はてなキーワード: 判官贔屓とは
基本的には生活を政治に変えて欲しいと思っている人が少ないからだ
それ以外には、もともと誰かを応援したり評価したりしない文化であることも影響している
海外SNSには日本のGoogleマップの飲食店レビュー3はアメリカの4.5と同じと書かれていた
またサポート担当者への評価に対して日本では海外より低い点数を付ける傾向があると言われている
そもそも政治の話など目にする機会もないから評価のしようもない
ただし失敗に対しては厳しい
政治家がやらかすと一斉にノーを突きつける
今、自民党は議席で失った選挙区に候補者を立てない戦略を取っている
水に落ちた犬は徹底的に打たれるのだ
かといって野党が負け犬を打つ作戦をやると逆効果になる可能性もある
別に身内の肩を持つわけではない。
価値観の合わない身内に対して「お前たちと同じ釜の飯を食ってるのが恥ずかしいから、意識改革をさっさとしろ」と檄を飛ばしたいわけでもない。
学校と生徒には相性があり、ウチの学校はそういう生徒を育てるのに向いてないなと感じているという話だ。
お役所的な手続きの練習にもなるし、自分で一連の行為を行うことで受験が自分事になることにも一役買う。
こういった手続きは必要以上に軽んじても、重んじても、社会生活において負担になる。
ESの提出をやたら怖がったり、電気代をいつまでも滞納したり、そういう人間にならないための社会経験として、「願書を出す」「ちゃんと受け付けてもらう」「その結果として受験が出来る」という流れを生徒には体験して欲しい。
その機会を奪うような学校は教育機関として重要なことを見失ってると思うし、そんな学校の言いなりになっているような生徒は自主性が足りていないように感じる。
私の価値観に基づいた話を続けるが、正直、生徒は被害者ではあると思う。
判官贔屓的に救いたくはなってしまうが、こういった生徒のワガママな行動が周囲に及ぼす悪影響を考えると、「出来ればうちの学校には来てほしくない」と感じてしまう。
ワガママな生徒を育てる余力のある学校、成績が全ての弱肉強食を貫ける学校、自由な校風がテンプレートの丸写しではなく実際にそうなっている学校、ルールに盲目的に従ってしまう生徒を求める学校、そういった学校に通って欲しい。
校風と生徒の相性だ。
「受験で忙しいから願書はまとめて出しておくね(お前らにまかせて失敗されても面倒だからな)」という方針に粛々と従ってしまう生徒に対して、「ウチの学校向きじゃん」と思う学校も普通にあるだろう。
ただ、私の学校はそうではない。
「こういう生徒はいりません」という学校があっても、別にそれはそれで良いんじゃないかなと思う。
学校と生徒の関係は、企業と社員の関係のように、お見合いのような面があると私は信じている。
なんとなく第一印象が合わないとどちらかが感じ取ったなら、その時点で次の出会いに進む方が互いに幸せ何じゃないだろうか?
という割には、2022年11月には議員会館借り切っての記者会見を行ったり
その2ヶ月後には既に刑事告訴するなど出来る敏腕弁護士(元しばき隊)がバックについていたり
NHKに一方的な報道を行わせようとしてそれが出来ないとなるとNHKに平身低頭で謝罪させたり
TBSや毎日新聞に犯人扱いの報道をさせる事が出来たりと、すげー権力の持ち主だよねこれ。
嫌儲はてなーと違ってあちら側にイマイチ肩入れ出来ない理由だわ。
完全に強者権力者が、公金の使い方に疑義入れたら民事・刑事で訴えてメディア使ってバッシングって
どう考えてもまともな一般人が太刀打ち出来る相手じゃないし、徹底的に社会的に殺されて終わり。
なんか映画とかでありそうな展開w
これが「自民党関連団体の不正を追求!」だったら超支持されてマスコミもキャッキャウフフの報道してただろう、というのもよく分かる。
って思ってたけど、今回はさすがにちょっとカンパしそうになった。
権力者による徹底的な悪化メディアスクラムの結果があの脅迫でしょ。満足か?
脅迫で出版中止、からの書類送検報道。(一般人の書類送検報道でパトカーの写真掲載して「イメージ図です」ってさすがに印象操作酷くない?w)
アルミホイル巻きたくなる展開だが、権力側による徹底的な弾圧って感じで好きでは無い。応援したがる人がいるのもなんか分かってしまった。
これがいわゆる判官贔屓ってヤツか。
元々双方なんだかなーって感じだったのもあるけど。
ここから倒れて終われば「弱小女性支援団体」は「異議を唱えたら民事・刑事とマスコミ総出で社会的にリンチされて殺されるから逆らえない」脅威の団体と化すし
もう一波乱あれば、左翼系権力者集団に少しは怯えずに済む展開があるのかも知れない。
本来はこういうのを疑問視し、抵抗するのがリベラルだったんだけどな。
左のネトウヨだよね完全に。
アラフォー、弱者男性予備軍、オタクリタイア、ロリコン、♂×アストルフォ程度ならBLいける、ブリジットはそんなに好きじゃない。
本題
ジャニーズ事務所問題でキムタクの契約を切ったマクドナルドに怒りが湧いた。
週に数回マクドナルドに通っているが、
受け取ったハンバーガーを叩きつけポテトをまき散らし、コーヒーをカウンターにぶちまけてやりたい衝動に駆られた。
だが俺は社会人だ、怒りを一瞬で飲み込み今日もマクドナルドで静かに食事した。
俺は、別にジャニヲタでもないし、キムタクファンでもない、リアルゲイでもない。
だが、俺にとってジャニーズは一流のかっこいいお兄さん達なのだ。
小学校の頃は、憧れのお兄さん
高校の頃は、まだ頑張ってるんだこいつらwと蔑む
キムタクは別格だ、ドラマは最近の教場くらいしか知らないが、やっぱりキムタクは一流なのだ。
情報を食っていると言えばそうだろう、俺たちの世代にとって憧れのお兄さんはキムタクなのだ。
最近のちょいマックCMのカッコいいんだかダサいんだか、でもニンマリしたくなるキムタクの仕草がどこか好きなんだ。
解散騒動や今回の炎上もダサいけど、まあキムタクなんだよなと許してしまった。
どこかほっとしたものを感じていた。
認知が歪んだ判官贔屓か、ねじ曲がった同胞愛か、わけがわからない怒りの感情が湧いた。
俺は普段社会正義を強く意識してきた、与党に声を上げ、ゆ党に怒り、野党を叱りたいそんな鬱屈した正義マンだ。
俺はジャニーズのアイドルがキャンセルされていく事に許せない感情があった。
自分が賢く進歩的だと密かにうぬぼれていたが、それは誤りだった。
だから、ジャニヲタを笑わないで欲しい、彼ら彼女らもこんな怒りが湧いて
わけもわからず理論武装して、めちゃくちゃになっているだけだ。
そのめちゃくちゃな理論武装で誰かを傷つけているのは明らかだが、怒りは論破しても収まらない。
このわけわからない怒りをもっと解き明かしてくれ、そして対立より解決を生んでくれ
そして俺はやっぱりキムタクに惚れているのか。
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
ええ…ただの判官贔屓やん…
ウクライナの一連の動きを見ていて、日本が近隣諸国から仮に侵攻を受けた時にどのようなことが必要かということを考えた。仮想敵国は中国ないしロシアとする。北朝鮮はどうかと言う点では、彼らが本気で我が国と戦う場合は核による大規模な攻撃を早い段階で仕掛けざるを得ないだろうから、以下の議論とは全くレベルが異なってくるので今回は考えない。
核を保有し、国際経済と結びつきが強い国家に対しては、国際社会の反撃の動きは思いのほか鈍いと言うのが今回のひとつの学びだ。日米安保があるうちはアメリカからの支援が期待できるかもしれないが、そもそもが日本が直接攻撃を受ける事態というのは日米安保が何らかの経緯で弱体化しているという状況だろう。
時間が経つにつれ国際社会は侵攻国側に対して明確な反対を打ち出すというのが、この週末での各国の動きである。一定の効力を持つ非軍事的な制裁措置が発動するまでに2週間、その後の軍事支援も考えると自力で1ヶ月程度持ち堪えることが必要だと思った。
ヨーロッパ各国がウクライナ支援に傾いたのは、ゼレンスキー本人がメディアを使って抗戦の姿勢を明確に打ち出したことが影響していると思う。ウクライナがある程度粘れそうだ、という印象を国際社会に与え、いわば「判官贔屓」と「勝ち馬に乗る」の両方の反応を引き出すことに繋がっているのではないかと考える。
仮にウクライナの親ロシア勢力が多数派で、ゼレンスキーの抗戦姿勢を支持しなかったら、軍の士気と国際社会の支援に対して影響していた恐れがある。ロシアによる支配をウクライナ国民自身が受け入れない、というのはロシア政府とウクライナ政府の主張の正当性を判断する上で重要な基準だからだ。
ウクライナ東部での親ロシア勢力の支配地域をロシアが承認した段階では、全面戦争を避けるためにこの地域を「人身御供」として差し出すという雰囲気がかなりあったと思う。現在においても停戦のための材料としてこれらの地域が取引の対象となってしまう可能性がある。例えば中国と日本が戦争となった場合、中国が南西諸島や沖縄を実効支配した状況で戦線が膠着してしまうと、これらの地域は停戦条件として中国のものになってしまうかもしれない。
人は自らを或る属性を持つ集団に属させて、その集団同士で勝ち負けを争い合うのが大好きだ。
肉体的スポーツに限らず、デジタル、アナログ問わずのテーブルゲームや手遊び、東西、紅白、善悪正邪、二元論的対立でなくとも、プロアマ問わず複数からなるチーム対抗戦、地域、国家、思想、就労組織、親類一族、家、出身校、同一校内でも学級、学科、部活、委員、学内地域、血液型、星座、誕生日、好きな食べ物、フェティッシュの方向性、何のファンか誰推しか何沼にハマっているかに至るまで己を自らカテゴライズして、そのカテゴリ同士で優劣を決めるのが好きで好きでしかたがない。
自分で戦えない場合は時に相手の罵倒をも織り交ぜながら贔屓への応援支援。味方の勝利は己の勝利、実効的な行為は何一つせずとも馬鹿騒ぎ。負けてしまえば最悪の場合、殺人事件にまで発展する始末。争いは嫌だという場合も、嫌だという主旨でそうでない連中と争うことになる。『「長話はダメだ」という長広舌をふるう』ようなものだ。言葉とは斯くも自己言及的で――まあ、それは今更なのでいいだろう。
何にしろ、単に自分対他者よりも所属或いは肩入れする集団間での抗争が特に好まれる傾向にある、と言っていい。個人で戦うよりも楽だからというのは勿論のこと、責任は分散しつつ比較的安全圏から敵を攻撃できるからだ。
本気で対決せずとも二項の対立状況自体を面白がる風潮というのもある。無責任だったり判官贔屓だったり、要するに他人の軋轢に首を突っ込むというか、頼まれもしないのに乗っかっていく、むしろ煽っていくという状況がよくあるのは知っているだろう。
例えば、競合する商品やサービスを担う二社があったとして、そのどちらか一方のみを支持し、もう一方は徹底的に根絶する。そういう流れを見たことはないだろうか。その場合、どっちも買えば良いとかどっちも楽しめば良いとか、そういう一般的な思考は敢えて除外される。まあ、中には真剣な『アンチ』『信者』もいるんだろうが、別に両方同時に手を出していけない法はない。
つまり、好き好んで仲違いし自らを持ち上げて相手をこき下ろし、朗報悲報だのと立場によって逆転するニュースをラベリングしてひたすらにマウントの取り合い、自陣営に勧誘する事もなく、互いに罵倒し合うさまをこそ楽しんでいるとしか思えない。
現実的には、個人の資産や費用の限界による購買制限、つまり、どちらかしか選択できないという事情もあろうが、そうであったとしても選択できなかった方を貶める事で自尊心を保つ行為にしては少々度が過ぎていると感じやしないか。
詰まるところやはり『優劣をつけること』が主たる目的であって、エコノミックなパイの奪い合いというよりもこれらは、自分が正しく相手が間違っている事の確認、証明、『相手を攻撃できればなんでもいい』という事なのだろう、実際は。その『なんでもいい』部分に、同族集団というものがもっともらしい大義名分をもたらしてくれるという訳だ。なにしろ実利は無関係、というか寧ろ機会の損失という意味では損している訳で。まあ、対立状況を面白がる人間はそもそも外部の野次馬であって、失うものは最初から無かったりもするものだけれど。責任の分散どろこか、そんなものは無いと思ってるからこその、というべきか。要するに、自分自身が戦うということは絶対条件ではないって事さ。優劣を付けるのと勝敗を決するのとは、似て非なるものだからね。
誤解無きよう言っておくが、それ自体が駄目だと言ってるわけではない。人はどうやらそういう風にできている、という説明解説なのである。
元々は生存競争、捕食被食、繁殖する為に異性を取り合う等、勝つことが悦びであるという根本的な反応だろう。知恵により食物連鎖から仮初めとはいえ脱し、生存率も他に比べて高い水準を保てるようになった人にとって、その悦びを得る為の代替行為を欲するのは自然な事だ。闘争を避けること、つまり逃走が生存維持に繋がるならそれも勝ちの一種ではあるが、さっきも言った様に勝敗自体はどうやら人々にとってはさほど意味が無いようなのだ。そういう意味で、主として一人用ゲームというのは、プレイヤーが気持ちよくなる為の都合の良い仮想的を設定し、そしてそれはあくまで倒される前提、つまり攻略可能な範囲での接待と気づかれないギリギリの強さでの抵抗をし、最後に負ける事を定められた存在を配する事により悦びを得る為の疑似戦闘として非常に有用、と言うかまあ、人気な訳だ。
ただ、先に一人用と断ったように、対人戦特化型は全く別の話になるし、一人用でも高難易度特化のものはあるのだが、それはハードルが高く門戸が狭い事によって、他の奴等には出来ない事を出来る自分、というより強い優越感に浸れるという付加価値があるが故に、一定数の指示を得ている状況であり、誰でも簡単にクリアできる爽快さは、そういう人間にとっては悦びどころか、……まあ、あくまでも攻略をなせる腕があればの話だが、寧ろ無粋でつまらないものだろう。
当然、ストレス発散の為に結果としての悦びを求める者達にとっては、悦びを得る為に苦行をこなさねばならぬそれは、ゲームの為にゲームをしているという、全くもって本末転倒な思考回路なのだ。
決してそんな事はないんだが、それこそ属する集団が違うという事だ。
そして大事な事だが、『或る集団に「属する」』事は、戦う大義名分――通るか通らぬかは兎も角――を得られると共に、自分が何らかの役に立つと思い込める格好の機会でもあるのだ。特に、普通のコミュニティに馴染めない人間にとって、それは蠱惑的なのだ。
現実社会では必要とされない自分が、疑似コミュニティにおいては貢献する事が出来る。……まあ敢えて疑似としたが、要するに社会と直接には繋がっていないと言う事だ。
そして上の人間、主催は、そういう心情を利用する事が多い。現実では得られなかった役割を与え、達成感という報酬で縛り、更なる貢献……否、献身を自ら進んで行うよう巧妙に仕向ける。直接的な強制はせずとも良い訳で、自覚のない都合よき駒として、一層離れられなくしていく。無論、普通のコミュニティとてそういうものではあるのだが、マイナスを経験した後での逃げ道として用意された幸福だから、同じ分のプラスだとしたらマイナス分で絶対値は増えている、依存が強まってもおかしくない。
実際、例えばオンラインゲームにおける共闘のように、自らの役割がハッキリとしていてかつ効果に即時性があり目に見えて貢献度が分かるようなパーティプレイは、少なくとも勝っている間は、それはそれは愉しい。自らの貢献、味方との連携、互いを求め、そして求められる関係作戦立案そして実行。結果敵が倒されるのだ、自己の承認と敵の殲滅が同時に得られる。脳汁が止まらないって奴だ。つまりね、組織だった戦闘というのは、悦びを最も実感出来るシチュエーションなのだ。
その通り、厄介な事に、物理的集団戦闘行為が、その悦楽を最も得やすいんだよ。
さっき言った様に、集団を主催する人間はそれを利用するし、強烈な快楽故に強制すら不要だ。
論戦については、『双方がルールに則って』戦う前提ありきだ。そもそも言葉というのは真理でないと、今までも何度も言ってきた。言葉が通じない相手とは論を戦わせられないのだから。ある動物の威嚇行為が、人から見れば愛らしいファニーな行動に見えるように、概念での戦いは言語をはじめとした共通ルールの確固とした共が大の大前提だ。
逆に言えば、ルール厳守を徹底するなら、言語は強い武器たり得るという事でもある。
まあ、普通に暮らしている分には、我々は言語という呪文が通じる世界にいるので、その威力は人を生かすも殺すも出来るレベルであり、あくまで言葉が通じる場でなら、用いて戦闘行為は可能さ。
そもそも属性集団の属性に言語によって分けられたものがある以上、強い悦楽が物理戦闘に限るわけでは無いのだが、実際問題、同じ社会にいながら『言葉が通じない』相手が結構いるものなのだ。
どちらが良いとか悪いとかではない、勿論優越でもない、君が何処に属しようと、どういう戦闘を愉しもうとするかは僕がどういう言うことではない。