はてなキーワード: 踏み絵とは
内々定を得た学生はそのことを本システムに登録することができるのですが、一人あたり1件のみ登録が可能とします。
よって、学生は新しい内定を得たとき、その内々定、もしくは以前に登録した内定先かをどちらか一方を選択することになります。
企業は一定期間内に自社を登録することを内々定付与の条件とすることにより、一応内定をキープしておくか程度の学生を排除することができます。
1,学生の内々定の有無、学生が保持している内定先の社名を正確に掴むことができ、面接に活かすことができる
2,一定期間内に登録することを学生に求めることで、踏み絵を行うことができ、内定蹴りを減らすことができる
3,内々定をだらだらと保持されることがなくなり、採用活動の短期化を狙える
1,どの学生も2つ以上内定を得ることが不可能となり、事実上倍率が下がる
2,学生のプロフィールから真の内定先までの情報を一括で把握することができる。
☆問題点☆
1,本システムは多くの企業が使ってこそ力を発揮するものであり、本システムを利用する企業が半端な数では、抜け道が残り、システムが形骸化する
「借金は返さなければならない?」って質問がひとつの踏み絵っていうか 基準になる気がした。
「絶対に返さなければならない!」って人とは可能な限り関わりたくない。
「なるべく返さなければいけない」って人ともそっと距離を取りたい。
「踏み倒してもよい」「無理に返済する必要は無い」そこまで言い切れちゃう人は ちょっと微妙。
「絶対踏み倒してはいけないというわけではない」「覚えてたら返す」の人とお友達になりたいです。
「借金は返さなければいけない」なんて幻想、なんで信じてられるんでしょうねー。借りた過程も曖昧なら 返済したときのメリットだって曖昧。
もしくは「お金は大切にしましょう」って”大きな声”に無頓着に流されてしまう人なのか。
「借金にまみれて家庭が崩壊してもオレのせいじゃねー国とかサラ金が悪い!」って責任転嫁したい人の可能性もあるのかな。
銀行だって法律だって弁護士だって政治家だって間違うときはあるんだよ。だって人間だもの。
「児童虐待はしてはならない?」って質問がひとつの踏み絵っていうか 基準になる気がした。
「絶対にしてはならない!」って人とは可能な限り関わりたくない。
「なるべくするべきではない」って人ともそっと距離を取りたい。
「虐待してもよい」「虐待を我慢する必要は無い」そこまで言い切れちゃう人は ちょっと微妙。
「絶対してはならないというわけではない」「参考として考慮する」の人とお友達になりたいです。
「児童虐待してはならない」なんて幻想、なんで信じてられるんでしょうねー。決められた過程も曖昧なら 遵守したときの効果だって曖昧。
もしくは「子どもは大切にしましょう」って”大きな声”に無頓着に流されてしまう人なのか。
「児童虐待しなかったから子どもがグレてもオレのせいじゃねー社会とか学校が悪い!」って責任転嫁したい人の可能性もあるのかな。
教科書だって法律だって先生だって政治家だって間違うときはあるんだよ。だって人間だもの。
「法定速度は厳守すべき?」って質問がひとつの踏み絵っていうか 基準になる気がした。
「厳守すべき!」って人とは可能な限り関わりたくない。
「なるべく守るべき」って人ともそっと距離を取りたい。
「守らなくてもよい」「守る必要は無い」そこまで言い切れちゃう人は ちょっと微妙。
「必ずしも守る必要はない」「参考値として考慮する」の人とお友達になりたいです。
「法定速度は正しい」なんて幻想、なんで信じてられるんでしょうねー。決められた過程も曖昧なら 遵守したときの効果だって曖昧。
もしくは「制限速度を守りましょう」って”大きな声”に無頓着に流されてしまう人なのか。
「法定速度で走ってたから事故ってもオレのせいじゃねー国とか警察が悪い!」って責任転嫁したい人の可能性もあるのかな。
酒量を自慢し、飲むことは魂の解放とでもいわんがばかりにそれを存在証明かのごとく振りかざし、身内集団の結束の踏み絵のように使う連中が心の底から嫌いだ。
飲めない人間ははなから部外者みたいな目で見る連中は、だいたい図々しくて態度がでかくてちょっと変わった自分がかわいいナルシストばかり。酒を飲めない=つまらないやつと思っているあたり本当に腹が立つ。そして飲めないやつは飲み会でおとなしくしていないと「飲めないくせに」という目で見る。
基本こういう連中は、弱者は滅びろと思っている。障碍者、アレルギー持ち、先天性の病気を抱えた連中は、別のカテゴリーにわけて「違う世界の生き物」にしている。だから平気で哀れみの目線を向けることができる。
飲める量自慢をするやつとは一生涯交わりたくない。
http://diamond.jp/articles/-/53748
記事は「みんなこの改革を理解してないで的外れに反対している」ってことなんだが、この改革や記事の人がまったく理解していない(あるいは意図的に無視している)ことがあって、それは「大半の人は生産性が低い」ってことだ。というか「生産性ってのは属人的だ」って話でもある。
外資も含めていろんな企業で働いたし見てきたけれど、ある仕事を遂行するにあたって、どのくらい仕事できるか、利益に貢献できるかってのは、非常に属人性が高い。いわゆる「仕事できるやつ」ってのは、本当に掛け値なしにできる。同僚の20倍できるやつってのは事実存在する。それは一握りだとしても、10人程度の部署であっても3倍4倍の生産性の違いがあるのはザラだ。それは経験がどうとか年齢がどうとか入社時期がどうだとかじゃなく、もう本当に属人としか言いようがない。人によるのだ。
それでも日本的な企業ってのは、おおよそ給料は横並びだ。できるやつは多少給料に色がついてるだけで、間違っても20倍ももらえない。せいぜい出世が早くなる程度だろう。それすらも企業の規模によってはない場合も多い。現場のエースを管理職に回したら現場が回らない、程度の理由でだ。
生産性が低い労働者ってのが、属人として生産性が低いわけだが、それでも会社に貢献できる(とされている)ことがあり、それが残業なのだ。日本の少なくない企業で、残業というのは業務を終わらせるためのものではなく、「わたしは会社に対して忠誠心高い社員です」というメッセージを、労働者が周囲に示すために行われている事実ってのが現実じゃなかろうか。続くメッセージは「わたしが、給与に対して割り当てられた該当業務において売上ノルマの売上を確保できなくても、給与はちゃんと下さい。なんといってもわたしはこんなにも忠誠心が高いのですから」ということであり、これが「日本の労働は生産性が低い」の光景だ。
「日本の労働文化は国際的に見て生産性が低い」「だから生産性の高い人に対しては報酬で報いるべきである」ってのは正しい。正論だ。でもこの話の本質ってのは「忠誠心とかなんとか奇妙な踏み絵じみたアピをする無能な奴は全部アレしちゃおうぜ」って話なのだ。アレってのはもちろんクビを切るなんて云う安易な話ではなくて、無理やり生産性を上げるってことだ。そのために(スパルタンに)管理するという話でもある。そしてそれはムチとして「残業代カット」を含むだろう。だって同じ給与のエースは、残業をつかわなくても2倍のノルマをこなしているのだから、同一成果同一賃金の法則に照らせば、生産性が低い労働者に対して残業代を払うのは不公平だ。
おそらく圧倒的多数の国民は無意識にせよこれに気がついている。
「労働時間の規制改革」に反対しているのは、べつに「本質が理解できてないから」ではなく「自分がいままで寄生していた」自覚があるからだ。「仕事ができなくても、上司の嫌味を聞きながしながら長時間デスクに座ってればお給料がもらえる既得権益」を守りたいだけなんだ。だからこれは戦略的に見て極めて正しい反対である。
もちろんそんなことをしてれば会社も国も傾くけどな。
ググらないで記憶だけで書くので、たぶん事実誤認甚だしいだろうけど
90年代っていうと、おニャン子クラブが斜陽のアイドルブームにとどめを刺して
ビーイングの社長が何百パターンの15秒CM用のサビだけのデモテープで
営業まわって、タイアップ取れてからフルの曲を書かせてたそうで
アニメもそれまでのタイトルや技名を連呼する生管絃のクソ熱い曲がなりをひそめ
本編内容ガン無視で雰囲気すら合ってるのかどうか分からないタイアップばかりになる
もう、自称音楽好きは洋楽ロックくらいしか音楽好きのアイデンティティを満たし
聞いてて飽きないクオリティのはなくなる
今思えば、当時の洋楽ロックも行き詰ってて、MTVブーム以降のまずビジュアルありき
潤沢な予算を使ってアーティストのキャラクターとサウンドがプロデュースされた
商業音楽だったんだけど、まあ金かかってるから、まずポップさに捕まれて
何度も聞くと実は小難しいこともやってるので飽きない
そういう行き詰った、よく言えば爛熟したロックを取り入れたJ-ROCKがそろそろ出始めて
こいつらがタイアップ取ってポップシーンにも食い込んでくるようになって
素人歌にカスカスの打ち込みに辟易していたJ-POPがだんだんマシになってきた
この前佐久間正英氏が亡くなってはじめてこの方がこいつらの多くをプロデュースしてたの知って
で、この辺の90年代後半辺りからのJ-POPでサウンド的に面白いことをやってるのを認めるかどうかってのが
なーんか「俺は音楽好きだぜ」みたいな人たちから馬鹿にされがちみたいなところある気がするんだよね。それってさ、つまり「音楽好き」の文化レベルが低すぎるんじゃないの?????お前ら「マウントポジション」取ることにしか興味なくて、本当は音楽に興味ないだろ。
そうそう、こんな感じ。
お前ブランドだけで判断してるだけだろ
楽曲まったく聞いてないだろ、耳腐ってるんだろ
いいねえ。すごく懐かしくなったので長々書いた
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
他ジャンルのオタクから「搾取すげえな」って言われるオタクジャンルにハマってる。
最近の展開が回収欲、達成感を煽る>コンテンツを楽しむ、になってて、とてもつらい。
ビジネスなので仕方ない。そりゃ、今時目を引くようなコンテンツ作るのコストかかりすぎるし。
仕方のない流れなんだろうけどね……
コンテンツをひとつ作って一人にひとつ売るだけでは、オタクみたいな小さな市場では、ビジネスとしてうまみがないんだろう。
ランダムにして顧客単価(?)あげられるなら、そうしたほうがいいに決まってる。
それでまた目を引くようなリッチなコンテンツを作る。オタク達の達成感を刺激して、稼いで、また作る。
このサイクルで売上が下がったりしてないんだろうし、むしろ好調なのだろう。
こういうジャンルのファンは、コンテンツを味わい愛でるより前に、投資機会を伺う投資家にならなきゃいけない。
このランダムグッズは、投資金額に対して、どれくらいの快感を与えてくれるのか?
このコンテンツに投資できる自分のできる金額は?その勝率は?期待値は?最低ラインは?失敗した時のリカバリーは?
それでやっと、株でも買うかのように、商品に手を出す。
そんなことを考えていたら、大好きな作品の垂涎ものなコンテンツなのに、色あせて、なにも欲しくなくなってしまう。
私はただ、コンテンツを心ゆくまでゆっくりと味わい、なめ尽くし、一緒に過ごして行きたいのだ。
なのにどうしてこんなに忙しいんだろう。
私は投資のことを考えるのは嫌いではない。でも大好きな作品ではやりたくない。何かが違う。
コンシューマゲームとか、まだコンテンツ型ビジネスモデルだよね。だから、大好き。
でも、それじゃ立ち行かなくなっちゃったんだろうなあ……
仮に人を傷つける文章に憤り他人の物を勝手に破壊し逮捕された匿名の人がいたとします
その人は名乗りません 身元も明らかになるものは何一つ持っていません
勿論名前は報道されませんから実名報道による社会的制裁は何一つ受けません
さて実名派の声の大きい人達はいつものように「匿名の卑怯者」とこの「匿名」の人を
批判するでしょうか?そんな事があったとは知らなかったとほっかむりするでしょうか?
これは踏み絵です
汝、己の思想の為に名を立てられず罵り言葉の応酬の辛さや悲しみを言葉の表現で相手に届かせる技量も無く
社会の外に外れてしまう弱い立場の人の苦い思いを踏んでもこれまでと同じような匿名批判を続けられますか?
その覚悟や如何に?
書きながら考える
バイトが寝転んだ?冷蔵庫に入ってたアイスが嫌かってたら、私はそんなでもない。
袋に入ってたんでしょう?
醤油さしは嫌だな。嫌だけど外食には常にそういう危険性がつきまとうってことだ。
私も出しすぎた爪楊枝を戻したことがある。
出しすぎた醤油を戻した、ってのはどうだろう。
うーん。
家のやつならまあ、ありかな。
何でかっていうと梅干の種をとっておいて別のことに使うって料理家の人が書いてて
そのときもちょっと汚いなーと思ったけどまあ家族のだったらいいかーって思ったので。
あとねぇ、社食のパートのおばちゃんがラーメン出すときに指が汁に浸かってて、
「だいじょうぶよーあつくないからー」ってそういう問題じゃない!というのも思い出した。
人が触ったから毒、ではないんだよね。大腸菌は世の中にあふれているので、(゚ε゚)キニシナイ!!方がいいんでないの。
若い頃の、仲間内のおふざけみたいなの、大学の同級生がつり革にぶらさがってたことあったし、あれ今だったら炎上すると思う。
「おまえも(モラルがない人の)仲間なんじゃないか?」って言われるのが怖いんだろうな。
疑われたときに「自分は違う」と説得できないと自分で思ってるんじゃないか。
職業はいろいろあり、各職業で「周囲で許容されてはいるが外から見たらおかしいこと」ってあると思う。
思いつかないけど、例えば給食のおばちゃんが鍋に指つっこんで味見するとか?
結局、メディアリテラシーの問題って気がしてきた。
企業がすべきことはSNSの利用指針をつくる、ってことだけで(うちの会社は職場に携帯持ち込み禁止ということになっている。ドメイン規制もあるよ。)
店舗閉鎖決めたのは会社のくせしてバイト君に損害賠償するのは変だよ。
客として行って、不味い!ってSNSにアップしたら「あなたのせいで売り上げに影響しました」って訴えられそうだもん。。。
会社の肩書きやフォロワーの多さを利用して自分の意見を拡散するんだったら責任が伴うってこと。
そういえば件の写真はどうやって広まったんだろうね。
モラルに欠ける奴がいるから拡散しよう、というのは正義感ではなくて明確な悪意だよね。
バイト君はその行為自体じゃなくて風評によって罰せられたんだけど
店は
「今後このようなことのないよう指導を徹底して参ります」じゃいかんのか。
そういう店だったら行くけどなあ私…。
店は謝罪のコストを嫌気しただけじゃなく、損失分をとれるところからとりかえそうとしていて醜悪だと感じる。
失われた信用というのは謝罪でしか取り戻せないと思うのよね。
謝るとコストがかかる、こんな世の中に誰がした。
コメント欄でヤフコメ批判がよくあるが、ヤフーとはてなではページビュー数が全く違う。はてなメディアガイドによると、はてなはたかが月間2億ページビューしかなく(はてなの発表なので、2億でも水増し)、ヤフーは月間ページビューが550億ページビューを超えている。つまり、全くアクティブユーザー数が違う。はてブのアクティブユーザー数は、ヤフコメのアクティブユーザー数より遥かに遥かに少ない。そのはてブではてサ・はてなサヨクの数限りない下劣なコメントの山なのだから、実質的な下劣率で言うと、はてブのはてサがネットで最も下劣で、ネット左翼の下劣さを証明している。
中でも、はてサの「同和は生まれながらに人格破綻者だから出自を明らかにして徹底的に追い詰めろ」「ざまぁ死にやがったな!さぁ、罵倒しまくれ!」「安倍晋三は下痢ピーの腹下し」は、三大下劣の事例となっている。
週刊朝日の同和叩きで、週刊朝日に同調するのを通り越して、同和叩きに躍起になってる事例
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121018/1350496488
shigeto2006
確かに、橋下徹の異常人格者といえる人間性がどのようにして形成されたのかを分析するには、その生い立ちを知ることは避けて通れないだろう。政治家のプライバシーが制限されるのはやむを得ないことだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kanose/20121129/hatesa_hashimoto
D_Amon
はてサの線引きは知りませんが、個人的には「人権派ならこういう風に行動しろよ」的な「踏み絵の強要」の方にうんざりして無視することもありますね。
D_Amonは歴史修正主義批判とかやってるが、「踏み絵の強要」と言ってる時点で歴史上の同和の差別性に全く鈍感で人権を語る資格なし。そもそも「こういう風に行動しろよ」と普段から言ってるはてサが、自分には絶対に言うな!ってどんなお花畑だよ。同和は人格破綻者と言うshigeto2006、同和の歴史的差別性も無視して踏み絵の強要と言うD_Amonに、星を付けている。
はてなブックマーク - 政治評論家の花岡信昭氏が死去 拓殖大院教授、元産経新聞政治部長 - MSN産経ニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/politics/news/110515/stt11051517580003-n1.htm
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安倍晋三は腹下しの下痢ピーなどと下劣なコメントをしているはてサは、かなり見受けられる。安倍晋三の難病で罵倒するのは、難病患者を差別するのと同じ。はてサの本音の難病患者は死んでしまえが透けている。ハンセン病患者への仕打ちなど、はてサに通じるものがある。
はてサはこのように、人権派を装っているが、ネットで最も醜悪な下劣さが滲み出ているのがはてサ。繰り返すが、アクティブユーザー数が他の大手サイトに比べて目立って少ないはてなで、下劣なコメントが目立っている。数でなくて率が実質をあらわすから、はてなが最も下劣なところ。ネット左翼の醜悪さは人権派を装いながら実は徹底的な差別者だということ。当事者にとってはそちらのほうが非常なショックになる。はてサの醜悪な事例の3つだが、他にも山ほどある。はてサには自浄作用がない。
おまけ。はてサの低知能は、安倍自民党が大きな政府(デフレ下では全く正しい)でアメリカで言えば民主党に近く、日本の野党はむしろ共和党の経済政策の小さな政府で日本共産党も財政規律とか言って公共支出を抑えろと頓珍漢なことを言ってるのに、はてサの経済音痴で貧乏人をさらに貧乏にするデフレ推進の日本共産党を支持しているところ。はてサは小さな政府と大きな政府、デフレ、インフレの基本すらさっぱり分かってない小学生レベルと言える。経済リベラル政策の大きな政府を敵視し、日本共産党の小さな政府デフレを支持するはてサ。
こんなのもあった。
支援されるべき障害者。支援されるべき高齢者。支援されるべき家庭に問題を持つ子供。
国の政策が足りないのはわかるけど、周囲の人達がニタリ顔で支援(無償ボランティア)?しながら
「さあ、あなたも、ほら支援してあげて!」みたいな番組とかやめて欲しい。優しい教の踏み絵みたいだ。きもい。
俺は正社員で家庭も持っているが、そんなに支援できるほどの時間も金銭的余裕もない。
というか、あってもなぜ無償で他人を支援しなきゃならんのだ??もっと子供に金をかけたい。時間をかけたい。わからん。
企業だって、どこか経済的価値があるんだから支援してるじゃん。NPOだって利益は追求しなきゃやってけないじゃん。
俺らは無償で使われるだけで、悟り開いたように「お手伝いさせていただいて、笑顔を見られて、良かったです」
なんて言いながら疲れて帰るだけなんて。
大阪の新大久保という場所で、連日のように反韓デモが行われているそうだ。俺の知ったことではないが不快ではあるので、この話題をRTした奴は無条件に即リムっている。大虐殺である。いい加減あらかたリムり尽くしたと思っていたが、上記の小田嶋記事でまた十人単位でリムることになった。勘弁して欲しい。
もう竹林に住むしかないのかもしれない。俺は女子高生のパンツだけ見て生きてゆきたいのに、クズどもが善意で糞を拡散する。原発が。反韓が。TPPが。だいたい原発の汚染水が漏れてたとかでいまさら大騒ぎしてるけど、あの「貯水槽」って穴掘ってシート敷いてるだけだからね。漏れないと思うほうがどうかしてるだろ。原発関連もひたすら虐殺したから最近はだいぶ見かけなくなった。
こういうことを言うとすぐクソ左翼が「お前はヘイトデモに賛成なのか」みたいなことを言ってくるが、賛成もなにも、そもそも俺はもはやそうやって踏み絵を迫られることにすら我慢ならない。そんなに世界の悲惨がお好きなら今すぐカンボジアに行って地雷除去でもなさればよろしい。在特会のデモに賛同するわけがない。当然のことだ。だが、その拒否感と同じくらい、あるいはそれ以上に、俺はもう「なぜ○○しないのか」式の言説が嫌で嫌で仕方が無い。「戦う民主主義」だの、「日本の国益」だの、俺はその種の「正義」や「善」にはもう一切加担したくないし、そうした旗印で踏み絵を迫られるのにもほとほとうんざりしている。
お前らはニーメラーが大好きだけれども、彼は「私は声を上げなかった」と言っているだけで、「私は銃を取らなかった」とは言っていない。彼の自省はあくまで彼の良心についてのものでしかない。ナチスは剣ではなく投票によって立った。つまり、俺はもう民主主義は無理なんじゃないかと思っている。学校では民主主義というのはなにか素晴らしいものだと習ったけども、結局のところ民主主義というのはああして糞を拡散する連中にも「主権」を認めるシステムなわけだし、それはつまり俺が在特会や踏み絵組と対話し連帯してわれらの崇高なる理想と目的を達成すべく邁進せねばならないということで、そりゃあ無理だろうと思う。しかしTwitterとか見てるとどうも皆様そうは思われないようなので、俺はもう竹林に行くしかない。お前らどうせ改憲に賛成するんだろ。改憲が無条件に悪だとは言わないが、国民投票で過半数を取れるというのはこれはもう間違いなく狂騒と興奮に駆られた落花狼藉であって、その乱痴気騒ぎに乗じてお前たちは正義と善を旗印にところかまわず踏み絵を撒き散らすんだろう。対話なんて信じちゃいないくせに、誰かを辱めたいだけなくせに。
2006年にハルヒのアニメが、その前年できたばかりのYouTubeでブレイクしたとき、ちょうど30歳になった。
そしてそれくらいの年齢から、20代まではビデオやHDDプレーヤーフル稼働であんなにチェックしまくっていたアニメを、あまり見なくなっていった。
DVD-BOXはToHeartとGA1期とおねツイを最後に買っていない。サクラサクミライコイユメは名曲だったし亜沙先輩は可愛かったと思う。
しかし世間はハルヒ&つべを起爆剤に、今やオタカルチャーがネット連動で空前のブームに。
最近のまどマギやあの花の受容のされ方を見ていると、時代は明らかに変わったと思わされる。
あんなにキモがられ、日陰者扱いされていたアニメやアニオタは、面白いコンテンツを気軽に選び、気楽に楽しむものに変貌した。
もはや「なろうと思ってなったもんじゃねぇから、やめることもできねぇよ」みたいな屈折や屈託は過去の話だ。
事実上、アニメは「やめる・やめない」という踏み絵的な後ろめたさと覚悟と諦めを伴うものではなくなったのだ。
一方、自分の同年代では未だにオタ・非オタの断絶は途方もなく大きい。
結局ネットで若い人と同じ目線で話してるほうが全然楽しいけど、これも何か間違っている気がする。
こうした流れは自分にとって、大きなすれ違いがまた一つ生じたと言えるもので、結構愕然としている。
まあ、昔よりいい時代になったのは間違いないし、嬉しいとは思ってるけど。
ちなみに自分が小学生の時は、このハイテクの時代24時間戦ってめちゃくちゃカネかけまくったものすげーという風潮→バブル崩壊就職氷河期の谷底どうしてこうなった
中学・高校の時は女子大生ちやほやされまくり→大学入ったらコギャル女子高生ブームにシフトどうしてこうなった
というわけで、自分の世代はブームの中心からはとことん外れているという印象。
強いて言うならエヴァは間違いなく「俺らのアニメ」とか、CDのミリオンセラーバブルを体感したとか、2ちゃんの中心世代というくらい?個人的にはニコ動のが好きだけど。
あと同年代として、ひろゆきは永遠の19歳というにはさすがに老けた印象あるけど、いつまでもダラダラと、クラスにいる嫌な奴っぷり(褒めてます)をキープして生きて欲しいと思ってます。
石原伸晃の「年寄り死んでくれ」発言が波紋を呼んでいるが、これって国策だと思う。
NHKで2012年8月29日に放送されたクローズアップ現代でも尊厳死を美化して伝えている。
若干のオカルト色を使って、映画“おくりびと”的な安心感を演出しながら、要は「爺さんども、死んでくれ」と言っている。
「死んだ親父が会いに来た・・・」など、死を間近に体験すると言われる“お迎え”現象についての日本初の学術調査が進んでいる。在宅医療の専門医と東北大の社会学者たちが、文科省の助成を受けて高齢者や遺族500人あまりを調査、自宅で看取られた人の4割が“お迎え”を体験し、そのうちの8割が死への恐れや不安が和らぎ、穏やかに看取られていったことが分かった。その一方で、「生」を追求する過剰な延命治療が、“お迎え”ばかりか、患者が「死」と向き合う妨げになっている現状も浮かび上がった。調査を行った岡部健医師は、「死を受け止める力」に注目した新たな在宅医療を模索している。自らも末期ガンを患う岡部医師の活動を通じて、自然な看取りをいかに実現していくのか考える。
これが国策でなくてなんだと言うのだろう。
公共放送の夜7時のニュースが終わった直後にこの番組は始まる。
ニュースが終わってそのまま見る視聴者を目当てに国や大企業、経団連などが言いたいことを代弁している(かなり露骨に)。
石原も総理候補の踏み絵か何かだと思ってやらかしたのか、そうで無いのか。
どっちにしてもこんな団体(NHK様)に払ってやる金は無い。