なんか知らないけど暇な人なんだね。
おっとい嫁じょとはいわゆる略奪婚の慣習であり、「婚姻に同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する」習慣のこと。
なぜか都市伝説扱いされることもあるが、実在した風習であり、昭和34年(1959年)に強姦致傷で男性が逮捕、有罪となったことから全国的に有名になった。
事件を契機に、おっとい嫁じょの習慣の存在、村を挙げて男性を無罪にすべく署名が集められたこと、弁護人も違法性の認識を欠き無罪である旨主張したことなどが大きく新聞等で報道されたためである。
昭和34年というと大昔のように思う人もいるかと思うが、同風習が昭和34年に廃れたとしても、これににより夫婦となった者はいまだ十分存命であると考えられる(若ければ70程度か)。
両親がおっとい嫁じょにより結ばれたという人も、50代40代にはいることだろう。
判旨を引用する。太線、■は増田。鹿児島地判昭和34年6月19日。
主 文
理 由
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和三十四年一月十五日頃、その義兄である■■■から早く婚姻するように勧められたので、被告人もその気になつて南に年頃の娘の紹介を依頼したところ、南の計らいで同月十九日鹿児島県肝属郡串良町細山田■千■百■十番地乙野次郎方において、同人の長女A子(当二十年)と会う機会を得たが、被告人は忽ち同女に想いを寄せるに至り、その場で同女に婚姻の申込をなしその後二回にわたつて同じ申込を繰り返えしたが、同月三十日には同女の兄B男を通じて右申込を拒絶された。然し、被告人はどうしても同女との婚姻を断念できないので、同女を強いて姦淫したうえ同女をして止むなく婚姻に同意させようと考え、同年二月五日■方において■、ならびに■■こと■■■■■と相談の末、翌六日同女が鹿屋市所在鹿屋職業安定所に行くのでその帰途を三名で待伏せて無理にでもハイヤーに乗せてどこかに連れて行き、更に婚姻の同意を求め、それでも応じないときは夜になつてどこか知人の家に連行し、被告人において同女を強いて姦淫することに計画を決め、翌六日午後零時過ぎ頃、被告人等三名は前記安定所附近において同女を待伏せ、同女を附近の食堂に連れ込んだうえ、再び婚姻に同意するように説得したが、同女に拒絶されたので、ここに、被告人等三名は前記計画を実行に移すべく意思を通じ、同日午後三時頃同市向江町■■医院先路上において被告人は前方より同女の手を引き、■、■■■等は後方より同女を押す等して同女を無理に前もつて被告人が誘導して来ていたタクシーに乗せたうえ囎唹郡大崎町方面に連行し、同町所在の食堂において時間をつぶした後、同女をその自宅に連れて帰ると欺いて再び同女をタクシーに乗せ、途中下車させてくれと懇願するにもかかわらず、タクシーの戸を押えて脱出を不能ならしめたうえ同日午後六時過頃、同女を肝属郡串良町有里■千■百■十■番■■■■■方に連れ込み同日午後十時頃、被告人は前記連行により極度に畏怖している右A子を同所四畳半の間において仰向けに押倒し右手で同女の両手を同女の頭の上方に押えつけ、足で同女の股を蹴る等の暴行を加えて完全に同女の反抗を抑圧したうえ二回にわたり強いて同女を姦淫したがその際同女に対し治療五日間を要する処女膜裂傷を負わせたものである。(証拡の標目)《略》(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法第百八十一条第百七十七条第六十条に該当するので所定刑のうち有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法第二十一条を適用して未決勾留日数中三十日を右本刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により全部被告人に負担させることとする。(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は「被告人の住居地である串良町地方には婚姻に同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する「おつとい嫁じよ」という慣習があり、右姦淫行為は一般に適法視されている。被告人も右慣習の存在により本件姦淫行為を適法行為と確信し、その違法性の認識を欠いていたから本件行為は、その故意を欠くものである。」旨主張するが、少なくとも本件の如き自然犯にあつては違法性の認識は故意の成立要件ではないと解せられるのみならず被告人の当公廷における供述同じく検察官に対する供述調書によれば、被告人が右の如き慣習が反社会性を帯びるものであることの認識を有していたことが明らかであるから被告人は違法性の認識を有していたものと認むべきであり、弁護人の右主張は採用しがたい。
よつて主文のとおり判決する。
昭和三十四年六月十九日
昭和34年に集団強姦罪はなく、強姦致傷罪の法定刑も今より軽い。なお、処女膜裂傷が強姦致傷に当たることは現在では確定判例(最決昭和34年10月28日刑集13巻11号3051項)である。
弁護人の主張、「自然犯にあつては違法性の認識は故意の成立要件ではない」との判示については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98など。現在では自然犯、法定犯の区別はぴんとこないかもしれないが。
上記判例より、おっとい嫁じょの慣習のあった地域は鹿児島県肝属郡串良町地方であることがわかる。
現在では、平成の大合併により、鹿児島県肝属郡串良町は鹿児島県鹿屋市の一部となっている。
しかしながらこの文章を書いているいま、私が検索したところでは、串良町地方とおっとい嫁じょを関連づける文献がインターネット上には存在しない。
なるほどおっとい嫁じょは現行刑法下では犯罪となるべき行為である。
しかしながら、我が国日本に古来より伝わる文化のひとつでもあり、これをなかったものとし徒に無視することはひとつ文化の損失であるといえる。
そこで、差し出がましいかと思ったが、串良町とおっとい嫁じょを関連づけるべく、本記事を書いた次第である。
失われゆく日本の文化が何らかの形で保存されることを切に願う。
そう簡単に結論づけていいのかどうかな、と思ったんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20110902215943
空気が苦手な俺がおまえにレクチャーしてやる。空気を読む為に必要な知識は一つ。
空気が漂っている時、俺やおまえ以外の奴らは、その場の会話/会議/ディスカッションその他のコミュニケーションによって、問題の解決/真実/解決手段その他の回答を導こうとは、全く思っていない事だ。
一般的に考えれば、コミュニケーションは理解を深める為の手段だろう。情報を持ち寄って交換するとか、新しいアイデアの発見とか、何か生産的な行為であるべきだ。
しかし一度空気が漂ってしまえば、そうではなくなる。空気が読めるかどうか、が試されるだけだ。
空気とは何か。それはユリウス・カエサルが教えてくれる。「人間は自分が信じたいことを喜んで信じるものだ」
それ以外の信じたくない新しい提案は相手にとって聞く価値が無いのだ。
http://www.oecdtokyo2.org/pdf/theme_pdf/education/20080909eag2008.pdf
OECD 加盟国の中では、男性の大学進学者数が女性を上回る国は日本、ドイツ、韓国及びトルコのみであり、その差は日本が最も大きい。日本における大学型高等教育機関への進学率は男性が52%、女性が38%であるのに対し、OECD 平均では男性50%、女性が62%である。
男女平等が進むと女性の方が大学への進学率は上がるのに(それこそ男性は学歴がなくても体力でどうにかなる仕事があるから)、日本はまだ女性の方が進学率が高くてしかも男性との格差が一番低い、と。
日本の女性は男性に比べて浪人を禁止されたり教育費を抑制されるから大学に行ける学力を持っていても短大に進む人がいるため短大進学率が上がると。
何も矛盾してないじゃん。
例えば私は神戸で生まれ育ったが、神戸の人という感覚はあるが、兵庫県の人という感覚は全くない。皆無。でも日本人という感覚はさすがにある。日本人でない人と日本人との差異があまりにも大きいからだろう。ベン図などで書けばよくわかるのだろうけど、これらの感覚は相対的なものだとおもう。
沖縄のアイデンティティを持つ元増田も、日本人というグループ内で共通した感覚に違和感を覚えたとしても、地球人、アジア人という感覚はさすがにあるだろう。逆にフィリピン人やチベット人としての感覚は無いだろう。
国家は人間の集合体。人間とありんことは違う。国家はありんこの集合体ではないのだ。均質である必要は全くない。また、歴史的にも国家ってのはだいたい複数の民族の連合国家だ。だから沖縄が日本の一部かどうか、なんてことは文化の独自性を維持する上では大きな問題にはならないと思う。そもそも沖縄は地球上の国及び地域の一部だ。47都道府県全てがそうだ。国家というものは、それぞれの地域がひとつの国家として共同して秩序の形成に取り組むという同盟を形にしただけにすぎない。
たしかに日本固有の領土とか、不可分とか表現することはあるが、滅亡した国家に固有のものが無いように、これらの表現は政治的なものだろう。文化も同じだ。
私は、沖縄は文化的に日本と一緒じゃないし、行政的に日本の一部だけど、だからって独自性を捨てるとかもったいないことしなくていいと思う。
ほとんどの人に幽霊は見えないわけですが、ごくたまに、見えちゃう人がいるんです。
見ちゃった人は、「幽霊は絶対にいる!」「あの場所には崇りがある!近付いちゃいけない!」
なんて、声高に叫んで周りに注意を促すわけですが、周りの人に幽霊は見えないので、
見ちゃった本人にとっては、「幽霊を見た」という事実があるので、
「暗かったから、柳の木が揺れてるところを幽霊と見間違えたんじゃない?」
なんて諭しても、幽霊の存在を否定されてしまうと、自分自身の否定にもなりかねないので、聞く耳をもちません。
「あれは柳の木だから。おまえらの見間違いだから」 By フジテレビ
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/company/news/110902.html
電凸、抗議デモ、スポンサー不買運動等々、こういう手口って昔は左派がやってたことだと思うんだが。
数の力で相手が対処できなくなるまで追い込むやり方は、市民運動や総連、民団、解同の常套手段で、
自分が具体的になにか該当する行為をした覚えがなくてすごく当惑してしまった。
せめて「〜するってデリカシーないと思うなぁ」くらいの発言だったら
「空気読めないね」も嫌な言葉だけれど、ニュアンス的にあれよりまだこちらの方が良い。
「鈍感だよね」もパラフレーズだけど、やっぱりこういう発言ってものすごく気持ち悪い。
どこがどう鈍感なのか、どこがどう空気読めてないのか、どこがどうデリカシーないのか
教えてくれもいいんじゃないかなぁって思うんだ。
暴力度の高い言葉を選ぶ連中に共通するのは、性格の悪さだと思う。
「空気読めよ」
「どこが?」
「おまえわかってねえの?これだから空気読めないヤツは・・・」
と、なるわけ。
空気読めないからわからないし、一層空気読もうとして原因も聞けなくなるし、わっけわかっんね。
デリカシーって、delicacy 気配りとか配慮って意味だよね。
それを考えると「デリカシーないね」って言えること自体がデリカシーない行為なんじゃないのかしら。
俺みたいな人間に対する気配りとか配慮がねえよ、わかりやすく言えよ。