はてなキーワード: 政治問題とは
https://twitter.com/SayakaChatani/status/1379968066319097856
また日本右派とアメリカの白人至上主義との交錯も見逃せない。二〇二〇年の論文でラムザイヤーは、「アメリカの民族問題を題材にすると激しい対立が起こってしまい自由に議論できない」ので、「渋々ながらアメリカの問題は取り上げず」「あまり知られていない題材を使えば自由に議論できるだろう」と書いている。つまり、被差別部落、沖縄、在日コリアンを通して主張した「差別は自己責任であり、マイノリティの統率者がむしろメンバーを搾取している」というロジックは、本来はアメリカに適用したいのだが、そうすると政治問題になるので、人があまり知らない日本史を使って発表する、とあけすけに述べているのだ。
うん、日本にもアメリカにも (そして他国にも) 同じような問題があるんだね。日本で「マイノリティの統率者がむしろメンバーを搾取している」構造をもとに、自国、他国のことも論じないといけないね、という話でしかないように思いますが。日本にも問題が存在するのであれば、それを論じても何も問題がないのではないでしょうか。まさか、日本の問題は日本人 (?) だけが議論すべきだ! とかいう排外主義に基づいた主張なのでしょうか。
誰もが発信できるようになって、誰もが受信できるようになったインターネット。
俺のインターネット。あなたのインターネット。君のインターネット。お姉さんお兄さんお母さんお父さんのインターネット。あいつ達のインターネット。それはきっとそれぞれ違うインターネット。
決して、昔のインターネットは素晴らしいものではなかった。誹謗中傷の数は今とそう変わらなかった。匿名の人間が大量のゴミを残していった。
端的に言うと99%はゴミだった。クソったれ。どうしようもない。残す価値の無い塵芥。
インターネットの利用者は、意識せずとも、現実とネットを分けていた。
別の空間だった。その理由は、インターネットを利用するには、人間がパソコンの前に座る必要があったからだ。
インターネットにアクセスする方法が限られていたからだ。インターネットに情報を残す方法は限られていたからだ。
ごみ溜めと呼ばれていた。アンダーグラウンドで、無意味で金にならないどうしようもないコンテンツが大量に存在して、その無価値なものが無意味に流動していた。
インターネットに集まる人間は、その性質上、日陰者が多かった。悲観主義な奴が多かった。孤独な奴が多かった。
それぞれがみんな足りないモノを求めた。全員ハンドルネームか匿名。著名人や有名人以外はみんな、別人だった。現実にはなりえない何者になろうとした。
現実には存在しない空間を求めた。インターネット上では、現実の何者である必要はない。平等なクソだ。
インターネットは徐々に現実と融合した。どこもかしこも、誰もかれもがスマホを凝視して、インターネットを利用した。
ありとあらゆる問題がインターネットに放り込まれた。政治経済、世の中の流れ、人間、学問、エンタメ、情報に次ぐ情報。
世界についてのすべて。人が喜ぶ、人が妬む、誰もが注目する情報。情報。情報。
人間関係を可視化して、人間の優劣をつけるためのSNSが現れた。
大量の企業が、政治団体が、利用し始めた。ガキから老人までインターネットに内包された。
インターネットはもはや化け物だ。ゴミ山モンスター。ゴミ山モンスターは世界を覆い、人間をインターネットに内包した。粗探し、炎上、政治問題、社会問題。老若男女問わず、情報。情報。情報。
人間は現実の全てをインターネットに切り貼りして、金に変換した。友情も愛情も人間関係も犬も猫も芸術も政治経済も日記も全て。
人間はキャパシティーを超える情報量に混乱し、アメリカ合衆国がネットに翻弄された。
全てが可視化された。全ての傷口がパブリックなものとなり、解剖され弄りまわされ、化膿し、悪化し、感染した。
ネットはクソのはずだ。誰しも認めていたはずだ。ネットはクソだ。ネットは無価値だ。
まるで、人生のようで、だからこそインターネットに夢中になったはずだ。
インターネットは現実のクソではなかったはずだ。インターネット固有のクソであったはずだ。
俺にはクソを選ぶ権利があった。現実のクソとインターネットのクソ。
クソなりにクソの選択肢があった。
今のクソは、現実のクソとインターネットのクソを組み合わせたハイブリットなクソ。
選択肢は一つ。
最高だ。
最高。最高。最高。
自分が恵まれてないとかツイてないとか、冷静に考えれば悲観するほど酷い境遇でもないのに
承認欲求と願望だけはネットで毒虫の様に肥大化して、ただ自分が金や女や称賛や社会的地位を得られればいいとか通り越して
自分の欲しいものわずかでも持ってる奴は、全員死ねばいいしなんなら犯罪にならないレベルで足引っ張ってやれるならやるってレベルで煮詰まって、社会や世界に自分の不満による不幸なら、社会や世界も同じように等しく不幸でなければならないというのは
劇画ヒットラーで司馬遼太郎がコメントを寄せてた「自分が不幸だからと言って社会や周りに同じ不幸になることを求めるのは通り魔の考え」って書いてたがその通り
ネット民は政治だ経済だ思想だと高尚ぶってあまつさえ政治問題だとか叫ぶけど
根っこは全部これなんだよね
https://izumino.hatenablog.com/entry/2020/11/20/072005
この記事、台湾と中国の現状となぜそれが燃えているのかについて情報が整理されていると思うのだが、これって本当に複雑な政治問題なのか? というのが腑に落ちない。
確かに政治問題”風”なのだが、本文中にもあるようにその多くは感情的な対立(桐生ココがアメリカ人で、bilibiliで配信せず、
運営はろくに報酬も払わず、演者もbilibiliの貢献をかえりみない)に端を発していて、中国側に冷静な層がいるのはわかるが、
多くが「政治問題」という建前と矛でもって、自分たちの方を向いてくれない桐生ココとホロライブを煽り倒したいという意図しか見えない
自分たちがムカつくから政治問題ということにして燃やしてやろうという人間が大勢いると仮に仮定した場合に、『我々、一般の日本人の立場でできることは「知っています、見ています、学んでいます」という態度を地道に続けることでしかないと思う。』などという態度で向かって意味があるとは思えない。そんなことはどうでもいいことだからだ。ただ調子にのって攻撃をしてくるだけだろう。
izumino氏の論調からいうと、このように中国を敵対視して、カバーを叩くことで桐生ココを守ることができるほぼ唯一の存在の体力も削ぐ上に中国の怒りを持続させるだけ、ということになるのだろうが、多くの人がこの問題について何の言及をしなくなっても中国の攻撃の手は止まることがなく、結局桐生ココが休止を発表した。izumino氏が書いてくれているような内容を把握するのは重要なことだと思うし、今こそ中国とカバーを叩けといっているわけではないが、なんとも虚しい話であり、書かずにはいられなかった。
当方、はてブを初めて数年。最初の頃は有名人(JTの人とか、カルロス・ゴーンみたいな外人顔のアイコンの人とか)にスターをつけていたが、最近は若手の無名ブクマカにスターをつけるのがマイブーム。
おっと、ここで「若手」というのははてブ歴が浅いという意味で、中の人の実年齢のことじゃないぜ。中の人が40であっても、ブクマカ歴が浅い(あるいはその活動がほぼ知られていない)のであれば、それは若手として扱っている。
政治問題に左右の立場を明確にしてコメントするような若手ブクマカは苦手なのだが、時折光るセンスを持つ若手ブクマカがいる。俺はそいつらにはてブを続けて欲しい。だからスターをつけることにしている。特に優れたものがあれば、複数のスター、あるいはカラースターをつけるときもある。
「秀逸なコメントをしたはずなのにスターがつかない。似たようなコメをしている有名ブクマカにはスターが大量についているのに・・・」と、そんな理不尽な思いを抱かせないために、俺はスターをつけている。彼らは俺たちの希望だ。彼らが育たなくては、はてブの将来がないのだ。
おそらく無名力士や無名スポーツ選手に援助している俗称「タニマチ」もこんな思いなのだろう。
そして彼らが有名ブクマカとして花開いたとき、俺はひっそりと思うのだ。「もう俺がスターをつけなくても、きみは立派にやっていける」と。そして俺は彼らにスターをつける行為からフェードアウトする。
もう増田ご本人は見ていらっしゃらないかもしれないが、私なりに寄り添って、こんな風に考えてみたらいいんじゃないか、と思ったことを書く。読みにくくてすまん。
トラバとブクマを見たが、9割5分はまともに文章を読んでなくて、結局KKOの書いた文章はエンタメとして消費されるんだなとわかった。
ここにあなたのつまずきがあると思う。
人の話や文章をちゃんと理解する(そしてそれに見合った返答をする)、というのは、実はとても難しくて、たぶん世の中の半分以上の人間にはできない。
増田はたまたまそれが何の苦もなくできる。そしてできる人には、あまりにも自然にできてしまうせいで、できない人がいるということが理解できない。〈誰だって頑張れば理解できるはず〉だから、〈理解しないのはやる気がないからだ〉と思ってしまう。そして〈なぜやる気を出さないのだろう、なぜ俺の話をちゃんと聞いてくれないのだろう〉→〈俺が「キモくて金のないおっさん」だから、見下されていて、消費対象のエンタメだと思われているんだ〉、と思っている。
まったくの勘違いだ。彼らはやる気がなくて読んでいないのではなくて、やる気を出しても読めないのだ。
仮にあなたが「若くてきれいな女性」だとしても、相手があなたの話をちゃんと理解し適切な応答をしてくれるようになるわけではない。無意味にあなたをちやほやと取りかこみ、「わかるー、ほんとむかつくよね!(←全くわかってない)」とか「大変だったね笑そういうときはこうするといいよ笑」とかいうトンチンカンな応答をするやつが増えるだけだ。
ちょっと世間を見ていればわかると思うが、「相談なんてしていない」のに「少し深い話になるとやたらとこちらの言うことを否定してくる」おじさんやおばさんに、若い女性も毎日遭遇している。〈相談されたから解決策を考えてやったら「共感してほしかっただけなのに」とかいわれた、これだから女はw〉みたいな話も日常的にエンタメとして消費されている。つまり増田はほぼ若くてきれいな女性そのものだよ! やったね!
自転車に乗るみたいなものだ。増田は自分が自転車に乗れて、乗れない人がいるなんて想像もできないから、自転車を運転できない人を見て〈まともに乗れよ〉と怒っている。これがどのくらい無意味な行いかはわかるだろう。
あなたは〈みゆさんみたいな人は貴族で、自分は貧民なんだと思っていた〉というが、この表現は劣等コンプレックスを刺激して冷静な対処の邪魔になるので、ちょっと視点をずらして逆に考えたらどうだろう。つまり、少数派にしか許されない特殊なマナーが身に染み付いているあなたが「貴族」で、みゆさんや我々トラバ・ブクマカのほうが庶民なのだ。
だからといって、〈よしじゃあ庶民を馬鹿にしていればいいんだな〉という話でもない。「貴族」といっても別に権力があるわけではないから、正面から殴りにいったらむしろ数の力ですぐに負ける(日本学術会議はこのへんを勘違いしている)。そして道徳的にも、貴族のマナーが無条件で優れているわけではない。「武士の商法」という言葉があるけれど、自分のマナーが正しいことを疑わず、従わないほうが悪いとばかりに庶民のあいだでもそれを押し通すのは、滑稽な所業だ。
さてでは、貴族のあなたが心穏やかに過ごせるようになるには、どんな方向があるだろうか。パッと思いつくのは次の三つだ。
1庶民を丁寧に教育し、マナーを社会的に浸透させる(啓蒙家コース)
2庶民社会のルールに順応し、そのなかで栄達を図る(資本家コース)
3おつきあいはできるだけ貴族同士に限定し、無作法な人には近づかない(社交界コース)
おすすめは3だ。別にそこまで極端に交流を狭める必要もないと思う。普通に生きていると案外、貴族は貴族同士、庶民は庶民同士で集まる。「普段縁のない層」に絡みにいくから摩擦が増える。みゆさんじゃなくて、「別の人に相談した」というその別の人に話を聞いてもらったほうがいいんじゃないか。庶民の恐ろしさを知った今なら貴族の貴重さも身にしみて相手を大事にし、一層深い関係を築けるかもしれない。
自分の信じるマナーが社会全体に受け入れられるという1のゴールはとても素敵で選びたくなるだろうけど、過程がマジで大変だ。もしこれができるようなら明らかに教職が天職なので、さっさとその方面に再就職すべきである。少なくとも、人々が〈やる気がない〉のではなく〈自転車に乗れない〉のだと気づいていなかった増田には難しそうだ。
以下はここまで以上に説明が難しい部分で、フィーリングに頼って話を進める。読んでも非論理的なでたらめにしか思えないかもしれないので、適当に流してもらっていい(「論理」と「合理」が曖昧に使われているのもその一環と許してほしい)。
ここまで「まともに」つまり合理的に読んだり話したりすることの難しさについて述べてきた。けれども人間が非論理的なのは必ずしも悪いことではない。生き物が不合理なエゴを抱えるのは当然で、合理的論理的に考えたら生きる意味はなくなってしまう。その意味で、〈正面から反論せず「それが普通だ」と不合理に押しつける〉のは、人間なら避けられないことといってよい。貴族仲間というのは、不合理な領域が自分と一致しているので苛々しない相手に過ぎない、ともいえる。
問題はむしろ、論理的な人間が往々にして、自分の中の不合理な部分まで論理的だと思い込み押しつけてしまうことだ。2(資本家コース)は不合理な政治的手法に順応するということなのだけど、とくに庶民に対する劣等コンプレックス(軽蔑もしばしば劣等感の反転である)が強い場合、〈実際には不合理なルールを利用しているのに、次第に自分は論理の力でみなを啓蒙しているかのように思いこむ〉機制が働きやすい。インターネットを見れば、中途半端に論理的だったために自分の正しさに凝り固まったイデオローグと化し、敵を感情論と指弾することの不合理な喜びに支配されている右翼や左翼やフェミニストや表現の自由戦士の実例には事欠かない。
このルートに入ると論争のイライラ感に依存するようになって、マジで「世間話をする」みたいなささやかな幸福に支えられて生きていく邪魔になる。なので、自分のなかの不合理な部分は不合理と認めて、適当に愛撫しながら生きたほうがよい。
https://anond.hatelabo.jp/20201024152554
上記の反応エントリがあったので追記で答えます。書いたのが増田なのか別の人なのかわからないのがちょっとやりにくいけど。
あとあらかじめ注意。「多少突っ込んだコメントになると」「あなたたち」等と言われているから、もしかしたらこのエントリ以外にもいくつか念頭に置いているコメントがあるのかもしれない。でも私は私自身の意見の説明しかできません。そこはご容赦を。
ごめん、前提が共有できていなかったみたいだ。ちゃんと読んでもらえば分かると思うけど、前者を擁護しているわけではない(余談部分までいくとまたちょっと別だが)し、読み手についても、ましてや増田について「悪い」とは言っていないよ。
当為(「べき」)と事実(「である」)の区別、って聞いたことないだろうか。私は事実認識「文を読めない人が多い」を確認しただけだ。当為については述べていない。
うん、だからそれは当為認識〈あれこれ論じることができなくてはならない〉なんだよね。で、〈あれこれ論じることができる人は少ない、あれこれ論じるのは非常に困難である〉、これは事実認識。当為によって事実は変わらない。
ここで重要なのは、当為の実現を諦めろっていってるわけじゃないってこと。むしろ当為を将来的に実現するためにこそ、偏りない眼で現状を、そして現実がどういう法則で動いているのかを、正確に認識することが必要だ、という話。
たとえば〈この水は氷になるべきである〉という当為認識があるとしよう。ここで、水を前にただ「氷になるべきなんだからならなきゃおかしい」「なっていないのは誰かが悪いに違いない」とか考えててもしょうがない。そもそも水は氷になるのか、なるとしたらどんな条件下で氷にすることが可能なのか、当為とは無関係に物理法則がどういうルール「である」かを知らなければならない。最終的に、〈この水はこれこれの限られた条件下でのみ氷になる〉という事実認識が把握される。この事実認識を踏まえてはじめて、私たちは技術を用いてその条件を実現し、水を氷にすることができる。
たとえば「沖縄の基地負担は減らすべきである」という当為認識だけがあって、基地とそれを巡る政治的力学についての事実認識がなかったために、ひどい混乱が起こった例はご存知でしょう。
「でもお前の提案した3(社交界コース)は当為を諦めてるじゃないか!」といわれるかもしれない。それは、もともと増田が設定している当為=ゴールが〈万人が言語交流できるだけの知性をもつべきである〉ではなくて、〈増田は幸せになるべきである〉だと判断していたからだ。後者の当為はちゃんと追求している。
前者も当為から外せない場合、1(啓蒙家コース)にあたる。「1は難しい」とは言ったけどそれも事実認識を述べただけで、「1は選ぶべきではない、3を選ぶべき、3を選べなかったのは悪い奴」とは言っていない。なので、1をとりたいならどうぞ。
たぶんあなたは、悲しいことが起こるのはどちらかが「間違ってる」「悪い」からだ、と考えてしまっているんだと思う。そして、「責任のある」「悪い」方が変わる「べきだ」、と思ったんだと思う。だから、私が主に相手を変えない手法を提案しているのを見ただけで、「増田が悪いんだと結論づけ」ていると誤読してしまったのではないか。でも、これは単に、〈相手を変えるよりも自分の選択を変える方がはるかに労が少ない〉という理由から提案したものにすぎない。
と言わざるを得ない。
実は「自転車に乗れない」と書いたところ、最初は「因数分解ができない」という例も考えていたんだよね。学校で授業を受けても因数分解ができない人、文章がまともに読めない人、あるいは一度できたはずなのにしばらくしたら忘れちゃう人、たくさんいるでしょ。恥ずかしながら私も、理科や家庭科で習ったこと、すっかり忘れちゃったなぁ。当為と事実の区別も学校で習うような気がしてたけど、これは私の記憶違いかな。
もちろん私の事実認識自体に反論することはありうる(「事実認識」であって「事実」とまではいっていない)。それならそれでいいです。
それは多分誰も反対しないと思うw
また長く雑ですまん。
Twitterで「同人女の感情」という漫画が流行っている。そう、『おけパ』で一躍大ヒットしたアレである。
私はあの漫画に登場するような才能ある人間でもなければ、努力して力をつけようと発奮する人間でもないが、同人というジャンルに携わっている自負はあった。
ところで、その同人という話題からよく議題に取りただされるものがある。「感想問題」だ。
ようするに、「自分が描いた/書いた作品に対して誰かから感想が欲しい」という話。
少し前は奥ゆかしさみたいなものとかジャンル内の空気とかプライドとか云々かんぬんの事情によって、あまり表立ってアピールされてこなかったこの欲求が、近頃は「もう取り繕うのやめようぜ!」と言わんばかりに顕になっている。
太古の歴史からの引用で恐縮だが、かつて『Web拍手』に代表されていた感想ツールが『質問箱』だの『マシュマロ』だのと細分化されてきているのも原因なのかもしれない。
お金を受け取って感想を書くという仕事まであるらしいので、時代というのはどう流れていくか分からないものだ。
感想を欲しがること自体はいいと思う。行動に対して対価を得たいと思うのは人間として当然の思考だ。
感想がないとモチベーションが下がる、という主張も分かる。誰かに見ていて欲しい、という感情も理解出来る。
だからこそ、何度も何度も繰り返しマシュマロのURLをTwitterのタイムラインに流しているけど、一向に感想が来ない、そんなあなたに真相をお伝えしたい。
なぜ感想が来ないのか。
これは至ってシンプルかつ、誰からも納得される理由だ。面白くない作品に対して面白い!とは言えないだろう。
面白くないとまでいかなくとも「最後まで読んだけど心を全く動かされなかった」、「自分の好みとは違った」、「付き合いで読んだけど言葉にするほどの感想が浮かばなかった」など、このような読後感について身に覚えがある人も多いのではないだろうか。あなたの作品はそういう作品なのかもしれない。
あなたはまず、ブックマーク数やいいね数が多い作品についている感想を見て、『○○が素敵だと思います!』の○○の部分を自分の作品に取り入れるべきだ。自分の持ち味を捨て、大衆向けに変えていく必要がある。
第二に『作者自身に「感想を送りたい!」と思わせるほどの魅力がない』という理由が考えられる。
多少面白くない作品でも、作者が面白い反応を返してくれるなら感想を送りたいと思うのがファン心理だ。
作者と作品は別?多くのファンにとってそれは建前だろう。作者が嫌いになって作品を読めなくなる人、ただ1人の作家とトラブルを起こしてジャンルから離れざるを得ない人、そんな存在はうじゃうじゃいる。
面白い人間になるのは難しいので、まずはジャンル内でフォロー数の多い作者達のツイートを参考にしながら、その内容に寄り添ったツイートだけをするといい。否定的な意見を呟くなど以ての外だ。
ある程度存在が認知され始めたら、次は適度に過激なツイートをする。ただし政治問題やジェンダー問題などに関するツイートは厳禁。付け焼き刃でもいいので、何かに狂乱している姿を見せる。そこから「○○の人」なんて印象を付けられたなら、あなたは立派な「面白い人」だ。
勘違いして欲しくないのだが、「質問箱やマシュマロやWeb拍手のURLを毎時間タイムラインに流したり、プロフ欄に書いておけ」とかそういう話じゃない。この場合のアピールとは、「既に作品を見た人に向けて」ではなく、「まだ作品に触れていない人に向けて」のアピールを指す。
感想を書くのはどんな人か。優しい人?感受性豊かな人?違う。作品を見た人だ。つまり、現時点で感想を貰えていないのならば、そもそもの分母を増やす必要がある。分母を増やすにはどうするか。アピールをするしかない。
pixivやTwitterに作品を高頻度で投稿する。それが難しければら同じ作品を何度も投稿し直す。ことあるごとに自分の作品についてアピールをする。とにかく人の目、もっと言うならばフォロワー数の多い作者の目に留まるように。あまりにも増えないならDMで宣伝してもらうようにお願いするのもいいかもしれない。
つまり、作品を面白くする、あなた自身が大衆ウケする存在になる、多くの人の目に触れるよう作品をアピールしていく。これら3つを実践すれば、感想はバカスカ貰えることだろう。
あなたの作風が急に変わってしまうことで、既存のファンからは敬遠されるかもしれない。あなたの日頃のツイートが変わってしまうことで、フォロワーは困惑するかもしれない。
しかし、そのファンやフォロワーは感想をくれたことがあるだろうか? 感想をくれない存在に何を忖度する必要があるのだろうか?
難しそう、と思い悩むあなたには、もっと簡単に感想を貰う方法を教えよう。
『作品人口が少ないジャンルに救世主のように舞い降りる』といった手法だ。
こちらの方が感想を貰うにあたっての労力が少なくて済むかもしれない。何しろあなたは飢えた少人数にとってありがたい存在になれる。
ちょっと感想が欲しいと呟けば、その人たちはこの機を逃すまいと必死に感想を送ってくることだろう。
さて、ここまで読んで何か一つでも実践しようと思ったあなたは、同人活動が出来る精神バランスではない。
今すぐに筆を置いて、少し休むべきだ。
作品への姿勢や自分自身を見つめ直したり、アピールすることは良いことだと思う。
だけど、「感想が欲しい」という理由から作品や自分を変えてしまっては本末転倒だ。そうやって得た感想に、あなたは何の感慨も得られないだろう。
あなたが作者であり、壁打ち鍵アカウントでもない限り、あなたを見てくれる人は必ずいる。
そのことを、まずは飲み込んでみてほしい。
この記事を読んで、憤りや困惑といった否定的な感情を覚えたあなたは、恐らく正しい。
こんなタイトルにしてしまったことで不快な思いをさせてしまって申し訳ないとすら思う。あなたに感想が届きますように。
感想を書くこと自体が手間だと思う人もいるかもしれない。というか、大半の人はそうだと思う。
だからこの記事の最後は、「そんな人達に感想を送ってあげて欲しい」なんて終わりにはしない。
安倍晋三という人は非常に凡庸で、具体的な政治指針もなく、しかしその時その時の流れに上手く乗ってなんとなく生き残るタイプの政治家であった。
それは彼が一番最初に脚光を浴びた北朝鮮協議と拉致被害者帰国の時もそうであったし(彼はそれまでに北朝鮮問題に深い興味を示したという記録も伝聞もないが、以降はずっとあの青リボンをつけている)、
その注目度から幹事長に大抜擢され、官房長官、さらには首相にまで上り詰めた。
しかしその政策は小泉政権を継承したもので、彼の独自性はほとんどなかった。もっとも前任者があまりにも政治家として強い個性の持ち主だったということもある。
だが、政府・自民党ともに彼にその統率が取れていたとは言いがたく、政治家、とりわけ首相の適正には疑問がつきまとった。どうにかまとめ上げられたのは、自民党になんとなく漂う保守思想とそれを具体化した「美しい国」という空虚なスローガンがあったからだ。
だがあいまいとした政治思想だけで日々の政治が回るわけもなく、様々な政治問題が噴出。現役農水相の自殺などというトップクラスの政治暗部が明るみになったところで、参院選敗北。自身は病に伏して一度表舞台を去ることとなる。
1度目の華々しい舞台は、あまりにも役者不足、という結末に終わった。
だがそこで政治生命が終わらなかったのは、血統のなせる技と祖父譲りの悪運なのか。
民主党政権が機能不全に陥ったところをとどめを刺す形で震災発生。この社会不安から生じた反民主・2000年代回帰の流れ(いわば振り子運動である)に乗る形で、周囲の反対を押し切って総裁復帰・そして首相に返り咲く。
そして今日再び病に倒れる形での辞任を表明した。
この第二次政権ははたして、どんなものであっただろうか。まだその総括は出来ないかもしれない。
政権成立直後、目に見える形で株価はバカみたいな上がり方をした。株価先導の形で企業業績は回復し以降6年景気を押し上げた。大量の金を市場に注ぎ込む金融政策は一つ結果を出したとは言える。
しかし結局くだんの3本の矢は揃わずじまいで、このコロナでこの政策はいよいよ手詰まりである。
これも含め、本来であれば政府政権与党一丸となって一環した指針の下、さまざまな政策を大きく動かさなくてはならなかったが、結局政権初期以外そういう形はほとんど見られなかった。
結局のところ、安倍晋三首相は同じことを繰り返しただけではなかったのだろうか。首相として各所への人選は悪くなかったが、配置した人材をほとんどコントロールできず適切な機能を与えることが出来なかった。
本来であれば各省の歩調を合わせ利害関係者の調整を行うべき内閣官房(官邸)は、各職が見えない権力を握る中、政府内のただの権力装置に成り下がり、効率的かつ効果的な施策の支障を来すまでになった。
首相本人が制御を行うでもなく、その権限を適切に行使することなく、その権力装置自体が権威化して好き勝手に行動してしまう。第1次と第2次の問題点の違いはそこに突き詰められそうだが、それは結局、共通して安倍氏本人が役者不足であったのだろうという印象だ。
あまりにもなにも背景が見えない凡庸な彼の素は結局、政権交代直前野田元首相との党首討論の時のあの、終始自分の判断を先送りし他者に判断をゆだねる彼だったのではないだろうか。
主にインターネットの普及で知ることのハードルが極端に下がった
環境問題、人権問題、ジェンダー問題、政治問題...あらゆる問題を知ろうと思えば知ることができる
ただ生活していくにもこれらの問題をある程度考慮しなければならない。でなければいい人であれないからね
だがすべて考慮して行動している人間は物理的に存在できないだろう
更に何か意見を表明しようとすればその分野を専門で追っている人間の1/100くらいの知識は身に着ける必要があるだろう
それは過去の判例であったり、研究であったり、事件であったりする
インターネットは一部の人間にのみ与えられた恩恵であり、これらの情報に辿り着き解釈するのがそもそも多くの人間には不可能だ。知るための訓練が行われていない
インターネットが得意で訓練を受けた人間は無限に問題を吸収し、普段の行動、当然とされている行動がどれほど"問題ある"かに気づくことになる。"人間らしく""思いやりのある"生活をすることのハードルが無限に上がり続けていく
この解決策として自分が問題の当事者になってしまうというものがある。実際には何も変わってないし問題も解決してないんだけどね
あきた
ちょっと前の創作なら「USDマン」や「ワンパンマン」みたいに警察権に委ねず勝手に悪の組織とか悪人と戦ってるのは国家統治としての原則がとか警察や自衛隊の人たちが怒るシーンあったけど
今の日本ならそれより前に
「あんな性的な服装で見せびらかしながら戦うのは男性に媚びている!!!!!!!!!けしからん!!!!!!」とかショッカー怪人より恐ろしい鬼の形相で口から泡吹きながら嫉妬で政治問題にする、黒十字軍の改造人間みたいな見た目のブサイクな女とかババアどもだと思う、奴ら敵の敵は味方理論で悪の組織に味方するかもしれん
そういう意味では変身ヒロイン反対運動とかやってる市民運動家の女キャラが出てくるネプテューヌシリーズって生々しい設定だとおもった