はてなキーワード: 承認とは
何が悪かったのかについては多くの意見が出てくるが、そこから挽回するための案がほぼ出てこない。
もちろん損切りをするという選択肢もあるが、1,2年では正解に見えても10年では取り返しがつかないことも国レベルではあり得える。
ひとたび優位的な地位から脱落し、挽回するのは困難だったり、リソースが余分にかかったりするのもわかるが、分かった上でも必要な時はあり得える。
日本での議論を見ていると「もうダメだ」というのに気づき始めると、やけっぱちになりがちだ。
攻撃的になり、いかに議論を邪魔するかといった行動に移り始める。
「○○だから駄目」だとか、駄目な理由を書き連ねる人が持て囃され始め、次第に辞めさせるというのが目的化しがちだ。
「セックスは私としかしちゃダメでーす、でも私はしたくありませーん、外でしたらお前有責で離婚でーす」
こんな状態でセックスするには相手が承認しない限り出来ないのですが
セックスしたい欲はセックスじゃないと解消出来ないだろ、代わりなんかねーよ
「ハンバーグは私が作ったものしか食べれませーん、でも私ハンバーグ嫌いになったから今後一切ハンバーグ無しね、外で食べたらお前有責で離婚ね」
ここでめちゃくちゃ美味い唐揚げ出されたってハンバーグ食べたい欲は消えねーよ
でもレス側ってここで「私美味しい唐揚げ作って尽くしてるのになんで分かってくれないの!!?!!!11?」って切れるんだよな
アホなのかな?
元増田です。
性欲ではあるけれど根底は妻に"自分を受け入れて貰えた"と言う承認欲求だから。
たぶんすれ違っているのはここの認識なんだと思う。
性欲だけど、承認欲求。その通りです。
女側の承認要求として、「セックスを提供しなくても受け入れて貰えた」ってのがあるから
どうあっても嚙み合わないんだろうな
このまま我慢を続けたら、最終的に妻の認識はそっちになりそうです。
なあ、クソガキだからわからないんだけど 抱きしめてドキドキするなら撫でるだけとかじゃだめなの?やっぱ挿入しないとだめなの?
こちらもいい年なので、挿入しないのも可ではある。
が、「挿入しないこともある」というのは我慢できるが、「イチャついても一切挿入禁止」となるとちょっとツラいよね。
話し合いじゃないだろ。空気重たくしてどうするんだよ。話術で百合子を口説けるか? 無理だよ。
抱かれたいと思われなきゃいけない。例えば、女性は男性の権威性に惹かれることがある。他の女性含めて多人数から慕われているという状況が、いやーんこの個体になら抱かれてもいい、という感情を喚起することがあるのだ。
まあとにかく、妻の警戒心を解くところから始めないといけないな。猫と同じだ。
その通りだと思う。
釣りバカの浜ちゃんのように、「合体しよー」とか明るく言えたらいいのに、と思うことはしばしばある。
が、とても言えない...。
お酒を飲んだ後、旅先での温泉上がり、あるいはお洒落して出かけた同窓会から帰ってきたときとか、妙に色っぽい時ならガードが甘いことある
オナニーするところを見てもらって、気がのったら参加してもらう方式で久々にセックスした例を聞いたことがあるけど、そういうことできる間柄じゃないと嫌悪感増すよな〜。
こういうのもそうなんだが、一度空気重くしてしまうと、気軽にチャレンジできなくなる。
「また断られたらどうしよう、これ以上傷つきたくない」という防衛反応が働いてしまう。
というか、今更だが、客観的に見て、自分のプライドが高いのかもしれないと思った。
バカを演じて、実利を取ることができない。
他にも、セックスレスに関するネット記事で見かける女性側の意見で、
セックスしたい時だけ、家の事を手伝ったり、猫なで声で優しい事言ってきたりするとと本当にムカつく
とかあるのだが、こんな風に思われるとなると、不用意に優しくすることさえ躊躇してしまう。
トラバを読みつつ、改めて、どうなれば自分は満足できるのかを考えてみた。
「あなたの気持ちに気づかなくてゴメン。私もセックスは大事だと思う。私もセックスしたい」
と言ってもらうことだ。
それに、仮に言われたとしても、妻が状況改善のため仕方なく言っているだけ、と考えられるので、おそらくすんなりとは受け入れられないだろう。
セックスレス問題は、白か黒しかないので、必ずどちらかが我慢を強いられるとあるが、その通りだと思う。
そして、不機嫌になる理由をもう一度考えてみた。
結局のところ改善が難しいのがわかっているので、
「自分がこれだけ苦しんでいるのだから、相手にも少しは苦しんでもらいたい」と、思ってしまっているのかもしれない。
自分でそう考えているのかもしれないと気付いたら、俺って心の狭い人間だなぁ、と自分自身が嫌になってきた。
このままいって、
この結論にたどり着きたくないと思うばかりだが、そうならない自信はない。
諦めている内に枯れたって話しか見ないけど。
一番可能性が高いのが、これだが、これもまた悲しいなぁ…
どこかの政党が、
「夫婦は月に1回以上のセックスをしなければいけない。セックスしない場合は双方の同意が必要」
投票するよ。
PS.
どこかで読んだ記事だが、「中年になってセックスレスになるのは、若い時から奥さんをセックス好きにさせられなかった旦那の落ち度」とあった。
くそう、時を戻して、やり直したい。
サークルのびらもあんまりもらえなかったのでサークルには入らなかった。
第一印象が悪いだけでそこを改善すればなんとかなるみたいな話でもない。
第一印象はまだマシな方で、回を重ねるごとにどんどん嫌われていき、人が離れていく。
ヤバい。現実はおろかネットでさえ友達作れない。むしろネットじゃあらゆる人間に1回で切られる。
理系で修士課程ですって言うだけで、一流メーカーから何作ってるかよくわかんない企業までバシバシ内定が来る。
合格の電話のときは面接で良かった点、とかもいっぱい褒めてくれる。
今日も「はきはき簡潔な受け答え」と「チャレンジ精神およびそれを成し遂げる能力」を褒めてもらった。
どこ受けてもだいたい通るのが気持ちよすぎてやめられない。
pixivで500ブクマ稼ぐのに比べれば、ESを書くぐらいなんてことはない。
いくらでも書ける。書けば通る。
私を採用しようとせっせとメールを送り電話をかけ面談をセッティングしようかと気を遣い工場見学に来ませんか交通費はお出ししますと声をかけてくる御社のみなさんを袖にするのが楽しい。
私は男に振られたことはあっても男を振ったことなんかないんだわ。
ということで、もう6月だし、いっぱい内定持ってるのになんとなく今日も二次募集に向けてES書いてる。
私がこの前2週間かけて書いたBL小説なんか誰も感想くれなかったのに、40分で書いたESは30分かけてじっくり読んで貰える。
Tinderで約束した男は簡単にドタキャンするけど、御社は1分の遅刻もなく会ってくれる。
誰からもLINEとか来ないけど、御社のリクルーターは定期的にしょーもないメールしてくる。
つまりは私は世の中に必要とされてるんだって思えることが就活しかない。
反応するのが難しい、体(喉や目)を動かして表現するのが大変なだけで、知的障害自体はないのかもしれない。
意識はしっかりあるが、体が動かないことがつらいのかもしれない。
いずれ施設に預けるのもありだと思う。それを悪いことだとは思わない。
一緒にいることだけが正解じゃない。離れているから愛せるってこともある。
ただ、別れるまでに「愛された記憶」だけは植え付けてあげて。本人のためにも。
だから、今は諦めないで。
それから、最近の医学は進歩してる。ES細胞やiPSといった技術の発展のおかげだ。
こんなニュースもある
https://kansaibou.tokyo/%e8%84%b3%e6%80%a7%e9%ba%bb%e7%97%ba
この病院はちょっと怪しいが、高知大学も、臍帯血の幹細胞を用いた脳性麻痺の治験を始めており、こちらは文科省の承認を受けている。
ブクマでぺろっと書いてあるが、管理組合で議題に出して承認されれば変更はできる
共用部に線を引くことになるのでどうしてもこのプロセスがいる
去年までは誰も賛同しなかったのだが、昨今はテレワークとかなんかいろいろあるのでワンチャンあるで
ただ、新電気と同業者一括になってて、ネット回線を一戸でも解約すると全戸全契約解約になって東電と個別契約し直し(もちろん従来よりは高い)というパターンもあるので注意であるよ
「気持ちが女性だから…お腹下して3回」書店の女子トイレに侵入 従業員目撃し56歳"自称教員"の男逮捕
https://news.yahoo.co.jp/articles/f92c6f6a4b54d7e86b02db86a9b1ee94d589a6d4
前略
―実は人間は、この世界に自分が存在しているという事に関して、責任がない。自分の存在を自分で選んではいないからです、だから当然、自分が生まれたがゆえに、自分がこの世界に存在しているがゆえにやってしまった事、やらざるを得なかった事に関して責任がないわけです。一番もともとのところの責任がないわけですから、それに因果的に規定された残りの部分に対しても責任がなくなります。子供はもともと自分が好きで生まれてきたわけではないので、この世界に耐えられなくて嫌になって文句を言っても、その事に関して子供を叱る事はできない。人間はこの世界の中に生まれてくる。しかも、多くの点に関して、何者かとして生まれてくる。つまり多くの性質を与えられて生まれてくる。例えば男か女かどちらかの性であるものとして生まれてくる。人種的な特徴を持ったものとして生まれてくる。あるいはある特定の共同体の中に、例えば日本人の共同体の中に生まれてくる。そのほかいろいろな性質を持って生まれてくる。そういう事すべてに人は責任がない。そうであるとすれば、人間はそもそも責任がない。それがイノセントであるという事です。
子供から大人への移行
┗ここで問題になるのはこういう事です。責任がないという事は自分が選んでないという事です。逆に人間が自由な主体になるという事は、自分が選択していると言える事ですから、今度はイノセントではありえない、つまり責任があるわけです。自由と責任は表裏一体です。これは学校の先生なんかは好きな言葉ですね。イノセントであるという事は、自由な主体にまだなっていない段階です。自分のやった事に関して自分に責任があるとは言えないという事です。そうすると、人間が成長するという事は、イノセントな状態を何らかのやり方で克服・消去する事です。これが『イノセンスの壊れる時』という芹沢さんの言葉の意味です。つまり、本来はイノセンスなんです。これを書き換えなければいけない。責任がありませんよ、というところを消して、自分に責任があるんだと書き換える。そういう事をするのが大人になる事なんだというのが芹沢さんの言っている事です。イノセンスのこの書き換えをどうやって人間はやるのか、この書き換えのメカニズムを考えてみよう――それが芹沢さんの短い文章の基本的な趣旨です。
ここですごく重要な事を言っています。常識的に考えると、次のようになる。子供は自分がイノセントだという事を主張します。「ぽく、悪くないもん」という事を行動や態度によって表明するわけです。そういう事を言ったときに、凡庸な親だと「いや、お前が悪い」という事を一生懸命教えようとする。しつけをするというのはそういう事だと思われているわけです。そういう事をすると、はじめは自分は悪くないよと言っていた子供が、やっぱり自分が悪いんだと思うようになる――というのが普通の親の考えている事ですが、芹沢さんが言っている事は全く逆です。子供が何らかの意味で「俺は悪くないよ」という表現をしてきたとき、そういう意思表示と解しうる行為をとった時に、逆に「そうだ、おまえには責任がないんだ」という事を認めてやれというわけです。子供がイノセントだという事を自己表出したときに、まさにイノセントだという事を承認してやりなさい、と。そうすると、不思議な事に、まさに承認した内容とは逆の結果が出る。つまり、子供のイノセンスを認めてやると、逆にこれが否定されて、子供は自分自身に責任がある、自分の存在に対して自身に責任があるという自覚に到達するというわけです。責任を自覚するという事は、自分の存在や自分に与えられた性質・運命を自ら引き受けてやろうと考えるようになる、という事です。例えば子供が「生んでくれと頼んだ覚えはない」という意味の主張をしたときに、その事を全部肯定し、認めてやる事で、かえって人は責任ある主体に変わっていく。そういう事を芹沢さんは言っているわけです。
人間が自由な主体になるという事
┗客観的に見れば、子供がイノセントであるというのは正しい主張です。だから、自由な主体になるという事は、先ほど言ったように、あえて、正しくない虚偽を(真として)認識しているかのように振る舞うという事なんです。本来人間はイノセントです。でも、このままだったら人間は自由な主体ではない。自由な主体になるというのは、本来こちらが正しいにも関わらず、本来イノセントであるにも関わらず、まるで自分がイノセントでないかのように振る舞うという事です。だから、大人になるという事は、真理に目覚めるという事ではない。逆です。真理は、むしろイノセンスの方にある。その本来の真理を隠蔽する事が、ここでいう書き換えです。この真理の隠蔽、この欺瞞は、有効で意味のある隠蔽であり、欺轍です。具体的に言えば、皆さんは今こうやって生きていて、いろんな性質を持っている。その99.9%に関してあなた方は責任がないんです、本当は。例えば自分は足が遅い。考えてみると、これは親のDNAのせいなんだ。俺の足が遅いのは自分のせいではない。けれども、人間が自由な主体になるという事は、客観的に見れば自分のせいじゃないけれど、まるでその事に関して自分が責任があるかのように自覚して、生きるという事です。簡単に言えば、足が遅い俺も、それもよし、足が遅い俺の運命を自分で引き受けよう、そういう人生を自分のものとして生さていこうという気分になる。まるで足が遅い人生を自分で選んで、自分で引き受けてやってるような、そういう自覚に達したときに、人間は自由な主体になるわけです。
だから、本当の事を教わる事で本当の事を悟って人間は自由な主体になるのではなくて、むしろ、本当でない事を生きるようになるのが自由な主体になるという事なんだ、という事がまず頭になければいけません。
芹沢さんが圭張しているのは全くパラドキシカルな方法で、子供がイノセンスを表出してきたときに、そのイノセンスを全面的に肯定してやる。すると不思議な事に逆に子供のイノセンスが解体し、子供が自分自身の運命を自分で引き受けようという気分になっていって、それがあって自由な責任を担う主体になっていくんだという事です。なぜ。こういう逆転が生じるのか。なぜイノセンスを認めてやれば、その事によって子供はかえって自由な主体になる事ができるんだろうか。その事が、そもそも自由っていかにして可能になるかという問題につながってくるのです。
親はどのように子供のイノセンスを認めたらいいのか
┗もう少し芹沢さんの言っている事に耳を傾けましょう。いくつか面白い事例を出しています。イノセンスを認めてやるのは普通は大人、特に親です。ですから、親がどうやってイノセンスを認めてやって、その事で子供が自由な主体で責任のある主体に変わっていったのかという事を見るのがいいのですが、そのときに芹沢さんはわざとこういう例を使います。普通の親子関係だとかえっで見えにくいので、養子縁組の場面で考えてみようというわけです。なぜ見えにくいかというと、普通の親子関係というのは血縁関係がありますから、はじめから親も子供も自分たちが親子関係であるという事を当たり前の事であると考えてしまいます。お互いに自分の運命を自然の事だと考える事で、親が子供のイノセントな存在を肯定してやるという劇的な場面は半分終わってしまう。だけど、血縁関係のない親子関係では、親子関係をこれから作らなければいけない。だから、親が子供の存在を自分のものとして認める、あるいは子供が親を親として認める、そういう事を実際に意識的にやらなければならない。そこでわざと養子縁組の例で考えてみようというのが彼が提起する例です。
養子縁組というのは、何らかの理由によって両親がいない孤児がいて、そしてその孤児を自ら引き受けて育てていきたいという親がいるときに成立します。養父母は、孤児を集めている施設のようなところからひとり連れてきて、自分の子として育てるわけです。そのときにポイントになるのは「真実告知」という場面です。つまり、実はあなたは孤児だったんだ、それを養子として迎えて子供になった、そういう事実を告げ知らせなければいけない瞬間がやがて来るわけです。この「真実告知」の瞬間というものに、芹沢さんは注目しています。子供を養子として引き受けようとする人たちのために、どうやったら「真実告知」は成功するかというパンフレットがあるそうです。僕は現物を見た事はありませんが、芹沢さんの本に引用されていて、家庭擁護促進協会大阪事務所というところから出ている「真実告知例解集」という本です。それによると「真実告知」には三つのステップがあるという事が書いてあるそうです。一番目は『私たちは、血のつながりはないけれども、親子なのだ』という事をまず事実として言わなければいけない。ここで重要なのは、いかにも否定的な言い方をしてはいけないという事です。「実は私たちは本当の親ではないんだよ……」という否定的な言い方ではなくて、むしろ「親子なんだ」ということを言うところにポイントがある。二番目として「私たちは、あなたを選んだんだ」「あなたが気に入ったから選んだ」という事を言うわけですが、このときに気に入った理由を言ってはいけない。一番かわいかったから選んだとか、一番利発そうだったから選んだとか、ー番元気だったから選んだとか、そういう条件・選択において気に入った理由を言ってはいけない。そして三番目は「いま私たちは完全に満足している」という事を言う。この3つのステップを追う事によって「真実告知」のセレモニーが完結し、うまくいんだと。
子供の存在を100%肯定する
┗このパンフレットの解説が教えている事は、真実告知は、親が子供の存在を、子供がここにいるという事を100%トータルに肯定する、100%承認している、その事を示す事がポイントだという事です。子供にとっては、自分の存在は与えられたものです。自分がこういうものとして存在する、自分はこういう髪の毛を持って、こういう顔をしている、こういう性格を持っている、こういう性的な趣味を持っている、そういう事も含めてすべてが与えられたものです。ひとつも自分のせいではない。その事がこの真実告知の三つのステップの中で目指されている事です。
否定的な言い方をしてはいけないというのは「本当の親子ではないんだけど…」みたいな事を言うと、まるで血縁の親子のほうが本当はよくて、今の関係はそこから見ると少し格下だという事を言った事になってしまう。そういう事を言うと、子供がいま置かれている存在を肯定された事にはならなくなってしまう。
特に興味深いのは、第二段階です。選んだ理由を言ってはいけないというところがすごく面白いと思います。親が選択したのだけれども、その選択は理由がないという事は、それが、空虚な選択、実質のない選択だという事になります。例えば皆さんが洋服を選ぶときに、いろいろ理由があって選びます。一番安かったとか、一番デザインがよかったとか、そういうときには選択に実質があるように見えます。選択するという事は、他でもありえたという留保が付いているという事です。理由がついているという事は、どういう場合に、他でありえたか、という事が明示的になるので、選択に実質があるように見えるわけです。それに対して、何の理由もなしに選んだと。「なぜその服を着てる?」「いや理由はない、とにかく選んだ」というのは、選択はしているかもしれないけれども、実質のない空虚なものに見えてくるわけです。しかし、ここでは、単に選んだから選んだ、気に入ったから選んだとしか言いようがない空虚な選択であった、という事を子供に言わなくてはならない、と述べているわけです。もし逆に条件づきで選んだとしたらどういう事になるか、と考えてみましょう。例えば「あなたが一番賢そうに見えたから選んだのよ」と言うと、これはもちろんポジティブな言い方です。ポジティブな言い方だけれども、実は子供の存在を全面的にポジティブに承認した事にはならないんです。賢かったから選ばれたという事は、もし十分に賢くなければ選ばれなかったかもしれないという事を意味している。だから、条件づきで選ぶという事は、子供の存在を100%肯定した事にはならなくて、部分的にしか肯定した事にならない。あなたが一番よい子だから選んだという事は、よい子でなかったら自分は選ばれなかったかもしれないという事を意味するわけです。賢かったり、よい子であるその限りでの自分が親に肯定されているだけだからです。今度は子供の視点から物を考えてみたらどうなるか。親に言わせれば、選んだから選んだという言い方しかないわけです。子供の立場からすると、この選ばれ方とは、その親の選択に自分が全然関係していないという事を意味しています。もしある養子が賢いから選ばれたとします。そうすると、親が最終的には選んだかもしれないけれども、自分が賢かったという性質が親の選択を方向づけた事になります。自分が賢くなるように努力したとか、あるいはそんなふうに頑張っていたわけではないにしても、自分がそういう性質を持っていたという事が原因になって、親が選択した。親が理由ありの選択をするという事は、子供の側から見れば、その選択に自分が少しは参加している、関係している、という事です。よい子だから選んだという事は、自分がよい子であろうとしてきた、あるいは現によい子であった、その理由によって選んでいるわけだから、子供のほうもその選択に少しは参加しているという事になります。逆に、理由なしの選択の場合はそうはいきません。ここでは子供のほうには何の原因もない。親のほうが全面的に選んでいる。だからこの場合は、子供は彼が選ばれる行為に、全然参加していないという事になるわけです。そうすると、一見したところでは、理由なしの選択であった場合よりも、理由ありで選択した場合の方が、良いような印象をもってしまいます。つまり、子供を自由な主体にする、選択の主体、責任ある主体にしていくという事が目標であれば、親が理由ありの選択をしたほうが有利なような印象を与えます。なぜかといえば、例えば「あなたが賢いから選んだんだよ」と言えば、それは、賢くあろうとする子供の能動的な努力を誘発する事になるからです。でも、そもそも理由なしに選ばれたら、子供としては親に気こ入られるために頑張りようがない。つまり、このときに、子供の能動性を引き出せないようにみえる。ですから、ちょっとあさはかに考えると、理由ありの選択をしたほうが、子供というのは自分自身で頑張り、自分で何かをやろうとし、責任のある主体になりやすい――そう考えたくなる。しかし、実際には逆であって、理由なしの選択のほうが成功すると、パンフレットは言っているし、また芹沢氏も言っている。
このあたり
んで自由からのリバタリアニズムに繋がって、(話題としては)でマイケル・サンデルとかに繋がってくんだけど、そこは各々、自分がしっくりくる主義をみつけて、違う主義をもつひとと折り合いをつけながらやっていきましょーねが資本主義だと思ってるけど。
とりあえず自分の主義を探ってみるところからはじめては?自分の考えを言語化できるようになると、仲間もみつけやすいし、仲間と話せば、あなたなりの答えがみつかるかもしれん。
今期は雰囲気アニメ説に一票。あと元増田がふわっとしてるので(書き終わった瞬間元増田の記事が消えた)。
実は前作の6話だったか、選ばれてない人間はどうしたらいいんだ、という承認に関する問いかけがあった。
一期は古いTVと波長が合ったグリッドマンが色々命じてきて、戦うという必死さもなくシュールな空気の中でアンチくが食い下がってくるという話だった。アンチくんからすれば最終的には自分の生の目標が生まれてアイデンティティを失わなくてすんだし、アカネも自分の居場所を見つけることができた。なによりテーマ性として居場所と承認と本当の自己という欲求の根本が表現できていたと思う。ちょっとうろ覚えだけどグリッドマンはたしか選ばれたものだけがTVを見ることができるという設定だったはず。要するに選ばれずにグレ続けたアカネや、途中ちょっとだけいじけた内海なんかの対比もちゃんと描けてる。
仕掛けも面白かった。謎のTVから始まって怪獣が出先で突然出現したり、世界の謎がああだったりと(まあ別に新味はなかったけど)。
で、今期なんだけど別に取り立ててそこまでのメッセージはないんだよね。振られたことからいつまでもスーパー(コンビニだっけ?)の若奥さんのことを思い続ける先輩、なんとなく先輩のことを気にかけるチセ、過去を引きずる南とガウマ。つまり過去の中になにかあるってことはわかるんだけど、それ以上の引き出しは今の所ないように見える。彼ら自体の向かう先は過去を引きずらない、という帰結なんだと思う。半分終わった時点で南の姉が空気読みに近いじめに関わっていたのでは、という話になっているし、ガウマも仲間外れ、そして大人アンチくんとも仲が良くない。なので結局最期は融和というテーマで終わる可能性もあるね。だから各部位の合体と協調が前作より強く打ち出されている。テーマ性でいってもトランプ政権やブレグジット、コロナで分断された人々という時代に適合しているしね。
そんなん、終身雇用制度を前提にしたリクルートなど新卒向け人材マッチングが全部失敗してることじゃん
「新卒就職」については成人した男女本人の意志に基づく志願制とする。(他者による強制が認められた場合は刑事罰が課せられる)
「新卒就職」を志した男女は、個人の希望を優先されつつ、好感・愛着を持たれやすい秀でた容姿への改造手術たる「化粧、ネクタイの着用、おじぎのしかた」、温厚で献身的な人格への矯正、家事育児などのケアワークを中心とした技能のインストールとしてのインターン制度が行われる。
上述の通り「新卒就職志望者」には人格矯正措置が施されるが、改造前の個人が希望すれば、改造前の記憶や基本的な思考パターンについては他者に危害を加えない範囲での温存が認められる。
改造された時点で全ての人間が美しい容姿、温厚な人格、ケアスキルを手に入れることができる。
どのような形の派遣となるかは製造会社の一存となるが、全ての派遣において身元を保証され、オーナーから(法人の場合は顧客からも)の愛着と承認を得ることができる。派遣先で(元の漫画で主人公が「やすお」にしていたような)オーナーおよび顧客による人権侵害があればすぐに保護を受けることができる。
改造前の個人の経験によっては、改造前の記憶の消去はメリットにもデメリットにもなりうる。
派遣に適した外見と人格への改造措置を受けるため、個人としての同一性は失われる。
産休すると昇進に不利かつ同僚に迷惑との脅迫を受けるため実子を持つことはできない。
個人オーナーの場合、製造会社への申請さえ認められれば自分の好みの容姿の献身的な秘書を得ることができる。
法人オーナーの場合、製造会社への月額報酬支払と適切な運用が認められれば、ある程度の能力が保証された眉目秀麗な秘書を得ることができる。
不適切な運用があれば雇用側は職安にしか求人をのせられなくなる。
人権の制限をバーターとした生存権の保護により、弱者問題が大きく改善される。
法人の場合、人手の少ない労働市場の労働力および労働環境の改善が見込まれる。
「『やすお』『はなこ』になるのは絶対イヤ」と思う人間が10割であろう・・・って普通に創作マンガのキャラになりたいなんて1ミリもおもわないんじゃないかな。制度が現実より不備だなんてさすが素人マンガだなとおもうだけ。
https://comic-days.com/episode/3269632237330766632
ホッテントリに上がってるのに気づかずにさっき読んだが、ブコメで指摘のあったように、この「22歳時点で特別なコネのない平均的な能力の男女が強制的に奉仕型サイボーグに改造される」という政策が実現しかけた時点で国民の大半が国外逃亡し出生率が急落して国が滅びると思うので、発想は面白いが現実性には乏しいなと思った。
とはいえ「自分だったら『やすお』『はなこ』をこんな風に運用するのに」と考えたら面白くなってきたので書いてみる。
ざっと思いついたのはこのくらい。
「『やすお』『はなこ』になるのは絶対イヤ」と思う人間が10割であろう元漫画を踏まえ、どのような運用であれば「これならば『やすお』『はなこ』になってもいい」と思う人が出てくるかを考えながら書いた。
「やすお」「はなこ」の人間時の家族や友人の処遇、リタイアした「やすお」「はなこ」の処遇などを考えるとまだまだ書ききれない部分が沢山あるがとりあえずこのくらい。
愛と幸せについて考えている。
SNSを見てると、色んな人がいるんだなあ、と思う。
婚活で結果が出せず焦る人間。婚活で夫をゲットした女のブログ。アプローチしていた女が他の男と帰るのを見て精神を病んだ人間のSNSの投稿。
彼らは自分に自信がない、もっと言えば自己肯定感がないゆえに他者からの承認を必要としている。自分の存在を認め、精神を安定させるためにわかりやすい形で他者からの承認を必要としている。
他者からの承認を手っ取り早く得るために使われるのが「パートナーを作ること」とである。パートナーがいる自分は社会的に強い。パートナーが自分を承認してくれる。
でもそれはパートナーに自分の精神の安定を委ねることに繋がってしまう。パートナーがいることで得られる安定は仮初めでしかない。
そんな自己肯定感が希薄な人間は幸せな人間を見て劣等感を募らせる。「どうして自分はパートナーがいないんだろう」「愛されないんだろう」「だから自分は駄目なんだ」そうしてまた彼らは自己承認を失っていく。
卑下がすごい人間、自信の無い人間には、誇りが欠けている。嫌われないかビクビクしている。
周りにもそれは伝わる。おどおどしているように見える。
でも人に承認を求めると人ありきの自分でしかない。その安定は人ありきのもの。だから、自分で自分を承認できるようになれよ。肯定できるようになれよ。
そのためには頑張るしかないんだよ。何でもいい、仕事でも趣味でも、何かで結果を出すしかないんだよ。どんな小さな結果でもいい。「勉強1時間できた!えらい!」「ちゃんと出勤した!えらい!」というように意識的に自分を褒める、適切に自分にご褒美をあげる、そしてまた頑張る、を積み重ねて、「自分はこれができるんだ」という体験を重ねて自信にしていくしかないんだよ。
それを小さなハードルから設定してだんだん大きなハードルにしていけ。
越えたハードルの高さと量は自信になる。
結果を出す人間、自分に自信がある人間は、それだけで魅力的だ。
誰に打つか議論が始まるらしい。
だが、ちょっと待ってほしい。
すでに危険性の低いファイザー、モデルナは急速に進む高齢者向けの接種で消費されることは確定している。
日本の若者は高齢者のために医療費をはらい、年金をはらい、高い税金を受け入れ、正社員になれず、結婚もできず子も為せず最後は高齢者の代わりにリスクの高いワクチンで殺される
防衛省というより、全成人に2回のワクチン接種を行うことは昨年末には分かっていたんだから、政府は事前に制度設計をやっておけよとしか
https://b.hatena.ne.jp/entry/4702858790531986338/comment/mobile_neko
こういう後出しジャンケンでドヤるの、恥ずかしくないのかなあ。
「昨年末には分かっていた」て、日本でワクチンの承認もなされるか分からない状況で?
12月なんてアメリカですらファイザー製が特別承認されるかどうかという段階だよ。
(https://www.bbc.com/japanese/55012676)
そんな状況で、何を想定しろと?