はてなキーワード: 立場とは
きれいな顔立ちをしていて、受け答えもしっかり。
ただとにかく体臭がきつい。
あの生っぽい臭いは、おそらく制汗スプレーなんかも使ってないんじゃないかと思う。
気温が上質するにつれ、臭いもきつくなってくる。
職場のおじさんから『女の子の臭いって指摘したらまずいよね?』と相談も受けた。
私が特別過敏なわけではなかった。
みんな気づいているのだ。
女性では私がいちばんの年配者ではあるものの、ひとり職種が違うため学生を指導するような立場にはない。
ただ指摘するとすればおじさんたちよりは私からのほうが、彼女のダメージも少ないのかもしれない。
でも言えないよ。
無理無理。
彼女の近くでは鼻の息を止めるようにすれば良いのだし。
ただこれから先、いつか彼女がそのことで傷つきやしないかと勝手な心配をしてしまう。
みんなこんなときどうしてるの?
子曰く、「智者の慮、必ず利害を雑う」と。増田よ、知者は常に利益と害を併せて考えるものである。職場の発達障害と思われるBBAがあなたにとって困りものかもしれないが、彼女の存在がもたらす利点もあるかもしれない。
孫子も「兵は詭道なり」と述べているように、物事には複雑な側面がある。BBAの自己中心的な行動や他責思考は一見害しかないように見えるが、その裏には彼女なりの努力や苦労が存在するかもしれない。
あなたが彼女の対応に疲弊していることはよく理解できる。しかし、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」ともあるように、相手を理解し、自分の立場を見極めることが重要だ。彼女の行動の背景や考え方を冷静に観察し、何か改善の方法を見つける努力を試みるのも一つの手である。
また、「不戦而屈人之兵、善之善者也」とあるように、戦わずして相手を屈するのが最善の策である。もし彼女が本当に職場の環境に適応できないのであれば、その問題を解決するために上司や人事部に相談し、適切な対応を取ってもらうのも一つの方法だ。
増田よ、あなたが平静を保ち、建設的な対応を試みれば、結果的に職場全体の環境が改善することになるかもしれない。孫子の戦略から学び、賢明な行動を取ることを願っている。
わはは、おぬしもなかなか手厳しいことを言うのう。
じゃが、世の中には色々な見方をする者がいるのじゃ。
虫を見るような感情を持つ者もいるかもしれぬが、他方には優しさや共感を持つ者もおるのじゃよ。
これねぇ、その友人が部下と結婚する前は、元増田がその友人に対して「金稼いでますマウント」「女も自分で稼ぐ時代マウント」をナチュラルにかましててそれを友人はうざがっていたんだよ。
で、稼いでる男と結婚して養ってもらえる立場になれたからこれ幸いと今度は友人が元増田に対して「金持ってる男と結婚できたマウント」を取るようになったんだよ。
で、そんな友人をうざったく思った元増田は「その男は私の部下マウント」「紹介してやったのは私マウント」を取るようになったわけだ。
で、友人は負けじと「男の金で生活できない女は負け組マウント」で元増田をやりこめようとしてるわけ。
で、元増田はそんな友人の考え方を「生活を他人の稼ぎに依存するのはヤバいでしょマウント」で反撃してるのが現在の戦況。
で、元増田は「私は部下の評価を悪くしたり、干していくのも可能な立場なんだよマウント」を隠し球として持っていることで精神的安定を保とうとしているわけだ。
で、元増田がこんな精神安定剤を欲するのは友人が後々「女は結婚、出産してなんぼマウント」「専業主婦だから子供に対するきめ細かいケアができるマウント」をかましてくるのが目に見えているから。ここが元増田のアキレス腱。
で、友人がそういうマウントかましてきたら満を持して「お前の夫の生殺与奪権を握っているのは私だよマウント」で切り返そうとしてるのよ。
で、友人の出方(「女の幸せは結婚、出産、子育てにあるのよマウント」「それができない女は負け組マウント」など)によっては実際に部下の評価を下げて給料もカットしてしまって「あらら、おたくの旦那さん大丈夫?マウント」「パートに出るしかないわねマウント」を発動しようとしてるわけ。
開示請求できるかできないか、が具体的に何を指してるかわからんが
開示請求ができるかも請求を受けて命令を出すかも裁判所の判断です
謎すぎるw
お前は要約どころか基礎理解すらできてないんだけど頭悪すぎだろw
法律わかりまちゅかー?
そんな程度の要約もできないって頭悪すぎだろw
えたひにんに対して、お前は基礎理解すらできてないクソバカ猿なのにイキっててキショいね
どこをどう読めばあれを「普通の人は弁護士に相談する」と理解できるんだ?
お前は基礎理解すらできてないバカ猿、しかも日本語が読めない、エタヒニンと言うがそもそもお前がバカ猿だぞ、と言ってる
盛大なブーメランで草
こんなに知性の足りないお前より終わってる人間いないので安心して
こんなんも理解できなかったら人として終わってるよ?
は?
裁判所から見て開示命令を出すか出さないかの判断は、依頼人目線では開示請求できるかできないかということだよな?立場が違うだけよね?何言ってんだコイツ
あと質問の内容は
なので
「普通の人は弁護士に相談するだろ」と反論など一度も私はしていない。
開示請求は内容問わずできるのか、とは言い換えれば内容判断以前に却下されないのかという話だと思われるが、訴訟である以上訴訟要件が揃わなければ却下される。
この人は相談や勝訴可能性に悩むことなく、とりあえず請求をかけてひたすら裁判所の判断を全て待つ形にできないか、と言ったようなことを相談したいのかと想像するが、
依頼人視点では、開示請求そのものが本願ではなく通常は後続訴訟があると思われるので、そこも含めての判断という見通しがなければ行き当たりばったりで訴訟の手間と費用を無駄にすることになりお勧めしない。
また訴訟要件や要件認定の判断はかなり専門性が伴うため、結局は弁護士に相談するのが最も特で近道であるように思う
誹謗中傷ですね
という裁判所の判断はあくまで紛争解決のための法的判断にすぎず、「誹謗中傷であるかないかというお墨付きを得るためのもの」というのとは若干の違いがあることは頭に入れておかなければならない
ハードルの高い本人訴訟を選択しない場合は弁護士に依頼する必要があるため、弁護士が誹謗中傷であると考えない場合は受任してもらえないから弁護士から誹謗中傷と認められる必要があるだろう。感覚的には100%間違いというわけではない。
蓮舫さんを支持していたが、その蓮舫さんが小池百合子さん、石丸伸二さんに惨敗したのは日本人が読み書きできないからとのこと。
もちろんその裏には、「蓮舫さんを支持した私たちはリテラシーがあるんだけどね」というのが透けて見える。
https://x.com/Elephant1372456/status/1817766816288321558
東京都知事選の結果の背後には、この25年ほどの間に起こった、日本人のリテラシー、つまり読み書き能力の、急激な凋落があったのではないかと思っている。たとえば、人々は政策を読めない、理解できない、ということを前提に、政策を説明せずに経験談を語って共感を呼ぶ。真剣な議論をしない。質問されると別の話題にそらす。あるいは冷笑して質問し返す。街頭演説は短く、発信の言葉も短く、数は多く、という手法を徹底するなど、「ともに学び考える」のではなく、できるたけ考えずに投票できるように導く。そういう候補者に票が集まった。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik24/2024-06-08/2024060801_04_0.html
「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」(代表・田中優子法政大学前総長)は6日、「東京都知事選への私たちの考え方」と題する声明を発表し、「私たちは今回の都知事選で蓮舫さんを支持します」と表明しました。
以下の経歴の通り上野千鶴子さんや山口二郎さん等とともにリベラル派の大物、中心人物なんだけどこんな差別的な思想の持ち主だったとはがっかりだ。
(御経歴)
「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」(他に上野千鶴子、東村アキコ等)
「戦争をさせない1000人委員会」(他に山口二郎、瀬戸内寂聴等)
他多数
「子ありの良さがわかんないから教えてくれ」って言うからさ、自分が子供を持って良かったなと感じることを正直に伝えるじゃん。
実際の所、金銭的だったり物理的、時間的な、いわゆる「メリット」ってぶっちゃけ無いと思うのよ。
自分の感じ方だったり価値観だったり、どうしても主観的な「幸せ」的なふんわりとした話になってしまうわけよ。
それ言うと、「幸せマウント!」「満たされてるマウント!」「子なしを下に見るな!」ってさあ…じゃあ聞くなよ。
下に見てるとか見下してるとかじゃなくて、本当にそういう感覚的、気持ち的な部分の話になっちゃうのよ。
別にそれを感じたことが無いからって、不幸だねかわいそうだねとか、言ってないし思ってもないよ…。
将来自分の選択を、正解だった間違いだった、して良かった後悔した、それぞれの立場で、自分の中で折り合い付けて生きていくしかないんだから。
岩下の新生姜に続いて、NON先生にもColabo支持者による嫌がらせの被害に遭っている
あまり表に出さないだけで、先の都知事選挙で暇を支持したクリエイターは同様の被害に遭っているのだろうと思うと暗澹たる気分になる
Colabo支持を表立って出来ない理由がこれだよ
支持者が攻撃的な割に、本体には攻撃する勇気も無いからなのか周囲を攻撃する反社ムーブをしちゃう所
そして支持者の大半がそういった行為を黙認・肯定しちゃう所だよ
Colabo含め弱者支援団体の活動を支持し、時にはカンパにも協力してた自分ですらさすがに支持者らのやってる嫌がらせは支持出来ないよ
Colabo含め弱者支援活動自体には社会的に大変意義があると今でも思っている
単に金儲けとか名声の為なら、あんな大変且つ神経をすり減らす活動は出来ないと思う
その一点においては素晴らしい理念を持った人達だと今でも信じている
でも、嫌がらせは真面目に駄目だよ
キャンセルカルチャーだなんて小洒落た横文字使ってイキってるけど、やってる事はただのクレーマー、カスハラだ
「お客さん」に強く反論出来ない、弱い立場の企業やクリエイターを狙って攻撃してるカスにしか見えない
問題になる前から、Colaboの代表や彼女の支持者がアニメや漫画の表現にクレームをつける行為は、敵を増やすだけで支持者を減らすだけなのにと内心思っていた
せっかく凄い意義のある活動をしているのに、「まーたフェミがアニメ燃やしてるよw」なんてからかわれ軽んじられる扱いがハッキリ言って許せなかったしもどかしかった
何でこんな、支持までは行かずとも反発まではしない層までも敵に回す様な態度を取り続けるんだろうって
一時的な気の迷いと思いたかったが、裁判等を通じた主張を見る限りは、Colabo及び支持者は所謂オタク表現に対し攻撃的意思を表明する事にある種の誇りや信念を持っているのだろう
自分で自分達へのヘイトを強くし、敵を増やし、自ら活動の意義を傷つけ、名声を汚している。本当に残念な事だ
それでも活動や理念には今でも意義や存在理由があるって信じているけど、表立ってColabo支持は表明出来ない
あの様なカスハラ行為や、非支持層への排他的・対立的・攻撃的姿勢までも支持しているなんて思われたく無いから
ここまで書いてふと思ったけど、騒動初期に暇にカンパしたけど今では後悔してアンチやってる人間の気分ってこんな感じなのかなって思った
逆の立場で考えろよ
「結構注目入りする」程度の奴をお気に入りに入れる意味あるのかよ
ましてやプライベートセルフブクマで底上げなんてしてる奴なんて
誰が見たいと思うんだよ
結局の所、Colabo擁護者なんて連中の大半は、被保護者の生活困難者という「弱者」の事なんてどうでも良く
「暇空は悪だー!弱い者(議員会館で会見出来たり御用記者やライターを使ってマスコミを良い様に扱える権力者)イジメをしているー!」
まともな神経してたら、弱者支援と銘打って公金使って活動してる団体が、被保護者を支援者の立場を悪用しオルグした挙げ句に滅茶苦茶思想強めの政治活動にぶち込むなんて
会計の問題がどうこうよりよっぽどヤベーだろってなると思うよ、真面目にそう思うわ
この一点だけでもあの団体には少なくとも公金事業に携わる資格は無いし関わるべきでは無いと思う
自費でやるなら…と思ったけどやっぱり立場の弱い生活困難者の弱みに付け込んで、ってのは普通に胸糞悪いし擁護してる連中含めて駄目でしょ
これを読んで思ったのは、
イエス・キリストを侮辱し、最後の晩餐を変態オカマドラッグクイーンショーに仕立て上げ世界中から猛批判大炎上のパリオリンピック開会式
強制力はないが、歴史とか文化みたいなソフトパワーも含めたものだと思うんだよね。
自由を追求したはてにそういうものまでぶっ壊してしまうは、かなりマズいんじゃないかと。
細胞が好き勝手した挙げ句にガン化して宿主を死に至らしめるというか。
いやー、我々は別にオリンピックの開会式や紅白とかで自分たちの主張を認められたいとか、
マジョリティになりたいとか、そういうのを目指しているんじゃないんですわ。
この文章には、職場における特定のADHDの同僚(Aさん)の振る舞いとその影響について記述されています。公平な立場からこの状況を論評するためには、以下のポイントを考慮することが重要です。
ADHDやASDを持つ個人は、特定の認知的および行動的な挑戦に直面することが多いです。このような状況では、職場が適切なサポートや調整を提供することが求められます。Aさんの行動やミスについて述べられていますが、これらはADHDやASDの特性に起因する可能性が高いです。職場がAさんのニーズに対応するための適切なトレーニングやサポートを提供していたかどうかも検討する必要があります。
Aさんが指導を受けた際のエピソードがいくつか述べられていますが、指導の方法がAさんに適していたかどうかも重要です。特に、指導が繰り返されても改善が見られなかった場合、指導方法を見直す必要があったのかもしれません。Aさんの理解力やコミュニケーションスタイルに合わせたアプローチが求められた可能性があります。
Aさんが職場で受けた対応が公平で適切であったかどうかも考えるべきです。文章にはAさんに対する不満や批判が多く述べられていますが、これがAさんに対する偏見や差別的な態度に基づいていないかを確認する必要があります。職場の文化がAさんに対してどうだったのか、Aさんの行動がどのように受け取られていたのかを考えることも重要です。
Aさんが特定の業務に適していなかった場合、役割の見直しや適性に応じた業務の割り当てが必要だったかもしれません。職場全体の効率を考えると、各メンバーの強みや弱みを理解し、適切な業務を割り当てることが重要です。
Aさんのような特性を持つ従業員が心理的にサポートされる環境を提供することも重要です。適切なメンタルヘルスサポートやカウンセリングの提供が、Aさんの職場でのパフォーマンスやコミュニケーションの改善に寄与するかもしれません。
このケースは、ADHDやASDを持つ従業員が職場でどのように対応されるべきかという重要な問題を提起しています。Aさんの行動やミスに対する批判だけでなく、職場がどのようにサポートや調整を提供できたのか、どのような指導やコミュニケーションが適切だったのかを考えることが重要です。包括的な視点から、職場の全体的な効率と個々の従業員のニーズをバランスよく調整することが求められます。
でも他の人が言うと、なるほどって引き下がる。
その人にお願いしてる仕事があるんだけど「忙しくてそんな暇ない。なんてこの仕事やる意味があるんだ」と言われて、都度組織として必要な動きだと概念説明をするんだけど首を傾げられる。
そんなにやりたくないなら他の人にやってほしいし、やってくれそうな人いるんだけど、いざそんな雰囲気になったら「なんでそうなるんだ」ってやってくる
どうしたらいいのこれ……ストレス発散機か私は
障害があるのはその人の個性のひとつとして捉えようなんて動きもある
もし自分が元増田と同じ立場だったらブチギレて怒鳴り散らして上司に怒られてワイのほうが首になる可能性のほうが高いわ
ワイは心が狭いからレジで老人がもたつくのも子供が車内で泣くのも優しく見守れない
泣くようなガキを連れて電車に乗るなや
こう思ってしまうワイもきっと何かしらの欠陥がある障害者なんだろうとは自覚してるわ
でもやっぱり正直迷惑なんだわ
障害があることを当たり前でそのまま扱ってくれってやっぱり無理なんだよ
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
これは学生時代、不登校引きこもりで病んでいた頃の話です。振り返ってみると、当時の私はどう見てもメンタルが異常でした。
毎日が不安で、何をしていても落ち着かず、生きた心地がしませんでした。
単純に言えば、「満たされていなかった」。
そんな中、私を救ってくれたのはいつも「好きなもの」でした。漫画、音楽、そして食べること。これらが私のメンタルを辛うじて支えてくれていました。
私は食べることが好きです。好き嫌いもほとんどないし、小さい頃からよく食べる方でした。つまり私にとって、食べるとは即効かつ確実に「自分を満たしてくれる」行為に他ならなかったのです。
食い尽くしてしまう人々の名誉のために言っておくと、計算はできていたと思います。例えば、2人に対して餃子が10個あれば1人5個。うちは5人家族だったので、この場合は1人2個です。
もちろん最初は自分の皿に餃子を2個移します。そして食べる。美味い。しかし大皿にはまだ数個の餃子。食卓と目が合って、まだ皿の上に在る食べ物を見てしまうと私はいつも、衝動を抑えることが出来なかった。私の中を這う感情は常に「お腹空いた」ではなく「足りない。満たされたい」でした。
そうなると、恐ろしいことに、私の脳内では「1個くらい食べてもバレないんじゃない?」や「まだ取ってない人がいるなら、お腹空いてないのかも」といった自己正当化が始まります。そして、何かに急かされるように大皿に手を伸ばしてしまうのです。
今思うと、これは完全に自己正当化と認知の歪みです。当時の私はメンタルがおかしかった、と思います。
話を戻しますが、私は餃子を3個以上食べたわけなので、当然バレて親に怒られました。「なんで食べちゃうの」と。そりゃそう。至極真っ当な意見。
でも、当時の私はその言葉では食い尽くし癖を止められなかった。
だってその時、私が本当に欲しかったのは親からの承認だったから---☆
学校に行かなくなって、周りの評価も変わって、当時の私はそれが結構怖かった。相対評価の中でしか価値を認められてなかったことに気付いて、結構ショックを受けていたのです。だから私は親に、どこで何をしているか以前にあるはずの「私の存在そのもの」を肯定し、承認してほしかった。
でも親は学校は行くべきもの、やるべきことだと思っていたし、私に「学校に行って欲しい」って言っていた。そしてその言葉が娘に対する愛情から由来するものだとは私も分かっていた。それでも学校には行けなかったので、悲しいすれ違いが発生してました。
何をしていても不安だった。「でもお前はやるべきことをやっていない」という視線は、あの日の私のメンタルを満たす箱の、底を抜いていた。
だから、満たされない心を他の何かで埋めるために、即物的で確実に欲を満たせるものへと手を伸ばす。それが私にとって「食べること」でした。
念のために言っておきますが、「だからお前の旦那はメンタルがおかしいんだ」と言いたいわけではないです。
そういうことを断じれる立場にはありません。
ゆえに、私はただ私の話をしているだけです。その点はご留意ください。
ただ、もしかしたら貴方のおうちも、食い尽くしのその原因は食卓以外にあるかもしれません。
餃子の数とか、食欲とかではなく、それ以外のところに。
以上、読んでくれてありがとうございます。何かの参考になれば嬉しいです。
ちなみに親とはぼちぼち仲良くやれてます。虐待とかじゃないし、被害者面したい訳でもないです!そこだけはまじで頼む(?
※10個は例えの数です。異常に足りてないご飯ではなく、普通にいつも5人分出てきてましたよ
追記?
1.分かりにくい文章でごめんなさい。書き直してみたのでよければ読んでみてください。精進します……。
2.私もそう思います。私の場合は、許されたいのは餃子をたくさん食べることではなくて、自分の存在そのものだったので、食べる数だけ許容されてもより満たし方が歪になってただけだと思います。まあ食い尽くししてる側が悪いんだけどさ……。