はてなキーワード: 元凶とは
初カキコ失礼します。ほぼ一年間のもやもやを衝動に任せて詰め込んだので支離滅裂です
私は一次創作と言う物をしてました。そこで自分のキャラの話や設定を話す、所謂「世界観や設定だけ作ってる人」でした。もちろんたまに絵も描いてましたが、いつの間にか月に一度しか絵が描けなくなりました
でもそれじゃダメだと気付いて、何度か本編を書きましたが公開しては消してました
それで去年の夏あたりにそれっぽい本編(一話だけですが)が完成しましたがまだ何か物足りず、身内のグループチャットにのみ公開してました
ストーリーとしてはよくあるファンタジー物に専門知識を足した物だったのですが、後日ネットサーフィンをしてたら商業で既にやってる方(しかもその専門知識ガチ勢!)がいて自信を失ったのと、その創作での敵の名称が「鬼」だった(その時鬼滅の存在は知らなかったです)と言う事もあり、自分はパクリしか作れないんだなぁ。と思いました
その後なかなか創作が煮詰まらず、私は【人に嫌われやすい設定や描写】が気になるようになりました。その時は確か、青い鳥でそういうタグが流行ってる時期で、元々自分の好きな物があまりよく思われてない事をいつも経験してきたので「世間の需要」を考えてみようと思いました
私はそれ以降自分の創作にて、出来る限りあまりよく思われなさそうな設定や描写は重要でない所のみ消すように心がけました。でもなんか、楽しくなったんですよね「人の嫌いな物を知る事」が。そこで暇人だった私は、元うちの子厨(今もですが……)だったのもあり、自身を戒めるためにアンチスレを定期的に覗くようになりました
昔の自分にも心当たりのある事だらけで、気をつけなきゃなぁと思いながらROMってました。それで「いつの間にか自分のいる界隈は(迷惑行為してないとしても)厨だらけなのでは?」と思うようになりました
本編書くかーと言って身内のキャラ借りて世界観がよくわからん事になってたり、軽率にうちよそ()してたり、なりチャしてたり、タグやテンプレで自キャラ語りしたり、呟きでカギカッコ使って創作なりしてたり
いくつか自分のしてきた事もありましたが、だんだんとそれらに嫌悪感を覚えました。そしていつの間にか「キャラ属性で推しを語るオタク」までもに嫌悪感を覚え「どうして属性で説明するんだ。そんな事してると嫌われてしまうぞ」とも思いました
けれど、私はあまりストーリーを読むのが好きではないんですよね。低レア帯のキャラばかり推す人なので、ストーリー見ても「どうしてあの子を好きになったんだろう」と自己嫌悪してしまうんです
幼少期から自身の悪趣味さは自覚してたので、どうして世間一般の供給に不満を吐く悪趣味な奴が創作なんてやっているんだろう? どうして世間一般の需要に合わせられないんだろう? とずっと考えてました
それである時、私は気付いてしまいました。所謂ソシャゲが元凶なのでは? と
ストーリーがあるから厨じゃないと厨はよく言いますし、プロとアマ比較するのも間違いだとは思います。けれど一部のソシャゲはキャラを作るだけ作って、属性や声優でゴリ押ししているじゃないですか。創作者もどきがそれ(声優ゴリ押しは不可能ですが……)をしてたら明らかに距離を置かれるじゃないですか
そして所謂なろう系(一部除く)も問題だと思いました。あれは最強設定文化を語る上で外せませんし、当然だろうとは思いました。空っぽな世界観、空っぽな設定、空っぽな登場人物、そんな中にとりあえず入れとけばいいと思ってる世界観無視の媚び描写。想像するだけで嫌になる。それが世間の需要と分かっていても、私はあれに嫌悪感を持ってました
商業だから許されるけど同人ではやっていけない創作があると私は思ってます。なぜそれを人はまとめて記事にしないのかといつも思ってます
最近のアニメにすら「明るすぎてつらい、ストーリーが長すぎて見れない」と思うようになってる。唯一まともに見れてる作品すら途中から酷評の嵐でしんどい
前の話に戻るが、私は本当に趣味が悪すぎる。幼少期好きだった作品も酷評が多かった。趣味の悪い奴が創作してはいけないと、自治厨でもいいからそういうまとめを作って欲しい
私は何度か「本編無い方が幸せなのでは」とも思った。けれど「書かないと人権が無くなる」とも思っていた。だから本編を書いた、一話書きあげた程度で満足してはいけないと思った。ちゃんと完結させなきゃ、ちゃんと書かなきゃ。もう厨だと思われたくない、馬鹿にされたくない、厨創作だと言われたくない
でも筆は動かなかった。やる気がほぼ消えてると言うべきだろうか。今まで創作サボってやってたゲームすらめんどくさくなっていた
それではダメだと思っていた。今まで自分より絵の上手い、それか文章力のあるフォロワーを見下してたんだから、ちゃんと書かないといけない。妄想をつぶやこうとする度に本編を思い出さないといけない
そう言い続けてたらフォロワーに怒られた
でも私は「そんなに嫌だと思うなら本編書けば? 学校忙しいのはわかるけど、馬鹿にされたくないでしょ? ゲームするくらいなら本編書けば?(まぁでもセンスが無ければ人権も無いけどさ……)」と思った。本編書けばいいだけの事なのにみんなどうしてそれをやらないんだろう、でも本編書いてるアピールしてる私みたいな厨もうざいんだろうな
やっぱ厨は死ぬまで厨なんだろうな
あと最後に、どうでもいいけど「敷居が高い」をハードルが高いって意味で使われるとすごくもやもやするんですよね。あれって確か「無礼をしてしまったために申し訳なくなってる」とかそう言う意味だったはずですし
一生できなくていいよ。その代わり二度と創作者名乗るなよ
以上、私が一年間で感じたもやもやでした。支離滅裂ですいません
ここではソシャゲと言いましたが、キャラゲーや恋愛ゲームの類も一部説明で含んでいました。申し訳ございません。そしてコメントありがとうございます。実際これ書いた時「これ書く時のコストを本編に使えばよかったのになぁ」って自己嫌悪してたので、励ましの言葉嬉しいです。もやもやが吐き出せて少し満足したのでゆっくり休もうと思います
俺をこの沼に引き込んだ元凶。身体と頭を同じ洗剤で洗っていいと言う概念に衝撃を受けた。
ほのかな柑橘の香りが爽やかだが、洗いあがりがさっぱりしており香りも残らない。
洗浄力はそれほど強くないが悪いとも思えない。強いワックスを落とすのは少し苦労するかなというところ。
髪の短い男なので、それほど気にしなかったが、髪がごわつく感じもそれほどしなかったと思う。
泡立ちが弱いので、使い始めた当初は洗っている感じがしなかったが、全身用シャンプーというジャンルは総じて泡立ちが弱いようだ。
しかし、じきに慣れる。そして慣れたころにはもう戻れない身体になっている。
ボトル一本と手ぬぐいひとつで、俺はたちどころに清潔になれるという万能感は堪らない快楽だった。
銭湯やジムのシャワー室に行くたびに、周りの人々を見て「お前ら、身体を洗うのにそんな大荷物が必要なのかい?」と歪んだ優越感に浸ったりもした。
とにかく身軽が嬉しかったし、浴室のモノが減って掃除も楽になったのも嬉しかった。
この蜜月を永遠に続けたいと願っていたが、昨年末に突如販売終了となり、俺の心に風穴を開けたのであった。
堪らない喪失感が俺を狂わせた。
AC部の狂ったCMに煽られて、俺はコイツに手を出したのだった。
最後の理性でレビューを確認したところ、普通のタイプは髪の軋みがスゴいとの事だったので、俺はもう「なめらかタイプ」しかないッ!!!と意気込んでドラッグストアに乗り込んだ。
無印良品の全身シャンプーより圧倒的に安い。これがこの商品の最初にして最後の美点だ。
安いので思い切って使える。しかし、流してもどこかヌメリが残る。これがお前の言う「なめらか」なのか?
そして、使い始めは何故か手の甲に発疹のようなものが少し出た。
でも、他にアテのない哀れな俺はとりあえず使い続けた。使い続けて分かったのは、やっぱり髪がごわつくという事だった。
そして匂いがキツい。フロ~~~ォラルな芳香が手ぬぐいに匂いが残る程であった。
どうしたものかと思いながらも使い続けていたが、梅雨の湿気でついにごわついた髪が制御不能(アウトオブコントロール)になり、もはや入浴なのか修行なのか判別できなくなったため使用を断念した。
俺は追い詰められていた。
髪と体は別々の洗剤で洗うという世間の風潮を拒否し、安住の全身用シャンプーを探し求めるまつろわぬ民 ――それが俺だった。
全身用シャンプーというジャンルはまだまだマイナーなようで、数多あるシャンプー・ボディーソープに比べると選択肢はあまりに狭い。
これまでの価格帯(1本1,000円程度)を外すと、次は1本5,000円台といった感じだ。
そして、1,000円クラスはやはりマイナーなメーカーでレビューも芳しくない。とにかく、キシつきは避けねばならない。
ボトルは150mlの小さいものしかなく、商品のwebサイトでもフィットネスやジムで使うことを想定しているようだ。
それでも、容量あたりのコストは無印良品並で個人的に許容できる範囲だ。
使ってみると、使用感も無印良品に近い。髪の軋みもそれほど気にならず、大分良い感じ。
香りはミント系で爽やか。もちろん、洗いあがりも良く、香りは残らない。流石ラックスと感激している。
願わくば、再び巡り合えた良き全身用シャンプーが終売の憂き目を見ないよう、こうしてささやかなダイレクトマーケティングに励んでいる次第であります。
特段のこだわりが無ければ、身体を清潔にするのは簡単なほど良い筈で、全身用シャンプーは簡易とクオリティを両立させるものだと思う。
もし、他にも良い製品をご存知の方がいらっしゃれば、是非とも教えて頂きたい。
あの愚かしい「掛け算の順番」論を小学校2年生で教えるように文部科学省からの「解説」が出たのは,平成29年7月のことであった。学習指導要領は平成28年12月の中央教育審議会答申を踏まえて平成29年3月31日に改訂され,文部省による「解説」が平成29年7月に公開されたのである。
「掛け算の順番」は,中央教育審議会の答申で加わったものなのか,それとも「解説」で加わったものなのか。後者である。
中央教育審議会や,その初等中等教育分科会,さらにその中の教育課程部会小学校部会や教育課程部会算数・数学ワーキンググループの議事録は,国立国会図書館が保存している。
中央教育審議会: https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11293659/www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/index.htm
初等中等教育分科会: https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11293659/www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/index.htm
議事録をそれぞれ開いて検索しても,「乗法」「かける数」の順番についての言及は無い。
ところが,学習指導要領の「解説」113頁以下で突如として,「被乗数と乗数の順序が…本質的な役割を果たしている」などという言葉が出てくるのである。
もっとも,この「解説」が,中央教育審議会での検討結果を適切に踏まえて作成された可能性もある。
したがって,掛け算の順番を指導すべきか否かについて,確認すべき点が2点ある。
第一に,中央教育審議会教育課程部会算数・数学ワーキンググループの委員ら( https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11293659/www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/meibo/1370594.htm )は,掛け算の順番を指導することを意図していたか。第二に,「解説」113頁以下の執筆過程である。
もっとも,「解説」が中央教育審議会の真意を反映していないと推認させる事情がある。「解説」対象としているはずの表現が,指導要領の文言と異なっているのだ。以下は「解説」113頁以下の抜粋である(二重引用は,解説中で引用されている指導要領である。)。
A(3)乗法
(3)乗法に関わる数学的活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する。
(ア) 乗法の意味について理解し,それが用いられる場合について知ること。
(イ) 乗法が用いられる場面を式に表したり,式を読み取ったりすること。
(ウ) 乗法に関して成り立つ簡単な性質について理解すること。
(エ) 乗法九九について知り,1位数と1位数との乗法の計算が確実にできること。
(オ) 簡単な場合について,2位数と1位数との乗法の計算の仕方を知ること。
(ア) 数量の関係に着目し,計算の意味や計算の仕方を考えたり計算に関して成り立つ性質を見いだしたりするとともに,その性質を活用して,計算を工夫したり計算の確かめをしたりすること。
(内容の取扱い)
(4) 内容の「A数と計算」の(3)のアの(ウ)については,主に乗数が1ずつ増えるときの積の増え方や交換法則を取り扱うものとする。
第1学年では,加法の意味について理解することや,その計算の仕方を考えることを指導してきた。また,第2学年では,数のまとまりに着目し,数を2ずつ,5 ずつなどの同じ大きさの集まりにまとめて数えることを指導してきている。
第2学年では,乗法が用いられる実際の場面を通して,乗法の意味について理解できるようにする。また,この意味に基づいて乗法九九を構成したり,その過程で乗法九九について成り立つ性質に着目したりするなどして,乗法九九を身に付け,1位数と1位数との乗法の計算が確実にできるようにするとともに,計算を生活や学習に活用する態度を養うことをねらいとしている。
なお,ここでの学習の内容は,第3学年の多数桁の乗法や除法の学習の素地となるものである。
乗法は,一つ分の大きさが決まっているときに,その幾つ分かに当たる大きさを求める場合に用いられる。
例えば,「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」を求めることについて式で表現することを考える。
「5個のまとまり」の4皿分を加法で表現する場合,5+5+5+5と表現することができる。また,各々の皿から1個ずつ数えると,1回の操作で4個数えるこ とができ,全てのみかんを数えるために5回の操作が必要であることから,4+4 +4+4+4という表現も可能ではある。しかし,5個のまとまりをそのまま書き 表す方が自然である。そこで,「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」を 乗法を用いて表そうとして,一つ分の大きさである5を先に書く場合5× 4と表 す。このように乗法は,同じ数を何回も加える加法,すなわち累加の簡潔な表現と も捉えることができる。言い換えると,(一つ分の大きさ)×(幾つ分)=(幾つ 分かに当たる大きさ)と捉えることができる。
また乗法は,幾つ分といったことを何倍とみて,一つ分の大きさの何倍かに当たる大きさを求めることであるという意味も,併せて指導する。このときも,一つ分 に当たる大きさを先に,倍を表す数を後に表す場合,「2mのテープの3倍の長さ」 であれば2× 3と表す。
なお,海外在住経験の長い児童などへの指導に当たっては,「4×100 mリレー」 のように,表す順序を日本と逆にする言語圏があることに留意する。
ここで述べた被乗数と乗数の順序は,「一つ分の大きさの幾つ分かに当たる大き さを求める」という日常生活などの問題の場面を式で表現する場合に大切にすべきことである。一方,乗法の計算の結果を求める場合には,交換法則を必要に応じて活用し,被乗数と乗数を逆にして計算してもよい。
乗法による表現は,単に表現として簡潔性があるばかりでなく,我が国で古くか ら伝統的に受け継がれている乗法九九の唱え方を記憶することによって,その結果 を容易に求めることができるという特徴がある。
「(ア) 乗法が用いられる場合とその意味」という見出しが付されていることから,「解説」を執筆した文部科学省初等中等教育局長髙橋道和およびその部下たちは,学習指導要領における「乗法の意味について理解し,それが用いられる場合について知ること」を「乗法が用いられる場合とその意味」と読み替えた上で,後者について解説してることが分かる。
そして文科省初等中等部教育局は,「用いられる場合」のあり方について縷々説明をする。「その意味」が「乗法の意味」ではなく「乗法が用いられる場合の意味」を指すように,意味が変更されたことの現れである。順序が本質的な役割を果たすとして交換を拒む彼らが,表現の順序を交換しているのは皮肉であるが,そこでは交換法則が成立していない。
学習指導要領は,「乗法の意味」には「理解」を求め,「それが用いられる場合」は「知ること」を求めている。後者は知るだけで良いのであって,深い分析の如きは求められていない。そこには,文科省の官僚が言うような「被乗数と乗数の順序に関する約束が必要であることやそのよさを児童が理解することが重要である」というような視点はなかったのである。
もうすっかり、東京や大阪の知事が「とにかくテレビで知名度のある人」の人気投票みたくなっちゃった元凶は、間違い無くノックと、ノックを選んでしまった当時の大阪府民で間違いない。
なにしろ四半世紀前の話だし、ギリギリ選挙権はもってたけど関西に住んでなかったので、当時のリアルな空気はよく知らないが、たしか前任者がお金にまつわる疑惑かなんかで出馬せず、事実上、ノックvs自社さ(当時の連立与党)の一騎打ちだった選挙。で、なんとなく「既成の枠にとらわれない知事を」みたいなことで、当選したんだと思う。関東では「え?まじノックなの? 大阪人大丈夫なんか」と言う反応が少なからずあったように記憶する。
で、「ノックありだったら、青島幸男でも無問題じゃん」とばかりに、直後に続いた知事選で、東京でも意地悪ばあさん(青島幸男)が知事になってしまった。
まあ、青島幸男の場合は「都市博中止」という割とでっかい公約もあったけど。
(かつて、お台場で「東京都市博覧会」なるイベントが企画されてたことを覚えてるのは、かなりのおっさんおばはんだろう。フジテレビは、それを見込んでお台場に移転したのにハシゴを外されてしまい、その反動のようにやたら“お台場!お台場!”と叫んでイベントとかやりまくっていた)
あの頃から、東京と大阪の知事選は、ワイドショーを巻き込んだ人気投票選挙になってしまったのだと思う。橋下とか小池とか吉村とか、やたらテレビに話題を提供することに長けた人でないと知事になれなくなってしまった。最近ではさらにネットも意識しなきゃいけないいけないから、もう政策とか二の次。
これから書くことは、新海誠の描く女の子の気持ち悪さをディスるとかそういうことではありません。
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の発動により、人々が経済的に困難な状況に陥り苦しみを体感しました。人の往来が規制されるだけで、どんな過酷な事態が発生するか私たちは痛感しました。
そんな経験をした直後に、あの忌々しいアニメ映画がリリースされるなんて、これほど国民感情を刺激する出来事はありません。
関東を海に沈めて数十万人の命を奪う元凶となった男が、女とデートしていい感じになって、このあと絶対セ〇クスするんだろうなと、匂わせるラストシーンははらわたが煮えくり返り、ネットで誹謗中傷をして自殺に追いやりたくなる胸糞の悪さです。
擁護派は「3年間かけて徐々に水没したのだから死者はいない」と言います。
しかし、たとえゆっくりゆっくりと風呂に水を張っても、いつかは浴槽から水はあふれて流れ出すのです。
東京には多摩川水系、荒川水系、利根川水系、鶴見川水系と言った多くの河川が流れています。これらが一斉に増水し、氾濫を起こす悪夢を想像してください。
国も河川が氾濫したときの死者数を想定しています。国土交通省の試算によると荒川が氾濫した場合3500人が亡くなるとされています。すべての河川の想定を合わせると大変な数になります。水害は様々な被害を及ぼします。令和元年の台風19号は汚水を逆流させ部屋を糞まみれにしました。また地盤の緩いところで土砂崩れを発生させるなど、多くの災害を発生させています。そう言った様々な事象を想定すると死者の数はもっと膨れ上がります。
映画にはレインボーブリッジが水没しているシーンが登場します。レインボーブリッジと言うのは橋桁の高さが約50mあります。それが水没したと。つまり海面が50mは上昇したということです。
ここで海面50mが上昇したときのシミュレーションをご覧ください。
リンク「Flood Maps」
http://flood.firetree.net/?ll=35.7174,139.7531&zoom=10&m=50
ご覧の通り東京だけでなく、海抜が低い埼玉県や千葉県、群馬県、茨城県までもが海の藻屑となります。
電車が止まって会社に行かなくていいなど、甘いものではありません。
どれだけの打撃があるでしょうか?
緊急事態宣言の1か月でどのような生活の変化があったか、だれもが知っていると思います。
セックスは生きた人間としかできません。しかしそのために他の命を犠牲にして良いのでしょうか?
見ていて耐えられるものではありません。
※SNS上でセカンドレイプが発生している現状を鑑みて、便宜上ここでは被害者をAさんとします。
結論から言うと、今回のAさんの自殺はテラスハウスにおける「恋愛」を求めた視聴者に非がある。というか元凶は視聴者。
Aさんの自殺発覚後、彼らの攻撃対象は誹謗中傷を行ったアカウントに向いた。
出演者にやらせを強要していたり、意図的に人間の悪い部分をクローズアップしたテラスハウスのプロデュース方法や演出について批判をしているアカウントは誰一人として見つけられなかった。
そもそも『「人の恋愛」がエンターテイメントとして消費されている』という現状に、なぜ誰も非を唱えないのか。しかもその「恋愛」は脚本によって脚色された偽の恋愛と言っていいだろう。おかしいとは思わないのか?視聴者にとって、テラスハウスという番組はNetFlixに980円も毎月払ってみる価値のある作品なのか?
男が女を奪い合う、また女が男を奪い合う...そんなギスギスした構図を、わざわざドキュメンタリー形式的にしてまで、どうしてエンターテイメントとして楽しむことができるのか? 私には本当に理解することができない。
昨年のバチェラーの結末で炎上した件もそうだ、ご意見番みたいに「B子がかわいそう」「どうしてC美を選んだの?許せない」などと、他人の恋愛にいちいちコメントをすること自体が異常だぞ。
ネトフリさんはこの訃報にコメントを発表しているが「突然の訃報に、言葉を失っております」じゃねーよ、即刻放送中止にしろや。と言いたい気持ちを抑えて、私は、誹謗中傷したアカウントはもとより、テラスハウスのプロデュースというか番組そのものに異を唱える。
あと「言葉は刃物」「画面の相手の先にいる人のこと考えよう」とか綺麗事並べてるアカウントが気持ち悪い。視聴者は「テラハ見てたけどさ」とか前置きしてるけど、当然Aさんが誹謗中傷に遭ってることも気付いてたよな?その時になんで誹謗中傷しているアカウントに注意しなかったんだ??「他人には注意するけど自分は見て見ぬ振りか?」それ自分の発言内容と矛盾してないか?
名作傑作と言われている割には響かなかったなあという駄文
・青山作品はかつてハマってコナンは50巻近く、まじ快は3巻まで、YAIBAは全8巻のうちの真ん中の一部以外は集めた。
・劇場版コナンは全部見たわけではないが、こだま作品、銀翼、紺青が好き。確か水平線上、鎮魂歌、純黒は見た。
・相棒や科捜研の女は多分見たこと一度はあるとは思うけど、よく見てて好きだったシリーズとしては記憶してない。100の資格を持つ女や紅蓮次郎や法曹系の女主人公のが好きだった。
正直これコナンでやる必要あるかなと思った。ベイカー街の亡霊と同じくやりたい題材のために、名探偵コナンを利用した匂いがした。問題は、ベイカーはコナンファン・ホームズファンの中でも賛否わかれるところはあっても一般受けは良く対象もあくまで子供であるのに対し、執行人は対象が大人で一応コナンの推定ファンの年齢層だろう子供を捨て去っている節があった。正直良い意味で心動かされたのが、①毛利家(園子緑さんも含む)の描写、②少年探偵団がストーリー上意味があって足手まといではない、③ポアロのお姉さんの変なジェスチャー、④カーアクションで電車の側面を走るところ、⑤博士が有能(クイズだけや場所や道具提供だけではない)……くらいしか思い出せない。あと車のCGが結構目に入った。
まず、ストーリーに燃えるところがあまりない上に大人向けで暗い。公安警察が元警察官で、現有名探偵(背後のコナンという強力な協力者が目当て)とはいえ、一般人を巻き込んで拘束するようなことはどうなんだろうと思う。警視庁や地方警察所属警察官を好感の持てるキャラクターに描いてきた本シリーズにて、公安関係者にキャラクターとして好感が持てなかった。公安の歴史を考えれば好感を持てないキャラクターというのは考えられることではあるが、純黒の風見のあまりの無能さにキュンとしただけに残念に思った。すべての元凶は公安といってもいい物語であったが、燃えるところが少なく、対象を大人だけに振り切らないでほしかった。犯人の動機が協力者を失うことになった公安に復讐するためであるが、犯人も協力者もコナンも安室自身の正義の上で行動している。正直安室登場後のコナンに関してはあまり正義を問われたくないが、正義は一つではなく難しいものであるだけにコナンでやるのならストーリー自体もう少しは明るくした方がいいのではないかと思う。公安という立場をメインに出してきただけに難しいものではあるが、あまりの視覚的物語的暗さになんだかなという気分でいっぱいだった。正直自家用のテレビで見たが、夜設定とはいえ画面的にあまりにも暗いと感じた。またゲストキャラクター(いつもの芸能人枠)の弁護士の方のラストシーンで激昂するところがあるが、彼女もそれまでに公安の協力者として暗躍する中で監視していた対象に惹かれたものの、事件が起こり協力者に協力を頼んでいた中で自殺される。そのまま協力者を続けていたら実は公安によって、自殺していたとされていた恋人は生きてましたなどという自身の判断によるものであれど公安に人生を振り回されているのは、哀れみの感情をいだいてしまった。しかし彼女も暗さを増長した一因である。
次に犯人サイドの事情や処理に面白みがないなと思った。ここでは犯人の協力者は含むとする。推理モノやサスペンスで個人的に楽しみにするのは、犯人の動機が大きい。犯人が犯行を起こす動機が、同情する余地があったりカリスマ性があれば正直娯楽として好きになってしまう。犯人の処理もそうだ。ただ今回の犯人周りはつまらなかった。犯人の上司に対して火傷負わせ他のが犯人と分かったときはよくやったと思ってしまったが、協力者の生存を知らされて諭されてすぐパスワードを言ってしまったりコナンの言葉にすぐ諭されてしまったりというのは、尺の問題が大きいかもしれないがやった規模や抱えていた自身の正義に対して描写が薄いなあと思った。協力者の方は結局自分の正義感に酔いすぎて就職できなかっただけで死んだと思ったらなんだかんだのうのう生きてたし、あと正直ミスキャストで演者に対してキャラが抱えているものが大きすぎて演者が頑張っている分ちょっとなあと思った。おそらくもっと丁寧に描写されていたら協力者の生存に残念だとは思わなかっただろう。正直犯人サイドのキャラクターとしての描写があんなに有名作なのだからもう少し掘り下げしていると期待していたために残念に思った。犯人よりも公安の傍若無人さの方が印象に残り、それがクライマックスの燃え上がるはずのところでうまく自分には火が付かなかった。
またクライマックスで少年探偵団が活躍するところと安室とコナンが活躍するところがある。少年探偵団が足手まとい過ぎない(足手まといの例:水平線上)、灰原が原作のスペックから考える必要以上に出しゃばらない(一応薬学が専門のはずなのに薬学以外で博士よりも活躍している場面など)、博士が有能(ただの見守るお爺さんや道具・場所・クイズ提供者じゃない)など個人的には好きだと思った。ただ、何も知らされずに衛星探査機を子供たちが迎撃するというのはどうなんだろうかと疑問には思ったが。目暮警部をはじめとするいつもの警察関係者のポーズに近いのもあるとは言えど、子供に危ないことをさせないために止めるのに慣れているだけに、博士以外ためらう姿が絵として見られないのが少々残念に思った。まあコナン・灰原以外の事情を知る大人が公安関係者だけなことはあるために納得は行くが。今回は探偵たちの鎮魂歌のように実は危険な目にあっていたし、その状況を対処したのは少年探偵団という描写だった。彼らなら事情を知ったうえできちんと対処できる(例:天国)という期待があっただけに、実は自分たちで破壊した探査機を間近で見られなくて悲しむ姿に言ったうえで協力してもらってもよかったんじゃないかなと思った。
毛利家の描写(園子緑さん含む)は結構好きだった。近年のコナン映画は蘭にとりあえずアクションさせ、雑でも新一と叫ばせればいいという個人的な偏見がある中新一を必要とする理由(おっちゃんの逮捕)がわかりやすく、コナンから蘭への愛情もちゃんと尊重している(安室がコナンから蘭への感情に言及している)など、蘭の扱いがラブコメ中心ではない映画にしては良いと思った。純黒の蘭の存在意味が無に近いのを最近見返したので、思っていたよりはよかった。コナン映画といえば蘭に精神的デバフをかけるのが恒例ではあるし、よくそれで叩かれている(空手強いのに騒ぎすぎとか)のを考えると新しい精神的負荷のかけ方だと思った。小五郎を蘭が疑うというのは14番目の標的でもあったが、今回は異例の起訴という事態に陥っているため精神的に弱っても不自然ではないと思う。妃さんも身内には弁護できないという状況でおっちゃんのことを考えているのが伝わってきてよかった。エンディングの毛利夫妻はやっぱりこうでなくちゃと思った。園子は不安な欄に付き添ってあげているいいやつだし、緑さんも毛利家のことを思っている(正確には妃さんのことだろうけど)し、色々と手助けしてくれたりしてよかった。正直毛利家がこの映画の視覚的にも物語的にも癒しとなっていたところあった。
あと途中で車が泣き顔に見えるほどズタボロになっているのがかわいそうだけど、頑張ったねって感じで好き。カーアクションで電車と真っ向から衝突し、電車の側面走ったりと本当お疲れ様だった。最後はもう廃車確定なのかもだけど、MVPは君だったよ。
総括すると、「名探偵コナン」の傑作として持ち上げられていた割には基本的に物語が暗くてスンって気分でいた時間が多かった。ベイカーみたいに「名探偵コナン」としては異色という認識だとしても、それまでの認識していたコナン像と違ってたぶん困惑しただろう。これがコナンでなければもうちょっと先入観に踊らされることなく、楽しめたのかな。正規の駄作とまでは言わないけど、公安や警察方面に明るくもなく、コナン知識に自信があるわけでもない身としてはもうちょっと説明が欲しいなと思った。例えば、なぜ犯人が共犯者を選んだのか、共犯者は自殺した()あとどうしていたのか、コナンがスマホに盗聴アプリを仕込まれていたことを博士に調べてもらって知っていたのなら調べてもらう際にバレなかったのか、NAZUは侵入された後に犯人によってパスワード変更されるまで(された後も)何もしなかったのか、警察(公安)以外の省庁のお偉方が無能に見えたけど本当に何もしてないのか、犯人の上司(公安検察の人)が結構嫌なだけの不美人に描かれていたけど何か信念とかはあったのか、あのあと女弁護士はどうなるのか、あたりの説明は欲しいなと思った。小説を読めばいいのかもしれないけど、こだま時代の疑問点はあっても雰囲気とかでだいたい満足みたいなのに慣れすぎてて手を積極的に出す気にはなれないんだよなあ。世間評価のわりにあんまり響かなくて残念だった。安室というよりも公安の降谷を見るための映画だなと思った。だけど映像やアクションでごまかすんじゃなく、降谷という人についての描写をもうちょっと色濃くやってくれたら今よりも好みの作品になってくれたかもしれない。
猫コロナの薬であるレムデシビルが認可されたのはその一つだ。猫コロナはストレスで突然変異を起こし、腹膜炎を発症するが、その治療薬がレムデシビルだ。
つまり、既に日本でも数百万人は居るヒトコロナキャリアの人達の発症を抑えるためには、ストレスを減らすこと。
ストレスを減らすためには、多様性を排除しないとならない。多様性はストレスの元凶だからだ。多様性はみんなが少しずつストレスを抱えることで成り立っている。
ヒトコロナに感染しない方法は事実上ない。唯一あるとすれば飼い猫同等のステイホームを日本国民全員がやることだが、無理である。
私は怒っている。君に。君らに。直接言えないからここで書く。
一昔前は「クリエイティブ」な活動といえば、一部の人間のものだったんだろう。でも、今は誰だって簡単に何かをクリエイトすることができる。
自分が作った文章、料理、イラスト、漫画、ダンス、歌、音楽……なんでもいい。世界に発信し、反応をもらえる。
すばらしい時代だと思う。
私の友人も、そういう人が増えた。君らのことだ。
そういうのを見ると、友人の一人として、活躍が嬉しいし、応援したいと思う。作品がよいものであれば、自分のことのように誇らしくも感じる。
君らの「これを作りました!」という投稿には、「いいねお願いします!」「見てください!」「来てください!」と書いてあることも多い。
投稿だけじゃなく、個人的に直接メッセージをもらうこともある。「いいねよろしく」「友達登録してください」「公演見に来てください」。
「いいねが集まらないと仕事に繋がらないからお願い」と頼まれたこともあった。
実はあんまり興味がなくてスルーしていたのだが、直接言われたとあって「いいね」をしにいった。
宣伝は大事だし、どんどんした方がいい。赤の他人よりも人柄を知っている分、興味を持ってくれる可能性が高いはずだ。
興味はなくとも応援してくれる心優しい人もいるだろう。
私もこういった投稿を見て、「いいね!」を押したり、その人が書いたという本を買ったり、展示やライブを見に行ったりした。
もちろん、先述のように作品自体が自分の興味のないジャンルのこともある。
それでも友人として少しでも役立ちたいという気持ちから、わりと積極的に反応している。
単純に、他人に自分の趣味の範囲を広げてもらうのがおもしろいと考えているのもある。
誘われなければ、渋谷の小さなライブハウスに行くことなんてそうなかっただろう。流している音楽はよくわからなかったけど、あれはいい経験だった。ありがとう。
さて、本題だ。何に怒っているのか。
実は私自身もイラストやら漫画やらを描いては、SNSで「こんなの作ったよ」と投稿している。
「すごいね!」「昔から好きだったもんね!」「才能あるね!」といった内容ばかりで、まぁ社交辞令や身内贔屓だったとしても嬉しいものだ。
しかし、先述の「これを作りました!」という友人に限って無反応なのである。
おいおいちょっと待ってくれ。
確かに私の作品は拙いよ。趣味で作っているものだし、クオリティも素人丸出しだ。趣味じゃないってこともあるだろう。
お金なんて取りゃしない、イラストや漫画なんかチラッと見たらいいだけ。難しくもなんともないし、時間もほとんど取らない。頻度だって少ないもんだ。
もしどうしても忙しいんなら、「いいね」のポチだけだっていい。それも無理なのか?
私は君にとってただの養分なのか?
それともなにか、自分の作ったものは人間関係とは関係なくクオリティを純粋に評価されていると思っているのか?
……とまで考えてしまう自分もどうかと思う。自分の作るものの力が足りないのも元凶だろう。けど、率直な思いでもある。
他人をたくさんの「いいね」のひとつだと思うのを辞めてほしい。そのいいねを押す指は、きちんと生身の人間に繋がっているのだ。