はてなキーワード: 因果応報とは
その因果はお前にしか返ってこんぞ。頭の悪い人間が割を食うのはなぜか?頭悪いから他人に加害を平気でするし、それを頭悪い理論で正当化するの。だからその因果が巡って割を食うの。頭悪いというのは罪。お前の罪。お前さんが因果応報を唱えなさんな。賢しらに「因果応報がめぐるから」みたいなことを言って黙らせた相手が、お前さんを加害者の一員とみなして復讐にくるぞ。巡り巡ってお前さんに返ってくるぞ。因果応報を安易に唱えなさんな。ちゃんと何が起きてるか、誰が加害して誰が被害を受けて、誰が怒ってるか、確認してから喧嘩の仲裁に入りなさい。頭悪い人間が因果応報を唱えると、加害者の仲間になりがちだ。因果応報を唱えなさんな。積極的に加害者になりなさんな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda
返信
賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う
https://togetter.com/li/1443974
このまとめのツイ主は「ポニョのキャラがスピード違反をしていたからポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ
これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れな煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)
また、「そうだよね、因果応報は大事だよね」というのは実は足りない
例えば物語の現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ
それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は2で
また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない
じゃあ何なのか
答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉は意味がふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める
ア:作者が現実世界と物語世界の世界観の距離を把握しているように見える
イ:作者が物語世界の世界観と物語中の個別の出来事の距離を把握しているように見える
(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)
この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく
これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない
今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチと意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的な距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)
話がめちゃくちゃ過ぎて客観的な距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある
(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)
ただそういう傾向があると言うことしかできない
わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる
そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している
これは作者が平和な現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす
これは作者が平和なコナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす
現実世界の世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく
すると作者が想定している(作者の時代の)現実ー物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実ー物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしまう
古い物語などで「時代的に差別的な描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ
(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)
具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう
サムライ8は
主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している
妹の姉は
作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準で普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹の関係性の話にしたかったんだろうと思われるが
こちらからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本でヌードモデルの同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準で普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える
ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界に必死で迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ
この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報は大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラが幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界の世界観とそのキャラの言動の距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番で効果の高い方法だ
ただしあくまで方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない
「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい
作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが
単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関
「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは、現実世界と物語中の個別の出来事の距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるからだ
これ作品の評価とはあまり関係ないくせにわかりやすいのでこういう輩に使われやすくて困る
「どうしてもグロが見られない」「子供や動物が死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが
私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲームの説明に明記してあるから
こういう表示には2種類の効果がある
1つ目は子供に触らせないこと
2つ目は「作者はこれを過激な表現だとわかっている」というアピール
この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
っていう条文があったのか
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda
返信
賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う
https://togetter.com/li/1443974
このまとめのツイ主は「ポニョのキャラがスピード違反をしていたからポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ
これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れな煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)
また、「そうだよね、因果応報は大事だよね」というのは実は足りない
例えば物語の現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ
それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は後ほど
また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない
じゃあ何なのか
答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉は意味がふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める
ア:作者が現実世界と物語世界の世界観の距離を把握しているように見える
イ:作者が物語世界の世界観と物語中の個別の出来事の距離を把握しているように見える
(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)
この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく
これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない
今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチと意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的な距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)
話がめちゃくちゃ過ぎて客観的な距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある
(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)
ただそういう傾向があると言うことしかできない
わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる
そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している
これは作者が平和な現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす
これは作者が平和なコナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす
現実世界の世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく
すると作者が想定している(作者の時代の)現実ー物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実ー物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしまう
古い物語などで「時代的に差別的な描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ
(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)
具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう
サムライ8は
主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している
妹の姉は
作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準で普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹の関係性の話にしたかったんだろうと思われるが
こちらからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本でヌードモデルの同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準で普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える
ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界に必死で迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ
この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報は大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラが幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界の世界観とそのキャラの言動の距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番で効果の高い方法だ
ただしあくまで方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない
「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい
作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが
単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関
「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは、現実世界と物語中の個別の出来事の距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるからだ
これ作品の評価とはあまり関係ないくせにわかりやすいのでこういう輩に使われやすくて困る
「どうしてもグロが見られない」「子供や動物が死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが
私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲームの説明に明記してあるから
こういう表示には2種類の効果がある
1つ目は子供に触らせないこと
2つ目は「作者はこれを過激な表現だとわかっている」というアピール
この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
っていう条文があったのか
「縁あって」「幸運にも」愛する人と出会い苦しくて死にたいとも思うような人生から抜け出せたような気がする←わかる、お幸せにね!
お前の子供も苦しい人生を送る可能性が高いだろ!お前30年間何を学んできたんだ?喉元過ぎれば熱さ忘れるっていうけど、さすがに鳥頭すぎませんかね。
お前がこれまでに感じてきた苦しさ、この世への絶望、死んでしまいたいという気持ちはなんだったんだよ。生殖本能にそんなに簡単に負けてアッサリ子供を作る方に行ってしまうことに恥ずかしさは覚えないのか?
お前の子供はお前が感じたような絶望を感じないと思うのか?受験戦争→就活→労働の黄金コンボを受けてもまったく人生がイヤになったりしない社会適合者が産まれるに違いないと思ってるのか?産まれたらいいねえ!
多分そうはいかねえぞ。家庭環境がショボいんならもはや本人の資質に期待するしかないが、ショボい環境から人生を謳歌できるやつが産まれる可能性なんてごく低いだろ。お前と同じように死にたい死にたいなぜ産まれないといけなかったんだと思いながら生きていくようになる可能性の方がよっぽど高い。
お前みたいに「縁」があればいいが、それが「幸運」にすぎないというのはお前も認めるところなはずだ。生涯未婚率なんて今の時点で2割もあるわけで、今後上がりこそすれ下りはするまいから、お前の子供はけっこうな確率で生涯未婚になる。
なんの意味もなくて何も残せなくても暮らしそのものが楽しければいいよな。俺もそう思うんだけど、正直そんな世の中になるビジョンは見えないよ。機械技術がいくら発展してもそれで楽になるのは資本家階層だけ、「人間は機械より安い労働力」になることはあっても労働から解放されることはないんじゃないかと思う。これは被害妄想的な考えだけど、たぶん金持ちは踏み付けにできる人間が欲しいんじゃないかな。みんながみんな働きもしないで趣味をエンジョイして楽しく生きる世の中じゃ階級にもあんまり意味がないじゃない。だから、下の階級のやつにまで楽しみを与えるようなことはしない。意味のない仕事を延々やらせ続けて苦痛を与え続け、それを見ることで自分の幸せを実感する、そういう構造の社会にしかならないんじゃねえか。
ダメだよこの世は。お前はそれを知っていたはずなのに愚かにもチンポに支配されて可哀想な子供を生み出してしまった。最悪だよ。
まあ人間いろいろだし、逆境に負けず「生きてて楽しい!」なんて言うガキが生まれてくる可能性だってゼロじゃないけどな。本当にそうなるといいよな。お前が子供から「産んでくれなんて頼んでない!」って言われて落ち込むのは因果応報だし別にどうでもいいんだけど、そんなことを言わないといけない子供は純粋にかわいそうだ。
賭けに勝てるといいなあ。俺は可哀想な存在を一方的に生み出す可能性がある賭けをしたって時点でお前を心底から軽蔑するけどな。
もうあとほんの少しでも衝撃がきたら、心が根元からボッキリいってしまう気がする。
だから、まずは自分がやろうやろうと思っていたことを今日から継続して行おうと思う。
三日坊主なきらいがあるので継続できない可能性もあるが、とにかくやる。
逃げ場がない。作らねばなるまい。
ずっとやりたいと思っていたことを蔑ろにして、毎日毎日心をすり減らして、
洗い物する気力も料理する気力も、やりたいゲームをする気力もなく、
買ってきた弁当なり総菜なり食って寝るだけ。
もう少し寝れると思っても目は冴え、横になっているうちに準備する時間になる。
シャワー浴びて弁当詰めて、(最近は上記の通り晩飯作る気力すらないので冷食か諦めてスーパーで買う)
8時前には家を出る。
最近だと家に着くのはそこからまるっと12時間後の夜8時ぐらい。
そこから色々やってとなると、気力がない。
お腹空いてるからすぐご飯食べたいと思うしでも飯作る気力はないしゲームもやりたいしでも明日の準備もしなくちゃだしなんてしてるうちにそろそろ寝るべき時間になっている。
(ひどい人はもっと早くから遅くまでなのだろうが、だからといって私がつらいわけではない。そりゃあ私よりつらい人は山ほどいるだろう。恵まれている方なのかもしれない。それでも私がつらいと思ったことは私の「つらい」だし、同様に私よりつらい環境の人もその人の中で「つらい」だけだ。お互い別個の「つらい」だから比較対象ではない。キャパも違うし)
こんなご時世だから仕事辞めたところで職にありつけるのか謎だし、こんな心持で転職できるのかも危ういし、そもそも勤め人むいてるのか?って思う。
むいてる人なんていないのかもしれない。それでも周りの人間はそれなりに仕事ができて、「めんどくせー」なんていいながら仕事してる。
私から見ると「この人たちは適合できているんだな」と純粋にうらやましく感じる。
最初は「学生気分ぬけてないなこの人ら」と思っていた私だが、ふたを開けてみれば私の学生気分が抜けてないだけで、周りはとっくに「卒業」していた。
「ミイラ取りがミイラになる」なんてことわざ、存在は知っていたけれどまさか私がその当事者になっていたとは。
まあミイラ取りでもないんだけれど。元からミイラだったのかもしれない。生きる屍。うーん否定しきれない。
振り返れば今まで、なにか明確に自分で道を決定したことがなかったような気がする。
なんとなく楽しそうだから、なんとなく楽そうだから、何となく面白かったから、何となく受かったから。
色々考えて生きてきたつもりでも、全然考えて生きてこなかったんだな。ウケる。
因果応報な気もするが、ただはき違えたくないのは「仕事の為に生きる」のではなく、「生きるために仕事をする」というのが本分であるということ。
仕事なんか(もちろん今している仕事が好きな人とか趣味を仕事にしている人もいるだろうが)のために命削るのばかばかしくないスカ。
「社会的責任が~」とか正直「うるせえ!」って思いませんか。私の人生は私の人生だ。犯罪を犯したとか倫理的に問題があるとか、そういう事ならまだしも別にただ生きてるだけでなんで属してる組織や社会に捕らわれきららねばならんのだ。息継ぎするスキマぐらい存在したっていいだろうが。
楽しいだけの人生がないのは何となくわかるけど、だからと言ってなるべく多くの「楽しい」を得られるように生きちゃダメなのか?
ダメって言われてもなるべくそうありたいからその問いかけは無駄なんだけどさ。
一日目終了、反撃の狼煙。
なにへの?
久しぶりに文章打ってて気づいたことは、このPCクソもっさりだし延々とファン熱いしうるさい。
あと ”「” キーがなんか詰まってるのかめっさ押しづらい。新しいPCほしいな。
あとさっき久しぶりに趣味を行ったら(って表現であってるのかしらんが)すごい楽しかった。
本格的に学ぶとなると金もかかるし継続できるか別だろうけど。でもやってみたい。
やりたくないことやるのってエネルギー消耗するけど、やりたいことをやるってエネルギー湧くな。
いいことに気づいた。それだけでもこれは収穫だったかもしれない。
私に痴漢してきた男が、実際にその報いを受けるかどうかは重要ではない。
因果応報、つまり世界公正仮説のヤツは自己責任論につながるから危険だ、と、もっぱらインターネット言論界では不評だけども。
でも、自分に悪いことをしてきたヤツは悪いことが起きるに違いない、と信じることで
心理的な負債をゼロにリセットするという救いも齎すこともあるのだなあ。と。
でも後半では「許せるか否か」に変遷してるけど・・・。
ああ。
自分も、その「実際のところどうなのか」を確認できない、白にも黒にもつけられない物事が多くて。それを杞憂することが多いんだ。だから、
「確認できないけど、きっと<自分の人生にとってプラスな方向の解釈>だと、そう信じてる」って、信じることに背中を押してほしいんだよな。
科学とロジカルシンキングの人間なので、根拠、エビデンスのないものを信じられないんだよな。でも信じたいんだよな。という葛藤。
小6の時に痴漢に遭った。
静かな住宅街で人通りはない。
蝉の声に混じって、背後からバイクのドッドッドッという音が聞こえてくる。
私の歩く速度と同じぐらいの速度のバイク。
近くでバイクを停めようとしているのかな?と思っていたが、視界の左端にバイクが入りこんできた。
さすがに違和感を覚えて隣を見たら、バイクに乗った20代と思しき男性が私の左胸をもみゅっと揉んだ。
驚きのあまり声も出ず、バイクが前方のY字路の右の方に走り去っていくのを呆然と眺める。
とにかく学校に行かなくては、と歩き始めてしばらくすると、今度はY字路の左の方から痴漢がこちらへ向かってくるのが見えた。
走って逃げても追いつかれるしどうしようどうすればと考えているうちに、痴漢は私の真正面にバイクを停め、私の胸にまたしても手を伸ばしてきた。
私はその手を払う。痴漢はまた手を伸ばしてくる。また払う、払う、払う、払う、払う…それを何度繰り返したかわからない。
鋼の錬金術師で、真理の扉から這い出てくる無数の手に”持っていかれる”シーンがあるけれど、この時の痴漢の手はまさにそんな感じだった。
どうしてそんなに胸が揉みたいのか、訳が分からなかった。
執着心が怖かった。
手が汗ばんでいる。
日差しがきつい。
木陰の葉っぱの模様が手の甲に浮かぶ。
蝉の声がうるさい。
震えながらも「やめろ!」と大きな声で叫んだら、痴漢はY字路の下の方へと逃げ去っていった。
机の上に置いてあった筆箱をわざと落とされたり、貸した消しゴムを全部使っちゃったと言って返してくれなかったり、通りすがりに肩をぶつけてきたり。
半年が過ぎたあたりで席替えがあり、彼の隣の席になってしまった。
他の子と席をトレードしているところを見かけたから、偶然ではない。
授業中もしつこく絡まれて最悪だったが、近くの席の女子が彼の発言に本気で怒ってくれて、その後彼は担任の先生にも叱られていた。
それからは関わることがほぼなくなったが、また別の男子による好きな子いじめに遭った。
ひとつひとつは些細なことだったが、さすがに半年以上続くと心がじわじわやられていく。
これが好きという感情によるものなら、一生誰にも好きになってほしくないと心の底から思った。
学年が変わる頃には、男性に性的感情はおろか恋愛感情を抱かれることすら嫌になってしまっていた。
学校の近くによく出没した、携帯電話を耳に当てながら自分の性器をいじっていたお兄さん。
電車で隣に座って寝たふりをしながら、膝上の鞄の下から手を伸ばして私の太腿を触ったおじさん。
自転車に乗って、下半身を露出させながら話しかけてきたお兄さん。
久々に会った時に急に胸を触ってきて、「小さいな」と言った親戚のおじさん。
男性だけが死ぬウイルスや毒が発明されないかなとか、男性全員の性器を刈り取って回りたいとか、とにかくこの世の男性全員死ねと思っていた。
男性に好かれないための弛まぬ努力を続け、私の中学・高校生活は終わった。
当時の私は人間がこの世をどう解釈してきたのかに興味があり、哲学や宗教、その他ジャンル問わずいろんな本を読みあさっていた。
男友達ができた要因はいくつかあるが、仏教思想に触れて精神的に落ち着いたことが大きい。
私に痴漢してきた男が、実際にその報いを受けるかどうかは重要ではない。
そう信じることで、自分以外の何かに託すことで、憎しみを手元に置いておかなくても済むのだ。
自分で裁かなくてもいいと気付いてからは、男性を攻撃する気持ちが薄れていった。
そして男友達のおかげで、私は男性に対する偏見や固定観念を少しずつ捨てることができた。
彼と将来の夢を語り合ったことを今でも覚えている。
それでも、駄目だった。
季節が一巡して、彼が私に恋愛感情を抱いていると知ってからの、拒絶反応はすさまじかった。
彼と姿かたちが似ている人を見かけるだけで、怖くて気持ち悪くて息が止まる。
これは男嫌いじゃなくて男性恐怖症なんだ、とその時になってやっと気付いた。
彼と直接話をすることはとてもできなかったので、手紙をしたためた。
昔痴漢に遭ったこと、男性に恋愛対象として見られることが怖いこと、これは私の問題で彼は何も悪くないこと、彼の幸せを願っていること、これから私は1人で生きていくだろうこと。
そうしたら手紙でお返事が来た。
私を責める言葉はひとつもなく、最初から最後まで優しさにあふれていた。
私の過去と現在を受け止めて、真っ暗な未来に蝋燭を灯してくれるような。
『これから先、笑って、泣いて、怒って、楽しんで、可能性は誰にでも平等だと思う。現実はこんなだけど、先は分からないよ。』
本当に誰よりも、私自身よりも信頼できる人だった。
だからこそ、それでも駄目だった、という事実が重くのしかかった。
大学を卒業してからは、夢だった職に就いて仕事に没頭している。
今では性別に囚われずに、人と関われるようになったと思う。
初対面の男性に対しては目が泳ぐこともあるけれど。
恋愛感情を抱かれても告白されても、もう男性に対して気持ち悪いとは感じない。
同じ気持ちになれなくてただ申し訳ないと思う、自分の変化に驚いた。
今でも、背後からバイクのドッドッドッという音が聞こえてくると、呼吸が乱れる。
自動販売機やポスト、誰かの家の前を通りがかる時などに、極稀にそういう場面に遭遇する。
その度に鞄を胸に抱えてやり過ごしては、私はまだ大丈夫ではないと思い知るのだ。
痴漢に遭うよりも前、好きな男の子とポケモン交換をして笑っていた私は、どこに行ってしまったのだろう。
私の中にあるはずの恋愛感情は、眠っているのか壊れてしまったのか、分からない。
それを自然なことだと信じて疑わない人たちは、さも不思議そうな顔で「結婚する気はないの?」と聞いてくる。
それ以前の段階で躓いてしまった私には、その選択肢すら頭に浮かぶことはない。
胸ぐらい揉ましてあげればいいじゃないか。
男女問わずそう言う人をこの目で見てきた。
それが生きる知恵だとでも言いたいのだろうか?
ただただ痴漢にとって都合がいいだけで、私やあなたを救いもしないのに。
これは胸とか尻とか、体の部位の問題ではない。
許可なく体を触ってもいい、自分の好きにしてもいい存在と見なされることが、どうしようもなく耐えがたいだけだ。
その手が今、偶然にも私に伸ばされていないだけだ。
自分で選んだ覚えもない人間という種に生まれて、人間扱いをされたりされなかったりする。
こんな馬鹿げた話があるか。
私も人間だ。
それだけのことがどうして難しい。
いっそ心ない畜生ならよかった。
命すらなくてもよかった。
私が痴漢に遭ったことも、私が生まれたことも、この世に溢れるたくさんの嘘のひとつなら、どんなにかよかっただろうに。
---
この文章は性犯罪の被害者へのセカンドレイプが、今ほど問題視されていない頃(とはいっても数年前)に書きました。
当時投稿しなかった理由は、エイプリルフールに投稿しようと思っていたのに、エイプリルフールまでに書き終わらなかったからです。
次の年にはすっかり忘れていて、最近蝉の声を聞いて存在を思い出しました。
読み直していたら涙が出てきたので、もうこのまま当時の文章のまま、えいやっと投稿します。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
---
結局この人はどうしたいんだろう?どうなりたいんだろう?
どんな人にも、あの時こうしていたら、あの時ああしていなければ、などの過去のたらればがある(あった)と思います。
私の場合、最も頭の中で繰り返したたらればが、小6の時に痴漢に遭わなければ、だったのです。
でも時間は不可逆で、その願いが叶うことはないのだから、どこかで現実を受け入れる必要があります。
そのための行為が文章に一切合切吐き出すというもので、内容は自分が思っていた以上にどろどろしたものでした。
こんなの毒状態で生きてきたようなものじゃないか?と半ば呆れました。
増田に投稿したのは、客観的な意見を聞いてみたかったからです。
この文章は私にとっては私の半生ですが、結局主観でしかありません。
結果としていろんなコメントをいただけて、自分を見つめ直す良い機会になりました。
私は穏やかに暮らしていきたいです。そう言葉にした時に、今の暮らしはまさに穏やかじゃないか?と思いました。
今日は観葉植物の植え替えをして、ちょっと掃除機をかけて、ごはんを食べながら姫様拷問の時間です(ギャグ漫画です)の最新話を読んで、昼寝をして、仕事関係の勉強をして、この追記を書いています。
今は自粛中なので、時機を見てカウンセリングに行ってみようかなと思います。
学生の頃はお金がなくて、その選択肢が浮かんでは消えていました。
2人目も女の子だったから、増田ちゃんが生まれた時お父さんはパチンコに行っていた、と母から何回か恨み言を聞かされていました。
二次性徴が始まった頃、自分が父の望んだ男の子ではなく女の子であるという現実を突きつけられ、自分の性別をうまく受け入れられませんでした。
そんな折に痴漢に遭ったので、余計にショックが大きかったのでしょう。
余談ですが、私が高校生の頃、姉からブスというあだ名で呼ばれていました。おい、ブス!みたいな感じです。
母からお見合いの打診を受けたことをきっかけに家を出ましたが、まず家に問題があったなと今改めて思います。
因果応報でググってみましたが、確かに自分の都合のいいように独自解釈して歪めていますね。
少なくとも自己責任と同じように、他人に対して向ける言葉ではないと思いました。
ご指摘ありがとうございました!
私に痴漢した男性も、誰かにやられたダメージを私に返したのでしょうね。
男友達が私を許してくれた時に、私も私に痴漢した男性のことを許そうと思えました。
でも本当に許せているのか、今も自信はありません。
腐女子のお気持ち長文が増田に少なくなってきて悲しいというリクエストに応えて長文を描こうとしてみむとてするなり。
私は年季の入った腐女子でありTwitterで二次創作絵師をやっている。実力は中途半端フォロワー数も中途半端、いいね数は毎投稿大体3桁前半、時流に乗れば4桁行くこともたまにある、程度の絵師である。
そんな私であるが、オタク女お気持ち増田流行のきっかけとなった件のおけパ中島の漫画、あれは私の心に痛烈に刺さったものだった。なぜなら現在絶賛進行中で私はとある字書きを崇拝していたからだ。その字書きが、ある神絵師に声をかけられ、明らかに自分に対してのものとは違うテンションで対応しているのを見てしまった。その翌日にオパ島の漫画を読んだ。
私の心は沈んだ。
自分の心の醜さを形を取って見せつけられるというのは辛いものだ。実は以前増田で私も似たようなことをしてしまったことがある。その時私の書いた日記のツリーにぶら下がった「自分の中のモヤモヤが明確に言語化されることが辛い」というコメントが印象に残っているがこれも因果応報というものだろうか。
私の崇拝する字書きが神絵師に声をかけられている瞬間を目にした時私の心に湧いた感情はまぎれもない憎悪だった。この字書きは私より神絵師と仲良くすることを選ぶだろう。それは当たり前のことだ。大企業の役職者と下町の職人、どちらと仲良くしたいと思うかは明らかなことだ。悔しい…悔しい…私もこの神絵師並みに認められるようになれれば、皆から求められるようになるのに…
私はその神絵師をフォローした。好意からではない。その神絵師の絵の魅力は誰をも認めるところではあるし、私自身もその魅力を理解している。しかしこの際そんなことはどうでもいいのだ。
しかしここで予想外のことが起きた。その神絵師がこちらをフォローバックしてきたのだ。
予想外の事態である。私は混乱した。神絵師のフォローはフォロワー数より圧倒的に少ないものだった。なぜこの人物が私をフォローしたのか、理解不能だった。そして自分にとっては 最も悔しかった部分はここだ。私はその神絵師からのフォローバックをはからずも嬉しいと思ってしまったのだ。なんたる無様。なんたる意思薄弱。この神絵師は最も有効な手段で私の悪意を無効化してしまったのだ。
それ以来、なんとなくTwitterをのぞく気力が削がれ、絵も書くことなく日々を送っている。
オパ島の漫画は、ある意味希望に満ちたものだ。登場人物たちは悪意に溺れることもなく、お互いの情熱に折り合いをつけながら生きていく結末が示唆されているように思う。しかし現実では、多くのバラバラな事象が積み重なり、それが有効に機能することもなく、ブロック崩しのように崩れてしまうことが常である。私は崩れた自分の気持ちをいかに処理すべきか、考えあぐねながら、こうして増田に駄文を書き連ねている、とまあこういうわけである。
なぜ酒がセーフなのかが分からない……
上の増田もそうだが、自分が使わないものは、危険だから存在してはいけないと決めつけるのが、最近の増田の流行りなの?
どうして、自分の趣味や嗜好がいつか同じ目に合うことを考えないんだろう。「ばいく」も同じじゃん、って言われたらどうするの?
そうやって、「危険」な隣人と共存する方法を模索せずに、自分の思う「危険」性だけ強調して、行動の自由をお互いに放棄させあう風潮がマジで怖い。
なんで「匿名性を活かした自由な表現」が書けるはずの増田の記事から、そういう自由性を放棄する風潮が出てくるんだろ。
別にスポーツ自転車も酒もどうでもいいが、自分に自由が許された場で、自分以外の自由を放棄させる記事を書く気持ちって何なんだろ。因果応報とか考えないんだろうか。
なんでも通勤では外の目が気になるのでマスクつけているが、本当はそれすらも抵抗あるようだ.
「マスクは効果がない」論を早くから掲げ、当初からマスク着用に否定的だった.
彼は経済マッチョ的な考え方を持ち、いわゆる永江一石氏のシンパだ.
永江氏と同様 緊急事態宣言のときでも「コロナはインフルより弱い」「世間はコロナに騒ぎすぎ」という考えが支柱となっている.
彼の意見とは違う立場を取る私はこれに危機感を持ち 数ヶ月自主的にリモートワークを続けているのだが
風のうわさによれば彼もついにコロナにかかってしまった(らしい)
今まで感染症は自己責任ではないという考え方だったが 今回のことを機に考えが変わった.
限られた貴重な医療リソースを「反コロナ脳」の不届き者に割くのは実にもったいないので
全く本気で。
パワハラ野郎どもが社会的制裁を受けずに我が世の春を謳歌している、そんな事例はこの世の中にウンザリするほどありふれてる。
つまり、日本という国が、日本という社会が、パワハラ等の悪行を社会的制裁を受けて然るべき事柄としては現状扱っていないことがよくわかる。
あくまで建前的に許されていないということになっているだけで、実際のところ、この社会はパワハラ等の悪行を、誰が被害者か?どういう状況か?によって、条件付きで不問に付しているということ。
法治国家でありながらも法にもとる行いが許されちゃっている←こういう不完全・不徹底があって、その穴をつく限りにおいては悪行もまあOK♪という歪んだ状態。
そんななかで、被害者だけがお行儀の良さを求められるのはおかしい。
気狂いになるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれるような、理不尽極まる悪辣なパワハラ事例においては、
被害者が法律など度外視でめちゃくちゃにやらないのは非合理的としか思えない。
例えば、
パワハラ加害者の最愛の子供が入園式を迎える日まで待って、満を持してなぶ りゴ ロしにする、
なんて凶行であろうとも合理性は失われないのではないかと思う。
当人をころすとしたら大して苦しまないで因果応報が終わりになっちゃうじゃん。加害者本人の人生が終わるってだけで。
子供は親の因果を背負ってるし、そんな最低の親の遺伝子を受け継いでるし、少なくとも幼い頃はそんな最低の親のことを無条件で慕ってるだろうし。
親の悪行を考えたら、このくらいの悲劇や凶行でも釣り合いは取れる。
自業自得で最愛の子供に復讐の矛先が向けられたとなると、さすがに自分の行いに思いを馳せて気が狂うほど悩み、苦しみ続けるでしょ。釣り合いは取れてる)。
お天道さまは、そうした凶行に及んだ被害者を許すか、あるいは、被害者も加害者もどちらも裁くかだよ。
被害者だけが一方的に傷を負って、加害者は人生を楽しんでいる、というアンバランスな酷い状況を考えてみてほしい。
お天道さまの裁定がどっちのパターンになろうとも今よりもマシだろう。
ここまでの立場になって理不尽を強いられてる、社会公認サンドバッグのパワハラ被害者の発達障害者が社会常識やルールと照らし合わせてこれまで強いられた損害をチャラにできずにいるのはアホくさい。
強姦被害を黙って一生涯自分の責任として反省し続けるくらい馬鹿げてる。
男性と比べ女性は平等でなければならないという拘りが非常に強い
ただし、彼らがこだわる「平等」とは通常使われるそれとはニュアンスが異なり「業」的な感覚だ
つまり
「真面目に生きている人には祝福が与えられるべき」
「かわいそうな人には救いが与えられるべき」
「悪いことをしている人には天罰が下るべき」
女性と比べ男性は「世の中は理不尽であり弱肉強食」という価値観がインストールされているので、上記を男性的価値観で言い換えると
「真面目に生きていても成果に繋がらなければ無意味」
「かわいそうな人は(運も含めた)能力がないからかわいそうな状況になっている」
「悪いことしてても結果を出しているのなら問題ない」
といったところか
この価値観どちらが正しいとか適当かは判断が難しいし、今語るつもりもないが
ともかくそんな女性的価値観で最も重要視されるのは「悪人(=自分が気に食わない存在)が不幸になっているか」だ
悪人(=自分が不快に思っている存在)は「平等」の名のもとに裁かれねばならず、もし自分が不幸な状況であるならば悪人(=自分が許せない存在)はより不幸になっていなければならない
悪人(=自分が見下している存在)が真面目で正しい自分より評価を得ているなんてことは到底許されることではない
そんな価値観だ
なのでスカッとジャパンやそれに類するストーリーは非常に女性受けがいい
もちろん、男性中心のコミュニティである2ちゃんねるで「メシウマ(他人の不幸で飯が旨い)」といったスラングが生まれるなど、男性(的価値観)に上記のような感情がないかと言えばそんなことはない
しかしながら男性的価値観で語られるそれは「人が不幸になることにより相対的に自身の幸福度が上がる(所謂世界ランキング的な考え)」であったり、多重債務者が命がけの鉄骨渡をするのを楽しむようなエンタメ的な文脈であり、あくまで自身の幸福のための「メシウマ」なのだ
なので「悪人」が不幸になっていないことで、自身のメンタルを著しく病んだりすることは稀だ
一方女性(的価値観の持ち主)の場合、この「悪人が不幸になっていない」ことでメンタルを病んだり、場合によっては自傷行為等に至ってしまう程深刻な状況になるケースは驚くほど多い
所謂「学級会」などに代表される男性(的価値観の持ち主)からすれば「いったい何のメリットがあってやってるんだ?」の思われる女性(的価値観の持ち主)や女性(的価値観の持ち主)が多くを占めるコミュニティの事象は、幻想でしかない「平等」を実現するため
「悪人」をより不幸にするため
よく「子供のため」と言って、一般の大人が楽しむある特定の分野の娯楽を禁止しようとする別な大人(親など)が居るが、それが、大人(親など)のエゴイズムであって、「子供のため」にならないことになぜ気づかないのか。つまり、その子供にサービスを提供する一般の大人が、その娯楽を奪われることによって生き甲斐をなくし、だんだん減ってしまって、結果的にその「子供」が将来的に不利益を被る可能性をどうして考えないのだろう。
そのわかりやすい例が少子化だし、自殺者の多さだろう。皆が子供を育てないのは、金がないからじゃなく、大人(親など)が、この世をそもそも楽しくないものにしてしまったからだ。行政が補助金として、いくら金を積んだってダメなのだ。あらゆる娯楽を許容して初めて、子供を産み育てる苦痛が贖われうる社会になるのだ。
それなのに、大人(親など)が「子供のため」だと、大人の娯楽を規制したがために、それが生きづらさからの少子化につながり、その「子供」の世代に、「子供」にサービスを提供する人間がほとんど居なくなってしまうという先送りした因果応報。それは、「子供のため」を理由にして、自分の気に入らないものを潰そうとするエゴイズムを通す大人(親など)から「子供」への素敵なプレゼントなのだろう。まさに「素晴らしき新世界」。ある意味での環境破壊だとも言える。その「子供」自身だって、大人になったらいつかその生きづらさに困り果ててしまうだろう。その頃にはその大人(親など)は居なくなっているから、「子供」が嘆き悲しもうがもう関係ないのかもしれないが。
そして、そもそもその子供を出産した行為自体だって、大人(親など)の娯楽の一つの結果だろう。なに御立派なこと言ってるんだか。子供には出産に至る行為をさせない気なのだろうか。それでいて、子供が成人年齢になって孫を求めてたら満点大笑い。お前(親など)が大人の娯楽を規制するよう努力したせいで、出産につながる行為のやり方がわからないし、相手も尻込みしてんだよ、っていう。
というか、子供を出産することこそ、子供に対する最初にして最大の虐待ではないのか。ここは大人(親など)がまず直視すべき問題。この世に産んだから、子供はあらゆる苦難を乗り越えなくてはいけなくなったのだ。大人の娯楽を社会に対して抑圧するより、出産という自分自身の最大の虐待行為をまず反省すべきではないのか。つまり、怒りの矛先は、社会でなく自分自身に向けるべきである。それこそ、愛すべき自分の「子供」のためにだ。娯楽の反省は社会に対してでなく、子供に面と向かって謝るべきではないのか。
つまりは、「子供のため」と言って、大人の娯楽を抑圧することで生きづらさからの少子化を招き、子供自身の未来を制約するよりも、まずはその出産を子供に「ごめんね」って謝れば許されると思う。それが二重に子供のためだと思う。
ということを書いたのは、最近、分割統治により、他人の趣味や娯楽を抑圧する趣味の人間が増えてきて、怖くなってきたからだ。
一般論として、法的理由も無しに不快感だけで他人の趣味や娯楽を抑圧してはいけない、という事実には皆同意するのに、具体論になると、自らの不快感を唯一の正義として、嬉々として他人の趣味や娯楽を抑圧して楽しむ人々が増えてきたように思う。その一例が「子供のため」というものだ。
いつか同じようにして、自分の趣味や娯楽が不快感だけで抑圧される可能性は考えないのだろうか。自分の趣味や娯楽は不快感が無いと信じているのだろうか。その子育てだって、単なる趣味や娯楽の一つでしかないのに。それとも、自分の趣味や娯楽に矛先が向かないように、他人の趣味や娯楽を槍玉に挙げているのだろうか。みんながもっと趣味や娯楽や自由を限りなく追及するようになればいいのに。
正直因果応報って感じするけど。