はてなキーワード: 原子爆弾とは
でもおれには見える
非国民と呼んで後ろ指さした姿を
竹槍で天を突く姿を
なんて言い訳するに違いないが
そんなはずはない
昔は原発反対を叫ぶ人たちに
そう怒鳴っていたんだ
「あの戦争」の
「何」が
「誰」が
「どう」悪かったのか
具体的に言わなければならない
特に「誰」が「何」をしたのかは
徹底的に暴かれなければならない
それは泣くババアも同じだ
小市民に罪はない
死人に鞭打つな
などという
なんて主語を隠して
次の戦争は
「あの戦争」と同じ形をしている
とは限らない
使われることはない
徴兵制も敷かれることはない
すでに何度も起こっていて
しかしそのことに
泣いたババアは気づかずに
長い間加担してきた
「あの戦争」は形を変えて
必ず繰り返される
ブラック企業で虐げられ
心身を病み
死を選んだ若者たち
きっとババアは彼らを
「男のくせにだらしがない」
「わしらが若いころは」
と蔑んでいたことだろう
強いものに巻かれ
人を傷つけて溜飲を下げる
あの無謀な戦争を起こし
カネ儲けをしている朝日新聞は
自らを偽装している
しかし根は変わっていない
「あの戦争」は
いまもこの国に偏在している
何かと取り上げられる原発関連問題についてですが、「エネルギー資源の点から原発再開・高速炉建設は現状止むを得ない選択肢である」というのが今の私の考え方です。
「石油はもって40年」と自分も子供の頃からそう言われていて、いまいち危機感が持てなくなっているけれど、少なくとも自分が子供のころはレギュラー90円切るようなのが当たり前だったと思うし、確かに昨今の不景気が影響で価格が高騰しているということもあると思いますが、客観的な事実として、天井のある資源を使い続ければいずれ枯渇することは当たり前だと思います。
エネルギー資源の枯渇が引き起こすのは奪い合いであるといったことは、歴史的に見ればある程度自明だと思います。
今の時代、簡単に資源を巡ってすぐさまに戦争が引き起こされる、といったことは想像しにくいですが、少なくとも産業や経済に制限がかけられることと思います。
そのような情勢において「原子力」というエネルギー源の選択は、再利用技術の確立が為されればかなり明るいと思います。(しかし3.11のような経済的コストや、使用済み燃料やそれに付随して出る汚染物質の処理のような将来的課題もまだまだあります。)
これらを踏まえ私が感じているのは「戦争への抑止力は、資源の生産・確保であり、原子力はその点で抑止力と成り得る」ということです。
某漫画の1コマに「戦争は始めるものじゃない。出来る限りの外交の手段を尽くした上で結果的に起こるものだ」とありますが、この「出来る限りの外交手段」を選択肢として存在させることが重要であり、エネルギー資源はそこに深く関わっていると思うのです。
一方で原子力の利用は、今の日本の風潮ではかなりシビアなものだという感覚をみんな持っていると思います。私は原子力関連においても最もネックなのはその感覚自体と、“安全”を砦に原子力を危険なものとただただ批判する人間がいることだと思います。
将来のエネルギー安定性と現在の安全なエネルギー供給を秤にかけることは、個人個人で優先すべき事柄が異なるのでどちらが重きとなるかは一概には言えません。ですが、私は原子力というものに“危険なもの”という偏見(バイアス)がかかっているために、秤にかけるまでもなく忌避しているような点があるのではないかと思うのです。そしてそのようなバイアスを布教・助長している各メディアなどのコメンテーターや評論家を見ると、嫌気がさします。「原子力=原子爆弾」という偏見さえも未だに存在するような気もします。
一般に「多少原油輸入にお金はかかっても現在日本の電力は間に合っているんだからいいじゃないか」という意見もありますが、私はこれが対外的には一種の侵略(エネルギー侵略)のようなものではないかと感じています。
話は変わりますが、2000年代に大きく話題になった「地球温暖化問題」というのがあります。温室効果ガスである二酸化炭素が増えることで、地球の保温効果が高まり、平均気温が上昇するという話のものです。(反対論として、地球の平均気温は常に上下を繰り返しており、その周期がいま暖かくなっているだけだとの説はありますが、自分は少なくともCO2の影響で温室効果があるのなら、地球の周期があるにせよ、減らす努力はするべきだと考えています。すみません関係ありません。)
この地球温暖化問題に関して、一部ですが「日本が温暖化問題を加速させている」という説があったように記憶しています。日本という国は自国には森林がたくさんあるにも関わらず、安価であるという経済性の理由から他国の木材を多く輸入しており、その木材はアマゾンなどで森林を伐採して得られているため、日本が温暖化を加速させている原因になっているのではないかというお話です。つまりエネルギー資源においても、自国で生産しない代わりに他国から輸入しますがそれは他国の資源を侵略していることに等しいのではないか、と感じるのです。(確かに資源を輸出するのもその国の自由ですし、対価を払っているのですから問題は無いというのもありますが、自分はあまりこのような動向が良いとは感じません。)
自分はこの地球温暖化問題の点と、化石燃料を輸入してでも国内の電力供給を支えている現在の日本の状況に、類似点を感じます。
原発を停止し化石燃料を輸入することで国内需要を満たすことは、地球全体の資源をより早く消化してしまうことになっていると考えます。この点で、確かにこれも輸入された燃料ではありますが、再利用することが可能である原子燃料を利用することは、これからの将来を考えて資源的に選択することは仕方が無い、むしろ必要なのではないかと考えています。
1国がこの広い世界での資源枯渇を心配する必要があるのかと思われますが、その広い世界で資源が枯渇した場合に行われるのは、「その資源を持つものが高い対価で取引を要求すること」か、「他国が略奪を行う」か、「新技術によって新たな資源を生産する」か、のどれかだと思います。
少なくともこの中で一番良いのは「3つ目の資源の生産」で、いわゆる「核融合」技術が現状あてはまると思います。しかし、現段階で研究ベースの技術が商用化され、多くの人に利用されるようになるのはいつ頃かもわからない状態で、「いずれ新技術ができるから化石燃料を使い果たしても問題ない」というのは楽観的すぎると思います。
再三になりますが原発関連に関して思うことは、原子力という技術や将来性について議論することをせず、消費者が被害者意識だけで言葉を揃えて「安全じゃないものは使えない」「間に合っている」と言うのが、個人的にはあまり好きじゃありません。
そして原子力に技術者として関わっている多くの人々や、また原子力を使うことを決めた政治家や多くの人々を責め立てることも好きじゃありません。
福島第一の事故は確かに人の作り出したものが災いしたものですが、想定されていなかった規模(過去数百年の津波高さの統計による)の津波という自然災害によって起きたという部分が色濃いと思います。事故は結果論でしか語ることはできませんが、これまで原子力を扱ってきた人々が事故を防ぐべく尽力していたこと、またこれからも努力なさるだろうことも忘れるべきではないと思います。
最後になりますが私は、何か意見をもって議論することが大切だと、EU離脱の時のイギリスを見ていて思いました。その点で思うのは、自分の意見を言うことでレッテルを張られる、もしくは感情論で批判されるような風潮・雰囲気を壊していくことがいまの日本には大切なんじゃないかなと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20170116162327
リンク先『婆ちゃんに戦争の話聞いてきた』で語られている「婆ちゃんの工場を襲った」空襲はおそらく、1945年8月1日深夜から2日未明にかけて行われた富山大空襲のことだろう。
それ以前、7月にも市街地に対する比較的小規模な空襲は度々行われている(模擬原子爆弾、いわゆるパンプキン爆弾の投下も行われた)が、8月の空襲は市街地の実に99.5%を焼き尽くす大規模なもので、ブコメでも言われているように「空襲で全部なくなった」。燃え盛る炎が明々と夜空を照らしていたという証言はネットでも複数読める。
で、だ。問題は
ものすごく暑かったので、多くの人は川に逃げたらしい。そんな人でごった返した川めがけて、空襲は襲った。川に逃げた人はみんな死んだ。
というくだりである。この「川」というのはおそらく、富山市街地を貫流する神通川を指す。皮肉にも、上空から夜目にも目立つ神通川と広大な河川敷そのものが攻撃目標となって多くの犠牲者が出たといわれているが(富山大空襲 浅田 高明|戦争の記憶~寄せられた手記から~|NHK 戦争証言アーカイブス http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/kioku/31/ )、そのいっぽうでこんなことも行われていた。
(あの戦争「富山大空襲」 : 勝手に言ってます http://yosirin.exblog.jp/21519632/ )
火たたき・バケツリレーなどによる「防火演習」がしばしば行われ、空襲の際には、避難する道路に、警防団・警察・憲兵などが立ち、「戻って火を消せ」、「非国民!」などと、避難を押し止めた
(イントロダクション | 「富山大空襲」のことを知って下さい! http://www.geocities.jp/toyamakushunokaii/introduction.html )
逃げたらアカンかったわけである。何故か? これは日中戦争が始まる前に公布された「防空法」という法律に拠っている。直接的には、真珠湾攻撃の直前に行われた防空法の第一回改正、およびそれに基づく内務大臣の通牒で、空襲時の退去の禁止(罰則を伴う)と応急消火義務が国民に課せられたことに由来する。この規定が、10万人の死者を出した東京大空襲のあともなお有効だったことは、まさに富山大空襲でのエピソードが物語っている。
富山空襲ではまず市街地の周縁部に焼夷弾を投下し、市民の逃げ道を断ったうえで存分に焼き払うという手法が用いられたが、地上でも軍や官憲によって逃げ道が断たれていたわけである。その結果が婆ちゃんの語った戦争の話、ということになろうか。
最後に、いち地方都市にこれほど大規模な空襲が行われた理由がふるっている。
「これ(=第13回の大挙出撃)は、陸軍航空部隊の第28回記念日にふさわしい祝賀であった。またカーチス・E・ルメイ少将に対するすばらしい餞別となった。同少将は米国戦略空軍の参謀長となるため、第20航空軍の司令官を辞任する前に、この攻撃を自ら計画し、かつ指揮したのであった。」 (1945年8月2日付ニューヨークタイムズ)
「陸軍航空軍記念日である8月1日の攻撃は、持てる空力を駆使し、あらゆる努力を払うよう指示する。(米本国陸軍戦略航空軍司令部から、第20航空軍「現地」司令官への指示文書)
(富山大空襲と母のこと: 壺中山紫庵 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2010/08/post-78e5.html )
参考:防空法について
「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制 / 大前治 / 弁護士 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/politics/13238
人を殺すことは罪になるのか?
罪にならない殺人が存在していたとしても、殺されるときはどんな人でも苦しむだろう。
人を殺し、苦しみを与えることに、一体どんな価値があるのだろうか?
謎は深まるばかりである。
ベン・ブルース・ブレイクニー(Ben Bruce Blakeney, 1908年 - 1963年3月4日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人・法律家。東京裁判においては、東郷茂徳、梅津美治郎の弁護人を務めた。
開廷早々の管轄権問題では、国際法に戦争に関する法規があることから戦争は犯罪ではないと主張し、検察側立証段階では、有効な反対尋問を行った。
「歴史を振り返ってみても、戦争の計画、遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。
我々は、この裁判で新しい法律を打ち立てようとする検察側の抱負を承知している。
「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである。
何故ならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない。
個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りである。
それは殺人罪ではない。
たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われなかった。
(以下の発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった)
キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。
我々もそう思う。
それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
原爆を投下した者がいる。
この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。
その者達が裁いているのだ。
と発言、
1947年3月3日にも、イギリスとソ連のパリ不戦条約違反を主張するとともに、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。
更に、太平洋戦争段階の外交部門の主任を務めた山本熊一を証人に立たせて、「近衛手記」や野村吉三郎電報を駆使し、日本が日米交渉に最後まで努力したことを立証しようとした。
また、米国議会の真珠湾攻撃調査の委員会での証言や、開戦当時諜報担当だったブラットン陸軍大佐を証人に立たせてアメリカの電報傍受の事実を指摘した。
ほら、「ポンヌフの恋人たち」とか、
今年最大のヒットを飛ばした数寄屋橋での男女のすれ違いを描いたメロドラマ(違う)とか、
すずと周作は幼少期に広島の橋で出会って、嫁ぎ先の呉の橋の上で語らい、
シンプルなロマンスだなあと思うだけど、ここで広島の橋に注目したい。
この橋はストーリーには出てこないけど、昭和15年に橋の形がT型に改修されるんだ。
で、その目立つT字型が徒となり、エノラ・ゲイはこの橋を標的に原子爆弾を投下した。
とんでもない、二人のラブロマンスの舞台は広島の惨禍の中心地だ。
でも、この橋は原爆のすさまじい熱線と爆風に耐え、破壊はされたものの落橋しなかったんだ。
終戦後の橋の上で、周作は「この街もわしらももうあの頃にはもどらん 変わり続けて行くんじゃろうが」
すずは「この世界の片隅にうちを見つけてくれて、ありがとう」と、二人は爆心地の方角を見ながら語り合う。
このささやかな物語の中で戦争が始まる前から縁を紡ぎ、終戦後に夫婦の絆を深めた場所に選ばれたことで
そして当時中学生だった祖父は、6日から1週間の内に広島市へ入市した。
これは父から聞いた話であり、私が祖父から直接聞いたのは「広島の原爆で二次被曝したから手帳を持ってるよ」だけだった。
多分子供に話す内容ではないと思ったのだろうが、祖父の死後、やはりどうだったのか気になった私は父親に聞いた。
1945年8月6日、広島県にある祖父の通っていた中学校(中心部のでは無いらしいが調べてみても分からなかった)の校長・教職員・生徒は、
陸軍学校の掃除という事で集合し、広島の中心地へ向かった。だが、9人だけは違った。
そこには祖父も含まれていた。祖父はその時、何らかの事情で行く事が出来なかった。
他にもスイカを食べ過ぎてお腹を壊した生徒や、寝坊した生徒など祖父を含めて9人が行かなければいけない大切な仕事を休んでしまった。学校側もお怒りだったらしい。
だが結局、その9人を置いて広島市内に向かった全員が原爆によって亡くなった。生き残ったのは事情で行けなかった9人だけだった。
広島市に爆弾が投下され多数の負傷者が発生したという話を聞いたのは8月6日の夕方だったらしく、中心部から来た宅配屋(?)の話を聞いたそうだ。
祖父は学校の生徒の事が気になってか、ただ興味本位だったのか、とにかく原爆投下から一週間以内には、自転車で中心部へ向かった。
広島市中心部に入った時、目の前の水平線に敵戦闘機による掃射の様な光景が広がっていたのを見て祖父は危険を感じた。
だが、敵戦闘機のエンジン音や、近くに居る人達に緊迫感が無かったのを見て不思議に感じた祖父がよーく見てみると、
それがいつもは見えなかった広島湾だった事が分かった。陽光を受けてキラキラ光る海面が、
建物が消えた広島市内のずっと先に写り、それが敵戦闘機の掃射と似ていただけだった。
どこまでも続く荒野と、その先に見える広島湾に驚いた祖父は自転車を走らせた。
中心部に近づくにつれ、路肩にまとめられていた遺体が道の真中で放置されている状態を目撃した。
祖父はその遺体に近づくと、カエル達がその遺体に這っている所だった。(食べていたのかは分からない)
遺体に群がるカエルを取り除く事しか出来なかった祖父は、とにかくそのカエルを潰したり引っぺがしたりして少しでも供養になればと
遺体を見つける度にやっていたそうだ。が、自転車を走らせても走らせてもその光景が海の方まで続いていたそうだ。
祖父にとっては原爆はピカドンではなく、カエルだった。実際の原爆の炸裂の瞬間は見ていない祖父は、原爆はどうだったのかと聞かれても
このカエルの話しか出来なかった。更に原爆を目撃していないんだから被曝はしていないという感覚だったのか、40歳半ばまで被曝手帳をもらう事は無かったそうだ。
生き残った9人の同窓会の時に二次被曝してるんじゃないかという話になり、被曝手帳をもらえるのではないかという事で診断した所、
二次被曝している事が分かり、被曝手帳を正式にもらったそうだ。
そしてこの他8人はどうなっていたのかというと、特に強烈なのがその内の1人が暴力団系に進んでしまっていたという話だ。
というのも同窓会に現れたその1人は、黒い車のドアを部下に開けさせ降りてくる所を目撃し、言われなくても分かってしまったという。
祖父はその人にこう話しかけたそうだ。
祖父『せっかく原爆から生き残ったのになぜそんな道に進んでしまったのか』
その人『そうするしか無かった、俺にはこの道しか残ってない。』
祖父『まだやり直せる。亡くなった彼らの事を考えて道を歩もう。』
その人『いや無理だ。もうこれでしか生きていくことは出来ない。すまん。』
そのまま同窓会のこの会話を最後に何年も顔を見せる事が無かったそうだが、ある日の新聞で、その人が暴力団同士の抗争のさなか
殺されたという記事を見て、父が「これはその人なんじゃないか」と指摘した時、祖父は頷くも無言でやりきれない顔をしていたそうだ。
祖父の話はこれぐらいで、他に強烈だったのは祖父の親戚の乗っていた漁船が爆風の直撃を受けて船長の体にガラスが突き刺さりまくって亡くなったという話で、
その後漁船で広島まで帰ってくると突然真っ黒焦げた人達の中から名前を呼ばれ、気付くとそれが親戚だったり、また近所の人だったりと
祖父の親戚は広島に集中していたので親戚の間ではこんな話をいつもしていたそうだ。
孫の私にこういった話をされる事は無かったが、話を聞いてみて、同じ級友含め学校生徒のほとんどがが犠牲になった中で
生き抜くという事は非常に辛かった事だろうと思う。でもそれでもやりたかった職に付いていたそうだし、こういった話をする事もなく、
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
昭和20年8月6日。祖父は戦争に行っていてもおかしくない年齢だったが、子どもの頃の怪我の後遺症で戦争には行けない身体だったため広島市内の工場で働いていた。
その日その時間に祖父がいたのは広島市の外れの方だったので原爆で目に見える被害はなかったそうだ。
原爆投下から数日後に爆心地付近に行き何日か人探しをしたと聞いている。
戦争が終わると祖父は生まれ故郷の青森に戻り、昭和47年に亡くなった。
祖父は私が生まれる前に亡くなってしまったため祖母や父から聞いた話になるが、病気がちでいろいろと苦労したらしい。
今日は原爆が何なのかを少し理解できるようになった娘と一緒に平和記念式典の中継を見ていた。
「入っていないよ」
「ひいおじいちゃんは入れてもらえないの?」
私は原爆死没者として慰霊碑に奉納されているのは原爆により直接亡くなった方、あるいは被爆者健康手帳を持っていた方だけで
被爆者健康手帳を持っていなかった祖父は、原爆死没者として認定されないと思っていた。
しかし、娘の言葉を受けて調べてみたところ、原爆死没者名簿に登載されるには被爆者健康手帳の有無は問わないそうだ。
ではどのような人が原爆死没者名簿に登載されるのか。広島市のホームページによると
被爆者健康手帳交付の資格があれば原爆死没者名簿に登載してもらえるということだろう。
1 直接被爆者
(1) 広島市内
ア 戸坂村のうち、狐爪木
2 入市者
原子爆弾が投下されたあと、昭和20年8月20日までに爆心地からおおむね2キロメートルの区域内に立ち入った方
3 身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者
(1) 15人以上(病室などの閉鎖された空間の場合は5人以上)の被爆して負傷した者が収容されている収容施設等におおむね2日間以上とどまった人
(2) 被爆して負傷した者5人以上(1日当たり)と接触した人
(3) (1)、(2)には該当しないが、それらに相当する被爆事実が認められる人
4 胎児
私は原爆症と認定されたら手帳が交付されると思いこんでいたが、被爆者健康手帳を持っている人が発病したときに、その疾病が原爆に起因するのかどうかが判断されるということなのだろう。
原爆投下時に広島市内にいた祖父は被爆者健康手帳の交付の資格があったし、原爆死没者名簿に登載の資格もあると思われる。
今年は5507人の方の名前が新たに慰霊碑に納められ、原爆死没者は29万2325人となったという。
40年前に亡くなっている祖父を今更新規に名簿に加えてもらえるかはわからないが、そのうち広島市に問い合わせてみようと思う(今の時期は広島市の担当の方も忙しいだろうし)
http://zaitokuclub.blog.fc2.com/blog-entry-596.html
↑の記事に余りにも腹がたったので。
日付が変わってしまいましたが、8/6は広島に原子爆弾が落とされた日でした。
私の母方の祖父、祖母が被爆者です。
原子爆弾の被害から生き残り、必死で生き、私の母をこの世に残して、若くしてガンでこの世を去りました。
祖母がなくなったのは私が幼稚園児の時、祖父がなくなったのは、私が小学生の時でした。
母は、被爆二世です。
県外に行った時、いわれのない誹謗中傷を投げかけられたそうです。
何度も悔しい思いをしたようです。
祖父も祖母も、母も、広島に生まれて広島に育ち、原子爆弾の被害にあったあとも広島から離れず必死で生きました。
広島を復興させ、とても緑豊かな生きやすい場所にしてくれたのは、頑張って生きた被爆者達です。
今、広島はとても住みよくて素晴らしい場所で、私は、この広島に生まれて育ったことがとても幸せな事だと思っています。
さて。
http://zaitokuclub.blog.fc2.com/blog-entry-596.html
8月6日広島を終えて。これが真実の被爆体験だ。おじいちゃんとの出会いは突然だった。 - 覚醒!!大和魂と愛国者の瞳
在日特権を許さない市民の会主催、8月6日広島での活動に参加して。
昨年に続き、参加させて頂き関係者の皆さまに御礼申し上げます。
又、今年は準備等のお手伝いが出来なかったことを深くお詫び申し上げます。
朝の街宣が終わり、デモまでの休憩時間に私は在特会広島支部の新人さんと木陰で休憩していました。
彼は若く、私の息子といってもよい年頃の青年です。
ふと隣のベンチを見ると老人がタバコをくゆらせていました。
我々の会話が気になったのか?老人は私に話しかけてきたのです。
「原爆が落とされて68年、わしは今年初めて8月6日に原爆ドームへ来たんじゃ。
わかるか?兄さん?
焼野原になった広島の土地に地元の人間なんていやせんかったんじゃ。
みんな死んでしもうたからの。
無理じゃよ。
早い者勝ちじゃよ。
ほとんどおりゃせんよ。
恥などない連中じゃ。
今日はたまたま旧友の見舞いに近くに来たけえ、寄っただけじゃ。」
ふざけんなと叫びだしたい記事でした。
広島で頑張っていきて、明日へのバトンを回してくれた人たちすべてを冒涜する記事ですね。
んなわけねーだろ、ふざけんな。
ああ、本当に胸くそ悪い。