はてなキーワード: 行使とは
警告
18:00 専務の計らいで五反田の「ナース・女医治療院」に緊急入院。粋なサービスを受ける。領収書の宛先を「株式会社はてな」にしてもらう。
(刑法159条1項)私文書偽造行使等の罪 行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。
に抵触します。さらに、無関係な第三者名義の領収書や公的機関名義の領収書の発行を発行者に強要し、それを何らかの目的で行使した場合、偽造罪に問われます。
また、所得税法37条、「必要経費」についても大きな疑義のあるケースで、税務案件です。
以上。
http://b.hatena.ne.jp/entry/373013740/comment/harisenbon_fukurahagi
“女性のいう清潔感って「毎日風呂入って、着替えて、歯磨きして、小奇麗にする」程度では絶対にクリアできない。
「髪型をおしゃれにして、ジャストサイズの服を着こなして、朗らかな表情」くらいでやっと達成できる奴”
ほんっと男女とも実際には人それぞれだとは思うんだけども、というか思うからこそちょっと長いけど書きます
(最初に書きますが「だから女の方が苦労してるんだよ」という結論ではないです
どちらからの押しつけもなくなればいいなという話です)
世の中の小綺麗に見えてる女性はおおむね上記のようなことを毎日やって、さらに
人間扱いされるくらいの圧力の中で自分の外側を保っているように感じています
もちろん様々な理由や主義でそうでない、できない人もいるけど、
そう括られてしまう人は初めから今の社会における「人間の女」にカウントされていない場合が多いように思います
(ルッキズムやナチュラルな性差別感に基づいて考えない人にはきちんと「人間」として認識されていると思いたい)
一般に「女性」と聞いて頭の中でどういう女性像をイメージするでしょうか、
大抵は上記のブコメをすべてクリアできているような小奇麗な女性を想像しないでしょうか
アウトラインが整っていて、太っても痩せすぎてもなくムダ毛とか加齢臭とか想像もしないような
でも現実には女性も生き物なので、脇にも腕にも足にも指にも鼻の下にも顎にもモミアゲの下にもムダ毛超生えるし
20代も後半になれば(人それぞれだけど)三日間くらいうっかり枕のタオル替え忘れると加齢臭してくるし食べれば太り夏には汗をかき
脂性肌なら朝髪洗っても夜にはもう後頭部からちょっと嫌な臭いしてるの自分でも感じてヒヤヒヤしたり
その逆ならフケが黒い服で目立っていないかとか気にすることが際限なくあります
でも社会に出てる10数時間はそれが世間にばれないように朝シャワー浴びて髪2度洗いして顔洗って歯磨いて
体も洗って匂わないように、なんならいい匂いくらいデフォルトでするようにでもわざとらしくならないように気を遣って
定期的に毛も剃ったり抜いたりそもそも毛なんて生えてませんみたいに装って
でもそこまでやってやっと「基本の状態」が整ってて、化粧とか服装のセンスとかがその上にさらに載ってく
ブコメには「達成」と書かれているけど、女性にとってはそこが最低限のスタートラインで、ゴールじゃない
ちょっと怠って表面が綻びようものなら「もう少しきれいにしたら?」とか「疲れてるねー生理不順?」とか
「女の子なのにいい匂いしないね」「もうちょっとニコニコしてなよ、女の子なのに感じ悪いよ」
とか男女問わずわりとカジュアルに飛ばしてくる人がいます ちょっと整えたら逆に「男できたの」とか
とにかく「変化しない一定以上の感じよさ」が一般的な女性にはなければならないという風に思ってる人がおり
決して悪びれている風でもないので「それが普通」くらいの中で生きてる人がたくさんいるのだと思います
(男女ともにたくさんいるんだけど、スタートラインの違いに男女の非対称さが今のところちょっとあって、
こういうこと幼稚園とか小学生とかの頃から言われ慣れてる女の子は「それが普通、それ以下は怠けてる」くらいの基準で生きてて
女以外にはなれないのでそれが別に普通ではない、ということに気付けない人もたくさんいるのではと思う
私も中学生の頃「一重でブスなのになんで化粧とかで直そうとしないの?直して当然じゃない?」
って同級生に散々言われてました 女の子はある一定以上整っていなければそもそも価値なし、
努力して当然、何らかの方法で自分の力で直してから土俵に出ろくらいの感じです
でもそれはその子たちがある日突然そう思ったわけもなく、ここまでやってきた社会がそれと教えてるからだと今は思う
そういう人が多発する「清潔感」のハードルもそのくらいになっていて、男性にも同性にするのと同じように
その人にとっての肥大した、でもあまりにもナチュラルな「普通」を押しつけているのかもしれない、
というような現状があるのはちょっとだけ知ってもらえたらいいなと思います(受け入れる必要はない)
それはここまでやってきた社会の在り方の中で「女は美しく」という圧力が働いてきた結果のものだと思うし、
裏を返せばそれは男らしくとか男のくせにみたいなキツく厳しい圧力も同時に存在してることの証左だと思います
オシャレも清潔感バリバリにするのも男女共に自由だしときどき楽しくもあるけど、
だから「今こういう現状がある」ということは少しだけそうなんだーと思ってもらって
「誰であれ人から見た目だけでジャッジされてそのままになる社会が変わるといいよね」ってなっていけるといいなと思う
この話のうえで「でも女なんだからムダ毛の話とかぶっちゃけるなよキモい」みたいに言ってもいいと思う人がもしいたら、
「清潔感」を押しつけてくる人とそれは問題の根っこが同じなのではないか、と感じます 社会として考える問題と思います
見た目問題で苦しんでる人はほんと男だけでも女だけでもないし、
今自分の見た目に拘ってる人でもできたら解放されたいって思ってる人いっぱいいるはず
私もできたらもう少し化粧とか見た目とか体型とか考えないでラクに生きていきたいので
お互いがお互いをジャッジすることが当然ではない、ってことが共有できたらなあって思う
こういう感じで対立が深まっていくのすごく嫌なので、書きました
【追記】
少し言葉足らずだったな、というところをちょっとだけ追記します
“なるほど、個人的には身なりを飾る事が楽しくて好きなので、同じくそれを楽しんでる人と付き合う事にします。”
とブコメにありましたが、私も装う事、化粧をすること自体は好きです(時々疲れてしまうけれど)
ただいつも自分が好きなように完全にはできないことや、不完全さを勝手に見出されて揶揄されること、
たまに力を抜くことを許されないこと、他人から正しい女の子はそうじゃないでしょ、などと言われること等を問題と感じています
装う事を楽しむことも、それを選ばないことも誰もが自由に行使するべきだと思うけれど、
その価値観を自分以外に押しつけることを問題に思っている、ということを書きたかったのですが
オシャレを楽しんでいる方は女性が装うことは世間の圧力からだけだというのか!と不快に思われたかもしれません
その点を非常に申し訳ないなと思いました もしそのように思わせてしまっていたらごめんなさい
コスメが好きな人も、服が好きな人も男女問わずどんどん主体的に楽しんでほしいと思います
前述したような社会的な圧力のある現状と、人間が主体的にファッションを楽しめる状態とは両立していると思っていて
本文に書いたように私は一重で、自身の一重を化粧を覚えた今ではとても気に入っています
私は私で主体的に一重の自分の顔やそれに似合う恰好を楽しんでいるつもりですが、
未だに「一重ヤじゃない?プチ整形しないの?」とか「せめてアイプチしたら」と言ってくる人がいたり
「お母さんはもっと柔らかい服装が好きだけどなあ」「男はそういう恰好好きじゃないよ、モテないよ」と言われたりする
その状況やそれを言わせてしまう背景には強く反発したいと思っています(現実には結構難しいですが…)
そしてこういった抑圧は性別に関わらず装う事をやめたいと思っている人や
馬鹿らしい、苦しいと感じている人にも同様になされるべきでないと思っています
また長々と書いた部分を苦労自慢のように思わせてしまったことも申し訳ありません、
私は「小奇麗に見える事」にしがみつく状態にときどき疲れてしまって降りたいと思いつつ
それが恐ろしくてなかなかできない人よりだいぶ毛深い今のところ世間に負けているただの成人女性で
その私自身という個人と私の目から見た狭い観測範囲の話しかすることができませんが、
こういう現状もある、ということをどうしても書かなければならないと思って書きました
大佐「しかし、現代のデジタル社会では、日々のあらゆる情報が蓄積され、些細な情報がそのままの形で保存されている。永久に劣化する事はない。」
ローズ「誰が言ったかもわからない、ゴミのような噂、間違った解釈、他人の中傷・・・・・・。」
大佐「あらゆる情報が、ろ過されず、保存されて、後世に伝えられる。」
大佐「雷電、君は我々が行おうとしていることを単なる検閲だと思っていないか?」
ローズ「ええ、勿論。私達がしようとしているのはコンテンツの制御ではなく、コンテクストの生成」
大佐「世界のデジタル化は、人の弱さを助長し、それぞれだけに都合の良い『真実』の生成を加速している。社会に満ちる『真実』の山を見てみるがいい・・・・・・」
大佐「犯罪者の人権は被害者のプライバシーにより丁重に扱われ―」
ローズ「稀少動物保護の寄付金が集まる傍らで、貧困に苦しむ人達がいる・・・・・・。誰もがこう言われて育つわ。」
ローズ「だけど成功できる人間が一部だけなのは、初めから明らかよね・・・・・・。」
大佐「君達が「自由」を「行使」した、これが結果だ。争いをさけ、傷つかないようにお互いをかばいあうための詭弁―『政治的正しさ』や『価値相対化』というキレイゴトの名の下に、それぞれの『真実』がただ蓄積されていく。」
ローズ「衝突を恐れてそれぞれのコミュニティにひきこもり―ぬるま湯の中で適当に甘やかしあいながら、好みの『真実』を垂れ流す。」
大佐「かみ合わないのにぶつからない『真実』の数々。誰も否定されないが、故に誰も正しくない。」
ローズ「ここでは淘汰も起こらない。世界は『真実』で飽和する。」
MGS2より
いや、全員が全員そういうわけじゃないけど。
例のコウノドリもそうだけど、一部の人が露骨に特定世代の男性を悪者扱いしていたり、さらに接種に消極的な男性をひどく叩いている光景を見てしまうと、こいつら信用できんって思ってしまう。
別の世代あるいは異性が無料で打ってもらえたものを、1万円かけて自腹で打て、そうじゃなければお前は迷惑な加害者だ、っていう主張はあんまりにもあんまりだと思う。それはないよ。不公正で不正義だよ。
医学的には、風疹ワクチンの効果は高いのだろうと思う。先天性風疹症候群が悲惨なのもよくわかった。そんな悲しい病気がなくなるといいね、とは思う。別に私は反ワクチンというわけではなく、ワクチンは医学的に効果の高い感染症対策なのだろうとは納得している。
納得できないのはそこじゃなく、なんでその費用を特定世代の男性は自腹で持たなきゃならないのか、そしてなんでその費用を惜しんだりワクチンを打っていなかったりすることが攻撃される理由になるのか、という点。
1万円とか、普通に高いよ。あなたが1万円出せばアフリカの子供が飢餓から救われますと言われて、ポンと1万円出せるか? 私には無理だ。アフリカの子供のために出せないカネを、日本の子供のためならポンと出せるなんてわけがない。もちろん、1万円なんてはした金と思えるくらいの安定した収入を得られるなら喜んでアフリカや日本の子供を救うために喜捨するけど、残念ながらいまの私にとって1万円ははした金ではない。それを惜しむことが攻撃される理由になるのは本当に理不尽だ。
というかそもそも、そんなに対策の必要性と有用性と緊急性があるなら全額公費で持つのが筋だと思うのだが、なぜそこが放置され打っていない男性が批判されるのか皆目理解できない。接種費出してあげるから行って、と呼びかければ行く人はそれなりにいると思うのだが、広報とかにかけるカネの一部を支給用の実費にまわすという考えはないのだろうか。
(妊婦の配偶者とかは無料になる地域も多いみたいだけど、魔法使いには縁のない話だし。検査費用が来年度から無料になるらしいけど、接種が有料ならそもそも検査なんて行かねーよ……)
そして、それ以上に、あちこちで「加害者」という言葉が飛び交っているのが本当に無理。
風疹にかかって、それを妊婦さんにうつしてしまうと「加害者」と呼ばれることになるらしい。
私は病気がちな子供だった。風邪インフルエンザ水疱瘡あたりのメジャーなやつはどれもやったし、EBウイルス感染症で病院に担ぎ込まれたことも髄膜炎で死にかけたこともある。大人になってからは感染性胃腸炎に苦しめられたし、多分麻疹もどこかでやってる。同じ腹から生まれたきょうだいは風邪すら滅多に引かないのに。
私がかかりたくて感染症にかかっていた/かかっているわけじゃない。病気の方が私を放っておかないのだ。私は病気に対しては被害者でしかない。
なのに、なんで被害者であるはずの感染症罹患者が「加害者」呼ばわりされないといけないんだ?
意図的に感染症にかかった上でばらまいてやろうという悪意を持って行動した人間みたいなレアケースでもなければ、感染症にかかった人間は断じて被害者であり、加害者ではない。
痴漢冤罪にたとえよう。もちろん架空の被害をでっち上げて示談金むしり取ってやるぜみたいな悪辣な人間がいないとは言い切れないが、間違った人間を痴漢として告発してしまった人のほとんどは、本当に痴漢の被害に遭っていて、めぐり合わせとか運とかそういったものが悪かったせいで無実のリーマンの手を掴んでしまった人だろう。その人たちは私にとっては純然たる被害者であり、冤罪の加害者と呼ばれるのは不正義だと思う。その人たちはただの被害者なのに。痴漢に遭うことがなければ、間違った人を告発することもなかったのに。
私にとって感染症もそれと同じだ。多くの罹患者は被害者であり、悪いのは感染症だ。彼らは断じて加害者ではない。
たとえインフルエンザにかかっているのに出勤し職場にインフルエンザを撒き散らした人であっても、麻疹にかかっているのに飛行機に乗り日本各地に麻疹をばら撒いた人であっても、そして風疹に感染して妊婦に近寄ったことで胎児を先天性風疹症候群にしてしまった人であっても、その人たちは被害者であり、絶対に加害者ではない。
彼らを加害者呼ばわりする人間は、かつての私のような感染症に弱い人間を、ただ懸命に生きて日常生活を送ろうとしているからという理由で加害者と呼び断罪している。私にはそれは容認できない。そのような主張は、私のようなかつての虚弱児にとって敵でしかない。
遺憾ながら、風疹の予防接種を訴える人たちの中には、無視できない割合で私にとっての敵がいる。「加害者にならないために」と「啓蒙」する連中が大勢いる。そしてそういう言説がなんの違和感もなく受容されている。はっきり言ってそんな界隈、関わり合いになりたくもない。
私が風疹ワクチンを積極的に打とうとはしない理由の9割くらいは、面倒なのとカネがかかるからだ(それが解消されたら、まあ打ちに行ってもいい)。でも残りの1割は、ワクチン接種を呼びかける人たちが信用ならないからだ。私の敵に唯々諾々と従いたくなんてないからだ。私の敵が大勢混じっている運動の呼びかけに、なんで私が協力しなければならないのか。感染症被害者を加害者と呼ぶ倒錯した連中の言うことなんて、意地でも聞いてやるものか。こんな気持ちが1割くらい存在する。
別に、そういう連中を自浄しろとかそういう発言をやめろと言うつもりはない。表現の自由というものがあり、いかに気にくわない言論であろうとも止めさせる権利は私にはない。ただ私は私でワクチンを接種するか否かを決める権利と自由があり、私は何と言われようとそれを行使するというだけ。だからどうぞ私のことは気にせずワクチンを打ってください。私はあなたの選択を止めたり誹謗したりなんてしないから。
「予防せずに不特定多数の人間と性交して性病に感染した。パートナーにも感染させた。感染させる意図はなかったので責任はない」みたいな。被害者と加害者は排反ではなく両立する。カルトやマルチ商法がいい例。
特に感染対策をせず街中を歩くことは不特定多数とのセックスに相当する行為なんだ……
もう無理。感染症に対して意識高い人たちのナチュラル抑圧者っぷりが本当に無理。無料になっても義務化されて罰金が徴収されるようにならない限り風疹ワクチンは打ちません。抑圧者に加担なんてしたくないので。どうもありがとうございました。こう思えるようになったのも皆さんのおかげです。啓蒙活動の成果を誇っていいですよ。
受け入れがたいとか抵抗があるとかではなく、問題のレイヤーが違うと思う。
そもそも人間は感情がある生き物で、感情論を法に持ち込むなという話ならわかる。
タイトルはマイルドにしてあるけど、中身みれば序盤の論調で権威と紐付けたあと畳み掛けるように共感や同情=悪という印象を植え付けてきてるように見える。
という図式は成り立たないというのに、まるで二律背反関係であるかのように煽ってる。
この世から憎悪を取りのぞくために誰もに権利を=共感は危険です。はぁ?
そもそも大前提不完全な人間を不完全な人間が裁くために生まれたのが法なわけで、その2つは対立関係であるわけがない。
たしかに司法レベルの話になると民意や世論や被害者感情にバイアスがかかったり情状酌量なんて言葉があったりするくらいだから未熟さは感じるけど…だからこそブラッシュアップは必要。それは何においてもそうで、権利に関することばかりではない普遍的な課題でしかない
繰り返しになるが、法において同情や共感や感情論は不要という話ならわかるよ。
でもこの世においてまるで共感や同情は悪であると言わんばかりの思想には寒気がするよ。
はてなでポジティブな意見が多いのは、共感能力に乏しい人間がここには多いから、ああいう記事から許されている感覚と癒しを得て喜んでるだけでしょ。
とにかく、
世に渦巻く憎悪を解消するために
松本人志、愛媛ご当地アイドル自殺に持論 「死んだらかばう風潮が嫌」 - ライブドアニュース
この記事に対して、群がって叩いているブックマーカーが理解できないし不愉快でたまらない。松本の言う「死んだら負け」「自殺したら庇う風潮が嫌」も、どちらも間違っていないどころか、完全に他正しい。
WHOのガイドラインを引き合いに出すまでもなく、自殺する事で世間が自分の境遇に同情してくれて、自殺の一因になったであろう事象を見つけて原因となった誰かを叩いて、社会的に殺そうとしてくれるんだから、これはもう自殺ほう助みたいなもんだろう。死ぬまで見向きもしなかった社会が一斉に自分に反応してくれる未来が予想できるのは、死を選ぶ理由になる。
しかし、死んだ本人も遺族も、それで救われる事はない。もっとも、恨みを晴らせたことで、人によっては遺族はすっきりするかもしれんが、俺ならばすっきりなんてするはずがない。「なんで死ぬ前に、言ってくれなかった。助けてくれと一言言ってくれたら、なんでもしたんだ。」と、SOSを聞けなかった事を後悔するだけだろう、だから「死んだら負け」と伝え続けるのは正しい。死ぬ前に、家族でも友達でも恋人でも、親しい誰かに頼って欲しいと思う。死んだって誰も庇ってはくれないと言う方が、死へ向かう人の背中を押さずに済む。
だいたいからして、「死ぬほどつらいから、そこから逃げるのは個人の権利だ」ってのが、メンヘラブックマーカーの持論だったでしょ?自殺者は自分の命を自分で捨てる自由を行使したにすぎないんでしょ?
「立派に死んだね」
「頑張ったね、勇気を振り絞って楽になっておめでとう。」
これがお前らに許された言葉なんじゃないの?
分かってないのは松本人志。死にたくて自殺しているんじゃないんだぞ。苦しくて苦しくて苦しさが幾重にかさなって目の前が真っ暗になった時、光が指した向こうに自死という結果があるんだぞ。
自分の命を自分で捨てる選択肢を認めるどころか推奨すらしてる奴らが、「死にたくて自殺したんじゃない」と正論しか言ってない松本人志に群がって叩いているのは奇怪だ。自殺する前に誰かに頼る事が出来ない程弱っている事を認めて、生きて戦う様な辛さを味わう位なら死んだっていいじゃないかと言ってた連中が、自分も殺す側に加担してきた自覚もない事が不思議でしょうがない。「死んだら負け」だと声を上げ続けてる松本人志は、その点、誰かを救えるなら救いたいと考えてる側だ。
松本人志が言うように、死ぬ理由が一つではない事も概ねそうだろう。仕事や学校での辛い境遇は主因ではあるけど、そこから逃げて来いよ、という声を届ける事しか我々には出来ない。社会に声を届けられる著名人が、ブックマーカーのお気持ちに寄り添って、事務所が、会社が、学校が殺したと言うだけでは、自殺を後押しするばかりで意味がない。我々社会は、「何があっても死んだら負け」「生きてるだけで丸儲け」と伝え続けるべきで、何かあれば、周りの人間を頼って欲しいとか、家族や友人が当てにならない人の為に信頼できる公的機関か団体を紹介するとか、生きてく選択肢を提示すべきだ。死に逃げてしまった人を助ける事はもうできない。生きている間に助けられなかった社会と、生きようとしなかった自殺者に警鐘を鳴らしている松本人志は正しい。自殺も選択肢なんて言って自殺を応援する連中はクソだし、そこから逃げろ死んだら負け、って言葉をマッチョの言葉だとか言いつつ、事務所を叩きたいだけの自分の気持ちに寄り添わない松本人志を叩いて喜んでいる連中は更にクソだ。
ほい
人種差別撤廃条約より
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
んで次同4条
(a) 人種的優劣又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わず、すべての暴力行為又はその行為の扇動、及び人種主義に基づく活動に対する資金援助の提供も『法律で処罰すべき犯罪』であることを宣言すること」
ダメですね
細かいところはさておき、、
国際機関は、ヤクザの組のトップの会合と考えるとわかりやすい。
それぞれの国が、山口組・住吉会・稲川会 ... みたいなもので、そのトップが集っている。
この場合、過去の会合で取り決めがあったのだが、一つの組がそれを反故にしている状況だ。
取り決めがあったのだから制裁をする、という選択肢もあるが、制裁を実行すればそれなりのイザコザが発生する(各々暴力を行使する力がある)。
反撃されたり、禍根を残す可能性があるために、今のようなビミョーな選択(人権ベースの批判など)になっているんだろう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181004-00099263/
上記URLは社会学者千田有紀氏の書いた『「表現の自由」はどのように守られるべきなのか? 再びキズナアイ騒動に寄せて』という文章。
この日記では千田氏の文章に沿いながら反論をしていきたい。なお千田氏の文章は内容にまとまりがなく錯綜しているため、項目ごとに小さく反論していくことになる。
千田氏の文章の全体像を掴みたいなら元の文章にあたってほしい。
(そもそも千田氏の文章は根拠の提示もなくお気持ち表明でしかない。誠実に問題点を指摘していたなら、千田氏は炎上せずにいただろうに。)
反論をすることができる表現の自由万歳。あとめっちゃ長いけどゴメン。でも千田氏の文章激ヤバだからできれば最後までお付き合い願いたい……。
4.「表現の自由」とはなにか?
千田氏は、キズナアイ自体には特に好悪の感情があるというわけではないらしい。
そして千田氏は「このようなキズナアイを好きな人もいるだろう。思う存分、ひとりでキズナアイを愛でて欲しい」と述べている。(棘のある書き方だ。)
それならば勝手に、『思う存分、ひとりで』キズナアイを尊敬させてもらおうと思う。
自分の場合は「愛でる」ではなく「尊敬」という態度を抱いている(『キズナアイ』の運営理念は「世界中の人と繋がること」だ。
そんなことを言ってしまえること、そしてそういう活動を実際にしていることが凄いと思っている)。
千田氏が想定しているような「愛でる」以外にも態度があっていいはずであり、態度は人それぞれ自由でいいはずだ。思想信条の自由万歳。
千田はこの章において以下の六点を挙げて、NHKのサイトでキズナアイを置いたことを批判し次回サイトを作る時には配慮をするようにと求めている。
2)教育的な教材で
5)女性が性的に描かれていて(ここの評価は分かれるようだが、やはり胸が強調されているのは否めないと思う。
思わないとしたら、脳内の女性の表象の「スタンダード」が違うのだと思う)
以下一点ごと見ていく。
千田氏が何を以て「こどもを対象にした」としているのかがそもそも不明瞭だ。
実際の対象は「キズナアイに興味がある人・こういった絵柄のキャラクターに興味のある人を対象にした」なのではないか。
キズナアイの主なフォロー層は子どもではないと思われる。キズナアイ自体の話ではないが、キズナアイを筆頭に括られるVirtual youtuberは、2,30代が視聴のメイン層とされている。それを起用したのだから、その層に読まれることを狙った特集であると考えるのが自然ではないか。
(ノーベル賞特に興味なかったけどこのおかげで記事全部読みましたよ。私にはキズナアイに乗って記事が届いた。)
そもそもこれはネット記事でありテレビ放映ではない。子供も企画の対象には入るかもしれないが、子供向けとはっきり言い切るには無理がある。
そして何よりキズナアイが載っているのはNHKNEWSWEBだが、NHKNEWSWEB”EASY”という小中学生その他向けの読みやすい記事が別に用意されている。
(そこにキズナアイの特集はないが。)記事の内容を比べればキズナアイ特集の難しさ、「こども向け」でなさが分かる。
2)教育的な教材で
前述したが千田はこの記事を大人が読むことは想定していないようだ。そのために「教育的な教材」などという言葉が出てくるのだろう。
「キズナアイのノーベル賞まるわかり授業」と特集サイトにはあるが、授業と書いてあれば子供向け、という考えなのだろうか。
大人も授業を受けていいはずであり、「解説記事」という方が適切だろう。
またこの記事が「教育的な教材」だったとして、教育は様々な層へ届いた方が良いし、そのためのアプローチが多いに越したことはない。
こういったキャラクターを好む層へのアプローチとしては「萌えで分かる○○」シリーズなどもある。キズナアイの起用は、キズナアイが届く層へのものだろう。
また千田氏はもしかしたらNHK(公共機関)=教育的な教材=子供向けとしたいのかもしれないが、NHKは子どもだけに向けた機関ではない。
また(1・(2のみから考えれば、子ども向けではなく「教育的な教材」でない場合にはキズナアイの起用は問題ないことになるのではないか。
NHKが作った教育的教材でないものは多いはず。(のど自慢とか?)それにキズナアイが起用されたならば、その時は千田氏は認めるのだろうか。
性的な相槌打ちでも批判しないのか。千田氏の主張は不明瞭であり、文中に明確な判断材料は示されていない。
この箇所自体はステレオタイプの存在の話で、キズナアイは無関係だ。千田氏の実感を根拠としておく。
(もしかしたらキズナアイがそのステレオタイプを助長させるのだと危惧しているのかもしれない。だがやはり具体的な指摘は見当たらない。
言わずに匂わせるだけにとどめる表現の自由の行使か。もしそうなら、そんな不誠実なことをするから炎上するのだ、と言いたいが。違うことを祈る。)
現実に進む人は少ない。さらに先日医学部の大きな不正も発覚した。不平等は現実にある。
5)女性が性的に描かれていて(ここの評価は分かれるようだが、やはり胸が強調されているのは否めないと思う。
思わないとしたら、脳内の女性の表象の「スタンダード」が違うのだと思う)
キズナアイが性的には描かれていないなら、ここでの問題はないということになる。その場合は千田氏のスタンダードは「違う」ということになるが。
ここで千田氏は評価が分かれるとしながらも、強調された胸という身体的特徴を持つキズナアイを性的なものだと見なして批判している。
このことから導かれるのは、性的に見られうる要素を持ったものは排除しようとする考えだ。
公序良俗に反しない範囲をキズナアイが逸脱していて、それにより不適切になるのだとすれば、キズナアイ以上に性的に見られうる身体的特徴を持った人は、それが現実の人間であっても、キズナアイよりも不適切ということになるのではないか。
特集を見ればわかるがキズナアイは自身の持っている身体的特徴に関しては何も強調していない。
その属性を持っているだけで「理系」から排除されるのであれば、どちらが「理系へ進む女性」への妨害になるのか。
(美形な、胸の大きな、などの特徴を持った研究者がいたとして、特集する側がそれを強調するようであるなら問題ではあるが。それは特集する側の問題だ。)
このことのみによって今回の企画を批判することはできる。しかしこの時千田氏が批判するべきなのはキズナアイが起用されたことではなく、この解説の内容、台本だろう。
『このキズナアイの代わりに、せめて白衣の女性が立ち、きちんと受け答えをしてくれていたら、女子学生はどれだけ励まされただろうか。
今後はぜひ、研究や教育にかかわる分野では、配慮をお願いしたい。』
上記の文は千田氏の『ノーベル賞のNHK解説に「キズナアイ」は適役なのか? ネットで炎上中』という文章にあったものだ。
ここではキズナアイへの批判と企画自体への反感が同一のものとして語られている。(そして今も主張に変化はないだろう。)
キズナアイであるか白衣の女性であるかが重要な違いなのか。(性的かフォーマルかということか。)きちんとした受け答えが重要なのか。
またこの主張は、相槌のみをする補助的な役割を行う女性を全て排除することになる。
千田氏にはぜひ、他のこうした不平等に対して、理系分野だけでも、今回のキズナアイ騒動のように頑張っていただきたい。
(この行動によって女性の不平等が変わるのなら。割と本気で賛同はしたい。ただそれによって相槌のみをするような女性の排除になるなら話は別だろうが。
そしてなにより大事なことに、おそらく千田氏はそのことを考慮していないだろうが。)
以上が千田氏が挙げた六点になる。
だがここで千田氏は、上記六点はただ挙げただけで、詳しい言及をすることなく次の話題に移ってしまう。
(正気か? 1)~6)が全て揃っているときに問題なのか、それぞれの観点で問題なのか、何もわからない。
それぞれの点に関しても一言で済ませられるものではないにも関わらず説明を添えることもない。不誠実。)
意をくんで(おそらくこういうことが言いたいのだろうが)、公共性の高いNHKで、女性の姿をしたものが、女性の役割を貶めるような振る舞いをしたことが問題であると言いたいのだとしてみたとして。(そしてそれが特に女性に厳しい理系分野で。)
そうした場合の千田氏の考えを想像するに、「公共の場で取り上げられてしまったことで、このキズナアイのような愚かな振る舞いを、現実の場でも女性に強要するような、そうした態度が人々の間に浸透するのだ」というところだろうか。具体的記述がないため想像するしかない。
次の話題で千田氏は、寄せられた質問(以前の文章への反応だろうか)への返答をし、そののち自身の体験を語る。
千田氏の体験はハラスメントにより自身の理系への道が閉ざされたというものだ。そのような状態は是正されなければならないが、その責任をキズナアイに求めるのはお門違いだ。
キズナアイは人々に向かって理系へ進むなとは言わない。そんなことよりもぜひ教育現場の意識改革に関して研究をしていただきたい。理系へ進める女の子が増えるのではないか?
(それかキズナアイ特集がくだらなすぎて理系進むの止める、みたいな女性がいると? そうなら他人を舐めすぎでは?)
以下は寄せられた質問とそれへの返答だ。
「女性を励ますことも大事かもしれませんが、子どもに科学に興味を持ってもらうことの方がもっと大切じゃありませんか?」
氏の返答
「科学に興味をもつ子ども」から、女の子が排除されていることが問題なのである。
ぜひ、「子ども」の半分を構成する女の子に興味をもってもらいたいがゆえの、お願いである。「子ども」は男の子だけではない
キズナアイが起用されることによって、科学に興味を持つ人から女性が排除されるのだろうか。端的に間違いだろう。(それか説明不足。)
キズナアイが起用されることで「記事」から排除されるのは、キズナアイに悪感情を持つ人であるはずだ。
科学に興味はあったがキズナアイは嫌だ、という人はキズナアイのノーベル賞の記事は読めなくなるだろう。だがそれは男でも同じだ。
女性だけがピンポイントで、さらに「科学から」排除されることが納得できる説明は、上記の文章の中にはどこにもない。
(だから書いて欲しいのだが、そういうことが書かれていないから炎上する。)
なお、千田氏が前回の文章でも挙げていたキズナアイと理系女性の話はもう出てこない。ここで、本当に言いっぱなしで終了する。
性的なのが問題ではなく厳しいゾーニングがあればいいと千田氏は言う。
(キズナアイ特集がゾーニングできていなかったか判断できるのか?どれだけ子供の目に触れたのか?ネットの記事が?キズナアイの性的さはどれだけのゾーニングが必要なのか?)
これに関してはデータがないので自分は何も言うことができない。(向こうもデータは無いんだろうけど。)
本題に戻る。千田氏はここでキズナアイ騒動に寄せて新たな主張、表現に関する主張を繰り出す。千田氏の主張は以下の通りだ。
人の行うすべての表現はさまざまな意味を持ちうる。そしてその表現は既存の社会規範、構造を再生産するという意味で問題になることがある。
キズナアイは「女性らしい」、現在の社会で求められる「魅力」的な体つきをしていて、女性に求められる美の規範をなぞっている。
そして現在の社会では女性の体は性的な対象として扱われており、よって表現があるだけで女性と性の結びつきが社会で再生産されていく。
このことをキズナアイに当てはめて具体的に書けば、
つまりは現在の社会では、キズナアイはどうしても性的に見られるから公共の場に出てくるときは注意しなければならない、ということになる。
(ちなみに男性の性的さは社会での文脈違うから同じには語れない、とのこと。)
もっとはっきり書けば、規制しろ、自主規制をしろ、出てくるな、ということなのだろうか。
(……本当に他にやれることはないのか? これが最善手と? フェミニズムの蓄積ってこんなにも何も無い虚無なのか?)
4もこの続きみたいなのものなので一旦先に進む。
4.「表現の自由」とはなにか?
ここでの千田氏の主張を挙げる。
「表現の自由」は重要だと思っている。国家による検閲や介入は出来るだけない方が望ましいとも考えている。
そのためには国家に介入されないように市民がオープンに表現について語ることが必要。
だからこの表現は何を生み出すのか、誰かを傷つけないか。傷つく人は何が嫌なのか。
こういう議題は議論としてどんどんやっていくべき。
あと。表現は、他者への配慮で壊れるようなやわな物じゃないよね。だからもっともっと配慮をして、配慮の効いたものを作っていこうね、それはきっと素晴らしいものだから。
以上が千田氏の主張。……最後の一行、めっちゃヤバいこと言っってんじゃん。マジか。
(そして配慮に配慮を重ねた結果、その表現は、元のものとは姿かたちもかけ離れたものになっているのですね。わかります。)
……結論。千田有紀氏は、バリバリの表現規制論者。積極的に反論していかないと、今回みたいに延々と考え無しな表現規制論を振りかざし続ける。
あっきゅー。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181004-00099263/
この記事の「表現の自由」に対する考え方に、私は同意するところが多い。
だが一方で、表現を理想的に捉えすぎているきらいがあるとも思う。表現の現場でその「配慮」が、数多のアイデアを殺している現実を、私は見てきた。
記事でも指摘のあるとおり、重要なのはゾーニングだ。誰に向けた表現なのかというゾーニングが適切であれば、表現やアイデアを殺す行き過ぎた配慮の必要性は低くなるはずだ。
キズナアイの件は、時代の先頭を走る彼女によって、そのゾーニングがずれた結果起きた不幸な事故だろう。彼女には何の罪もないと私は考える。
ではどのようなゾーニングが適切かという議論はとても難しい。少なくとも私には手に負える気がしない。
ただ、そのゾーニングが行き過ぎれば「見たいものしか見ない社会」を助長し、本件でも見られたような意見の異なる他者に対する不寛容をより一層深刻にするだろうと予想はできる。
昨今、ハラスメントの問題が世間を騒がせている。ハラスメントは「嫌がらせ」という意味だが「同意のない強要」と解釈すると分かりやすい。
セクハラは「性的な同意のない強要」で、パワハラは「権力を行使した同意のない強要。あるいは権力により同意を強要すること」だ。
話は逸れるが、というか逸れまくったうえでの極論だが、もしもバーチャルな存在に魂が認められる社会であれば、見た目を貶めその存在を否定する今回の意見は、バーチャルな世界に生きる存在へのヘイトスピーチと言えるのかもしれない。
しかしそれはいつか未来の可能性の話であって、もちろん今はそのようなものは認められない。ただ個人の希望としては、私はそのような社会を夢見る。仮想的な魂のありようが、人権のようなもので守られたって良いと思う。
一方的な嫌悪感を表現し、相手の存在そのものを貶め否定するヘイトスピーチなど、社会通念上、認められない表現は当然ある。
しかし、社会通念上許される範囲の表現である場合、ある特定の倫理観をもって、ある表現が同意なく抹殺されることがあるのなら、それは「モラルハラスメント」と呼ばれるだろう。「特定の倫理観に基づいて、ある表現の禁止を同意なく強要する行為」である。
ただし、ここで注意しなければならないのは、ある意見の表明を先んじて「ハラスメント」であるとレッテルを貼り封殺することだ。
そのような言説は、ハラスメントであることを理由に、社会通念上認められる範囲の意見の表明を同意なく禁止する「ハラスメント・ハラスメント」とでも言えるだろう。書いていて自分でもやや混乱してきたが、少なくとも私はそういう不寛容な立場を支持しない。
Twitterの創業者のひとり、ビズ・ストーンはかつて「オープンな対話はきっと世界を良くする」と言った(※1)
ネット社会の一部の人たちはある時期まで、意見の異なる集団がお互いに寛容の精神を持ち、建設的な議論を交わせる未来を志向していたはずだ。
それは理想論に過ぎなかったのかもしれないが、理想は夢を諦める言い訳ではない。
私はかつてのWEB2.0信奉者だ。ネット空間の善意に抱いた「過激な信頼」を完全に捨て去ることは難しい。
このエントリーが、寛容さについて考えるきっかけになり、世界が少しでも住みよい場所になればと祈り、こういう場所に久しぶりの投稿をした。
※1 乙武さんとビズ・ストーンの対談記事だったと思うが、記事は見つからなかった。動画も残っていないようだ。ただ、ビズ・ストーンがそのような信念をもってTwitterの運営にあたっていたことは間違いないと思う。注記の付け方を忘れた