はてなキーワード: 封建主義とは
フランス革命後の議会由来だというのはそうだが、フランス革命後の時点では保守対革新じゃなくて、重商主義者、対弱者重視者だと思う。
消極的自由主義(規制自体をなくす)VS積極的自由主義(結果的に自由に生きられるようにする)
とでもいいが。
ただ、封建主義を破ったあとの自由主義が格差拡大と景気低迷で行き詰まった。
解決策としてケインズ政策(国が国自身の借金、税金、金利政策で需要調整を行う)とマルクス主義(国自身が全部管理する)に分裂した。
上記の重商主義者の枠組みがケインズになり、弱者重視者がマルクスに流れていった。
相対的に自由主義から変化が少ないのがケインズで、変化が多いのがマルクスだから、保守対革新という枠組みになったが派生的なもの。
マルクスは結果的には負けたけど、ケインズもかつ直前にオイルショックがあって新自由主義に乗っ取られた。
で、ケインズ乗っ取り新自由主義が右翼を名乗ってる。だが、うまく行っているものから徐々に変えていくか、教条的に変えていくかであれば新自由主義は革新だ。
ゆえに、1980年代以前のケインズVSマルクスの時代だったら重商主義者=ケインズ=保守VS弱者重視者=マルクス=革新でよかったが、
また、重商主義者対弱者重視について、新自由主義とケインズ主義では、新自由主義=右翼が重商主義者で、弱者重視者=左翼がケインズとなる。
今の日本で(乱暴なくくり方をすれば)左寄りとされる人たちが、自身の政治的立ち位置を「リベラル」と称する風潮に納得がいかない。
なんだよリベラルって?
あえて言ってみればもともと
民主主義者
反封建主義者
を無理やり4文字で言ったらそうなるってだけの話だろ?
だけどおかしくね?
こんなのもともと(少なくとも昭和の終わり頃は)全部当たり前のことばっかで、今どき私はこうなんです!なんていうの相当やばくね?
私はリベラルです!
っていうのは
って言ってるのと
全く同じだよ。
こんなことをわざわざ言わなきゃならない日本って相当やばくね?
(補足)
勘違いしてる人がいるみたいだな。。
今の日本において私の政治的立ち位置はいわゆる「リベラル」ということになるのだろうけど
という意味で言ってるんだよ
違うな。
今の右左は1940年ー1980年台のケインズVSマルクスの競争時代の余波。なお、この時代のケインズが右翼で、マルクスが左翼だ。
大きな流れとして封建主義(大きな政府)→自由主義(小さな政府)→ケインズ、マルクス(大きな政府)→新自由主義(小さな政府)
だ。
マルクスVSケインズの時代には、たしかにケインズはマルクスよりは小さな政府だったが、自由主義、また現在の新自由主義に比べれば大きな政府だ。
もともと封建主義批判として自由主義が生まれた。自由主義が格差拡大と恐慌と景気低迷を発生させた。それ批判として生まれたのがケインズとマルクス。
国による財政出動と、累進課税などの税制と、金利政策を用いて改善させようとしたのがケインズ。国が全部調整しようとしたのがマルクス。
1940-1980年台の右翼といえばケインズで、左翼といえばマルクス。
ケインズ政策は大成功を収めたが、1970年台のオイルショックに対応できないからとまた批判された。で、かつての自由主義の再来の新自由主義に右は乗っ取られた。
ケインズ政策末期においては、格差も薄れていたため、左翼は経済政策からは完全に目を背けてほそぼそとマイナー弱者や海外の弱者のことに目を向けた。
経済史的にだいぶ昔は封建主義と言って、偉い王様と貴族が統治するのが良いという考えだった。
そこで自由に商人が動き回れるのが理想的だという考えが生まれた。これを自由主義という。
その中でも重商よりと弱者寄りで別れていった。フランス革命後に重商寄りが右側、弱者寄りが左側に議席を配置したから、重商主義=右翼、弱者より=左翼という概念が始まっていった。
別の言い方をすれば重商主義=消極的自由主義(完全に自由にするのが良い)が右翼、弱者より=積極的自由主義(結果的に自由になるようにするのが良い)が左翼かな。
ただし、自由主義の行く末として、貧富の拡大と不景気、そして一部戦争になっていった。
その自由主義の批判として、ケインズ主義とマルクス主義が生まれていった。ケインズ主義は国が需要など経済に責任を追うこと。マルクス主義は国が全部管理したほうが良いという形。
その時点ではどちらが良いか優劣がつけ難く、世界が2分された。ケインズ主義が右翼、保守側、マルクス側が左翼、革新側となった。
ご存知のとおり、冷戦終結でマルクス主義は破れたのだが、ケインズ主義も冷戦終了の少し前にオイルショックが起きたため、完全じゃないと新自由主義に乗っ取られ始めた。
そして、冷戦終結、かつ、ケインズ主義国家の新自由主義化で低成長、長期不景気が起きている。
新自由主義はケインズの知見を全部捨てて自由放任フラット税制にすれば景気が回る程度の思想でしか無いから。
というのと、あまりわかってない国民を煽動するために、「敵か味方か、敵なら攻撃する、味方なら他のこれも賛同しろよ」という権威主義のもと右翼左翼利用しようと考えだした。
マルクスは負けたのはまあ、仕方ないが、だからそれと反対の自分たち右翼は正義だ!ということで思考停止させ、他の都合のいいことも賛同させようとしている。
更にそれが行き過ぎて、今では石破支持とか、グダグダオリンピックに反対するのまで、左翼扱いしている。
今の定義ではほぼ政権全面支持=右翼、政権をわずかでも批判するやつ=左翼ぐらいにまでなってるだろう。
もはや今では政権の問題点を批判するのすら抑え込むためのツールと堕しているもの。右翼左翼という時点で旗頭に乗っ取っている時点でバカにしていいと思ってる。
ケインズ政策、マルクス政策は、その前の自由主義政策の批判として生まれた。
で、自由主義は自由に活動すれば良くなるという政策ではあるが、それが故に格差が拡大し、更に、恐慌が発生した。
そこで、政府が一定経済に介入しないとならないというのがケインズ政策、マルクス政策。
マルクス政策が失敗したのはそうだが、ケインズも実は批判を受けた。理由はオイルショックに対応できなかったから。
なお、今の長期不況はオイルショックなんか屁でもないぐらいひどいね。
故にケインズを乗っ取って新自由主義が生まれたんだが、むしろ新自由主義に移ってから日本は失われた30年をどんどん続けてる。
たまに緊縮バカが現れて致命的に景気を落とす。格差はどんどん拡大する。官の影響が強い医療、教育、介護、大学研究はぼろぼろになる。
また、失われた30年とITの勃興の時期が重なったため、日本ではITはボロボロになってしまった。今は失われた30年以上前に地盤をなした企業が生き延びてるだけ。
マルクス政策に勝ってるから新自由主義は素晴らしいんだというのが新自由主義者はよく言うが、じゃあ、ケインズ政策と比べたら新自由主義はどうなのかな?
TRPGパラノイアとそのルール解釈宗教論争で揉めてる話です。
まず自己紹介をすると僕は生粋ではないにしろTRPGが好きでパラノイアはTS版の出る前の第2版の頃から知っているプレイヤーです。いきなり専門用語を出しましたが最後まで読めばわかります(です・ます調はここまで)
僕の好きなTRPG(テーブルトークロールプレイングゲーム・平たく言うと卓を囲んで冒険のごっこ遊びをするゲーム)に「パラノイア」と題された米国生まれの人気タイトルがある。
TRPGファン界隈ではとても有名なゲームシステムで、その秘密は1980年代当時の本国・米国を皮肉ったゲームデザインにある。
このゲームを説明すると、自然物が排除され全てがコンピューターに管理された封建主義の巨大施設で暮らす国民が、自国内で発生したトラブルを解決するSFゲームだ。
面白いところはPC(プレイヤーキャラクター)は施設で産まれ育ち自然界を知らない設定なので、例えばゲーム中に外の世界に任務に行き木を見かけることがあったとして「あの木で休もう」などと発言すれば、「木とはなんですか? 貴方はなぜそれを知っている?」と仲間に言及され、略式処刑されるシステムにある。
またPC達は皆、与えられた任務とは別の反逆的な思想を持たされており、任務を邪魔するような役割を与えられていたりして達成できないことがままある。もし妨害していることが明らかにされると、それも処刑対象だ。しかしPC達にはクローンが数体用意されているため中途で死んでも記憶をコピーされ冒険に復帰できる。
パラノイアのコンセプトは間違いなくPvP(参加者同士の戦い)である。
通常のゲームではGM(ゲームマスター)の用意した邪悪な竜をPCが協力して倒すがパラノイアはPCをPCが倒す。ルールブックにもそう書かれ推奨されている。人気タイトル故に版がいくつもあるが、少なくともこのゲームを有名にした第2版ではそうであった。当時のベテランTRPGプレイヤーもやはりパラノイアをプレイする以上は仲間同士で争っていた。
そして、このことがいまファン内で論争を招いている。もはや宗教論争といっていい。卓内で宗派の違う者を歯に衣着せぬ言い方でボロクソに言っている。僕はそれをとても虚しく思う。
ややこしい話だが、パラノイアは版がいくつもあるばかりかシステムの応用版も公式から出ており、それらのファンである程度住み分けが出来ている。それらの説明は割愛し、今回趣旨としたい大きな宗派は主に「第2版属派」と「TS(トラブルシューターズ)派」に絞る。
この2つはイスラムの2大宗派と酷似し、源流は同じにも関わらずそれぞれが独自に文化を形成している。
前者を「属派」としたのはこれがまたややこしい話だが、肝なのでしっかり説明する。少し歴史の話になる。
現在、正統第2版派はほぼ死滅している。これで遊んでいるサークルはTRPG界でも深みにいる層だ。30年も前の版だから当然かもしれないが。
故に第2版は現在から10年ほど前に無料で有志(と呼ぶと怒られそうだが)によってウェブ上に少し改変されたものが公開された。それをもとに、いわゆるゆっくり音声などで実況したセッション動画が投稿され、その斬新なゲーム性から人気を博した。
だからもう大変なことになっている。なにがっていえば、まず前者の主なファンは動画サイトに在住したTRPGに触れたことのない者が多いことだ。そして、後者は根っからのTRPGファンである。
TRPGというのはGMが裁量権を握るもので、サッカーを例に出せばラインを越えればどちらのスローインかというジャッジもGMの仕事だ。
しかし、愚かながらパラノイアにおいてはゴールのラインを明らかに越えてもGMが面白くなければノーゴールとしてよい。ルールブックにもそう書かれている。
そのルールに則った文化が醸成された結果、動画では派手な爆発が好まれ、必要以上に略式処刑を繰り返すものが多く、パラノイアを初めて動画で知った者は仲間を爆破すればいいのだと刷り込まれる。そして、さあやるぞとルールブックを買う。
次の問題は、現在ルールブックはTSしか販売されていないことだ。そうなってくると、パラノイアをプレイしようとした生粋のTRPGファンの間に爆破プレイヤーが流入してくる。そして、セッションが荒れる。するとTS派は初めて怒りを覚える。「あいつらのせいで面白くない」これは実際にTS派が言っていた言葉だ。
今度は私達の番だといわんばかりにTS派はなんとPvP否定に傾倒していく。なんと他のTRPGと同じ様に、真面目に任務を遂行する文化が出来始めたのだ。
そして、TS派の重鎮が「第2版属派のはパラノイアではない」と新規TSプレイヤーに呼びかける。こうして2つの宗派は思想が離れた。
実のところ、TSのルールブックにもPvPを推奨はある。僕はあると思っている。しかしTS派のある重鎮は「いや、どこにも書いてない」と言う。
これはどちらが正しいということはなくて、どちらでも解釈できる書かれ方をしているためだ。宗教を例に出した理由がここでようやくわかっていただけると思う。
ルールブック(聖典)の解釈を巡り対立構図ができているのだ。TS派の中にもPvP肯定派がいたり、属派の中にそもそも派閥を意識していない者がいたりなどの点もまたリアルである。
先に述べたとおり、TRPG、ことパラノイアはGMの裁量次第のゲームなので、GMがPvP否定ならばゲームはそうなり逆も然り。
その時は途中で脱退するわけにもいかずとても窮屈な時間を過ごさせられる。
ゲームデザイナーは普遍的なSF・TRPGのデザインに辟易してギャグで仲間内で楽しく盛り上がることのできるゲームとしてパラノイアをつくったといわれているのだが、昨今のこのプレイヤー状況はどうにかならないものだろうか。
女性を神聖視する男性が一定数居るのはそういう教育があるからで、その教育があるのは女性の価値の上昇教育をしないと、旧来の社会にあった「男性の存在価値>女性の存在価値」って言う構造を是正できなかったからだよ。
言っちゃうとその神聖さってただの設定で実態はない。人権上の見地から女性の価値を引き上げたい社会と、もう奴隷扱いされるのは嫌な女性が合同で創作した虚構だと言える。
これはいわば、女性に対して架空のブランド価値をつけてその地位を底上げしようという作業だ。ブランディングによって女性の地位は上がった。
女性から男性に対する神聖視はなぜ逆より少ない(ほぼない)のかといえば、それは有史以来の歴史だと、男性は強者であったからだよ。狩猟採集時代から封建制にいたるまで個人の肉体能力(暴力性能)は地位を守る重要な(ときには唯一の)手段で、男性は女性よりこの点で優位だった。その後歴史の舞台が組織的社会にうつっても、男性は前の時代のリードを守り続けてきた(男性優位の父権型社会)。つまり、男性は底上げをしなくても十分にその地位が保証されてたから、後付の神話が必要なかったんだよ。
だからといって、こういった女性へのブランディング戦略が、ベストに良いものだったかって言うと、それも違う。
本来であれば「女性がその能力を十全に示して、社会において女性は男性と同じように有用だと証明する」ことによって社会における女性の地位向上を図るのが王道だったんだけど、それは色んな理由で当時は難しかった。さっき言ったように男性社会においては、そもそも女性には最初のチャンスが与えられないので、結果を残すことも難しかったから、証明までたどり着かなかったんだわ。いまでも完璧な受入状況を社会が作っているとは言い難い。
そこで次善の策として採用されたのが「女性という存在は尊くて素晴らしい女神のようなものなので、男性はその身命と権利を守るべし」という架空のストーリー(価値観)なんだよ。封建主義社会の騎士道的な世界観とでも言うべきもの。これが現在の童貞力の先祖になってる。
本来、恋愛主義を否定しているのであれば、エマワトソンが誰とつきあおうがどうでもいいはずである。
だからそこに拘泥する時点でそのオッサン自身が恋愛主義に侵されていることになる。
その上、なぜか日本のオッサンは「生物は子孫を残さなくてはならない」という自然主義的誤謬にも侵されているため、仮に恋愛を解脱してもこちらに苛まれる。
人によってはさらに、「男は家族を養ってなんぼ」とかいう男根封建主義にも侵されていて、どうにも重症である。
エマワトソンはそれらに縛られるな、人間として生きているだけで尊重されるべきだといっているわけだ。
ガチガチに縛られているとそういう言葉も届かないというのは悲しいことだが、それ自体、エマワトソンの主張の正しさを証明しているようなものだ。
ウヨるのは誇りが無いから。ネトウヨとかalt-right(「オルタナ右翼」と訳されているやつ)とかいう群れは典型。
誇りが無い、つまり、尊厳の自覚が欠けている、自己肯定感が足りないから、権威権力に依存しないと自己を保てないのである。
近年は「日本」に依存したがる人々が増え、そしてそれにあやかって収益をあげようという企業がうようよしている。安倍政権が成立したこととは相関関係はある。けれども、東日本大震災の頃から既に、少なからぬ人々が国家主義に傾いた。己の不安定感から、国家という概念に懐こうとしていった。
バブル崩壊から続く底なしの不況、経済縮小の中だから、そういう依存気質を利用してでも稼ごうとする企業の方が多い。宣伝する広告代理店とかマスメディアとかも、やはり、そうなる。
他方の欧米では近年は、例えば「LGBTブーム」が起こっているけれども、多くの企業は「稼げるからLGBT支援」であって、尊厳の問題で支持している理解者はそう多くはない。だからアメリカではalt-rightが横行し政権がウヨっている。ネトウヨを利用していてなんで政権が獲れるのかって、その方がその実、カネが動いている、少なくとも、動く期待がされているからだろう。
マイノリティ(社会的弱者)がプライド・パレードとかやると、マジョリティ(既得権益者層)から「俺もプライド・パレードやる」とか言うバカが出てくる。なにがバカって、社会から既に尊厳を認められている奴にはアピールする意味は無いから。けど、やりたがる奴が必ず出てくる。なぜなら、そういう奴らは、誇りが無いから。
マイノリティは、誇りをもっているけれども、社会から迫害されているから、生きるためにアピールしないといけない。他方で、権威権力に依存することで既得権益をもっている奴には、誇りが無いから、「俺にもアピールさせろ」となる。
社会的弱者は、声を上げ、声を大きくしていかないと、死ぬ。他方のネトウヨ(alt-right)っていうのは、誇りが無いから、「俺にも平等に言わせろ」と主張して社会的弱者を苛める言説(ヘイトスピーチ)を垂れ流し、それを「表現の自由」(free of speech)であると強弁する。
国家主義みたいに権威権力に依存する、例えば「歴史」(偽史)や「民族」(虚偽の民族)に依存するのにしてもそうだし、「富士山」とか「東京スカイツリー」とかに精神性を依存しないと自己を保てないような奴にしてもそうだが、自分より強い奴に依存しないと自己を保てないような奴。そうすると、自分と同質の奴はナカーマなんだけれども、異質で自分と馴れ合わない(そもそも本質的に馴れ合えない)奴があるのは不愉快で癪なのであろう。己の誇りの無さを、誇りをもっている異質な者に対して投影して、相手のせいにして苛める。
国家主義、言い換えれば封建主義というのは、強い奴が中くらいの奴らを苛め、中くらいの奴らは強い奴に依存して生きて、そうやって苛めがより下層の社会的弱者に押し付けられるシステムである。そして、そういう構造によって統治が実現せられている。簡単にいうと、封建主義というのはファシズムである。日本とかいうのは本質的に、江戸時代から連綿とファシズムが確立されてきたのであり、戦時中だけの問題ではない。江戸時代には、武家社会の理屈が主に都市部に浸透させられていた。そうしないと統治体制(治安)が保てなかったからだ。普通に残虐刑が行われ、厳罰、見せしめ、スケープゴートをつくって引き締めないと成り立たないファシズム国家だった。
今も、江戸時代の文化を礼賛して日本古来の文化とかいう言説が横行しているけれども、それは言い換えればファシズムだ。実際には古来の文化ではない。それこそ京文化の立場から見るとこんなん嘲笑の的だ(笑
誇りが無いから、誇り誇りと盛んに言うのである。自己に誇りが無いから日本人の誇りとか言い、誇りが無いから世界に認められる「箔」を欲しがり、オリンピックだの世界遺産だの欲しがるようになる。そして多くの企業は、そういう「箔」を利用して稼ごうと必死である。なにせ今の日本は貧しいから、貧困が比較的マシの連中は権威に懐く。
↑これの続き。
少年ジャンプの漫画『ゆらぎ荘の幽奈さん』が炎上しているのを見て、私はハイヒール・化粧を滅ぼすべきだという気持ちを新たにした。
この件に関して、リベラル側の主張は、「セクハラを肯定的に描いた漫画を子供に見せるべきではない」というものだった。
私もこれに賛成である。もちろん表現の自由があるので、ああいう有害表現のある漫画を発禁にしてよいとは思わないが、ゾーニングをして子供の目が届かない場所に置くという配慮が必要だろう。
そして、これは化粧・ハイヒールについても同様のことが言える。
私は化粧・ハイヒールのような有害物をゾーニングするべきだと思っている。
「女は化粧・ハイヒールを好むのが自然だ」「化粧・ハイヒールを使えば美しくなれる」というイメージを子供に植え付けることは、大変に有害だ。子供にそういうものを見せるべきではないし、もし見せるとすれば何らかの教育的配慮が必要だ。
女性の中には、たしかに自分で好んでハイヒール・化粧を選ぶ人たちも多い。
一方で、それを女性のスタンダードだとして強制する空気もある。
仮にハイヒール・化粧そのものには罪がないとしても、それが同調圧力となっていて、すでに実際の人権侵害が起こっているのである。このファッションの愛好者たちには、社会的責任を取らせるべきだろう。
もっとも、化粧・ハイヒールを楽しむことは、一応は表現の自由や幸福追求権に含まれるのであって、その権利を奪ってはいけない。
しかし、なぜ子供が見ている場所でそれをやってみせる必要があるのか? なぜ女性たちを縛りつける同調圧力を作ってまで、公共の場所でそのファッションをする必要があるのか? 私はこの不正義に怒っている。
どうしてもやりたければ、愛好者だけが集まる場所を作って、そこで存分にハイヒール・化粧を楽しめばいい。なにも完全に規制しろというのではなく、時と場所をわきまえてくれというのが私の主張だ。
リベラルの何がクソなのかというと、あいつらはラディカルな左翼とは違って、やっていることが世俗的すぎるし、大衆の味方をしすぎている。
例えば彼らが主張している「ポリティカル・コレクトネス」は、あくまで現代の大衆が受け入れられる程度の正しさである。
それは大衆の好みを忖度しまくった上で構築された概念であり、本当の意味での正しさではない。
例えば先日のニュースで、アメリカのディズニーランドの『カリブの海賊』のアトラクションで、花嫁オークション(人身売買)のシーンが女性差別だとして中止になったという報道があった。
はてなやTwitterで反応を調べてみると、案の定、リベラルはこれを好意的に受け止めたようである。
言うまでもなく、女性差別をエンターテイメントとして消費するのはポリコレに反するから、ディズニーランドの今回の判断は進歩だと見なすことができる。しかし、本気で正しさを追及するつもりがあるならば、「差別から目をそむけるな。差別について学習する機会を奪うべきではない」という意見になるはずだ。
「ディズニーランドは娯楽施設であって、差別を学ぶための学習施設ではない」
「エンターテイメントなんだから、正しさを過度に求めてはいけない」
これはまるで、表現の自由戦士のオタクどもが必死になって、有害でおぞましいアニメ・漫画を正当化するときに使っているロジックそのものである。
つまり、リベラルにとっては、オタクのような異端者は弾圧してよいが、ディズニーランドを楽しむのは大衆の権利だから擁護しなければならないというわけだ。この恣意的な基準によって構築されているのが「ポリコレ」だ。
リベラルが言うところのポリコレとは、大衆の好みを反映し、せいぜい大衆の利益を損なわない程度に追求すればよいものであるらしい。だから、ディズニーランドを廃園に追いこめ、廃園しなくていいが年齢制限を設けろ、というような話には絶対にならないのである。
なお、ディズニーによくある「お姫様(プリンセス)」を美化する物語も、私は有害だと思っている。こういう物語は身分差別を正当化しているし、労働者や庶民を軽んじすぎていて、そのことが民主主義の妨げになりうる。
これは子供に悪影響を及ぼすだろう。リベラルはこの点に関して甘いので、私のようにこれを有害表現だと断罪してみせることはない。それどころか、恥知らずにも『アナと雪の女王』を絶賛している始末である。
このことからも、リベラルの唱えるポリコレというのが本当の正しさを求めているのではなく、普通の大衆が受け入れられる程度の保守的な道徳観に基づいていることが分かる。
大衆は、例えばオタクのような異端者が腐臭を放っていることを我慢できないくせに、自分たちがいかに腐臭を放っているかに無自覚だ。リベラルはこの大衆を代弁している政治勢力なのである。ゆえに、リベラルは、大衆に過度の負担を強いるほど厳格なやり方で正しさを追求することには耐えられず、「ハイヒール・化粧を規制しろ」という私の主張には反発するのである。
リベラルがLGBTの権利を擁護するときの姿勢を見ても、このことは一目瞭然だ。
彼らは「同性婚を認めるべきだ」とは言うが、「結婚制度を粉砕しろ」とは言わない。
結婚などというのは、個人主義を抑圧している封建主義の産物であるが、リベラルはあくまでも大衆の利益であるところの結婚制度を維持しようとする。その上で、そこに同性愛者を取り込もうとしているのである。
これはまさしく、大衆の利益を損なわない範囲内で正しさを追求していることの証左だ。大衆には過度の負担をさせないという原則、リベラルにとってこれが一番重要なことなのだろう。
ゆえに彼らがやろうとしているポリコレの追求とやらも、ことごとくこの原則を基盤にしたものになっており、ひどく不徹底なのである。
追記。
ちょうどホットエントリの増田があったので、私もそれにかこつけて追記を書きました。
最近の文化人はサブカル系であろうが自由や個性を追求しないし、因習とたたかうことはない。むしろ逆で、愛国ポルノを煽ったり、抑圧主義を美化したり、鉄道オタクですら呆れる観光列車を好き好んで乗るほどだ。
だから日本の文化を好む人は例え外国の流れが含まれていてもまだ「島国日本のガラパゴス情報空間」の洗脳に否定的で、それを敬遠する進歩的層と言える。が、そこでも結局、所謂畳精神などの日本的古典性と矛盾するような本家版や世界版で当たり前の価値観はすべてゴッソリと検閲され、日本的枠の中に押し込まれてしまうのはあんまりだ。
乗り物オタクだって、例えば車やバイクはたったの10年前まで暴走族の名残があったし、鉄道でもアングラ文化的な根強い考えがあって、右翼スキャンダルから分かるように反PC構造にオタクが翻弄されたりもする。しかし、だからこそ、オタクは自由を追及し、因習とも権力ともたたかってきたのである。
アメリカであればマドンナの「ホワイトハウス爆破したい」発言を冷笑する感覚と、日本であればサブカルの凋落に違和感を持たない感覚、権威主義感覚、封建主義に固執する感覚、愛国ポルノを煽る感覚、抑圧主義を美化する感覚、鉄道オタクですら呆れる観光列車を好き好んで乗る感覚、全部同じだ。
「鉄道好きを撲滅せよ」「私鉄は東京から出て行け」という鉄道社会構造そのものの否定のような暴論、「ポスト管理社会主義」という現代人権感覚そのものの否定のような暴論、「サブカルを根源ごと潰せ」というカウンターカルチャー完全否定、右翼を「普通」だと思い込み、それを批判する発想の方がおかしいと嘲笑うアレ・・・全部全部、同根であり、全世界からドン引きされる島国日本性なのだ。
その先を突破する必要がやはりある、と思う。権威思考でなければならない。整然としてなければならない。たとえ地方人でも車やバイクは自転車や歩行者より優先されなければならない。例え車やバイクが嫌いでも大人として認められるために免許証を取得せざるを得ない。この道以外の選択肢があるだと宣伝している政治だって、ゴールは一通りしかない。
平成末期の、21世紀に生かされていると思いきや、実際には中世のような途方もないくらい後進的な価値観がそこかしこに幅を利かせていて、家父長制的なイエの構造やサブカル排斥的思想が、会社を包み、社会を包み、学校を包み、日本国や日本人そのものをくるんでいてその長に今の政治がある。これ全部把握したうえで対抗勢力がなきゃまずいよ。
例えば文筆業の私が小説を書くとするなら、現代日本をベースにした作品であれば、車社会と軍事政権で身動きの取れなくなった鉄道オタクがロードバイクで車を蹴散らし、鉄道オタクそのものが気に食わない権威階級をビビらせるような、そういう表現を考えるだろうね。