はてなキーワード: 通夜とは
月~水で木金までの仕事を上げたけど死ぬかと思った。何とかなったのは運だ。
自営業だから誰かに頼むとかできないし、仕事は常に前倒しで進めるか、余力を持って入れるべきだなーと痛感したよ。
危篤の連絡があった時、夫に相談の電話やメールをしたけれど繋がらず。
危篤の連絡があった時、「何で今日なのか!やっと予定掴んで、確実に証拠撮れるであろう今日なのか」と思ってしまった。動転して準備して、家を出て最寄り駅に着くまで迷っていた。
今夫に連絡したら、浮気の予定を止めてしまうかもと…夫は最低だが私も最低だ。
でも結局、浮気の証拠と祖父を天秤にかけるのは人としてダメだと思い夫に危篤の旨連絡した。
祖父は結局間に合わないということで、東京駅から引き返して家に戻り徹夜で仕事を終わらせて何とか通夜に間に合い、一通り終わって今に至る。
久々に地元に来て、家族も義理の両親も優しくて癒される。(義理両親は葬儀に来てくれた)
優しくないのは夫だけだな。悲しい。
とりあえず、これでやっと夫と話し合えるのが嬉しい。
去年の夏、私は1人の友人を亡くした。
中学校の同級生で、ここ数年は1年に一度必ず同級生たちで集まっていた。
私は地元の専門学校を卒業して働いていたが、彼は地元を出て関東へ行きそれなりに頭のいい大学へ入っていた。めちゃくちゃ仲が良かったと言われればそうでもなかったのしれないが、皆で一緒に帰宅したりよく話したりはしていたのでそれなりには仲が良かった。間違ってる事は間違ってるとはっきり言える性格の人で、それに救われた事は何度もあった。
私が最後に彼と会ったのは一昨年の年末で、これまた同級生で忘年会だった。酔っ払っていたので彼は先に帰ってしまったが「来年また集まると思うから帰ってきたら連絡してよ」と最後に告げた。
しかしもう今後二度と同じメンバーで集まって飲み会をする事は無くなってしまった。
当時、現場は悪天候で視界がとても悪かったようで、そのタイミングで元々トラブルの多かった踏切で何か起こったらしい。
状況や遺留品からしても大学から帰宅する途中だったようで、自殺ではなく事故だったという説が濃厚である。
Twitterでは「人身事故起こしたやつもっかい死ね、二度死ね」「まじで地獄に落ちろ」なんて書かれていたのを見て
ふつふつと怒りが湧いてきた。いや、関係無い人達からしたら確かに電車が遅れるのはよろしくない事なのはよく分かる。
そして、20代前半で遠い親戚のお通夜くらいしか行ったことの無い私が、まさか人生で初の告別式が同級生とのお別れになるだなんて思ってもみなかった。「遺体の損傷が激しく対面は不可能です」だなんて言われて、結局最後に顔を見る事すら出来なかった。
そんなこんなで1年以上経ってしまったわけだが、未だにお線香をあげにも行けてないしお墓参りにも行けいない。こんな事が起きるのが初めてなのでどう伺っていいかもわからなく、ずっともやもやしている。
・・・とずっとここ最近悩んでいたのだが、考えている事が夢に出てくるのはどうやら本当らしく、昨日彼が夢に出てきたのだ。
同級生の皆でわいわいとご飯を食べているのだが、なぜか彼がいる。皆は疑問に思っていないが、自分だけか気づいているのだ。日付を見ると事故が起こる一ヶ月前。どうたら自分だけが未来からやってきているようで、自分だけが彼がこの後死ぬ事を知っている。
「一ヶ月後の事を彼に伝えるべきか?」「自分が伝えなければ彼はどうなるのだろうか」
ずっともやもやもやもやし続けていると彼が席を立った。私も追いかけた。そして後ろから「あの、あのさ、ちょっと」と声をかけると、彼は一言
と言って暗闇の中に消えてしまったのだ。
そこで目が覚めた、朝の6時53分。かなり文章を端折ってしまったので短い夢に感じるが、長い間ひたすら食事をとっていたし長い間ひたすら追っかけていたのだ。今までに見たことのないくらいリアルで生々しく、胸にいくつものつっかえを残していった夢だった。
そして今、バイトを終えて帰宅してずっともやもやしている。やらなきゃいけない事なんて山ほどあるのだが、ずっともやもやしていて手につかないのでこの文章を書いている。Facebookの友達にもLINEの友達にも連絡帳にもデータフォルダの写真にもずっと残っているから、未だに居なくなってしまった実感がないのだ。
同級生たちもきっとそうなんだと思う。その後集まる事は何度かあったが誰一人もう話題に上げる事もなくなってしまい、それが暗黙の了解となってしまった。果たしてそれが良い事なのか分からないけど、「死」という覚悟がまだ存在していなかった私達はそうするしかなかったのかもしれない。仲の良い友人とは1度だけ話したが「やっぱりこんな事は初めてだし、その時の記憶が蘇ってくるのがちょっと怖い」と言っていたので、やっぱりそうなんだろう。
俺は上司の親と面識がない。
後輩のおばさんから「通夜にいくよー」とメールが夜中の0時過ぎに来た。
(勝手に行っとけ)
別の後輩の女から「夜中にすみません。○○さんへ連絡してください」というメールが夜中の1時前に来た。
俺は行きたくない。
周囲はさも行くことが当然のようにふるまっている。
俺は上司の親の顔も知らない、話したこともない。
俺はわからない。
俺は故人の親族(友人)に同情するふりをして、
その実、喪服を着て、厳かな気分に満ちている自分に酔っていた。
その後、いかに自分が悲しんだかを通夜に参加した友だちと飯屋で共有して、
酒を飲みながら、格好いいうわべだけのセリフを交わしながら、カッコウつけてたんだ。
もう俺、そういうの嫌なんだ。
脅しばい、これ。
内羽ストレートチップシューズをピカピカに磨いて、正当な白のシャツに黒のネクタイでディンプル作って、黒のチーフ挿しけばいいのかね。
決めすぎたら、ついてくるのもやだし。
きっと、俺は無難にまとめるんだろうな。
で、俺は悲しんでいるふりをしながら、職場の同僚とあれこれ話して、また自分たちに酔うんだろう。
嫌だ。
全く面識がない故人に対する礼儀として、俺は集団オナニーには参加しない。
しゃべらない。
「緊急でもないのに、迷惑だから夜中にメールするな」と罵りたい。
むかつくので、朝4時にメールを返すことにした。
40歳になったのを記念に、「不惑」からはほど遠いが、自分語りする。
自分のことがよく分かっていなかった。
あとから聞かされたのだが、幼稚園にはじめて行った時、まったくしゃべらなくなったらしかった。
毎晩UFOがうちに来ていると思い込んでいた。
恥ずかしさというものが何なのか分からなくなり、なぜかパンツをずり下ろして登下校していた。
しょっちゅう小便をもらしていた。
身体の動かしかたが分からなかったため、ぎくしゃくとロボットのように身体を動かしていた。
特殊学級があるのを知り、そこに自分がいないのはなぜかといぶかしんだ。
いつも親は、泣いている自分に明日にはいいことがあると言い聞かせていた。
あくる日になったらなったで明日にはいいことがあると繰り返す親の言動に、混乱はさらに加速した。
自分のことを指さして笑う同級生や教師を見て、確信は深まるばかりだった。
人形遊びにはまり、何時間でも独り言をつぶやいているのを見た親から人形をとりあげられ、泣き叫んだことがあった。
転校生だった。
性格が明るくなった。
また性格が明るくなった。
やはり転校生だった。
もし親友に恵まれなかったら、自分の人生はまったく違っていたと断言できる。
自分を受け入れてくれるかもしれない可能性を思うことが、すなわち恋だった。
そのかわり勉強に恋した。
度を過ぎて打ちこめば、やっていることがなんであれ、それを勉強と言ってしまえると思った。
だとすれば勉強することが、あるがままの自分でいることにつながる道だと思いこんでいた。
寝ている時と食事している時、風呂に入っている時以外のすべての時間を勉強に費やした。
母はついに気が狂ったと思ったらしかった。
大学生になって間もなく、猛烈に女の人を好きになった。
自分が好きになったそのひとは、友人のひとりと出会ってすぐに付きあっていた。
今でも理由が分からないのだが、なぜか二人から付きあっていることを隠されていた。
そうとは知らずに告白しつづけ、ふられつづけた。
大学3年生の時、友人にふられたそのひとが自殺未遂を起こした。
血で染まった畳を清掃したあと、睡眠薬で眠りこんでいる女性の様子を見に隣室に入った。
枕元に置かれた手帳が目に入り、いけないと思いつつも手帳を開いた。
その年の夏休み、どうしようもなくなって東京〜九州間を自転車で縦走した。
当時大阪にいた親友のひとりに電話し、大阪で合流して3週間かけて九州の実家に帰った。1500キロの道のりだった。
もうひとりの親友は、大工として上京していたが、たてつづけに失踪した母親と兄を追いかけるように行方知れずになっていた。
なんとか大学卒業してそこそこの会社に入社、企画の仕事にたずさわった。
特許をいくつか取るほどにはがんばった。
が、結局丸3年勤めたところで退職した。
働くことの意味も分からないのに5年、10年先が見通せる会社員生活がうとましくなった。
会社を退職後、大学院に入りなおして修士課程・博士過程と6年間を大学院生として過ごした。
結局また勉強に頼った。
家財を売り払ったお金を学費にあてていたが、実家が困窮してこちらから仕送りする必要が生じ、苦学せざるを得なくなった。
この間に、嫁さんになる人があらわれた。
自分の人生でこのようなことが起こりえたことを思うと今でも驚かされる。
博士号を取得する前後からいくつかの大学で非常勤講師を勤めた。
結婚した翌年に母が死んだ。
誰になんと言われようが面接を受けようと思った。
自分が大学教員にふさわしいかどうか考えると、向いていないと思えることのほうが多い。
【掲載稿事例2より】
加害生徒たちは被害者の自殺後、「死んでせいせいした」、「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」、
「A(被害者)がおらんけん、暇や」、「誰か楽しませてくえるやつ、おらんと?」などと話した。
A君の親にいじめの内容を話した生徒に「あいつが死なんで、こいつが死ねばよかった」と言った。被害者の通夜の席で棺桶をのぞきこんで笑った。
別の生徒をいじめた。また別の学校のケースでは、加害生徒が他の生徒を「お前はB(被害者)二世だ。Bのように自殺しろ」と殴り続けた。
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イジメ加害者は100%大脳の壊れたキチガイであり、サイコパスである。
疑いの余地は一切ない。
平日の昼過ぎ、カップルやイケイケの同年代などに囲まれて、君の名は。を観た。
友達がいないので、スマホを持っているがLINEもしないような人間が、上映前の数分間、覚悟してたが、それはそれは居心地が悪い時間だった。そもそも、あの新海誠の作品が一般に広く受け入られて大ヒットしていることを驚いたことが劇場に足を運んだ理由だった。
いままでそんなこと思ったことがなかった。
自分にとって中学校時代の漫画、アニメ、ゲームの"消費"は、いわゆるリア充である校内の主流派になじめない自分への言い訳だった。
「小2でラノベに触れてしまった。小3で深夜アニメにはまってしまった。小4でエロゲに手を出した。」だから「普通の人と私は違ってしまった」
本当はそんな因果はないのだが、そうしなければ自分を維持できなかったのだと思う。
いつもニコニコ気だるげな受け身の人間、関わってくる人を拒絶せず、自分からは他人に関わろうとしない。
そんな3年間だった。
高校に入学し、その言い訳はさらにひどくなった。"消費すら"を辞めたのである。理由は単純。そこそこ偏差値が高め、だがパッとしない私立高校へ入学したところ、周りにオタクであることを公言する人間が一気に増えたからである。
野球部イケイケしかしオタク。そんな奴がごろごろいた。もちろん世間から典型的オタクと呼ばれるような人間もたくさんいる。
最初はそんな彼らが羨ましかった。前者の人間だけでなく後者の人間すらも。みんな楽しそうにめいめい自分たちの感想を述べている。いままで自分が感じたものを共有することができず、何より他人と考えを共有しようともしなかった自分は彼ら彼女らが本当に羨ましかった。
しかし、交わることができない。そこでコンテンツの消費すら辞めた。
「私はテレビも見ない、本も読まない、一緒遊ぶこともないから出来事を共有することがない(高校から家が遠いことを理由に誘いはすべて断っていた)」だから「普通の人と私は違っている。なじめない。」
そんな考えのもと、他人が楽しそうに生きているのを見ることを趣味をしていた時期があった。
そんな高校生活前半だった。
後半は更にひどいものであった。部活の先輩に言われた言葉がきっかけである。
「○○(私の名前)って今この瞬間、この部の誰かが死んでも何も思わなさそう」
面と向かって言われて、確かにその通りと思った。実際、中学時代の同級生の通夜か葬式かに出た時も同じ部活の同級生だったが何も思うことはなかった。(中学時代の人間とは誰とも連絡先すら知らないような仲だったが帰り道に斎場があり、声を掛けられて出ることになった。)
自分はそもそも何にも興味がないのだろうとそれから思い始めた。
「私は何も楽しめない」だから「普通の人と私は違っている。なじめない。」
何もせずゆっくりと生きていた。
そのまま1年間の浪人生活に入った。人と関わりたくない自分は研究室は向いていない、センター試験後にそう思い絶対安全と言われた国立大学を落とした。浪人生活中にできる限り人と関わらずに卒業できる近場の大学と学部を探した。ゼミ無しで卒業できる文系学部に現役時とほぼ変わらない成績で入った。
親の金を浪費し、予備校までの電車を終点から終点まで行ったり来たり、本を読んで過ごした。そもそも行ってないのだから、当然、予備校の人間に知り合いは一人もいなかった。
ただ自由な時間ができたことで再び漫画、アニメ、ゲームを楽しむことができた。
大学に入った、予定通り人と関わらず過ごしている。
バイトも役を演じればよい塾講師、友達も作らず、飲み会など行ったことなどない。
とても満足していた。
大学を卒業したら家を出て一人で静かに暮らすのだろうと、そのうち専門業者とでも契約して死んだ後の処理をしてもらえるようにして適当に暮らそうと、そう思っていた。
それが「君の名は。」を見たときに自然と「青春をしたかった」と思ったのである。
君の名は。を見て感じたのだからだれか他人を求めているかもしれないが、そもそも家族にすら演じている自分を見せている自分が何ができるのか。人との付き合いの方法など分からない。
どうすればいいのか。どうすることもできないのか。誰にも聞くことができない。聞き方すらわからない。どうすればいいのか。
タイトル通りなのだが、色々調べて不思議な気持ちになったので書いておく
うちの祖父母は双方90歳こえて元気にやってる信心深い夫婦で、先祖代々名古屋の昭和区の興正寺の檀家をやってきている。
・http://www.asahi.com/articles/ASHCN7T68HCNOIPE025.html
うちの祖父母は、割と熱心な檀家でもちろんこういった問題があることは知っているものの、
「おっさま(名古屋弁で坊さんの意)や若様が、考えもなしにそんなことするわけにゃーて。みんな信じとるもんでだいじょうぶ」
と何を心配しているのかも最早よくわからんが、何か達観した様子でこの手の騒動をみていた。
信仰の自由を尊重し、まぁ好き勝手やってくれと思っていたが、この手の問題には眉を潜めていた。
興正寺(U住職) と プレハブ寺(高野山から派遣された稲沢市のA寺のM住職)が要は対立しているのだが
このM住職というのが、元々15年ほど前に興正寺で働いていた住職だと祖父母から聞かされた。
解雇された M住職・N住職・U住職というのは うちの婆様界隈ではみんな知っていることらしいが
興正寺への寄付を懐にしまい、自分の寺の修復費用に充てるなどを何度も繰り返しており
それを現職のU住職は見て見ぬふりをしていた。
・・が、余りにも目につくようになりU住職の代替わりが近いタイミングで解雇と相成ったらしい。
(興正寺は名古屋で一二を争う大きな寺で、名古屋市近郊の坊さんがたくさん働きに来るのだとか。雇用形態などの仕組みはよくわからない。)
祖父母は檀家総代などをやっていた為、プレハブ寺側のM住職とも面識があり、最近偶然出くわした際に以下のような会話をしたらしい。
90超えの老人のいうことなので、どこまで正確かはわからないが。
M住職「◯◯さん、今のままあちらさん(興正寺)を支援なさるんかね。高野山を敵に回したってことになりますよ」
祖母「私は、あんたさんがやってきたことをよく知っとるから、あんたの支援はできん。興正寺は興正寺。高野山は高野山。私は興正寺の檀家。」
M住職「私が興正寺の代表になった時には、◯◯さんには色々やめてもらわなきゃいかんね・・」
母と興正寺に相談にいったらしい。M住職が、興正寺の代表になることはあるのか?と尋ねたところ
興正寺「M氏が、規則にない住職代行を名乗ってまで興正寺に取り入ろうとしている目的は、数年前の不始末を消すことでしょうから。そんなことは私達は本山が何を言おうと許しません」
肝心の質問にストレートに答えないあたり、坊主というのは流石な生き物である。
祖父母は、興正寺の戦後の再建などに大きく力を貸したようで、寺を守るという意識がものすごく強い。
もう3人しか生きていないが、茶飲み友達などは、M住職が興正寺を入ることを本気で拒んでいる。
「墓に入るなら興正寺と決めていたのに、Mが代表になったらと思うと恐ろしくて眠れない」と言うのだ。毎晩眠れないらしい。
祖母に色々聞いてみたところ、何十年も前に、祖父に隠して興正寺に寄付をしていたらしく それをM氏に渡していたのだと言う。
寄付をすることにより、なんかに寄付人として名前が掲載されるはずだったが、本来載るべきだった名前が載っていなかったそうだ。
祖母の周りでもM氏経由で寄付をした人たちだけが、寄付人として 名前が載らなかったようで
M氏が横領したのでは?と言う噂もたったが、目を瞑っていたようだ。そして、10年ほど前、解雇されてホッとしていたそうだ。
それが現在、興正寺の目の前にプレハブ小屋をたて、住職代行を名乗っている。数年前なら檀家がそんなことは許さなかったが
力を持った檀家も高齢化には勝てず、M氏のことを知る人が減ってきたところで今回のこの騒動のようだ。
ちなみに、祖母と祖母友人の寄付総額は、私の年収の倍以上だ。バカらしくてめまいがした。
私としては、もういい歳なんだし好きなことやってていいよ、と思うものの、
祖父母にとっては興正寺が宝のようなもので、檀家であることに誇りを持っている。その趣味やめろとも言いづらい。
・・が、余りにもタチの悪い趣味である。金も時間もかかるし、何より登場人物が銭ゲバ坊主だらけである。
そもそも高野山と興正寺の関係もわかっておらず、祖母の話を話半分で聞きながら興正寺周りの噂を探していたところ、不気味なブログをみつけた。
どこまでが事実かわからないが、ここにある坪単価や値上げ額などは事実。
8 :名刺は切らしておりまして:2013/02/06(水) 11:11:52.08 ID:sdFlk7sq
お寺が朝鮮人に乗っ取られたら、だいたいこうなる
お前らも気を付けろよ
この書き込みを思い出して、いやな寒気がした。
それらが何なのかがよくわからないが、家族のように大切なモノだと私と母は解釈した。
祖母はここ数日で急激にやつれた。
毎日困るくらい元気そうだったが、ここ数日全く元気がない。
調べてみたり近所の人らに話を聞いてみたが、正直よくわからない。
「興正寺はU住職じゃなきゃ困る。」と近所の人は言うが、ネット上で記事になっているのは「U住職は悪」という内容ばかり。
私としてはプレハブだろうと興正寺だろうと構わないのだが、坊主が老人が眠れなくなるような事言うなよ!と怒りが湧いてくる。
なんか誰かに聞いて欲しかったのでとりあえず書いてみた。
この間喪服を買わなきゃいけないことになってネットでいろいろ調べたんだけど、女性が喪服としてパンツスーツを着ることはマナー違反とされることもあるらしい。
女性は黒のワンピースが正装で、パンツスーツは略喪服なんだそうだ。
通夜でなら着てもいいが葬式には向かない、親族が亡くなったのであれば通夜でもワンピースタイプが好ましいとか。
私はドレスコードのあるお店に入る時も、結婚式に出席するときもいつもパンツスタイルだったし、誰にも何も言われなかった。
仕事着もパンツスーツだから、葬式だけスカートってものすごい違和感を覚える。
スカートとパンツってそんなに違うものと思えないけど、Yahoo!知恵袋なんかをみると、"葬式にパンツスーツはマナー違反です。参列者に笑われてしまいますよ"みたいことが普通に書いてあるし、違いが分かる人には分かるのかなぁ。
人の服見て笑う人のほうが、どうかしてると思うけど。
散々悩んだ挙句、パンツスーツタイプの喪服を買ったんだけど、売り場の人には何も言われなかった。
どこかの地方のローカルルールなのか、私の知らない時代の話なのか、それともごく一般的なマナーなのか分からないけど、売り場に置いてあったんだから買ってもいいよね。
入学式にも、仕事にも、結婚式にも着ていけるものが、葬式だけはダメなんておかしいもんね。
大丈夫だよね、きっと。
2.そのトラブルは早急に対応しないと色々まずい事になるのだが、いつ起きるのかは全く分からず、しかも土日祝日にも発生する可能性があるという
3.応急措置的な対応は可能だが、365日常時人を張り付かせ、しかも手動で対応しなければならない
以上の経緯があって、その対応要員として俺に白羽の矢が立った
俺は「根本的な解決がいつになるのか決まったら対応します」と返した
その後何も返事が無かったので立ち消えになったのかと思っていたら、しばらくして「例のトラブルが頻発しているのに増田がちっとも対応しない」とクレームが来た
前述の経緯を説明するが「とにかく対応して貰わないと困る。完全解決の時期は分からない」と言われた
「ではいつまでに回答して貰えますか」と尋ねたのだが、その後俺への回答はなく俺の上司にクレームが来たので経緯を説明した
そもそも発端のトラブルは俺とは無関係な部署で起きているものであり、本来解決すべきはその部署のはずで、完全解決までの一定期間、応急措置として俺が代わりに対応するという説明だったのに、いつの間にかその部署では完全解決する動きが途絶えており、しかも俺がこれから恒久的にそのトラブルを対応し続けるような年間計画になっているのはおかしい、と
当初は対応期間は「三ヶ月から最長半年程度」と説明されてたのに、いつの間にか年間計画で「今月より増田がトラブル対応業務に就きます」といった表現に変わってるのはどういう事か、と
俺は盆も正月も身内の通夜の最中でも常時ノートパソコン持ち歩かにゃならんのかと
トラブル起こした部署は俺に丸投げしたまま知らんぷりするのかと
http://anond.hatelabo.jp/20160221191130
そういうのって「こういう仕事して欲しいんだけど」「では工数はこれくらい、単価はこれくらいで」といった交渉が成立して初めて開始するものであって、いきなり仕事押しつけてから交渉するのって順序逆だよね
自衛隊に技術や知識のない若者を集めただけでは、まったく役に立たない。
なので、徴兵しても意味がない、そういう意見があるがそれは間違いだと思う。
徴兵制を敷くことで、日本は一夜にして最低でも数十万クラスの兵力を確保できるはずだ。
これにより、政府は「現在の日本には100万の兵力がある」と、近隣諸国に宣言できるのだ。
実際のところ、徴兵で集めた若者の個々の能力なんかどうでもよい。数字だけでよい、それだけで大きな抑止力になると思う。
(受け入れるための基地がないとか、財源はどうとか、現実的なツッコミどころは満載だが、話を進める)
で、現在の日本において、現実的な有事とはなんだろうか? おそらく、近隣諸国との武力紛争なんかではないと思う。
地震や洪水、豪雨といった自然災害、それが日本の現実的な有事ではないだろうか。
なので、徴兵で集めた若者には、軍事的な訓練を施すことも大切であるが、それよりも防災に関わる教育や訓練をメインに施せばよい。
兵役を終えた若者の多くは、社会に帰ることになる。防災の知識、技術を持った若者たちがいれば、有事(災害時)に大きな助けになるはずだ。
災害から地域や家族を守る為の知識や技術が身につくことは素晴らしいことではないだろうか。
2、 戦争のアホくささが身に染みてわかる
在隊中、戦争状況を想定した訓練を何回も経験したが、実際はテレビや映画で見るような戦争状況とはまるで違う。
テレビや映画では、自分や仲間がどのような状況にあり、敵がどこまで迫っているのか、神的な視点があるが、
実際の戦争状況下では自分が一体何をやっているのか、まるで分からない。
直属の上官にここで穴を掘れと言われ掘る、歩けと言われれば一晩中歩き続ける、
よくわからないまま朝になり、とぼとぼ歩いていると、突然あなたはたった今戦死したと訓練の指導員に宣言される。
なぜ戦死したのか聞くと、肉眼では確認できないほど先にいる対抗部隊の敵戦車に撃たれたとのこと。
よくテレビなどで自衛隊の活躍を持ち上げられ、カッコよさを全面に押し出している感じを受けるが、実際には規律ある厳格な組織だ。
そこには個々の意見、感情なんか関係なく、命令しかない世界なのだ。
訓練であるが、徴兵されれば戦争状況を模した訓練を行う。若者たちにこれをぜひ一度でもいいから経験してほしいのだ。
実際に銃を持ち、雨に打たれて、重い装備を背負って歩き続け、先の見えない状況で疲労困憊になる。
私自身、訓練中に精神的な不安から軽い呼吸困難になったり、幻覚が見えたりする経験をした。
たとえ訓練であっても、戦争状況のつらさ、理不尽さを体験できることで、考え方に大きな違いが生まれるかと思う。
人から教えられた、本を読んで得た知識、それらとはまるで別物の考え方だ。
私は、自分の経験を元に自分で考え、戦争なんか、軍隊なんかアホくさいという考え方の結論に達した。
自身で経験し、考え、その結論に達した。人から教えられた、本を読んで得た知識から導き出した結論なんかじゃない。
もちろん、その逆の結論もある。ひとりの兵士として日本のために戦いたい、近隣諸国から日本を守る指揮官になりたい、
こういった考えを持ち職業軍人の道に進む、その結論に至るのも選択の一つだ。国のために貢献したい、その考え方もわかる。
現在の世界情勢を考えると、そのような考えに至る若者も多いだろう。
きっと今日の日本において義務教育だけでは、国のために何かしたいという考えには至らないと思う。
徴兵制度というきっかけによって、若者たちの考え方に選択肢が増えることは素晴らしいことではないだろうか?
3.戦友ができる
3つ理由と題した本稿であるが、ここまで読んでもらって申し訳ない、1番目と2番目の理由なんかどうでもいい、上記はただのノーガキである。3番目が最大の理由だ。
数年前、90歳近い祖父が亡くなった。その通夜のとき、見慣れない老人がやってきた。
話を聞くと、九州からの通夜を行っている関東まではるばるやってきたという。
祖父と同じ90歳近いおじいちゃんが新幹線に乗ってたったひとりで。祖父の訃報を聞いて、家族が止めるのも振り切ってやってきたそうな。
で、このおじいさん、大戦中は祖父と戦友で、九州の部隊で苦楽を共にしたという。終戦後も腐れ縁でいろいろとつるんでいたらしい。
祖父は、初孫だったら私の事もいろいろとこのおじいさんに自慢していたみたいで、見ず知らずのおじいさんが私のことをよく知っているという奇妙な体験をした。
先述のとおり、本稿を書いている本増田は、自衛隊の在隊経験者だ。ごく僅かな時間しか話さなかったが、このおじいさんの気持ちというか、意気込みというか、
祖父とこのおじいさんの関係とか、そんなことが私にはなんとなくわかった。私にも腐れ縁のような友というか、戦友がいるからだ。
軍隊とか自衛隊のような特殊な組織のなかで苦楽を共にすると、なんというか説明が難しいが、不思議な友達ができる。
それは友達といっても学校や職場の友達とはまるで違う。一生付き合うことになる戦友というか、親友ができる。
以上、長文ですまない。
https://hobbyjapan.co.jp/dixit/
割と好きなアナログゲームのDixit
親番の人が何とも言い難い絵の描いてあるカードを見てインスピレーションで何か言って、みんなでどのカードが親の見てたカードか当てて遊ぶ。
一応全員正解(わかりやすすぎ)や全員不正解(難解すぎ)にならないように気を付けるルールになってるけど、勝ち負けとかあまり考えない感じのゲーム。おすすめ。
友人何人かで集まった時に気楽にやれるゲームがいいねって話になるとたまにやって、
大抵は「わーあたったー」とか「えーそっちかよー」とかやいのやいの言いながら盛り上がって大変楽しめるのだけど、
仲間内に一人びっくりするぐらい下手というか、向いてない感じの人がいる。
その人が親番だと、頑張って受け止めようとしてもどうにも全然わからなくて全員不正解を連発して「なんでお前らわかんねーんだよ」とちょっと機嫌を損ねてしまったり、
正解のカードを見てもやっぱりどこをどう捉えたのかわからなくてみんなして反応に困ったりする感じ。
たまに説明を求めてみると、その人の中の壮大なストーリーの果てにたどり着いたキーワードだったりして、さすがに遠すぎて誰もわからんやろ……って感じだったり。
逆にその人が他の人のカードを当てようとしても、やっぱりなかなか当てられなくて、勝ち負け重視じゃないとはいえ段々拗ねてしまって微妙に険悪にすらなってしまう。
その場の中で感性が違うっていう疎外感を与え続ける感じになってしまって、段々こっちも申し訳なくなってくるんだけど、
他の人が親番のうちは普通に盛り上がるので、後から聞くと本人はかなり楽しいらしい。
でも油断すると拗ねるので周りは割と気を遣う。
本人は楽しかったというだけあってその後自前でDixitを買ってきたらしいのだけど、やってみたらびっくりするぐらいお通夜ムードになったと聞いてさらにズーンとなった。
聞いていると別にイメージしてる世界が突飛すぎるっていうわけでもなかったりするので、
言葉選びのコツとか、いい感じに抽象的な言葉を選ぶ慣れの問題なのかなーと思ってその後も何度かやってみたけど、何回やってもどーにもそんな調子になってしまう。
どうも自分の考えが目の前の相手に伝わるラインみたいなのがよくわからないのかな?って感じがするけど、うーん、なんでなんだろうなあ。
死んだあとのことなんてどうでもよくね?
あの弔問してる人の何人がその人の死を本当に悲しんでるんだか。
とくに職場だったら犯罪でもおかしてクビになってない限り否が応でも葬式行かなきゃならんもん。
その人の死がどうでもよくてもいかないといけない。
今私が死んだら職場の人が少なくとも何人か来るよ。
別に親しくないけどくるだろうね、めんどくせーとか思いながら。自分だって上司が死んだら別に悲しくもなんともないけどいかざるを得ないし。
ついでに自分は祖父母が死んでも悲しいともなんとも思わない。けど、通夜葬式には出た。
参列したからって悲しんでるわけでも悼んでるわけでもなく内心はめんどくせーな、だったりするもんだろ。
あの人が亡くなって10年が経過していた。
ようやく、彼女のお墓に行くことができた。
ようやく、彼女の死を受け入れることができた。
亡くなった直後は、遺影をみても実感がわかなくて、なんの冗談かと思っていた。
いつもの待ち合わせの場所に行って、彼女を何時間も待っていることもあった。
でも、彼女と会うたびに病気だということがウソなんじゃないかと思うようにしてた。
あなたのお母さんとは、メールでしか会話できなかったけど、ようやく会って話すことができました。
あなたが家族からたくさんの愛情を受けて育ったことがよくわかりました。
もう、生まれ変わってますか?それとも、まだ幽霊となってそばにいてくれますか。
生まれ変わっても、幽霊のままでもあなたにもう一度会って話がしたいです。
ごめんなさい。ごめんなさい。
認めたくなかったんだよ、あなたがこの世から消えるということを。
棺の中で、花嫁さんの恰好をしていたんだったね。綺麗だったんだろうな。
赤子から2親等の葬儀なので、通夜はパスさせてもらったけど告別式はなんとか出席。
9時過ぎに葬儀場に集合→10時から告別式→11時ごろ出棺→斎場に移動→11時半に火葬(1時間半ほどかかる)→葬儀場に戻る→昼食→再度斎場へ→お骨を拾う→葬儀場に戻って初七日の法要(一緒に済ませた)→親族のお見送りで終了
終わったのが15時頃。
基本的に赤子向けのサービスはなし、身内なので控室があるけど、出席だけなら出棺までかな、、、(その時点で帰る親族もいた)
お経読んでる間はぐずったらさっさと退席するが吉かと、誰も気にしてない。
最後に、亡くなった身内が赤子と少しでもかかわってもらえてよかった、でも、もっと長く接してもらいたかったので本当に残念。空からずっと見守っていてください。
母子家庭だった。
母ひとり子ひとり。
僕の教育は祖母がした。
母は仕事がきつかったのか、よく僕にあたっていた。
僕を管理しようとし、意にそぐわないことをすると叩く、怒鳴るという人だった。
僕は祖母が大好きだった。
祖母が死んだ。
これ以上ないくらい泣いた。
母の知り合いの息子さんは脳外科だったが、腫瘍マーカーの結果を見てすぐに大きな病院へ紹介状を書いてくれた。
1度目の手術は大成功。ただ、浸潤していたので転移の可能性はあると。
術前から僕は無宗教から、各地の癌にまつわる神様仏様に参る多宗教信仰になった。
「うん、いいよ」
結局、泊まらなかった。
1年が過ぎたころ、母は2年の余命宣告された。
転移していたようだったが、今までと変わらない元気な姿だった。
その頃、初めて「小さい時にすぐに怒られて辛かった」という話をした。
母は僕を無視した。
でも、「それでも僕にとって、お母さんは大事なんだ」ということを伝えた。
目の前で「生きてて欲しい」と泣く息子を見て、母は喜んでくれていたらしい。
「あの子は優しい子」だと自慢していたらしい。
正月を過ごすたび、「お母さんと過ごす正月は最後かもしれない」と覚悟したりしていた。
同時に「このままずっとこういう調子なのかもしれない」とも思っていた。
2回めの正月を迎える直前、母は歩けなくなった。
骨転移だった。
帰り道の車の運転は嗚咽しながらだった。
3月。
週末に行ったらクリームシチューを作ってくれた。
テレビの料理番組の録画を見ていたら美味しそうだったとのこと。
しんどくなったのか、途中からは僕が作って二人で食べた。
腸閉塞だった。
手術で食べれるようになったが、母は以前の食欲を失っていた。
ある日、母は僕に「大好きだ」と言った。
僕も即答で「僕もお母さんが大好きだ」と言った。
母は泣いていた。
近所のおじとおばに「最高の答えだった」と言っていたらしい。
その後すぐに母は入院した。
先月、母が死んだ。
「何言っているんだよ、当たり前じゃん。また時間作ってお見舞い来るね」と答えた。
これが最後に交わした会話だった。
息を引き取った時、びっくりするほど泣いた。
泣かずに通夜を終えて、翌日、葬式の挨拶をしはじめた瞬間びっくりするほど泣いた。
母が「この人達だけに知らせて」と呼んだ参列者は全員泣いていた。
僕が本音で思っていることを伝えても問題ない人は、この世に存在しない。
会おうとも思わない。
死んでから一ヶ月近く経った。
祖母が死んだ時は「まだ病院で入院してそう」って思っていたが、母のときは「いなくなった」という喪失感がすごい。
後悔しているのは2つ、仕事なんて辞めて同居すればよかったこと。
手術前、恥ずかしくなって母を抱きしめなかったこと。
なんで恥ずかしがったのかわからない。
仕事柄、役所への手続きが得意だった母。この報告ができない。したい。
まわりは親をなくしていない友達が多い。
親をなくしていても、片方だったり。
仲の良い女の子に思い切って話してみたら、「ちょっと重いね。私にはわからないけど辛いんだね」と言ってくれたが、僕と別れた後のSNSでは楽しそうにしている。
当たり前だと思う。僕もきっとそうだっただろうし。
「わかってくれない」と嘆いたりはしない。わからないのが当たり前だ。
親と死別しているという人は少ない。
だから、どんどん誰にも話せなくなっている。
辛い。
闘病中に行った飲み会で「親と会える時間って計算してみ。本当に無いから。だから、みんな実家帰れよ」って言っても、「真面目だな」としか言われなかった。
そんなもんだ。
失って初めて気づくんだし。
そんなわけで、オチはない。
みんなは親を大事にして欲しい。口うるさいだろうけど、親身で口うるさく言う人なんて親ぐらいだよ。
嫌味で口うるさい人は会社に山ほどいるけど。
残り時間は思っているより少ない。
イライラするかもしれない。でも、優しくしておいて損はない。
優しくしていないとびっくりするぐらい後悔する。
この年になって恥ずかしい話なのだが、私はまだ親にある種の確執を抱いている
いつまでも親のせいにしてはいけない、と頭ではわかってるのだが、どうもそうすんなりはいかないのだ
多分、どこかに吐き出していかないとぐるぐるとまわってしまうから、ひっそりと書きだしていこうと思う
通っていた幼稚園では、園児の誕生日になると担任の先生とツーショットで写真をとるイベントがある
笑って、笑ってと言われる中、うれしさがあったくせに必死に頬を噛んで笑みを殺していた
結果としてひどくぶすりとした表情の園児が満面の先生と映り込む、どうにも奇妙な繪面ができたわけだ
思えばあの頃から自意識が非常に過剰だった私は、運動会の時にとったビデオを見ながら、両親がブルマからはみでた私の太ももを、
太いとか、ぶるぶる震えているだとか、そういった言葉を吐くたびにそんなに笑うなら見てくれるな、と思っていた
結果として私は自分が映る何かを親と一緒に見たことがない
バカにされるのがいやだったのだ
今にして思えばぼんやりと、それが親にとってからかいの域を出ないものだったのだとわかる
葬式は開いてほしくないし、写真だって一枚も人様の手元に残しておきたくないと思う
葬式で集まった親族や知り合い、友人が通夜を済ませて晩飯をつつきあいながら、こんなことがあったねとか、あんなことがあっただとか、
そんなつもりはないとわかっているし、そんなに底意地の悪い知り合いがいないこともわかっているが、それでも私抜きの集まりで、
何か私に対して非常に不利益な、不名誉な、そういったことを離される可能性を1つでも潰してやりたいのだ
親には骨も抱かせたくない、行方不明のまま死体も見せず、永遠にいなくなってしまいたいと思っている
このどこか反抗期の子供が抱く随分と攻撃的な感情は、未だに私の心の片隅に居座っていて、ときどきひょっと顔を出してしまう
小学校のころから、将来の夢は14歳までに死ぬことで、いなくなる方法について10数年も考え杖づけていたわけだから、これはもう根深い問題なのだろう
ともあれ、私はできることならだれにも知られずにひっそりと死んで、いつかの同窓会でそういえば知ってた、と少しだけ話題に上ればいいと思っている
これは、死んですぐなら同情や興味もわくが、死んで数十年たってしまえばだれもかれも驚くばかりで深く聞こうとする稀有な人間などいないだろうと思っているからだ。
ヒャッハーーーできるって皆が言うからマッドマックス観てきたら
もう観てる間から気分が悪くなってシアター出てからは完全お通夜で
昨夜は一列に並んだ伊勢丹の店員さんが順番に撃ち殺される夢を見た。
スプレンディドが死んだのもババアが死んだのもつらいし
たくさんの車が爆破されてたくさんのウォーボーイズが
ビュンビュン飛ばされて死んじゃうのもつらかった。
血が出ると痛そうで嫌だし殴ったり殴られたりも見たくなかった。
目を閉じるとニュークスが死ぬ直前のシーンがフラッシュバックするし
連れて行かれたときも「何でいちいち爆発すんの?やめなよ」って
思っちゃってあんまり話に入り込めなかった。
今回の件で本当にこういう映画を見る適性がないんだってやっと気付いた。
こういうの見てヒャッハーーーできる人って、
脳をうまく切り替えてるってことだよね?
作り物だから、人がビュンビュン飛んで死んでも
それは見る人を楽しませるためのもので、むしろ爽快なんだよね。
そのへんが致命的なまでに苦手な脳なんだろうなあ。
それとも、「吹っ飛ばす方」ではなく「吹っ飛ばされる方」に
そしたら「吹っ飛ばす方」の気持ちになって観ればいいんだろうけど
「もう、こういう映画は観ない」が正解なんだろう。
皆と楽しくヒャッハーーーできなくて悲しい。
1年時にいじめにあっていて、父親が学校に相談し、一旦はいじめは収まった。
しかし、2年になると、またいじめが始まり、父親に相談したら、はっきりしたセリフは忘れてしまったが
「抵抗しろ」とか「やりかえせ」的なことを言われ、少年はその通りにしたらしいが、いじめはなくならなかった
それで、父親に相談することはなくなり、担任にノートで訴えたが、どうにもならず自殺してしまったわけだが
1年時に同級生の女子生徒がいじめられているのを見て、少年が心配して女子生徒に声をかけたらしい、その女子生徒がお通夜の際だかに、母親にそのことを報告していた
で、1年時、少年や女子生徒がいじめにあっていた実情があったにもかかわらず、その年のいじめ件数は0件と教育委員会に報告していたらしい
杉村太蔵が、「自ら命を絶つことは許されない」「本当に死にたいと思うような学校だったら、行く必要はない」
「いじめがあるから学校に行きたくないと言えば十分、そこから可能性はいくらでもあるからね」と発言したらしいが、僕も全く同意見だ。