はてなキーワード: 難病とは
意味が意味なのでチー牛と同じくらい使うシチュエーションはよく考えなきゃだけど、
メジャーなネットスラングになったので(さやっちとかいう人のニュースでも使われてた)
なんかそういう感じはしないな
チー牛だって障がい者を揶揄するニュアンスもあったが今そういう意図で使うヤツおらんでしょ
気に入らないヤツの叩く時の言葉、『俺インキャだから』みたいに自虐で使う言葉になったわな
ブルーカーラーで筋肉隆々・アスリート/肉体労働者のがっしり体型でも弱者男性とかいう増田あって
おらぁえれぇ驚いたぞ
物理・精神的にある程度タフでも弱者とかもうわけわからなすぎるやろ、難病持ち・障害持ちなら本人がどうしてもと自称するならギリ・・・ワンチャンか?
ちな生き物的に弱そうだと尊重してもらえるのって会社内だけだぞ
ハイブラ付けてようが、客単価高い店行こうが、『見た目が生き物として強そうなやつ』と『イケメン美女』のが扱いがいいぞ
基本的に接客業の人は意識低い人ばかり残る構造になってるので(報われないので意識高い人は別の業界へ行く)、
半期で数百万・数千万積んでれば、さすがにチンパンでも特別扱いしないといけないことは理解するが、その程度だぞ
私は高齢者医療に携わっている医者である。癌は見ず、難病や認知症ばかり診る内科にいる。高齢者の延命治療などが増田やXで話題である。その是非についてではなく、自分が日々感じていることを書く。
急性期治療と慢性期治療の延命処置の違い、疾患ごとの違いなど、延命処置の中にもスペクトラムがあるが、私が関わるのはどちらかというと慢性期治療における延命処置…胃瘻などの誰がみても延命と考える処置をするかどうかに直面することが多い。
高齢者に癌や致命的な心疾患などがなければいずれは寝たきりになり食べられなくなるタイミングがくる。経鼻や胃瘻で栄養を投与したり高カロリー点滴などを継続しないと亡くなる状態になることがある。
その際、栄養投与を続けるかといった延命処置を行うかどうかを家族と話し合う。
実は高齢者の積極的な治療はあまりしないでおこうというのが現代の市中病院の内科医師のトレンドではあり、昔とは違い今は家族が延命処置を希望しないことも多い。家族が胃瘻や中心静脈栄養など希望しなければ生きるには不十分なカロリー量である末梢点滴のみを続け、緩和的に看取る方針になることは多い。
私は10年以上医者をしているが、今でもこの延命処置をしない…自分が命を長らえさせることが出来るのにあえて行わないということを、まるで自分のその人を殺しているかのように思ってしまう。
もちろん延命処置をしないことは自然の流れに身を任せることであり、延命治療を行うことで本人の苦痛が増すのはわかっている。意識や理性がなくなっても痛みや苦しみはわかるはずだ。しかし私が命を捌いていいのかと常に思ってしまう。ICするときに延命治療を強く勧めるわけではないが、家族が延命処置を希望した場合はあまり止めないようにしている。
年次を経ても慣れず、逆に経験が増え、特に高齢者が急性期疾患を合併したときなどで、この人はこのままなら亡くなるが無理矢理栄養投与をしたり、人工呼吸器をつけたりすれば命だけは半年から年単位で持たせられるだろうというのがより正確にわかるようになった。嫌な気分になることが増えた。そういう文字通りの延命が可能なのに行わないと決定したときには命の形に触れる気がする。家族の意見を無視して栄養投与すれば生かせられるがそれをしない。家族に延命を説得することが行えるのにしない。できるのにしないのは自分である。手の平大で少しどろっとした感触で、こぼれ落ちるのをそのままにする。
①玉木が言っているのは、収支報告書の数字だけ見て下げろとイーロン・マスクを真似てやってるだけで、頭で考えて言っているわけではないことは理解した方が良い。
②国民皆保険によって劣悪だった健康が是正され、健康への意識が高まり、低所得者であっても高度医療を受けられるようになり、難病者は本来なら数千万数億の治療費を自腹で払うこと無く受けられるようになった。その恩恵は計り知れない。
ただ国民皆保険は1922年に施行されて何度か改正されているものの抜本的な制度改革をやってきてない。このことについてツッコミを入れるべきで、国民皆保険(国民健康保険)を無くせば解決する話ではない。
③労働改善は会社(病院)と医師である労働者が協議して解決すべきこと。国民皆保険と同列で話すべきではない。
④北米型の医療制度に変えると決まってもそれは10年や20年かけて段階的に変えていく話になるはず。
つい一年前くらいに難病ではないありふれているけど完治はしない病気に罹った。身体のいたるところが動かせなくなって次第に歩けなくなるかもね、くらいの。
いますぐ生死に直結するようなもんではないのが幸なのか不幸なのかはわからん。
最初はなんか肩とか腰とか指とかがいてーなってなって病院行っても四十肩(当時20代だったのに笑)じゃない?とか運動不足とか、しまいには捻挫かもね、で湿布やら出されたけどまったく効果はなし。整体とかもいってみたけど根本的な解決にはならなかった。
日に日に痛みは強くなっていくし、ひどいときにはベッドから起き上がることすらしんどかった。
それが数ヶ月続いてなんかおかしいぞって調べてくれた医者がいて、検査ほか諸々したらほぼその病気に違いない、と。
とはいえ昔に比べたらいまは格段に効く薬があるしまだ若いから全然悲観的にならなくて良いよって言われて、まあそんなもんか、って思ってたんだけど、問題はここからで。
検査終わって病名がわかったその日、遠く(新幹線使う距離)に住む親に電話した。
なんでもこの疾患の原因は大多数が遺伝だっていうから、親戚とかにこの病気のひといたっけ?って聞くために。遠縁にひとりいたはず、と答えが返ってくると同時に、もちろんなんで?と聞かれるわけだ。
で、別にいますぐ命に関わるわけでもないし、病気になった旨伝えたらまあ騒ぐ騒ぐ。
検査してもらった病院はあんま大きくないところだったから専門病院紹介してもらったもののその日は休診日で、翌日にでもそこの専門病院行って確定診断してもらって治療開始しようとしてたんだけど、行くな、と。
ハア?????だよ、こっちは数ヶ月痛みと戦わされててかなりしんどくて(指がとくに痛くてタイピングすら億劫だったし、書くためにペン握ることもしんどかった)、やっと治療できる、痛みが緩和されると思ったのに。
今度はこっちがなんで?と聞くと、いま病名が確定されると就職に響くのでは、と。
そう、このときはタイミングが悪いことに転職活動の末に内定先が決まったばっかだった。しかも今までブラックに勤めていた自分からすればかなりホワイト(そうな)大企業に。
入社前にある健康診断の既往歴の虚偽記載は絶対駄目(健康診断とかでわかるような病気ではないし)、まだ病名は確定されてないから転職先の試用期間(半年以上も先)が終わってから病院に行って治療しなさい、と。
言いたいことはわかる。でもこっちはまじでしんどいし行かない間に悪化したらどうするんだよ・悪化したら誰が見ても病気ってわかる状態になるんだぞ・就職どころじゃないだろ、と言っても、でも……、とお互い一歩も引かず。
面倒になって、わかった考えとく、で電話切った。でも身体は痛いしであした病院行くかあと思ってた翌日、親が新幹線でこっち来た。家庭持ってる姉も、子供をどっかに預けたのか引き連れて。
仕事中に姉から連絡きて、今日なんか用事ある?ってメッセージ見た瞬間察した。普段そんなこと聞いてくるやつじゃないから。
でも素知らぬふりで用事ある、と答えたら、しばらくしたあとに(親から)話を聞いたんだけど、とメッセージが来た。やっぱりな、と思ったよ。そんなおおごとじゃないから姉にはまだいうな、と釘刺してたんだけどな。
親の言い分は変わらず。姉もそっちの味方。
もう絶望したね。こいつら、俺の身体の痛みとかよりも、俺が虚偽記載とかで解雇されて職失うことのほうが大事なわけだ、って。まぁそりゃ解雇されれば必然的に負担は親やら兄弟姉妹にいくわけだから、そうなってほしくはないわな。
俺、毎朝ベッドから降りるのもしんどくて何分もかけてて、夜寝るときにも身体痛くて泣きそうになりながら身体横にしてるよ。
痛みで口も満足にあけられなくて(寿司が好きだったんだけど、シャリとネタが一緒に口に放り込めない)、食べるだけで顎が痛くて体重減った。趣味にスポーツがあったけど身体痛くて動かせなくなったんだよ。
そうか、こいつらにとって俺の痛みは優先されるべきもんじゃないんだな、と思って。優先されるのは仕事、つまり俺がこいつらに負担や迷惑かけないための手段だけなんだ、と。
なんかそっからはもうどうでもよくなって、そうだな・わかった。病院はしばらく行かん、で終わり。親や姉は安心した顔してたよ。
俺も虚偽記載とかするのはリスクあって怖いから、とりあえず健康診断終わるまでは病院行かなかった。
転職するまで有給残ってたから消費がてら実家帰ったんだけど(この話が出る前にに新幹線取ってたからキャンセルするのもな、でとりあえず帰った)、まあこっちは鎮痛剤飲んでてもしんどくて、若干悪化してペットボトルのキャップすらあけられん状態。そんな俺を見るたびに親はお金出すから保険無しで病院いったら?とかのたまうんだよ。保険使わなきゃ履歴残んねーしな。
だからと言って親に実費請求するわけにいかない、と無駄なプライド。こういうところが自分めんどくせえなって思う。
つーかお前らが病院行くなって言ったんだろ?だから俺はこんな辛くても行ってねえんだぞ?って当てつけもあったかもしれない。
そのあと親はちょうど俺が帰ったときに怪我して入院したんだけどお前はすぐ治せて良いよな、と思ってしまった。性格が悪い。
結局、転職して健康診断を終えてすぐに病院行って、いまは色々治療したおかげで割と元気になった。でも初動が遅かったせいか後遺症みたいな痕は残ってるし、まだ体が痛む日は多い。最近は新たに首もやってしまってて電車通勤がめちゃくちゃにつらい。
そんなときにあの時止められてなかったらもっと早く(つっても1ヶ月弱だけど)治療できて、こんな痛くならなかったのかなと思うと無性に泣きたくなる。
首の痛みがひどくなってきたから恨みの気持ちが強くなってしまってこんなこと書いてしまった。
まあ人間って自分が一番大事だよな、とわかってはいるんだけど、やっぱり何よりも病気したときにまず俺の体を一番に考えてほしかった。それだけだった。
元増田です。
想像以上に多くの方に読んでいただき、たくさんの反応を寄せていただいたことを嬉しく思います。ありがとうございます。
書きたいことは書いたので、今さら追記も野暮ですが「参考にしたい」とか「自分も考えるきっかけにしたい」といった反応もいただきましたので、できるだけ誤解の範囲を狭める責任があると考え、以下、三点ほど補足したいと思います。
公開して即座に「養子をとっては」「今からでも子ども作れば」というご意見が寄せられましたが、私は「子どもが欲しかった」とは一言も書いておりませんので、それらを選択する可能性はありません。欲しくとも授からなかった方にとっては良い方法だと思いますが、私は「子どもをつくらない」という判断をし、受け入れているため、ここでいきなり養子を受け入れる、婚外子をつくるなどは無責任極まりないソリューションです。子どものいない未来は私にとって死にゆく時間、というだけであって「そんな未来なんてイヤだ!無理!」とも言っていないため、何がなんでも子どもが欲しかった男として読むのは誤解であります。本当に子どもが欲しかったら養子含めて何らかの判断と行動を起こしていたでしょうし、そうではない判断を下したまでです。
ただし、ボランティアや募金など、自分にできる範疇での子ども世代への貢献という選択肢を挙げられていた方もいらっしゃいました。それは現実的に私が担える責任だと思いますので、ぜひ検討したいと思います。
こっそり書き直しましたが、メリットとデメリットに関する記述は「今の状況」におけるそれ、としています。
決して「子どもをつくることのメリットとデメリット」を書いているわけではありません。ここを誤読される方がかなり多かったのは私の未熟さ故であります。
「子どもがいない結果としての現況の善し悪し」という意味あいでメリット・デメリットと書きましたが、自分が子どもを持つか否かで悩んで妻と話しあったときには、産みたい/産みたくない、期待/不安といった感情・心情がまずは先行し、そのうえで自分たちには子どもを持つべきか、持ったとして育てる責任をきちんと果たせるか、ということを検討しました。メリットとデメリットの比較といった冷静かつ簡単な判断軸だけではなかったことは言い添えておきたいです。
とはいえ、ノリで子どもをつくるにせよ、じっくり考えるにせよ、様々な可能性をある程度は考えるのでしょうから、誰しもメリットとデメリットもそれなりに考えているのではないでしょうか。一方で、リスクやコスト、というのは必ず考えるべきだと思いますのでこれは誤読の余地はないはず。
そして、これは私には知見もなく意識も低いため、責任を持てない話題ですのであえて挙げませんでしたが、障害や難病を持って生まれる可能性についてはもちろん調べ、検討しました。それは晩婚化が進む社会において、社会全体で考えるべき課題だと思います。
加えて、自分の子が自分の思うように育たない可能性を考えないわけがないだろう、とも言っておきたいです。一方で、健常児しか想像していないじゃないか、という指摘については、私の行う妄想にはもちろん想像可能な範囲でのバリエーションがありますが、あらゆる可能性を妄想しはじめたら危険だぞ、ということでご納得いただくしかありません。
考えすぎだよ、と一笑に付されるのはまったく構わないのですが、何も考えていないであるとか、子を自分のモノのように考えているのか、という意見に対しては、そうではないと強く否定したいところです。それでもって、考えすぎるぐらいがちょうどよくない?
ウケを狙ってかなりウェットに書いてしまったことは反省しています。
最後の段落を改めて読むと、公園で遊ぶ児童たちを眺めながらベンチで涙を流すヤバいおっさんみたいに思えますが、妄想して少し寂しくなる時間など、一週間の1%にも達していません。例えば夏休みのターミナル駅の混雑に触れたとき、秋の平日昼間に歩く親子を観たとき、そうした稀なエモ瞬間、エモーメントに出会ったときに「もしも」を考えるだけなのです。
泣き言ばかり書いているように見えますが、私自身は今までの人生、そして現状についてもおおむね満足し、手ごたえを感じています。仕事も趣味もそれなりに充実していますし、夫婦も個人でも、暇な時間、余暇を楽しむ余裕はあります。
でもそれは子どもがいないからこそ、という部分は大いにあるかと思いますので、まさにif~もしも~を思い描いたうえで秒速おセンチメートルを叩き出したエントリだったのであります。後悔していない、というのはまさに本音です。
子どもは自分の人生の空虚さや人生のつまらなさを解消する道具、暇つぶしの道具じゃないぞ、いもしない自分の子に自分の人生のつまらなさの解決を求めるな、などという意見がありましたが、そりゃそうだろうからそうとは一切書いてないよ、とお伝えしたいです。飛躍が過ぎる。
ただのミドルエイジクライシスやん、というご指摘に対しては、そんなことは百も承知で書いているのだが?とスゴんでいきたいと思います。皆まで言うな。
以上、今となってはいまさらの言い訳にすぎませんが、補足として記載いたしました。
出産、子育て、子持ち、小梨といった話題は慎重にすべきだとはわかっていたのですが、本エントリに皆さんがここまで反応されるとは思っていませんでした。次回はもっとうまく書ければと思います。
また、やはり人とは他人の意見に対して、自分が見たいものを見て、聞きたいことを聞くのだなと実感いたしました。
子どもがいることの幸せ、子どもの可愛さ、子どもの未来について教えてくださったコメントにはほっこりさせていただきました。
私と同じような境遇、心境を吐露されていたコメントを心強く感じました。
寄せられた意見の一つひとつには、自問の機会と、視野を広げる契機を授けていただきました。心より感謝します。
未来を生きる世代が、少しでも健やかで豊かで、平和な社会を過ごせるよう、引き続き考え、行動していきたいです。
皆さん、どうかお達者で。
ちらちらツイッターを眺めているとリプライ欄にはありとあらゆる人々が集まる。
その中にももちろん40代~50代とかのおっさんたちもいるのだがリプライの内容は総じてひどい。
興味が湧いてどういうことを呟いているのか覗くと数多のRTの中に見慣れた画風のイラストが出てきた。
タグには#AIアートと書かれておりツイートは日常のことやこういうイラストを生成してみました♪的なのが多い。そのツイートを見るとさらに年がいったおっさんたちが律儀に挨拶をしている。
不思議なのはどのおっさんのツイートを見ても必ず一個はAIアートを見かけることだ。
明らかに指の形がおかしいのもあれば体型が歪なのもある。それに付属しているセリフもおじさん好みの80年代のお色気漫画のようなクサさ。(私のデカ尻でおしおきヨ!みたいなさ、、、)
RTしているのはデイトレーダーで人の揚げ足を取るのが趣味な者やその場暮らしで特定の政党の没落を願う者、難病を抱えていたりあるアイドルの追っかけをしている者もいた。
AIアートは技術がなくとも一定水準のクォリティなら環境があれば簡単に生成できるようになった。Pixivや静画に拙いイラストやツギハギのアイドルのコラージュを上げて糊口を凌いでいる人でもまるで初めて火を見た原始人のごとくそれに飛び付いた。
我々目が肥えた人からすればただの判子絵ではあるが彼らにしてみれば立派な作品であり新しい拠り所であるのだ。
いくらヘイトスピーチを重ねたり女性に届かぬラブコールを送っている人達でも何かしらAIアートを嗜んでいるのは面白かった。今後も注視していきたい。
まあセリフは考え直した方いいけど...
子孫を残したいだけならレイプなんてしなくても精子バンクに登録すればいいだろ
https://www.haramedical.or.jp/content/provision/bank#sec06
日本国籍を有する者
(2)生活
たばこを吸ったことがない、あるいは、喫煙歴が合計1年以下であり、過去3か月以内ではないこと
犯罪歴がないこと
(3)精子所見
(4)感染症
次の感染症が全て陰性で、既往もないこと。また、これを6ヶ月ごとに継続的に検査すること
HTLV1
50歳以下で亡くなった3親等以内の血族が2名以下であること
本人と3親等以内の血族の家族歴から、特定の遺伝性疾患、先天性疾患、難病指定の疾患における家族歴がないこと
(6)倫理観
生命倫理観を持ち、社会的配慮があること。精子提供における倫理観について自分の意見をもっていること
(7)精神面
精神疾患の既往がないこと、安定していること
(8)その他
他の精子バンクで精子凍結をしていないか、他の精子バンクで既に精子の凍結をしている場合はその凍結バイアル数が2バイアル以下であること
気付いたら俺はニューヨークにいて、そこのネカフェ的なところでオンラインゲームをしていた。
昔よく遊んでいたMMORPGだった。
とても英語が追っつかないのでボイスチャットで会話を交わしたが、これは正解だった。日本語がすごく上手な女性だった。
仕方がないので日本に帰ろうとした。
そもそもなぜニューヨークにいるのだ?パスポートはいつ作ったのか?費用は?仕事はどうした?
さまざまな疑問を抱えながらカフェを出て、やがてオフィスのカフェコーナー的な場所に迷い込んだ。
するとなぜか高校の友達や当時のバイト仲間など懐かしいメンツと再会した。彼らはここで勉強しているらしかった。空港に行くまでの道順を教えてもらい別れた。
途中で石段と、その左に用水路の壁面に付いているような埋め込みタラップがあった。梯子は3列あり、真ん中の列を女性が軽々と登っていくのが見えた。
俺も左端の列をおそるおそる登っていった。
最後の二段だけ、コンクリートで上からこんもり固められた形跡があった。嫌な予感がした。これ、一度抜け落ちたものを再度埋め直したんじゃないか?耐久性が不安に思われた。
予感は当たった。手をかけた瞬間に梯子は崩落、ヤバい、死ぬ、俺はとっさに真ん中のレーンに飛び移り、事なきを得た。
しかし、物を破壊したということで登り終わるとすぐに警官のような屈強な男複数人に囲まれた。男たちは皆短剣を持っていて、狩りをするみたいに俺に切りかかった。
普通に石段にしておけばよかったなあ、と悔やみながら意識が遠のく。
気が付くとホテルの一室に戻っていた。
部屋の中心に妹らしき後ろ姿があったので、話しかけようとして近づいたら、大きな目玉が7個ほどぎょろっと開いた。俺はたまげて転んだ。
すごい、こいつ、後頭部に目玉が7つあるぞ!
思えば、最近は部屋にこもりがちなのだと親から聞いていたが、なるほどこういう理由だったのかとやけに納得したところで、雨音が激しくなり起床。
下痢も吐き気もあって痔瘻も繰り返してるのに、どうりで胃カメラと大腸カメラ何回やっても異常がないわけだ。
えげつないくらい長いボールのついた胃カメラ回腸まで突っ込まれてオエオエしながらようやく長年の下痢の正体が診断された。
クローン病は死にはしないけど、炎症部位が将来癌になる確率はクローン病のない人に比べて高いらしい。
普通、小腸は癌にならないらしいがクローン病の場合は別らしい。しかも胃カメラや大腸カメラじゃ小腸は見えないんだと。
今、病院のカフェで飯食いながらボーっとしてる。午後から出勤の予定だったけどもうサボるわ。
今年中に死ぬことにした。
自分が通っていた中学校の体育館に入ると、すでに催しは始まっていた。20人ほどの参加者、PA業者、参加者を世話するスタッフなど。中でも、色とりどりの浴衣を着込み踊りの準備をする女性たちが、無彩色な体育館でひときわ目立っていた。
うろ覚えだが、この催しは難病などで将来を悲観した人びとが集団で安楽死を行うものだったと思う。公的サービスの一環なので、このように公立中学校の施設が使われる。安楽死の手段がどのようなものなのかは分からない。
自分はケーブルテレビの撮影スタッフとしてここに来た筈なのだが、現時点でカメラも三脚も無い。機材バッグは片隅にあるが、その中は空っぽで私のカメラは見当たらない。誰かがすでに持ち出したのだろうか。
会場では参加者が朝礼のような横長3列に並び、スタッフの説明を聞いている。内容は「大丈夫」とか「スケジュール通りに」といった事務的なもので、宗教的なニュアンスは感じられない。聞いている参加者の表情も平静で、これから死という大事を迎えるように見えない。
浴衣の女性たちが会場の端で金魚のように踊っている。これから死ぬ参加者たちの気持ちをせめて安らかにしようとしているのだな、と感じた。
一旦説明が終わり休憩となった。参加者の一部は外の空気を吸うために体育館出口に向かう。私の居る場所はその出口付近なので、彼らとバッティングしないよう、左右に避けようとするのだが、向こうもこちらと同方向に避けるのでぶつかりそうになってしまう。私はこのような不吉な人たちとは接触したくないので、靴を履かないまま出口から校庭に出た。靴下の足裏に濡れた砂の水分がしみて不愉快だ。
近くを歩いている役場職場と話す。この催しは担当する職員の心理的負担が大きいそうで「俺も、これやった後に入ってる会議とか全然集中できなくてさあ」などという。私は内心このような集団自殺が、その程度の負担感で済むとは役場職員は凄いな、と思う。
体育館と校舎をつなぐ渡り廊下に自分の靴を見つけ、ああここに置いたんだな、と安心し会場に戻る。
参加者は俯いてシクシク泣いていたり手で顔を覆ったりと、悲観的な様相だ。自ら死を選び覚悟を決めていても、やはり直前になると動揺するようだ。私の三脚は傍らにあるが、乗せるカメラは無い。そもそもこんなものを撮影しても使えないだろう、と思ったし、人が大量に死ぬ場面を見る勇気もないので、ここを退散することにした。
さっきとは別の小さい扉から出て、両開きの引き戸を閉める。体育館なのに、すりガラスがはまった木製の扉であった。
横のおばさんに「どうして撮影しないの?」と聞かれ「カメラが無いし気味が悪いから」とこたえるが、おばさんはなにやらしつこく話しかけてくる。
おばさんと連れ立って体育館脇の緩い坂道を下っていると、中からたくさんの人間が嘔吐する音が聞こえてきた。音だけではなく、扉の下の隙間から飛沫が私の首に飛んだ。手ぬぐいで拭うと、人参や肉など食物の破片が混じった粘液状の吐瀉物だった。
直前に迫った死の恐怖で参加者が嘔吐したのだ。やはり、誰でも死が怖いのだ。
私はその後、行きつけのバイク屋に行ったがいつのまにか夜になっていたようで、店は既に閉まっていた。
バイク屋が一階に入っているビルから自転車で誰かが出てきた。顔見知りの女性だがなぜ?と声をかけると、「私ここでホステスやってるの」という。確かにバイク屋の二階は「キャバレーロンドン」だ。彼女のバニーガール姿を見たい、と強く思った。
専門医っていうのは学会に属してるかどうかで認定うけたかどうかはぶっちゃけ関係ない
属しているだけではあんまり意味ないんだけど、肩書なんかより最新の情報に触れてるってだけでも十分期待はできる
CTとかMRIの画像だけとかマーカー検査の数値だけでわかることも大半なので難病でもないかぎりは顔みないで作業だけのほうが信頼できるとこもあると思うよ
手術については最近わだいの漫画があるからヤバいやつはヤバいって思うだろうけど、同じくらい以上にはイケてるやつはイケてるし検査や施術でうまいやつのほうがヤバいやつより多い
ヤバい話はヤバいと言えるけどいい先生なんてのはどこがどういいのか言葉にしようがないから噂にならないけど学会で症例や臨床の話題がでればその名前でいい先生判定はできる
そもそも健康で問題がない状態からマイナスになって病院にきて、戻ったらとうぜんもとにもどってマイナスからゼロちかくまでもどってあたりまえ協力ありがとう先生ってスタンスにプラスの100点つける一般人がいるわけないので
医者がいいとかわるいとかは、もうパートナーシップの関係性みたいなもんじゃないかなと思う
担当の先生にそういう言葉がかけられないのだったら、その先生が名医かヤブかわからないけどどっちにしろハズレなので自分にとってのアタリとはって基準で探したほうがいいと思う
なんかきまずいから薬のまなかったのいわないでおこうとか、歩いたっていったら怒られるのでだまっとこうとか、痛みがあるって言ったら検査されそうだしなあ、とか思う相手なら病院いかないほうがましなのでちがうとこさがしたほうがいいよ
医者は怪我とか病気とかみてわかるけどそれ以外はわからないからね
二人三脚だよ
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。