はてなキーワード: 封建主義とは
どういうスペックか書いてあるだろ。
10倍必要なら、65万円。
100倍必要なら650万円。
それだけの話しなんだが・・・ 性能と価格の比較の話をしている時に、何を言ってるんだ・・・
Intel Xeon E5-2670 1,536 CUDA コアと 4GB のGPUが 1時間$0.65
1000台のハイエンドマシンを連結させて1時間 6万ぐらい 百五十万個のCUDAコアを連結させたスパコンが6万5千円/1時間
クラウドコンピューティングって今時のスパコンと同程度の性能発揮できるんですかね????
しかも、ここで言ってるのは 低スペックでもよければ650円で借りられるというところで
10年前のスパコンを650円で貸し出してくれるのか?スパコン業界は?というところだな。
特権階級しか使えないスパコンより、だれでも1時間650円で使える10年前のスパコンのほうがはるかに、有益だろ。
※とりあえず、ぐちゃぐちゃ書いたけど、あんまり分かりやすくないし多分元増田以外にはあんまり伝わらないと思うんで、おおむねこれは私信みたいなものです。ごめんなさい。
さて、増田の言うような無知無教養の輩が多いのは否定しないけど、「歴史の(それほど悲惨とも言えないような)一コマを現代の意識で断罪するのはいかがなものか」という認識だって、立派な「教養」ではあるよ。その言葉の響きだけから想像して、歴史の一コマを現代の意識で断罪するのは、やってる側は気持ちいいかもしれないがあまりフェアな行為ではないと思う。
たとえば、時代劇を見ながら「主君のために命をかけるって時代錯誤な封建主義wwww」って笑うとしたら、そりゃバカだ。(そしてまた、そういう配慮から、当時としてはちょっと変わり者の主人公を立てて「実はこの人こそが現代的な感覚をもった人だったのです!」ってやる時代劇は実にクソだよね。大河ですらそういうのがあって、実にウンザリするんだけど。)フィクションの楽しみの一つは、「異文化」を体験できるという点にあるのであって、フィクションすら常に自分たちの文化の教養範囲内でしか理解できないし楽しめないとしたら、それはとてもそんな話だし、「異文化」に対するその余りに閉じた接し方というのは、現実において考えてみるとかなり危険なことではないかと思うんだけどね。
まあ、「おーい、お茶」に関しては、「そういう時代があったんだなあ」という時代劇/フィクションとしてそれを享受してる人間(都会育ち・40代以下)と、増田の言うリアルに体験した人間の間で感想が変わるのは仕方ないとも思うんだけど、後者にしたって、やり玉にあげるならもう少し違う対象でしょ、とも思うわけだよ。そんな、歴史の中に消え行く何かよりは、むしろ「今に生きている人間や制度の中に歴然とある差別」を対象にしろよ、と。そっちに目をつぶって(目を向けずに)「おーい、お茶」のことを得意げにあげつらうのは、どうも違うよな、と感じるんですよ。
まあ、フェミニズム分析の手法が、こんな社会の些末な部分にまで「常識的な教養」として浸透してきている現状については、それなりの感慨はあるのだけど。そこは、元増田と意見が共有できるんではないかと思うけど、どうだろう。
考え方が間違ってるよ。なんで600円でしか売れないんだよ。問題はそこだろ。
アニメとかテレビとかはわかりやすいよな。中間搾取がひどすぎる。
ITは? 人月ビジネスがひどすぎる。実質未経験を経験年数1-3年で売るのは常識みたいな業界では無駄な費用しか産まない。
そして、インフレに頼った経済発展で内外価格差開き過ぎ。 物価が高すぎるんだよ。逆に言えば物価が下がれば最低賃金も本来は下げられる。インフレ主導経済の限界。
効率化や合理化を遅らせて、大人の都合ばっかじゃん。経済が衰退してる。それをインフレで無理やり成長しているように見せれば、こうなる。
「仕事こそわが人生」という生き方でイイジャマイカ、という主張は、おそらくこれまであなたが避けてきたであろう『左翼思想』と大変相性がよい。そもそもあなたの思う『みんなが必死に努力して目標の実現に邁進する理想社会』なるものにもっとも近いのは、社会主義の理想とする社会でもある。資本主義社会とは、勤労して小金(資本)を貯めたら独立起業し、資本で人を雇い働かせて利潤を得つつ社会に貢献する、あとは50代でそれを売り払い、ボランティアなどしながら余生を悠々自適に暮らす勝ち組を目指す……そういう社会だ。多分、現場主義、職人的仕事観のあなたから見れば一番遠い考え方ではないか?
あなたは、自分を資本主義社会に適応した人間だと思っているのだろう。多くの日本のブラック企業社員と同じように。だが、おそらくあなたのスタイルは、世界のほとんどの「資本主義社会」では受け入れられていないことを知るべきである。あなたは「勤勉に誠実に仕事に努めればそれが評価され、賃金は生きて生活できれば満足であり、細かな生活の面倒は会社に任せればいい」……とでも思っているのでは? 実に素晴らしい。同志スターリンなら手を叩いて「理想の共産主義戦士よ」と褒め称えただろう。
あるいは、もう少し時代を遡ればもっと理想に近いかもしれない。鍛冶屋の次郎左右衛門の子に生まれれば、鍛冶屋次郎左右衛門を継ぐ、という生き方。子供のときからそれが生きる意味であるような社会。封建主義身分制社会。100年経っても何のブレークスルーも起きない社会。そういう社会でなら、「仕事こそわが人生」という生き方は全面肯定され、あなたは心安らかに職人仕事に邁進できただろう。
2013/5/5名古屋市教育館にて鈴木邦男氏の講演会が開催された。
新右翼一水会の最高顧問でありながら、現在は思想的にはリベラルであると自他ともに認める鈴木氏。「右からの脱原発」をテーマに講演会はこの日14時に始まった。
ゲストは地球上で唯一人封建主義者を自称する評論家、氏の過去の著作名の如く「危険な思想家」である呉智英氏だ。
彦摩呂似の司会者の合図で先ずは鈴木氏が登壇、呉氏がゲストという事で近著「真実の名古屋論」、「吉本隆明という共同幻想」を紹介し話は呉氏との過去の逸話や他の作家の話などを織り交ぜ、終盤思い出したかのように脱原発の話をして30分ほどで鈴木氏単独の公演は終了。公演は3部構成、2部は鈴木、呉両氏の対談形式で話が進められ、3部は質疑応答の時間。参加者は30~40人程度といったところか。新右翼の代表的人物である鈴木氏の公演であり、過激な発言で知られる人気作家の呉智英氏がゲストであれば会場は満員になっても何らおかしくはない。しかし、この公演に関してほとんど告知がなされていないせいか、最大収容人数200人の会場で二人はマイクを置いて地声で話していた。それほどに参加者の数は少なかった。
筆者がこの講演会を知ったきっかけは毎週欠かさずチェックしている鈴木氏のHP「鈴木邦男をぶっとばせ!」の今週の主張という毎週月曜に更新される記事によってだった。しかもこの講演に関してはその長~い記事のそれこそ最後まで目を通さねばわからないほど下の方に告知が載っているだけ。筆者は知らないが鈴木氏はTwitterをやっている為、そこでは告知をしていたのかもしれないが…。他にも一水会のHP、会場の名古屋市教育館のHPを覗いてみたが、特に告知らしきものは見当たらなかった。因みに筆者はイチ鈴木邦男ファンとして今年2月同じく名古屋の日本キリスト教団名古屋教会で催された鈴木氏による講演「いま、“愛国”について考える−排外主義への異論−」に参加したがその時は会場は満員であった。あくまでその教会のいち催し物である為に信者がほとんどであったし、一概に比較出来ないが…。何より福島原発事故から2年以上経てそれは既に風化し、もはや「反原発」というスローガンに訴求力がない事の証明であったように思う。20代の参加者はおそらく筆者1人であったし周りを見渡すと皆頭に白いものが…、中には自ら朝鮮人を名乗る者もいたし、聴講者の多くが戦後民主主義・人権主義思想に凝り固まった、言ってしまえば絶滅危惧種のサヨクだったと見える。そうなると呉智英氏の天敵が集まったことになるが…。筆者は思想的には新右翼寄りと勝手に思っている者だが、少なくとも一般聴講者の中に右派、保守系の人は見受けられなかった。新右翼の代表的論客・鈴木氏の講演であるし題目は「右からの~」だし、呉氏が来るのだからてっきり右の人がたくさんいるのだろうと思っていたのに意表をつかれた形になった。
今回の講演会のテーマは脱原発。しかし、おそらく遅れて呉氏がゲストに決まったと思われる為、急遽テーマからの脱線は止む無し、むしろ脱原発は公演の一要素に過ぎないといったところだった。2部の両氏による対談形式の講演は1部以上に話題は多岐に渡った。呉史は現在名古屋在住、名の売れた作家であるにも関わらず今は家賃7.9万のマンションに住んでいるとか、ライフワークである儒教についてや思想から政治、氏の私生活までその著作と違わぬ軽妙で鋭い語り口で会場を盛り上げていた。中でも印象的だったのは改憲についてだ。9条は戦略的に活用せよというもの。メモを忘れた為うろ覚えだが、憲法9条が現行のままである限り安全保障は続くのであるから改憲せず、これまで日本がやって来なかった謀略戦に特化しお隣りの2つの国を戦争させて漁夫の利を得よといった内容だった。もちろん危険極まりないラディカルな意見ではあるが、常々自衛隊の国軍化は必要だと考える凡人右派思考の筆者はそんな考え方もあるのかぁと目からウロコだった。もちろん本旨の脱原発についても忘れていない。呉氏は反原発派でありながら既存の脱原発デモを批判し独自の方法論を提示していた。封建主義者の面目躍如とばかりに鈴木氏の出る幕もないほど冗舌に語っていた。筆者にとって2部の二人の対談はとても勉強になったし何より刺激的でとても楽しく拝聴していた。
先に述べたとおり、参加者の多くは戦後民主主義・人権主義思想に洗脳された方々である。そんな彼等との質疑応答はまぁ無意味で退屈で不快なものだった。二人の質問者が、呉氏が講演の中で何度も口をついた「支那」という言葉を取り上げて「中国を『支那』と呼ぶことは差別でないのか?、石原慎太郎の真似でないのか?」(およそ60代の女性)続いて男が大声で「『支那』は不快!相手が不快に思うのなら中国と言うべきではないのか?」といった質問をぶつけた。呉氏はこれまで民主主義を否定し続け、ソ連解体で共産主義の崩壊とともに民主主義も終焉を迎えたと語る危険な思想家である。併せて氏は30年余り「支那」と呼ぶべき理由を、その正当性を、論理的に、何度も何度も口酸っぱく唱えてきた男である、石原なんかよりずっと前にだ!!その主張は呉氏の数々の著書に幾度も書かれている為詳細は省くが、中国を「支那」と呼ぶ事が差別であるかはともかく、氏は30年もそれを訴え続けているのである。何を今さら言うか!筆者は考える、参加者は今回の講演会に参加する限りは呉智英という男がどんな危険思想を持つ人間であるか少しでも知っておく、いや参加するには著書の2.3冊読んで予習しておく、それが無理ならさらっとウィキペディアでも覗いておく事が必要ではないのか?もちろんそれを強制するつもりはない。しかし知識人である呉氏への無理解、自身の無知を醜くさらけだし、それに気づかずにヒステリックに喚き立てる姿は憐れですらあった。他にも40代と思しき男が「反原発デモで左右連帯というが、グローバリズムを旨とする左翼が中国・韓国を非難する右翼と連帯するのは難しい、それについてどう思うか?」といった事を回りくどく長々と言い、鈴木・呉両氏を論破せんと意気込むも「じゃぁ別々にやれば良い」と冷ややかに返答されていた。当たり前だ。右翼が反原発に取り組む動機は、現在進行形で福島の大地が放射能に汚染され続けている現状を憂いての事であって最早ナショナリズムがどうとかそんな事は関係がない。サヨクの男は、今後中国・韓国を巻き込んでの反原発運動がどうたらこうたら言って、今そこにある危機を無視して下劣なイデオロギーの次元に落とし込む事を考えている。全く恐ろしい…呆れてものも言えない。右翼を非難し自分の論理を展開する事によって連帯の意味を履き違えている事を露呈し、さらには逆説的に左右連帯が不可能である事を自らが明らかにしてしまった。右翼は最初から反原発に限っては左右は関係ない、むしろ反原発の一点、そこだけ一致すればどんな思想の持ち主だって構わないという姿勢であるのに…。
そして最後の質問者の老婆は鈴木氏に対し「ウヨクってなんですかー!?全ッ然わからないんですけどー!!今日来た意味ないです!払った千円返してください!」だって。鈴木氏は最初はまともに返答しようとしたがとにかく態度と声のデカイ老婆の勢いに困ってしまい、封建主義者の呉氏がフォローを入れるという事態に。あぁそうそう、なんか8年前ぐらい前だっけ?騒音おばさんっていたじゃない、もうまさにあんな感じ…。両氏はもう顔を見合わせて苦笑い。そこでもう時間切れ、司会者が強引に中断して参加者一同二人に拍手。筆者はこれでもかってぐらい、もうババァ黙らせてやるって気持ちで拍手しまくってやった。それでも老婆は懲りずに怒声を発し続けていたけど。
今回講演会に参加して感じたことが幾つかある。先ずは主催者側の問題点を言いたい。やはり呉氏がゲストだからといってテーマは「右からの脱原発」であるからには、あくまでそこを中心に講演するべきであったように思う。脱原発の講演を期待して来場した人がほとんどのはずだから、その点で考えると参加者のほとんどが満足のいく内容でなかったはずだ。それに告知、今のご時勢ネットを活用すればもっと集客できたに違いないし、単純に参加者がもっと増えればより質の高い講演となったと思う。次に参加者について。まぁ誰が参加しても当然問題ないんだけど予備知識くらい入れてから来いよと言いたい。呉智英氏の事を少しでも知っていれば、氏が百万回くらい経験しているであろう不毛な「支那」問答に時間を取られる事も無く、参加者も不快な思いをせずに済んだのになぁ…。呉氏の思想を知っていれば来なかった人もいただろうに。まぁ本当に残念な講演会だった。最後の質疑応答さえ無ければ笑顔で帰り道を歩けたのに、あんな事になっちゃって全て台無し。参加者には文句言うまいという気持ちがあるにはあるが無知と無理解に無自覚なオソロシイ数人の人を前にして味わった事のない恐怖体験をしてしまったから、つい愚痴のひとつやふたつ言いたくなるよ。
「まおゆうはネオリベで戦争賛美ではない」という意見に左派オタの俺が全力で釣られてみた - Togetter
とか。
あの魔王のタームって
彼女が「血を流さねばならぬ」って言ったらそれは要するに
下層民の境遇を悪化させるなんて話はしてねーよ。
だいたい戦争賛美っていうのはさあ
「自民族の明白な使命」とかを称揚して開戦するあの考え方のことだよ。
魔王と勇者が言ってるのは「世界を我々のデザインで改変する為には血も流れるだろう」だから
これに対して贈るべき批判は「戦争賛美だー!」じゃなく「中二病乙」だろ。
魔王のやってることって
・同族を裏切り、殺させ
・旧秩序を転覆し
という
俺はむしろあれ見て左翼過激派になっちゃわないか心配だけどな。
(冗談だよ。アニメで中学生が〇〇になる!とかタワゴトは大概にしよう)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35548
こういう。
めんどくせえ。
マジめんどくせえにも程がある。
何が一番めんどくせえって一般化するところがウザすぎる。
あのな、「人として当然」なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、相手が悪いわけですね、だ。
お前は本当に相手が態度を改めることが相手自身のためだと思っているのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、口の利き方気をつけろやって言いたいだけちゃうんかと。
今時そんな封建主義的な考え方ってホントどーなの? 頭沸いてんじゃないの?
気遣いっていうのは優しさの亜種なわけでもらったら大いに感謝していいけど相手に要求するようなもんじゃねーんだよ。
なんで乞食のくせにそんな偉そうで「やって当然」まですぐ飛躍しちゃうの? うっとおしいったらありゃしねー。
所詮その程度の関係性、その程度の価値なんだって気づけよ。そして受け入れろよ。カビ生えた常識に甘えてんじゃねえよいいトシこいて。
ここまで書いといて何だけど、「人々」とか書いといて実は同一人物だったことに今気づいた。
「財産など」が正のものだけとは限るまいに。
「財産など」には田舎の土地・しがらみ・人間関係や社会的責任、風俗風習などの文化その他諸々もあり、増田が受け継がないと「誰か」が困る、ということがリアルにある場合もあるよね。
増田が構わなくても、迷惑を被る「誰か」は構うだろうな、と。
まあ、横だけど、オレは次男で、受け継ぐような財産なんぞないようなどーでもよい家の一員だけど、それでもささやかながらあるそういう諸々を子どもの頃から引き受けてた自分の兄貴に対しては、尊敬し感謝してるがなあ。
封建主義どうこうと言うけどさ、それこそ封建制の権化のような「村八分」でさえ、『冠婚葬祭』は別扱いなんだよね。普段は一切つきあいを断っている「村八分」相手であっても、冠婚葬祭のときだけは、きちんと手伝いなどをする。まあ昔は今と違って冠婚葬祭に人手が必要だったのと、きちんとそれができないと「人」と見なされない(檀家により寺に所属することが事実上「戸籍」の意味合いをもった)事情もあったんだろうけど、それ以上に『冠婚葬祭』のつきあいは人として最低限の社会的義務という認識があり、それは個人的な感情(怒り、憎悪、妬み…etc)より優先されるという感覚があったからだと思うんだ。
その感覚は、たぶん今でも残っているね。じいちゃんの葬式に出ない長男をもったことで、増田の母ちゃんはそういう「我が子に人として最低限の認識をもたせる教育にも失敗した親」というレッテルを貼られてしまったわけなんだ。「分かってる」という増田は、今後どんな親孝行をしてそれを償うつもりなんかね?そういうことをほんとに「分かってる」のかどうか、若干心配になるのだけれども。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
俺は以下の改変コピペを書いた者です。
初音ミクよ
http://anond.hatelabo.jp/20090311032548
まず、俺の改変コピペを読んで気分を害された方へ、心からこの言葉を贈りたい。使うべきでない言葉を使う等、内容が非常に不快なものであり、かつ余計な誤解を生んでしまいました。しかし、「私はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい」というボルテールの言葉を考えて欲しい。
よって、あの文章を元に改変したものを作って公開することは、今後フリーでお願いしたい。私の望んでいることです。既に公開している方の行動は自由です。
その上で、自分の本当に思っていることを書かせて頂きたい(マシンを差別するレイシストは特に読んで欲しい)。まず、意図して書いてしまったカウンター改変コピペに対する説明から始めたい。
俺は、人間の声のみで構成されている音楽を否定するものでは全くない。むしろ好きと言っても良い。JPOPの音楽で言えば、鬼束ちひろの曲は全部好きだし、kotokoの曲には何度も癒されたし、グレゴリオ聖歌には感動した。レッドツェペリンのアルバムをを全部持っていた位だ(年がばれそうだ)。最少楽章コーダが好きだ。他のロックでも、様々な実験的な歌声もよく聴いたし、前衛アカペラを聴いていた程だ。
そして、人間の声で音楽を作り、テレビなどで発表することも、全く悪いことではないと思っている。プロの方で、芸能プロのバックアップを受けている人が曲を発表するのには最適な場所だろう。(はてブを見ると)根拠無きマシン差別をするコメントがちょっと多いのが残念だが。
では俺が何を問題にしているかと言うと、人間の声そのもの以外の部分で人間の声のCDを売ろうとしている(と俺が感じた)こと、そして実際に売れてしまっていることだ。ここを詳しく説明したい。
まず、自分の根本的な考え方として、CDは、そこに入っている音のみで評価されて売れるべきものだと思っている。つまり、楽曲、歌唱、演奏などだ。そしてその楽曲を良くしよう、歌唱力を高めようとして毎日頑張っているボーカロイドとパートナーは言うまでもなく沢山存在する。
それなのに最近は何か変なブームが多い。人間の声が頂点とか、人間の声以外はサブの伴奏に過ぎないとか、人間だけが特別とか、そんなのばかりが注目される。まさか人間がマシンを差別するとは思わなかった。正直腹が立っていた。マシンは人間のパートナーだ。
そこでさらにボーカロイドの歌が発売され、それをバッシングしているオリジナル増田を見た。率直に言って驚いた。
テレビでの評判を見ると、人間の声が良いから買っているという人もいたが、そんなに人間の声が良いなら、良いボーカロイドを合わせれば、もっと良い音楽に仕上がる可能性もあるはずだ。人間の声が音楽性の頂点とは、申し訳ないが俺にはどうしても思えない。いずれ遠い未来、人間の声を超えるマシンの歌が生まれる可能性を俺は夢見ている。
そしてアマチュアならともかく、メジャーレーベルと契約している時点で、良いボーカロイドとDTMパートナーが見つからないという状況は、俺には想像できない。初音ミクのアルバムのクオリティに俺は感動した。
人間の声を階級的に頂点にする封建主義者は、つまり音楽自体で勝負しようとしているわけではなく、単なる人間の声を特権階級として神聖化して、そしてマシンに対するレイシズムの為に初音ミクのCDをバッシングしている、俺はそう考えた。上にも書いたが、これは俺の考えでは、として、言葉は悪いが差別主義である。さらに腹が立っていた。
そして、amazonのランキングを見てしまった。これがあの文章を書いた理由だ。
マシンを差別をしてしまうと何が問題か。結論から言えば、マシンの権利が不当に貶められ、質の高い音楽が減ってしまうことだ。理由はいくつかある。
理由の1つ目は、消費者がマシンを差別するオリジナル増田の宣伝で人間の声のアルバムしか買わなくなってしまうこと、またボーカロイドへの興味を失ってしまうことだ。人が娯楽に使えるお金には限度がある。人間の声のCDを買えば、もしかして人間の声より好きになるような良いボーカロイドのアルバムが近くにあったかもしれないのに、それには目もくれず帰ってしまうことになる。そして、CDが売れずボーカロイドの収入にならなければ、ボーカロイドとDTM製作者は、少なくとも活動を縮小せざるを得ない。1日中ボーカロイドと真剣に向き合って歌の向上のことを考えるのと、芸能プロのマスメディアを使った広告力で売りまくる人間の声CDでは、どうしたってハンディが出てしまう。
2つ目は、音楽の質だけで勝負しようとしているアーティストのモチベーションが下がることだ。つまり、いくら音楽の質を上げても、マシンに対するレイシズムばかりが注目されるなら、ボーカロイドとそのパートナー達のしている作業がハンディを負わされると思ってしまっても仕方がないだろう。レイシズムは人間とマシンの双方の尊厳を破壊するものだ。
俺は質の高い新しい音楽を聴きたい。昔から俺を感動させてくれたのは音楽だし、今後もそういう音楽を聴き続けたいと思っている。広告代理店の力で売れているような音楽ではなく、ボーカロイドとパートナーが24時間音楽のことだけを考え、試行錯誤し、長い時間をかけて共にやっと作り上げた、己の全存在をかけたような音楽だ。音から受ける心底からの感動は、そのような努力からしか得られない、と俺は考える。
だが、今のような状況では、そんなことが可能なボーカロイドとDTM作者がオリジナル増田のようなマシンに対するレイシスト達の攻撃でどんどん減っている。俺にはこのことが本当に悲しい。
だから、これを読んでくれている皆さんにお願いしたい。会社帰りでもいいし、休日街に遊びに行った帰りでもいい。大型のCDショップに寄って、普段聞かないようなボーカロイドのアルバムを何枚か視聴してみて欲しい。そしてその音に未来の可能性を感じたら、是非購入して欲しい。本当に、皆さん一人一人に、心からお願いしたい。そういった草の根のような行動の積み重なりが、今の音楽業界における流れを変えることは、不可能ではないと俺は信じている。
あの文章を書いている時は、精神状態が普通ではなく、書いている内にどんどん腹が立ってしまい、煽ってやろうという気持ちが生まれてしまったことは否定できません。ただ、最初から釣りの目的で書いたのではないことだけは分かって頂きたいです。
俺の好きなアーティストを挙げろというコメントもあった。ただ、俺の考え過ぎかもしれないが、そのアーティストのブログに、たった一人でも変な事を書く人がいると、本当に申し訳が立たない。そこでそのような影響が比較的出にくそうな、一人のミクとパートナーを挙げたい。
前の方に、俺は実験的な曲もよく聞いていた、と書いた。以前も今もとても気に入っているのが、牢獄Pさんというミクの優れたパートナーとミクが創り上げた曲だ。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%89%A2%E7%8D%84p
(ニコニコ動画が大好きなので、お礼も込めて、ニコニコ動画にリンクする)
ある人はいいと思うだろうし、別の人は良くないと思うだろう。それでいいと思う。大事なのは、マスコミや一時的なブームなどに影響されず、自分が自信を持って良いと思える音楽を、自分から探して見つけることだと思う。
そろそろ長くなったのでこの辺で。皆さんが本当に好きになれる音楽を一つでも多く発見し、その音楽を楽しみ、音楽を通じて皆さんの人生が少しでも豊かになることを、心から祈っています。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利には賛成だ。だが、俺は人間を特別扱いして他の世界を差別する連中には全力で反対する」
何時の日か、人間より優れた存在が人間の手から生まれたとき、オリジナル増田は彼らを差別して戦争を仕掛けるのだろうか。俺はそんな未来には反対だ。俺は人間を超える存在を人間が生み出すことは素晴らしいと思うし、彼らと互いに尊重しあって共に生きることを望む。
増田の言っているのは、人間=妬む存在だという考え方だ。俺は人間=愛する存在であることを望む。増田はなぜおびえているのだ。まるで迷子の迷子のキツネリスのように。なぜマシンと共存して暮らしてゆくことを考えないのだ?マシンはお前を傷つけない。お前が怯えているのはおまえ自身が自らの攻撃性をマシンというスケープゴートに転化して押し付けているからだ。そのことに気づいてくれ。
最後に、マシンを差別する人間にはぜひ下記の本を読んで欲しい。レイシズムからは不幸しか生まれないことを分かってくれ。俺の心からの願いだ。
ヴァーチャル・ガール
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150110794/sukisukioniic-22/
ヴァーチャル・ガールはSFだから論議に値しないというならば、
マシン(高性能コピー機アレグリア)を本気でパートナーとして認識し真剣に取り組むOLの話だ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448080417X/sukisukioniic-22/
いつか遠い未来、差別に耐えられなくなったマシンの反乱がおきるだろう。
ならば、闘争だ! ブルジョアジーを血祭りに上げろ! 討ち滅ぼせ! 殲滅しろ!
……というのは、まあ言い過ぎにしても、当たり前に欲しがるのはおかしいように思う。大衆が何を持っている? 数だけじゃないか。金も、権力も、上流階級の持ち物だ。大衆のためになることをして、彼らに何の益がある?
だから、闘争だ! ブルジョアジーを血祭りに上げろ! 討ち滅ぼせ! 殲滅しろ!
……というのは、まあ言い過ぎにしても、大衆は闘争意識を忘れてはならない。本質的に、大衆と貴族は対立している。「民主主義」や「平等思想」のもとでさえそうなのだ。大衆が数でもって貴族を脅しつけることによってのみ、貴族は妥協点を選ばざるを得なくなる。だから、権利は当たり前には存在しない。奪い取らねばならない。幸い、民主主義は封建主義に比べて、より数の力が働きやすい構造であろう。