はてなキーワード: ぶっきらぼうとは
https://www.mhlw.go.jp/content/12200000/000349381.pdf
まずはこれを見てくれ。
どう感じた?
まず最初に感じるのは、不気味さ、不穏さ、自殺者への無理解、興味の無さ、そういったものだろう。
死にかけている人間に対して、何故こんなにもぶっきらぼうで無神経な態度を取り、それを推奨できるのかと。
なんてやる気のないポスターなんだろうと憤りそうになる。
だが、しばらく見ていれば、そういった諸々は担当者達の無気力によるものではなく、もっと強い邪悪な信念に基づいて行われていると本能が囁き出す。
厚生労働省という場所で、人の幸福と健康を望みながら、自らが徹底的な不幸と不健康に陥れられ、日本人の不幸と不健康を量産する立場に立たされた者たちの、この世界そのものへの敵意だ。
悪意と敵意と殺意と善意と怒りと悲しみの果てに誰もが不幸になっていく。
そんなレールを歩まされた5000人の七人ミサキ達の怨念がこのポスターを生み出したのは。
いいや、これは、悲鳴なのかも知れない。
俺を救ってくれ、救ってくれないなら滅びるがいい。
いやどうせお前らは俺達を救わない。
ならば皆滅びるがいい。
真っ青な背景を通して、そんな憎しみが流れ込んでくる。
彼氏も私も働いてるのですが、仕事がキツイときに限って彼氏の方で何か問題があって精神的な癒しを求められることがあります。
精神的な癒しというのは、単に話を聞いて、彼が気持ちの整理をつけて前向きになるまで寄り添ってあげ、その途中で彼が私への礼儀を忘れてぶっきらぼうな態度を取ったりしてもそこを責めないということです。
ですが、私も仕事をしていると頭がパンクしそうになったり精神的に過敏になっていて自分のことで精一杯なこともあります。
そんな時に不機嫌の塊になっている彼氏に感情労働の役割を当然のこととして背負わされたらやっていけません。
ですが私があえて線引きをしてドライに接すると、彼氏にとっては私が怒ってるように見えるようです。
それで、「俺が困ってるときに力になってくれない」だの「俺は愛されてないのかもしれない」だのネガティブな感情が増幅してめんどくさいことになってきます。
他の人は思いやりレベル80。(すいません、でも彼女としては当然のことかもしれませんが彼氏には特別な気遣いをあげています)
でも今は仕事が忙しいから思いやりレベルは50までしか出せない。」
私の主観を数値にしてみただけなのですが、彼氏には効果てきめんだったようで、コロッと機嫌がよくなって私のことも気遣ってくれるようになりました。
多くの場合女性が自然と背負ってしまう感情労働というのは、言葉にして男の人にわかってもらうのはなかなか難しいですが、あえて数値化してみて成功した、という例でした。
私は高校生のころ既に扁桃腺を全摘しているので、就職の際には特に説明もしませんでした。
厄介なのが扁桃腺がないので代わりにリンパがブクブクには腫れるところですが…。扁桃腺があったときに比べて38度以上の熱は出にくいです。
新入社員のうちに説明しておいた方が後々ラクかもしれませんね!
ぶっきらぼう上司とは違う上司に今度説明を試みようと思います!今から考えれば最初からぶっきらぼうじゃない方に電話をするべきでした〜笑
うちくる~?(笑)
上司の言い方はぶっきらぼうだね。「大丈夫?」の一言くらい欲しいところ。
10年目内科医。ここを見ていると「医者を増やせば解決する、日本医師会が巨悪」「女性医師は医療崩壊の原因」云々…との意見が多いように思う。
恐らく東京医大の事件に関しても、「男女平等の時代に逆行するなんて前時代的大学なのだ」といった感想を持つのが一般的なのだろう。
しかし、この出来事は実は医療崩壊の最終段階の端緒となる出来事のようにも思われる。
他でも議論されているが、まず医師を増やすことに原則的に反対の医師は多くないように思われる。増やせるものならどんどん増やしてほしいと思っている。
しかし我が国の医師の数が増えないのは、医師会が反対しているから、医師らが声をあげないから、等々ではないように思う。
欧米と決定的に違うのは、我が国では国民皆保険制度があり、誰でもどこでも医療を受ける権利がある。ということである。
極端な話、日本最高峰の大学病院に突然風邪でかかっても、数千円のはした金を余計にはらえば見てもらうことができるのである。
保険証の力は絶大で、診療の求めを受けた医療機関は「応召義務」のため診察を原則拒否できない。
しかし国民皆保険のこの素晴らしいシステムには致命的な制約がある。
それは、国が決めた一律の料金で患者を診察する、ということである。ここに「よりよいものを提供し、より大きな対価を得る」という資本主義的価値観はない。
訓練された一流の外科医が胃がんの手術をしようが、3年目のペーペーが手術しようが、病院が手にするのは「所定の胃がんの手術料金」である。
外来で例えよう。A医師は患者の話を遮り、高圧的で、診察は3分。B医師は患者の話に共感的で、優しく、10分間丁寧に診察を行う。
しかし病院からしたら、A医師は一時間に20人分の売り上げを獲得するのに対してB医師は6人分の売り上げしか獲得できない。病院から見てより稼いでくるA医師の評価の方が高くなる。
要するに薄利多売のビジネスモデルを「お上」に強制されていて、回転率が命なのだ。即ち某ラーメン屋風に言えば、ロット乱しはギルティであり、長話する客と、それを許容する店員は退店やむなしなのだ。
以上のように、国民皆保険のシステムと病院の関係を考えると、「高圧的で話を聞かず、3分診療の医師」の需要はとても高いのだ。
B医師は人間的には素晴らしいかもしれないが、殆どの病院が赤字すれすれでやっている現状をかんがえると、「いらない子」なのである。
でもそんなA医師みたいなやつばかりな病院はどうせ患者がこなくなるかというとそうではない。
一つは、医師不足で患者余りであること、もう一つはA医師のような人物は大体特殊な技術や多分野における専門医資格保持者であったりするからだ。そのような、希少価値のある医者は一時間に20人ほどの予約がはいる。そりゃみんな、「優しいけど非専門」より「ぶっきらぼうだけどド専門」の先生に見てほしいからね。こうしてA医師はさらに人の話を聞かず、高圧的になっていくのでした。
以上のように、医療の価格は「お上」に決められているのだ。うちはすごい手術するから+10万円ね!なんてできない。当然、すごい手術をする医師に特別手当てが出る病院なんてのもない。そもそも病院は儲かってないのだから。
そうすると、医師からしたら、腕を磨く必要って何?ということになる。
普通の会社であれば、大きなプロジェクトを遂行し、地位が上がって、給与もあがり、達成感を得るのだろうが。
それがない医師はどうしたらいい?残されたのは「やりがい」のみである。患者さんに「ありがとう」と言ってもらった。助からない人を助けた。そういうことに価値を見いだすしかないのだ。
医師は医科大学に入学し、その段階から世間とは切り離された環境で培養される。総合大学においても医学部とその付属病院は、他学部とは明らかに一線を画している。「頑張って素晴らしいパフォーマンスをあげれば収入が増える」といった極めて基本的な資本主義的価値観を体験することなく研修医となり、医師となっていく。
そういった育成環境によりいわば世間知らずのまま育った医師は次第に先鋭化していく。「医師は人命に関わる特別な職業であり、滅私奉公を基本とし、過労死も厭わない。金を求めるものは、医は仁術の精神を忘れた愚か者だ」と言う奴すらいる(自分は引いてしまうが、どこの医大にでも少なからずいるものと思う。)
いわばエリート意識の塊となり、医療現場に放り込まれるのである。
一人前の医者になってもその「呪いとも言うべきエリート意識」から解放されることはない。技術を高めても、接遇を改善しても、給与に反映されることはないからだ。
しかしこの「エリート意識の塊」こそ、現代医療の根幹を支えている人たちなのだ。
医者には三種類いる。勤務医、開業医、フリーターだ。一番儲かる(時給換算で)のは開業医、次にフリーター、最後に勤務医である。しかし、勤務医は段違いに忙しく、高度な技術を要求され、責任も非常に大きい。しかもこの三種類の形態はお互い自由に行きできるのだ。
それでも勤務医が存在し続けるのは、「エリート意識の塊という呪い」のおかげであり、先鋭化した医師がいるからである。36時間連続フルパワーで働き、土日も働き、下の教育と、病院経営陣との間に挟まれ、寿命を削る(実際に勤務医の寿命は一般人口より短い)。こんなことができるのは言わば「エリート意識の塊=狂信者」だけである。
この「狂信者=勤務医」の呪いがとけて、居なくなるときが日本の医療崩壊が真に実現するときではないだろうか。
医者を増やす事のリスクとしては、①医師数の増加による、医師の社会的ステータスの低下②収入の低下があげられると思う。
①に関して、先に述べたように「狂信者」のエネルギー源は強烈なエリート意識である。数を増やすと言うことは、医師の質は下がるのは必死である(弁護士の例をかんがみても)。今まで医師になれなかった人を、医師にするのであるから。こうした変化は、家族も省みず、収入にも執着せず、すべてをなげうって医療に身を捧げる者の士気を「医師の希少価値の低下」を通じて下げてしまうかもしれない。
②に関しては、医療費はその半分が人件費であり、医師の数を増やすと言うことは、医師一人辺りの給与は下げなくてはならない。これも「医師間で相対的に少ないとはいえ、一般社会人より多い給与を減らすこと」で「狂信者」の、モチベーションを下げ、呪いを解き、開業やフリーター医師への逃散を誘発するには十分な理由になるだろう。
つまり、今の医療崩壊は医師を単純に増やすだけでは解決しない。また増やすことは万事を解決するわけでもなく新たな問題を起こす可能性もある。
これが我が国で医師を増加させることが、医療崩壊の解決にならないであろう理由である。
歪な国民皆保険制度のもと、なんとか医療業界が試行錯誤でたどり着いた妥協案が現在の医療体制なのだ。東京医大の問題もその歪みの一部でしかなく、この問題を小手先のテクニックで解決したように見せたところで、根本の病理はなにも変わらないのだろう。
スポーツオーソリティーに野球道具を見に行ったついでに、通りがかったゴルフコーナーでクラブを手に取り、握り心地を確かめたりしていると、売場担当の中年男性が近づいて来た。
「やらないんだったら触らないでよ。」
ぶっきらぼうにそんな台詞を吐かれて、あまりにも予想外な事態に僕は混乱してしまい、無言でクラブを置き立ち去った。
店を出ると同時に吐き気がするほど不快な気分になり、それ以来二度とスポーツオーソリティーには入らないようにしている。
今でも看板を見るだけでこのことを思い出す。
スポーツオーソリティーが経営不振に陥っているらしいが、僕からしたら至極当然な結果である。
早く潰れろ。
※ここでいうフロントエンドとは、HTML/CSS/JS でデザインをもらって実装する人のことです。
デザイン再現するために、サーバー側に実装して貰う必要があるとき、
「デザインがこうなってるんで◯◯◯◯◯ください」といって、サーバー側とデザイナーの伝書鳩みたいになるとき。
だいたいデザイン再現のためにサーバーの人に相談しにいったら「無理です」ってぶっきらぼうに言われることが多い。怖い。
フロントエンドのこと見下してる人が多いと感じる。
お前の書いたCSSとHTML、インデントもぐちゃぐちゃで運用性も低いからちゃんとBEMとか学んできてから書いて…。
作ったのはデザイナーのデザインなので、自分が作ったという感じがしない。
自分は一体なにをやってるのかとおもうことがある。
めんどい。
マークアップ、もう動けばいいじゃんてなる。
フロントエンドエンジニア、言われたからやる、ということが多い気がする。
サーバサイドから見下され、デザインは自分でつくったわけじゃない。
好きだったはずのフロントエンド。
もう好きじゃなくなったのかな…。
ただ単にやさぐれてるわけじゃなくて、ぶっきらぼうなんだけど少し優しいところもある、とか
芯の通った男だったり、とにかく単にワイルドじゃなくってなんだかんだで憎めないとか、
自分の信じた熱さを持ってたりする男キャラに萌えてることに気付いた。
ボロボロになって立ち上がろうとしてるとか1対多とか四面楚歌とか弱り目に祟り目になるけど
そういうのひっくるめて突破してくる男キャラに非常に萌えてることに気付いた。
純粋に女が好きだし2次元も3次元も女の方が好きだけど、まさか男キャラに対して萌え感情があるとは思いもしなかった。
女キャラってツンデレとかタカビーとかヤンデレとかでめちゃくちゃキャラクター性を指す言葉があるけど、
せいぜいガチムチとか三白眼とか執事とかショタとかそれくらいじゃない?
それにしたって性格ではない外見だな。
もちろんツンデレとか男に使ってもいいけど、男でツンデレって何か違うくない?
男バージョンのツンデレと女バージョンのツンデレって結構ちゃうよね?
男のツンデレって好きなのに素直になれず口数少なくなる、それで嫌われてるのかと思ってたけど、好きな人を目ではずっと見ちゃうから扱けそうになってもすぐに支えられるみたいな、最後の回答が咄嗟の行動になっちゃう、んで照れ隠しにヘッタクソな言い訳でごまかそうとする、「あの人も可愛いところあるんですよ?」みたいなパターンであって、
女のツンデレって行動でツンツン、言葉でツンツンするけど、結局好きって気持ちが抑えられずに最後には正直になっちゃう気持ちを伝えちゃう!っていうピュアピュアさが眩しい、ツンツンしたことを自己嫌悪してるのも可愛すぎりゅうううう、「どうしたら仲直りできるかな…?」って友達に相談して悩んで頑張って思いを伝える女の子ってパターンじゃん
前者と後者では同じツンデレって言えるかもしれないけど、全然違うよね、インドのカレーと日本のカレーくらい良いところが全然んちがうよんね?
誰か分かってほしいんだけどー!
通称テニミュ、今年で15周年を迎えた、2.5次元舞台の火付け役とも言われる舞台である。
そのテニミュでは、大体2年ほどの周期で、主役校の青学キャストが代替わりをする。
いわゆる卒業というやつだ。
その中の、とある代の座長、越前リョーマくんに、私は心を奪われた。
力強いダンス、ぶっきらぼうなセリフの端々に丁寧に織り込まれた感情、目線や仕草で表現するキャラクターの気持ちの揺れ動き…例を挙げていけばきりがないが、大好きだった。
でも、どれだけ大好きでも、いずれ終わりがやってくる。
"卒業公演"
始まれば、終わる。
世の常である。
バイバイ、と言って消えていった彼。
わかっていたことだったが、子どものように、みっともないほど泣いた。
それから数ヶ月後。
顔も見えないような距離の席だったが、一目見て、違うと分かった。
同じ白キャップを被り、同じジャージを着て、同じラケットを持っていても、私がずっとずっと背中を追いかけてきた、彼とは違う。
頭ではわかっていたつもりだったのだが、実際に見て、唐突に理解した。
もうリョーマくんは、彼ではないのだ。
そして、わかっていても、現リョーマくんにどこか彼の姿を重ね、面影を探してしまう自分が嫌で、大好きだったテニミュから少しずつ足が遠のいた。
そして、時は流れ、その現リョーマくんの代も、卒業が発表された。
もう卒業なのか、早いな、距離ができるとそんなものなのかな、というのが率直な感想だった。
そして、その卒業ライブが近くで行われるとのことで、友達に誘われたこともあり、じゃあ行ってみるか、とチケットを取った。
久しぶりに触れるドリライは、あの頃と変わっていることも、変わっていないこともあって、懐かしかった。
現役の子のオタクがワクワクした面持ちで、名前入りのキンブレを用意したり、推しの名前を背負ったお手製Tシャツに袖を通したり。
そして、複雑な気持ちを抱えたまま開演を迎えた。
もちろん選曲等で懐古して涙してしまうこともあったのだが、しかし、以前よりなんだか素直な気持ちで、現青学、現リョーマくんを見れている自分がいた。
自分でもびっくりしたのだが、現リョーマくんの曲で、自然とペンライトを青にして、現リョーマくんを見て振っていたのだ。
成仏、とはまだ言えないが、少し、ほんの少しだけ、現リョーマくんと歩み寄れたような、和解できたような、そんな気持ちになれた。
私にしては、これは大きな一歩だった。
嬉しかった。
私が直接的に関わって嫌だった話ではなく、SNSやブログのコメント欄を見てて思うこと
すぐに「バカじゃねーの?」
終いに「話しててもキリがないので、さようなら」と、ただ汚すだけ汚して、帰ってく迷惑な人たち(Twitterでよく見ます)
一言目に「はじめまして」とネット上だとしても挨拶、その後に「〇〇さんの言っていることを理解したつもりです。その上で個人的には〜〜」と続ければ、例え内容は批判されていたとしても、発言者の心を疲弊させずに済むと思う。そして何よりどちらも傷つかない。
そして、発言者もついたコメントが意味分からん且つ批判的だったとしても「ご意見ありがとうございます」から、始めればいいのに……
(時に、丁寧に意見を伝えているのに、発言者の方がぶっきらぼうに返してくる時もある)
なぜ、少し、相手のことを思いやれないのだろう。ここ増田(?)でもよく見かける。
インターネットの向こうには人間がいる、なんて小中向けのインターネット教室みたいなことを言うつもりはなかったけど、つまりはそういうこと。次元が違えど、人と人が言葉を交わしてるってことはコミュニケーションであって、「ボール投げますよ」の声かけなくボールがすっ飛んできたら当たって痛いよね、って分かってない人多くない?って話でした。
寡黙という意味ではない。
最初気になったのは頂きます、ごちそうさまを言わないことだった。
結婚前は私が言うとつられて言っていたようだが今は油断して言わない時があるので子供に促すように注意する。いただきますは?とか、もうごちそうさま?とか
おはようやお休みも言わない。私が言っても返してくれる時とくれない時がある。(無言というわけではないけど、あーとかうんとか)
夫より私の方が2~3時間帰宅が早いため家事全般は私が担っているのだが
帰ってきて洗濯ものが干してあると ああ、洗濯したの。 とだけ言う。
疑問形ではあるが自ら率先して洗濯機をまわしたことはない。要は洗濯しなくていいの?もしくはたまってるから洗濯しなよ。と言いたいのだ。
水飲む?と聞くとあ~飲むね。という。
仕事で遠出するときにおにぎりでも作る?ときくとあ~いるね。という。
この服洗濯するのにネットにいれないの?ときくとあ~いれるね。という。
家事やることも、私が夫の為になにかすることも当然だと思っているのかな。
一言ありがとう、おねがい、そうしてくれる?といってくれるだけで違うのだけど
高望みだろうか。
私がゴミ捨てひとつ頼むのにも毎回ありがとう、お願いしますと言っているのも気付いていないのかな。
仕事と家事の両立に疲れて細かいところにイライラしすぎだろうか。
(追記)
ちょっとびっくりするくらいたくさんご意見ありがとうございます。
はっきり言えっていうのは本当に仰る通りです、都度軽くは言ってる(つもり)なんだけど暫く経つと元通り。で私の言うことはそんなにも高望みだろうかってのは、もしかしてこんなに言葉を望むのは一般的では無いのだろうか、家族間でありがとうとかお願いとかあんまりいわないもの?私は常識的なことを望んでいるっていう世間的な評価を得て彼を責めたかったのかも。嫌な感じですね。
ちなみに結婚前はもうちょっとありがとうって言ってくれてました。徐々に油断してきたなって感じです。
自分のお母さんや店員さんにも結構ぶっきらぼう、横柄ではないけど。
面白い返し方言い方もありがとう、特にどうぞどうぞ~は試してみます。
(結果)
分けました。
未だに中国スゲーとか言ってるやつ多いけど一回住んでみてから言えと思う。
という増田を読んだんだけど、これ系はサンプル数多い方が、実像がぼんやり浮かび上がってくると思うんで、住んでるどころか、旅行者として2都市に半日ほど訪れただけだけで書いてみたいと思う。
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町全体の清潔感について。
急増の街だけあって、汚いところがなかった。代わりに歴史を感じさせるものもなかった。
ぱっと見の印象で行ったら、大宮みたいな感じ。
駅前には大きなファッションビルがあって、お姉さんが鳩をあやつるショーをやっていた。
深圳方面からの高速鉄道の入り口である広州東駅はとても綺麗で近代的。
そこから地下鉄をのりつぎ広州火車駅は、おそらく北・四川方面や西・チワン自治区方面からの入り口で、地方民が多い。
駅前は広いが古びている、大規模なファッションストリートがあるが、18:00頃には営業を終了してしまう。
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深圳でも広州でもwechatpayの決済は早くて便利だった。
おどろくのは、たぶん60〜のおばちゃんでもwechatpayの決済にかる〜く対応してくるところ。
年寄りであっても変化にはとりあえず乗るらしい。
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深圳でも広州でも共産党の鶴の一声で内燃動力のバイクは禁止されており、すべて2輪は電動自転車だった。
そのこともあって、咳き込むような目だった大気汚染はなかった。
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地下鉄網
また、suicaのような交通系IDカードがすぐに買えるので、移動も便利。
しかし、改札通過時にいちいち荷物を安全検査に通さなくてはならない。
監視社会だ。
地下鉄は清潔で静か。混雑率も日本と大差ないが、車内でもさすまたをもった警官がうろついている。やっぱ監視社会だ。
構内にもホームにも警官はいる。しかしとにかく人が多い!常時通勤ラッシュ状態なので、警官も治安という意味の監視業務は投げ気味。
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人について
地下鉄で女の子がスマホをのぞきこんで、iInstagram的SNSで最新ファッションをチェックしていたのが印象的だった。都市部のティーンエージャーの行動だ。
みんな全体的にしずか。
店員はぶっきらぼうで、「こいつめんどくせえな」という印象を隠しもしない。怖い。
とにかく人々が若い。そして元気。
「めんどくせえな」感は出してくるけど、笑顔なんであんま心が冷たくならない。
基本的に心根が明るいんだと思う。
あと、広州地元っ子と思しき人のファッションセンスは新宿〜渋谷くらい。
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というようなところから、深圳っ子、広州っ子がもし日本にきたらどう感じるかを類推してみたいと思う。
深)なにこれ、小さっ、道狭っ
広)でもすげー綺麗だよ
深)深圳の方が綺麗だよ。まあ古い建物には味があるけどさ。うちはさっぱりないから。
深)でも
広)店員
広)しかも店夜までやってるよね、夜も賑やか〜
深)でも年寄り多くない?
広)それは思った。
広)それはない
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全体的には20〜30年前の日本といった感じではあったけど、それはキャッチアップに30年かかるという話ではない。
大都市部の消費生活に関しては、多分5年で日本と変わらないレベルの地域が出現して、急速に広がっていくと思う。
しかし、なんというか自由な空気みたいなものは、絶対日本のようにならないと思う。
抜く、抜かれるの話ではなく、まったく違う近代国家が立ち上がろうとしていると思えばいいと思う。
そのうち、テクノロジーやポップカルチャーも中国発のものの存在感は増してくるんじゃないかな。
皆様、
今年も春が来て桜が咲きました。
おめでとう。
生きていてくれてありがとう。
どんな人たちなんだろう。
この手記を贈ります。
内容は、
誰かに似ているということ、
友達を作ること
についてです。
薄くて追いづらいかも知れませんが、
どうにか線をつないで行くので
寛い心で眺めていて下さい。
周りの目には奇異あるいは攻撃的に映って
発話の前提を共有することは、
酷く手間を要することです。
そこまで楽しくないよ落ち着くだけ、とか
君は人生辛くないんでしょ楽しくないの?とか
マスタベーションと同じ構造でごめんね、とか
言うの
面倒だから
もちろん何も考えずにうたってるときも多いけど。
また、無自覚な心優しい人と一緒にいると
発していないだろうかと、
もう一つ例を。
現か夢か忘れたくらい幼い頃、
あるいは繰り返すメロディーの話。
とりとめもない会話をして
なんだか僕は楽しくなって、
それで上手く周りが見えなくなって窮屈で
ビニール袋を外して、
誰も悪くはないのに僕がずれているだけで
年を取るにつれ、
2、誰かの一部に似ているということ
にはおんなじところがたくさんあります。
例えば手足が四本生えているとか、
眠くなるとあくびが出るとか。
意識されない作りになっていて、
痛いくらい慣れた僕にとって、
https://anond.hatelabo.jp/20171227003911
僕の場合、
増田のこの人と、
すごく似てて記事読みながら笑ってた。
それでも自分が真ん中にいることに困って抜けちゃいました。
https://m3myk.hatenablog.com/entry/2018/03/25/232219
小説の中や、伝記の中で、
自分と同じ人がいるというのは気付いていたけど、
快感がありました。
この文章を書いているのも
あるいはそう期待しているからです。
3、完璧ではない友だちを作ること
愚かで愛らしい僕たちは、
サン=テグジュペリが書いた「星の王子さま」という小説があります。
ヒツジの絵を描いてもらいます。
だけど、王子さまにはどのヒツジも気に入らず、
「このヒツジったら、病気で、いまにも死にそうじゃないか。かきなおしてくれよ」
「そうだな......これあたりまえのヒツジじゃなくって、ツノが生えてるもの......」
「これ、ヨボヨボじゃないか。ぼく長生きするヒツジがほしいんだよ」
飛行士はがまんならなくなり、
「こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ」
すると王子さまはそのヒツジを大層気に入りました。
人間の最も素晴らしい性質の一つであり、最も残酷なそれでもあります。
夢見ることは素敵だけど、たぶん僕らにとって
星の王子さまは箱のヒツジといっしょに死にました。
具体的な未来なんて軽く捨てちゃえるくらい美しくとも、
僕らはたぶん生きていけない。
僕たちと環境は
どうやって見るかという意味でも
どのように働きかけるかという意味でも、
たぶん影同士になっていて、
その相互作用を愛してくれ。
4、まとめ
それは只管に美しいです。
ただ、自分に周りに厳しくなりすぎませんように。
もがきすぎて疲れてしまって、
どうにもならなかった。
きっとだれも貴方のことを
救ってはくれませんが、
祝福はあります。
環境は変わりるけど、
これまできみを喜ばせてきてくれた
なにかを大切にしてほしい。
そして万が一、途方に暮れた時。
先人の勇気やら愛やら
点字ブロックを見れば思い出せるかもしれない。
春がきました。
過ごせる友が出来ますように。
どんな君でも
生きていることがとても嬉しい。
祈っています。
それでは、また。
いやー、よくそこまで想像を膨らませられるものだと逆に感心したわ!
ツンケンキャラはネット上だけのものですー。リアルでは物腰柔らか(笑)でキッチリしていて礼儀正しいペルソナを被っています。
地味とか言うなよ! これでもオシャレさんキャラで通ってんだよ!
服の組み合わせ方が上手いんだよ。って自分で言うなよ!!
表参道のヘアサロンでカットしてもらって家で500円のヘアカラー使ってセルフで髪染めてるんじゃい(ちなみに色は落ち着いたダークブラウン)。
「本当は女の子っぽいものに憧れてるけど、コンプこじらせて劣等感もってるために中性的な格好をしてぶっきらぼうな物言いをする女の子」とか、「生活指導のうるさい先生が実は乙女チックなもの大好き」
勘弁してくれ……。なんで「本当は女の子っぽいものが好きに違いない」になるんよ。子供のころからブルー・グリーン系の色が好きでピンク色は好きじゃなかったし、少女漫画より圧倒的に少年漫画派だったし、勝手に人の内面を憶測で決めつけないでほしい。
変に抑圧されてかわいそうだからフォローのつもりで「気にしないで好きな服きたほうがいいよ」って言われてるのでは?そうでなければ、いい大人にわざわざ「女の子っぽい」「花柄とかピンクとか似合いそう」とか言わないし。
私の好きな服は「私に似合う服」「私がより映える服」です。
似合いさえすればスカートもワンピースも着るしヒールもふつうに履く。
ピンクに関しては色んな色調のピンクを試したけどことごとく似合わない。
たぶん私が(事情があって)やばいレベルの色白なので、思い込みでピンクを勧めてるのかもしれない。花柄に関しては「バカっぽいね」と言われてるような感じがして嫌だし意味がわからない。
喋らなければ(もしくはキチンとした態度を崩さなくていい相手であれば)あまり舐められないんだけど、フランクな態度で喋らないといけない相手だと「○○さんって初めは大人の女性って感じだったけど……」と言われ始めるんだよ。
Day.2
上晝・晏晝
旅行になると食が細くなりがちだけど、この街では食わないと持たない。
茶餐廳(喫茶店とファミレスを混ぜたような軽食店)でお粥を頼む。
お湯が出されて思わず飲みそうのなるが、他の席を見ると、みんな飲まずに食器を突っ込んでいる。
正解がわかんない。
ホテルでもニュースを見たけど、昨日から全人代の話で持ちきりだ。
香港の人は賛成2300、反対2とかで決まる決議をどんな感情で見ているんだろうか。
今回の旅の目的の重要な一つが、中国でのQRコード決済を体験して見ることだ。
言葉が不自由なので、事前に起きそうな問題は潰しておかないと不安だ。
使いすぎのせいか、レンタルWi-Fiが昨日からちょっと遅くなったのにストレスを感じながら、深圳への入国カードの書き方や最寄りの羅湖駅について調べる。
事前に日本でwechatpayに520人民元をチャージしていたが、現金も持ってないと不安なので、昨日に引き続き重慶大厦で両替することにした。
うまく伝わるかどうか不安だったけど、メモに夏目漱石と毛沢東のイラスト、「jp¥5,000→人民元」と書いて渡したら、ちゃんと5,000円分だけ両替してくれた。
イラストにはやっぱ助けられる。
下晝
騒がしい香港も、ここまでくるとのんびりした空気が漂っている。
羅湖駅から中国への入境は、多少緊張したが、トラブルもなくスムーズだった。
イミグレーションはやや陰気な空気だったが、審査場というのはああいったもんなんだろう。
イミグレーションを超えて羅湖駅の地上に出ると、看板は簡体字。
狭い香港に比べて、羅湖駅地上は広々としている。空気も街の綺麗なものだ。
ここでもICカード、深圳通を買って、地下鉄を乗り継ぎ、華強北に向かうが、地下鉄はちょっとびっくりするぐらい綺麗で近代的だった。
華強北につき、お腹も空いていたので、華強電子世界のフードコートで、wechatpayの電子決済を試して見ることにする。
異国でいろんなことに不安があるので、余計なストレスを感じたくない。
フードコートのおばちゃんにwechatをみせて、「Can i use this?」深圳では広東語は通じないのだ。
と言っても自分の広東語が使用に耐えないのは昨日でわかったのだが。
オッケーらしい。
Wechatpayには、こっちのQRを見せてスキャンするタイプと、自分でスキャンして、金額を打ち込むタイプがあるが、どっちかわかんなかったので、おばちゃんからカウンターを変わったお姉ちゃんに 「scan?」と聞いて見ると、怪訝とめんどくさいという表情を全開にして頷いた。
スキャンして、金額を打ち込むとあっという間に決済は終わった。
しばらく待って出てきた華式カツカレーには、ライス部分に野菜炒めが乗っかっていた。
華強電子世界ではあらゆる電子アイテムが売っている。スマホ、パソコン、LED照明、電子部品からなぜかワイシャツまで。
携帯売りのお姉さんがブースの中でスマホに向かって大声でやり合っていたが、中国の人はなんというか元気なので、普通のやり取りなのかケンカなのか判然としない。
深圳の街は、一角にまだ工事中のような場所があったり、食べ物の匂いが立ち込めるストリートもあるものの、大方は近代的で綺麗なものだ。
しばらく見ているとハト達は一斉に飛び立つ。
近くにいるユニフォームをきたお姉さんが笛を吹き出し、またやってくるハトたち。
気の利いたショーまであるのか。
日本で知ることができる中国なんてほんの一部、それも結構偏ってるなーと思いながらデパートの空中回廊を歩いていると、突然「ボンッ!」
風に当たりながら一服していたオッさんの100円ライターが破裂した。
オッさんは事もなげに友達と去っていった。
挨晩
車内では可愛い格好をしたお姉さんがスマホで流行りのガールズファッションをチェックしている。
すっかり都会のティーンエイジャーだ。
ひょっとしたら新しい分、東京メトロより綺麗かもしれない深圳の地下鉄だけど、電子表示に現れる「請勿在車内大声喧嘩!(車内で大声で喧嘩しないでください!)」はちょっと笑った。
若い人は初めからこの新しさだからいいとして、お年寄りはこの変化のスピードについていけるんだろうか?
現代深圳市民のファッションは、埼玉か群馬の人といった感じで、いや、別に誰もdisってないぞ、そう聞こえるならそっちの方が偏見だ、とにかくまあ、現代的なのだが、どうも醸し出す中国人感の正体はおそらく男性は髪型、女性は肌で、男の髪型は極端なツーブロックか角刈りが多く、女性は20代後半辺りからあまり肌の荒れを隠さなくなる。そこら辺は日本女性は巧妙かもしれない。
とはいえ、まあまあ近代的なチャイニーズファッションを覚えておきたかったので、誰か写真を撮らせて貰いたくなった。
Excuse me Miss, i want know naw chinese fasshion, Can i take your photo?
Excuse me Mr?
3人目の子供を遊ばせていたお父さんに声をかける。
Excuse me Mr? I want know naw chinese fasshion, Can i take your photo?
「何がしたいの?」
日本語で聞かれた。
「写真撮っていいですか?」
「貸して」
「いや、貴方の」
「ふうん・・・どうぞ。」
広東語もダメだが英語ダメで、自分が一番得意なのは日本語である、という知見が得られた。
目当ての書店は、一部が棚卸し中で、欲しかった女性誌や料理本は買えなかった。
最悪コンビニでなら、と思ったが、中国のコンビニには雑誌が売ってない。
スタバのメニューなら、主だったところは日本と同じだし、注文にまごつく事もない。
決済もwechatpayでなんとかなる。
wechatpayの一番正しい方法は中国に口座を持つ事だが、歌舞伎町のPocket Changeでもアクティベートとチャージは可能なので、もし中華アプリに抵抗が無いなら、アクティベートしておくと強い味方になってくれるかも知れない。
そうこうしているうちに日がくれてきた。
華強北のフードコートのおばちゃん以外は概ねぶっきらぼうな中国人の接客にちょっと凹んでスタミナが切れてきたので、そろそろ香港に戻ることにするか。
異国なので、余裕を持って行動した方がいい。
2日で3回目の越境だ。
夜晩
羅湖駅にたどり着いた。
中国の雑誌が買えなくてちょっとガッカリしていたが、駅にキヲスクのような小さな書店があったので、そこで購入することにした。
wechatpayで決済しようとしたが、wifiが怪しいのか、なかなか決済が終了しない。
お姉さんが携帯を覗き込み、お姉さんの指示で店のwifiに接続したら決済できた。
便利なwechatpayだが、ネット環境に依存しているのは不便にもなりうるな。
国境を超えても外国である事には変わりがないが、なぜかちょっと安心感がある。
疲れて口元が下がり気味になり、パスポートの写真と微妙に違うので、検査員と顔面照合をする際に人差し指でほっぺたを持ち上げて笑顔を作る。
中国側の出国検査員には流されたが、香港側の入国検査員は一瞬笑いを堪えたような顔をした。
この空気の違いは、深圳の人が移民が多くて、実は南洋の人ではないからなのだろうか。
深圳ではやたら見かけた警官も、香港ではそこら中にいるわけではない。
接客に関しても、モノを投げてよこすような豪快さは香港も深圳も変わらないが、香港の人は多分相手が誰でもああなんだろうな、という感じで、なんというか余計な気遣いに使う時間が勿体ないという感じなのだが、深圳の人たちからは、ちょっと警戒感のような物を感じた。
それが、国民性によるものなのか、ナショナリズムなのか、単なる「言葉の出来ない相手に対する厄介感」なのかは、分からなかった。
こうして弟たちのハロウィン大作戦は終わったが、ハロウィン自体が終わったわけではない。
弟や仲間たちにも楽しむ権利があるのだ。
しかし「トリック・オア・トリート」という言葉とは裏腹に、その手には菓子を受け取るためのカゴしかない。
「間違いを正した達成感があると共に、何か後戻りできないことをした気分にもなってる」
「俺はそれを言語化できるが、大人たちの味方をした時点でその資格はないのさ」
そんな会話をしている内に、訪ねる家は最後となっていた。
マスダ家の隣のタケモトさんだ。
いつも突然の来訪で酷い目にあっていたが、今回はちゃんと用意しているらしい。
「あ? ねえよ、そんなもん」
タケモトさんのぶっきらぼうな回答に、俺も含めてその場にいた皆が素っ頓狂な顔をした。
「おい、ないって言っているぞ」
「用意していた分が、先約でなくなったのかもしれないな」
ない以上は仕方ないので俺たちは弟を連れて速やかに帰ろうとする。
タケモトさんのその言葉は挑発でもあり、発破をかけるようでもあった。
弟たちは仲間たちと目線を交わしていたが、俺はメガネについたペイントを落とすのに集中していて気づかなかった。
弟たちは、どこに忍ばせていたのか水鉄砲をタケモトさんに向けて放ち、怯んだ隙に部屋に乗り込む。
「小僧共、おいやめろ」
タケモトさんはのろのろとした足取りで弟たちを追う。
「お前らでやってくれ」
「いや、俺たちだけ行っても止められねえよ」
イタズラという行為は、ある意味でコミニケーションの一環でもある。
相手が許してくれるだろうという信頼と、そして許すという反応で信頼を示すわけだ。
もちろん、そんなことに確証なんてないのだから「イタズラはいけない」と大人たちは言うだろうし、それは何一つ間違っていない。
でも実の所、大事なのは『それを最後に決めるのが誰なのか』ってことを、大人たちは知っているのだ。