はてなキーワード: 日本料理とは
沖縄では政治家がオール沖縄(6割にしか支持されていないのでおかしいな?ネトウヨじゃないよ。)と基地反対活動を出汁にして、
名護、地元、オール沖縄といつもうるさいが、辺野古住民の声が聞こえてこない。
名護市の人口は殆ど西側に集中していて、ほとんどの人たちは基地の影響をほぼ受けていないといえるが、
オール(すべての)沖縄県民が基地反対なら、"辺野古の自治会長"の悲痛な「基地を作らないでー」の
悲痛の訴えを新聞/メディアで大きく取り上げそうだが、全く無い。
ネトウヨ、サヨク、お金が欲しい人など自分たちの極端なことしか言わないので、
実際自分の目と肌で感じる為に一度は現場を見てきたいなと感じていた。
そんな事を考えつつ悶々としていたら、
http://politas.jp/features/7/article/407
沖縄県浦添市に自然のサンゴ礁の美しい海が広がっている(軍用地のため県/民間/人がはいらず美しくのこっている)
が、そこは今後埋め立てられて、那覇軍港が移設(これも普天間と同じ基地新設)される予定だ。
ここも本当はのこして欲しいのだけれど、経済的(金)な理由でまず大きくは、反対されないはず、
間違いなく、高級リゾートホテル、住宅街、軍港がサンゴ礁の上にできるでしょう。
(政治家、ネトウヨ、サヨク、メディアあまり話に出さない、経済界から触れるなとの圧力???)
渋滞ガーとかいってるが、そんなの海には関係ネーと強く思う、例えば元々無理だとすれば他の方法はいくらでもある。
便乗して反対してもお金にならないのか?
ここまで私は正しいのだと偽善ぶっているが、実際投資先としての、
http://www.kamiya-pro.jp/marutoku/marutoku9/marutoku9.html
コザしん軍用地カードローンとかいう商品もある、買っちゃうか。
宝くじでもあたったら、軍用地借地代で生活して遊びで会社興したい。
(コザしん:コザ信用金庫の略)
賛成です。この先10年での基地関連の事故での人が死ぬ確立が少いと思うため。
普天間は明らかに人が死ぬ確立が高い、10年のうちに無くなる可能性、県外に移設の可能性も極端に少ない。
まぁ、10年後には大統領、首相もかわるし、世界も変わっているので目先の利益で
金もらって人が死ぬ確率が少ない辺野古へ移設してその金で辺野古の人には西海岸へ引っ越してもらおう。
(ダムができるので困っているみんなのために立退いてちょうだいと
スクリーンショット 2014 09 01 9 44 37
みなさん「みん経」って知ってますか?
「みん経」は「地域」に特化した経済ニュースを伝えるサイトで、北は北海道、南は沖縄、それどころかホーチミン、バンクーバー、ムンバイ、マニラなど海外に至るまで、数多くの地域にネットワークが広がっています。四国地域では「松山経済新聞」「徳島経済新聞」がすでに立ち上がっています。「みん経」ネットワークは、地域の情報をネットで入手できる数少ない手段だったりします(特に高知は、高知新聞がそんなにウェブに力を入れてませんし)。
移住してからというもの、「みん経」の高知版ってできないのかなー、と前から思ってたんですよ。そんな矢先、なんと「土佐風土祭り」でビール飲んでたら、たまたま運営者の方とお会いして「高知経済新聞」が先月末に立ち上がっていることを教えてもらったのです!
高知経済新聞、立ち上がったばかりですが、すでに数多くのローカルニュースが掲載されています。
高知・はりまや町「カツオの塩たたき」発祥の店「柳憲」、間もなく8周年
高知・中央公園で、「オクトーバーフェスト2014」-四国初開催、デポジットシステム採用も
高知家プロモーション部隊、渋谷でPR-観光、移住者獲得目的に
高知の飲食店「座屋」、マドリードに今秋出店-10年越しの夢実現へ
「高知の飲食店「座屋」、マドリードに今秋出店-10年越しの夢実現へ」なんてニュースは「ヘー!」と唸ってしまいますね。これは応援せねば!
スペイン出店の理由について、オーナーの岡添将人さんは「スペインは本格的な日本料理店がまだ進出していない。日本料理を店名に掲げた店は1000軒以上あるが、そのほとんどがもどき。本当の日本料理を提供し、日本料理の素晴らしさを感じてほしい」と意気込みを見せる。
高知の飲食店「座屋」、マドリードに今秋出店-10年越しの夢実現へ
高知は紙のメディア、テレビメディアは良質なんですが、ウェブメディアはまだまだ弱いンです。「高知経済新聞」はウェブメディア砂漠・高知のオアシスとなること請け合い。高知のよさを県内外に伝えるキープレーヤーとして期待が高まります!
彼らのニュースを見逃したくない方はFacebookページ、ツイッターをフォローしておくのがいいでしょう。ポチっとどうぞ。
今日は午前中に仕事を切り上げてもろもろの用事を終わらせに。妻はクロスバイク、ぼくはママチャリ(娘搭載)という布陣でのんびりと20km以上走りました。
意外とママチャリでも行けるもんですね。往復で25km以内ならママチャリでも自転車圏かも。高知はホント自転車に向いている街でして、右を見ても、
IMG 0478
左を見ても、
IMG 0479
田園風景!
IMG 0477
市街地は坂がほとんどなく、疲れにくい地形になっております。あぁ、絶景かな。
IMG 0487
こういう道を自転車で走ると、まぁ当然気持ちいいです。
IMG 0490
その割に、高知ってそれほど自転車人口が多くない感じがするんですよね。ママチャリが中心ですし。クロスバイク買うと生活変わりそうな人は多いので、普及啓蒙活動に取り組みたいところです。自転車は健康ですし、安上がりですしね。
今日は妻がせっせとパンを焼いていました。卵、バター、油を使っていないパンですが超うまいです。ナイス!
IMG 0473
夏休みも終わったことですし、今日は久しぶりに休肝日にしました。辛い!手が震える一歩手前!
妻のひとこと
とんぼと走った 夏の終わり
無限が言いすぎだとしても、おれのような平凡な人間ですら選べる選択肢は無数にあった。
無理に高望みした会社を狙いさえしなければあらゆる職種に就けるチャンスがあり、起業してみる事も、飛行機を使わずに世界一周することも可能だった。
最短コースで一流企業を目指したりするわけでもないのなら、それぞれの可能性をすこしずつつまみ食いしてから決めても手遅れになるってことはない。一生懸命やってる限りは大抵何をやってもコヤシになる。前に向かってさえいれば多少の回り道をしても結局は前進しているものだ。
なんだかんだで定職に就き、結婚し、周りの友達も同じような感じに「成熟」してくる。
子供が生まれたりする人もいるし家を買う人もいる。会社などでそれなりに重要な役目を担っているやつもいる。
そんな中にもいつまでも夢みたいな事を言ってる人がいる。
世界を放浪して生きていきたいとか、音楽で食って行きたいとか。
ずっとアウトロー(と言っていいのかわからないが)としてずっと生きてきた人ならまだわかるが、定職を捨ててまで突然に「やりたいこと」に気がつく人がいたりもする。
そういう人に対して「おとなになれよ」とみんなが言う。結婚して、子供を育てるのがまっとうな人間の生き方だと言う。
なぜうまく行っている仕事を投げ出すのか?将来の保証がなくなってもいいのか?のたれ死ぬかもしれないぞ?とみんなが彼らをたしなめる。
おれらを見てみろ。仕事は確かに大変だがやりがいはあるし、磨いてきたスキルと、そこそこの社歴や業界歴のお陰でお金もそんなに悪くはない。確かに金持ちにはなれないかもしれないが広くも狭くもない家で慎ましく子供を育てるんだ。お前もそうやってちゃんと先を考えた人生を歩めよ。楽しいことだけやって生きていけると思うなよ。しっかりと勤めを果たして小さな幸せを得るのが大人だろう。もう学生じゃないんだ、無限に広がる可能性なんて無いんだよ。
とてもまっとうな意見だと思う。
せっかく先進国日本で平均ぐらいの暮らしを手に入れたのだ。国家財政は先行き不透明とは言え保険制度も年金もある。このまま生きていればそんなにひもじい思いはしなくて済むのかもしれない。
しかし一方で人生の先なんかを考えてもしょうがないし、自分で敷いたレールに自分を縛り付けて我慢して生きるのはバカらしいのではないかと疑問が沸く。
決して刹那主義的な意味ではなく、いつまで生きるかわからない人生を我慢してやり過ごす必要はあるのだろうかと。
安定した仕事、穏やかな家庭を求める人が多くいるのは当然よく理解できるしまったく否定するものではないけれど、本当はそういったことに大きな魅力を感じていないのに無理やり自分を大多数に合わせる必要があるのかどうかがわからなくなる。
医者にもかかれず悲惨な晩年を送るのは嫌だけれど、晩年のためだけにそれまでの数十年を「なんとなく」「普通の暮らし」に合わせるべきなのだろうか。
バンドで売れる事を目指したり、外国の僻地でインチキ日本料理屋を開いたり、田舎で半自給自足の生活をしたり、地ビールを作ってみたりしてもいいんじゃないかと心が揺れる。失敗は怖い。キャリアを捨てればもとの稼ぎに戻ってくることはできないかもしれない。暖かい家でうまいものを食って発泡酒じゃないビールを飲みたい。でも、それだけでいいのかと不安になる。
一人で考え始めると視野狭窄に陥りがちだという自覚があるのでバカにされたり叩かれたりすることを承知で増田に書いてみた。
「やりたいことがあるならやればいい」とか「勝手にしろ」とか言われるのかなとも思うけど、自分でも何がいいのかよくわからなくなってきているのです。
何かの意見を貰えたらうれしい。
イオンの不誠実さも非難されるべきだろうけど、イオンの気持ちもわからなくもない。
なんでウチだけだ、というようなユッケ社長的な気分もあるだろう。
俺はちょいちょい中国方面に旅行に行くのが趣味なんだが、あちらの食い物など食って大丈夫か?との心配を頂くことがある。
確かに手放しで安全とは言いがたい。現地テレビ放送も、安全な野菜の選び方なんかを特集しており、現地人に危機意識もある。
しかし最低限のことに気をつけていれば、概ね問題ない。いや、問題ないかどうかは数十年経ってみなければわからないかもしれないが、現状特に健康被害はない。
あちらでは快餐というスタイルの、チョイスしたおかずぶっかけ飯を喰うことが多い。指差しだけでメニューを選べるので、外国人旅行者にも人気だ。
快餐屋は一食500円以上する店もあれば、20円以下の店もある。
件の20円以下の店は、そのイカレた安さから人気があるかというとそうではなく、汚い身なりの労働者がパラパラといるだけで、全く繁盛していない。店もボロく、匂いも臭い。
そんな店で何かを食いたいかというと、どんなに安くても御免な訳で、概ね200円ぐらいの店に入ることが多い。
お肉などは公設の市場があり、そちらをブラブラみて回るのも楽しい。
見たこともないケモノヘンの漢字の獣肉がところ狭しと売っている。貂なんて食えるのか、と感動することもある。
あちらでは、鳥肉は鶏よりも鴨の方が、比較的メジャーと思われる。
彼の鴨肉であるが、これまた一羽丸鳥で、千円近い品もあれば、百円以下の品もある。
件の百円以下の鴨が、これまた鳥だけに飛ぶように売れるかと言うと、無論そうではない。
モノには適正な価格があるということは、実際誰でも知っていることであり、現地の人間はもちろんのこと、ポッと出かけた旅行者ですら、小一時間も市場をブラつけば、概ね把握できる。
その中で極端に安いものがあれば、それを警戒するのは、ごくあたり前の心理である。
その警戒を、果たしてスーパーのバイヤーが、冷食工場仕入れ担当が、共有しているかというと、当然共有しているだろう。
本部の人間は安くしろと要求する。日本の経済の仕組みでは安くするのが正義だろうから。
彼の国では、安くしろというと、下限知らずにどこまでも安くなる。数十円の丸鶏があるお国だ。
大阪西成に俺の愛するスーパーマーケット、スーパー玉出という店がある。
こちらの惣菜が実に象徴的で、精肉コーナーに豚バラ肉が100グラム120円前後で売っているのに対し、デリカコーナーでは豚バラチャーシューが100グラム80円で売っている。
パートのおばちゃんが手間暇かけてコトコト煮込んだチャーシューが、生肉より値下がりするなどという、河原の積み石よりやりがいのない過酷な労働を、彼女らに強いている訳では無論ない。
それら加工食品は、その出自を明らかにする必要がないから、原材料費をどこまでも抑えられる。
そしてそれが今後どのような影響があるのか、それはわからない。
今後、米農家の補助金が削減されていく趨勢にあるとのことらしい。
これに関しては全く恐ろしいという気持ちにしかならないが、ウェブ上では、補助金ジャブジャブの農家は潰せとの声が高い。
実際厳しい競争の中で生きている、都市部の住人にとって、不公平感があるのも理解できる。
しかしながら、総じて先進国の農業で、全く保護を必要としない分野はどれほどあるものだろう。
無論、規制を緩和して、やる気のある農家や企業の参入を推し進めるのは良いことだろう。
農業大国と言われる国々、特にアメリカ、フランスでは、補助も厚い。
アメリカでの農業補助金は、大別して5種類。作付面積に対する補助金。市場価格による差額の補助金。ローン充当補助金。最低価格保証金。作物保険への政府充当金。などなど、日本の補助金など可愛らしいと思えるような補助金の幅の広さ。
その上先般のバイオエタノール原料買い付け保証などなど、挙げたらきりがないほど補助金ジャブジャブである。
特に市場価格ベースの補助金は、WTOからお叱りを受けかねない、輸出補助金に触れると見られており、今般のTTP交渉では果たしてどうなるかというところでもある。
この恐ろしい規模での補助金によって、折角の国連の援助を受け殖産された後進国の綿花、穀物畑などが、価格競争で打撃を受けて青色吐息だそうだ。
例えばコーンだと、その金額の八割以上が補助金に依っており、俺達が喰うケロッグコーンフロストは、アメリカ人の税金によって八割増量してもらっている。
そして当然アメリカであるからして、その全補助金額の七割以上が、上位数%の大規模農家によって独占されている。
まさにアメリカというお国柄らしい、ビッグになるほど保証も厚い、悪夢的アメリカンドリームの類の補助金だ。
方やおフランスでは、アメリカ同様、斯様な大農家向けの補助金も充実しており、これまたグレーな輸出補助金の類も、ジャブジャブ拠出しているのだが、反面、小規模農業のみならず漁業、加工業への保証もこれまた厚い。
例えば農地のその周辺環境、景観への配慮などを目的とする補助金。また産品の国定ブランド化とそれへの国際的な法的保護、輸出補助金など、小規模でも国際社会で十分戦えるような保証が充実している。
彼の国の優良な小規模一次、二次産業への保証は、単にその百姓の生活、土地の景観、田舎ワイナリー、漁港を守るという小さな目的ではなく、それに付随する食の安全と文化、外食産業、観光業、ひいては国のイメージという、より大きな対象への投資なのだろう。
翻って日本には、果たして保護に値する農業、食産業が無いだろうかというと、全く実に多い。
地方地方に奇妙な郷土料理や農法やらが、険隘な国土ならではの多様性に富んでおり、港町に行けば、寿司屋の生ゴミかと見まごう奇妙な鱠が出てきたり、山国に行けばタクアンのままで美味いのになんで燻製にしちゃったかなーという漬物が供せられる。
狭隘な土地に無理やり作った田畑や、それにまつわる行事や伝統産業ら、それら無数の多様性が重層的に折り重なり、文化というものが形成される。
食にやかましい中国人に、俺はベトナム料理が好きだと述べたところ、中国人は鼻で笑って「ベトナムに料理なんかねーよ。美味しい菜(惣菜)ならあるけどな」とのたまう。
っていうのには同意するけど、
本当に日本食が世界中誰もが(自国料理より)うまいと思うものだったら、何故海外の日本食レストランは日本の味とかけ離れたものばかりがウケて
これにはちょっと別の理由もあって、
"本当の日本の味"を出せるレストランって超高級レストランしかないんだよ。
"現地在住日本人"ってのは大概金を持ってる層だし、そうでなくてもわざわざ日本食を食べるなら、と奮発するし、
それ以下のところはそもそも日本食じゃない、って評価をするけど、
日本の主婦の悩みの一つは「今日の献立何にしよう?」であるが、
この背景には、
「日本の家庭で出される料理のレパートリーの幅がものすごく広い」ことも影響していると思う。
これが中国の家庭に行くと、中華料理以外の料理が出るケースはあまりないだろうし、
フランスの家庭に行くと、洋食以外の料理が出されるケースはあまりない。
その意味では、中国やフランスの主婦、いや日本以外の国の主婦は「ラク」していると思う。
日本の長寿を支える理由のひとつに「献立のレパートリーの多さ」があるような気がする。
要は、日本料理ばかりだと塩分過多になるし、中華料理ばかりだと油分過多になるし、
「週単位・月単位で見ると、栄養のバランスが取れている」という結果になっているのでは?
ということで、「日本の家庭料理のバリエーションの多さ」は、長寿の方向にプラスに働くが、
つまり、「花嫁修業として覚えなければいけない料理レパートリーが多すぎる」ことになって、
女性が花嫁修業したがらない、結婚したがらない、というデメリットもあるのでは?という気がする。
私自身は本土でずっと生まれ育ち、5年に1度くらいの頻度で母と帰省する。
今年も帰った。
やっぱりここは日本ではない、日本の一部とするにはもったいない、と帰るたびに思う。
言葉も食べ物も自然も信仰も思想も建築様式も芸術も町並みも何もかも日本とは違うのだ。
首里城とそれを囲む城壁を何度見ても紫禁城と万里の長城に重なる。
町中あちこちに祭られるシーサーや石敢当は言わずもがな、龍を祭る風習も中国に似ている。
赤塗りの瓦屋根、通路を囲む石垣、路面を覆う石畳も、中国的であり日本的でもあり、両方が合わさって「沖縄らしさ」をかもし出している。
言葉は確かに日本語の一種であり転訛したものだが、日本語との対応関係がわからない語や中国語の残滓らしきものをよく発見する。
食べるものも、豚のあちこちの部位やらヤギ肉やら苦瓜やらピーナッツ味噌汁やらヤドカリやらハブ酒やらグアバやら、
沖縄の人は内地人をそれと見分けられる。私もすぐにないちゃーだとばれる。
雰囲気だけでもなんとなくわかるようだし、しゃべったらほぼ確実に見分けられる。
姓を教えれば決定的に判別できる。
本土から沖縄に移住して3年滞在している友人の通称は「大城」だ。
現地人を装いたいためというが、この沖縄姓を名乗っていても本土人とばれるという。
顔が薄っぺらいからかななどと言っていたが、風格や匂いでわかるものがあるのだろう。
やっぱりここは違う国だ。
比喩的な言い方だが、通っている血が違うのだ。
現在の沖縄人で自分は日本人ではない、日本から独立したいと考えている人は皆無に等しい。
独立して自分たちだけで琉球国家を運営する能力がないことに関する説明は、あまりに自明なのでここでは割愛する。
多分これが標準的な沖縄人の反応だろう。
「国民国家」という枠組みに押し込められて成長してきた結果、
明らかに違う属性を持つにもかかわらず、「日本人」としてのアイデンティティだけが過剰に発達して、
本来の在り様との間に乖離が生じて、アンバランスな立ち位置になっているように思う。
母は、親族と東京でたまに食事をしたり東京にいる兄弟に贈り物をするときは、沖縄料理を選ぶ。
自然と選んでいるのだ。
また冒頭で「沖縄に帰る」と言ったが、母がいつもそう言うのでいつしか私も、
住んだこともないのに、「帰る」というようになった。
これもまた母は意識せずそう言っている。
沖縄という土地自体が「家族のいる場所=帰るべき場所」と認識しているようだ。
意識せず自然体で現れるからこそ、自分の拠り所、ルーツなんだろうなあと母を見ていて思う。
多民族国家日本で23日、大和民族系酷使様が在日コリアンの隣人宅から漂うキムチの匂いに苦情を言ったことに対し、大勢の日本人がキムチを食べて抗議した。
この隣人同士のトラブルは、地元当局が仲裁もせずに放置。この件についてのミクシーのコミュニティーが作成され、チャンネル桜やニコニコ動画で報じられると、Yahoo!掲示板や2ちゃんねるでトピックやスレが乱立。その多くが在日コリアン家族に連帯を示すため、23日にキムチを作って食べるというイベントに参加した。
2ちゃんねるのまとめサイトのページ作成を手伝った自宅警備員の男性(37)は「日本に住んでいるなら、お互いの文化を理解すべきだ」と語り、フジテレビ前にキムチを持ち寄りネットを通じて知り合った友人やスレ住人ら2500人で、皆で夕食を囲んだという。
同じくこのイベントを企画した1人である40代の女性(鬼女)は、今回のケースが外国人の融合という点において問題を生じかねないとし、「このイベントを通してキムチを皆で囲みながら、気に入らない人のプライバシーを暴いて人生を台無しにしたい。」と語った。
日本では大和民族が人口の大半を占めるが、市民らはキムチを日本料理の1つと考えており、韓流は同国の文化としてこれを受け入れるべきだとしている。(フジテレビ)
「あーホントアメリカ(仮)に帰りたいよー!こんな大学早くやめたい!日本なんか早く出ていきたい!」ってなってる友人が私にもいた
顔合わせるたび日本DIS、アメリカ(仮)マンセーな話しかしないから
みんなウザがってとっととどこへでも出ていってくれと思ってたんだけど
新卒で入社した会社でトラブって頭爆発したのか「日本企業なんか将来性ないし島国根性でどうせつぶれる!私はグローバルに生きる!」つってソッコー辞めて
海外の語学学校へ留学したまま帰って来ず、結局今6年目になる。
人づてに話を聞けば今は晴れて語学学校も卒業し、輝かしい英語力を活かして日本料理屋でウェイトレスして生活しているらしい。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1593777&media_id=20
納入後の食材の扱いで人の生死を左右するような失敗があるとは考えにくいし
同チェーンの別店で同時多発的におきていることからやはり納品物自体に問題があったんじゃないかと思ってしまう。
だとするとここの社長かわいそうだなぁ。
BSE規制のときもアメリカで1人しか死んでいない牛肉の輸入を法律でストップしたわけだし。sarsの時も新型インフルのときもそして何より原発も未知の生死を扱う新規問題が生じた際。過剰反応が必ずでるよね。
今SGの日本料理屋いくとかならず目につく「Our food is safety for consumption」 って張り紙。
北海道でも西日本でとれた食材であってもいっしょくたにされて風評被害を感じるよ。誰一人死んでないのにね。
しまいには「We import all stuffs from China」って書かれてるからね。
どこをつっこんでいいのかわからなくなるよ。
数人死ぬと社会的問題になるえるが例えば年間数百人しぬような事象だととたんにリスクに対して盲目になってるきがする。
しってるか?お餅で年間200人死んでるんだぜ。
理屈バカの俺がまったくの初心者がとっつきやすい本を紹介するぞ。
調理に入る前に気分を高める本
現存する料理の原型から考察することで、個々の調理工程の化学的な本質が見えてくる。
たとえばシチューやカレーの"ルー"とはどういう必要性で、どういう技術革新によって、どういう世界で生まれどう発展したのか、という感じの書き方。
これは文化論的なエッセイ。日本人にとって、という視点が強い。
右手に包丁はほとんど読み物だが、これはずいぶんと理屈っぽい。
・大使閣下の料理人 (モーニングKC)西村 ミツル, かわすみ ひろし
技術編
家庭科の実習書あたり。
食品成分表をあわせて読むこと。
応用編
・割合で覚える和の基本 村田 吉弘
割合で味付けを決めてしまうからかなり乱暴だが、味見しなくともそこそこ美味しい味付けになる。
・大好きな炒めもの ウー ウェン
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
1
>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
2
ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
病気は色々でバセドウ病、ガン、糖尿などなど。致命的な病気はガンと糖尿ぐらいだけど、東京に行った一家全員が病気になるというのがおかしい。他にも東京に行ってる親戚がいるけど、それも全部何かしらの病気になっていた。一方で田舎にずっといる自分も含めて病気にならない。自分よりも10 も年下の従兄弟も病気(肺炎?)
最初は理由はよくわからなかったんだけども、俺が東京に行ってから数日でその理由が解った。
食べ物だ。
とにかく、全てが不味い。反吐が出そうなほど不味い。イギリス料理が不味いのはイギリス人も認めてるからまだ可愛いけど、東京の料理はそういうレベルじゃない。同じレシピで作っても東京で作ったら不味い。古いんじゃないのかと思う。スーパーの閉店前の半額になるセールで売れ残っている奴を買って、30度ぐらいの気温の部屋に1日放置して、それを調理して食べたような味。よくこれで腹壊さないなってレベル。田舎だと売れ残ったものや古くなって食べれなくなったものは家畜のエサにするんだけど、多分、東京で食べるものは家畜のエサにすらならないと思う。家畜も鼻を曲げると思う。
しかも不味いのを誤魔化すために味を濃くしている。「味が濃い」って言うと東京の連中は揃いも揃って味覚がおかしいとか言い出す。味覚以前にじゃあ素材のまま食べるとかないの?って感じだ。素材の味を楽しむっていう感覚もないみたい。
どう考えても40代でガンとかありえない。なんで東京に行った後に肺炎になるのかもわからない。しかももう5年経ってるのに風邪、肺炎、風邪、肺炎っていうのを繰り返してる。
あと、電車とかバスとか公共機関は反吐がでそうなほど車内が臭いんだけど、何か家畜でも飼ってるの?いや、牛舎でもあれほど酷い匂いはしない。女はなんかケミカルなずっと匂いを嗅いでるとガンになりそうな臭い。男は死んだカブトムシが腐ったような臭い。香水とかいらないからちゃんと毎日風呂に入って欲しい。それだけで臭いが随分落ちると思う。あと、バイキンが沢山ある場所に行って湿気が少しでもあるとすぐにバイキンが繁殖して臭くなるから公共機関は使わないほうがいいと思う。エコがどうとか言う前に体臭をなんとかしてほしい。東京(というか都会の奴ら)は臭い。
というか、こんな最悪な街が日本の首都っていうのがおかしい。外国人が鼻を曲げるような光景が目に浮かんで、すいませんここは日本の一部であって、クズが集まているだけなんですとか説明してあげたい。まずい料理を食べさせて「これが日本料理だ」とか勘違いされて、海外で酢を使わない寿司みたいなのを作られるもの嫌だ。
これを見て東京に住んでる奴は発狂するだろうけどさ、東京って田舎からの出稼ぎ労働者が集まっているだけで結局田舎者(田舎ですらまともに暮らせなかったクズ)が集まって出来た街なんだよ。またはそれの二世、三世。そんなクズが日本の首都っていうだけで鼻に掛けて偉そうにしてる。本当に恥ずかしい街。
でもこのまま首都のままであってほしい。
これからもクズの収容場所になってほしいです。