はてなキーワード: 天丼とは
http://anond.hatelabo.jp/20160925125021
人を笑わせる要素は、パーソナリティ5、技術3、内容2だと思ってる。
昔、山里亮太が芸人のネタをそのままやってくる素人に対して、「あれは芸人のパーソナリティあっての面白さであって、お前らがやっても何も面白くないからな」と苦言を呈していたが、その通りだと思う。普段陰キャラな奴がいきなりモノマネとかやられても困る。
技術についてはテレビを通して芸人の技法が日常会話にも入ってきてる感がある。
さまぁ~ず三村が「昔は”天丼”とかお笑い芸人だけのものだったけど、今はふつうだよね」と言っていたが、よく分かる。
桂枝雀の「緊張と緩和」の理論も松本人志や千原ジュニアがお笑い論を語るときによく持ち出すので素人界隈でもよく聞く。
終わるってんで20年かそこらぶりに読んだわけだが、
纏とかいう無難な庶民といい感じになったんだか所帯持ったんだか判らん状態になっちゃってるのもそうだが、
なんか両津に限らず登場人物のギットンギットン加減が全然なくなってる。
っつーか顔が手抜きじゃん。中川と麗子の顔が。なんだよあの新聞4コマまんがか昔の英語の教科書レベルの淡白な顔。
フリテンくんかよ。ニューホライズンかよ。エレン先生に負けてんじゃねえか明らかに。
昔のこち亀はハリウッドで作った男はつらいよみたいなゴージャスでバカでエキセントリックで勢いで押しきれる作品だったのに、
今のはNHK辺りの昼間にやってる漫才番組か欽ちゃんの仮装大賞だ。
芸がない。
天丼だのみか。
こいつら全員ジジババか。
今回は少年ジャンプ+
読切祭の残り感想。
あと、「金未来玉杯」ってのがやっている模様なので、それに絞って感想を書く。
「金未来杯」にはエントリーできないけど面白いギャグ漫画を集め、その1番を決定する企画らしい。
低劣だけれども、キライじゃないよ、そういうの。
読切祭の八つ目。
ふぅむ、流行に乗ったテーマではあるけれども、設定を捻るだけでなく盛り上げる展開も含めつつ、ストーリーもそれなりに面白いと思う。
まあ、まあ色々と粗があることも否めないが。
ストーリーの構成からテーマを考えるに、バトル部分が本旨ではないのは分かるんだけれども、あっさり気味なのはやっぱり残念かなあ。
まあ、でも読切祭の中では個人的に上位だよ。
さて、読切祭の総括だが、前回含めて色々と粗探しとかしていたけれども、なんだかんだ全体的にレベル高かったと思うよ(玉石混合な世界で漫画を読み続けている身としては)。
総合的な漫画力で「ハトトコネコ」、テーマに甘えずストーリー構成で魅せてくれた「SOCIAL GUARDIAN」、キャラクターの人格に気概を感じた「こっち見て片山先生」、面白いコンセプトの「冬春の仕事」あたりが自分の中で印象深いかな。
破天荒な主人公の言動が、最終的になんだかん人々を引き付けるという構成は好きだけれども、ギャグのレベルは普通の範疇かな。
設定を活かしたギャグ、ストーリー展開をもう少し期待していただけに、それが残念。
ギャグの方向性がときたまズレているというか偏っているというか、天丼ということを考慮してもワンパターンに感じる箇所もあったり。
まあ、でも軽妙なやり取りはノッてて面白いと思った。
ギャグマンガだから、やるからには過剰な言動のキャラクターという自覚の塊を持った「ストロングスタイル」という、まあコンセプト自体は悪くないと思う。
だが、ギャグのほとんどが唐突で尊大というか、いまいちピンとこない。
ネタ選びや、ギャグに一貫性がないのが、そう感じさせる要因だろうね。
作者自身よく分かっていないというか、扱いきれない状態で描いてしまったという印象を受けた。
ノリと絵柄だけならコロコロとかの小学生向けで連載してそうなタイプだね。
けれど「吸血」の定番ともいえるのか、明らかに「アレ」を髣髴とさせる暗喩的な表現も含まれている。
まあ、それがコンセプトともいえるし、それ自体は面白いんだけれども、シチュエーションなり登場人物だったりとかを練って、もっと話を転がしたりして面白く描けたんじゃないかという気がする。
終始テーマに沿っているのは好印象だけれども、舞台というかシチュエーションの都合上イマイチ盛り上がりに欠けるってところが難点か。
ワー、カワイイー。
動物擬人化ものだとか、萌えだとかの定番アイテムが、それ以上の役割を果たせていない。
設定だとかテーマを踏まえると、むしろ及第点以下だと評価してもいいほど活かせていない。
こういうファンタジー的な要素に、それっぽい理屈を付けるのって楽しいからね。
ちゃんと、前編でネタとして提供される設定が後半の展開で活かされている構成なのがよろしい。
総合的に纏まってて、これといって言いたいことはないんだけれども、強いて言うなら構図とか、コマ割とかかなあ。
さて、金未来玉杯の総括。
ギャグマンガに絞った企画だったのだけれども、当初の私が予想していたのとは趣が異なるマンガが多くて、嬉しさとガッカリ半々って感じ。
投票は~……どうしようかな。
総合的なクオリティならば「綾樫くんは飼っている」だけれども、あくまでギャグマンガという土台に乗っけて評価するならば、軽妙なやり取りの「たちあがらない勇者テンツ」とか、テーマで紡がれる内容が一貫している「吸血童貞タナベ」、キャラの濃い主人公でガンガンいくオーソドックスなタイプの「キング=カイザー=エンペラー」も捨てがたい。
まあ、後で決めよう。
今回はふんわりジャンプ
サイトのコンセプトの通り、感想を述べられる趣旨のモノではないので、気になったのだけ挙げてサラっと感想書く。恐らく、今後もふんわりジャンプを利用はするけれど感想は書かないと思う。ベクトルが違うのだから優劣を語るものではないのだけれども、現実の日常の中にある要素だけではエンターテイメントとしてはどうしても弱くなるなあ。
この人、私の知らない間に顔芸とかも挑戦するようになったんだな。
内容としては、良くも悪くも別段いうことないです。
というか個人的な事情なのだが、子育て系のエッセイ漫画はサムネイルだけで食傷気味なんだよ……。
まるで騒ぐのをやめたら受け手が読むのをやめると思っているんじゃないかってくらい、ネタの入れ具合が過剰だ。
4コマなんだから起承転結を意識したり、緩急をもう少しつけてくれたほうが、ネタの一つ一つも切れ味が増すだろうに勿体ない。
主役のネコサラリーマンが可愛くないビジュアルなのは、ネタのシュールさが増している感じがして、むしろよい(作者の画力的に、可愛いものが描けるかといえば微妙だとも思うが)。
ただ、当初の設定に依存しすぎたネタだから、少年ジャンプ+の「猫田びより」みたく横軸というかモブキャラでしっかり脇を固めないと、そう遠くないうちにネタ切れしそうな予感がする。
うむ、「日常」を謳歌している描写が丁寧で、登場人物の説明や人格も嫌味なく織り交ぜていて、読後感がよろしい。
というか数多ある日常系の漫画は、その実「日常感」を描くことがおざなりなものが多いので、こういう本来やるべきことをしっかり描いているのはすごく好印象。
アレなタイトルとビジュアルに反して、やってることが同サイトのおもち日和とカブってる気がする……。
メインキャラが全員目が隠れている造形は正解かもしれないな。
現実でもそうだけれども目で大分印象変わるから、あえて描かない事で他の部分で魅せようという選択肢としてアリだと思う。
まあ、話はもう毒にも薬にもならない感じで特にいうことはないけれども。
私もプー太郎経験あるけれども、このテの一番のポイントは「深刻さ」がないことなんだよね。
「働かない」ことでひもじい思いをするから働くのであって、「働かない」ということそのものに是非はないから。
漫画とかでよくあるニートの描写は、鬱屈とした部分だけ抽出して、それをデフォルメしすぎ。
そういう目線で見たとき、ニートをここまで緩く、危機感なく描いているというのは、むしろ現実的だとすら思う。
このまま出船番号ネタで引っ張るかと思いきや、最新話だと同級生の話とかも絡めてくるんだな。
誰しも色んなジャンルで経験ありそうだけれども、関心の度合いってものがあるから知識の押し売りはやめたほうがいい。
「へ~」くらいしか返しようがないし、かえってそのジャンルや語ってる人がヒかれる可能性がある。
話としては「あるある」なんだけれども、どうせ天丼ネタをやるならあともう1~2回くらいは繰り返して欲しかったかな。
最終的に主人公が当事者になってしまうというオチを持ってきたら、予定調和的ではあるけれども、話としては綺麗になる。
あと、アレだな、コミックウォーカーとかで読める「かふん昔ばなし」がネタ選びとか、それをどう面白く表現するかっていうことに気を使っているから、それとどうしても比較してしまう。
今更だけど
確かにこれはうまい
何がいいか
天カスに地味に具が入ってるとこと天丼用のつゆ?たれ?がうまいところ
前者は、たぬきうどんとかスーパーの丸い天カスってレベルじゃなくて、普通の天ぷら作ったときのカスだから、探すと野菜カスとかがあって、かき揚げもどきになる
薄いつゆ程度のイメージしかなかったけど、うなぎの蒲焼のたれ的な濃厚な甘辛い的なやつで、もうこれだけで満足度あがるわって感じ
そんでもって最後はうどんのつゆでお茶漬けっぽくしたけど、こんだけ天丼のたれがうまいと、全部天カス丼として食ったほうがよかったかもって、つゆ入れて食いながら思った
うどんのつゆもうまいから、天カス丼のタレがキレて白いごはんがのこっちゃったときはいいかもだけどね
いやまじでうめえよ天カス丼
200円くらいなら、ん、まあこんなもんかってなるけど、100円ちょいでこれが食えるって相当だよ
天カス丼自体のうまさと、お得感のうれしさっていう相乗効果で、めっちゃ満足度が高いわ
俺今めっちゃ興奮してる
イオンの中のうどんやのカツ丼セットがクソまずかったからその反動もあるけど
丸亀製麺すげえわ
はあはあ
ちなみに、本作で一番株を上げたキャラはにこだろう。
彼女は出番こそ決して多くなかったものの、登場するたび印象的なセリフや立ち回りを披露し、それを中の人であるそらまる氏が完璧に演じきっていて素晴らしかった。
特に5話の「アイドルっていうのは~」というセリフ、12話の「あんた、それ本気で言ってるの?」から始まって激昂するシーン、いずれも本作屈指の名場面である。
結果として、気難しいところもあるけどそれ以上に可愛いところもいっぱいあって、実は1年生組と一番仲が良くて(面倒見の良さを想像させる)、そしてアイドルに対する強い想いが芯にあってと、これでファンが増えないわけがない。
アニメ以前2010~2012年の矢澤にこがどれだけ可愛くて個性と魅力を両立させていて強く期待を背負ったキャラだったかを知っているとなかなか上記のようには思いがたい。むしろアニメ化の被害者という印象の方が強い。
これが曲者で「印象的」と曖昧な言い方で誤魔化してはいるが、印象的なだけならアニメ前のにこも十分に印象的なセリフばかり残している。むしろアニメ前のキャラクターの方が印象的かつアイドルらしく可愛いセリフや立ち回りが多い。
アニメ前の設定を馬鹿にする新参系や流され系のファン(実質アンチ)もアニメ前の矢澤にこについては「キャラのクセが強い」、「キャラがキツイ」とよく言っている。クセが強い、キツイというのは個性の強烈さの言い換えとも言える。つまりアニメ前の方が印象的なキャラであることを認めているようなものでもある。
アニメ前や原案作成者の公野櫻子系作品の矢澤にこは常に理想のアイドルになろうとしていた存在だった。キャラ作りではなかった。キャラ作りだとしてもプライベートでもその作ったキャラのまま振る舞うキャラクターだった。
その姿勢はアイドル活動に疎い他のメンバーからも尊敬され、一目置かれている描写も多々あった。そのにこのキャラクター性には(公野媒体のギャグ度が弱い)海未ですら翻弄される描写もある。
アニメ版の矢澤にこは花陽と絵里以外には基本的にいつも馬鹿にされている。意識だけ高い振りするウザい奴という扱いのクズである。
一方でアニメ版も印象的なキャラではあったが、良い意味で印象的だったのは最終話付近で穂乃果に檄を飛ばす所くらいであり、寒い天丼ギャグ扱いのために花田十輝が拵えた改悪キャラクターとしての役回りが中心である。
それでも、最終話付近は穂乃果をはじめとした周囲のメンバーが腑抜けていたのと対照的にアイドル活動への熱意と執念を見せるセリフや行動で株は上がっていたのは確かである。
ただ、アニメ以前と比べたら少なくとも株は上がっていない。アニメ1期直後に新規投票者が増えたことで人気投票の度合が増した総選挙の順位も下位を低迷し、最後にようやく自己最低タイの5位に滑り込んだ形であったことからも、1期終盤の展開もあまりカバーする効果がなかったことが明らかになった。
その他、各種ネット媒体での評判を見てもアニメ以降、矢澤にこ=クズ、馬鹿、無能といった印象ばかりが定着してしまい、矢澤にこはアニメで最も株を下げたキャラクターであるというのは当時を多少知る人なら分かるはずであるし、それを認める書き込みや同情の風潮も1期から2期の途中までは他のキャラよりは多く存在していた。
実際にアニメ以後、矢澤にこといえばクズというような扱いのネタ系のスレッドや書き込みが増えて定着していった。
また、そこにアニメ制作側の悪意に近いものが存在していることも、その後の2期で海外ドラマglee盗作問題が浮上した際、glee元ネタ回の損な役回りをことごとく矢澤にこに当てていた所からうかがえる。2期4話や6話は脚本プロットもgleeの元ネタ回に近いが、2期4話の元ネタではにこに当たるキャラは最終的に同情を買うキャラでマイナスイメージは無いストーリーになっているが、ラブライブ2期4話ではフォローがなくただの痛い奴という扱いのまま、メンバーのご厚意で許されたようなギャグキャラ的扱いの流れで終わってしまう。最後のソロライブすらライブシーンはなく終了。6話でも元ネタ同様の憎まれ口を言わせる役をわざわざにこに当ててしまっている。
ただ1シーンならそういうシーンとして認められるだろうが、元からいちいち頭や性格の悪い発言をさせる役をことごとく矢澤にこに当ててきた上でまた駄目押しのようにそのようなセリフを与えたことで呆れたファンも少なくなかったようであり、そこでは既に盲目信者の割合が増えていた当時のラブライバーでも流石に疑問を抱いた者が多かった。それが後のglee盗作疑惑の発覚にもつながったかもしれない。
しかし、この記事の筆者に限らず2期以降はまともなファンが見限って消えた影響もあるのか、ラブライブファンの中心は感覚と思考が麻痺したファンばかりになってしまったようである。
2期途中まではアニメ制作の矢澤にこの扱いを特に問題視したり、かつてのファンに同情したりするファンが結構いたのだが、段々とそういうファンがいなくなり、たまに内容に踏み込んだ批判をする人が現れても、「アニメの被害者は目に見えて出番が少なく映像付きセンター曲もない海未と花陽だ」とか、むしろ「出番は多いが変な行動ばかり描かれた穂乃果が被害者」だとか、
基本的には即時的で短絡的な感情からの物言いをするファンが多く、1期から2期途中まで比較的多かったアニメ化の被害者の代表格が矢澤にこという意見は殆ど見当たらなくなってしまった。
もしかすると、アニメラブライブにおける矢澤にこの描写の問題点を指摘しようとする際、どうしても「アニメラブライブのキャラクター描写や脚本がgleeの盗作ネタがあり、その影響でキャラクター改変を受け、損な設定や役回りを与えられたのが矢澤にこ」
という事実にぶつかってしまい、彼らがなんだかんだいっても大好きなアニメラブライブという作品の根本部分を痛烈に批判・否定しなければならなくなるから避けているのでは、と邪推してみたくなるほどである。
ラブライバーは騒動が段々と大きくなるにつれて当初は問題視していたファンも割と存在していたのにパクライブことglee盗作疑惑の件には頑なに口を閉ざし、批判者を雑に馬鹿にして精神的安定を図るのみで、その問題についてはまともに語ろうとしない所からも本能的に避けるようになった節がある。
スクフェスを制作しているKlabがgleeでスクフェスみたいなゲームを作ったから円満解決とか考えるアホらしい解釈もあるようだが、そういう簡単な問題ではない。仮に盗作が許されたとしてもそれでOKという表面的な話ではないのだが、やはり作品の内容については愛しておらず、ラブライバーをやっている自分の地位だけが大事と噂されるラブライバーという人種はその地位さえ守られたら安堵できてしまうものなのだろうか。
1期の後は、この記事の筆者も実力を懐疑的に見ている花田十輝氏によるキャラクター大改悪により、
人気はあるようだが、大半はチビロリ黒髪ツインテールという記号としての見た目と声優で見ているのが大半であることは、彼らに好きな所を聞くと2期以降の話が殆ど出て来ないことから明らかである。
実際は上に述べた見た目や声優のことだけが好きな理由であり、1期で少しだけ見せた良い所を拠り所に、好きな所を聞かれたらそれを答えておくという状態だろう。
それはそういうものとしていいとは思うが、それで出来上がった人気を根拠に、人気が出たのだからキャラクター改変は成功や正解というのは通らない。
そんな記号や声優という要素さえあればいいならアニメ以前のまま変更する必要は皆無だった。作品内人気の面では今以上に定評があった。
徳井青空は大半が新人若手で構成されていたラブライブ!の中でも早い段階でキャラクターに適応した演技を見せていた。
ニコ生内で、自分で考えてキャラクターのセリフを演じるコーナーでも他の声優より抜きん出て台詞考案と演技が上手かったし、アニメ以前の矢澤にこのキャラクターをよく理解していた。
それもあって作品としては黎明期であった当時の矢澤にこの人気と評価は高く、作品の今後を背負う大きな存在として期待されていただけに勿体なく残念である。
電撃ラブライブ!3学期の花田十輝氏もこの記事の筆者と同様にアニメのそらまるの演技を評価しつつ、徳井青空のおかげであの改変したキャラ設定がものになったみたいなことを言っていたが、徳井青空の演技力を過小評価している。アニメ版矢澤にこを見てアニメ版ミルキィホームズのネロの延長線上でああいうキャラ付けにされたような印象を感じた人は当時多かったと思うが、徳井青空はもっと他の演技もできる声優だと自ら矢澤にこを演じて証明していたのに何故あんな薄く浅いキャラクターに改悪してしまったのか、とても悲しいし悔しい。
ラブライブ!のアニメシリーズというのは結局の所、京極尚彦氏と花田十輝氏のストーリーやキャラクター描写を行う上での無能さを知らしめるための作品でしかなかったし、その最大の被害者は矢澤にこだった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/goldhead.hatenablog.com/entry/2016/01/31/033621
同格の食い物屋、つまり牛丼屋やら天丼屋やらチェーンの中華やらと比べてあまりに多い。
丼よりハンバーガーの方が人手がいるってこと?まあそれはわかる。かな?
でも同じような価格帯であれだけ人件費違ったら競争大変じゃ無いんだろうか?
また、同じハンバーガー屋でも、
凝ったハンバーガー作るモスバーガーなんかが2,3人だったりするのに
マクドナルドはよくみると十人ぐらいウジャウジャ動き回っている。
で、そのくせ遅い。
なんなんだろうか。
また、カウンターのスタッフが複雑に入れ替わりながら働いていて、
そのせいでの内容間違いが滅茶苦茶多い。
外食で注文を間違えられた経験はマクドナルドがダントツで多い。
あんなに入れ替わり立ち代りしてたら
他のスタッフが何を入れてくれたかなんか把握するのは人間には難しいと思うし
ミスるんじゃないの?という疑問が実際ミスという結果で何度も現れてくる。
相手がわからないまま子供連れの母親に勘で渡して、また母親が否定せず持っていくので
「もしやあれは俺のソフトクリームでは無いだろうか?」と疑問を持ちつつ自分の番を待ってたら
そのあとカウンターの前で5分立ってても出てこない。
客の顔と注文をスタッフが人力で覚えてないといけない(大変だなあ)のに
覚えられるかどうか以前に、注文受けるのと商品渡すのが別のスタッフなのだ。
だから「ソフトクリームを注文しそうな奴」を勘で探して渡してみて否定されなければあたり、とやっている。
男が1人でソフトクリーム注文したと思わず、子供連れの母親の追加注文だとあてずっぽうしたのだ。
「注文が来てないぞ」と言ったら、
受けたスタッフが出てきてどうも注文されたのは覚えてても内容は既に忘れたらしい。
逆に「ご注文の内容はなんだったでしょうか」とか言うから全然違うものを言ってやった。
どうなってんだ。
伝票捨ててんの?
素人が疑問に思うような非効率性はとっくに解消されてるはずだとは思うけど
しかし見てるとどうしても「無駄に人が多い」「その使い方で混乱に拍車掛けてる」ように見える。
この疑問について答えてくれないだろうか?
今日はてんやの日だった。390円+100円クーポンの貴重なイベント日だ。で、店舗に行ってみると、その390円の天丼の写真を撮ってるやつがいた。そしてそれをどうやらどこぞにアップロードして公開したようだった。
390円の天丼の写真なんぞ誰が見たいんだ。お前が撮った写真よりてんやのWebサイトのカタログのほうがよほどきれいに撮れているのに何をやっているんだ。
そのあとはスマホを使いながら天丼を食べていた。スマホを見ながらなのでなんどか箸がスカっていた。なんどか口からご飯粒をこぼしていた。その動画のほうがよほど公開価値があるように見えた。
圧倒的大多数の凡人に公開するような映像なんて経験できない。共有すべき情報なんて手にしていない。興味を引く体験なんてしていない。
おもしろくないんだよ、誰も。
ちょっと違う、
いつも乗らない電車に乗ってみたの。
知らない景色、
知らない街、
流れていく風景がとても素敵だわ。
そして、知らない駅で降りてみて、
ふと、目の前にあったデパートに寄ってみたの。
売り場とか、何があるか分からないけど、
とりあえず、上の階から下の階まで見てみようと思って、
とても新鮮だわ。
今日が最終日で販売してたみたいで、
赤い色が可愛かったので、
ぜんぜん興味ないのに、思わず買っちゃったわ。
なんか、旅してるとテンション上がるように、
そんな、感じかしら。
あとで、気が付いてみたらなんでこんなの買ったんだろうって。
もちろん、木刀は買ってないわよ。
うふふ。
でも、ちゃんと可愛かったカップだったので、
これで、お茶でも飲んだらきっといいわね。
美味しく飲めそうよ。
ちょっとした知らないところ、
逆の電車に乗ってみるのも
大冒険ね!
うふふ。
ネットの海の中では
いつも、同じところを
ぐるぐる回ってみているような気がするわ。
たまには、こういうお出かけもいいわね。
それが美味しそうだったので、天丼よ!
すだちだけで試してみたやつ、
酸っぱいの苦手だったら
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ランチに一人で小諸そば行ったのよ。ちなみに席空いてても立って食う派ね。
都心で駅からも近くていつも混んでる繁盛店なんだけど、そのおばーちゃんはフロアで元気にネギつめたり割り箸さしたりしてくれてる訳。
背もすげー低いし、腰も曲がってて。ゆっくりゆっくりなんだけど作業してて。
するとキッチンから「特上天丼いかがですかー!お安いのは明後日まででーす!」って若いにーちゃんの威勢のいい営業シャウトがあって。
(あ、これ、あれかな、まさかな)って思ったら他の店員もみんな復唱するわけ。シャウトするわけ。
で、そのおばーちゃんも声を振るわせながら背伸びしながらで言うわけ。
「t、とくj、じょう…てんどーん、いっかですー?」
そしたらキッチンから「もっと声出してください」って言われて。
もっかい言うわけ。
「とくじょうてんどーん!いっかがですかー」
見てたら、辛くなっちゃって。
自分の祖母がやってたらって。
重ねちゃって。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47