はてなキーワード: 高速炉とは
廃炉が決まった「もんじゅ」に代わって高速炉用の実験炉として国が活用するとしている茨城県にある「常陽」について、原子力規制委員会は、事故の想定が甘いなど運転再開の前提となる審査の申請内容が不十分だとして、審査をいったん保留にしました。田中委員長は定例会見で、「ひどい申請内容だ」などと、事業者の姿勢を厳しく批判しました。
常陽は政府が、もんじゅに代わって次の高速炉開発に活用する方針を示している実験炉で、事業者の日本原子力研究開発機構は先月、運転再開に向けた審査を申請し、平成33年度までの運転再開を目指すとしています。
これについて、25日に開かれた国の審査の初会合で、原子力機構の申請内容が問題視されました。問題となったのは、原子炉の熱出力を、これまでの14万キロワットから10万キロワットに変更した点で、原子力機構は、変更によって、避難計画を策定する範囲が30キロ圏内から5キロ圏内になり、地元自治体との調整にかかる時間も少なくなることから、早期に再開できると考えたと説明しました。
また、変更にあたって設備は改良せず、運用上10万キロワットで使用すると説明しましたが、規制委員会側は、「実際の設備と熱出力は合わせるべきで、事故の想定も甘い」などとして、補正した申請が出るまで審査を保留する異例の対応を決めました。
これについて、規制委員会の田中委員長は、26日の定例会見で、「審査の保留は当然だ。本当に福島の事故を反省したうえで申請しているのかと言いたいほど、ひどい内容だった。審査できないということは、運転できないということだ」と、原子力機構の姿勢を厳しく批判しました。
審査の保留について、原子力機構は「このような指摘に至ったことを真摯(しんし)に受け止め、適切に対応します」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170426/k10010962381000.html
何かと取り上げられる原発関連問題についてですが、「エネルギー資源の点から原発再開・高速炉建設は現状止むを得ない選択肢である」というのが今の私の考え方です。
「石油はもって40年」と自分も子供の頃からそう言われていて、いまいち危機感が持てなくなっているけれど、少なくとも自分が子供のころはレギュラー90円切るようなのが当たり前だったと思うし、確かに昨今の不景気が影響で価格が高騰しているということもあると思いますが、客観的な事実として、天井のある資源を使い続ければいずれ枯渇することは当たり前だと思います。
エネルギー資源の枯渇が引き起こすのは奪い合いであるといったことは、歴史的に見ればある程度自明だと思います。
今の時代、簡単に資源を巡ってすぐさまに戦争が引き起こされる、といったことは想像しにくいですが、少なくとも産業や経済に制限がかけられることと思います。
そのような情勢において「原子力」というエネルギー源の選択は、再利用技術の確立が為されればかなり明るいと思います。(しかし3.11のような経済的コストや、使用済み燃料やそれに付随して出る汚染物質の処理のような将来的課題もまだまだあります。)
これらを踏まえ私が感じているのは「戦争への抑止力は、資源の生産・確保であり、原子力はその点で抑止力と成り得る」ということです。
某漫画の1コマに「戦争は始めるものじゃない。出来る限りの外交の手段を尽くした上で結果的に起こるものだ」とありますが、この「出来る限りの外交手段」を選択肢として存在させることが重要であり、エネルギー資源はそこに深く関わっていると思うのです。
一方で原子力の利用は、今の日本の風潮ではかなりシビアなものだという感覚をみんな持っていると思います。私は原子力関連においても最もネックなのはその感覚自体と、“安全”を砦に原子力を危険なものとただただ批判する人間がいることだと思います。
将来のエネルギー安定性と現在の安全なエネルギー供給を秤にかけることは、個人個人で優先すべき事柄が異なるのでどちらが重きとなるかは一概には言えません。ですが、私は原子力というものに“危険なもの”という偏見(バイアス)がかかっているために、秤にかけるまでもなく忌避しているような点があるのではないかと思うのです。そしてそのようなバイアスを布教・助長している各メディアなどのコメンテーターや評論家を見ると、嫌気がさします。「原子力=原子爆弾」という偏見さえも未だに存在するような気もします。
一般に「多少原油輸入にお金はかかっても現在日本の電力は間に合っているんだからいいじゃないか」という意見もありますが、私はこれが対外的には一種の侵略(エネルギー侵略)のようなものではないかと感じています。
話は変わりますが、2000年代に大きく話題になった「地球温暖化問題」というのがあります。温室効果ガスである二酸化炭素が増えることで、地球の保温効果が高まり、平均気温が上昇するという話のものです。(反対論として、地球の平均気温は常に上下を繰り返しており、その周期がいま暖かくなっているだけだとの説はありますが、自分は少なくともCO2の影響で温室効果があるのなら、地球の周期があるにせよ、減らす努力はするべきだと考えています。すみません関係ありません。)
この地球温暖化問題に関して、一部ですが「日本が温暖化問題を加速させている」という説があったように記憶しています。日本という国は自国には森林がたくさんあるにも関わらず、安価であるという経済性の理由から他国の木材を多く輸入しており、その木材はアマゾンなどで森林を伐採して得られているため、日本が温暖化を加速させている原因になっているのではないかというお話です。つまりエネルギー資源においても、自国で生産しない代わりに他国から輸入しますがそれは他国の資源を侵略していることに等しいのではないか、と感じるのです。(確かに資源を輸出するのもその国の自由ですし、対価を払っているのですから問題は無いというのもありますが、自分はあまりこのような動向が良いとは感じません。)
自分はこの地球温暖化問題の点と、化石燃料を輸入してでも国内の電力供給を支えている現在の日本の状況に、類似点を感じます。
原発を停止し化石燃料を輸入することで国内需要を満たすことは、地球全体の資源をより早く消化してしまうことになっていると考えます。この点で、確かにこれも輸入された燃料ではありますが、再利用することが可能である原子燃料を利用することは、これからの将来を考えて資源的に選択することは仕方が無い、むしろ必要なのではないかと考えています。
1国がこの広い世界での資源枯渇を心配する必要があるのかと思われますが、その広い世界で資源が枯渇した場合に行われるのは、「その資源を持つものが高い対価で取引を要求すること」か、「他国が略奪を行う」か、「新技術によって新たな資源を生産する」か、のどれかだと思います。
少なくともこの中で一番良いのは「3つ目の資源の生産」で、いわゆる「核融合」技術が現状あてはまると思います。しかし、現段階で研究ベースの技術が商用化され、多くの人に利用されるようになるのはいつ頃かもわからない状態で、「いずれ新技術ができるから化石燃料を使い果たしても問題ない」というのは楽観的すぎると思います。
再三になりますが原発関連に関して思うことは、原子力という技術や将来性について議論することをせず、消費者が被害者意識だけで言葉を揃えて「安全じゃないものは使えない」「間に合っている」と言うのが、個人的にはあまり好きじゃありません。
そして原子力に技術者として関わっている多くの人々や、また原子力を使うことを決めた政治家や多くの人々を責め立てることも好きじゃありません。
福島第一の事故は確かに人の作り出したものが災いしたものですが、想定されていなかった規模(過去数百年の津波高さの統計による)の津波という自然災害によって起きたという部分が色濃いと思います。事故は結果論でしか語ることはできませんが、これまで原子力を扱ってきた人々が事故を防ぐべく尽力していたこと、またこれからも努力なさるだろうことも忘れるべきではないと思います。
最後になりますが私は、何か意見をもって議論することが大切だと、EU離脱の時のイギリスを見ていて思いました。その点で思うのは、自分の意見を言うことでレッテルを張られる、もしくは感情論で批判されるような風潮・雰囲気を壊していくことがいまの日本には大切なんじゃないかなと思います。