はてなキーワード: 上品とは
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
彼の看板番組『session-22』では毎回各分野の専門家を招いておもしろ生トークを行っている。
で、この「専門家」たちが曲者で、要するにオタクという生き物は何かと無神経だ。
彼らの無神経さが特に発揮されるのが、内輪ギャグを言おうとするとき。
専門家の内輪ギャグとは即ち業界ジョークであり、パンピーの視聴者には面白い面白くない以前に理解不能であることが多い。
しかし専門家はそのへんの機微がわからないので、ついついサービス精神から内輪ギャグを口走ってしまう。そして、往々にして内輪ギャグは「不謹慎」「無神経」になりがちだ。
それをチキさんは軽やかにスルーする。ノリが軽めのセッションの場合は受けに回ることも多いが、政治ネタなどの真面目なトーンのときはギャグをギャグと理解できないフリしてスルーする。『session-22』に出る人はたいがい頭のよろしい知識人様どもでありますから、「スルーされること」で次から気をつけるように鳴る。(時に相手が明らかに配慮の足りない発言をした場合はチキりんりん直々に注意が飛ぶこともある)
あまりに自然にスルーので聴いてるほうで「あ、これはスルーしたな」と察知するまで少しラグが生じ、気づいたころにはもう次の話題に移っているので気にしてる暇がない。頭の回転と口のまわりの早いチキりん一流のトーク術がさりげなく発揮されているのである。
ところで、ここで確認しておきたいのだが、内輪ギャグそのものが政治的に正しくない発言を生むわけではない。「内輪ギャグを言ってもいい雰囲気」、狭いサークル内で誰かによっかかれる雰囲気というのが政治的に正しくない発言を生むのだ。
おやじ社員のセクハラはその時代の雰囲気、その社内の雰囲気がセクハラを許容する(と本人がみなしている)から発生してしまうのだ。
その雰囲気を確認する手段が寄っかかりである。内輪ギャグを対面の相手に振ることで「内輪」の流れを作り出し、政治的に正しくない土壌を耕すのである。人によってはこれを「マウンティング」と呼称するかもしれない。
チキりんりんさん氏はこの流れをせき止める。峻拒する。飲み会でやれば親父を「なんだこの空気の読めない若造は」と鼻白ませる行為であるが、『session-22』はチキチキマシーンりんりんさん氏の番組であり、場の空気とは彼のことだ。彼が気に入らないと言えば、それは通らない。
彼が徹底的につまらない内輪ギャグをスルー、あるいは叱責することで『session-22』はリベラル番組として、政治的な正しさを担保している。しかも決して攻撃的ではない形で、上品な形で、である。右といえば極右、左と言えば極左にドリフトをキメてしまいがちな生まれついての走り屋人種日本人にあって、このバランス感覚は稀有といってもいい。(ただしイケボにかぎる)
ポリティカル・コレクト的に正しいトークがなんたるかを知りたい人はTBSラジオ『session-22』を聴こう!
騒動に一区切りついたので、一般国民側からも少し話をしようと思う。
パクリでは無いと考えている。
当然である。デザインを購入した後、世間から問い合わせを受けるのはクライアント。もし、サントリーの一件で佐野氏の名前が出ていなかったら、どうなっていたか。
自社の名前で出している以上"管理が杜撰・意識がなってない・人のものを盗んでも平気な会社"そう言われるのはクライアント。盗用騒動があって尚、業界全体に擁護や被害者意識がある以上、こちらが自衛するのは当然の行為。
また、説明を求めるのも当然。発表後はあなたの代わりに説明をしなければならない。その行為を「文句・いちゃもん」だととらえ、「黙らせる」ためにはどうしたらいいのかなど、まるで敵であるかのように表現されているのを見ると、非常に残念。
・論文で嘘が発覚
等、業界の信頼を著しく落とすような問題が発生した場合、同業者はそれを非難、または自分のところは違うとはっきりと主張する。
ところが今回はどうだろう。
・業界ではよくあること
・そんなこと言っていたら、商売にならない
・内々の資料が表に出ちゃってかわいそう
圧倒的に擁護の声が多い。理解に苦しむ。一体何を守ってるのだろうか。
モノを作っているのは自分たちだけだと考えている方が多いようだ。なんという傲慢!あなたの身の回りにあるモノやサービスは自動で生まれてくると思っているのか。
我々の世界では、プレゼン用はもちろん、部署内で数人しか目にしないモノでも、お金を払って正規のルートで入手した素材・原料を使って試作を作る。他社商品を参考にする際も、お金を払って購入する。人のモノを盗んで作ったりはしない。人のモノを盗んで商売に使うのは、それ素材を作った人に対する侮辱、そして犯罪。
社内の試食会で、コックが畑から盗んできた野菜を使って料理をしていたら、あなたはどう思うだろうか。
世の中には有料無料を問わず、使っても問題ない画像が多数存在してるが、それを購入・探す手間すら惜しむ。そんな意識で「モノを作る大変さ」などと口にしないでほしい。複製が容易なデータだからと、甘えてるだけだ。「内部的なものは人から盗んでも可」という甘ったれた業界の常識は一般国民には通用しない。ここを改めない限り、悲劇は何度でも繰り返す。
そうは言っても…、ではなく、まずあなた自身が"盗用とわかっているものを使わない"、そう”指導する”ことから始めて欲しい。さもなければ、イザという時、あなたも同じ目にあってしまうだろう。
此度、使用中止という結果に終わった原因は、エンブレムの類似性よりも、作ったのが佐野氏だったからだと考えている。当初、私や周りの人間はエンブレムを支持していた。世界規模で探せば似ているモノがあって当然と。
だが、トートバッグあたりから雲行きが怪しくなり、それ以後、彼らが行動を起こす度、不信感が募り、空港の写真が決定打となった。
我々一般国民も日々苦労しながらモノ・サービスを作っており、誰かの下で働いている。
会見で後付のコンセプトを話し、内々だからと日常的に盗用を行い、それが公開される事故が起こったら、部下が何も言わなかった、業界では普通と弁解する人間。作品に罪はない。けれど、私は佐野研二郎という人間を支持することはできなかった。
使用予定だったエンブレムは優れている。インターネット上で作られたどの作品よりも、上品で堂々としている。しかし、人の権利を蔑ろにする人間に、オリンピックエンブレムのデザイナーでいてほしくはなかった。使用中止の速報を見た時、ホッとした。
出来上がったモノと作ったヒトとを混合して判断する行為は、モノを作る人間として恥ずべきものだ。騒動が収まり、冷静になった今、深く反省している。今後、同様の事件が起こった際、冷静に多くの問題を切り離し考えるよう改めたい。
ネット程度でしか他人の本気の本音を見たことがない人間にとっては下手な釣りよりよほど新鮮だ。
投稿されている内容はさほど小町と変わらなかったり、もっとピュアだったりするけど、解答するのがガチプロだ。
見るたびに目から鱗で、ネットではありつけない上品かつ的確なお答え!!
今日の相談が、「女の子が欲しかったのに今回妊娠したらまた男の子だった。友人に話しても「あらまた女の子、残念ね」などと言われる。否定できないし、残念な気持ち自体が悲しい」といった内容であった。
これ増田にいたらどう解答する?
たぶん「馬鹿め」「親としてどうかと」「妊娠の確率見解からいうとなんちゃらかんちゃら」とか、なんかそんな感じな気がする。
こちら。
「周囲の友人は余計なことしかいいませんね。所詮他人事だと思っているのでしょう、それは雑音。(ここ最高にクール)(略)子供は授かり物ではなく、預かりものと考えてみては?授かり物、というと自分達の物のように思い所有欲が出ますもの。子供の命を、子供本人から親は預かっているんではないでしょうか。(適当に略)赤ちゃん自身もパパやママ、兄弟と会えることを楽しみにしていると思いますよ。」
…ね!!どう?!!優しさとクールさと知性と経験と、あとなにより解決してあげようという気持ちがある。
だいたいネットでは悪い部分を叩くことや文章のなかの揚げ足を取ることに熱心で、全く困ってる人を解決させてあげる気がないもの。
はてなーに至っては、いかに面白く大喜利かますか、だけだもの。
でもそんなはてなーが大好きだけど。
ツイッターにおいて、望まれないリプライ・的外れなリプライは総じて「クソリプ」と呼ばれる。
ツイッターを含むネット界隈ではすでに人口に膾炙し、よく知られている言葉であるが
なにぶん「クソ」という上品とは言い難い単語が使われているため、ネット以外の場所では使うにはばかられる。
そこでこれを「リプライハラスメント」・「リプハラ」と改称してはどうだろうか。
たとえ内容が同じでも「クソリプについて研究をする」というより「リプハラ問題について研究する」とした方が
そうした研究の成果によっては、あなたがリプハラを受けなくなる日が来るかもしれない。
いまだ多くの人々にとって、マスコミは大きな情報源であり、信頼をされている。
リプハラというものがあり、それはこのようなものであるという周知がなされる意味は大きい。
自分の身を振り返ることのできる人々は、リプライボタンを押す前に一瞬考えるだろう。
「これはリプハラにならないか?」
この一瞬の自省が多くのリプハラを減らす。
ほとんどのリプハラは目にしたツイートに対し、反射的につぶやいているものだからだ。
もちろん、それでもリプハラをする者もいるだろうが、その総量は確実に減る。
「セクハラ」という言葉が知られるようになって、「セクハラ」は減っていっているのだから。
「あなたもリプハラをしているかもしれない!」と恐怖を煽る特集が雑誌に載るだろう。
「リプハラをする人間の脳はこうなっている!」と解説する新書が出るだろう。
人気講師はマスコミに呼ばれ、新たなセレブアイコンになるだろう。
リプハラ専門弁護士が生まれ、マスコミに呼ばれ、新たなセレブアイコンになるだろう。
中国人に飯を上品に食う、食いものを残さないという文化は無い。
音を立てて食べないのはまずそうに食べていると感じる
さんざんいろんな人が言ってるだろうけど、これはマーケティングの論理と実践のいい見本だ。
書かれてる内容が、ではなくて。
「絶対ヤレるナンパ完全必勝マニュアル」というタイトルでは絶対手に取らない上品ぶった人(俺含む)向けの。
結局内容はそのテの本と同じだろう。真面目に読んだことないからよく知らんけど。
上手い事やってるなあ。まんまと踊らされてしまった。
まあそもそも金融工学とか経済学自体がそもそも怪しいので良いのか。
でもはたして「恋愛=セックス=幸福」は正しいのか?という疑問は残るよなあ。
幸せの定義なんて不可能だろうに。結局承認欲求をどう満たすかという話なんだろうけど。
職場の年上女性と、冷たいマウンティング戦争が繰り広げられている。
それは、FFFTPのアカウントを、2つ発行した際にも勃発した。
「じゃあ、私が1のアカウントを使いますから、先輩は2を使ってください」
「えっ」
「ごめんなさい、じゃあ私が2を」
これ以上、戦火を広げないために、私はいま早急に探している。
「異なるものでありながら、まったく優劣がつかない2つのアカウント名」を。
Apple と Orange ・・・だめだ。最近はりんごのほうが高価。
Shampoo と Rinse ・・・だめだ。リンスが単独で存在しにくいことからシャンプーのほうが優位。
Kinu と Momen ・・・惜しい。でも絹のほうが上品な印象を持っている可能性がある。
Tsubuan と Koshian ・・・これも上記と同じ理由で危ない。
Botan と Bara ・・・論外。
Mana と Kana ・・・これが一番いい気がしたが、カナのみ結婚しているので若干センシティブな領域である。
絶妙な均衡を保つというのは、なかなかどうして難しい。
彼は、まぁいいけど、と言った。私に逆らえないことをよく分かっているからだ。
渋い蕎麦屋ではなく、白を基調としたシンプルお洒落な蕎麦屋。客層もシャレオツ。
そんな中紛れ込むクールビズの彼と、全身が灰色の私。こちらも負けじとシンプルイズベスト!
一つ隣の席には、雑学しか話さない男とそれに相槌を打つ女が座っている。
私達は蕎麦と向き合いに来たのだ。
彼は、うーん、と一言唸ったあと、カレーうどんと蕎麦で迷っていると言った。
私ではない。同じくメニューを選んでいるカップルの発言が奇跡的に一致したのだ。
彼は、蕎麦と出し巻き卵、と注文した。
出し巻き卵はそれはもうふわふわで、キラキラしていた。
ダシが薄く、上品だ。大根おろしとも合う。主役ではないけど、優しい味。
そして、蕎麦である。必要以上に大きい皿の上に、蕎麦は盛られていた。
鴨蕎麦を食べながら私達は色んなことを話した。しかし何を話したかはよく覚えていない。
行こうか、と蕎麦湯を飲みながら彼が言った。私も席を立った。隣のカップルはまだ話していた。
歩きながら、私は、出し巻き卵美味しかったねと言った。
それ言っちゃう?と思った。と同時に、なんだか嬉しくなった。
ニヤニヤして黙ってたら、彼と目が合ったので手を強く握った。
http://anond.hatelabo.jp/20150709205200
住んでみて、よかったところ、悪かったところ、イメージが変わったところ、ああ、大阪だと思ったところなど多々あったんで、つらつら書いておく。
環状線周辺のあたりはけっこうカオスで、一皮むいたら築50年くらい経ってんじゃねえの?と思われる建物があって、上っ面だけ新しくしました感がそこかしこにある。
ガッツリ昭和建築の背景にタワーマンションが見えたりしてコントラストが効いてる。
大阪城の南側は超暗いから、プロジェクションマッピングとか見に行った帰りは注意だ。
コストに比例するのだろうけど、環状線(略 あたりはけっこう普通にマズい飯に当たれる。
なんば周辺の中心部ではそんなことないが、チェーン店以外は覚悟した方がいい。
この味でこの価格かよ!というところは残念ながらけっこうある。
ただしズバ抜けてコスト的にも味的にもいい店はあるので、そこは自分の好みと相談だ。
ほんとに食べログとか役に立たねえ。
あとどんな店でも居酒屋の体裁を取らざるを得なくなってる現実はありそう。
(インドカレー屋がいつのまにかエスニック居酒屋と名乗るようになったり)
外縁部に人を呼びたい!という気持ちの現れか、後先考えずに作った施設とかは結構あり、これが橋下さんの言う無駄なんだろうなと実感できる。
大きな通りはそこそこ歩道なども広く歩きやすいが、信号がけっこう細かく設置されているのでジョギングには不向き。
街灯が何故かオレンジ色で統一されてたりして、夜は国道のトンネルの中みたいだ。
夜、出歩いてると何かと戦ってるおじさんや、延々と文句を叫びながら走ってる人と高確率で遭遇する。
京都けっこう遠い。
なのであまり行ってない。
ちょっとうまい飯食いたいなと思ったら神戸方面に行くことが多い。
交通網はさすが便利。電車に加えてバスも利用するとかなり行動範囲が広がる。
高いけど、地下鉄は便利。
近鉄はアーバンライナーで名古屋まで安く行けるし、阪神線は駅とか超キレイ(ただしダイヤは過信してはいけない)
他の路線も乗り入れてるからもしれないけど、ボックスシートっていうの?あの向かい合わせな行楽気分テイストのやつが多すぎてすごく不便。
…まさか走ってるのは全部アレなのか?
すいません、テレビ見てません。
見積も通って予定通り進んでて、いざ請求が近くなってから値切ってくるとかありえない値切りは何度も見たりやられたり。
もちろんそうでない人もいるけど、きっと肩身の狭い思いをしてるんだろうと勝手に思ってる。
なんでも派手にしたがる人は一定数いるので、デザイナーは大阪で仕事することになったらきっとやりにくいだろう。
良くも悪くも普通。
ある程度生活は落ち着いてきたが最近どうもフラストレーションが溜まる、大声で叫んだり走ったりしたくてたまらない。
彼は物静かな人で自分から何かを求めたりはしてこないので、自分のことを必要としているのかがわからず、それがまた日常のストレスとして積み上がる。
それがここ数週間の気分だった。
昨日霊感占いをしてくれるという人と出会い、診てもらう機会があった。
彼と結婚できるか見てくれ、と頼んだのだが戻ってきた回答が結婚どうこうよりも私自身について言及される内容だった。
人からよく見られたい、お行儀よくいたい、嫌われたくない、そんな気持ちが積み重なって自分の本来の欲望が圧迫されている。
それは必要があって被ってきた仮面だし、これはこれでうまく行っているので、このまま仮面は綺麗に被ってしまいましょう。
彼との恋愛、結婚もきれいな世界の出来事として続けていっても問題ありません。
その代わり、自分のための世界、自分がノーといえる世界、自分にイエスと言える世界を作ってください。
なんだろう、本質を言い当てられた気分だった。
結婚しなくてはいけない、人からよくみられたい、普通の人はこうは言わない、こうしない、というのが自分を雁字搦めに縛っていた事を思い知らされた。
親から結婚しろと言われているプレッシャー、相手の親に恥ずかしくないようにきちんとした仕事をしなくてはいけないという気持ち、彼が恥をかかないように出来るだけ上品にしていなくてはいけない。
彼より頭が良くてはいけない、彼が離れない為にNOはなるべく言わない。
そんな事を考えていた。それが行き過ぎて逆流してしまい、感情のコントロールができなくなった事も良くあった。
好きでいなくてはいけない、一途でいなくてはいけないとも考えてたな。
他の男の人に優しくされるのは嫌いじゃない。とても楽しい。
自分がマゾヒストだとも思っていたけど、サディストの要素もありそうだというのが冷静になって自分と向き合った時の自分への感想だ。
裏の顔とか、自分の城を持ってもいいのかもしれない。
どこに自分の城をもとうかなあと思うと少し楽しくなってきた。
神戸(正確には芦屋だが)から転勤で都心に引っ越すことになったのだが上京したくない。
そもそも神戸近郊市民に多い傾向なんだけど私は自分の街をオシャレで上品でコンパクトで最高とか思っているので、東京に対する憧れというものがない。三宮か梅田に行けば東京で出来るようなことはだいたい出来る。
仕事で何度も東京に行ったし、数ヶ月住んだこともあるのだが、本当に嫌だ。雰囲気が暗い。家賃が高い。まずいめしやが普通にのさばっている。
なにより嫌なのが田舎者が多いことだ。そういうやつらはガチで東京に住んでる自分に酔ってて、自分の出身地の悪口を平気で言う。私が少しでも東京より神戸がいいみたいなことを言うと、明らかな敵意を浮かべる。そういうド田舎コンプレックスてんこ盛りの人と日常触れ合わないんだよ。こっちでは。自分の街が嫌いで上京したようなヤツと、どうやったら折り合えるか本当に悩んでいる。
わりとまずそうな内容なのにお好み焼き食いたくなるなぁ。広島焼きが最も構成としては上品(far from ごちゃまぜ)なんじゃない?
お好み焼きは大阪名物だけど、広島の広島焼きは広島版お好み焼きなのか知らんけど
そもそも市販で売ってるのはお好み焼き粉だけだから、少なくとも広島焼きの材料もそれと同一だろうと思う。
問題は入れる具材だが、広島なら牡蠣がそれに相当するのかもしれん。
何せ大阪はイカか豚のどちらかしかないが、広島は更に牡蠣を入れるかも知れないからだ。
また、大阪のお好み焼きは焼きそばと合体するとモダン焼きとまた別の料理に進化するものの、
広島焼きは元々焼きそばを入れてたと思うのでモダン焼きを見本としてヒロシマ風に作られたのが広島焼きなのだろうと
無理やり解釈してみる。
とにかく、大阪版はお好み焼きと焼きそばを別々に調理するのに対して広島版はごっちゃにするタイプなのだろうか。
言うなれば関東発祥のゲロ塗れの様なお好み焼きこと月島もんじゃ焼きがあるが、広島版はこのタイプなのだろうと首を傾げる。
実際、ごちゃ混ぜに調理するお好み焼きというのは、モダン焼きかもんじゃ焼きしかないはずなので、広島焼きとは
大阪のお好み焼き及びモダン焼きはお世辞にも上品な食べ物ではないので、お上品(笑)のもんじゃ焼きの様な汚らしい作り方が出来るのは
何せピカって出来たものという自虐ネタから編み出したものだし、なにより広島焼きという位だから仕方ないね。
少なくとも大阪版広島焼きは存在しない訳だし、広島焼きなんてお上品(笑)の味音痴にしか分からない味わいというのがあるに違いないのだ。