はてなキーワード: パンセとは
これは、単純な自分語りです。
でも、多分、大衆的なひろーい意味ではそうなるんだろうなぁって感じのゆるいやつです。
あんまり普段、自分の恋愛的なものを出したくないというのが大きなとこなんですが、気が向いたので、よっしゃ、いっちょ言ってみるか!みたいな軽いノリで話します。
なので大前提として、あんまり悲観的なLGBTQIA+の話はないです。とだけ。
まず。
私はバイ?か?ってなんで疑問形なのかと言うと、特に私には定義付けされてないけど、感覚として「パンセクシュアル」のが近いのと、性別も「Xジェンダーの両性」のが近いかなぁと思うからである。
こう書くと、こういう事ですごく真剣に悩んで取り組まれている方にめちゃくちゃ怒られそうな気がするんですが、でも、私も自分ではよく分かっていないけど、当てはめるとしたらこれしかないんだよなぁ・・・。
私は外見女性で、同じく外見が女性の人とお付き合いしていますが、男性と性的接触が出来ない訳では無い。
でも、「男性」に「女性」として恋愛感情を向けられることが凄く気持ち悪い。
また、逆も同じで凄く気持ち悪い。
ただ、女性にも男性にも当てはめられるのはそこまで嫌ではない。なぜなら自分の中には両方きっちりと存在するから。
で、今はなぜパートナーと一緒に居られるかと言うと、パートナーはいわゆる「Xジェンダーの無性」に偶然にも当てはまる人だったから。
そして、大前提として「私」という人間に対して恋愛感情を向けてくれているから。
そこがパートナーとかっちり噛み合ってからは、違和感の正体にフォーカスが合わさって、何となく、今まで未知の生物だった自分のことが見えてき始めるきっかけとなった。気がする。
そして、私たちは本当に有難いことに、周りの方々がとても良い方が多く、今まで様々なところでカミングアウトしているのだけど、戸惑いながらも普通に受け入れてもらっている。
多分見た目が仲良し双子で、いつもニコイチの脳内ぴよぴよ幸せハッピーに見えることが、引かれない1番の要因のような気もするけれど。
でも、いま仲良くしてくれている周りの友人たちは、少なくとも2人で居ることを良しとしてくれているので、本当に恵まれているし、有難い。
しかし。
それにしても、ぶっちゃけXジェンダーの両性って、なんか自分だと、凄く都合良いかも・・・って思ってしまって、とてつもなく悩ましい。
本当にそういう悩みを抱えている方はもちろん、その形容を使うことで心が軽くなると思うんだけど(実際、Xジェンダーの無性という形容を知ったパートナーは、凄く軽くなったみたいなので余計そう思う)、私はと言うと、知った時に「あ、なるほど。腑に落ちたぞ」くらいの感覚しかなく、自分の性自認がかなーり甘い曖昧な感じなので、こと、自分に対しては「もしかして、どっちもの良いとこ取りして、甘えたくて思っちゃってるだけなのかな?」とすら、思うんですね。
なので、そこまで深く考えてないなりに、自分の性別は、なんて言ったらいいんだろなぁと、ずーっとゆるゆる考えていたりとかするわけです。
こういうの、他のXの両性さんは、ホントのとこでどう思ってたりするのかなぁ。
(いま調べたら、Questionというのもあるんですね。どっちなのかなぁーわからんぞ)
あと、私たちはいわゆる🌈の企画類とかには一切参加してない人で、ゆるゆるーっと、Twitterで話題になる程度の情報しか知りません。
やる気がないと言われたらそれまでなのですが、あんまりデモとかを進んでやれる程の気力がないのがホントのとこで。
あとは、あまり自分たちがそういう「これこれこういう思想を持ったこういう性自認の人たちです!!」と、名前を出して声を上げるのが大層苦手なのです。
活動を立派にされてる方とかって、やっぱすごいなぁと遠巻きに見る日々です。
(署名とかは出来るんだけどね。難しい)
ホントのとこは、あんまり「私たちの性」を考えずに、周りの人には接して欲しいってのは、あるかもしれない。
ここまでふわふわとまとまりなく話をしましたが、決して他の🌈の方々に何か言いたいとかでも何でもなく、本当にただの自分の気持ち整理の自分語りなだけです。
ただ、こんな風にあんまり深く考えないで生きてるようなLGBTQIA+の人も一応いるにはいるよーというお話でした。
ただ、これだとあまりにもなので、一応、私たちのやれることの範囲でやってる事だけ言っておくと「如何に周りの人達を、ごく自然と🌈への理解に繋げるか」ということくらいです。
私たちが常にどんな顔を、どんな態度をされようとも、どんなに怖くても、笑って当たり前のように、ある程度親しくなった人たちにはカミングアウトしていって、街では普通の恋人のように腕を組んで、左手の薬指に指輪をして・・・と、普通の人が触れるLGBTQIA+の人の敷居を大きく下げさせようとしています。
とか言うと大袈裟ですが、まぁ、こんな人間も同じ社会で同じ空気吸って生きてんだよーハハハくらいにゆるく浸透させていって、私たちと触れた経験のある人たちが「ああ、前も居たよ〜」くらいにサラッと日常として、あんまし隔たりなく受け入れやすくなればなぁ〜そんだけでいいなぁと、思うのでした。
最近、NL表記は差別だ!って意見をちょくちょく見かけるようになったので、LGBT当事者の目線で話してみたいなーって思いました。
ただ、これはあくまでもわたしという一個人の考えでしかないので、これが基準だとは思わないでほしいです。ちょ〜無責任に書き連ねるだけです。
さて、本題。
まず、わたしはLGBT……というか、セクシャルマイノリティの中では「パンセクシュアル」というものに該当する、と思ってます。Bに近いけどちょっと違って、「性別に拘らない」ってやつです。好きになった相手が好き。男女問わず、好きだと思ったら好きです。いや実際に好きになったのは異性ばっかなんですけど、付き合ったことあるのは同性のみです(ちゃんと相手の女の子のことも好きだったよ。むしろわたしが入れ込んでた方だったよ)(この女がクソ女だったのはまた別のお話)
つらつら書いたけど、ふわっとしか知らないのでなんか間違ってたらごめんなさい。この記事を読んだ人はコメントまで読もうな、親切な誰かが正しい知識を書いてくれてるよきっと。知らんけど。
だって……男女が大多数じゃん、自然の摂理じゃん、"普通"じゃん。そりゃノーマルでしょ。
問題なのは「普通じゃないもの」を叩いて隠していけないものだと思わせてることじゃねえの?
「普通」ってそんなに大事?わたしが女の子と付き合ったからって誰かに迷惑かけてる?かけてないでしょ、ならそれでいいじゃんね。ダメなの?
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
はてな村で好まれそうな話題だなとは思って投稿したものの、想定以上に反応があって驚いてます。
酔った勢いで書いたものであるので、文体が一致してなかったり論理が破綻してたり誤字脱字がひどいですね。
結果、説明不足だったり変な文章だったりが原因でいくつかこれは補足しておきたいなと思ったコメントがあるので補足させてください。
解説本を読むことで原典にあたった際の新鮮な驚きが減るのは確かと思います。ネタバレ効果というか。小説系では顕著と思います。
また、解説者の解釈が固定化されるという懸念も確かにあるかと思います。
しかし、私の記憶では「これは私の解釈だが」「多数の説の中で、私が支持するのは」など、
俺の解釈が絶対だという態度で解説してた解説者はいなかったし、異説も提示していることが大半でした。
ここまでやってくれたらあとは受け取る側のリテラシーかなぁ、と思います。
また、100分で名著の解説で実施していることは「あらすじ」+「執筆背景解説(作者の人生の中で著作の占める位置など)」+「解説者の解釈解説」と思っていますが
この内「執筆背景解説」が一番の目玉であり、知識のつながりを作ってくれるところで、この部分は原典だけ読んでも絶対に得られない補助線です。
私は持久スポーツを趣味にしていますが、例えばフルマラソンなら当たって砕けろでもまぁ、レース中の数時間もがき苦しみ、暫く足がまともに動かなくなる覚悟があればゴールは出来るでしょうが、
ウルトラマラソンとか、アイアンマンになると当たって砕けろではまぁ無理で相応の準備がなければ、失敗したという経験を経験値に変えることも出来ずに敗退すると思っています。
特に古い思想書は知的作業としてウルトラマラソン級だと思いますし、かつ何かを求めて読むわけでしょう。
ウルトラマラソンで周りの景色も何も見えないぐらいつらい状態になって、制限時間オーバーで失格になっても兎に角意地になって歩き続ける人がたまにいて、マラソンならそれでもいいかなと思いますけど、
古典を読む場合最後のページにたどり着ければよい、というものではないですよね。
途中の景色を楽しむためには相応の準備というものが必要なのではないかな、よほど読書体力に自身があるのでなければ、背景を知識として持っておくのは良い方にしか働かないのではないか、と私は思います。
100分で名著の一番の強みは「TV番組であること」であり一番の弱みもまた「TV番組であること」であると思っています。
強みとしては、インタラクティブな解説(動く図形とか、アニメとか、俳優の朗読とか)が可能になること
弱みとしては「解説者の準備期間、解説時間に制限がかかること」「番組上では注釈を実質的に挿入できないこと」「月に1冊のペースでしかラインナップを増やせないこと」ですね。
特に月イチのペースでしか増やせないのは大きな制約で、解説本の中で出てきた関連本に解説が欲しくても、100分で名著で解説される可能性は極めて低いと言わざるを得ません。
そういう意味で、名著巡りの入り口にしかならないといえばならないのだと思います。
100分で名著をメインに追いつつ、他にも手を出してみようとは思っています。
私は実は番組はあまり見ていません(3割くらいかな)。毎週火曜日この時間にTVに向かっていることが難しいからです。
理想は両方こなすことだと思いますし、伊集院光さんのリアクションは時々ハッとさせられることもありますが、私はどちらかを取れと言われたら解説本だけ読みます。
番組が「あらすじ」+「執筆背景解説」+「解説者の解釈解説」で割合が2:2:6~1:5:4まで変動するとしたら
解説本は執筆背景解説に一律+3、解説者の解釈解説が一律-2って感じです。
(逆に、あらすじだけ知りたい場合100分で名著は重厚長大で、もっと手軽な選択肢があると思います。)
そりゃ、番組の中で解説にちらっと出てきた著者の友人の来歴とか、著書とか、いちいち全部触れられないですよね。
つまり、私が元投稿で言った「本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名、思想、歴史上の出来事など)があることがわかった」現象は
番組を見るより解説本を読んだときのほうが顕著に起こると思われます。
なので、もし元投稿を見て「知識がつながるって面白そう」という点に興味を持っていただけたなら、解説本の方をメインにされることを私はお勧めします。
頑張って読んだ、という感覚はありませんでした。
おそらく、原典には「頑張らないと読めない」ものもたくさんあると思いますが、解説書の段階では頑張らずに済みました。
正直、興味をそそられたかどうかにはレベル差があるので、結局読まない原典もあると思います。
古典名作だと聞いて読んでつまらなかったら被害甚大ですが、水際で食い止めてくれたことになると思います。
読みたくない本、という感覚もなくて、どちらかといえば「知らない本は読めない」ですね。
恥ずかしながら「エチカ」だとか「夜と霧」だとか「全体主義の起源」なんて知らずに生きてきたので
まず読みたくないかどうかも解説書読んで判断しようと思ってました。
食わず嫌いよりは、試食コーナーの匂いで避けた、の方がまだマシかなと言う感覚です。
シャワーを使う際には、本はタオルにくるんで蓋に挟んで防水します。
このスタイルで読書して2年位になりますが、多少湿ることはあっても、問題になるほどビシャビシャになったことはないですね。
以前スウェーデンに出向していた友人から聞いた話ですが彼の国では大学とは必ずしも高卒すぐ入るものではなく、
暫く働いてから勉強したいことを見つけて入る人も相当にいるらしいですね。
その彼が聞いた日本との違いを顕著に表しているセリフが「高卒のガキに大学教育はもったいない」「日本人は高校生の時職業決めるんでしょ?すごいね」です。
後者は嫌味なのかな?と言う気がしないでもないですが、前者は今本当に身にしみています。
大学教育をきちんと受け止められる18歳って、そんなに多くないですよね、、、
以下私の勝手な解釈です。見当違いのことを言ってるかもしれないですが、、、
私と趣味が合いそうだなと思ったら、まずは以下をお勧めします。
スペシャル版なのでちょい分厚いですが、これが私の一押しです。
日本の大乗仏教諸派の成り立ちと違いについて、今まで何度か教わったし読んだはずなのですが全く頭に入ってこなかったのがすらすら入ってきました。
読了後は、まるで自動車教習所に通ったあと今まで目にも入らなかった交通標識が急に意味を持ち出したような感じで、街中のお寺から情報を取れるようになりました。
私自身が茶道やってる事が大きいかもしれませんが、日本人が外国人に、英語で日本文化を説明する起点として最高と思いました。
実際、ボストンで友人とあったとき(作者の天心はボストン美術館の東洋部部長です)なんと役に立ったことか、、、
全編、声に出したい日本語だと思いました。言葉がやや古いのですが、原典も薄くて読みやすいです。
維摩さんというレジェンド級のアマチュア(在家信者)がプロ(菩薩軍団)をやり込めまくる話です。
「煩悩は湧くに任せよ、とらわれないことが大事だ」というフレーズがとても頭に残っています。
一番実践しやすい仏教な気がしました。アメリカの方で流行っているzenとかsatoriってこれを目指してるのかな?と思っています。
↓と思った記事
https://aishinbun.com/clm/20181218/1888/
人間は自己愛ゆえに苦しまねばならぬ、というのがメインの本と理解しました。それだけでも納得感あるのですが、
本人的にはキリスト教最高!で異教徒を折伏するために書いた本らしいのに仏教が目指してるところと同じっぽいのが面白くて読んでました。
原典が思いっきり重そうなのですが、いつか読みたい本の一つです。
いろんなことを言ってるわけですが、
私は趣味を持て、幸せになれるぞ?という本だと理解しました。ラッセルさんの趣味の定義とは「~を収集すること」らしいです。つまりスタンプラリーですね。
何かに対して情熱を持ってスタンプラリーしてるうちは人生に飽きない、ということかと思いました。
解説本読破もそのノリでやってやらぁと思ったのを覚えています。
正確には100分で名著シリーズではないのですが、この「一週間で資本論」が成功したので100分で名著が始まったらしいです。
資本家の行動原理が今とぜんぜん変わらず、ギグ・エコノミーとかも19世紀の理論で説明できることに驚きました。
経済を理解するためというよりは自分の身の振り方を考える上で有用だなと思った本です。
リストがほしいというコメントをいただいたのでリスト載せます。
趣味が合いそうだなと思ったら、参考にしてください。
(抜け漏れあったので追加。まだ何冊か忘れてる気がする、、)
・点と線
・かもめ
・人間失格
・斜陽
・三四郎
・こころ
・茶の本
・奥の細道
・昔話と日本人の心
・死者の書
・銀の匙
・世論
・ペスト
・ゴルディアスの結び目
・1984
・苦海浄土
・夜と霧
・野火
・ソラリス
・マクベス
年末年始休みは読書もはかどり、新たに買った原典も既に8冊終わりました。
今のところ、全て期待通りの内容でとても充実した休みになっており今年ずっとこの調子で読み勧めていけたら、、、(無理だろうけど)と思ってます。
どういうふうに仕事の本を差し込んだら、自分の中の読書熱にうまく歩合出来るかを考えるのが今年の課題かな。
動物本とか、読んでて飽きることがあるんですよね。
なお、私が100分de名著を知ったきっかけは単身赴任中の父がずっと見ており、解説本を纏めて実家に持って帰ってきたのがきっかけでした。
私も読み出して以来、お互いの話題の共通点も増え、お互いの読書の幅も広がって、
初めて父と同等の視点で知識交換をできるようになったような気がしており、その点でもこの番組には深く感謝しています。
(私の専門のITのことでは以前から教える立場でしたが、これとはなんとなく異なる現象のような気がしてます。)
良い1年を!
私は20代女性、コンカフェや女性地下アイドルが好き、百合・美少女等男性向けコンテンツが好き
そして同性のパートナーと揃いの結婚指輪を左手薬指に嵌めている
堪らなく怖い
幼少期から兄に倣いゲームばかりして、学生時代はネットと男性向けコンテンツを消費した、二次元の女の子はすごく可愛くてきらきらしていて好きだった
私の好きなコンテンツの話をする男子のグループに混じっても打ち解けきれない感覚があってずっと女がコンプレックスだった
私は女の子の線の細さが触れたら壊れてしまいそうで怖い、だって女の子と触れ合ったことが少なかったから
専門学校に入って上京した時仲良くなったと思っていた男に女として消費されたときあー男だったらもっと単純に友達になれていて性欲とかそんなのなかったのにとすごく苦しかった
お店も制服も空間もきらきらしていて楽しくて大好きだったが先輩が化けの皮の剥がれた瞬間クソすぎて最終的に内部崩壊してほとんど辞めて悲しくなった
きらきらは素敵な面だけ見てるに限ると思ってそれ以降は客として最推しに会いに行っている
メイドになったあたりから付き合い始めた今の彼女は私を男みたいに性的に消費しないし女みたいに同調圧力をかけてこない
そして並の男より身長があるので私が触れても壊れない
あとになって私はパンセクだと気付いた
あの男からも女からも向けられていた性差を感じる扱いの違和感がやっと解けた
私にとって最初は性別はどうでもいい思考らしいが自分の嫌な対応をされないために性別で警戒して避けていただけだった
今の私はお金とかもカウンターとかきらきらの衣装とかそんな非日常を挟まないと女の子と触れ合えない
その1枚向こうの生身の女の子であることを感じると急に恐ろしくなる
何歳になってもどんな環境でもきっと人の本質は変わらないからあとになってそれで苦しめられるのが嫌だから
学生時代の“クラスの女子”という呪いは一生続いていくのかもしれない
あー推しに会いたい
悩みというほどのものじゃないんだけど
けどその人と寝たいとかは思わない
異性に対して性欲があるかと言われるとまた微妙だけど、同性に対してよりはあると思う。デブでブスなので、単純に体を晒したくないという思いが強いんだと思う
相手に対する感情の向き方は異性への好きも同性への好きもよく似ている
緊張しながら話しかけに行き、返事をしてくれると嬉しく、他の人と親しげにしていると嫉妬する
もともと嫉妬深いたちではあるけど、同性(異性も)の友人の交友関係について常に嫉妬しているわけではない
パンセクシュアルとかアセクシュアルなのかもしれないけど、そもそも恋人いない歴=年齢なのでなんとも言い難い
恋愛のパートナーより人生のパートナーがほしいという気持ちは割と強い
人生のパートナーを隣につなぎとめておく方法として結婚はしたい。一緒にいざるを得ない環境がないと人と一緒に生活することってできないと思う
あと子どももいたらいいなあとは思う
でもとりあえずこのことで強く困っているわけではないので放置している
ちなみに今は異性と同性に一人ずつすごく好きな相手がいる(両立できる)
結婚を焦り始めたら考えるんだろうか
今女の人に恋してます。私も女ですけど。
男の人も好きなります。
バイセクシャルってやつかな。
ただ私の場合、女性を好きなってもさして悩むこともないのでパンセクかもしれません。
私の中では最高に可愛くいとおしいのです。
年上ですけど。
毎日楽しく生きているのか辛くても元気に振る舞うことを信条にしているのか私には分かりませんが
ともかく元気ではつらつとしています。
普段死んだ魚のような目をして生きている私とは大違いです。
まぶしいです。とてもまぶしいです。
でも大好きです。
両想いなんてほぼないでしょう。
悲しいですけど私の容姿は人並み以下です。
来世は是非とも石原さとみさんか新垣結衣さんのような可愛い女性として生まれてきたいです。
それすら知りません。
仕事中にせいぜいすれ違う程度です。
まぁ今日はすれ違えませんでしたが。
既婚か未婚か聞けるスキルがありません。
年齢的に結婚してお子さんもいそうですが
気さくで親しみやすいにもかかわらず
彼氏くらいいそうです。
ですが生活感を発してないことをいいことに
ビアンだったところで恋仲になる未来など微塵もないと思いますが(私自身に人間的魅力が皆無なため)
少しだけ今より距離がずっとずっと近くなったことを想像しては「そんな未来あるわけねぇだろ!!」とアホな自分突っ込むそんな日々です。
アンザンガン
アンシンカン
アンゼンケン
アンゼンピン
アンゼンベン
アンゼンメン
アンポンタン
アンモンガン
インゲンアン
ウンテンイン
ウンテンオン
ウンドンコン
ウンパンセン
ウンモンザン
ウンリンイン
エンカンメン
エンガンセン
エンサンエン
エンジンオン
エンマンイン
オンインロン
カンセンエン
カンタンブン
カンテンセン
カントンメン
カンニンブン
カンネンロン
カンノンイン
カンブンテン
カンランガン
カンランザン
カンレンヒン
ガンケンエン
ガンケンシン
ガンメンキン
ガンリンキン
キンキンゼン
キンクンレン
キンシンカン
キンシンコン
キンセンメン
キンテンカン
キンテンネン
キンランデン
クンテンボン
クンレンセン
ケンケンロン
ケンシンレン
ケンミンセン
ケンレンハン
ゲンニンロン
ゲンブンキン
コンインゼン
コンカンバン
コンロンサン
コンロンザン
サンインセン
サンセンベン
サンゼンイン
サンゼンコン
サンボンセン
シンカンウン
シンカンセン
シンキンエン
シンコンサン
シンゴンイン
シンジンセン
シンセンエン
シンデンデン
シンナンピン
シンニンアン
シンニンカン
シンハンニン
シンパンイン
シンブンガン
シンブンジン
シンブンテン
シンモンカン
シンリンカン
ジンミングン
センケンロン
センゲンアン
センゲンブン
センシンロン
センジンクン
センデンセン
センデンブン
センデンマン
センニンケン
センマンニン
センモンカン
センモンテン
ゼンインシン
ゼンカンパン
ゼンキンセン
ゼンギンレン
ゼンゲンテン
ゼンシンダン
ゼンシンレン
ゼンセンメン
ゼンゼンネン
ゼンハンセン
ゼンハンブン
ゼンパンセン
ゼンパンレン
ゼンヘンカン
ゼンワンキン
タンカンエン
タンカンガン
タンカンキン
タンタンゼン
タンタンメン
ダンテンモン
チンゲンイン
チンゲンピン
チンコンシン
チンデンカン
チンナンピン
チンプンカン
テンアンモン
テンオンゲン
テンカンテン
テンシンドン
テンシンハン
テンネンリン
デンシンオン
デンシンセン
トンキンワン
トントンセン
トンナンセン
ナンキンセン
ナンクンデン
ナンシンロン
ナンミンセン
ニンシンジン
ニンシンセン
ニンメンケン
ネンキンザン
山上浩嗣『パスカル「パンセ」を楽しむ──名句案内40章』(講談社学術文庫、2016年)を買って読んだ。
パスカルの『パンセ』(これ自体は読んだことない)から、著者の山上さんが気に入った40句を抜粋して解説した本。
抜粋部分は基本的に、パスカルがキリスト教を信仰する中で思いついたことや考えたことが断片的に書いてある。
脈絡のない思いつきがたらたらと書いてあるだけかと思ったら、通読すると何となく山上さんが『パンセ』をどう読んでいるかが見えてきて面白い。
著者や出版社は1日1章読んでもらうことを期待しているようなのだけれど、ライトな読み物なので3時間もあれば読み終わってしまう。
中でも印象的だったのが、「パスカルの賭け」という章だ。
① 人間は、神さまが存在することを証明できないし、逆に存在しないことも証明できない。
② ここでもし神さまが存在するとすれば、人は、死後天国に行けるように、聖書に書かれた高潔な生涯を送る必要がある。
③ 逆にもし神さまが存在しないならば、高潔な生涯を送ることはムダであり、快楽を追及する人生を送るべきである。
④ このことから信仰とは人生を賭けた丁半博打のようなものだと分かる。賭けの帰結は以下の4つ。
(ⅰ) 神さまが存在しない方に賭けて、実際に神さまが存在しなければ(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られない自由な生涯を送った挙句、失うものは何もない。
(ⅱ) 神さまが存在しない方に賭けて、神さまが存在した場合(つまり賭けに負ければ)、自由な生涯は送れるものの、死後、地獄の業火に焼かれ続けることになる。
(ⅲ) 神さまが存在する方に賭けて、実際に神さまが存在すれば(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならないが、死後、永遠の幸福を得ることができる。
(ⅳ) 神さまが存在する方に賭けて、神さまが存在しなければ(つまり賭けに負ければ)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならない上に、死後、何も得られないこととなる。
⑤ なお、この世に生まれた瞬間から賭けは始まっており、どちらにも賭けないという選択肢はあり得ない。
*ちなみに以上の整理には批判多し。
その上でパスカルは、確率論を駆使して、神さまが存在する方に賭けるべきことを論証していくのだが、結構しょうもない論理でおもしろい。
上と似たようなことを信仰を持ってる人は誰しも考えたことがあるんじゃないかと思うが、パスカルみたいな稀有な天才が似たようなことを考えてるのがまたおもしろい。
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。
汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。
面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。
自分の精いつぱいの物を。
然し、必ず、こはれるものを。
然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。
それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。
私が、私自身に裁かれさへしなければ。
たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分は前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である
しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする
前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ
それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。
クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。
これらの指摘は、全く正しいと思われた
"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う
私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない
しかし、自分は自分の表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ著「善悪の彼岸」
自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か
あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分が決断し、自分が選んだ」に過ぎない
決めたのは自分自身に他ならない
然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。
そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。
自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。
誰がそれを許したのですか。
許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」
「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観
主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか
荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。
この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。
強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。
対象a
人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象。
他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象、自己対象との関連性が指摘される。
経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。
単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの。
満たされない欲動の向かうところ
詳しくはこれを参照して欲しい
求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分の意志によってすべてが好転する
「世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる
絶対的な依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である
母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)
成人した後は、形を変えて残る
人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない
「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」
幼児の頃の万能な世界や、絶対的な幸福、真理や真実と表現されるもの探し求める
絶対的な愛情は存在しないし、絶対的な幸福は存在しないし、絶対的な絶望も存在しない
しかし、人はそれを求める
逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間の尊厳を冒涜するエロ漫画を否定する事)は
主観としては作品そのものの力によって屈服させられたように感じられる
自分を駆り立てものはいつだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である
欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理を破壊する作品」に惹かれる
それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる
それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか
※1:投影
投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快な感情や性格を他者が持っているかのように知覚することである。
たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者に投影して逆に他者が自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である。
現実界
フロイトの現実原則や、カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)
などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。
以下に記述する想像界にも象徴界にも属さない領域であり、例としてはトラウマや不安、現実における体験などで言及される。
象徴界
ラカンは言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。
これは自己と他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。
大文字の他者も言語活動の一部であることから、象徴界に属するものとして考えられている。
想像界
その正確な描写となると大変な労力を要するような対象と世界を指しており、
かつわれわれが頭で思っているものを言う。
正義。力。
正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。
力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。
正義のない力は 非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。
そのためには、正しいものが 強いか、強いものが正しくなければならない。
正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。
そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。
なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
調べてみて貰えばすぐに分かるが、あれは正義ではない
以前、自分はVictimGirls3という作品に触れる機会があった
朝凪氏の描いたもので、ROのキャラクターが触手モンスターに媚薬を打たれて快楽墜ちをし、同胞を巻き込んでいくと言う話だ
作中、女の子がおぞましい触手を恍惚の表情で見つめ、キスをし、舌先から針を打ち込まれてしまうシーンがある
そこには尊厳はなく、正義はなく、倫理はなく、道徳も信仰もなかった
それを良く覚えている
朝凪氏はそれから、その世界観を崩さずに現在まで活動を続けている
緑のルーペ氏はどうだったのだろうか
商業的に氏が有名になった作品は、初単行本の表題作である「イマコさんシリーズ」だろうか
氏の作品にも、人が普段は忌避するような倫理観の冒涜が綴られている
作品内での出来事だと分かってはいても、読むことによって何らかの"汚染"が始まってしまうような感覚
それが、氏の作品には匂っていた
ただ、それは今になって思うことなのかもしれない
なにしろ、「イマコシステム」ではその冒涜にも「すべてはイチナの妄想であった」という解放感や救済感があったからだ
まあ、初単行本と言うことで氏本人が自重したか、編集に止められたのかもしれないが
また、次の単行本である「ガーデン」でも基本の傾向は変わらなかった
人の持つ倫理観を侮辱し、柔かく大切に思うものを徹底的に凌辱し、その背徳感で快楽を貪る
前述の朝凪氏の作品もそうだが、赤卵氏の作品にも通ずるものがある
そこが氏のバランスのとれた所だと思うし、作品の巧さに繋がっているのだと思う
どこまで意識しているのかまでは個人の人格の話になってしまうが、"それだけではない"というのが分かっているのだと思うし、センスが良い
きれいはきたない、きたないはきれい。闇と汚れの中を飛ぼう。
ウィリアム・シェイクスピア著「マクベス」より魔女のセリフ
まさに、この言葉の通りだったのだと思う
何も知らない可愛らしい性欲を掻き立てられるような 女の子が
快楽に負け、自分の倫理観や尊厳や未来を無慈悲かつ理不尽に奪われ穢される
その背徳感を描き切っている
怒りや悲しみ、時として性欲を
冒頭の引用を読み返してほしい
人はきっと、綺麗さを信じ込むことはできない
だから人は他人の善行にケチをつけるし、美徳には汚点を加えたくなる
しかし逆に、それは人が完全には堕ち切らない事をも意味するのだ
それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
今回の作品「宇宙人の冬」では、主人公の青沙マコと地球人には救いがないだろう
朝凪氏がVictimGirlsで描くような救いのなさだ
おそらく、だからこそ、氏はこの作品を全力で描かざるを得なかっただろうし、今まで描けなかったのだと思われる
「それを 打ち倒さねば 己になれない」
そのために何もかもを引っくり返して叩き売りだ
そうだ 500年前の俺も! 今のお前も! アンデルセンも!! あの少佐も!!
私と闘いたかったんだろう?
でなけりゃ一歩も前に歩めなくなったんだろう?
進む術も知らんのだろう?
無用者になるのが怖いか!! 老いが怖いか!!
忘れ去られるのが怖いか!!
ジョンブル? ふざけるな!! ふざけているのはお前だ!!
この作品は、間違いなく氏にとっての闘争だったのだ、打ち倒すべき何かだったのだと思われる
そして、氏がこれを描くにあたっては、あるいは年月以外の何が介入していたのだろうか
それが気になる所である
取り消し線の付け方の訂正
引用元の明記
改行の追加
別エントリにて追記
ふと思ったのだが「イマコシステム」におけるイマコが時折"黒以外の装飾"を着けているのは意図的なのだろうか
「クロミツイマコ」には「常に真っ黒の服しか着る事が出来ない」というキャラクター的ペナルティを持つ。
その観点で言えば、商業において「クロイミツイマコ」は登場していない
ぱんつも装飾品に含まれるのだろうか?クロミツイマコの下着絵を確認できないので分からないが、黒ぱんつということなのだろうか、背伸び感が出ていて素晴らしい
「イマコはクロミツイチナと出会わない限り幸福になれない」というキャラクター的ペナルティを持つが
このシステムと、イマコとイチナのキャラクターを流用したのが"イマコシステム"だったのだと思われる
荒巻「さっきから聞いていたが、外部記憶装置無しにはさっぱり付いて行けない会話だな。
ここのエロ本は全て読んだのかね?」
「そこまでは」