はてなキーワード: ゾーニングとは
最近よく問題になる表現の問題、今なら東京メトロのキャラクターの鉄道むすめイラストとか、少し前なら海女キャラのあれとか。ああいうのが「性的な表現」として批判を受け、それに対して猛烈な反発が起きるというのが、まあ最近よく見る流れだ。
個人的にはやはり問題はあると思っていて、そういう批判は真面目に考えた方がいいぞと思うのだけど、どうしてもネット上では反発が目立つ。強烈、猛烈な反発。
まあ、一見なんでもないようなものまで性的な表現として潰そうとしている、と認識すれば、そりゃ猛烈に反発したくもなるだろう、とは思う。理解できる。
たとえば、一昔前なら、女性が露出度の高い格好をしていると、はしたないとかなんだとか許されなかったりだとか、性的な表現は不適切なものとして不当な扱いを受けたりだとか。
そういったことからだんだん自由になって、今があるのに、不快だという声によってまたしても弾圧されようとしている!政治的に正しいとか言って。反発するよね。押し付けられてる感じするよね。理解できる。表現は自由であるべき。そりゃそうだ。
じゃあ、自分が問題はやっぱりあると感じるポイントはどこなのか、というと、ある属性の一側面について、やたら強調される表現がやたらあふれていて、やたら当たり前になりすぎているということ。
話題のみちかさんの件とか、まあかわいい絵ではあるよね。でも性的な強調があるかないかと言われたら、あるよね。それは。エロ文脈など何もない!わけないよね。
この件に限ったら些細なことだといえばそうだけど、女性を表現するときに、身体のラインであるとか仕草であるとか、無駄に色っぽさを入れるのが当たり前にありすぎるんだよね。本当にありすぎる。自分だってそういうの好きだけど、ありすぎ。あんまりあるからお約束的に無視してることも多いけど、とある属性のとある側面が強調された表現が、あまりにもありすぎるってのは、どうなのかね。
性的な強調がだめなわけではない。性的な側面が描かれるのがだめなんてことはない。まあエロとグロは結構強い反応を引き起こす題材であるので、ちょっと慎重になるべき題材であるとも思うけどね。ゾーニング必要と思うしね。
ただ無意味な性的強調表現が当たり前にありすぎる。特に女性に関して、見えるところにも普通に、ありすぎる。これはステレオタイプである。障害者を健気な天使として描くのが問題視されるのと、同じようなことである。もちろん、健気なのがだめなわけじゃない。そればっかりが、ありすぎるんだよ。
それに対して、いい加減にしろよと当事者から声が上がるのは当たり前だし、その声を聞く必要は、あると思います。
まあ多くの人が不快だから引っこめろというのが危ういのもあるんだけどね。不快に思う人が多いとしたら、それも無視はできないけど、具体的な問題点は考えないといけない。
たとえば同性愛表現に不快だという声が多かったとして、それを引っ込めたらどうだろうか。異性愛表現に置き換えて、別に問題ないレベルなのに、当たり前に存在するものなのに、不快な人が多かったら引っ込めるべき?
快、不快の数も大事ではあるけど、問題の中身を考える必要はある。
まあ、昨今の件に関しては、萌え絵だから不快という理由で表現を潰そうとしてるって見方もあるのだろうと思うし、実際そのような声もあるのだろうけど。
ただ、絵柄というよりはステレオタイプな表現にすぎるというのが問題であると思う。
別にステレオタイプだってゾーニングできれば自由にやりゃいいんだろうけど、みちかさんの件とか、鉄道むすめの他のキャラ見れば普通にポスターとかでかなり目に入るものであろうからして。今はまだ出てなくてもね。
というかみちかさんのイラスト公式じゃないだろって突っ込まれまくってるけど、かなり公式っぽい感じに使われるキャラだと思うんだけどね。
みちかさんは公式キャラを元にしてるし、他に比べてもかなり公式よりだと思う。まあ、こういう流れになったわけだから、別のイラストを使うかもしれないな。
鉄道関連だから、かなり目に入る感じだと思うし、公共性問われるの別に変ではないと思う。
それにしても鉄道むすめに対してゾーニングされてるコンテンツ扱いするの、割と悲しい。あちこち行くたびに親しみを持って見てたし、愛着あるのに。自分が見たのはほぼ公式マスコット扱いだったよ。地域やキャラによって違うとは思うけど。
ああ、長い。要するに女性キャラに性的強調要素くっつけるのありすぎるし、公共性の高い鉄道公式キャラ(まあ正確にはそうではないとはいえ)にまでそういう表現を持ってくるのはもう我慢ならねえという声、聞くべきと思った。という話。
自分もステレオタイプなオネエ描写とかやたら漫画に出てくるの物凄く嫌だし(自分が当事者よりだからだ!)、いい加減にしろよと言いたくなることはあるんだ。キャラクターとして好きだけど表現のあり方としてステレオタイプすぎるのが許容できないとか、そんな複雑なこともあるんだ。
誰も不快にしないなんてそんなものが完璧に実現するわけはないし、なにを不快に思うか、性的に思うかは本当に人それぞれなんだけど、だいたいの線引きは必要だし、今だってあれこれとある程度線引きはされてる。それがなるべく公平になるよう努力は必要だろと思うわけで…。
まあとにかく現状はだいぶ、バランス悪いぞ。
しかし物言いがついたからって安易に自粛することもないと思うし、面倒くさいこと避けてると前進がないよなーとか思う。落とし所を探るプロセスとか、未発達すぎるなあ。
ああ、長いな…。そうだあともうひとつ、あれこれあるけど、絵描きのせいじゃないと思うから。こういったバランスが必要な仕事のときにはそういうの考える人も必要なんだ… 描く人に丸投げしちゃだめだ…
写実性が高くなると刺激も強くなる、というのはエロに限ったことじゃないね。
豚を輪切りにした絵が肉屋の看板に使われることがあるけど、実物の写真を使ったら大惨事だし。
だからといって、血管を描くとグロいとか、組織の断面がグロいとか、表現の内容に具体的な基準を作ってもあまり解決しないとも思う。
極端な話、「何が地雷か」「何が名作か」なんて説明して理解させられるものではない。
批評の努力ももちろん大事だけど、規制の網を掻い潜るチキンレースがいくらでも可能なのも事実。
だから表現の内容を厳密に決めるのは諦めて、感情的に叩くのも、チキンレースも両方共ある程度自由に任せるとして、
ここから先は内容無制限っていう表現していい場所を確保した方が早いんじゃないっていうのも思うんだけど、
ゴジラに自分の町が破壊されるのは嫌だ、駅がエロゲの販促をするな、みたいな反応まで含めて、
公共機関が関わると表現の場所も簡単に曖昧になるのかな、という感じで、
結局よく分からなかった。
発達障がい者のまずいところって健常者と肩を並べたがるところでしょ
脳の障がいなんだから健常者と同じだけの成果をあげることなんて期待できないわけで
共同作業所やそれに類する場所で健常者の管理のもと発達障がい者が集まって何かやってたほうが良いと思うのよ
いわゆるゾーニングってやつだよね
発達障がいの診断下されて健常者でないことを明白にしたほうがいいとか
この増田のように「発達障がいに理解を」という言いまわしで健常者が寛容さであることを求める人たちは
それと反するようにどことなく発達障がい者が健常者の輪の中に交わって社会生活をおくることを望んでいるように見受けられる
障がい者と認定されれば、健常者扱いされていた頃よりも同じように社会と関わることはできない
あからさまに疎外されるというようなことは残念ながら根絶しようがない
君の名は。人気はまだ続くのだろうか。自分は公開2週目位に一度見たきりなのだが、Web上で展開されている
様々な解釈を念頭に置いて、もう一度くらいは劇場に足を運ぼうと思っている。
新海監督の作品は「ほしのこえ」からの自分だが、その中では前作「言の葉の庭」が一番好みである。
50分弱という過不足無い尺。今作では少し鳴りを潜めた、現実よりやや過剰に高められた光の輝き。
ヒロインを失意の闇から救済し、精神的な絆を結びつつも、直接の対価を得ることが無い幕引き。
どれをとっても、新海誠という人物が長年その心象世界に持つ純粋な「私の世界」。
君の名は。を彼のベスト盤であると評した人がいた(本人?)ように思ったが、自分は「言の葉の庭」こそが、
最も正確に彼そのものを表しているように思う。
ただ、そういった作品性とは別に、自分が言の葉の庭を特別なものとして見るのにはもう一つ大きな理由がある。
全くもって個人的な体験に基づくもので、それを他人と共有する事に価値は無いのだとは思うのだが、
40を目前とした今、その記憶がゆるやかに風化していくにつれ、どこかにその記憶を刻んでおきたいという欲求に駆られ、
1日だけの日記としてここに記しておこうと思う。
創作では無い為物語の構成は酷く、起伏にも全く欠けるが、偶然目にする人がいたら、息抜きのつもりで読んでみて欲しい。
20年ほど前、自分は地方の私立大学に通う大学生だった。高校を出て何となくの流れに乗って通う大学生活は、
地方であること。理系であること。あまりハイブロウな属性でないことなどから大きな刺激も無く、
かといって腐ってしまうという程の退屈さもなく、毎日がそこそこのルーティーンとそこそこのイベントによって消費される、
卒業校は大学とほど近い場所にあるため、自分は時折高校時代の恩師の元を訪れ、近況の報告や、
(当時のPC弄りが好きな学生がしばしばそうであるように)師のPCメンテナンスなどを請け負っていた。
ある日いつものように師の元を訪れると、師の隣席に初めて見る顔があった。
師は、新任の先生だと言って彼女を紹介してくれた。
「今度新しく入ったH先生だ。」
「どうも初めまして。Sといいます。」
学校行事でスーツを着ていた自分を、おなじ新任か関連業者の人間と思ったのかもしれない。
彼女…H先生は突然勢いよく椅子から立ち上がり、コンシェルジュのような角度でお辞儀をしながら
と、およそその完璧なお辞儀からは相応しく無い焦り具合で挨拶をしてくれた。
少しだけ長めのボブカット。
そして何より、整った、育ちのよさそうな顔立ち。
(ははぁ。これは生徒に人気がでるだろうなぁ…。)
そう、思った。
「そう言えばH君、パソコンの調子が悪いと言っていたじゃないか。せっかくだからSにみてもらったいい」
これをきっかけに、ほんの短い間ではあるものの、自分とH先生に関係が生まれた。
その後数か月間、自分はH先生のPC周りの面倒を見ることになった。勿論、数か月といっても頻繁では無い。
実のところは、精々5・6度の話でしかなかったと記憶している。そうとは言え、ほんの少しだけ年上の
とびきり可愛らしい女性が相手だ。いつもわくわくしながら通ったのを覚えている。
見かけ通り、H先生はとても可愛らしく純粋だった。
明かりの落とされた職員室。
冷陰極管の青白い光に浮かび上がる横顔。
買ってくれた缶コーヒーの温もり。
年下の自分に中途半端な敬語交じりで話し、ソフトの使い方を教えたり、FEPの不調をメンテしたり、
壊れたFATテーブルをエディタで書き直す程度の事で、H先生はとても喜んでくれた。
見かけによらず、頑固でもあった。
突然の夕立に「いい」と言うのに頑として聞かず、駅まで車に乗せられた。
エアコンが効かず、少し蒸した車内。
一度、何かの為にソフトを借りに実業系科目の教師の所へ顔を出したとき、
と、冗談とも真面目ともとれない顔で言われたこともあった。
…その通りだと思った。
あの時自分はどうして恋に落ちなかったのだろう?
高校時代淡い好意を持っていたクラスの女の子を忘れられなかったからだろうか?
卒業校とは言え、教師という立場の相手に対しての遠慮だったのだろうか?
今となっては思い出すことができない。
ただとにかく、会いに行く時間の胸の高鳴りとは裏腹に、
自分がH先生に対して恋心を抱いたことは無かったように思う。
時が経つにつれて、H先生とは疎遠になった。卒業からしばらくOBとして顔を出していたやつが
いつの間にか顔を見なくなるという、ごくありふれた、普通の流れだった。
勿論、心のどこかで気になってはいたが、明確なきっかけも無いのに顔を出すのも気恥ずかしく、
また、自分という存在が順調に過去となっていく高校に窮屈さを感じ、足が向かなくなるにつれ、
しばらくの後には思い出すことも無くなっていった。
大学生活は相変わらず少々退屈で、授業とバイトの日々が続いていた。バイト先にはコケティッシュに笑う
年下のあざと可愛い女子大生が入り、自分はその子に相当入れあげていた。
そんなある日。
高校の「部室」へ顔を出した。
自分は高校時代ややヲタクなサークルに顔を出していた。それはよくあるアニメやゲーム好きが集まるような
内輪志向の趣味サークルで、正規の部員でこそ無かったものの、殆どコアメンバーのような立場でメンバーとつるんでいた。
先輩も、後輩も、同級生も、自分の高校生時代の交友の半分は、そのサークルに由来している。
部室にはYがいた。
Yは自分が卒業する年に入学した後輩で、少々エキセントリックな性格ではあるものの、
当時の世相でそういったサークルを志向していた女子には珍しく、並以上とは言える容姿と、
その予測不能な反応を示す性格から、OB現役を問わず大層人気があった。当時から近い表現はあったように思うが、
ヲタサーの姫がベターなワードチョイスだ。正確にはサークラ的要素も多分に混じるのだが、
方々穴兄弟にはなったものの、サークルはクラッシュされなかったので、二択であればやはり姫の方が無難であろう。
Yや他の部員たちと軽く挨拶を交わし、部室に置き去りにしたPCエンジンで縦スクロールシューティングに興じていると、
「先輩先輩。先輩はH先生知ってますか?」
驚いた。彼女が新任教師として赴任したのは自分が卒業した後であり、現役生であるYもそれは承知だろう。
卒業後に赴任した教師を話題にあげるという事は、普通滅多なことではしない筈だ。
「ああ、実はちょっとした絡みがあって少しだけ知ってるよ」
事実を答えた。Yが続けた。
「H先生、辞めちゃったんですよ」
公立高校と違い、私立高校では異動というものが殆どない。私立が主体の都会では事情が異なるかもしれないが、
地域内に同業が少ないこともあって、転職という選択をする教師も(教師という手堅い職を選ぶ本人の性向もあってか)
滅多にいなかったと思う。とにかく、短期での退職というものはあまり例が無さそうに思えた。
Yは表情を変え、ゴシップ好きの主婦のような声色を作って次を継いだ。
「それがね、聞いてくださいよ先輩。H先生寿退社…ってことになってるんですが、本当は…」
…
…
「本当は、生徒に強姦されて辞めたんです。」
それから数年の年月が過ぎた。
大学卒業後、氷河期のどん底という頃に地元の小企業に就職したが、ワンマン社長の横暴に嫌気がさし2年と少しで退職。
しばらくアルバイトをしながら職を探したが、高卒でブルーカラー職についたり土建業に入るならともかく、
大卒が志向するようなサービス業的業種にまともな就職先はとても少なく、わずかにある条件のよいポジションは
新卒で滑り込んだ者が既得権化しており、あとはそれこそ公務員くらいしか不満の少ない就職は困難だった。
それを期に、意を決して東京へ出た。
友人の家に転がり込み、転職エージェントを頼りにいくつかの会社を受けた。東京での活動は思いの外順調で、
面接したいくつかの会社から採用通知を受け、そのうち、条件はあまり良く無いものの、基盤の堅い中小企業に入社した。
入社後上司との性格の不和に苦しんだが、前職の事を思えばその程度の問題に対処することは苦労のうちには入らなかった。
給料はとても安(250程度だったと思う)かったが、それも前職に比べれば不満は少なく、初めての東京生活をエンジョイし始めることができた。
そんな矢先。
当時の秋葉原メイドカルチャーは黎明期の出店ラッシュがひと段落し、金の匂いに感づいた風俗業の面々が
続々と出店を始めた位の頃だったと思う。高校を卒業したYは東京の大学へ進学したが、
生来の不安定な性格故順調にメンヘラ属性を手に入れ、真面目な大学生という路線は早々に離脱。
生活の為か趣味かは聞かなかったが、アルバイトとしてメイドを始めた、ということだった。
メールには多少面食らったが、Yの人と成りからすれば、想像には難くなかった。
自分の秋葉原に対するスタンスは単なるパソコンショップ詣の場所で、メイドカフェへ行くことに多少の
戸惑いはあったのだが、後輩に会いに行くと思えばいい。了承の返事を送信した。
「おかえりなさいませ、ご主人様~」
Yの働く店は正確にはカフェではなく、バーだった。
万世橋を渡り少し裏手の路地の扉を開けると、今では手垢どころか擦り切れて表皮が
やや珍しい青と白の照明で彩られた店内(まるで自作PC筐体のようだ)は、多少の安っぽさはあるものの、
常連客との適度なゾーニングもされていて、居心地は悪くなかった。カウンターの向こうで客の相手をする
隣では、この場所にはやや不釣り合いな女性が独り呑んでいた。
「君、初めて?」
声をかけられた。
「そうですよ。高校時代の後輩がいるんで、まぁ付き合いです。」
「そうなんだ。じゃあ私と一緒ね。」
女性(T)は銀座でホステスをしていた。非番の今日は、ここで働く自分の彼女の仕事が終わるまで待っているのだ、
と教えてくれた。自分も自己紹介をし、それからしばらく話をした。ホステスの会話術は流石に巧みで、
後輩に会いに来たことなどすっかり忘れ、仕事の話や高校時代のことなどを話し込んだ。
2杯目のジントニックの氷が溶けるころ、Tがはたと気付いたように自分に聞いた。
「そうですよ。Yは3つ以上下だから、直接一緒になったことはないですけどね」
「そっか。そしたら君…」
…
…
「H先生って…、知ってる?」
ドキリとした。
自分の中で風化し、消えかけていた「H先生」という単語の響きが、急速に記憶の色を取り戻させた。
しかし、こんな偶然があるのだろうか?ここは00年代も半ばの秋葉原。しかも場末のメイドバーだ。
100歩を譲って、自分達の高校が埼玉や神奈川にあったとすれば分からなくもない。
だが、自分達の高校は十分に遠方にあり、増してや、彼女がH先生であったのは6年も7年も前の話なのだ。
ボブのかわいい初々しい先生だったこと
人の消えた職員室で一緒にコーヒーを飲んだこと
大した話ではない。読んでくれている人がいたら申し訳ないが、当事者以外が聞いても何の感慨もない日常の出来事だろう。
Tは、そんな自分の話を穏やかな顔で聞いていた。ひとしきり話を聞いてから、話をしてくれた。
髪型が全然違うこと 化粧が派手だったこと
プレリュードに乗っていたということ
…そして、1年程前まで、自分の彼女だったということ
少しジメジメした夏の終わり頃だったように思う。
日付なんて全く覚えていない。
でも、それくらい、自分にとって忘れられない日の出来事である。
「言の葉の庭」は、ヒロインである雪野先生が、想いを寄せられた男子生徒への対応を誤ったことを
きっかけに物語が構成されている。劇中、男子生徒を奪われ、腹いせに雪野先生の退職を画策
(そしてそれは成功する)した女生徒に主人公が抗議をするシーンがある。
客観的に見るとやや時代錯誤と青臭さがあり、本作で唯一落ち着かない場面ではあるのだが、
このシーンを見ていると、雪野先生とH先生をどうしても重ねてしまう。
勿論、自分が孝雄になる妄想を出来る程今の自分は若くない。ただ、物語は悲恋として終わるものの、
孝雄の存在は、雪野先生の人生において彼女のレールを想定の範囲内におさめる為強力に機能した筈だ。
では彼女は、H先生はどうだ?
H先生に関して一つ書き忘れたことがある。彼女は県下一の、ある業種の創業家の息女である。
名士の娘が地元の高校で教壇に立つ。頃合いをみて結婚。家に入る。
時代錯誤ではあるのだろうが、そんなルートが彼女の想定の範囲だった可能性は高い。
もっとも、実はそれが嫌で飛び出したということも考えられる。
これを読んで、「だからだよバーカ」と舌を出しているかもしれない。
それならそれで、構わない。彼女が想定の範囲の人生を受け入れていたかどうかなどわかるはずもないし、
想定されたルートが幸せだったなど、他人の人生の価値判断を想像でするべきではない。
ただ、人生のターニングポイントにおいて、1人の人間の存在が他の1人の人生に与えうるインパクトの大きさというものは、
現実であっても、いや、現実こそ想像以上に大きい。花澤香菜がワンテイクで録ったというクライマックスを見る度、
そこに感情をぶつける肩のあった雪野先生と、もしかしたら無かったのかもしれないH先生とで、
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…自分語りはこれで終了だ。
最後に少しだけ、素人の新海誠評を書いてみたい。
あくまで想像だと前置きするが、新海監督は幼少から無理目な恋愛ばかりをしてきたのではないだろうか?
恋愛という通常とは比較にならないエネルギーを必要とする行為において
その力を一方的に放出し還流を受けることのできない状況は、人を極端に消耗させる。
ある者は力尽き、ある者は別の誰かから力を得た。
またある者は、運良く力の循環に出逢えることもあるだろう。
監督はどうだ?
監督は恐らく、無から力を生み出すことを選んだ。それが新海誠の作品性の源流であり、
君の名は。の2人は、時空を超えて尚力の循環を得ることが出来たように描かれている。
これをもってして彼の心象世界との乖離を突き、不安視する声がある。かく言う自分も少しばかりは、心配だ。
だが、監督は既に力の循環を知っている。言の葉の庭の2人は、実態としての結末こそハッピーではなかったかもしれないが、
別に叩いてないじゃん。
ツイッターが「つぶやき」のように消えるものではなくグーグルでごく容易に捕捉されてるように、
ヤバい同人誌の売上もとらあたりでがっちり数字で捕捉されるよ。
ばくはくぶつのつくりかたサイトへのアクセスはIPごと捕捉されてるかもしれないしなんなら公安のおじさんが勝手にちぇけらすることもあるだろう
時代は変わってるよ。ネットでなにしてもログは残るよってごく常識でしょう。
ここだけよめばゾーニング云々までも言ってないし、どっちの立場ともとれないけどな。
ついでに見たら「パブリック・エネミー」って自己紹介。
まあ落ち着けよ。おまえさんだってたとえば適切な「ゾーニング」に対して文句言うほど狭量じゃないだろう? 子どもの手の届くところにポルノがごろごろしてる状況見たら文句の一つも言いたくなる人がいることぐらい理解できるだろう? たとえ「合法的ポルノ」であったとしても。 それに、おまえさんだって、たとえば子供らが行き交う駅前で、「ポルノは最高であります! もっとポルノにあふれた世の中を!」とか大声で叫んだりはしないだろう? 大人の有権者相手に演説するくらいのことはするとしても、無制限に社会全体に対して大声で主張しなくてもいいだろう? だとしたら、この女の言ってることと、それほど立ち位置が違うわけじゃない。
おまえさんがどんな趣味かは知らないが、その趣味の何かを購入するとするだろ? そうするとその業界儲かるだろ? 潤うとそういうコンテンツが増えるだろ? つまり、おまえさんは「購入」という行為によっていわばその趣味について社会的に「一票を投じている」も同然なわけで、それって「一種の意思表示行為」だろ、ということをこの女は言ってるわけだ。だから「購入」といった行為自体は無色透明の自由ではない一種の社会的行為だ、だからそれを制限することは「『内心』の自由」の侵害には当たらないのではないか、と。それ自体は、必ずしも間違った主張とは言えないよ。
たとえば……殺人趣味をもち妄想しているヤツがいたとしても、殺人を素材の一つとして扱った刑事ドラマを見て妄想をふくらませて満足しているとかならそれは「内心の自由」としか言いようがないだろう。だが「殺人シーンが好きな人間のためにそれのみを目的とした」スナッフビデオを積極的に買い集め、そういうヤツが増えた結果それが氾濫し、しまいに合法非合法の区別すらつきづらい状況が発生してきたら、それはさすがに安寧秩序を乱すとして取り締まられても仕方ないんじゃないのと思わないか。この場合、そういうビデオの製造販売を(場合によっては購入も含めて)取り締まることは「内心の自由の侵害」にあたるとして絶対に許されないことか? そういう不幸を生じさせないためには、せめてゾーニングが必要だし、見る側にもわきまえが必要だろ。それが、他の人の「安寧に暮らしたい」という気持ちを尊重することにつながり、ひいては自分たちの良識を示し趣味への理解を広げることにもつながるからな。そのとき「内心の自由じゃねえか!」と騒ぎたてるのは、明らかに筋悪な主張だ。
もちろん、どんなに「ゾーニング」をしても、のぞき込むようにしてやってきて「外から見える!子どもにも見える!」と騒ぐ人というのも、まあいる。この女も、そこそこそれに近いとこはあると思う。だが、仮にそう騒がれたところで、事実「外からも見える」し「子どもにも見える」のだとしたら対策するしかないし、そうでないとしたら「見えていませんよ、あるいは見えているとしても現実的には大した量じゃありませんよ」といって、しっかりゾーンを守るしかないんじゃないか。騒ぎ立てる人に対して「中でやってんだから勝手だろ!」と騒ぐのは悪手だよ。ヒートアップして騒ぎ立てられたらますます「外から見える」状態になる以上、弱いのはゾーンの中の方だ。それが分かってるから騒ぐ人は騒ぐのであって、ゾーンを守りたいなら、押さえる点は押さえつつ、ラインを踏み越えないように冷静に対処し続けるのが大事だと思うよ。
やっぱセックスとか暴力描写とか宗教とかマルクス主義とかにかかわる文章は載せられないんかな。
そういうの避けて、かつほどよい長さの文章を選ぶのは大変そう。
ゲームのレーティングと同じで、発達段階に応じた内容を選ぶことの難しさはありますが、
自分の場合は高校ですし、高校生はある程度現実見えてるので、そこまで厳密なゾーニングをしたところで、という気にはなりますね
個人的にはセックスや暴力描写も、「そこから客観的に何が読み取れるか」「どんなことが見えてくるのか」という点で、
教材としてだけなら、むしろ良い教育内容が作れそうだな、という感じはありますね
宗教とかマルクス主義の例ですが、イデオロギーを色濃く含んだ文章は、難しいです
価値判断を含んだ文章を理解するには、ある程度、筆者の価値判断の材料を理解しなくてはなりません
しない場合、自分の共感しなさをどのように伝えるか、と言った問題があります
すぐれて教育的な問題ですが、時間のなさ、カリキュラム、教師の能力、生徒の能力といった諸々の事情から、厳しいのが現実ですね
条件が整わないまま、価値判断を色濃く含んだ文章を取り扱うと、筆者の価値判断(読解ではなく)の押し付けみたいなことも生じる可能性があります
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ナコルルを倒すという意味で「アイヌ殺す」と言ったことがヘイトスピーチ認定された件
はてブでは「公共の場所で『アイヌ殺す』はまずい」という意見が多かったが、果たして今日のインターネットで公共じゃない場所ってあるんだろうか?
(そもそもTwitterが公共の場所なのか、あれはそんな立派なものじゃねーだろという論点もあると思うのだが、それは本題ではないので今回は無視する。)
想像してみてほしい。もしこの格闘ゲームを遊んでいる人たちだけが集まるコミュニティがあったとすれば、どうだろう?
コミュニティ内での発言ならば、たしかに誤解は起きにくい。しかし、ゲーマーの中にもアイヌ民族がいると思うし、差別問題に意識高い系の人が目くじらを立てるかもしれない。最悪の場合、ゲームに全く興味ない人がわざわざ監視にやってきてアラ探しをすることもある。
なので、本来は一般人の目につかないはずの場所でおこなわれた「アイヌ殺す」発言がピックアップされ、衆目にさらされたあげく炎上し、結局はアウトということになりそうな気がする。
「発言の文脈は関係ない。"民族名+殺す"はヘイトスピーチだ」という理論を採用するなら、むしろそうなるのが当然である。
このように考えると、もはや今日のインターネットはどこもかしこも公共の場所であるし、「アイヌ殺す」発言が通用する場所は存在しない。
ゾーニングは根本的な対策にならない。コミュニティを一般人から見えなくしたところで、運動家がゲーマーのふりをして中に入ってくることを防げない。そして運動家は「アイヌ殺す」発言を見つけ次第、それを衆目にさらしてヘイトスピーチだと告発するであろう。
追記
もっと極端なケースを想定するならば、「アイヌ殺す」発言は、完全にプライベートな場所でおこなわれたものだったとしてもアウトとなってしまうのではないか。
プライベートな会話を録音したり、チャットログを保存して晒すことはもちろん人権侵害だ。しかし、悪意ある者にそのプライベートを晒されたとしたらどうか。気心の知れた友達と格ゲーで遊んでいるときにヒートアップして、悪のりで「アイヌ殺す」と言っていたとすれば……?
これは公衆にむけて叫んでないからヘイトスピーチ認定を回避できると思うが、おそらくその発言をしたせいでレイシストの汚名を受けねばならないだろう。それとももしかして、この場合に限っては「文脈を読んでくれ。差別の意図はない」という釈明が通用するとでもいうのか。そんなはずはない。
コスプレのゾーニングという点から少しばかり語りたいと思いました。
例の記事を見て私が感じたのは、以前とくらべてオタクは市民権を得たのだなあということです。
なぜなら、例の記事のブコメに、町中でプリキュアのコスプレをしていたおっさんに対する擁護のコメントが多数見られたからです。
私がコスプレというものと出会ったのは2007年頃だったと思うのですが、その時既に、「コスプレは指定のイベントで、もしくはスタジオ、自宅で。野外で撮影ロケをする際は土地管理者の許可をとること」というコスプレイヤー間での暗黙のルールがありました。
ルールを守らずコスプレをした場合、第三者に文句を言われても反論できないから。苦情が入ると最悪イベント等に規制が入る恐れがあるから。そのような理由があったように思います。
ですから町中で普通にアニメキャラのコスプレをしたり、許可なく野外で撮影をしていたコスプレイヤーは晒され、叩かれる運命にあり、ある程度は自浄作用が働いていたように思います。
このような暗黙のルールは、我々は一般の人とは異なった趣味を楽しんでおり、一般の人の見えないところで趣味を楽しまなければならないというある種自虐的な思考も孕んでいます。
しかし今後、このような思考はマイノリティとなり、オタク文化は今にも増して一般化していくのではないでしょうか。
町中で“プリキュアのコスプレをしたおっさん”を糾弾した時、糾弾した側がおかしいという世の中もそう遠くないのかもしれません。
せめてプリキュアのコスプレはゾーニングして欲しい、というお話。
http://prehyou2015.hatenablog.com/entry/cos
上記エントリのブコメにいくつか障害者について言及したものがあった。
fujixe 「難しい話をするハメになった」と言うのは、機会が無ければそんな話をするつもりは無いということだろう。説明が大変なので幼児のうちは障害者を見せてはいけない、というのと何が違うのだろう。
oskimura 子供がショック受けるからゾーニングって理屈を許すと、同性愛者やトランスセクシャル、障害者、ホームレスなどをゾーニングして公共空間から追い出せって話にもなるぞ
それを見て、未就学児時代に出会った「マジョリティではない人」のことを思い出したので書いておく。
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3~5歳くらいのころは、近所に住んでいる子供の家に遊びに行くのと同じように、
近所のおじいさんおばあさんの家に遊びに行くことが珍しくなかった。
本人も把握しきれないほどたくさんの猫を飼っているおばあさんがいた。
まだ囲炉裏のある家のおばあさんは、怖い話の名手だった。囲炉裏のある部屋は広くて天井が高くて変な人形があった。
特に何にもなくたって、単に近所だという理由でよく遊んでもらった。
朝ご飯を食べてにこにこぷんが終わったら、一人で外に遊びに出て、おばあさんと遊んだり近所の子と遊んだりして、お昼と夕方のチャイムで家に帰った。
私が特別放置されていたわけではなく、地域性と時代の問題だと思う。近所の子供もみんなそんなもんだったから。
「ごめんください」という言葉はその頃にもう覚えていたと思う。
Aおばちゃんはそういう、「遊んでくれる近所の大人」のうちの一人だった。
Aおばちゃん、と呼んでいたが、おいくつだったのか今となっては定かではない。
Aおばちゃんは、足が深く曲がっていた。片足はしゃがんだ時のように曲がったままで、片足は真横にぴんと伸びたままだった。
家の中では、曲がったほうの足を踏みしめ、伸びたほうの足を引きずって移動していた。
家の外では車いすに乗っていた。なんかでかくてかっこいいやつだった。
一度、Aおばちゃんて足どうして曲がってんの、と聞いたら、河童につかまって曲げられたのだと言っていた。
何をして遊んでもらっていたのかは、今となってはよく覚えていない。
ただなんとなく遊びに行って、子供のおしゃべりに付き合ってもらったり、おばちゃんちで他の子と遊んでいたりした。
「アルプス一万尺」を友達のなかで私だけ知らなかったときに、教えてくれたのはAおばちゃんだったかもしれない。
今思えば彼女は身体障害者だったのだが、そもそもそういう概念さえなかった。
猫を山ほど飼っているおばあさんがいて、怖い話の名手のおばあさんがいた。
Aおばちゃんは、近所の、河童に足を曲げられてしまったおばちゃんであった。
小学生になるとさすがにほいほい遊びには行かなくなったが、冬休みはAおばちゃんちの雪かきをした。
地区子供会というのがあって、近所の子供でかわるがわる当番を決めて毎朝やっていた。
特にボランティアとか障害者の方のためにとかそういうお題目があった覚えがない。
なぜ自分達がやるのかという疑問もなかった。
1年生のころからそうしていたから、そういうもんだと思っていた。
おばちゃん来たよー、といって、家の前を雪かきして、じゃあねーと言って帰った。
そんなもんだった。
ただ、自分がどうだったかな、というのを思い出したので書いた。
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【追記】
watto こだわりを持たなかった子どもが、やがて成長して、なにごとかを察して離れていく瞬間が、一番つらいだろうな。
上記ブコメがなぜかスターを集めているようだが、少なくとも私は「なにごとかを察した」記憶など全くない。
近場でしか遊べない幼児の頃はAおばちゃんを含め近場の大人によく遊んでもらったし、
次第に行動半径が広がる小学生になるとその機会が減っただけのことだ。
Aおばちゃんはふつうにいた。
あなた方の近所のおばちゃんと同じように。
●コンテンツは誰のもの?問題ですね。僕は“はてなもブログもメインの消費者はオッサン”と思っているのでメインの消費者への配慮という観点でこの意見には賛成です。
●はてなに限らずですが、大人が我が物顔でオッサン向けコンテンツにかじりつくのは情けないと思います。大人は一歩引いたところにいるべきです。
●同意。対象年齢、つまりオッサンたちの夢を壊すような行動は大人は慎むべき。利己的な行動は巡り巡って締め付けが厳しくなるってことも、大人なら考える必要がある。
●オッサンを傷つけちゃあ怒られるぜ。当たり前のことだぜ。
●オッサンの感受性って繊細。大人だったら考えて納得したり受け流したり出来ることを、オッサンが同じようにするのは困難だ…ということを、全ての大人が知っておかなきゃいけないと思うのよね。
●オッサンを盾に不快なものを消せという典型的な弾圧行動。あ、俺ははてなそのものが嫌いです。
●共感する。自己承認のためにオッサンの夢をぶち壊すのがファンなのか?はてなはしたければ好きにすれば良いけど、増田に扮する必要がどこにある?
http://b.hatena.ne.jp/entry/prehyou2015.hatenablog.com/entry/cos
nekoraが差別を煽ったり悪ふざけをしているブコメを見るのは、何もはてブのユーザーばかりではない。非ユーザーや子供の目にもふれているだろう。
もしあれを非表示にしたければ、はてなIDを作るしかない。しかし仮にIDを作ったとしても、常時ログインをしていなければ非表示設定の効果はない。だから視界に入ってきてしまうって人は多いんじゃないか?
http://anond.hatelabo.jp/20160727212630
自分としては、nekoraみたいな奴がいてもよいと思うのだけれど、そこはちゃんとゾーニングしてほしい。
非ユーザーにむけては、運営会社の権限により悪質なコメントは強制非表示ということにしたうえで、はてなIDでログインしてわざわ希望した人だけがnekoraのブコメを読める、というのが理想だ。
今回呆れたのはこれ↓
http://twitter.com/mizuryu/status/755331411217756160
不快な表現はゾーニングすべきという人に、お前の顔は不快だからゾーニングしてやる!と正拳突きするゾーニングパンチをお使いください、とかほざいている。
ゾーニング=表現規制推進みたいな根底があるから、自分のスタンスとは違うから正拳突きしてもいいということだろう。
表現規制だなんだ、って中で議論されている「表現」は、人が故意に作り上げるものだと思う。
それに対して顔は生まれつきのものだ。整形や化粧もあるが、それはここでの「表現」とは違うと思うんだ。
それを、議論ではなく正拳突きという、暴力によって怪我させようとしているというのは、あまりにも危ない考え方だ。
この馬鹿は、まずゾーニングが「○○の表現をなくそう」じゃなくて「○○を苦手な人がいるかもしれないから、○○が好きな人のみが楽しめるようにすみわけをしよう」というものを理解してほしい。
まずそこから考え直して。
あまりにも馬鹿すぎて、あえて攻撃的に書いたし、タイトルも「一部」って書かせてもらった。
ゾーニング反対してる中にも、それなりのロジックを持っている人もいるかもしれないから、こんな馬鹿と一緒にカウントしてはいけないと判断した。
ちなみに、私は女性だが若い時分に同僚に強姦されかけたことがある。
とても辛かったため、オンラインや、オフラインで「レ○プ」という文字列を見ると当時を思いだし辛い気分になる、
でも、そういうのが好きという人がいることも理解できる。男女ともに。
そういう人たちはそういう人同士で楽しんでくれる分にはなんの問題もないと思うんだ。
でも、全員がそうではないから、誰にでも見られる広告や本棚に置いてほしくないというのがある。
こういうこと書くと「あなたが問題ないと思ういろんなものがゾーニング必要かもしれない、何も陳列できなくなる」と言う輩が必ず出てくると思う。
そういう場合は、今回みたいに声をあげればいいんだよ。それを苦手な人が。