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はてなキーワード: 広島湾とは

2015-12-29

地方も人それぞれだ、東京がそうであるように

例えば、東京の人はよそ者に冷たいとか、道を聞いても教えてくれないとか言われたら、

そんなん人それぞれでしょって反発したくなるもんじゃないですか?

実際、東京はいろんな地方から人が集まっている(だから聞かれた側も道を知らないかもしれない)し、

同じチャキチャキの江戸っ子であっても、地域によって異なる個性があるわけでしょう。

からこんなん一概に言えるものじゃないですよね。

にも関わらず、なぜか地方に向かっては、いまだにカビの生えたようなステレオタイプ押し付けられ、

時にはテレビ番組なんかで、面白半分に誇張されることも珍しくありません。

これが地味に傷つくわけですよ。

前に増田でも出てましたけど、大阪の人はみんなタコ焼き器持ってるんでしょ、って聞いたら嫌な顔された、みたいなアレ。

この際だから言っておきますが、別に広島県民がみんなお好み焼き原理主義というわけではないですし、

広島焼きとか言ってもそんな怒りませんからね?

あ、さすがに原爆ネタにすると、広島湾に沈められても文句は言えませんが。まあ、そんなもんです。

2015-08-05

祖父は二次被爆者だった

1945年8月6日広島原子爆弾が投下された。

そして当時中学生だった祖父は、6日から1週間の内に広島市へ入市した。

これは父から聞いた話であり、私が祖父から直接聞いたのは「広島原爆二次被曝たか手帳を持ってるよ」だけだった。

分子供に話す内容ではないと思ったのだろうが、祖父の死後、やはりどうだったのか気になった私は父親に聞いた。

1945年8月6日広島県にある祖父の通っていた中学校中心部のでは無いらしいが調べてみても分からなかった)の校長教職員・生徒は、

陸軍学校掃除という事で集合し、広島の中心地へ向かった。だが、9人だけは違った。

そこには祖父も含まれていた。祖父はその時、何らかの事情で行く事が出来なかった。

他にもスイカを食べ過ぎてお腹を壊した生徒や、寝坊した生徒など祖父を含めて9人が行かなければいけない大切な仕事を休んでしまった。学校側もお怒りだったらしい。

だが結局、その9人を置いて広島市内に向かった全員が原爆によって亡くなった。生き残ったのは事情で行けなかった9人だけだった。

広島市爆弾が投下され多数の負傷者が発生したという話を聞いたのは8月6日夕方だったらしく、中心部から来た宅配屋(?)の話を聞いたそうだ。

祖父は学校の生徒の事が気になってか、ただ興味本位だったのか、とにかく原爆投下から一週間以内には、自転車中心部へ向かった。

広島市中心部に入った時、目の前の水平線に敵戦闘機による掃射の様な光景が広がっていたのを見て祖父は危険を感じた。

だが、敵戦闘機エンジン音や、近くに居る人達に緊迫感が無かったのを見て不思議に感じた祖父がよーく見てみると、

それがいつもは見えなかった広島湾だった事が分かった。陽光を受けてキラキラ光る海面が、

建物が消えた広島市内のずっと先に写り、それが敵戦闘機の掃射と似ていただけだった。

どこまでも続く荒野と、その先に見える広島湾に驚いた祖父は自転車を走らせた。

中心部に近づくにつれ、路肩にまとめられていた遺体が道の真中で放置されている状態を目撃した。

祖父はその遺体に近づくと、カエル達がその遺体に這っている所だった。(食べていたのかは分からない)

遺体に群がるカエルを取り除く事しか出来なかった祖父は、とにかくそカエルを潰したり引っぺがしたりして少しでも供養になればと

遺体を見つける度にやっていたそうだ。が、自転車を走らせても走らせてもその光景が海の方まで続いていたそうだ。

祖父にとっては原爆ピカドンではなく、カエルだった。実際の原爆の炸裂の瞬間は見ていない祖父は、原爆はどうだったのかと聞かれても

このカエルの話しか出来なかった。更に原爆を目撃していないんだから被曝はしていないという感覚だったのか、40歳半ばまで被曝手帳をもらう事は無かったそうだ。

生き残った9人の同窓会の時に二次被曝してるんじゃないかという話になり、被曝手帳をもらえるのではないかという事で診断した所、

二次被曝している事が分かり、被曝手帳正式にもらったそうだ。

そしてこの他8人はどうなっていたのかというと、特に強烈なのがその内の1人が暴力団系に進んでしまっていたという話だ。

というのも同窓会に現れたその1人は、黒い車のドアを部下に開けさせ降りてくる所を目撃し、言われなくても分かってしまったという。

祖父はその人にこう話しかけたそうだ。

祖父『せっかく原爆から生き残ったのになぜそんな道に進んでしまったのか』

その人『そうするしか無かった、俺にはこの道しか残ってない。』

祖父『まだやり直せる。亡くなった彼らの事を考えて道を歩もう。』

その人『いや無理だ。もうこれでしか生きていくことは出来ない。すまん。』

そのまま同窓会のこの会話を最後に何年も顔を見せる事が無かったそうだが、ある日の新聞で、その人が暴力団同士の抗争のさな

殺されたという記事を見て、父が「これはその人なんじゃないか」と指摘した時、祖父は頷くも無言でやりきれない顔をしていたそうだ。

祖父の話はこれぐらいで、他に強烈だったのは祖父の親戚の乗っていた漁船が爆風の直撃を受けて船長の体にガラスが突き刺さりまくって亡くなったという話で、

その後漁船広島まで帰ってくると突然真っ黒焦げた人達の中から名前を呼ばれ、気付くとそれが親戚だったり、また近所の人だったりと

祖父の親戚は広島に集中していたので親戚の間ではこんな話をいつもしていたそうだ。

孫の私にこういった話をされる事は無かったが、話を聞いてみて、同じ級友含め学校生徒のほとんどがが犠牲になった中で

生き抜くという事は非常に辛かった事だろうと思う。でもそれでもやりたかった職に付いていたそうだし、こういった話をする事もなく、

会ったら美味しいものをいつもごちそうしてくれた祖父には尊敬するしかない。明日原爆投下から70年・・・

 
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