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当院は軽症〜中等症の病棟のはずが、先月くらいからずっと人工呼吸器の患者がいる。
その頃から、ウォークインで救急受診して即挿管レベルの患者でも神戸市内の重症病床への転送が断られ始めたような記憶。
医療圏を越えた広域救急の受け入れもそこそこ。保健所FAX送信先が神戸市ではないのでどうするのー?と迷う。
最近は主治医の転棟OKの判断があれば、PCR陽性でも人工呼吸器装着中でも、一般病棟やICUに押出しでコロナ病棟のベッドを開けて受け入れしている状況が続いている。そして開けたベットにはその日に次の患者が入る。なので休み明けだと初めて看る患者の情報収集から。ということが増えた。
一般病棟・ICUの負担は大きいと思う。コロナ病棟○ねって思ってるんだろうなと感じながら毎回申し送りに行っている。
神戸市民病院群も重症患者でギリギリなんだろうと思う。最近、え?こんなコロナ患者さん看れないの?って軽症患者の転送が何件か続いてあった。たぶん、軽症のベッド・スタッフを重症へシフトしてるんだろう。
これは口頭で聞いただけなので真偽はわからないけど、どこかの市民病院からコロナ治療撤退した人工呼吸器患者の転送依頼が当院にあったらしい。断ったみたいだけど。あと、自宅待機の患者さんも先生達は診ていて、入院している人の誰よりも肺が真っ白だった!って言っていたことがあった。
ヒト・モノ・カネの支援はいろいろ受けているみたいなので頑張ります。国・兵庫県・神戸市も何もしてないわけではないんだろうけどね…。個人はコロナ病棟勤務のお小遣い貰えました。ありがとうございます。
発達障害者への就労支援を行っている会社のサイト内で、とても正しいとは思えない内容を話している対談を見つけた。
ある小学生の子が、学校に足が痛いから行きたい。神経内科やあちらこちら回ってきてなにもないから車椅子でうちに来たんですよ。こんな鉛筆みたいな足になっちゃって。典型的なヒステリー症状ですよね。なんとなく顔を見てその評定にイラッと来ました。ヒステリーの診断基準はこっちがいらつくことなんです。操作されて嬉しい人いませんよね。てめえ、大人舐めんなと思ったので(笑)、病棟に入れ、親御さんたちにしばらく面会に来ないでくださいね。電話もなしですよ。ということでサヨナラし。その子に歩けないのに、ご飯は食堂まで歩いていって食べてくださいね、といってさようならといって会いにもいかないわけです。2日目ぐらいには這っていって食事を摂り、一ヶ月後には学校に行ってました。
苛ついた、大人舐めんな(笑)で、私権を制限して病棟に入れるのか?
ふざけてこういう言い方をしているのかもしれないけれど、診察した患者をこんな形で冗談のタネにしていいのか?
フロイトでは内省がなくて、簡単に言えば自我機能が働いていないんですね。そこがないから、自分の本能的なものが求めているものを、大脳皮質側で抑え込んでいるような気がするんですよ。それがフロイトのメインの理論です。そうするとヒステリー症状が出ちゃう。 今思えば、発達障害の人はみんな自分の感情を振り返る能力がない感じがするので、無茶なんですよね。仕事がなくなると死ぬしか無い、とか極端なことを言いますよね。あれ?でも貯金に3億円ぐらいあると聞きましたけれども?と。ああいうのは都合が悪くなると失神(解離性失神)してしまう、ヒステリーと同様なものだと思うんですよ。
精神科医の分析によると、発達障害者ってみんな自分の感情を振り返る能力が無いらしい。
本当か?
今ワンステップスクール(寄宿舎性民間自立支援施設)の方にも行っているんですが、甘いって、言っているんです。朝なんか爆音で起こしてしまっていいんです、と言っているんです。社長さんの言っている可塑性は後ですよね。
これに関してはなんとも言えないが、精神科医が臆面もなく言っていると恐怖を感じる
ちなみに、このワンステップスクールについて調べてみたら、集団提訴を受けて今裁判やってるっぽい
(ひきこもり自立支援施設の手法は拉致・監禁、元生徒7人が初の集団提訴へ 相次ぐ引き出し屋の被害(上)
https://diamond.jp/articles/-/252344)
精神科医やそれに準ずる知識のある方、これについて見解を教えてほしい。
個人的にはにわかには信じがたいし、倫理的に問題があるように思える。
フルで感染した時に発生する重症者を受け入れるぐらいの重症病棟を作るというのももう一つの解だと思うで。
もう無理だね。
自国ワクチン候補多数をを早く治験かけて、同時に製造ライン作るぐらいの支出を惜しまない体制で挑めば、いま正常化しているイスラエルやイギリスみたいになれただろう。
また、結局重症病棟が足りないのが問題だから、コロナが広がりかけの時に重症病棟と、その人材育成をしてれば今頃間に合ってただろう。
物事の対処には金と時間と物資が必要。正直さ、大阪も府市統合だとかやってるし、挙句の果てに、国民投票法案だろ?
選択と集中は弱い研究者や大学相手には言うけど、上級国民には当てはまらないんだよ。
手遅れ。
去年の年末に、大阪市内で暮らしていた母が突然倒れた。原因はコロナだった。
母が倒れてから亡くなるまでの経過を、当時つけていた自分の日記から転載していく。
(日記の部分は長いので、時間のない方は最後の所感だけでも目を通してほしい。)
============
2020/12/17(木)
夕方17時頃、仕事中だった。叔母から私の携帯に連絡があり、実家で母が倒れたということを知らされる。
この時点で、電話口からは「母はコロナに感染していて、心肺停止状態だ。救急搬送されて今は病院にいる。」という情報が耳に入ってきた。
いきなりだったので何のことか理解が追いつかずにうろたえていると、とりあえず搬送先の病院に連絡してほしいと言われる。
母がコロナに感染しているということもショックだったが、心肺停止ってどういうことだ?感染が判明して、いきなり重症化したってこと?
とりあえず病院に電話をかけると、担当の医師から、母の現在の状態を説明するのですぐに病院まで来てほしいと言われる。
慌てて職場を飛び出して病院にかけつけた。母はコロナ感染の疑いがあるということで、面会は禁止されていた。
遅れて病院にかけつけてきた姉と共に、ICUの前で医師から説明を受ける。
今日のお昼前に、実家で母が突然倒れた。側にいた父が気づいて、すぐに救急要請し、救急隊員がかけつけてくれた。
その時点ですでに心肺停止状態だったので、病院まで搬送される間に心臓マッサージ等の蘇生処置が取られた。
すると、止まっていた心臓が動き出した。その状態で病院のICUに運び込まれた。
精密検査をしてみると、膝に血栓ができていることがわかり、それが肺に飛んで、肺がつまって呼吸ができなくなり、それに伴い心臓も停止したらしい。
今現在、意識はなく、心臓を動かす薬を最大限に投入して、さらに心臓を動かす装置を取り付けて、無理やり動かしている状態だという。
蘇生処置の時に折れた肋骨が肺に突き刺さっていて、身体に大きなダメージが出ている。
心肺停止中に脳に酸素が届いていない時間が長かった為、脳にも大きなダメージが出ている可能性が高い。
今夜間か翌日中には、また心停止する可能性が高く、そうなったときにはおそらくもう助からないとはっきり言われた。
コロナの検査も行われていて、2種類ある検査の内の1つ目では陽性と判定が出ている。もう1つの検査で陽性と出れば確定らしいのだが、それは明日に結果が出るとのこと。
次に心停止した場合には、心臓マッサージ等の蘇生処置を取るかどうか確認されたのだ。
姉と二人でしばらく悩んだが、心停止した場合には、もう蘇生処置は取らずに自然に任せてくださいと回答した。しんどい。
コロナ陽性の疑いがあるので母とは面会することはできないのだが、看護師さんのご厚意でリモートで面会させてもらえることになった。
姉のスマホと私のスマホをラインのビデオ通話でつなげておき、その状態で看護師さんが防護服を着て、母の病室に姉のスマホを持ち込んでもらい、私のスマホから母の様子を見せてもらったり、話しかけたりさせてもらえた。
母の意識はないし、当然反応もないのだが、様子は大体わかった。口に管をつながれてつらそうな感じだった。気の毒で涙が出そうになる。
その後は、ICUの前で待機することもできないので、一旦帰宅することにする。
看護師さんから、次に病院から連絡をもらうタイミングをいつにするか確認された。母が心停止した時に連絡してもらうことにする。しんどい。
帰り道のタクシーの中で姉と少し話をしたのだが、どうもよくわからない。
同居していた父から少し話を聞いた感じでは、母は一週間くらい前から喉が痛かったり咳が出たりして、具合が悪そうだったらしい。
母は今年で73歳。基礎疾患などはなく、最近まで健康そのものだった。
コロナに感染すると、風邪に似た症状が続いて、その後いきなり重症化するというのは知識としてあったが、膝の血栓が肺に飛ぶとはどういうことなのだろう。コロナと何の関係があるのだろうか。血栓ができやすくなるというのは聞いたことがあるような気がするが、それのことなのだろうか。
「コロナ 血栓」でネット検索して色々調べると、やはり血栓ができる可能性が高くなることが最近わかってきつつあるというニュース記事がトップにあがっていた。
2020/12/18(金)
一日中いつでも病院からの呼び出しに応じれるように身構えていたが、結局連絡はなかった。
気を抜くと涙が出てくるので、気持ちを抑え込むのに精一杯だった。
あまり頭が回っていないので、頭を使わない単純作業を中心にこなしていた。
お昼過ぎに姉から連絡があって、母のコロナの残りの検査の結果がわかった。母はコロナ陽性で確定らしい。
同時に、同居していた父が濃厚接触者になってしまうとのことで、思わず頭を抱えてしまった。
母だけではなく、父まで感染したとなっては目も当てられない。
2020/12/19(土)
保健所から実家に連絡があって、父のPCR検査の日程が決まったらしい。次の月曜日だ。
もし陽性だったらどうしようと思いながらも、その可能性は高そうだと覚悟を決める。
とりあえず、保健所からの要請で、当面は父は自宅から外出することは禁止されているので、その間の食料品などの物資供給を、私がサポートすることになった。実家とは電車で15分ほど離れた場所に住んでいる私が、姉と比べると比較的近所だということで、私の担当になった。
午前中に父から必要なものの注文をメールで聞いて、午後から実家近くのスーパーに行って買い物した。それを実家の玄関先に置いておく。父と顔を合わせることは絶対にしてはいけないので、ピンポンダッシュした。
2020/12/20(日)
今日も父から注文が入ったので、救援物資を届けに行く。昨日は食料がメインだったが、今日は日用品が多かった。
父のPCR検査だが、タクシーで来るように指示されているらしく、お金を払う時に手間取らないように千円札10枚を封筒にいれて、それも救援物資と一緒に届けておいた。
帰宅後、姉とラインで、母の感染経路が本当にわからないという話をした。
父からの話では、最近の母は普段から買い物や銀行くらいしか行っていなかったそうなのだが、どこで感染したのかが本当にわからない。
不織布ではなく、自作した布マスクをしていたから、それで防御力が弱かったのだろうかとか、そのくらいしか要因が思いつかない。
2020/12/21(月)
お昼過ぎに、姉から連絡あり。病院から電話があって、母が元気になってきているらしい。
一時は危なかったが、今は心臓もちゃんと動いてきた。血圧も元に戻ってきたとのこと。
検査は市内の大学に併設の病院でやっていたのだが、大学の建物の中ではなく、小さなテントの中でやっていたらしい。
テントの中には小さなヒーターが置いてあって、他にも何人か来ていたが、間隔を開けて並んでいたそうだ。もちろんお互い会話はなし。
検査は一瞬で、「上を向いてください、チクっとしますよ」って言われて、鼻から管みたいなものを入れられてすぐ終わったらしい。
検査費用はかからなかった。保健所からの指示で受ける分には無料らしい。
2020/12/22(火)
ひとまずほっとした。
これから2週間の間はまだ外出禁止で、保健所から2日に一回連絡があって、健康状態を聞かれることになるらしい。
どうして一緒に暮らしていても、感染しないのかが不思議だった。
そのことをラインで姉と話し合ったが、よくわからないという結論で終わってしまった。
最近のコロナは変異して感染力が上がっている?母はそれで感染したのか?
でも、父には移っていないのが謎。かかりにくい人とそうでない人がいる?
2020/12/23(水)
どうも母に対する勧告書のようで、コロナから回復した際には、他人と接触する仕事をしたら罰則があるとかそういうことが書かれているらしい。
母が回復することはあるのだろうか。なんとか意識が戻るところまでいってくれないだろうか、そんなことばかり考えてしまう。
2020/12/24(木)
母が倒れて今日でちょうど一週間。病院からの連絡は特に何もない。
どうなっているのかが気になる。
2020/12/25(金)
今日で仕事納めだが、明日から休みになるという開放感がまるでない。
頭の中は母のことでいっぱいだ。
2020/12/26(土)
父に救援物資を届けに行った。
母が倒れてから、実家に帰る頻度が上がっているが、家の中には絶対に入れないので、あまり帰宅した感触がない。
2020/12/28(月)
家でぼんやりしていると、夕方16時頃に、母の担当医師から連絡があった。
母の症状は横ばいで、もう睡眠薬は与えていないが、ゆさぶったりしても反応はなく、意識が戻らない状態であるということ。
そして、12/24(木)に2度目のPCR検査を行ったが、結果は陰性に変わっていたとのこと。
1/4(月)から一般病棟に移ることになるので、そのタイミングで面会できる機会を設けると言われた。
一般病棟であっても原則面会は禁止なのだが、今回だけ特別に認めると言われた。
もし今後、血圧が下がっていったり、酸素の取り込み状態が悪くなるなどした時に、心臓マッサージや血圧を上げる薬の投与をするかということを尋ねられた。
どちらも体に負担をかける行為になってしまうが、どうしますかと訊かれた。
「今後、母の意識が戻ることはあるんですか?」
「心停止していた時間が長く、脳に酸素が届いていない時間が長かった為に、再起不能なまでにダメージがきているので、回復は難しい」
とはっきり言われた。
じゃぁ、と思った。
徐々に死に向かっていくのを、ただ見送ることしか私達にはできないのか。
そのことを踏まえたうえでの選択だ。
姉と電話で小一時間相談した結果、母の容態が悪化した際には積極的な回復処置は取らずに、自然に任せる方針でいくことにする。
肉親の生死に関わる方針を、こんなに短時間で決断していかないといけない残酷さに打ちのめされた。しんどい。
2020/12/29(火)
母の症状は横ばいとはいえ、高熱が出ていたり、少しずつ呼吸が弱くなっていったりと、厳しい状態であるらしい。
それを聞いて、またしんどくなってくる。
実家へ、四度目の救援物資の配達に行った。今日は姉にもついてきてもらった。
保健所によると、明日で父の外出禁止は解除になるらしい。なので、配達するのも今日で最後になるだろうとのこと。
お墓参りのことを父が気にしていたので、それもあわせて行ってきた。
姉はお金を触ったり、玄関のベルに触ったりするたびに、逐一手をアルコール消毒していて、結構神経過敏になっているみたい。
でも、大阪市内に入ったら、そこまでしないと今は危ないのかもしれない。
2020/12/31(木)
父によると、母の友人から、自宅に電話がかかってきたりしているらしい。
携帯がつながらず、音信不通になっているので、母のことを心配しているのだろう。
ちょっと家の用事で忙しくしているということにして、父が適当にごまかしているようだ。
2021/1/1(金)
元旦だが、一日家でじっとしている。
何もする気になれない。
2021/1/3(日)
姉とラインで少し話しをした。
いままで母がやってあげていたことが全部抜け落ちてしまうので、それをどう拾い上げていくか?
晩ごはんは生協のお弁当の配達を使うとか、家事も最低限やりやすいような形を模索していくとか、色々とそんなことを相談した。
2021/1/4(月)
今日は仕事初めだったが、なかなか集中して仕事に取り組めなかった。休憩多めでなんとか乗り切った。
今日から母が一般病棟に移る。でも、コロナの影響で、一般病棟であっても面会は全面禁止らしい。
でも、この間医師から連絡があったように、条件付き(一度に二人までの入室、事前に検温すること)で一度だけ面会が許可されるとのこと。
今日は、父と姉が二人で面会に行くことになった。
人工呼吸器が繋がれているので、口の周りは痛々しいけど、それ以外はそんなに変化はなかったらしい。
話しかけたり、手をさすったりしたけど、反応はない。手はすごくむくんでいて、結婚指輪が入らないので外されていたらしい。
母が救急搬送を受けた時に身に着けていた衣服が返却されてきたけど、ビニール袋でぐるぐる巻にされていたらしい。ウィルスはもう消えていると思われるけど、空ける場合は洗濯して欲しいと看護師さんから言われたとのこと。なんか怖いからそのままゴミの日に出すことにしたらしい。
私は、明日一人で面会に行くことになる。
2021/1/5(火)
ところが事前の検温で37.4度が出てしまい、病室には入れてもらえなかった。また後日来てくださいとのこと。
もよりの駅から病院まで20分くらい歩いたので、体が温まっていたのかもしれない。
また金曜日あたりに行こうと思う。
次は駅から病院までタクシーで行って、コートは脱いで、事前に一階で体温を何度か測って安全なのを確認してから挑むことにする。
2021/1/6(水)
もう母が倒れてから三週間近く経つからだろうか。この異常な状態にも、体が徐々に慣れてきているのかもしれない。
2021/1/7(木)
首都圏で緊急事態宣言が出たが、大阪ももうすぐ出ることになるようだ。
2021/1/8(金)
母の面会に行ってきた。
仕事を抜けて、最寄り駅まで電車で移動し、そこからタクシーで病院まで行った。
1階ロビーに腰掛けて、自分で持ってきた体温計で検温してみたら36.5度だったので、今日は大丈夫であることを確認して7階へ。
「お待ちしてました。お熱どうですか?」と看護師さんから言われ、「さっき測ったら36.5度でした」と応えると「じゃぁ、入ってください」と言われる。
母は口に管を入れられていて、そこだけ痛々しかったが、鼻から上は顔色もよく、穏やかな表情だった。
10年ほど前に咽頭がんで亡くなった義父が、亡くなる直前、意識を失った状態でとても苦しそうな表情をしていたのを覚えていたので、そのイメージで予想していたのだが、ぜんぜん違った。まるで眠っているみたいに見えた。
姉が言っていたように、手はむくんでぱんぱんだった。手と二の腕を握りながら何度も話しかけてみたが、反応はない。
いまにも目を開けて起き上がってきてもよさそうな感じがするのに、そうはならなかった。
時々、母がつながっている機器類から「ピコピコーン!」というアラート音が鳴るので、それが母にとってうるさくないのかなと気になった。
面会する時には、看護師立ち会いで、時間は5分だけだと事前に聞いていたのだが、看護師さんはすぐ病室からいなくなって、その後も一切呼びにこなかったので、結局一時間くらい母の側にいた。
一時間くらいたって、「ちょっとお体拭きますねー」と言いながら看護師さんが病室に入ってきたので、そのタイミングで帰ることにした。
職場の私の席の2つ後ろの島(5メートルくらい離れている)に座っている人が、コロナ感染の疑いがあって、今PCR検査を受けていて、結果が出るのが明後日らしい。
その島の人たちは全員帰宅していた。多分、当面はリモートになるのだろうか。
もし検査が陽性ならば、保健所が消毒しに来るし、その間はオフィスは立ち入り禁止になるのだろうか。
2021/1/11(月)
私の方は相変わらず時々、しゃくりあげるような呼吸と涙が出てくる。不意に母親のことが頭をよぎって、それに引きずられるようにして乱暴に心が揺さぶられるような感じだ。
2021/1/12(火)
仕事してると不意にしんどくなってくる。どこまで行ってもしんどいタイプのしんどさ、絶望感。
2021/1/13(水)
2021/1/14(木)
もうどうしたらいいのかわからない。どうしようもないのだけど。
2021/1/15(金)
出社してる時と特に変わりなく、集中力途切れずに仕事できたと思う。
今は週イチだが、これならフルリモートでもやっていけそうな気がする。
できるだけ出社時と同じ環境に自室を揃えることがコツだと思った。
仕事終わりの疲労感は、出社時とあまり変わらない。けど、通勤時間の2時間を有効活用できるのがいい。
2021/1/17(日)
一日家でぼんやりしているだけだった。何もする気がしない。
2021/1/18(月)
仕事に行っていたが、夕方に病院から私の携帯に電話があって、母の酸素の取り込み量が低下していて、今夜にも亡くなるかもしれないと告げられる。
慌てて姉と父に連絡し、病院へ向かう。
病室に入る前の事前の検温で、また37度が出た。いい加減にして欲しいこの体温計。体温計をリセットして、「熱はなかったです」って嘘の申告をして突破する。
二人づつしか面会できないとのことなので、はじめに父と二人で病室に入る。
母は苦しそうな感じもなく、穏やかな感じだった。今日は髪型に乱れもなく、きれいに見えた。
酸素取り込み量の数値が90を切るとまずくて、一時は70くらいまで低下していたが、持ち直して80くらいまで戻してきていると看護師さんから説明される。
母の意識はないが、それでも苦しかったりの感覚はあるのだろうか。
一旦、全員帰宅することにした。また容態が急変するようなことがあれば、連絡が貰えることになっている。
2021/1/19(火)
またすぐに連絡が来る可能性が高いので、それを待っているようで心身が疲弊していく。
2021/1/20(水)
ずっと非日常が続いているようで、そういう緊張状態にいつまでも心身が慣れていかずに悲鳴を上げている。
続き
↓
ウィズコロナは医療崩壊させないレベルまで重症患者を抑えること。
だから、とことん重症病棟を増やしまくるというのも解だった。だけど、フルで感染を広げるとそれこそ重症病棟が今の百倍千倍とか必要だ。だから、緊急事態宣言と、宣言外の繰り返しで重症病棟を広げつつ、ワクチンの実用化をまつ。
幸いにしてmRNAワクチンが多少の変異を込みにしても有効だという結果が出たから、ワクチンを一刻も早く全国民に打つことだろう。
だけどさ、日本って昔は上が下を労い、下がそれに報いるという時代だった。だから頑張れば報われるって時代だった。
だけど、もうそんな時代じゃなくなってしまった。上の人間がやる気や善意をむしろ食い物にして、やりがい搾取をするのがいいしやりがい搾取なんかにハマるのは努力不足や自己責任だと石を投げてきた。
そして、まさにコロナが来た。コロナが広がり始めた時点から医師や看護師はどんどん忙しくなっていった。
けども、そんなさなか馬鹿みたいな思いつきが解決案だという首長だとか、重症病床減らしたらかんたんに戻せませんよ?という病院長を無視して重症病棟を目先の金で減らした首長がいた。
まさに善意を食い物にしてきたんだよね。
善意が食い物にされる社会はできることできないことを峻別して、できないことを突っぱねるしかなかろう。
フル稼働で、かつ善意がくいものにされてるのが見えてる状態で500人も出せなんて通じるわけ無いでしょう。できないと突っぱねるしかない。日本は善意は上級国民の餌にしかならない。
ボランティア休暇を取得して五輪ボランティアをやる予定。ちなみに私の働いている病床は整形外科で、コロナ患者さんはいません。
2019年にボランティア募集をしていた時に応募。そのあと研修を受けた。都外からの希望者もいて、人気だった。
延期になって離れたボランティアが沢山いるみたいだけど、何だかんだで集まると思う。
そもそも民間病院は14%しかコロナ患者を受け入れていないし、大病院でもコロナ病棟以外の看護にあたってる看護師は沢山いる。
今東京は、大阪のコロナ重症センターに看護師を派遣している。「オリンピック行くなら大阪に行け」と思われるかもしれない。
だけど私は大阪の重症センターで働きたくはないけど、オリンピックでは働きたい。
オリンピックの競技会場や選手村で看護師ができるなんて、この機械を逃せばない。
「オリンピックに500人派遣するくらいならコロナ病床に看護師を!」
「昔はねぇ、ライブ中に大声出しても大丈夫だったんですよぉ…」
【西病棟17号室の患者の発音を確認。至急、口唇からの細菌散布の可能性を究明されたし】
『またあの世代の方ですか』
『失礼しました』
『高齢者の方々は若い頃に当たり前に発音することができたのですから、その癖が残ってしまうのは仕方のないことですよ』
『ですがあの世代が』
『記録に残りますよ』
『失礼しました。17号室の前まで到着しましたので音声再生後に処置に移ります』
『静KあnすからうTないいいd』
『了解』
[オバアチャン チョット チク ッテ スルカラネ]
『いたいいたいいたいいたいい』
[スグ ヨク ナルカラネ スグ ヨク ナルカラネ]
『バイタル確認します。患者の容態が安定したことを確認しました。』
『消毒作業終了したら業務に戻れ。星5確定ガチャ レジェンドドラゴンが当たる』
『翻訳機の故障を確認 下克上処理をデイリークエストで配布 翻訳機に異常が発生』
「… 為什麼我們要說日語」
これも結構前の話になる。
「そういえばあの時、どんな気持ちだったっけ?」と思い返す機会があったので、折角なので文字に書き残しておきたい。
そうすれば胸に落ちるものも、もしかしたらだけど多少はあるんじゃないのかな?って感じで。
内容が内容なので、少し長くなるかもしれないけど、お暇な方がいらっしゃいましたら読んでやってください。
あんまり仔細に年月日を狭めすぎるとアレなので、時期は今から7年ほど前。
ちょうど今のような、若干寒さも落ち着いてきたかな?ってぐらいの春頃のお話だと思って下さい。
兄の方がとても優秀だったんで、随分と見劣りはするけれど、俺の通っていた高校のレベルからすれば「まあ頑張ったんじゃないの?」程度の大学へと入学。
その筋のマニアには結構有名な、二郎インスパイアの名店が近くにある登り坂の長い大学ですね。
あれは本当に数少ない良い思い出です。メチャメチャ美味かったな。店狭いし、オッサン怖いし、汚いけど。
オススメは小ラーメン・麺少なめ・ニンニクマシ・アブラマシマシです。
しかし高校まではチャリ通で10分だったところが、電車を乗り継いで1時間半になったのは本当によくなかった。
職場と学校は、絶対に自宅から近い場所を選びましょう。近い場所にないのなら、あなたが引っ越してしまいましょう。(経験則)
そんなこんなで深夜までゲームやらアニメにうつつを抜かしては、中途半端な時間に目覚めて、一限は余裕でアウト。
気付いた母親に叩き起こされて、仕方なく起床。もそもそと着替えて、遅刻前提の移動。
それで素直に大学まで向かえばいいものを、「途中で行くのも面倒くせえな」と地元のカラオケで朝割フリータイムしてたり、本屋で立ち読みしてたり。
入学当初からそんなんだから、とにかく授業内容は良く分からないし、眠くて眠くて仕方なかった。
何よりも人見知りだったもんで、良くも悪くも自由な大学形式の授業とサークル活動に、いまいち馴染めずにいた。
大学は少中高と違って、能動的に働きかけないと友達はできないもんなんです。あの頃の俺に教えてやりたい。本当に。
夢見ていた大学生活は、俺にとってはただの眠気との闘いに成り代わっていたのである……。
そんなんで仲の良い友達も全然いないもんだから、授業サボりまくって、図書施設のビデオ設備で「ロード・オブ・ザ・リング」とか「戦場のピアニスト」とか見てたな。
いや、完全に余談でした。すみません。
とにかく、こんなカスの具現化みたいな大学生活を送らないよう、新入生の皆さんは頑張ってください。
話を戻します。
俺が小学校に上がるぐらいの前に、うちの母親は一度離婚している。だから俺は種親の顔をほとんど覚えていない。
「自分はママとパパと話すけど、ふたりは全然しゃべらないなぁ」とか「やたらと関西の実家に行ったり、親戚の子がうちに来るのはなんでだろ?」とか。
そんなことを子供ながらに思ってたんだけど、今思い返せばそういうことだったんだと。
そんなこんなで気付いたら第一の父親が消えて、俺が小学校二年生ぐらいの時に、新しい父親が来た。
そりゃ向こうも腹を据えて、血の通ってない兄弟二人を抱えるわけだから、多少の上っ面は確保してくるには違いないんだけど。
一緒にお風呂に入れてもらったことが嬉しかったのを覚えてる。そんな第二のお父さんの背中には、ご立派な龍のモンモンが彫られていたけど。
仮初でも、その人は優しくて良い人で、色んな場所に連れていってくれたりした。なんかホテルが多かったな。海ほたるとかもよく連れていってもらった。
多分これまでの人生25年、その人が来てからの数年が一番幸せだったんじゃないかな?
中学に上がる前ぐらいの、それぐらいの間。ホントに幸せだったと思う。ボンボンもボンボンで、当時Xbox360でCOD4のネット対戦してたの俺だけちゃうかレベルで。
俺も兄貴も母親も父親も、心から「家族」を感じてた最後の瞬間だったと思う。
で、俺が中学に上がった頃に、第二の父親が手掛けていた事業が一気に傾いてしまったと。
これは直接見たわけでもなんでもないけど、父親の元同僚の方に聞いた話なんで、間違いないことだと思います。
そっからの酒乱っぷりたるや本当に凄くて、中学生ぐらいになると俺も兄貴も(特に俺は)夜更かしをするようになってるから、
ベロンベロンの状態で帰ってきた泥酔親父に、子供相手に何を言い出すねんみたいな絡み方をされだして。
うわぁ、イヤやな……って、毎日夜になる度に鬱になってたのを思い返します。寝てたら寝てたで起こしにくるし。逃げようないやん。
この一言が本当に忘れられなかった。シグルイのあの人ばりに、(この傷は二度と戻らんな)と泣きながら感じたのを覚えてます。
しかもこれ確か、母親の目の前だった気がするんですよ。なんか二人で揉めてて、俺が仲裁に入るじゃないけど、間に入ろうとしたらこうなったみたいな。
酔うと貯め込んだ本質が出るタイプの人っているじゃないですか。つまりはそういうことだったんだな、と。
それ以降、父親と心を通わすことは一切なくなった。もちろん話したりってことはあるけど、他人みたいなことで。
そんなこんなで、それでも気付いたら中学生になって、高校生になって。
第二の父親は家からはいなくなって、お金だけを入れながら、たまに連絡を取るぐらいの関係になって。
小中校まではすごい楽しかったんですよ。面白い友達もいたし。なんで急に大学でダメになったのか、不思議だなぁ。
母子家庭であんまり余裕のある生活じゃないけど、塾にも行かせてもらって、奨学金も出る。
大学にも行けるんだと思えば、ちょっとぐらいの家庭内のゴチャゴチャがあるぐらいで不幸ぶんなよ、俺よりひどいやつなんて山ほどおるぞと自分で自分を戒めたりもして。
そして母親の様子がおかしくなりだしたのは、このあたりだったと思います。ちょうど俺が大学受験を終えたぐらいの時分。
深夜、お腹すいたなーと思ってリビングに行くと、母親がワインと大き目なビニール袋みたいなんを用意してて、一人で黙々と飲んでて。
で、ちょっとなんか変な感じがして、母親の目から。据わってるって言えばいいのかな。とにかく、明らかに普通じゃないけど、普通を装うとしているのが伝わってくるような、そんな感じで。
無言でいるのも変なので、「なにこれワイン?家での飲んでるの珍しいね、いいやつなの?」みたいなことを訊いた覚えがあります。
うちは父親の件もあったので、母親とはすごく仲良しだったから。
思い返せば、極度のマザコンだったんだと思います。特に兄貴が遠方の大学にいってからは、実家には俺と母親の二人だけだったから。
とにかく変な雰囲気だったから、「お酒家で飲むの初めて見たかも!俺もひとくちもらおっかなぁ」みたいな、おどけてなんとかしようみたいなムーブをした記憶があります。
「いいよいいよ。飲んでみな」と、母親が余裕で許可をくれたことも結構意外でした。酔ってたのかな?分かんないけど。
ド深夜、テーブルライトだけつけたリビングの机、ワイングラス、謎の大きなビニール袋。
なんかすげえヤバイことになってんのかな?と。
なんでだろう、このあたりから薄々感じ取り始めたというか、そんな気がしました。今までにこんなことなかったよな?って。
そして寝て起きたら、横に母親がへたりこんでるんです。体育座りを右斜めに崩したみたいな恰好で。
俺は一瞬、本気で死んでると思った。でも慌てて抱き付いたら、ちゃんと体温も呼吸もしてたので、本気で安心したのを覚えてます。
えっえっ?ってなって、どうしたん?って聞いたら「いや、ちょっと……」みたいなことで、手元を見たらスカーフ?とハンカチを束ねて作ったような、首吊り用の縄?があって。
正直ワインのときから厭な予感はしてたから、メチャクチャ驚いたし、なんで?ってなった。
「それはだめだって、それだけはだめだよ。これからどうすんの?」って泣きながら問い詰めた記憶があります。
人間、本当に近しい人であれば、ちょっとした行動から、「なんとなく自殺しそうだ」というのが分かるものなんだって思いました。
マジでここらへんの記憶が、ずっと頭からこびりついて離れない。身体を下ろした時よりもキツかったかもしれない。
未だに良く分からない。要するに母親は、部屋のドアノブに縄を引っかけて、首吊り自殺をしようとしたんだと。
しかも俺の部屋のドアノブだった。誰のだったらいい、ということじゃないけど。この時には、兄貴はとっくに外に出ていたはずなのに。
首元を見たら、真っ赤っていうか、うっ血したようなアザになっていて、「失敗しちゃった」みたいなことを半笑い、作り笑いで言っていたような記憶があります。
未だに後悔しています。
あれだけ明確に希死念慮を見せていたにも関わらず、なにもできなかった。
母親がこのとき、俺に助けを求めていたのかは分からない。あるいは本当のショックを与える前に、「私は死ぬからね」という予告をしたのかも分からない。
兄にも周囲にも連絡をしなかった自分の愚かしさ。せめて身内だけには言うべきだった。
でも、言ってもどうにもならないんじゃないか、言われた側に負担を強いるだけになるんじゃないかと、どこかで想ってしまっていたのも事実です。
「母親が自殺をするかもしれない。どうか助けて下さい。」この言葉を俺はいったい誰に伝えればよかったのか、いまでもわからない。
救い方があるとしたら、それは俺がどれだけ母親が好きで、愛していて、感謝しているかということを、心変わりするまで何度でもいうことしかなかったんじゃないかと。
ちょっと早めに授業が終わったのか?サボったのか。正直どっちでもいいけど、俺は家に帰った。
なんだかすごい胸騒ぎがしてた。兄も俺も家にはいない。家にいるのは母親だけ。
ただいまとドアを開けた瞬間、やはり自分の部屋の前で、足元に椅子を置いて、スカーフで作った縄を首にかけて、うなだれて扉にもたれかかる母親を見つけた。
凄まじい衝撃と同時に、「やっぱりこうなった」とどこかで思う自分がいた。
首にかけているスカーフは素手では取れなかったので、キッチンからハサミを持ってきて、片方の刃で切り落とした。
抱き抱えた母親の身体は、思い返せば想像よりもずっと軽かった。
「誰か、誰か助けてください」と今までにいったことのような言葉を金切り声で叫びながら、居間の上にあおむけにさせて寝かせた。
兄は大学二年生で、本来なら学生寮にいたはず。この日はたまたま里帰りをしてきて、何かを読みに本屋にいってくるといっていた記憶がある。
もしかすると母親は、この日を待っていたのかもしれない。兄弟が揃う日じゃないと死ねないと思ったのか。分からない。
「ママが首を吊ってた。いま俺が下ろしたけど、意識がない。救急に連絡するから、すぐに帰ってきてほしい」
と言って、すぐに電話を切った。兄は「わかった」とだけ言っていたような気がする。
家の場所を伝えて、どうか助けてくださいというと、すぐに救急車と救助隊の方々が来た。
俺は人命救助の方法とかがまったく分からなくて、もしかすると心肺蘇生とか、胸骨圧迫とか、本当はいろいろなやりかたがあって、
待っている間にそれができていれば、母親を助けられたんじゃないかと思う。
でも本当に現実を現実として受け止められてなかった。頭がヘンに冷静だったのは、「こんなことになったけど、きっと助かるよな」と無根拠に信じ込んでいたからだと思う。
ハサミで深く切った指から血が流れていることに気付いた。痛みはまったく感じなかった。
俺「こんなんなっちゃったな」
兄「俺、これからどんな顔して顔あわせればいいかわかんないわ」
俺「そうだなぁ」
こんな会話を、兄弟で悠長に会話していたのをハッキリと覚えています。
ここまではすごくハッキリ覚えているのに、ここから先があいまいなのが不思議で、不思議で。
確か夜の病棟に運ばれて、「自意識が戻る可能性はない」と言われたこと以外は、実はほとんど覚えてないんです。
翌日の病室の面会で、意識のない母親を前に過呼吸になるぐらいに泣いてしまったことを覚えてます。
そして「自意識が戻る可能性はありませんが医療を続けますか?」というような旨を医師の方に伝えられて、「もういいです」と伝えたことは覚えてます。
そしてずっと病院に居るわけにもいかないから、家に戻って、母親のいない家で過ごして。
三日後か四日後、電話の連絡で「お母さんは亡くなりました」と同僚の方から連絡をいただきました。
母親の死に目に会わなかったのは、自分にとって幸運だったのか、不運だったのか、未だに分からずにいます。
わからない、本当に今でもわかりません。
あのワインの日から、自分に何が出来たかをずっと考えています。
間違いなくサインとなっていたあの日、ちょっとでも行動を起こす勇気が自分にあったのなら、もしかすると母親は今も生きていたのかと。