はてなキーワード: 劇場とは
・吉本のスタッフになりたい→学歴が必要らしい→じゃあ勉強しよう!→早稲田の理工学部に進学
・ダンス部に入ったり勉強したりしてたら普通に大学生活が楽しくなって本来の目的だった吉本入社の熱が冷めかけて大学院に進む
・久々に吉本の劇場に行ったら再燃してやっぱり吉本入社を目指す 一度は落とされるもののどうにか入社
・異常に忘れっぽくポンコツすぎてまだ誰かの専属マネージャーにはなれず先輩の穴埋め要員として働くのがメイン
・Excelを使えるスゴイ才女なので会計などの仕事は素早く正確にできる
・時間の無駄という理由で料理はすべて外食、自分で一切作らない
・ダンス部の経験を活かしてかまいたちのライブに出させてもらったことがある
・千鳥大悟は女性マネージャーだからということで着替えの時などに気を使っている
・昨年母親を唐突に亡くす悲劇に見舞われつつも周りにかわいがられ頑張っている(ワイプの羽鳥涙目)
こんな感じだった
リアタイで見ててこれは燃えるな~とは思ってたから燃えるのはまあしょうがない
でも燃え方が気に入らない
なんかフェミがスクショだけ見てフンガーってなってるけど番組で「女子力がない」って言われてたのは料理ができないところ
だから突くとしたらそこ
もしくは「SUM関数ごときで天才扱いかよ吉本低レベルすぎ」「忘れっぽいっていうか発達だろ ポンコツやギャグで済ませていいのか」とか
プププーこんなキモい喪女がいるぞ~喪女のくせにPC使うなんて生意気だ~とオッサンどもがテレビに映りたくない子を無理やり晒し上げたなんて案件ではない
そこだけは言いたい
叩くなら全部見てから叩け
全部見た上で感想が変わらないならそれでいい
運営は、GREEのころからトンチキテキスト(イベント)書いてたので驚きはない。
ない、がしかし、実装される曲ならきちんとゲーム内でもアンケートを取ってほしかった、って人は多いのかもしれない。
イベントの即応性はそりゃ大事かもしれないがそれのみで私たちはチュパカブラですとかいわれてもなんだ、その、困る。
とはいえ、GREE版で私たちはアイドルじゃなかったとか繰り出す運営なのでといわれたらそれまでである。
今は「PBeM」というかたちで細々と残っている。
プレイヤーがテキストでキャラクターの行動を送り、運営(マスターと呼ばれる)がそれを物語にする、という遊戯である。
あの世界を経ていると今のなろう系のスタンダードになったスキルやらポイントやらランクやらというのは、なんだか二週目の世界を見ているようでむしろ懐かしい。
なんでPBMの話をしたかというと、運営の手先であるところのマスター、つまりシナリオライターは複数いて、当然作風というものがそれぞれある。
色々あるけれど、何故か必ずトンチキなシナリオ(ナンセンス系?)を書くライターがいた。
一定の需要があるから首にならずに置かれているのだが、そのトンチキさはどうにも寒いな、と常々思っていた。
思っていただけで済んでいたのは、どこのシナリオライターが書いているお話に参加するか、はプレイヤーが決めることができたのだ。
だがトンチキシナリオを書くライターは速筆のひとが多いのか、やたらあちこちで見かけるのだ。
恐らく発注先からの無茶振りにもある程度のレベルのテキストを書いて応えているため重宝されたのだと思われる。
だんだんトンチキシナリオが持てはやされるようになり、参加する場所が少なくなり、苦痛になってやめたゲームはいくつもあった。
長い前振りだが、ミリオンライブのトンチキ具合は、このPBMで見たトンチキシナリオのテイストが無茶苦茶するのだ。
なんでだろうなぁと長らく考えていたのだが、ドラマCdの仕事一覧、みたいな公開しているWEBサイトがあって、そこで事実を知った。
トンチキ感が共通するのは当たり前で、あの当時のマスターやってたシナリオライターのひとたちが、外注ライターで参加しているのだった。
あの当時PBM企業からライター料を貰ってトンチキシナリオを書いてるひとたちが、今もミリオンライブのトンチキシナリオを書いているのである。
さもありなん。
とはいえ、PBMならば避けられたものが、ミリシタではプレイヤーは箱推しをさせられているので(劇場で担当アイドルを呼び出すとかそういう機能をどうしてつけてくれないのだろうか?)寒いこのノリを黙って受け止めるしかないのだ。
歌詞の後半部分はそれっぽいのになんかもったいないと思ってしまう。
歌い分けの貴重な曲をあのトンチキさで消してしまっているような気がする。
そんなトンチキさで新規を釣っても長居はしてくれないと思うんですがどうですかね。
・・・ところでPBMつながりでFGOのレクイエムコラボイベントのシナリオを書いているのが茗荷屋甚六というひとで、このひとはPBMでは無茶苦茶面白いマスターで当たりマスターだったのだが、FGOのこれは全然面白くはなかった。推測すると突貫で書き上げざるを得なかったのではないかと思われる。星空めておというひとは、エロゲのシナリオライターの前はPBMのマスターでグランドマスター(GM:監督みたいな立場)のひとだったのだが、面白いお話をかくけどただひとつ欠点があり遅筆、ということなのであった。
ヘルプで呼ばれたのだろうか。
今のソシャゲの中で、もう滅びたPBMを支えていたひとたちが書いている。
懐かしいしうれしいのだが、トンチキシナリオは避けられるようにしてほしい。
無理か。
無理だろうな。
単発スライド、特に上スライドと両手内側スライドは本当にいらない
設定で消せるようにして欲しいわ
「ミリオンライブ好きなら練習して上手くなろうと思わないの?」って、音ゲー苦痛過ぎて嫌になっちゃったんだよ
「出来る範囲でいいじゃん」出来るのと苦痛なのは別、やりたくないんだから
あとあっちは2D軽量にしたら画面がうるさくないしな
ミリシタの2D版はイラストじゃないから邪魔なんだよ3Dの方がマシ
意味の無い部屋があるのはいいんだけどさ、移動してアイドルに会いなさいってミッションはクソ
何かあと一歩が足りないんだよ
グリマス時代に集めたSRがただSSR未満の使えないゴミにされてるのも悲しい
はぁ
うんち
日本のトイレは匂い対策のために徹底的に換気する。通常閉鎖空間にあるトイレは疑似三密になりやすいが
換気機能や洗浄機能、手洗いなどでトイレルートの感染が比較的少ないと思われる。
日本は換気環境がかなり厳格に定められている。これは被害がおおいヨーロッパ圏が暖気を逃がさないため換気よりも
循環を重視しているためと言える。 ジムやライブハウスなどの特殊建築物は法的な換気設定をもう少し厳しくすべき。
マスコミは検査すれば100%診断できると喧伝したが、実際に行われた検査は必要数のみに絞ったため、
一般人は勝手に不安になり、自粛へ大きく傾いた。また一般企業は通常病気になっても無理やり出勤させる
昭和式個人管理から脱却するしかなくなった。その最たるがエンタメ業界で、陰性証明を発行すれば大丈夫と
考えていた昭和式雇用形態が所見がなければ検査してもらえないことからただの風邪の症状でも2週間休ませる
マスクの着用、消毒液の利用に全く抵抗がない日本人。毎日風呂に入り、コロナが一番嫌がる界面活性剤を
全身に塗ったくる方式。
5 テレビを信用せず、NHKアプリ等でダイレクト情報送信した。
偏向報道への対処は記者会見のノーカット放送なわけで任天堂ダイレクト形式の報道を携帯電話アプリでガンガン流した。
森まさこwww
答弁してるときは闇の組織に弱みでも握られて卒倒しそうな精神状況で正気を保ちながらマインドコントロールと抗いながら明かすことのできない守らないといけないもののために国家の未来にさえ背いて悪に染まるジョーカーみたいな顔してたのに
ほんと国政が三文劇場みたいになってて草w
なんだこの国家はw
お客様各位
平素よりユナイテッド・シネマグループの映画館をご利用いただき、まことにありがとうございます。
2020年5月22日(金)より、以下の劇場の営業を再開いたします。
・ユナイテッド・シネマ豊橋18
・ユナイテッド・シネマ橿原
・ユナイテッド・シネマなかま16
ユナイテッド・シネマ フォルテ宮城大河原/ユナイテッド・シネマ アシコタウンあしかが/
推しにプレを買ってあげる♡
推しにプレを買ってあげる
自分の着てる服より高いけど
推しにプレを買ってあげる
時々虚無になるけれど
毎回プレを買ってあげる
ゴミみたいなプレ使うのやめてよ!
私は良いプレ買ってあげる
ヲタってやっぱり ギブ&テイク
プレ着報告待ってます
だ・か・ら
推しにプレを買ってあげる
推しにプレを買ってあげる
私の収入の半分あげる
カテコでは手を振りなさいよ!
私は拍手を送ったげる
フラスタが出せる時は
私がフラスタを送ったげる
そのかわり、他の同担にファンサ一切しないでよ!お願いしますよ!
だ・か・ら
推しにプレを買ってあげる
推しにプレを買ってあげる
私の収入の半分あげる
だ・か・ら
推しにプレを買ってあげる
推しにプレを買ってあげる
私の収入の半分あげる
速水 融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争』
日本で猛威をふるったスペイン・インフルエンザ(現在のインフルエンザ)について、各地方の新聞記事を基に当時の様子を詳細に記述している本を読んだ。
スペイン・インフルエンザを新型コロナと重ねてみるには、最も参考になる本。
テレビで『感染症の世界史』が紹介されることが多かった(文庫本なので手に取りやすい)けど、あっちはウイルス学的な紹介なので、当時の社会情勢を知るにはこっちの本のが当たり。
著者によれば、スペイン・インフルエンザの流行は世界的にも「忘れられて」おり、その記録は数えるほどしかないという。
記述からも、統計上の数値からも、当時のスペイン・インフルエンザは猛威をふるい、日本史上に大きな傷を残したはずなのに、なぜわれわれの記憶に残っていないのか?
新型コロナの流行の先を予測するためには、スペイン・インフルエンザの流行の様子を知ることがまず第一に重要ではないか。
スペイン・インフルエンザ流行時も、学校が閉鎖され、社会インフラが麻痺し、火葬場に棺桶が溢れた。
ひとつは、スペイン・インフルエンザの流行時、学校閉鎖や社会インフラの機能停止は、感染した結果人がいなくなり生じたものであり、予防のためにあらかじめ閉鎖したものではないということ。
劇場や社交場の閉鎖は行われたが、感染症の原因も不明であり、学校は4日~2週間の休校で再開していた。
感染症の感染拡大を予防するために社会機能を停止させたのは、新型コロナが史上初めてではないか。
ふたつは、スペイン・インフルエンザは多くの日本人が感染し、前流行と後流行があったが、前流行で感染し抗体を得たことが後流行の感染率低下となったこと。
日本において、新型コロナはほとんど伝播していない。外出自粛により感染拡大よりも予防が勝った。
スペイン・インフルエンザと同様に、前流行の後に後流行が生じたとして、前流行による抗体が獲得されていなければ、同様の被害を得るのではないか?
前流行と同様の対処で乗り切るのであれば、後流行でも社会機能を停止させ、外出自粛により感染予防に努めることが必須となる。
感染症と対峙した際、予防するか、抗体を得るか、どちらかしかない。
あるいは、徐々に抗体を得ていく方針なのか。新型コロナにおける外出自粛は、医療機能の崩壊を防ぐことが第一であり、新型コロナにかからないためではない。
一過性の激しい流行ではなく、慢性的な感染により、医療機能を崩壊させることなく一定の感染を得て免疫を獲得することが目的なのかもしれない。
しかし、感染症である以上、また史上最も人口密度が高く人類の移動もより広範囲・高頻度で行われている以上、そう簡単になだらかな感染が起こりうるのか?
一度発生すればまたたくまに広がる恐れがある。
みっつ、スペイン・インフルエンザと新型コロナではウイルスの種類が異なる。
スペイン・インフルエンザはインフルエンザであるので、季節性がある。
前流行と後流行も、約1年の間をあけた同時期のものである。気温や湿度の影響を多大に受ける。
おかげで収束したともいえる。
新型コロナが季節の影響を受けるのかは、未知であり、はっきりしない。
東アジアとアメリカ・ヨーロッパでの毒性が異なるのは、ウイルスの株が違うのではないか(何らかの変異があったのでははないか)という可能性があり、ほかには、季節性や環境、生活習慣の影響が考えられる。
スペイン・インフルエンザよりは毒性が高いが、無症状の患者も多い。死亡する年代も異なる。
新型コロナについては、まだいずれも判明していないが、数年後には明らかにはなるだろう。
**
スペイン・インフルエンザの事例を受けて、新型コロナを見て思うことは
人類史上初めて、社会機能を停止させてでも感染症の拡大を予防したのが今回。
感染者数、ひいては死者数を劇的に削減した代わりに、抗体を得た者も少ない。
新型コロナであれスペイン・インフルエンザであれ、ウイルスが消滅することはないのは間違いない。
新型コロナと共生するにあたり、感染予防の対策をとった結果、今後どうなるのか。
ひとつは、散発的な流行が生じるたびに社会機能をある程度縮小させ、感染予防を今後も徹底するということ
また、国ごとに対策も感染者数も異なるために、国際的な軋轢にもつながる。
他の国ではある程度抗体が獲得されていってしまうと、完全に鎖国するわけにはいかない。
そもそも、感染予防を第一に置いた対応は継続可能なのか?現実的なのか?
ふたつは、医療機能の崩壊には注視するものの、ある程度は感染拡大を受け入れていくということ。
最初はセンセーショナルに扱ったとしても、次第に慣れていくのが人間らしいところ。
来年、再来年、数年後と、徐々に取りざたされることも減り、感染を受け入れながら暮らしていく。
今年、こんなに我慢をして大変な目にあっていることを思うと、そんなことがまかり通るのかと思いつつも、人間は慣れて飽きる生き物だから、意外となんとかなるのかも。
ひとつめの未来になるとすれば、社会機能を縮小させた状態でいかに生き抜くかが重要になる。
ふたつめの未来になるとすれば、いずれ新型コロナに感染するという心構えでもって、用意をしていくことになる。
マクロ的に見れば、ひとりの人間は数百万の人口の中の1人であり、感染症にかかって亡くなる未来もあれば、運よく生き抜くこともある。
それはどうやったって運でしかない。
+αで影響があるとすれば、年齢や基礎疾患、医療を受ける環境など、「感染したときに生き残るかどうか」であり、生命保険を含めて、多少の打つ手はあるかもしれない。
感染予防を全面的に押し出して感染症を闘った歴史は人類にいまだかつてなく、その結果を見るといった面では非常に興味深い。
但し、感染予防に固執し、社会機能を停止・縮小させることに執着し、知らぬ間に社会を崩壊させる恐れもある。
まるきりBAD END。そんな未来は見たくない。
昨今の経済対策への批判や、教育制度に対する批判を見てると一抹の不安がある。
史上に例がなく、だれも正解を知りえない以上、それぞれに考えがあり、それぞれにメリット・デメリットがあり、一概に何をもって正しいといえない。
なのに、批判・反対することばかりに固執すれば、いずれ方向性を見失い、知らぬ間に自らの尻尾にかみつく形で社会を瓦解させることに繋がりかねない。
一市民として家庭を守るためにできることは
である。
かかるときはかかるし、まるきりかからないようにすることは難しい。
人類と感染症の歴史を追っても、感染症から逃げきれた例はない。
お笑いは好きだが関東在住のため、俗に言う「関西お笑い」にはあまり触れていなかった
賞レースで決勝に行った大阪よしもとの芸人をテレビで見たり、そこからYouTubeで周りの芸人のネタを発掘してみたりするぐらいだった
「てんしとあくま」の存在自体は多分6、7年前くらいからぼんやりと知っていた
M-1やキングオブコント、上方漫才大賞などの賞レースでちょいちょい名前見るな〜という程度の認識だった
2015年の「おもしろ荘」で初めて地上波でネタを見た 面白かったという記憶はあったがどんなネタだったかは忘れた
今年3月の「ザ・ベストワン」でもネタを見た これも面白かったんだけど次の日にはもう忘れていた
漫才劇場(俗に言うマンゲキ)にレギュラーで出演されていたらしいから、関西の劇場に通うファンならお馴染みの存在だったのかもしれない
関西のよしもと芸人によくいるネタはどれも水準を保って面白い優等生タイプ、でも平場を見なければインパクトに欠ける、ただハマる人はめちゃくちゃハマる、ハマらない人にはすぐ忘れられるという印象だった
最近の若手芸人にいるような「チャラ男で派手なパリピ」「元消防士から芸人に転身」「芸人と並行して税理士をやっている」といったキャラ付けも無かった
そんな芸人はごまんといる そういう人らに限ってネタは面白くて、でも世間に評価はされない
だから二日前、ツッコミの川口さんの訃報をネットニュースで知るまで久しく「てんしとあくま」の存在は頭からサッパリ無くなっていた
サッパリ無くなっていたというのに、衝撃だった
てんしとあくまがそんなに印象に残っていなかったただの一お笑いファンだったはずなのに、泣けて泣けてしかたなかった
てんしとあくまを真剣に応援していたファンの方の気持ちなんてこんなもんじゃないだろう
他の芸人のTwitterの呟きも見たが、「まだどう受け入れていいのかわからない」というものが大半だった
訃報が出たその日に行う予定だったZOOM配信や生放送が次々と中止になった 「諸事情により急遽中止します」という事務的な連絡で
なんだろう、対して追ってなかったはずだったのにこの喪失感は
心にぽっかりと穴が開いたような、ってこういうことか
ああそうだそうだ見たことある、と思い出せるものばかりだった チューリップの漫才や椅子のコント
面白いなあ
今まで頭の片隅にぼんやりと存在していたてんしとあくまの存在が急激にはっきりとした輪郭を持ち始めている
いやなんでだよ M-1決勝進出とかにしてくれよそういうのは なんで訃報なんかで初めててんしとあくまの存在をはっきり意識しなきゃいけないんだよ
今も頭の中が川口さんのことで埋め尽くされている 対して好きじゃなかったくせに
36歳なんてまだこれからだよ
一人の芸人が亡くなったんだなあ
うわなんかすごいやだな
基本的にアンチはしない主義なのだが、こればかりはどこかに書かないとおかしくなってしまいそうなので匿名で公開する。
私はミッドサマーが日本で公開されて一週間後に見に行った。もともとホラー映画が好きで、海外で試写会された時から話題になっていたので早く日本でもやらないかと待ちわびていた。
日本で公開が始まるとツイッターはミッドサマーの話題で持ちきりに。
「グロい」「怖い」「精神的にくる」「人によっては爽快」「恋人と見てはいけない」
などと言われていて、それはもう早く見に行きたいと思っていた。
友達にあまりホラーが得意な子がいないのでとりあえず彼氏を連れて見に行った。
彼氏にネットでの評判を見せて楽しみだね、と期待値を上げて劇場に入ったのを覚えている。
そしておよそ3時間後、二人で劇場から出て彼氏から言われた言葉はこれだ
ここで、私がミッドサマーを怖いとか面白いとか思ってたらキレ返して別れてしまっていただろう。だが違う、私も彼氏と全く同じ意見だった。
正直見てる途中から後から彼氏に文句言われる心配をしていた。やばい、全然グロくもないし話もありがちだし、薬物の影響的描写も想定内だしオチもふーんとしか思えない。
ネットの感想見て期待し過ぎたな…と思った。他にも一緒に見てた人たちも「なんか言うほどだね」とか言ってたので、そういうものだと思った。
私も彼氏もSNSに依存しているので、見終わった後はとにかくSNSで解釈や感想を読み漁る。
解釈については、私も彼氏もネットでよく見るものと変わらなかった。
感想に至ってはあまりに自分たちとかけ離れていたので何を言っているのかよくわからなかった。彼氏は「そりゃこれ恋人と見たら気まずくなるよ、つまらんもん」と言っていた。
それからミッドサマー公開期間はTLにもミッドサマーを評価する声、気持ち悪くなったとか精神的におかしくなりそうとか作品の意図に合った感想が流れ続けた。
私は今まで映画を見てそこまで感想が一般論と別れることがなかったので、ひどく困惑した。もしかして自分は何かストーリーを見落としているのでは?とか、人気の映画面白いと思わない自分カッケーとか内心思っちゃってるんじゃないか?とか、だんだん自分の感性に自信がなくなった。映画好きな人が称賛しているのを見ると更に自信がなくなった。
わざわざ「ミッドサマー 面白くない」とか「ミッドサマー アンチ」とか検索して同じ意見の人を見て安心したりした。
どうせしばらくすれば誰もミッドサマーの話なんかしなくなるだろうと思っていたのだが、公開から5ヶ月経った今でもミッドサマーを称賛する声が見える。
その度に自分の意見に自信がなくなるので、こうして堂々と自分の感想を公表してみようと思ったのだ。匿名だけど。
ミッドサマー自体に対する不満はそれほどない。ただ期待を上げられた過ぎただけ。もう登場人物の名前も細かい設定も覚えていない。
周りの感想に振り回されて不安に駆られるのはバカバカしいのでもう金輪際感想は見ないし私もミッドサマーの感想は言わないしもう見ない。
もし私と同じようにミッドサマーつまらなかったけど周りの評価に納得いかない人の目にこの記事が止まって安心してくれたら幸いです。
502 Bad Gateway ―アクセスが集中したサイト(1999~2020)
いつもなら私はこれはスパムかなと思って通報するのですが通報しないでください。
私はスパムではありません。そこに眠ってなんかいません。せんの風に。線。
しょうもねぇ。擬態していきたかったのに俺は。生きたかった。活きたかった。逝きたかった。日活ポルノ劇場。ポルノハブ。
透明人間になりたかったのに、社会に出た瞬間存在をはっきりとさせなければならなくなる。
何者にもなれない人間は透明人間になるしかなくて、透明人間になりたくないのに、透明人間になりたがる。
社会の歯車になりてぇよ。私は御社の潤滑油になりたいよ。なりたかったのにね~。
潤滑油どころか、お前がなれたのはなんだよ。錆だよ錆。
ガチギギチイtギイチイギチと社会を止めたのはお前だよ。小さな政府。小さな社会。
バカだね~。お前は本当にバカだよ。そういう風に自己卑下してればだれか救ってくれると思ったか?
頑張れ頑張れできるできる自分なら絶対できる自己正当化しなさい。そんなブランドあったなそういえば。
私は透明人間になりたかっただけなのに。バカだね~;;本当にバカ。
https://nyakapoko.github.io/post/10_engeki/
この記事、読み飛ばしてしまっているひとも多いと思うので、私の解釈で完結にまとめると、
2 演劇は他業種よりもクリティカルなダメージを負っている。他よりも援助が必要である。
3 専門分野ではないことについての言及を正確にするのはコストがかかる。
4 そのコストをケチって発言してもいいよね。だって困ってるんだし。
ということです。
だったら専門分野外のことについてワザワザ語らなければよいのではないか?
4を是とすれば、そのコストを聞き手、もしくは放言された当事者が負わなければいけないことがわからないのか。
そして、まさに現状がそれである、ということがわからないのか。
と思うところはたくさんですが、それより書きたいことがあります。
ただ酔っぱらっているのでしっかり書ききることができるのか少し不安です。
また、わたし自身、演劇についてたいして詳しくありません。なにぶん映像畑の分野なのでご了承ください。
まあ、そのコストをケチって発言してもいいよね。だってもやもやしてるんだし。
まず上のブログにある、演劇のコアの部分とは何かというと、観客との共犯関係なのですが、
これがライブで、そして観客の息遣いを感じられる距離でないと不可能であるという意見です。
これには一理あります。が、これが実際に“演劇”のコアなのか。
映画というのは、映像をつかってナラティブ(わかりやすく「物語る」と言い換えましょう)をすることと定義できますが映画狂から見れば、そうではありません。
(「いや映画は光と影で構成される芸術だ」という方もいらっしゃるでしょうが、今回はその定義を映像に渡してやって、映画の定義は狭くとらえます)
映画を観るというのは映画館で観る、もしくは”複数の観客がいる映像を主体とする場”で映画を観ることを、『映画を観る』と言います。
なぜなら、映画というのは観客と製作者との共犯関係にある芸術だからです。
例えば時代劇で、主人公と敵が刀に手を伸ばします。この画を1分間続けるとどうでしょうか、
映画館であれば観客は緊迫します。きっと固唾をのむことでしょう。
しかし、これスマートフォンのストリームだったらどうでしょうか。ダブルタップの15秒スキップかもしれません。
一緒に固唾をのむ観客がいない分、気持ち半分かもしれません。
映画と演劇は記録されたもの記憶されるものの違いがありますが、
観客との共犯関係で表現を強固にするのは、映画も演劇も変わりありません。
ブログではとても卑怯にも演劇とビデオという比較で書いていますが、
また映像芸術の中には特殊な上映形態をもって作品とするものもあります。
劇場でないと成り立たないのが演劇の特殊性とか馬鹿みたいなこと言っていますが。
むしろ、ライブで修正の効かない分、映画はどのように共犯関係を生み出すか、研究に研究を重ねております。
高級な映画(半分皮肉ですが)においては、視線誘導のため、まばたき一つ計算して撮影、編集しているわけです。
私は普段、何かの映画について話すとき、『映画そのもの』と、観客と生み出す共犯関係=『映画体験』をそれぞれ分けて話します。
演劇についても同じことが言えるのではないでしょうか。
上のブログの筆者が語るのは演劇体験についてです、これは確かに演劇を構成する一要素ですが、演劇そのものを単体としてみた場合に、
つまり、戯曲を演者がその身体性をもって物語るという行為についてですが、これはいったいそんなにも弱いものなのでしょうか?
身体というものには限界がありますが、その身体によって生み出される力強さというのは確かにあります。
現代舞踏なんてものはその身体という籠を生かした表現なわけでしょう。これは弱いものですか?
それを使って物語る。素晴らしいことじゃないですか。
演劇をライブで配信する。そこにはカメラがありスイッチャーがある。
ということは、それでもって映画体験の応用で演劇体験を、十分でなくても再現することはできませんか?
例えばブロードウェイの映像化なんてのは、セットを映像用に用意しカメラをかなり寄せて撮っているわけですが、
それでもあれを映画という人はいないでしょう、演劇であるという認識はしっかり与えることはできるわけです。
また演劇体験的なるものが本質になっているというので言えば、お笑いはどうでしょうか?
スポーツ選手のインタビューではよく魅せる試合なんてことが言われます。
それでも彼らは中継を行います。過去の試合の映像を販売します。
そういったことがもう何十年も前から行われている現代で、演劇は演劇体験なくして存在しないなんて本気でいってますか?
また演劇は映像にすると映画に食われてしまうなんて言ってますが、馬鹿じゃないのとしか思えません。
演劇はその身体に物語を預けていますが、映画は光と影に預けています。
映画の根本は影絵芝居といってもいいでしょう、影絵芝居は演劇に似ていますが、
影絵は物理的なものでなく、その像をうまく使えば、表現に限界はありません。
映画はその売れ筋として、マーケティング的に役者に頼ってることはあっても、大本の表現のベースとして役者や演技があるわけではありません。
勘違いしないでください。役者はあくまで影と光をフィルムに焼き付けるための遮蔽物にしかすぎません。
例えば先ほどのブロードウェイは演劇としましたが、ドッグヴィルはどうでしょうか?やはりドッグヴィル映画でしょう。
それはそれぞれ、映画として作られ、アニメとして作られたからに違いありません。
演劇として作られた映像が、映画に負けるだとか、勝つだとか、そういうことは絶対にありません。
演劇というのは、映画というより、むしろスポーツや音楽ライブの側なんですよ。
マシューボーンのなんちゃらと、タイガースの試合をまとめた奴と、ラッドピローズのライブ映像は一般の人からみたら同じ枠なんです。
で、それが映画と競り合ってるなんて印象はないです。初めから勝負なんて存在しないんです。
はっきりいってしまえばスポーツが無観客配信でなりたつというなら、演劇だって成り立ちます。
それが成り立たないというのは、おそらく上の文書にもある、演劇体験こそ演劇の本質であるという転換が原因じゃないでしょうか?
とりあえず、劇場に来て
足の筋肉と肩幅がすばらしい。
本編だと腹筋もみれるぞ!
単純に映像が素晴らしいのもあるけど、それだけじゃなくて、いろいろな切り口で名作たりうるので、リストとして上げていくのは難しい。
たとえば、プリキュアED(CGダンス)は好きな人がたくさんいる。プリキュアEDのCGダンスが評価されるのは単純にその映像そのもの(もちろんすばらしい!)だけでなく、プリキュアシリーズとしてCGダンスを描き続けて、進化をしてきた結果でもある。
単体でみるのではなくプリキュアというシリーズを一気通貫にみることができるからこその評価という側面もある。
これはプリキュアにかぎらずジャンルとして、ロボットものとか、きらら系とか、アクションものとか、それぞれにそれぞれの文法があって、その中(あるいは外)で評価される。
歴代プリキュアEDダンス(TVシリーズ+劇場)をチェックするだけで一日充実した時間を得られるだろう。
あるいは前クールバンドリ3期のEDやプリチャン(プリパラ)のEDのように本編を補完(あるいはもっとべつの妄想を掻き立てる)イラストで構成されたEDもある。
(アニメとしての)映像としてみればものたりない。なんせ動かないしバンドリに至ってはイラスト一枚だ。しかしEDとしてだめなのかいうと当然そうではない。
1枚(ないし数枚)のイラストで構成されたEDの名作は数々あって、有名なのは「神無月の巫女」だろう。(当然上記2つも)
梅津泰臣の映像が好きなのであれば、本編とはまた違った魅力を表現してくれるOPEDがある。
この方向だとよく知られているのは鈴木典光で、主にボンズのEDを担当している。
鈴木典光で有名なのは、なんといっても「ちょこッとSister」がある。
本編とは違ったテイストでEDが描かれることはままあって、最近では「アイカツシリーズ」が当てはまる(本編とは作風の違うイラストオンリー、CGでのチャレンジと両方あって興味深い)。