はてなキーワード: 看板とは
印刷技術が発展したあとの時代でも多くの画家は宮廷・教会・謎太客(パトロン)・既存財産のどれかをライフラインにして飯を食ってた。
今のイラストレーターみたいに「仕事ください。値段含めて交渉はDMでしましょう」って看板出すような感じじゃなかった。
まあ結局ミュシャもコネで仕事取っていった感じではあるんだが、それでも「ウチの家(教会)にこんなの飾りたいんだよね」みたいなノリじゃなくて「今度のイベントで使うポスターなんだけど版画で200枚ぐらいする予定なわけよ」って感じの仕事を受けてた。
モチのロンでそういう人達は既に世界中にいて、我が日本でも浮世絵文化や春画文化があって江戸の街のどこかでエチエチ絵を書いて稼いだお金で食ってる連中は居たんだが。
ただそういった人達の中でクオリティにおいて旧来の画家に匹敵する人は少なくて、「やべーパトロンを捕まえるほどの力がないから庶民向けにシコシコしてた」みたいな所があったわけだよ。
でもミュシャはスラヴ叙事詩に代表されるようなガチればヤバイ画力を持った上でイラストレーターもしてた。
その超画力でちょっとお金がある庶民向けに印刷物を作ったり、町中に貼られる催し物の広告を作ったりしてたっていうのがね、「教会や宮殿以外の場所でも画家の絵に触れられる日常の始まり」として価値があるわけ。
新時代を作ったんだよ。
ちょっと絵が上手い人が看板にちょっと上手い絵を描くとかとは違うんだよレベルが。
ガチの画家が雇われた絵師として日常空間に存在するもの向けの絵を描くってのを宗教と無関係にやったのがヤベーわけ。
その中でまあ色んな作品があったんだけど、トップクラスに上手かったので「このポスターお宝だわ。とっとこw」って保管され続けてきたんだわな。
「日常に神絵師」ってのは今の社会じゃ当たり前っていうか、むしろある程度画力がなかったらテレビや電車広告に顔を出したりはしないわけじゃん。
でも昔は「おらが村の実はちょっと上手い人」ぐらいがせいぜいで、名前はともかく関わった他の作品聴いたら「あ、あの人ね」って皆がなるような人間の絵がそこら中に出てきたりはなかったの。
今私は交通誘導のおじさんをしてるが、たまにぶっ倒れそうになるだけで特に不満はなかった。
でも最近じんわり膝が痛い。
立ちっぱなしだから膝や腰に負荷がかかる。私は膝にくるらしい。
特にスキルもないまま三十超えちゃったわけだが、転職しないとたぶんやばい。膝が壊れる。
カカシも看板も立ってるから価値があるわけで、私も立てないと価値がなくなる。やばい。
緊急重要な場面に直面すると、テンパってカオナシのモノマネを始めてしまう。
カオナシごっこしてると、最も理解ある相手でも待ってくれるだけで、その場を離れて仕切り直してくれるわけではない。
適職診断みたいなので散々プログラミングがおすすめで出てくる。勉強しようと思って苦戦して、環境構築のところで詰んでるので「helloworld」までいかない。
大体スタートに立てずに数週間苦戦した人間がこの先何ができるねん。
無料でプログラミングのコードの教えてくれるところで、見よう見まねであれこれやってみたが「だからなに?」って感じの話ばっかりで、次全く同じことを要求されても何もできる気がしない。
私はプログラミングがしたいんでなくて、なんか飯の食えそうなものが欲しいだけなんだよな。だから仕事のイメージが一切ないので、自分がプログラミングについてどの程度わからないのかすらわからない。私がプログラミングできると何ができるのかそもそもしらん。暗中模索とは誰が言い出したか良い言葉だ。今の演習が何のために何故やってどこに向かって何ができるのか全くわからんのでやめた。
どうしたら良いのかマジでわからん。私の膝が爆発するまでにどうにかしたいが、何をしたら良いんだ。気ばかり焦るが進んでる感覚になれるものが一つもない。
金はない。
転職サイトでずらずらと候補出てくるが、できそうなものがマジでない。
空いてるところに私を突っ込みたいのはひしひしわかるし、その方針が正しいとは思うのだが、できそうにない。
ほんとにない。
日本の生活保護受給率は20%切ってるらしい。窓口で粘る気力もない私だと、受給できることはなさそうだ。
多少膝に気を使っても後2年は続かないが、続かないからと言ってその後どうしたら良いんだこれ。
どこの何を見ても、テンパってオタオタして何ともならない予想しか立たない。
履歴書みたいなのキチンと書くのもめちゃくちゃ苦痛だから、いくつも用意することもできない。
私のように大手を振って街を闊歩できるタイプの低知能だとどうにもならん。
前に精神科いってwise何とか受けたが、均すとIQ105で平均って出たわ。
いやいや、じゃあ私の低知能はどこから来るんだよ。薬もらったけど下半身おかしくなっただけで何もないからやめた。
どうすんだこれ。
将棋とかで言うと、あと8手とかで詰むの分かってるのに投了できない感じ。
似たような問題に何度も何度もぶつかって、毎回どうにもならなくてここまできてしまった。
死にたくはないが何ともならない感じだけある。
何も身につく気がしない。何なら身につくのかもわからない。
手も不器用で話が上手いわけでもなく、ゴールが見えないと我慢も効かない。最後の資本だった体も限界だ。
どうしたら良いんだこれ。
ほんとに知能に問題がないと仮定したらメンタルの問題のはずだが、テンパりやすいものを治す方法なんか存在しないだろ。気の持ちようなんだし、落ち着くように言い聞かせるのを30年はチャレンジしてるわ。
「テンパってるのでお薬飲みますね」なんてできるかよ。
そいつは陽キャで俺は陰キャだったが、席が近くなったことがきっかけで絡まれるようになり、部活のないテスト期間の放課後によくそいつと同じクラスの奴らと数人でカラオケに行ったり飯を食いに行ったり服を買いに行っていた。ファッションや遊びのことなどそいつから学んだことは多いが、俺はなんとなく苦手意識があった。プライドを持って入学した高校だったが成績では上位層に敵わず、恋愛にも縁がなかった(今でもだが)ため、彼女持ちで誰とでも仲良くなれる陽キャのそいつに劣等感を持っていた。
大学受験は頑張ったものの地元駅弁とMARCHにしか受からなかった。そいつは成績下位層だったが、国立教育学部、国立医学部、国立工学部を狂信的に崇拝する教員たちを無視し2年の終わりには3科目にとっとと絞って早慶に進んだ。
そいつとは大学時代はたまに複数人で会うくらいの関わりしかなかった。ゼミやサークルで少しだけ話した可愛い女の子に勝手に舞い上がり、デートや付き合った妄想などをしては飲み会にて友達経由でその子の色恋沙汰などを聞き勝手に撃沈するということを繰り返していた俺にとって、早慶看板学部の記載があるプロフと可愛い女の子が何人も登場するそいつのTwitterは劣等感を強く刺激した。
そんな俺も中堅企業の総合職に内定を貰い、大学を卒業して社会人として働き出した。就職して数ヶ月後の頃に高校の集まりでそいつと会った際、「遊び過ぎが祟って留年したわ」と聞いた。
新たな人との出会い、安定した収入、行動力の広がりなどによって自己肯定感の高まっていた俺は「マジかよwwさすがだわww」などと言っていたが、内心では「こいつに勝ったわ」と思い見下していた。
それからしばらくは連絡を取っていなかった。2年後に共通の友人からそいつがそれからさらにもう一年留年し就職先がないまま卒業した、という話を聞いた。仕事にどんどん慣れ、車も買い、両親を母親が行きたがっていた旅行先に連れて行ったばかりでもあった俺はそりゃもう優越感に浸った。「結局お調子者は失敗する。最後に勝つのは真面目なやつだ」という内容のエントリを増田にあげた。
それからさらに数年経ち、部署異動による激務で俺は体調を崩した。仕事にやりがいが感じられなくなり辛くなった。同期や友人がどんどん結婚したり結婚前提で同棲し始めたのに、自分は彼女いない歴=年齢。さらにちょくちょくご飯に行ったり2人で遊びに行き「イケる」と思っていた同期の女の子から「彼氏が出来た」という話も聞かされ自尊心が砕けた。環境を変えようと転職を決意して調べたりエージェントを頼ったが、安定に胡座をかいて自己研鑽や資格取得を怠ったことや日系企業の総合職ゆえ専門性の面で難があり、どう転職しても年収や待遇は下がるということを知っただけだった。
仕事の疲労と人生の虚しさで不眠になり辛い夜を過ごした。そんな時久しぶりにTwitterを徘徊していると、数年前から全く稼働しておらず同級生の中で行方不明説まで出ていたそいつのツイートが表示された。公認会計士や公務員試験などで有名な大手資格予備校のツイートをリツイートしたもので、そいつの公認会計士試験の合格体験記が載せられていた。リンク先を開いて詳しく見た所、フリーターだったが将来に不安を感じて予備校の講座を受講し始めたらしい。その時既に俺たちは20代終盤だったが、大手監査法人への就職も決めていた。年収を調べると一年目の年収で既に俺のその時の年収より若干低いくらいの差しかなかった。
ツイートを遡ると合格報告のツイートもあり、高校の同級生も何人か「おめでとう」と返信していた。俺もおめでとうと送ろうと思ったが、指が動かなかった。「おめでとう」なんて思えなかった。お調子者で陽キャで要領もよく、可愛い歴代彼女が何人もおり、早慶を卒業しているそいつが公認会計士に合格し監査法人への就職を決めていることなど知りたくなかった。人生転落していて欲しかった。仕事や生活で辛いことがあり劣等感を感じた時に、そいつが実家で引きこもって親に養ってもらっているらしい、なんて話を共通の友人から聞いて慰めにしたかった。優越感を持っていたかった。
30代になりしばらく経った今、既に俺の年収は抜かされているだろう。SNSは見ていないが、おそらくそいつには可愛い彼女がいるんだろう。俺には何もない。資格も仕事へのやりがいも彼女も。俺はなんて醜く惨めでどうしようもない人間なんだ。
RPG(だよね?FFはXで止まってるから間違っていたらごめん)ジャンルに比べると乙女ゲージャンルの看板をギャルゲーで借りるって、売り出したい客層が違えば炎上するリスクも高いしそこまで効果がないような気がするんだけれど実際にやっているわけだからあるのかな
うたプリスタッフが送る〜くらいの文言に留めておけばよかったんじゃないの?と思っちゃう。それなら上松が好きな人はついていくだろうし
全くファイナルファンタジーである必要がないゲームにわざわざ「ファイナルファンタジー」を付けて売るのとおんなじで
が、今のところはまるでわかっていない。
そもそもまったくの別タイトルで立ち上げればよかっただけの話だろうと思ってしまう。プリンスとプリンセスで絵柄がまったく違うから余計にそう感じるのかもしれない(引き合いに出してしまうけれど、SideMはアイマスらしい絵柄なので女性向けのアイマスが出したかったのだと理解はできる)
確かに長寿コンテンツである「うたプリ」看板とプリンスでフォロワーで稼いであるSNSを使えば、目に留まりやすくなるのかもしれないけれど、乙女ゲーユーザーがギャルゲーをするのか?ギャルゲーユーザーが乙女ゲーをするのか?と考えると目に留まったところでそこまでのメリットがあるのだろうか。ブロッコリーはTCG関連の男オタも抱えているだろうからそのあたりに売り出していけばよかったのでは?
こういうの本当に好きで、ポリコレバトルで「弱さ」こそが公金補助を引き出せる時代になると、コメディアンもアスリートも自分の持つ中で最弱の属性を看板に掲げるようになる。
その風潮の中で、人生の欲しいもののうち9割以上を手に入れてきた令和結婚難過疎化少子化時代の共働き都心部既婚富裕層が、なお満足できず贅沢品である子どもの補助もフルでゲットするために、子どもは弱い、ワーキングマザーは弱いと、弱さを掲げて社会に対する責めの姿勢に転じる。
それを見ると弱者男性に弱者度0点、貧困ママにすら弱者度20点前後を施してきた泉や福島や岸田や志位ら一同も、さすがに共働き都心部既婚富裕層ワーキングマザーには満場一致で弱者度100点満点をつけざるをえない。
お題:足立区。なんか色々付け足し始めた。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで入れないんです。
で、よく見たらなんか看板に、ペンギンのふれあいタイム、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、ペンギンのふれあいタイム如きで普段来てない水族館に来てんじゃねーよ、ボケが。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で水族館か。おめでてーな。
よーしパパイルカのショー見に行くぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
深海の生物とか見て、感動するか恐怖すら覚えるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。子供連れは、もう少し静かにしてろ。
で、やっと入れたかと思ったら、隣の奴が、ジンベエザメのエサやり体験、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
得意げな顔して何が、エサやりだ、だ。
お前は本当にエサやりを体験したいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、エサやりって言いたいだけちゃうんかと。
水族館通の俺から言わせてもらえば今、水族館通の間での最新流行はやっぱり、
クラゲ展示、これだね。
クラゲってのはね、見てるだけで癒されるんだ。そん代わりエサやりなんてことはしない。これ。
で、それにクラゲの生態をじっくり観察。これ最強。
しかしこれを堪能すると次から水族館にハマるという危険も伴う、諸刃の剣。
まあお前らド素人は、アシカショーでも楽しんでなさいってこった。
そんな足立区のすみだ水族館ですが、もちろんその他にも楽しみ方はたくさんあります。足立区には素晴らしいスポットがいっぱいあるので、水族館だけじゃなく、他の観光名所も見て回るといいですね。
例えば、東京スカイツリーも足立区の近くにあるので、そこにも足を運んでみるのも面白いでしょう。また、足立区内には河童橋や亀有公園などの自然に囲まれたスポットもあるので、そういった場所でゆっくりと過ごすのも良いかもしれません。
とにかく、足立区は多様な楽しみ方ができる素晴らしい場所です。ただ、どこに行くにしても、他人に迷惑をかけないようにマナーを守りながら楽しむことが大切ですね。次回からは、そんな足立区での楽しみ方をもっと追求していきたいと思います。
お題「墨田区」
そしたらなんか観光客がめちゃくちゃいっぱいで、賑わってるんです。
で、よく見たらなんか看板が立ってて、「スカイツリー入場券10%引き」とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、10%引き如きで普段来てない墨田区に来てんじゃねーよ、ボケが。
10%だよ、10%。
なんかカップルとかもいるし。デートで墨田区か。おめでてーな。
よーし彼氏、展望デッキ行こうねー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、10%やるからその席空けろと。
路地裏の昔ながらの商店とか、古い神社とか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。観光客は、すっこんでろ。
で、やっと静かな場所にたどり着いたかと思ったら、隣の奴が、「雷門のおみくじ引いたら大吉だった!」とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
お前は本当に運試ししたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
墨田区通の俺から言わせてもらえば今、墨田区通の間での最新流行はやっぱり、
地元の人気店を回って飲んだくれる。これが通の楽しみ方。
身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。
コメントで、築50年、1970年代に作られたマンションの様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。
このマンションは1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取りは3LDK。私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年、1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。
小学校に入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれが班長、レストランのせがれが副班長。スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋の社長、理工系の技術者、保育士、共産党員、福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋のおやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油や砂糖がないときは借りに行ったりというつきあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域の情報を過剰に共有していた。マンションが商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったかの情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。
おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者はほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり、住民がいぶかしがるような時代だった。独身者はアパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民がマンションに住むという構造だったのだと思う。商店街にコンビニやレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しかし資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館や集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズのコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京の未来を信じていた時代だったのだと思う。
その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人と同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由な暮らしを謳歌していた。文化的な地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブのファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線と私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。
そんな2000年代。わが地元のマンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化したからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンションの世帯は四方にあり、衛星放送のアンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたとき、マンションの理事会が開かれるという。私は屋上に衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき、長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話でインターネットに繋いでいた時代の話だ。
「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンションの構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下」である。エレベーターはマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段だけが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人は住み込みで管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心ついたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦で住民とは打ち解けている。数年前、管理会社の方針で住み込みでの雇用は打ち切るとなったとき、マンションの自治会が自治会費で管理人室を買い取り、管理人を雇用することになったとのことだ。そのときの声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込みの管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠に管理人に介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人の裁量で判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民も管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。
マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球やサッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターとしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭の大人は行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技は禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師の夫人が、先生の師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき、野球だサッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由な環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。
たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護が必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしをいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生は最近どうなのという話題は常にあがる。先生はスーパーや下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。
おっさんが、
坊さんに「この仏教徒め!」っていってるようなもん。
まあ、なんでわざわざそんなこと言うの?ってなるのである意味怖い。
凶悪な獅子座連中と、無垢で被害者な蟹座の対比を強調するためです。
話のまくらやで……。
ただのフレーバーテキストやで……。
問題文はちゃんとわかりやすく書いてあるやろ、おもしろ星座選手権じゃ。
国語の読解テストだって、テーマわからんからって諦めたりせずに、問題に関するところだけ拾うだろ。
頑張れ。
精神が成長しない
なんか見抜いたったみたいな書き方してるが、別に隠してないかんな!
元々、そういうロールで遊べってオーダーで、
君と君にスターつけた人以外はみんな、
分かってて乗っかってくれてるだけだぞ!
気をつけろよ!
モバマスがサービス終了するので、担当アイドルである塩見周子のこれまでを振り返っていた所、初登場のR +の衣装を見て感情が溢れたのでいても立ってもいらずこの文字を入力しています。
アイドルマスターシンデレラガールズに登場する京都出身の18歳。
性格は「自由奔放でノリが軽い」(pixiv百科事典)「気楽」(ニコニコ大百科)と評されています。
実家が京都で長く続く和菓子屋であり看板娘として店番をしながら過ごしていました。
高校を卒業後、実家でヌクヌクしようとしていたら追い出されて…何やかんやでアイドルとしてデビューします。
ー閑話休題ー
とりあえずここまで読んだ皆様へ、Webの検索「塩見周子 R+」をして、「実際、周子のR+の衣装ってどんなだっけ?」というのを確認をしてから続きを読む事をお願いいたします。話の解像度がちょっと上がりますので。
ー再開ー
京都出身で和菓子屋の看板娘だったから「和菓子屋の看板娘」モチーフの衣装をもらったんだな。というのがこの周子を初めてみた時の自分の感想でしたし、おそらく周子自身もそんなことを思っていたのではないかと思います。
そんなところからスタートしたアイドル生活を過ごし周子がアイドルとして活躍することで…
家出をしてきた為にぼんやりと「居場所・帰る場所がない」と感じていたのが、アイドルとして活動していったことで「アイドル:塩見周子」という居場所・帰る場所ができた。
「京都の和菓子屋の娘」という経験がアイドル活動を行う上で役に立ったことで、これまでを何となくで過ごしてきてしまった自分の過去を肯定することができた。
家出同然で出てきてしまい、わだかまりのあった実家ともなんだかんだで仲直りでき、そして改めて実家は自身の「帰る場所」であると思うようになった。
京都出身だからこそ多く振られた和モチーフの仕事を通じて、伝統の意味や役割、それが持つ人々を感動させる力について再認識し、それを背負うことの意味を知った。
転じて、自身の曲の一節「あたしらしく新しくなれ」の言葉通り、「古いもの」「新しいもの」のどちらかに振り切らず、それぞれの良さを取り入れて尚且つ自分らしくある、というスタイルを確立した。
(一曲目のソロ曲「青の一番星」中に出てくる歌詞。また、2曲目の「Private Sign」のオケは現代的な曲調なのに対し、ボーカルは古めかしさもあるオーソドックスなものになっている為、まさに「古きと新しきを混ぜた」曲を歌っています)
※引用元 https://twitter.com/ykm91/status/1147049692124987392?s=61&t=HROkGpbo8k3NBs4WcQadzA
以上を踏まえて再度R +の衣装を見返すと、和菓子屋の看板娘のあの服は、
「実家が和菓子屋故にやりたいことも考えられず、将来はこのまま看板娘を続けるのだろう…と何事もなく過ごしていた、それまでの日々で着ていた服」
「実家が京都の和菓子屋で看板娘だから、で着ていただけの和服」であり、
「両親が和菓子屋をやっているからこその看板娘だったのに、その両親との関係が良くない状態で家出した先で与えられた衣装」
「家出したからこそ失った、これまでの自分の居場所を象徴する衣装」だったのが、
「古きも新しきも取り込んで自分らしく輝く」塩見周子というアイドルが、
「アイドルとして活躍する、新しい日々の階段」の最初の1段を登る際に着た衣装が、
「これまでの自分が着ていた和菓子屋の看板娘モチーフの衣装」だった。
ということではないかと気がついて、情緒と語彙力がアレな状態でもとにかく吐き出したいと思ってキーボードに向かっていた次第です。