はてなキーワード: パターナリズムとは
そうそう
「男が女を守る」というのはまさに旧来のジェンダーロールやパターナリズムに他ならないわけで、そこでは女イコール弱者、半人前というのが前提になっている
本来なら男女平等論者こそ、そういう上から目線のお情けなんかはねつけなきゃいけないはずなんだけど、
それでフェミがなんでミサンドリーこじらせるかっていうと、結局本人の感情や好みが古い世界から抜け出せてないし、新しい世界にも適応できてないからだよね
本当は強い男に守ってほしいのに守ってもらえず、弱い男がイキるのがムカついてしょうがないという
男女平等を叫ぶくせに、強い男から守ってもらえること、社会から優遇してもらえることが男女平等だと誤認してしまっている
LGBTの権利を認めるリベラルなEU諸国も、出生前診断を公費で全員に受けさせたり、中絶費用を出す国だってある
高福祉を推進するならば、あらかじめ分子(福祉の対象となる子)が少ない方がいいという点でも合理的
その代わり生まれてきた子は全力で支えるんだよ
たまに勘違いしてる人もいるのだが、安楽死や出生前診断・中絶の権利はナチス主義者や保守派が推進するものじゃないんだよ
オランダやベルギーみたいにリベラルな社会で当然の権利として認められるようになったものだ
愛する相手も、結婚するかどうかも、自分の性を売るかどうかも、摂取したい薬物も、産みたい子どもも、死にたいタイミングも、全て個人に任せるのがリベラル社会の良い所
https://anond.hatelabo.jp/20180709194600
元増田です。鋭いコメントありがとうございます。本筋から少し外れますが、仰る事に同意です。
看護師を含め医療従事者の多くは、自分達の行為が、形式的には暴行罪、傷害罪、逮捕監禁罪といった犯罪行為の構成要件に該当する、患者の法益を侵害し得る行為であるという認識が「無い」
多くの看護師は、その認識が欠如していると思います。結果的に、日常的にそういう感覚のまま、人間性というかモラルの低下につながっていきます。
私なりに具体的な論理を補足させて頂くと、
看護師は刑法第174条という法律に規定されている「わいせつ罪」の行為、つまり「普通人の正常な性的羞恥心を害し」を患者に対して行うのも仕事です。(洗体とか陰洗とか直腸・・以下省略)
・性欲の興奮、刺激を来すこと
それが犯罪にならないのは、もう一つの構成要件である「善良な性的道義観念に反すること」でない純粋に看護行為の一環として行うこと、に患者が暗黙の社会的合意していることになっているゆえに法律違反という犯罪から特別に免除されていると言ってよいでしょう。
もし、「わいせつ」の最後の構成要件である「徒に性欲の興奮、刺激を来すこと」をした時点で看護から逸脱していることから「善良な性的道義観念に反すること」に抵触しかねない。看護師の職務行為は「わいせつ罪」と本当に紙一重の事を、社会からの信用「信頼を基盤として成立している」という事ですね。
必然的にこういった事について、医療従事者・看護師達は、無感覚になりがちです。
具体的には、ひと昔前に副業で風俗嬢をやる看護師達の事が議論となりました。
http://blogos.com/article/86641/
私の結論は、風俗売春行為をする看護師は、社会の人々からの信頼を毀損する ー 「看護はわいせつ行為と同じではないか」、「そんな事に同意した覚えはない」と。そして看護は、"看護を必要とする人々からの信頼なくしては存在しない"からして、看護師は風俗嬢として副業すべきでない、と(実際は、似たようなもん、と言ってバイト感覚でキャバ嬢・風俗嬢やる看護師が非常に多いらしいですが)。ゆえに、キャバクラ含む風俗で働くような看護師は免許を返上すべき、と。
また、
「パターナリズム」という言葉は父権的干渉主義などと訳されます。本人の意思にかかわりなく、本人の利益のために、本人に代わって意思決定をすることを意味し、父と子の間のような保護・支配の関係を指します。相手を無知な存在として扱うパターナルな押しつけ
患者が望んでもない医療行為を勝手に押し付ける、という問題です。患者の自己決定権の否定につながります。日本ではまだまだ「お医者様様・看護師様様」状態で、全然だめですね。一般、つまり患者側の権利意識が無さすぎます。
医療側がとる「あなたのことは何でも分かってる」とでもいうような態度はパターナリズムの典型ですね。パターナリズムは、パトレ(pater)つまり牧師・父性。つまりは、「子らよ、私の言うことを黙って聞き入れなさい。これは神からのお告げなのです。すべては子らの幸福のためなのだ」というやつです。医者が自分より目上の大人をまるで子供扱いしてしまう自己陶酔の状態。看護師なら「知らないでしょ、あなたの為なのよ、やってあげてるのよ」、という"上から"の態度をひけらかして患者を自分の思い通りにさせようとします。
英単語の「patronize ペイトロナイズ」という同じくpaterを語源に持っていて、直訳すると「保護者ぶるー>(転じて)子供騙しな扱いをする」となる。これは英語圏でも相手を侮辱する行為である。だから”Don't patronize me!”というのはよく聞かれるフレーズ。
https://anond.hatelabo.jp/20180709065932
の続き。
なぜ、看護師などの医療従事者のモラルが問題となり、医療従事者の中で「看護師は特別」という自意識を持つものが多いのだろうか。基本となる看護師ー患者関係を見てみよう。基本的な大前提として、患者と医療者の関係は対等ではない。
Boundaries and the Nurse-Client Relationship:
Keeping it Safe and Therapeutic
Guidelines for Registered Nurses
The nurse-client relationship is one of unequal power, resulting from clients’ dependence on the services provided by nurses, as well as nurses’ unique knowledge, authority within the healthcare system, access to privileged information about clients, and ability to influence decisions (CRMN, 2007). This power imbalance can place clients in a position of vulnerability and potential abuse if trust in the nurse-client relationship is not respected. It is the nurse’s responsibility to recognize this imbalance of power and to be aware of the potential for clients to feel intimidated and/or dependent (CRNBC, 2006).
Intimacy
Nursing practice, by its very nature, can create an atmosphere of physical, emotional,
and psychological intimacy that can, in turn, increase the vulnerability of clients.
http://crnns.ca/wp-content/uploads/2015/02/ProfessionalBoundaries2012.pdf
要約すると、「患者」対「看護師」という時点で不公平な力関係が生じ、患者は看護師に対し脆弱で言いなりにされるがままの弱い立場に置かれる。看護師がその職業的立場を自覚せずに軽視すると、患者は潜在的虐待と搾取の対象となる。その不均衡は、患者は看護師が提供するサービスに依存し、看護師の専門知識と医療機関における権限、患者個人の秘匿情報に触れる立場、そして患者の決断を左右させうる立場などから来る。
また、看護という仕事の特性上、患者に対して密の肉体的、精神的、感情的な親密さという雰囲気を醸成するが、これは同時に患者の脆弱性を増長させてしまう。
この潜在的な権力の乱用につながる力関係の不均衡と職業的立場を認識し、患者を萎縮させてしまうように感じさせたり、依存させるようなこと、または弱い立場に付け入るようなことにならないように注意するのは看護師の責任である。
医療を受ける患者の弱みに付け入ったり、看護師の立場上得られる力を乱用しない、というのが患者ー看護師の間における信頼関係の基本となる。
と、このように欧米での基本的な教育と看護指針では、これ以上ないくらいはっきりと明記している。
しかし驚くべきことに日本における看護教育の課程や臨床現場のみならず、看護協会にも学会にもこの観点から指摘した具体的な倫理規範も指針・ガイドラインも一切存在しない。日本では臨床の看護師も当然、誰一人知らない。
つまり、看護師達は、権力を乱用したり弱みに付け込んでいる、という事すら、認識しないで、乱用しまくっている状態が多いのだ。態度の悪い、タメ口を平気で使う若い看護師を見れば分かる話だ。
さらに、
https://anond.hatelabo.jp/20180709055614
でも触れたように、医療に従事するものは、『患者の命は自分が握っている』と思い込む傾向が強い事が明らかになっている。殺人をして逃げおおせたシリアルキラーが神に近い万能感を感じるという例に似て、医療者は勘違いしやすいのだ。
そして、
https://anond.hatelabo.jp/20180709065932
でも触れたように、日弁連も指摘しているように、
ところが,我が国には,このような基本的人権である患者の権利を定めた法律がない。・・・そのような中で,今日,我が国の医療は様々な場面において多くの重大な課題を抱え,患者の権利が十分に保障されていない状況にある。...ところが,いまだ,患者の権利に関する法律は制定されていない。
看護師を取り巻くモラルの問題は、エイジズム、共依存、パターナリズムと幅広く、根深い。
にも拘わらず、
https://anond.hatelabo.jp/20180709065932
でも明らかにしたように、患者一般はもとより、日本の看護界においては無教育、無知が蔓延していると言ってよいだろう。
補足
https://anond.hatelabo.jp/20180709203858
参考
https://anond.hatelabo.jp/20180709055614
の続き
ダニエル F.チャンブリス著、浅野祐子訳「ケアの向こう側 看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾」
この本は、病院でフィールドワークを行い患者や医療者に起こっていることを目の当たりにしたことをもとに書かれています。目的は「ナースが日常業務の中で倫理的問題をどのように捉え、対処しているかを、詳細に、かつ弁護できる程度の一般化をもって記述すること」です。
第1章は、「ナースの世界、すなわち病院は、一般社会とは全く異なる道徳システムを持っている。病院では悪人でなく善良な人がナイフを持ち、人を切り裂いている。そこでは善人が、人に針を刺し、肛門や膣に指を入れ、尿道に管を入れ、赤ん坊の頭皮に針を刺す。また、善人が泣き叫ぶ熱傷者の死んだ皮膚をはがし、初対面の人に服を脱ぐよう命令する」といった衝撃的な言葉で始まり、「一般人にとって身の毛のよだつ残酷物語もここでは専門家の商売なのだ」と続いています。
確かに病院は一般の生活とは異なる独特の世界があります。しかし次第にそれが普通のこととして「日常化」され、業務は「ルーチン化」されていきます。チャンブリスはこの「ルーチン化」とともにナースの感情は平坦化し、そこで生じる出来事に対する感受性も失われていくと述べています。患者さえもそのルーチン化に含まれていきます。患者は人としてではなく、一つのケースとしてしか認識されないようになるのです。その結果、ナースは患者に生じる多くの倫理的問題、道徳的問題を認知しなくなっていくのだと分析します。
しかし、倫理的問題こそナースが積極的に関っていくべき必要があるはずです。なぜなら、ナースは患者を擁護する立場にあるからです。アメリカでも、アメリカ看護師協会(American Nurses Association )による「看護師の倫理綱領( Code of Ethics for Nurses)」にそのことが明記されています。
こういった事実を知っているかどうかで、未来は大きく違ってくるはずです。まずは、女性だから、看護師だから、そういった犯行は起きない、という偏見・先入観を捨てる必要があります。
それどころか、むしろ看護師という職にある限り、必然的にモラル・倫理的に気が付けば滅茶苦茶な様態になる職だと認識し強く自覚し、教育をしていくことが必要です。
根源的には人類共通の「死と病への畏れ」があり、日本においても仏教思想的な浄・不浄・穢れの概念から、科学が発達していない時代に、やはり皮膚・血や体液・死を取り扱う医師、助産師、看護師、洗濯、理髪は賤業と見なされていた。(ヨーロッパでも同様に血を扱う理髪師兼外科医)
それゆえ、日本の近代的な専門職としての看護の始まりにおいては、やはりナイチンゲールの「白衣の天使」というイメージを輸入し、キリスト教徒の信心深い修道女の禁欲規律使命献身と清純のイメージを全面に打ち出し、「聖**看護学校」「聖**病院」「**マリア病院」、はたまた教会の修道女の誓い(神との結婚つまり禁欲貞操の誓い)を真似た宣誓と戴帽式といった、実際には看護師はキリスト教徒でもなく修道女でもないのにも関わらずそのイメージを一般大衆に植えつけ印象付けてきた。
中身と行動が伴っていない虚飾はまったくの茶番。
問題なのは、日本の看護はその上っ面のイメージと形式だけを輸入し、本質的な使命と人間性の道徳教育や倫理観を輸入し損ねたことだ。欧米文化圏では文化的に刷り込まれているキリスト教的道徳価値観倫理観すらも持ち合わせていない日本で。。。
そもそも現代日本の看護教育は、戦時中の軍隊式日本赤十字の従軍看護婦養成の伝統をそのまま引き継いできてしまったものだ。
日本では戦後長らく,看護学研究に関する倫理の問題はおろか,「看護倫理」一般についての空白期が1980年代初頭まで続いた.かつて日本の看護師には,清楚さ,奉仕的精神,医師への従順さ,組織への忠誠,規律と秩序の維持等の,専ら内面的な美徳を備えた者であることが期待され,それに応答することが看護倫理であった.しかし,戦後民主主義が浸透し,経済的に豊かになる中で,過去の看護師像に対する強い反発と反動が日本の看護界に広まり,抑圧された過去の看護師像を想起させる「看護倫理」そのものが敬遠されたことが,この空白の背景にあるといわれる.その結果,米国では1960年代からすでに看護学研究に伴う倫理的課題に対する積極的応答が看護界全体においてみられたのに比して,日本の看護界における対応は1980年代中頃になるまでほとんど皆無であった.
この時期(1951-1966 年)の看護倫理に関する教育内容は、「ナイチンゲール誓詞」などの倫理規定のほか、看護師にとっての礼儀・作法、心構え、守秘義務、対人関係など、戦前の流れを引き継ぎ美徳中心であったとされる。
1967 年の指定規則の改正では、看護学が基礎科目と専門科目に分けられて体系化がはかられる一方で、「看護倫理」という独立した科目は削除された・・・
この時期(1967-1988 年)には、1967 年のカリキュラム改正前の看護倫理は、看護婦としての心構えや人類愛、使命感、奉仕などの精神性で貫かれており・・・
1989 年に指定規則が改正されたが、このとき看護倫理を「看護概論」の中に含むという「注」も削除された。これによって、看護倫理に関する記述は指定規則から全く無くなり・・・
1996 年の指定規則の改正でも、看護倫理に関して独立した科目は設けられていない・・・
2002 年に出された文科省看護基礎教育の在り方に関する検討会報告「大学における看護実践能力の育成の充実に向けて」(文部科学省, 2002)の中では、人間尊重・擁護の方法について「看護職者は、対象者が治療及びケアを受ける過程で遭遇する具体的な場面で、常に、その人の尊厳と権利を擁護する立場で行動できることが不可欠である」と述べられている。また、その教育方法についても「学生自身がその意味に深い関心を持ち、看護職者が対象者の権利擁護者として機能することの意義を追求できるよう、具体的な看護事象を用いた演習を組むなど、学生同士の討論や患者などの対象者などから学ぶ方法を採用することが大切である」とされている。さらに、人間尊重について「対象者の立場に立つこと、個人の文化背景・価値・信条の理解、意思決定に必要な情報の提供、自己決定権、人間としての尊厳・人権尊重、インフォームド・コンセントの実践と支援、プライバシーの保護と個人情報の取り扱い、セカンドオピニオンの意義などについて」と具体的に言及し(た)
プライバシー尊重とか超超基本的な倫理についてやっとここ数年になって看護教育の課程に組み込まれただけ、以前は全くありませんでしたとか、冗談かよ、な状態。
恐ろしいことに、本来あったり前の守秘義務でさえ、看護師においてはほんの10数年前まで存在してなかったというお粗末さ。
秘密の保持に関する保助看法上の条文は法 制定当時にはなかったが、平成 13 年(2001) の法律第 87 号で第 42 条の 2 として新たに追加されたものである。
今の30代以上の看護婦世代…そしてそういう世代から教わる今の看護師達。
ところが,我が国には,このような基本的人権である患者の権利を定めた法律がない。
そのような中で,今日,我が国の医療は様々な場面において多くの重大な課題を抱え,患者の権利が十分に保障されていない状況にある。
...
ところが,いまだ,患者の権利に関する法律は制定されていない。
...
日本医師会生命倫理懇談会による1990 年の「説明と同意」についての報告も,こうした流れを受けたものではあるが,「説明と同意」という訳語は,インフォームド・コンセントの理念を正しく伝えず,むしろ従来型のパターナリズムを温存させるものであるとの批判を受けた。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/jfba_info/organization/data/54th_keynote_report3_1.pdf
「看護師=モラル高い人達」という幼稚な幻想や、看護師が何か問題を起こせば「環境による被害者」という風潮を、周囲やメディアも含めて、煽り過ぎている現状があります。
今日の日本では、医療現場のみならず、世間一般の中にも無知が蔓延し、患者の当然の権利を「モンスター患者」の一言で黙殺しようとする風潮がある、とまで言える。
続く
幸色のワンルーム 放送取りやめに関しての思いとか。|たれ(甘辛い)|note
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/amakara_no_tare/n/na4eb53fb6768
だから言ったじゃん。幸色のワンルームは、若い子が普遍的に持っている逃避行願望が投影された作品だって。少女向けのたわいもない作品だって。
現実の事件をモチーフにしたものではないと作者が明言し、発表されたのも事件の半年後というラグがあったにも関わらず、
誘拐事件を女の責任に転嫁したい性差別的な作品という文脈を勝手に仮託して吹き上がっても仕方がないだろう、と。
しまいには、若年層の家出を助長するからダメなんて噴飯物の主張まで出てくるんだから手に負えない。
しかし、抑圧された不満が自身に向かうのを目の当たりにして意気消沈する正義の人の姿には笑う。え、今になってようやく気付いたの?
君らのやってることはパターナリズムそれと同じとは思い至らなかったのか。
人が自由に楽しみ萌えていたものに、正しいか正しくないかの尺度で介入して矯正させておいて
「抑圧するつもりなんてなかった」とかよくもまあ言えたもんだよ。
それがはてな
「音楽に政治を持ち込むな」といってたネトウヨそっくりですよ。
フジロックSEALDs問題の2年前の自分のブクマコメント読み返してください。ダブスタになってませんか?
若者は「SEALDsもHINOMARUもUSAも好きにすればいいんじゃね」ですよ。これがあるべきリベラルですよ。
<追記>
排外主義者になってしまう程度には日本人の良心は脆弱ではないかと過去の歴史に照らして思う』
こんなロジックで「日本死ね」を称揚し「日本好き」と言うのは叩いてるんすか笑
こんなパターナリズムと言論弾圧と自分の思想派閥のみを称揚する態度は
左派思想が天安門虐殺や反日テロにつながったから、左派思想のSEALDsの活動を妨害するネトウヨと全く同じ
「音楽に右翼思想を持ち出すな」って、君らが左派だからでしょ、だからネトウヨと一緒だよ。
まあ愛国歌を歌うと謝罪させられるなら本当のロックは愛国歌を歌うことだろうね、大いに弾圧してくれよ笑。
HINOMARUでググると若い音楽好きのyoutuberの反応面白かったんで、おっさんたちは見てみてね、これが若者の感覚なんで。
https://www.youtube.com/watch?v=045MAqlS82w
https://www.youtube.com/watch?v=wdJegw02VjI
はてなのコメント読んでいると、ほんとに、やばいなー。俺は「日本死ね」を「自分の愛国心への攻撃と受け取」ってないよ笑
だって、俺は「日本死ね」もOK,「日本好き」もOKっていうリベラルだよ笑。
「SEALDsもHINOMARUもUSAも好きにすればいいんじゃね」って書いてるじゃん、こんな短い文なのに読めてないんだよね。
他人に対して「~は甘え」とかって言う人さ、それは何に対しての甘えなの?
社会の歯車としての役割を自分や他人にまっとうさせて皆で人柱になろうっていう覚悟に対する甘えでしょ?
そうやって「社会人」みたいな想像上の硬直的なロールに縋って生きること自体が、自分の人生を自分で調整して自適に生きようという現代的で知的な考え方からの逃げであり甘え。
他人の考えを束縛し枠に嵌めて追い詰めんとする害悪全体主義思考だと気づいた方がいいよ。その甘え発言がほとんどの場合忠告にすらなってない、パターナリズムとしての役割も果たしてない事にも気づかないくらい凝り固まってるんだろうからどうしようもないけど。でもしょうがなくないわ。そういう発言が巡り巡って実際に人を自殺に追い込むんだから。でそういう人に限って自殺者のことをバカだなぁ融通のきかん奴とか言うんだよね。たかが風邪のことでって思うかもしれんけどそういう所から始まるんだよ。逆に言えば、そういう些細なところで自愛を促せるかどうかが、職場とかのコミュニティの健全さをはかる指標になるとも言えるけど。
DNSブロッキングってもしかしてもう始まってるのだろうか。生憎(一般コミック)に興味がないので、例の3サイトやらは使ってないから分からないが。そうだとしても、DNSが塞がれただけならIPアドレスを直打ちするか、hostsファイルを弄って正しい名前解決をさせればいいだけじゃないかなと思う。
ところで、そういう発想がポンと出てこないような低リテラシーなというか、情報弱者層がよく分からないままアホな事してるのを止めたい、ってパターナリズムは少し分かるところがある。何か高度なことをしようと思ったら、それ相応の学習をしなければならない。それが民主的な社会を維持するためには必須だから。人民が賢くあろうとしないと判断能力すら育たない。でも学んだ人間が、意思と思想をもってあえてルールを破ろうとする余地が一切残されていない社会は健全とは言い難い。もしこうしたブロッキングが進んで、そういう余地が残されなくなってしまったら、本格的に日本は社会主義国家とみなされるだろう。
私は、違法行為がなんの知識も思想もない人間の手の届くところまで降りてきていることが真の問題だと思っている。昔を思い返せば、マジコンにしろ、怪しげな中国企業が提供していた無料音楽アプリにしろ、漫画村にしろ、ああいうものを利用していたのは無知蒙昧な一般人層だ。本当のギークは、そんな二次三次放流の広告つきサービスなんかには目もくれず、WinMXだとか、Winnyだとか、今だとtorrentだとかのP2Pソフト、あるいはMegaやRapidgatorのような海外アップローダーだとか、そういう所で割れにリーチし、海外のなんちゃらHentaiやら、なんちゃらSharingやら、なんちゃらSubsのような、特に広告があるわけでもない、ガイジン有志の熱意と寄付で運営されている海外フォーラムやサイトを英語にめげずに巡回していたはずだ。そうしたサイト上で形成されたコミュニティーでは、同好の士が独自のポリシーを持って勝手にアニメカルチャーを広めている。功罪あれど、役人たちがクールジャパンと呼ぶものの実態はそうした活動によって広まっていった側面が決して小さくない。例えばアニメについてはrawはブラックだろうが、そもそも日本のアニメがきちんと海外配信に向き合ってこなかったこと、字幕を機敏につけられる体制がなくファンによる違法subに頼るしかない状態が続いていることが元凶になっている。ゲームのROMのような権利的に完全にアウトではあるがハッキングコミュニティと繋がっているものもあり、また海外のポルノ投稿サイトが最もブラウザの脆弱性を知り尽くし裏をかいて広告を表示させる技術力を持っていたりするのもそうだが、大きく捉えればコンピュータ技術の発展とウェブのアンダーグラウンドは切り離せない。そうした繋がりをパターナリズムによって断絶させようとするのなら、人間は健全な消費者になるどころか、ますます愚かで思想を持たない一般人で埋め尽くされるようになるだろう。低い者に合わせようとした結果だ。
そして、そうなった時代にコンテンツの未来はどうなるかというと、すべてが同人活動になっていくだろう。既に絵や漫画はtwitterやpixivを漁れば十分な量の娯楽が、絵師さんたちの手で自ら無料で公開されている。そこで絵師さんたちが求めているのは共感や評価であって、貨幣ではない。その傾向が加速して、コンテンツに対価を払うとか面倒くさいことは避けて、自給自足で楽しみ合おうじゃないか、という世界になるだろう。動画制作も、ゲーム制作も、より誰でも手軽に十分な品質のものが作れる環境が急速に整ってくるだろう。Vtuberの人気もそのコンテキストで見ることができる。技術環境さえ整って個人Vtuberがリッチな絵面になれば、より自由度の高い個人の方が強くなってくる。そして広告案件すらださずに伸び伸びと演じるキャラクターの方が好かれるようになってくる。そうやって貨幣でない評価基準に価値を見出し、「足るを知」った人たちによる狭小住宅ならぬ狭小エコノミーが多数派になる。経済的にみると泡沫のようなものが多種多様に出てくるだけだ。そこには国家が望むような経済的成長はないだろう。