はてなキーワード: 一方通行とは
東京都心に住まうハイソサエティな人々や地方民は、東京にこれだけ近いところに、これほどモータリゼーションが発達した都市があることをほとんど知らない。
東京でも横浜でもない、車を中心にした世界がここにある。
嘘だと思うなら、カーシェアでも借りて一度センター北・センター南界隈を走り回ってみるといい。
東京と横浜の中間でなおかつ東海道線と東名の中間ぐらいの位置関係と言えばぼんやりとイメージがわくだろうか?
詳しい歴史とかはwikipediaを見ろ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3
元は森と原っぱしかなかったところを開拓したニュータウン開発としては最後発に近い再開発事業だ。開発が始まったのが実質80年代以降なので、近代的なモータリゼーションをがっちり取り入れた都市計画に基づいた街が作られている。
ざっくり言えば、港北ニュータウンはショッピングモールの集合体だ、少し小さめの濃縮されたイオンモールクラスのショッピングモールがぼっこぼこと乱立している、センター北・南両駅に中規模のショッピングモールが3棟(港北東急、港北阪急、ノースポートモール)、立体模駐車場を持つ小規模ショッピングモール(どでかい商業ビル)が4棟、さらに商業ビル多数。近隣にはホームセンターも幾つもある。
そんな中途半端なショッピングモールじゃあね、という向きには、車で3~40分圏内に大規模ショッピングモールが3か所(ららぽーと横浜、ラゾーナ川崎、トレッサ横浜)、もう少し小さい規模でグランツリー武蔵小杉、たまプラーザテラスとか、横浜圏までいれると本当に数えきれなくなる。
とにかく車があれば買い物を行く先に全く困らない、毎週末・毎日がショッピングモール巡りだ、車で複数のショッピングモールを梯子することなんかもザラ。
それから、この二駅だけでスーパーが大小とりまぜて10軒前後ある、あほか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kohoku_New_Town_-02.jpg (写真)
まず道幅が広い、一般道で3車線があたりまえにある。狭い細路地がほぼ存在しない。一方通行もほとんどない。車の取り回しで困ることが無い。
駐車場も安くどこにでもある。商業施設の駐車場はほとんどがスロープ式立駐で、だいたい割引で足りるか、最初から無料。
ある意味センター北・南が猛烈に充実しているため、車無しで滅茶苦茶快適に生活できてしまうのだが、当然車の所有率も高い。
そして、いい車が走っている。外車率が異様に高く、軽が少ない。都心みたいにポルシェとベンツ、アストン・ベントレーにあれはマクラーレンか、みたいなバブリーさは無いが、ドイツ勢、ラテン勢など欧州車がかなり多い。レクサスも多い。港北ニュータウンにいると、日本の不景気とは? という気分になるぐらい、日本で失われつつある豊かさがまだここには生きている。
そして、ニュータウンらしく、車歩道分離や、公園が充実しているのもすばらしい。センター北・南から徒歩圏にもちょっとした森のような大きな公園が幾つもあるし、車で移動すれば自然もスポーツ施設も遊戯施設も多数あり子供の遊び先の選択肢に事欠かない。大きな公園に行くと、テント族っていうの? ミニバンにカートとテント載せてやってくる親子連れが広場にテント広げてゆったり遊んでる。ああいうの、都内育ちからみると全く未知の世界で軽いカルチャーショックがある。わざわざ、ひーこら奥多摩まで行ってバーベキューする必要ないんだ、みたいな。
それから、第三京浜・東名高速が至近というのも大きい、レジャーとなったときの選択肢が都心とはけた違いに多く、海と山にすぐ行ける。箱根・鎌倉・三浦・伊豆・富士・東海方面が東京よりすべて一回り近い。渋滞のボトルネック一つ分少ないことで、車での日帰り旅行もめちゃくちゃ快適。
都内でマンションや戸建てをサラリーマンが買うのが現実的でなくなって久しいが、港北ニュータウンとその周辺の横浜市営地下鉄沿線はまだ選択の余地がある、さすがに新築マンションの造成は減ってきているが、中古なら3~4000万円代から選択肢がある。しかもニュータウン故、ほぼすべてが築浅なので都心に比べれば程度が全然いいし広い。駐車場も当然ついているし、駐車場代も都心みたいにん万円なんてことはない。
歴史が浅いということは、世代・年齢層も若いということだ、周辺の戸建て地域もおんぼろの昭和な住宅や空き家・廃屋なんてほとんどない。街がぴかぴか、古い家はだいたい地主さんの邸宅。
港北ニュータウンのある都筑区は首都圏でも数少ない出生率が高く人口が増え続けている自治体だ。まぁ、40年50年先のことはしらん。
人種的には、ややマイルドヤンキー寄りだがヤンキーではない、リア充だけどうぇーいじゃない、ぐらいの層が厚い。所得がそれなりにあると思われるおされな人も多い。スポーツ観戦が好きで子供もサッカーやらせてます、目指せJリーグみたいな感じ? なにしろ、手軽にスポーツをできる環境がある。
そして、BOOKOFFに行くと、売られている本の質が違うんだ、ひたすらベストセラーやジャンプ掲載作品で埋まってなくて、それなりに面白かったり、マニアックな作品もごろごろしてる、実用書の質も高い。つまり、本好きが沢山いて、本を買い、BOOKOFFへ放流するというフローが成立しているわけだ。
総じて、平均してそれなりの所得があり、家と車を持ち、自分の生活を等身大で生きている、そんな世界が港北ニュータウンだ。
東京都心へは電車で40~50分、車で1時間前後、というところ。
港北ニュータウンの中央駅はセンター北とセンター南の二駅、センター中央駅は無い。この二駅を貫くように横浜市営地下鉄ブルーラインと同グリーンラインが通っている。
残念ながら東京都心直通の路線は無く(計画はあったんだ...)、都心に出るにはブルーラインであざみ野に出て田園都市線もしくはグリーンラインで日吉に出て東横線へ乗り換える必要がある。横浜・新横浜・みなとみらいへはブルーラインで直通だ。
車でのアクセスは、東名 横浜青葉ICもしくは第三京浜 都築ICから15分弱。
都心に直通の電車がないなんて田舎だよね、という向きには田園都市線沿線のたまプラーザ・あざみ野・青葉台を勧める。半蔵門線直通で都心まで30分前後だ。通勤時間的には都内の多摩地区と変わらない。
全体に若干割高にはなるが、車があれば、港北ニュータウンの利便性は享受できる。
ご存知のように殺人的な通勤ラッシュでおなじみ田園都市線だが、大井町線の乗り入れで改善してきているし、オフピークして、渋谷以前の半蔵門線から乗ればそれほど大したことはない。
ただし、歴史が一回り深い分高齢化が進んでいるのも確か。モータリゼーション第一世代が高齢化で免許―返上して駅から遠い戸建てを手放すみたいな話が出てきている。
都心と比べて東急グループや大手資本がなんとかしようとしている点がちょっと違うところで、たまプラーザの再開発なんかがその例、興味があるなら行ってみるといい。
東横線沿線は良くも悪くも東京都心に近い属性がついてくる、居住費や駐車場も高くつくし、狭い道も多い。武蔵小杉・元住吉・日吉あたりは車でも住みやすいが水害が心配なのは去年の台風でわかっただろう。
そんな感じで、首都圏にでもモータリゼーションが発達して発展している都市がある、ということをわかってもらえると嬉しい。東京都心と地方のロードサイドの二元論なんてナンセンスだ。
都内勤務だけど、リモートワークも進んだし、ちょっと都心から離れてみるのもいいよね、車の運転好きだし、という層にはぜひ一度訪れてみてほしい。
港北ニュータウンに無い物? うーん、歴史とか、超高級ブランドショップとか、それから下北や吉祥寺みたいな個性かな。あーあと、あれあれ、イオンが無いよ。
私は20代後半女性。恩師であるE先生は今は50代になるだろうか、親より少し下の世代の女性。私立女子校の保健室の先生で、私の進路決定に大きく影響を与えた存在である。
私がその学校で生徒だったのは10年ほど前のこと。中学受験で入った学校に1時間かけて通学したものの他の生徒と馬が合わず、クラスや部活で馴染めないどころか「場面寡黙」のような状態になってしまった。気は強かったので、そんなことで不登校になってたまるか、と踏ん張っていたが遂に中学2年の初夏に心が折れてしまい、保健室に入り浸るようになった。
そのとき様々な声かけをし心理的ケアをしてくれたのがE先生で、私は彼女に憧れて看護学部を受験し、現在は看護師をしている。
看護師を数年したら養護教員(保健室の先生)になるだろうと高校時代は思っていたものだが、大学時代に就活をするときには一度そのことは消し去ってみた。だけど一度夢にまでみたこと、資格は“一応“持っているので、叶えてみるのが過去の自分のためだと思い転職活動を開始したのがここ1年のことである。そして新型コロナウイルスの流行があり、学校保健においては大変なことであろうと思い、E先生のことが思い浮かび、お元気だろうか、と様子伺いを兼ねて近況報告を送ることにした。
E先生はクールな方だけど、内面はとても豊かな人だったと思う。
ただ、さっぱりしすぎていてなのか、仕事上(教科・学級担任と異なり全校生徒を相手にする)致し方ないのか、年賀状を送りたいだとかEメールアドレスを教えてほしいだとかお願いしても、全く個人的な連絡先を教えてくださらなかった。
「学校に送ればいいわよ」とか「学校に来れば私はいつでもいるわよ」とか仰っていた。他の教師たちはというと、携帯やSNS禁止の古風な学校のくせに、数年前に訪問してみるとLINE交換を迫ってきた、なんてこともあった。
そういうわけで、E先生宛に手紙を書いた。もちろん個人的な連絡先を知らないので、宛先の住所は学校にした。私学だから転勤もないし、ほかの先生から消息は伺っている。
同じ県内に住んでいるので、1日もあれば届くだろう。
お返事は週明けには来るだろうか?
そんなことを考えた。
が、1週間経っても、2週間経っても、シルバーウィークを挟んでも、返事は来ない。
前述の通り、クールなお方だから、と思って、松任谷由実の「返事はいらない」さながら、返事は期待せずに手紙を書いたし、ポストに投函した。
だけども、どうしても、返事がこないとソワソワしてしまう。
私は平成1桁生まれ、とはいえ、ジャストなデジタルネイティブ世代で、物心がついたときにはダイヤル回線でポストペットがメールを運んでくれるような環境だった。
大学に入って最初の数ヶ月こそ「メーリス」を多用したが、だんだんLINEが普及しはじめ、LINEが主流の通信手段である。
仕事を始めれば職場ではメールを使うが、いま私の周囲で即時性のないやりとりはその程度。
別件で、他の恩師からコロナ禍で病院で働く私の身を案じるお手紙をいただいた時には、速攻でお返事を書いて出したくらいの即レス魔なのである。
E先生から返事が来ず悶々とし、私はインターネットの大海から「手紙」の返事を「待つ」という行為についての記事を探しまくった。スマホに穴が開くほど、といいたいところだが実際には私はかなりの睡眠時間を犠牲にした。
LINE、Twitter、4G通信、メールですら「センターに問い合わせ」をしなくても届く時代。
即時的な現代でわざわざ手紙を送るという行為は、待つ時間をも味わい、愉しむ必要があるようだ。
そして、手紙というものは、一方通行であることをある程度覚悟する必要があるらしい。
こういう話は、文化人類学にでもなるのだろうか?
毎日ポストを、封筒が入っているのを十分想像しながら開ける。そんなことをして早1ヶ月。
そういえば、E先生はお勧めの本でミヒャエルエンデの「モモ」を紹介していたっけ。時間の大切さを題材にした物語だったと思う。
E先生が返事を送ってこないのは、メッセージがあってかどうかは知らない。が、もう少し待ちながら、自分のことをまた一生懸命やってみようではないか。
半年くらい前に高校3年間ずっと好きだった人に彼氏が出来た。そのあと1週間くらい何に対するやる気も起きなかったし、コロナ禍で外に出られなかったのも手伝って5キロ近く体重が落ちた。
高校で同じ部活だったけど、無事卒業したのでこれを機に連絡を切ろうと思った。でも出来なかった〜〜!! 私は結局大学でもその子と同じサークルに入り、3ヶ月に1回くらいのペースで遊ぶ関係が続いている。 私はその子にマ〜ジで邪な感情を抱いているので、「一緒のサークルに入らん?」って聞かれて断れなかった〜〜!!!
まあそんなこんなで私はその子の20番目くらいに仲良しな友達ポジションに置いてもらっている訳だけど、最近心境に変化が訪れたな〜と感じている。
変化というのも、今までは「好きで好きで仕方ない!その子に彼氏が出来たら死ぬ!」と思っていたのに、今は「その子が幸せになって私より長生きしてくれたらそれでいいわ〜」と思えるようになったのだ(後者も後者で気持ち悪いとか言ってくれるなよ)。
考えられる要因は2つ。 1つ目は「その子の彼氏がメチャメチャ良い奴だった」ことである。もしその子が大学で見つけたぽっと出の男に掻っ攫われていたら間違いなく死んでたしなんなら刺してた(その男を)。 でも、その子の彼氏超良い奴なんだよ……。 そもそも善性の塊であるその子が2年くらい片想いしてた男なんだからいい男じゃない訳がない。周りの評判も上々、顔もいい頭もいい身長も高い。 あれ私勝てるところ無くない?! それはいいとして、2年間少しずつ距離を詰めていってやっとのことで実った恋なのだ。 私は20番目くらいの仲良しな友達なので元々その子の思いは聞かせてもらっていた。 そのため覚悟が出来ていたというのもあると思う。
2つ目は「思ったよりその子が私のことを好いてくれている可能性が出てきた」ことである。 高校1〜2年生の間は私の完全なる一方通行で(今思えばそんなことは無かったのだけれど)、遊びに誘うのもいつも私からだったし、善性の塊であるその子の周りにはいつも他の子がいたし、向こうは私のことなんて眼中にないのだと思っていた。 大学に入ったら多分私のこと忘れちゃうんだろうな〜なんて夜な夜な泣いたりもした。 でもこのところ、実はそんなことないのでは?と思い始めた。 遊びに誘ったら必ず直近で空いている日を教えてくれて、コロナ禍で会えなかったときには電話してくれて、誕生日には忘れずにメッセージをくれる。えっこれ友達としては相当好かれてない? イタい勘違い? イタい勘違いだったらヤダな〜〜〜。 高校のときは「〇〇(その子の名前)過激派ファン」キャラでやってきたので(過激派なのは事実)、その子も"キモオタへの対応"的な返しをすることが多かったけど、私が大学受験で忙しかったのと、その子の恋が上手くいきそうだったことから距離を置いてみたら私からしても向こうからしてもちょうどいい距離感を築きあげることが出来た。 恋愛は上手くいかなかったけど友情としてなら上手くいっていると今は自信を持って言える。
以上の2つの要因から私は高校3年間抱き続けた激情から目を逸らし、一生消えることのないであろう恋心(と言えば聞こえはいいがただの執着もしくは信仰である)と向き合い始めている。
まだその子のことは超好きだから、時々一緒に撮った写真を見て泣いたりもするけどこれもこれで悪くない。
多分私は結婚することも子供を産むこともないだろうけど、その子のことを好きになれて、その子の後の人生を友人の立場から見届けられる人生は幸せと言えるんじゃないかな。
ただ、その子がもし不慮の事故や病気で亡くなったり、誰かのせいで不幸になったら立ち直れないしそれこそ死ぬ気がするので是非ともその子には幸せになって私よりも長生きしてほしい。これは切実に。
あとはその子の結婚式に出席出来て、その子に似た子供と年に1回くらい遊べて、その子が私のお葬式に参列してくれたら大満足かな〜〜!!(いやめっちゃ強欲やんけお前)
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは1,2クールの深夜アニメで一番好き。
ヴァイオレットエヴァーガーデンの映画版トリハダが立つような感動的なシーンがいくつもあるから決して嫌いな映画ではないんだけど、とあるキャラクターが好きになれなかったことで俺の中で映画の1/3ぐらいの時間が苦痛に変わってしまった。
平たく言うとですね、男って生き物は話し聞かないくせに相手のこと見ないくせに自分の思いやりはすごくしてあげてる(もしくは現実にできないことをできなかったことを自分や他人の罪だと思い込む)と言うコミュ障な生き物なんだなって思った途端にいろんなことが俺の中で冷めた。感覚的にね
映画自体が面白いとかつまらないとかそういうことよりもこういう人間が生きてていいのかみたいな不毛な事を考え始めるようなキャラクターが出てきちゃったことで映画に集中できなくなっちゃったっていうのが映画にも失礼だし僕自身語りたいと思えないからこういう映画の話は Twitter 程度で止めておく
劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見て2日ぐらい立って気づいた!!
バチェラー2を見た後にバチェラー3を見たら…まあこんな感じになるんだわ。
ラブコメでも、恋愛ドキュメンタリーでも登場人物がどうでもよく感じたラブコメって萎えるんだわ!!
あーそういうことだったか~
バチェラー3も別に岩間恵さん・友永真也さんが根っからのワルとは思わんのですよ?
ただ、バチェラーのルールやブランド意識無視して自分勝手な交際を繰り広げた途端に、
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの映画もその辺がよく似てて、上映前は
だった。
「こんなクズ男のことが好きすぎてたまらないヴァイオレットちゃんについていけない…もう勝手にして」
と思っちゃったんです
いや、
という概念が悪いんじゃないんです。
ただ、クズ男と一緒に暮らすことになる前に憧れの話で終わってしまってるから…
「恋が愛に変わる前のところで話が終わってるうちは勝手にしてとしか言えない」
と思っちゃうのよね。
「あいつクズだと思うけど、私はそういうところまで好きなゲテモノ食いだから」
みたいに言ってくれるシーンがあれば、あの映画はもっとみんなに祝福されたと思うで?
ただ、憧れのまま抱き合って仕事辞めて離島で一緒に暮らすのは…悲劇感あるよなぁ~
ヴァイオレットちゃんがそうとは言わないけど、彼女って自分で自分がわかってない部分が多い人だから、その可能性も否めないまま、恋の炎にのぼせ上がって映画が終わるわけじゃない?
そうなると、のぼせてる人の話って呆れることしかできへんなぁと
ヴァイオレットちゃんがクズっぷりを受け入れてる描写があるか、
二人で生活していくところがあるか…
それがないと、「ロマンはあるけど、地に足つかない」
ヴァイオレット・エヴァーガーデンのアニメ自体は好きなんだけど…映画版については
って思ってるところがあるんですよ。
で、それが何なのかを考えたら「恋の向こうに愛があるのかがわからへん終わり方」だからなんだよなぁ…。
うん
コロナって、会社員の忙しさを変えたのかな。業界によりけりか。
僕はなぜかとても忙しくなってしまった。忙殺、そんな毎日がふさわしい。
テレワークでは仕事は回らない。僕は回らなかった。僕のチームも回らなかった。
だから暑い盛りに会社に通ったし、台風シーズンで雨が降ろうが風が吹こうが、
僕の朝は少し遅い。8時に起きて、8時半にまた起きる。そして頭と腹を掻きながら
シャワーを浴びて出社する支度をする。
朝食は家では摂らない。買い置きしてある炭酸水を一本カバンに入れて家を出る。
エレベータを待つ間に、メールとニュースチェックを済ませる。東証が止まっているらしい。
そんなことで驚いてもエレベータは急いでくれない。
駅に行く途中で、コンビニに寄って朝食と昼食を買う。朝食分はおにぎり1個と、
昼食という名の16時くらいに食べる夕食用にパンとサラダチキンを取る。
と、今日はいつものサラダチキンが品切れている。それにレジが混んでいる。
店員が揉めている。よくわからないが、通勤時間帯に何かの支払いに現金で20万をレジに出している不束者がいる。
東証が止まると近所のコンビニが朝混むというエフェクトについて思いを巡らせながら、
コンビニで買い物を済ませるのを諦めた。改札の中にもコンビニはある。会社の近くにもある。
改札はスマホを直接当てないようにスマートに通る。誰が見ているわけでもないが僕の流儀だ。
スマホから視界を切り、センサー部分をかざす、ゲートが開く、即座に右のポケットに仕舞う。
忙しい中でも、ルーティンを忘れないことが自分のバイオリズムを作る。誰にも言えないけど。
駅なかのコンビニも混んでいる。人が、活動が、生命が麻痺から癒えたように、痛みに慣れたように
混んでいる駅のコンビニは、入ったら後ろに戻れない。みんな一方通行に狭い店内をベルトコンベアに乗った
部品のように進んでいく。立ち止まったら次の電車に乗り遅れる。目を商品にチラつかせながらパンを取り、
前後の人の邪魔にならないように、商品を手に取る。この瞬間にソーシャルディスタンスなんて存在しない。
おにぎりに手を伸ばそうとしたところで、前に並んでいた人が振り向いた。
どうやら一度手に取ったものを、棚に戻すようだ。この場合僕は進んでよいのだろうか、後続を堰き止めるべきだろうか。
一瞬の判断が命運を分ける。逡巡の刹那、後ろの人がぶつかってきた。僕は軽く会釈をして、右手を伸ばして
前にいた人が、にこやかに微笑んでくれた気がした。目を合わせないように会釈する。
僕は運命に出会った。この時点では気づいていないんだが、運命に出逢っていた
慌てて会計を済ませて、レジ袋もなくカバンにおにぎりとパンを突っ込んだ。電車が来る。
予想より混んでいたので、ギリギリだ。何とか早足で乗り込む。息が弾む。活動量計は軽い運動中を示していた。
会社について、デスクで一息。カバンのおにぎりをつかみ休憩室に向かう。
今日も長い一日が始まる。共有部のコーヒーマシンのボタンを押す。
ドリップの音がする。何かを切り替えるトリガーの音。この音が止んだら表情をロックする。
おにぎりを頬張る。
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うっめえええええええええええええ、なんだこれ超絶旨いやんけ
それは、NewDaysの北海道産バターのエビピラフおにぎり。僕の運命の相手。
明日も会いに行く。忘れられないために。
VRアバターが人身売買どうこうという話題、性の商品化という文脈ではかなり筋が通った話ではある気がする。
もちろんどこまでラディカル・フェミニズムの主張を認めるか、という話ではあるのだけど、(最近の政府が目指しているように思われる)ジェンダーバイアスを完全になくしていく方向に進むのだとすれば、「かっこよさ」とか「かわいさ」という概念を性別から切り離すことは必要だと思う。
その点、男性オタク的な「かっこよさ」というのは性別から切り離されたロボットでかなりの部分を占めることが出来てきていると思うのだけど、
「かわいさ」の面ではそこまで進んでいない気がする。日本のkawaii文化の中心っぽく見えるサンリオのハローキティやマイメロディは女性だし、シナモロールやポムポムプリンは男性だ。これらのキャラクターに性別を設定する必要はないように思える。ちなみに任天堂のカービィは性別設定がない。
もっと言うと、例えば鏡音リン/レンのような(性的な特徴が排除されているように個人的には見える)キャラクターはわざわざ性別を設定する必要性を感じない。性別が設定されていない人間系のキャラクターは、宝石の国(半分ロボ枠か?)やとあるシリーズの一方通行(男性という扱いが大半なので微妙だが)が思い浮かぶが、こちらは未だ発展途上にいるように思う。
女性が背広を着ても良いし、男性がスカートを履いても良いとするならば、性別を設定せずとも人間キャラクターは作れるし、服装も自由に決められる。
このような創作が支配的になる必要性まではないと思う(自分は表現の自由を擁護したい側の人間である)が、多様性の一つとしてそのような性別に支配されない「かっこいい」「かわいい」表現が一般化することは良いことであると思う。そうすれば、例えば直近であれば環境省のキャラクターのような政府的・公的なキャラクターで、「かわいい」を表現するために女性キャラクターを用いる必要がなくなり、みんなが幸せになれるのではないか、と思っている。
あぁ絶対あの子今アイツと通話してるんだ。どっちから持ちかけたのかな。あの子かな、それともアイツかな
私とは一切連絡取らないのにその子には連絡してるんだ。そりゃそうだよね。私なんかと話してても楽しくないしつまんないもんね。
昨日私の通話の誘いドタキャンして、ごめんやっぱ無理だって言っといて、その子とは通話できるんだ。
昨日の今日で。
ここで私が「通話してんの!?混ぜて!?」って即レス出来たら苦労しないんだろうな。変に高いプライドとクソみたいな自意識が邪魔するけど。
お前のこと特別視してるのは私の方だけで、私はお前にとっての数多いる友人の一人でしかないんだろうな。友人でいられるだけマシだと思わない?そうかもね。
そもそも特別視されることでお前はいつも困ってるもんね。私がそんなことになったらますますお前が離れていくって分かってるのにやめられないのは私の落ち度。
夜だからこんなこと考えるのかな。そんなことないよ。いつだってお前とお前の友達のこと考えると嫉妬で狂いそうになる。私が、私だけがおかしい。みんなはおかしくないのに。
匂わせみたいにディスコードに2つ並んだメッセージを見るのが苦しい。管理者権限でどっちか消してやろうか。でもそんなことも出来ないからどうしたって私は常識の中で苦しいまんまなんだよな。
そもそも今までそれをやっていたのは私だったんだよな。同じことをやった事があるからお前の動きが手に取るように分かるんだよ。通話して「良いじゃん」「みんなにも言っとこう」「返事するからさ」って所かな。仲良いね。ハハハ。ウケる〜。
みんなも匂わせ喰らって苦しかったのかな。多分違うんだろうな。仲良しグループの中で私だけがアイツに一方通行のクソデカ感情向けて帰ってこなくて苦しくて、たまに通話するだけでバカみたいに舞い上がってるんだろうな。何度でも言うけど私だけが。
学生の頃はよかった。人間関係が閉じた空間の中で形成されてて、アイツは結局私だけのものだった。だけど年取って、他の人間が私とアイツの2人だけのコミュニティに混入してくるようになって、それが私は辛い。大学の学部を合わせなかったのが彼女に負けた敗因なんだろうか。だけどアイツの選んだ学部に興味が本当に無くて、別の学部を選んでしまった。そこで狂えないのが敗因なんだろうか。それとも最初から負けてたのかな。
アイツ早く大学卒業してくれないかな。そしたらみんなバラバラになって同じスタートラインに立てるから。
今いるグループだって、そりゃ、今のグループの何人かはは私がアイツに紹介した人間だよ。だけどアイツが私との付き合いを1対1から対グループの付き合い方に変えるなんて思ってなかったんだよな。人が増えても私はアイツの特別で、他の人がいたってきっと大丈夫だって思ってた。でもそんなことは全然なくて、結果自分で紹介した人間にアイツを取られそうになって苦しくて悔しい。結果増田に夜な夜な吐き出して、気持ちの整理を無理やりつけて寝る日々が続いてる。
他のグループのみんなも大好きなんだよ。一番仲のいい大事な友人たちだと思ってる。アイツを私から奪っていくあの子だって、アイツさえ絡まなければ私は普通に接する事ができるのに。そんな風に責任転嫁してあまつさえアイツのせいにしてる所で既に私の底が知れている。
馬鹿みたいなマッチポンプだなって自分でも思う。私と付き合ってくれるような友人2人と私を揃えたら、どっちもまともで良い子なんだからそりゃゴミカスの私抜いて2人になるに決まってるじゃん。何を勘違いしてたんだろうな。
私が選ばれないのは、勝手に拗らせて苦しんでクソデカ感情投影して、自分と同じ質量の感情を返してもらえないからって拗ねるそのワガママっぷりが原因なんだよ。分かってるよそんなことは。普通に考えて気持ち悪いだろ、自分にそんな理想押し付けてくる奴さぁ。
お前を好きなのやめたい。
でもお前とまた通話したら、私は馬鹿だから今の怨嗟なんか全部すっかり忘れて舞い上がってお前のことをもっと好きになるんだろうな。
苦しいな。これが恋愛だったら告白してさっぱり振られることが出来たのに、友達だからそうも行かない。
なんでお前のことこんなに好きなんだろう。今日の昼までは久しぶりに会えて家族に会って、彼氏とデートの約束して、いっぱい検索とかしてあんなに幸せだったのに。お前の動き一つでなんでこんなに情緒をグチャグチャにしないといけないんだろう。
いつから彼氏よりも家族よりもお前が大事になっちゃったんだろう。私が望むものは何も返してくれないって分かっててもやめられない。
馬鹿だなぁ。本当にな。
繋がりを切りたい。その後正気でいられる気もせんけど。
自分が全部間違ってるって分かってる。
なんか最近VTuberがスパチャで金稼いでることにかこつけて、色々物申したがる増田が多いようなんだが
そのご意見がそもそもVTuberをちょっとでも知っていると、どうもズレている事実誤認も甚だしいと思うものばかりで
その間違いにも気づかずに、これまたVTuberを知らないであろう人たちが真に受けてああだこうだ言ってるようで
流石にちょっとVTuberとそのリスナーをバカにして楽しんでいるようで見るに堪えない
で、まだまだVTuberを見るようになって日が浅しいし、分からないことも多いながらも一リスナーとして、ご意見申し上げたいと思った所存です。
それで本題なんですが、言ってしまえばスパチャっていうのはVTuberとリスナーという一対不特定多数の間で行われる、うまいこと言うゲームみたいなのものです。
そもそもスパチャっていうのはライブ配信のコメントに色を付けて目立たせることだ。(そのこともよく分かってない人がいるのはどうしたものかね…)
大前提としてスパチャに限らずに、配信の流れに乗せてうまいことコメントして楽しむっていう下地があるのを理解して欲しい。
リスナーは配信の流れに乗せて、コメントをする。うまいこと言えば拾われる。その拾われる確率を上げるのがスパチャ
配信の始まりに「待ってました!頑張ってね!」とスパチャ、配信の途中で離脱する時に「途中で離脱するけど、これからも頑張ってね!」とスパチャ、ぐらいのもので
後は個々の配信によって変わる。大喜利大会みたいなものが始まったり、なんとなくそういう流れになるとスパチャラッシュがあったりもする。でもそういうことは切り抜きの対象になるような珍しいケースだ。
その一方で配信の流れと関係ないスパチャや、無言のスパチャに関しては不審がられる。無視されたりもする。
つまりだ、スパチャっていうのはあれで結構、場を乱さないように空気を読んだり、面白いこと言うために頭を捻ったり、なかなか高度なコミュニケーションが求められるわけだ。
単純に推しに金を貢ぎたいってだけなら、グッズを買うなりメンバーシップに入るなり他にも方法がある事が多い。
その中で、わざわざスパチャに金をかけるのは、リスナーの一人としてみんなと一緒に配信を楽しんで、その中でうまいこと言ったり、推しに感謝の言葉を伝えたい。という願いがあるからこそだ。
VTuberとリスナーが共に面白い、良い配信を作りたいと願いがあって、その手段の一つとしてスパチャっていうのがあると思うんですよ。
それをソシャゲのガチャや、キャバクラやホストに入れあげたり、AKB商法だの、一方通行で、ただ金をかければいいってだけの娯楽と並べて語れると、なんだかおかしいなと思うわけです。
まぁ、それでも一瞬で消えるようなコメントに金をかけるのもどうかと思う意見もあるかと思いますがね。