はてなキーワード: 様式美とは
シン・ゴジラの作戦名どっかできいたことあるけどなんだっけとおもって、でもしらべるのめんどうで放置していたら、ちょうど今読んでいる本で、その由来を確認して、もーそっから色々妄想がとまらなくなり、深読みをしたくなりまくってしまったので書きます。途中までは、あんのさんのゴジラの作戦名とかに仕込んだ神話ネタの説明。途中からはちまたにあふれるエヴァの超解読本ぐらい怪しい俺の推測。でもまあこういうの含めて盛り上がるのがあんのさくひんだよなとおもうので様式美としてひさしぶりに長文かきます。結論だけかくと、一見くそつまらない勧善懲悪にみえるのだけど、今回もちゃんとあんのさんてきひねくれた映画だったのだろうということです
まずシン・ゴジラ、構造として、わりと愚直なまでにスサノオのヤマタノオロチ退治の神話をなぞっています。誰でも気づくのが、ヤシオリ作戦はヤマタノオロチに眠らせるために飲ませる酒の名前、はしご車の名前であるアマノハバキリはスサノオが使った剣の名前ってとこです。この2つで明確にヤマタノオロチ神話をなぞっていることを示しています。
ということはゴジラはヤマタノオロチということになるわけですかね。ゴジラは原作では恐竜のミュータント、つまり龍です。龍と蛇は限りなく近く、概ね同じ存在と見なしていいと思うのでヤマタノオロチ=龍=ゴジラってことでもいいのだけど、やはり微妙に異なる。今作では幼体の姿で4つんばいの状態を見せているところからも蛇としてのゴジラというのも意識させている気がします。尻尾が長いのもその象徴かなと。後常に状況に応じて進化するのは蛇の脱皮をイメージさせる。だから今作のゴジラはより蛇であり、ヤマタノオロチに近い存在であるとは思います。
そうなると、矢口はスサノオなのか。スサノオの神話は基本構造は貴種流離譚、つまりアマテラスの弟という高貴な血筋をもつものが、本人のか何らかの欠損を理由に追放され試練を乗り越える。矢口は親が力を持った政治家であることが示唆されている。しかし本人の性格は、権威に頼らず上との衝突を辞さず、どちらかというとうとまれる存在。結果、メインストリームから外された専門家集団の責任者になるなどする。まあありがちな設定だが、違和感があるのは親が政治家である設定だ。この流れならはじめからたたき上げの能力戦いがコミュニケーション力低いオタク的性格の主人公でもよかったはずだが(実際アニメだと死ぬほどよくある)、そうしなかったのはスサノオを重ね合わせるための設定かなと思いました。
牧教授の奥さんが、放射能が原因でなくなっているというのは、ヤマタノオロチがこれまですでに八人の乙女を食らってきたという部分に重なる。放射能の象徴がゴジラでもあるからだ。そしてまたヤマタノオロチが暴れ狂うのだと、旅先で出会ったアシナズチという老人はスサノオに告げるのだ。アシナズチは牧教授なのでしょう。もう少し妄想を広げるならクシナダ姫は、日本(出雲に近い広島)の血を引き、過去親族が放射能というヤマタノオロチの被害をうけ、同時に高貴な一族の出(パターソンという名前は、貴族の血筋)であるカヨコかなと。クシナダ姫なら、今回のゴジラに殺されそうになだてるのかというと、そうでもないのがこの説の弱いとこですが、アメリカから核爆弾が落ちるときに、ぎりぎりまで日本にいる選択をしたところで、ゴジラではないが同じ放射能的存在の核爆弾の被害をうけ兼ねないという意味ではまあそういってもいいかなと。
後半になればなるほど、若干強引な結びつけにはなってますが、作戦名ひとつで、まあヤマタノオロチ退治の物語にかけているというのはある程度明らかなのだろうと思います。それはあんのさんがよくやるゲンガクテキになんとなく、物語に深みがあるようにみせかけるためにやっているのかというと、もしかしたらそうじゃないのかなとか思います。ここからは、さらにさらにこじつけになっていく部分が大きくなりますがご容赦ください。妄想です。
まず、事前説明として日本における蛇信仰について説明。蛇は、最も古い信仰だと1 外形が男根相似 2 脱皮による生命の更新 3 一撃にして敵を倒す毒の強さという特徴から世界各地で祖神として崇められていました。時代が移ると、蛇は稲にとって害獣である鼠を食べる特徴から農耕の神という属性が強まったこと、また蛇を邪とし龍を崇める信仰が流れてきたことから祖先神の側面はうすくなり農耕の神の側面がつよくなったのです。
オロチとは、そのまま蛇という意味もありますが、峰の神、山の神という意味もあり、かなり古い蛇信仰の対象といえる名前です。それがまず害をなす存在として描かれる。助けを求め最後に勝つの側のアシナズチという老人はテナズチという配偶者がいます。その足がない、手がない神という名前から彼ら自身も蛇の化身と考えられる。その娘がクシナダ姫。奇稲田の姫と書き、農耕の神を意味し蛇の神の子供であるから、彼女も蛇の神。善とみなされるのは農耕の蛇の神なのです。農耕は中央集権的定住型の社会の象徴、それより古い祖先神は、集権化される前の氏族的共同体の象徴ともいえます。この国は、かつて様々な小さい国が、自分たちの祖先神をもち、乱立し互いに牽制し互酬しあう仕組みでした。稲の神である天皇による大和の支配が確立し日本という形がつくられるようになりました。
つまり、ヤマタノオロチ退治の話は、農耕の神としての現体制の蛇神が高貴な新しい王族の血を引くものといっしょに、出雲を中心とした旧支配者としての蛇を倒す話ともよめます。
今回のゴジラを投影しているのがヤマタノオロチだとすると、それは眠っていた古い戦いの神、すなわち現体制にとっては無秩序をもたらすものなどのイメージを仮託してるのではないでしょうか。一方、総理を中心とした秩序を維持し続けようとする政府側、そこからうとまれながらも、大きな役割を果たす矢口は、当然そうした、ありとあらゆる秩序を破壊しようとする悪を許さない中央集権的社会の体制をイメージされているのでしょう。そして日本の力を政府に結集して、無秩序な純粋な力に打ち勝つ。
ただ、ヤマタノオロチ神話のように、実際に打ち勝つことはできず酒で眠らせたとここておわっているところ、本来ヤマタノオロチのしっぽからは草薙剣がでてくるはずなのに、何かまがまがしい生き物が出てきそうになっている描写、おそらくゴジラの次の進化を、におわせていて、勝負はついていないところを見ると、あんのさんの目線はどちらかというと、ゴジラ側の反体制的、封印された本能の塊のような存在に共感をし続けているようにしか思えます。
実際日本においては、かつて天皇による中央集権化画家たちの上ではなされたとはいえ、現代に至るまで強力にそれが機能したことはなく、困ったときは旧来のお互いの話し合いで解決するというやり方がずっと続いています。氏族的共同体のありかたは死せず、この国に眠り続けています。今回の映画でも、体制側の否定されつつ、賛美もされた特徴として徹底した非合理な合議制があります。そしてトップが死んでもすぐに首のすげ替えがなされる。まさに蛇的なありかた。これがゴジラを倒した最大の理由であるとすれば、あんのさんが、最終的に勝たせて賞賛したのも中央集権的な正義ではなく、日本の体制側のなかにもある蛇的、ゴジラ的な部分だったのではないでしょうか。
今回、怪獣は一匹しかでてないようにみえましたが、じつは今作も怪獣同士の戦いであったのです。ゴジラ vs 日本人。
そう考えると、最初いつものエヴァとかのひねくれた作品とちがって、今回は単なる勧善懲悪映画なのかな、つまんねーなとおもってたりしたのですが、やっぱりそうじゃないひねくれ映画だったのだろうな、いつものあんのさんだっとほっとします。
蛇足ですが(蛇だけに)人間も使徒ほひとりで、進化の形が少し違っただけの怪物であるというのはエヴァとまんまおなじな訳ですよ。そう考えるとゴジラは、アダムであり、尻尾から生み出されるのは使徒なのかも。イメージ的には貼り付けにされたリリスの下半身からにんげんがぽこぽこくっていていたのとおなじなのかも。
ゴジラって、いままでSF定番の行き過ぎた現代科学に対する警鐘としてえがかれてきたかとおもうのですが、そして今回も福島原発のイメージはわかりやすいほどかぶせているとは思うのですが(こちらでも言及されてますね http://anond.hatelabo.jp/20160805000418 )、ヤマタノオロチを持ち出してきたことによって、いままでのような科学の力への警鐘ではなく、また311の反省映画でもなくしているのではないかと。単発の事象に対する象徴的な映画なのではないとおもうのです。この国が根本的に抱え、なおかつ封印している体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望の力強さとその恐ろしさへの警鐘、それと同時にその力は今でも脈々と体制側の中にもすでにとりこまれていてそれを有効に使うこともできるよね、というような話をみせたかったんじゃないかなとかおもいます。ゴジラは死なないよどこまでも、ってかんじで。
あーーーー、妄想がとまらない。とりあえずここまで読んでくれた人ありがとう。ヤマタノオロチの解釈に関しては、たぶん世の中的には主流ではない解釈だと思います。一般的には、川の氾濫の象徴とか、そんな感じでしょう。でもまあこういう解釈の方向性は、いろんな人が出していて(この本とか https://www.amazon.co.jp/dp/B00PS2FK8C/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1)そこ自分で味付けして解釈してみましたというかんじです。
まあ、最初にも書いたけど、こう言うのを考えるのが楽しいのがあんのさくひんだなとおもいました。
http://anond.hatelabo.jp/20160807101757
読み方は(増田も言っている通り)やや(かなり?)牽強付会くさい点もあるけど、面白い読みだとは思った。
ただ、増田の言うことが正しいとして、何で今の時代に「氏族的共同体と中央集権の争い」を描いたの?ってのが気になった。「体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望」が発現した事件とかって最近あったっけ?ISとか?
前提として、巷で言われるように右翼礼賛、共同体万歳的な側面がこの映画にはある。ただ、共同体主義には2種類あると思っていて (1) 国家型(中央集権的) (2) 地域型(地方分権的) がある。
今回は地域型共同体主義に共感している映画だとおもっていて、結果的に国家型を否定するなぞりがあるんじゃないかと。
地域型共同体主義の人にとっては、リベラルのいうような何か理想とする社会を人工的に作るというのはぴんとこない。もっと自然な感情で、近しい人で社会をつくりあげたいとおもっている。しかし、国家というのは大きすぎてぴんとこない。そしてそこにひも付きやすい全体主義的な思考には拒否反応をしめす。そういう思想です。
これって全く特別なイデオロギーではなく、割と普通のネトウヨとかじゃないけど、左翼むかつくとおもっているネットによく人たちの自然な思想だとおもっていて、おとなしめのリベラルちっくなオタクと親和性がたかい。そしてあんのさんもそういう思想を意識的か無意識的かもっているんだろうなと思うのです。だからこういう対立を描いたと。
無秩序への回帰というのはちょっと「現体制にとって」の無秩序であり、ほおっておいても自然に生まれる家族的情愛による秩序への回帰に共感したいというメッセージかもしれないなと思います。
こんなのが☆5乱発って……せいぜい☆3ぐらいだろ。
話の作りは「ゴジラ」という枠組みにとらわれすぎていて完全にゴジラマニアのオナニー。
スタッフの「よいこのみんなーーーー^^ゴジラ大好きだよね!^^」という呼びかけに対して「はーい^o^」と元気よく答えられる大きなお友達以外は退屈なシーンの目白押し。
そうと思いきや既存のゴジラ像を破壊してやったぜと庵野がご満悦であろうゴジラジャナイシーンも出てくるんだが、これまた既存のゴジラ像に飽々してない人は何でゴジラ見に来てこんなの見せられなきゃならないのという気分。
ゴジラシリーズのお約束ありきの様式美とカウンターばかりで元になるゴジラにそんな詳しくない人間からしたらどこをどう愉しめば良いのか分からないまま終わる。
えーえー私が悪いんですよ怪獣映画といえば午後ローのサメ映画ぐらいしか知らない無学な私がゴジラを見に行ったのが悪うござんしたね。
この映画、普通のモンスター映画って感じで。しかも、B級っぽい感じがたまらない感じなんだけど。
なんと、ブサメン金持ちにブロンド美人が最初っから恋人である。イケメン2名は女日照り。ブロンド美女に言い寄るも、「サーフィンしか脳のないバカしね、ブサメンは魅力的だ!」という
見ながら俺は、『ほ~、金でブサメン勝利ってパターンかーあんまり見ないなあ映画では』と思っていた。
また、そのブサメン君がことあるごとに金で買収だの、仕事のために危険をおかす(自分はノーリスク)、別の美女のエロダンスにブロンド女の前でなびく。人が死んでも、自分が助かったことに大喜び。
非常にいいじゃん。って思ってたんだけど。
そのブサメン、岩で足を切ったくらいで大騒ぎ。で、あっけなく死ぬんだけど。
最後はイケメンが頑張りまくってトウトウ助かると、イケメンにキス。
つまり、イケメンが金持ちブサメンに勝つために頑張りまくるっていう構図。
へぇ~って感じ。
サメ映画とか、ワニ映画ってこういうのがパターンってか様式美なんだけどさ。
ジョック(イケメン)とブロンド美女がくっついてて、ブサメンの根暗(ナード)が頑張って最後ナードに美女が惚れるってパターンが普通なんだけどさあ。
これ逆なわけだ。
でも、逆のほうが確かにリアルだよね。
大人の女ってやっぱ金じゃん。そこになびいた女を、肉体的にすぐれたイケメンがいいところ見せるほうが自然だしね。
こりゃなかなかいいじゃんって思った。
ハリウッド映画はこの百年間、方法論を磨いて磨いて磨き続けてきた。
人々が感じる「かっこいい」や「おもしろい」の無意識を抽出し言語化しようと試み、クリシェや紋切り表現を歌舞伎レベルの様式美にまで高めた。
そういう蓄積が映画学校や業界へと絶えず還元されつづけ、監督を、脚本家を、俳優を、スタッフを育んだ。
その歴史の結晶が「バカにもわかるけど、わかる人にはもっとわかる映画」だ。
ただなんもなしに観ても爽快感あふれるエンタメ、しかしその裏には深い意義や高度な演出が隠されている、というやつ。
もちろん、すべての映画がそうあるわけではないし、ダメな映画はいくらでもある。
しかし、ハリウッドのトップオブトップは洗練を極めた「みんなのための映画」を量産している。
片方は「バカにしかわからない映画」、もう片方は「分かる人にしかわからない映画」。
前者は浅薄すぎてバカ以上の知性を持った一般の観客には耐え難く、後者は傍からみたら内輪ウケでしかないのでやはり一般の観客の視聴にたえない。
要するに、日本の映画はバカかオタクでないと楽しめないようになってしまっている。
だから大体みんなそこそこ綺麗だし、
似たようなメイク術使ってるせいか、パッと見で見分けがつきにくい。
女たちがどう思ってんのか知らないけど、
うん、確かに美人なんだけどさ、何というか魅力的じゃないんだよね。
って男の目線でもよく分かる。Youtubeにメイク動画とかあるし。
若い女の見分けが付かないオッサンになったら別かもしれんけど。
本人たちは男ウケを意識してるのかもしれないけど
(まあ同性同士でドヤる分にはそれで良いんだろうけど)
かわいいは作れる? うーん、でも作った可愛さってやっぱりモロバレですよ。
ああ、確かにメイクやらファッションは男のためにしてるんじゃねー
とお怒りになるのは最もなんだけどさ、
美人が街に溢れかえると、かえって垢抜けてないくらいの方が魅力的に見えてしまう。
美人アスリートもフルメイクのときより、ほぼすっぴんで競技してるときが一番魅力的に感じます。
女の顔面がマーケティングされ尽くしてる現状に正直うんざりです。
皆さんはどう思いますか。
特に成年漫画とかいい作品(いろんな意味で楽しめる作品)多いと思うので、紹介します。
1.かげきしょうじょ 斉木久美子
歌劇団のトップっていう一番を目指すっていう、わかりやすいストーリーなのがまず良い!!
一生懸命だからぶつかり合えるし、一生懸命だから一緒になって喜べるし。
本当に面白いのに、いまいち知名度がなかったりするから、今一番、お勧めしたい漫画!!
とにかく、ただただ、たのしくてどんどん読んじゃう。
笑止っ!には笑った。素直でいいね。
「やっとこっち向いた。」っていうセリフにやられました。
4.Ascene 武富智
絵柄がお洒落。
ちなみにBsceneとCsceneもあります。
たぶんあんまりメジャーじゃないと思うのだけど、めっちゃ続巻(スピンオフとか)が出てるから、根強い人気があるんじゃないかと推測してる。
なんか心理戦とか繰り広げたりしてて、おもしろい。そして最後は王子が必ず勝利して、サッと店から出る様式美が好き。
6.ちおちゃんの通学路 川崎 直孝
単純に一般誌に連れてきただけでなく、誰が読んでも楽しめる作品にしたのは、メディファクは良い仕事したなぁーって思う。
(成年誌出身作家ってどうしても、ただのエロ成分を弱めた感じの作品になりがちだと思うのです。。。)
読んでて、大人の仲間入りできた感じがする様な、ちょっと背伸びした感じになれる。
8.うきわ 野村宗弘
不安な気持ちとか、なにかにつかまっていないとダメになりそうな気持ちとか、そんな気持ちを
言葉とかセリフとして表現するんでなく、うきわっていうメタファを使った表現にしたのが、すごく腑に落ちて、心が揺れ動かされた。
単純にうわきとうきわっていう駄洒落なんだけども。。。いや、シンプルだからこそスッと腑に落ちたのかも。
靴がその人の人生を変えるっていう、ちょっとファンタジーみたいな世界も、本当にそういう実話があったような気持ちになる。
ひとつひとつのエピソードが丁寧に描かれてて、ストーリーにちょっと無理あるだろー、とか思わせない。すごい。
いやぁ。なんていうか脚の描き方がすごい綺麗だなぁって思います。
そして、こういう作品にドキッてしまう感じが、私生活のこじらせっぷりを露呈した感じになる(笑)
名作!!
女のひとが読んでもおもしろいと思うのでは?と勝手に思ってる。
いや、さすがにそれはないか。。。
Hを楽しんでるのが、とにかく良い!!
絶倫っぷりと、謎の使命感に笑ったw
それにしても、出す作品、出す作品どれもおもしろいのが、凄い!
どの作品も楽しめる!!
「こんなのくらっちまったら、やられる」みたいな格闘漫画みたいなセリフが好き。
isbn:489465621
楽しそうでなにより!
8.NON VIRGIN 織田non
Xerosで巻頭カラーになってたの(slave-fantasy)を初めてみたとき本当に、感動した。
絵がめちゃくちゃカッコいい!!
すごい好みの作品。
めっちゃやってたのだけど、
10.びゅーびゅーびっち 五月 五日
https://www.toranoana.jp/mailorder/article/20/0011/15/05/200011150513.html
これは、ちょっと読む人を選ぶと思う。
僕は好きです。
大丈夫。彼の読みませんはダチョウ倶楽部のネタフリと一緒でとりあえずそう言っておくというだけのお約束みたいな発言だから。毎回ちゃんと読んでるから。自分が反論できないときに読んでないふりをしたりその場では忙しいからといったり体調が悪いからといって逃げるのは毎回のことだから。なぜそれがわかるかというと反論ができると思った時だけブクマやコメントで一生懸命反論書くから。そのせいで毎回読んで反論できるかどうか判断してるのがバレちゃうんだけど本人だけはバレてるって気づいてないのももう定番だから。反論できない時はその場では読んでないふりするけど結局めちゃくちゃ悔しくてtwitterでエアリプで自分を批判してきたやつを攻撃するんだけどその攻撃が全部自分へのブーメランになってて周りの失笑を買うまで全部様式美だから。この完成されたリアクション芸を知らないなんてもったいない。
まあ、シビレましたよね。
とてもたのしかったです。
良くも悪くも様式美っていうか、ツボをよく抑えてら。
ツッコミたいことは一杯ある。
あのライトセーバー何やねん とか。
ラストシーンとかも「テラシュールww」みたいなテンションだったんだけどさ。
帰り道、急に涙止まらなくなってびっくりしたよね。
会社でどんなにこき下ろされても泣かなかったのに、ボロ泣きだよ。
生き別れの幼馴染みに再会したような、もう理屈じゃねんだよっていう動揺。
自分なんて2002年のGWの金曜ロードショーでハマった口だから
新章で育ったゆとりSWファンだし
なんならエピソードⅡが今でも一番好きだけど
魂揺さぶられたよ。
とても気になる。
おじさん達、語ってくれよ。
「絶対的人狼を女が実況するなんて意外だ」と言った理由は男女差別とかじゃなくて、主人公が中二病、ヒロインがオタサーの姫をそれぞれこじらせてるから女の人が見ると「なにこのディストピア」みたいになると思うから「女性におすすめしたいゲームではないよね」と思ってるからっす。面白いけどね
明らかに絶対的人狼に飽き始めてる女の実況者を見て「うーん、やっぱダメだったか」と頭を抱えてる。動画として人気無いのは2パートぐらいしか実況者のテンションが持たないからだったか…と。
「ラノベみたいになってきたな」ってなんだよ…悪口ではないのかもしれんが、この言い方はなんかカチンと来る。元々中二病こじらせた主人公に女の子が擦り寄っていく時点でラノベやし、それが合わない可能性を配慮して「え?女が実況するの!?」と言ったわけで…なんか予想通りな展開すぎてアレ
ろくに理解もできてない人に好きなゲームの個人的にはむしろ名シーンだと思ってるやり取りを「きらいじゃないけどねこういう中二病チックな」とか言われると頭くるなぁ…。好きか嫌いかも判断できる土俵にない人に断言されると腹が立つ
中二病は様式美じゃないと思ってる僕としては、中二恋みたいに様式美としか解釈してない作品って何ぞか頭にくる。空想や妄想の切れ端って人に言えないぐらいこじらせてるか本当に切れ端でしかないから面白おかしく振りかざすことで消費するかのどっちかしかないけど、中二恋は…あ、いいや。ポーンさんの文章自体はわかりやすい方だと思うんだけどなぁ…
僕が機能の真夜中から朝にかけて伊藤計劃みたく文学や映画に精通できてない、またその種の人間から薦められた重厚な作品を楽しめないことにコンプレックスを抱いてたけど、ポーンさんの文章を「中二病?嫌いじゃないけどね」としか30すぎても言えない教養の人を見てオレのコンプレックスは?な気分
実況プレイ動画で漢字が読めなすぎてイライラする人が動画投稿しててかつオレよりも年上だったりすると「学校教育なんてクソほども役に立ってないんだなぁ…」という何かを感じてしまう。そして、そういう人は案外多いから困惑しちゃう
kanose なぜその気持がわかるのにラノベやらアニメについて、自分が全然わかってないくせに土足で踏みいって余計なことを言うのか。さっそく中ニ恋について腐してるしこいつほんとバカだな。しかも自分で最初に中二病的だから・・・って言っておいて他人から中二病的と言われるのは許せないとかいみわからん。
下を見ればキリがないけど、下の人を見た途端に自分の何かが否定されるような精神が汚染される現象を度々体験する。アレ、なんて呼べばいいんだろうね?呼び名がわからないけど、度々それに足元を取られて困ってる
勉強と作品解釈は同じですよ。理解しようともしない人には理解できない。だけど、理解しようとしたとてそれを表現に変えられるかはセンスとか技能が必要になるから理解しようとする姿勢がいつも報われるとは限らない。だけど、望まない・努力もしない人はそもそも何もできない。(わざとややこしめ)
kanose 君を見てる人も全く同じこと思ってそうだけどね。
昨年急に浮世絵に目覚めた人です。
http://anond.hatelabo.jp/20150815210249
これに対して、
http://anond.hatelabo.jp/20150816024827
こんなエントリを返してみたのだが、風景画などに比べると、人物画は、少なくとも浮世絵というジャンルにおいては、日本は独特の様式で進化してるように思う。
ここで、それについて説明していきたい。
日本人のアイデンティティに関わる部分が多く、絵だけでなく、できれば安保やSEALsにも話を展開できればなんだが、とりあえず筆にまかせて書き綴っていく。
ここで、見てもらいたいのは、ルフィが市川猿之助に似ていないこと。
なぜだろう?
「なにを言っているんだ?」「ワンピースの絵でありゃよくて、役者に似せる必要などないだろ」
その通りだ。
ワンピースであることが大事であり、尾田絵であることが大事であり、役者の顔など関係がない。
ナミもロビンもオッサンが演じるわけだが、オッサンにする必要はないのだ。
役者絵とは、舞台看板に由来するため、元来似せる必要がなかった。
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狭い意味で言えば、鳥居派の絵こそが公式な絵、ワンピースで言えば尾田の絵であり、この後隆盛を誇る勝川派や歌川派の役者絵は、非公式なアンソロジーみたいなものである。
絵はすなわち、歌舞伎の様式美、世界観、江戸の空気を体現したものではならない。
ゆえに、役者絵に描かれる人の顔は、あのように似ていなかったのである。
似絵、似顔絵という、役者に似せた絵にたどり着き、2人の共著の一冊の絵本は世界を変えた。
勝川春章
この二名のうち、勝川春章のほうは歌舞伎の世界観、様式美との調和に成功し、商業的にも成功、多数の弟子をとり、勝川派という一派が出来る。
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顔のみならず、肢体まで正確なデッサンを基本に描いているのがよくわかる。
歌舞伎の雰囲気をそのままに、デッサンは正確、一世を風靡する。
彼は印に「画中造化」(造化とは造物主、天地の法則のこと)を用い、絵の中に神を宿すという気概があったんじゃないかと俺は思う。
ちなみに、葛飾北斎は勝川春章の弟子であり、若い頃は勝川春朗を名乗っていた。
面白いことに、この顔を対象に似せて描くというムーブメントは、男性の顔に対してだけである。
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歌舞伎の女役ならば、オッサンにするわけにいかないのはわかるが、町娘書く場合であっても、テンプレ顔。
正確にはテンプレ顔のなかにも表情はあるのだが、男性がデッサンを基づく顔で、立体造形は可能なのに対し、女性の顔はおそらく3D化できない。
スネオの髪型やカイジのの顎ほどではないが、この顔は立体造形が難しい。
女性の顔については、この後に続く喜多川歌麿については外すことができないのだが、こんかいのエントリでは男性の顔に主題を起きたい都合上、また別の機会にかかせてもらう。
続いては、やはり東洲斎写楽と歌川豊国について触れないわけにはいくまい。
先に写楽に触れよう。
東洲斎写楽、聞いたことはあってもなにがどう凄かったのかを説明できる人は少ないと思われる。
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Webで調べると、「強烈なデフォルメ」と表現されるが、簡素な線は実は正確に人の顔を捉えている。
小鼻の膨らみから、顎の厚みから、少し線を書き足すだけで全て補完可能で、輪郭線の修正は必要ない。
芝居小屋の闇を表現したかのような黒バック。この黒バックは光を当てるとキラキラと光る仕様になっていて、芝居小屋の闇の中で白塗りの人間にスポットライトがあたったような臨場感を醸し出している。
実際、写楽は売れなかったらしい。
なんの実績もないし素性がわからない新人が豪華なデビュー、しかも大コケしているにも関わらず次々と新作発表。
よくみると上手いのにぱっと見で下手、よくみると下手なのにぱっと見では上手い、正確なデッサンの部分があるのに、全体だと崩れた感じ、当時の常識ではありえない色彩感覚、いまだに正体は謎である。
ところで、写楽は商業的には失敗だったが、画家たちへの影響は確かにあった。
写実とデフォルメの高次元の融合、舞台化粧、舞台の緊迫感を受け継いだのは、たとえば
歌舞妓堂艶鏡
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http://dejimashoten.sakura.ne.jp/bookimages/359787.jpg
歌川豊国の役者絵とは、ひらたく言えば二次元絵、アニメ漫画の絵の祖になる。
勝川派の始めた写実の路線から、再び二次元絵に舵を切ったとも言っていい。
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歌川派の役者絵は、わかりやすく言えば、たとえ横顔だろうと、正面から見た顔のパーツをつける。
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この流れは、幕末までずっと加速し、圧倒的な作画量を誇る国貞(実質の三代目豊国、自称二代目豊国)、幕末の豊原国周まで続く。
末期がどんなになったかといえばこんなだ
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さてさて、文明開化で圧倒的な強さを誇っていた浮世絵の様式、というより歌川派の様式の人気に陰りがでる。
人物画にふたたび写実との間でゆれうごく。
最後の浮世絵師と言われた彼の晩年は、西洋画の技法を消化し、浮世絵にした。
晩年ともなると、このような感じ。
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http://data.ukiyo-e.org/metro/images/1594-C051.jpg
絵の上半分の人物の顔は、見えるであろうその通りに描かれている西洋式の絵。
下半分の人物の顔は、正面から見た目や口を横顔に貼り付ける歌川派の様式。
どちらかと言えば、下の絵のほうに力強さ、人間らしさを感じるならば、我々はなんだかんだいっても二次萌えの血が流れる日本人である。
劇画調の漫画は、写実から離れ、劇画という絵のジャンルが出来る。一見すると写実的なようだが、立体造形は不可能。
人物の描き分けも出来ているようで出来てない。あるいは意図的にしない。例を上げるとシティーハンター。
デフォルメしつつも、デッサンもしっかり、例を上げるとドラゴンボールか、であったが、デフォルメだけを受け継ぎ、骨格はデタラメOKになる。
人物はデフォルメでも、背景描写はパースを重視するのも浮世絵的。
っと、ここまで書いてみたものの、安保につなげられる気がしねぇのでここまで。
ちゃんとした美術史や絵の解説書から学ばずに、webの知識と年表と絵の印象だけで語ったんで、間違いもあると思うんで、指摘してくれると嬉しい。
○朝食:なし
○昼食:おにぎり三つ
○夕食:大あんまき、コンビニのフライドポテト、ナポリタン(自作)
○調子
正直百点の出来ではないけれど、自分なりに精一杯やったつもりです。
むきゅー。
がんばるぞー!
○ポケモンOR
メンツは
ヘルガー、ダーテング、バルジーナ、ヤミラミ、ゲッコウガ、ズルズキン
○一戦目:ボルトロス、サザンドラ、ファイアロー、ガルーラ(メガ)
敗北。
メガガルーラモンスター、略してガルモン、それが今のダブルの現状なんだなあ、と感じました。
○二戦目:ランドロス(霊獣)、ファイアロー、アマルルガ、ガルーラ(メガ)
敗北。
ランドロス(霊獣)とメガガルーラの並びってもう様式美の域だなあ。
敗北。
映画ジュラシックワールドは作品を通してラプトルとオーウェンの繋がりが描かれています。
ティラノサウルスとともにラプトルはジュラシックパークシリーズに継続して登場しています。
1作目,2作目ではラプトルは着実に迫ってくる恐怖であり,その機動性と数はティラノサウルス以上の恐怖です。
2作目ロストワールドのラプトルの茂みを駆け抜ける,次々に人間が減っていくシーンは印象的です。
3作目ではラプトルは恐ろしい存在ではありながら「賢い存在」として描かれます。
罠を使い人間を喰らおうとしたり,自分達の卵を盗んだ存在を執拗に追い続けます。
3Dプリンタで作られたラプトルの笛を用いラプトルとの交渉を成功させます!
(今作のオーウェンはラプトルの笛の存在を知らないのかな?と思うんですが,
ジュラシックパークが大嫌いなグラント博士は笛の存在を秘匿したのかもしれません。)
ここまで踏まえての今作のラプトル達です。
特にバイクに乗ったオーウェンとラプトルが夜の森を疾駆するシーンは,
Ⅱでラプトルに襲われまくったことを覚えていると頼もしいことこの上ないです。
字幕だとボスという訳があてられているのでちょっと分かりにくいですが,
ラプトル達は物語序盤から度々「ブルー」「チャーリー」「デルタ」「エコー」とB,C,D,Eの名前で呼ばれています。
「あれ?Aの名前のラプトルが出て来ないな」と思っていると弟グレイ君の質問からAは主人公オーウェンであることが明かされます。
この「ラプトル部隊の一員として人間が入っている」という感覚は本作最大のカッコいいポイントだと思います。
またオーウェンは「俺のラプトル」という言葉を使い愛着を持っていることが作品を通して感じられます。
これは字幕だと分かりにくかったです。吹き替えはどうだったんでしょうか。
この友情があってこそラプトルとオーウェンが最後に通じ合うシーンは説得力を持ちます。
本作の悪役の1人ホスキンス(太ったオッサン)。
ラプトルに殺されそうになり命乞いをして結局殺されてしまいますが
命乞いをして
↓
相手が油断した所を
↓
銃で不意打ちしようとして
↓
返り討ち。
このいかにも銃に頼りそうな悪役ホスキンスが銃を出さないことで,
ホスキンスは命乞いをし,ラプトルに手を伸ばすと食いつかれます
ラプトル達が人間同様の知性と情を持った存在であるということがはっきりわかります。
本作の見どころは色々ありますが,とにかくラプトル達はかわいいです。
あの恐怖の象徴ラプトルがこんなにかわいく頼もしく見える日が来るとは思いませんでした。
ブルー以外のラプトル達がやられてしまったのが残念でなりません......。