人達がいるけど、この人達を目の前にして「お前らは拒絶する」と言える?
https://snjpn.net/archives/105504
内縁関係で権利が保証できていると認識するなら今の同性カップルにも同じ地位を与えればよい
本来の趣旨と違う運用してるので法律を拡張してほしいという話なら
ちょっとはわかる
別に俺の増田以外にもこのブコメ使える。単に反発したいだけか?
少しは議論の中身に参加したら?
それなりに様々な国・地域で導入されてるね
http://emajapan.org/promssm/world
参考にできると思う
近親婚を役所レベルで禁止できるとか、現行制度にも利点はあるんやで
これがないと結婚式に証人を立てるとかしなきゃいけないけど日本にはそれが確立されてない
まあ性急に今の制度を廃止するのは俺は反対だ。新しい何かを作ろう
勉強になるって言ってくれてありがとう。増田書いた甲斐があったよ
どう感じるかは読者の自由だけど、迷走が嫌なら自分自身で迷走していない直球の議論を元増田と進められたい
結婚離婚くりかえしてる芸能人とか重婚してるようなもんだし慣れの問題だと思う
わかる(つらい)
汎用的なパートナーシップを望んでる人は案外多くて、宗教団体は法律にたよらなくてもそれを実現できるってのが実態に近いと思う
法律や条例の拘束力が強すぎる問題もあるかと思うので声明発表とかで様子を見る選択肢もある
誰か代弁者を探して
→各自治体で導入が進んでるパートナーシップ制度に対して法的拘束力をつけるよう要請するのが早道です
既に法制化が進んでるし俺も含め反対者が少ないんだからこっちを推し進めた方が絶対有利と思う
・一気に物事は解決しないのだから目の前に見える問題を少しずつ解決すべき
→わかる。
なので今の結婚制度に手をつけず新たな制度を設けるべきと主張してます
マジョリティに比べて完全な権利ではないことは理解するが、そこは「少しずつ進めよう」
・今LGBTが求めているのは制度ではなく承認などの情緒的問題
→俺がいつも取りこぼしがちになる領域。はてなは法律や制度の話しかしちゃいけない場じゃないんだけすっきり解決できる方法がないので勢い無視しちゃう。どうすればいいんだろうな?
・勉強になった、参考になった
ありがとう。今後の議論で「権利が増えるだけだから問題ないでしょ?」とフワッとした言い方を見かけたら
例えば今後日本が移民国家になって「本国から妻を2人呼びたいんだけど」なんて議論がわいてきたとき
おいやめろ
しかし実際、前近代的貧乏状態のままフェミが勝利した例てないんじゃない
>フェミは豊かになってから侵略するわけだから、フェミから見たら不可分
俺もこの認識に近い
>「男女平等思想」とか偽り続けられると思ってるんだ?もうバレてるよ、ただの女性特権運動だって。
これは矛盾しないんだよ。なぜなら、最終的には女尊男卑の実現が目標でも、その中間過程に男女平等があるという考え方ならね
フェミ連中が戦略的に過剰に男女平等是正を言ってる面はあるだろう
ナチスも必要以上にユダヤ人の力を誇張して危機感を煽って自陣営を正当化してたし
ただ、しつこいようですけど、今の非婚少子化の大部分をフェミだけのせいにするのは現実的に無理があって
まず自民党政権下での高度経済成長のもとで、左右の思想に関係なく高卒含む女子労働力が工場や商業地帯に広まって、
世の中が一定の豊かさが達成されて、左右の思想に関係なくみんな結婚相手をえり好みできるぐらいに贅沢の味を覚えたあと、おこぼれのようにフェミ思想が出てきたと言いたいだけ
「個人」という概念の無い前近代的な田舎の人間関係から大学への進学によってやっと抜け出してきたのに、こちらでもアイデンティティ・ポリティクス派に自分では変えることのできない属性に基づく連帯責任をしつこく求められてとても違和感がある。
自分では変えられない属性に基づいてねちねち連帯責任を問うてくるのって前近代的な(あるいは田舎の体育会系的な)メンタリティーの人間のやることだよね?
「連帯責任」みたいな概念がだいっきらいだから、私はリベラリズム的な政治活動にコミットしているわけであって。
アイデンティティ・ポリティクスの意義はそれとして認めます。特にマイノリティの権利の保護は大事だよ。
でも「リベラル」の看板を掲げてそれをするのはやめてくれ!!(ちゃんと「アイデンティティ・ポリティクス」の看板を掲げてやってくれ)
まとめ主は通りすがりの部外者だよ。とても情報がたくさんあって有益なんだけど、いかんせんちょっとわかりにくかったので整理してみたよ。
https://twitter.com/LazyWorkz/status/1101976141944877056
1. 現在ツイッターで出回っている、「子宮全摘の事件」が実際に起こったものであるかの検証
3. 「期待する効果が得られるならば、デマや都市伝説が手段となっても良い」への反論
1-1. 現在ツイッターで出回っている、「子宮全摘の事件(以下本件とする)」が実際に起こったものであるかの検証
1-2. 「本件」が偽だと推測された理由は、古典的な都市伝説のフォーマットやその拡散過程に類似しているため。また以前に「本件」と酷似した「偽情報拡散の事象」があった。
1-3. トイレにて子供が暴行される事件は実際に存在し、かつ報道も基本的に行われている。が暗数もおそらく存在する。
1-4. 「本件」については限りなく偽情報に近いと判断できるが、確定するためには警察などの公的機関に聞く必要がある。「誰も消防車を呼んでいないのである状態」だが、そもそも発生場所がわからず管轄する署が分からない。
2-2. ぶっちゃけこれがメインだから分量多すぎてまとめらんない。パワーワードとしての「子宮全摘」などについての議論がなされている。
3-1. 都市伝説への反対
3-2. 子育てをする若い母親への注意喚起が「都市伝説」で行われることへの反対
3-3. さらに一般化して「期待する効果が得られるならば、デマや都市伝説が手段となっても良い」への反対
4-1. 筆者の主張(をリライトしたもので読み取り間違いが確実にあるので、面々におかれてはオリジナルテキストにしっかりあたってくださいませ)
4-2. 「架空の犯罪を流布するのは、たとえ善意が動機でも、現実の犯罪被害者をおとしめる冒涜である」
4-3. 陰惨な架空犯罪の蔓延は、前近代的な犯罪抑止方法で、かつ弱者に負担を強いる方法
4-4. 犯罪の注意喚起の根拠は、事実または仮定の話を元とするべきであり、有名な創作実話を混ぜて信憑性を下げ信用を失うべきではない
4-5. 適切な対策は事実から。ひどい現実を、地道に、ひどい現実として提示していくべき
4-6. 「デマ許すまじ」
逆にいうと、そんだけ現代劇のバリエーション、ドラマ作劇の題材が豊富でありながら、それでもなおヤクザなんぞ題材にしてるような、端的に言えば前近代的な価値観の作品がこの世からなくならないのはなぜなのか? って話ですわ
あたかも「エンターテインメントフィクション=どいつもこいつも前近代的作劇」と言ってるかのような最初の書き方は悪かった、すまん
でも、スポーツ物や職業物や刑事物なんぞの現代劇エンターテインメントにおいても、多くの観客が見いだしてる娯楽性は、極端なるチームメイト間の団結やら組織への忠誠やら宿敵との確執やら時代劇じみた前近代的要素ではないかではないかという気がするなあ
貴殿が言うてるのはあれだろ、いわゆるトレンディドラマ(古っ!!)みたいなイマドキのフツーの若者が出てくる恋愛物とかそういうののことだろ
うん、オタでない「普通の人」はそういうの大好きだと思う
でも俺、そんなん一切興味ねえんだよwww
つまり、俺が書いてたような「エンターテインメントフィクション」てのは、暴力とかバトルとか身分の差とかがある世界観の話
かつては近代が進めば、エンタメは平和な「イマドキのフツーの若者が出てくる恋愛物」ばっかりになることが進歩だと思われてた
でも現実はそうなってないよな
世の中「現代に生きるアウトローでもない割と普通の人」が出てくるエンタメの方が遥かに多いから
前近代的な物よりリアリティを持てる現代物を好む人の方が普通に多いんじゃね?
一部前言撤回。
1980~90年代、東南アジアの子供に装甲騎兵ボトムズが人気だったという例があるからw
でもたぶん消費のされ方が違う、リアル貧困暴力的環境だったら、「あえて現代で前近代的ノリ」ではなく、俺らにとっての高校球児みたいな普通のヤツの延長的な憧れの対象に思われてるんじゃないか。
ありていな話、「わかりやすいエンターテインメントフィクション」は前近代的価値観でないと成立しにくい
たとえば、私的な問題に対する司法権力を無視した暴力による解決、私情による復讐での殺人、近代的な企業のビジネスライクな上下関係にはない濃密なロマン性を持った主従関係、所属集団が敵対しているゆえ結ばれない男女……等々
おかげで、それらを描いた作品を作ろうとすれば、時代劇とか異世界ファンタジーになるのが通例
現代劇でその手の要素を描こうとしたら、「現代に生きてる前近代=侠客アウトローの世界」ぐらいしかないのだ
現実の生活においてはとっくに、ヤクザや不良や暴走族を嫌う人間の方が多数であろう
高倉健の任侠物映画や深作欣二の実録ヤクザ映画が若者の基礎教養みたいなもんだった60~70年代に比べれば、ヤクザも不良もエンターテインメントの世界においても随分と隅っこに追いやられた方だと思う
しかしながら、フィクションの世界において現代においてなおヤクザが都合良く使われているのは、みんな心の奥底では「近代の自由・平等ってつまんない、前近代的な暴力性や主従の束縛などがあるほうが”ドラマとしては”面白い」と思ってることの証左
衣食足りて礼節を知るというけれど、あくまでエンターテインメントとしては、平和な時代になったからこそ、むしろみんな前近代的なものを楽しく思うのさ