はてなキーワード: 価値判断とは
価値判断を含んだ文章を理解するには、ある程度、筆者の価値判断の材料を理解しなくてはなりません
しない場合、自分の共感しなさをどのように伝えるか、と言った問題があります
すぐれて教育的な問題ですが、時間のなさ、カリキュラム、教師の能力、生徒の能力といった諸々の事情から、厳しいのが現実ですね
なるほど。こういうことなんだろうな。
俺は男子校出身なんだけど、9割9分の学生が童貞で恋愛の悩みなんか抱えたこともないのに、『こころ』を読まされたのはよく分からんかったな。
先生も「お前ら童貞には分からんだろうが・・・。」って言ってて、「明治の精神の終わり」とかのテーマを中心に解説していたが、そっちの方が関心ないというオチ。
やっぱセックスとか暴力描写とか宗教とかマルクス主義とかにかかわる文章は載せられないんかな。
そういうの避けて、かつほどよい長さの文章を選ぶのは大変そう。
ゲームのレーティングと同じで、発達段階に応じた内容を選ぶことの難しさはありますが、
自分の場合は高校ですし、高校生はある程度現実見えてるので、そこまで厳密なゾーニングをしたところで、という気にはなりますね
個人的にはセックスや暴力描写も、「そこから客観的に何が読み取れるか」「どんなことが見えてくるのか」という点で、
教材としてだけなら、むしろ良い教育内容が作れそうだな、という感じはありますね
宗教とかマルクス主義の例ですが、イデオロギーを色濃く含んだ文章は、難しいです
価値判断を含んだ文章を理解するには、ある程度、筆者の価値判断の材料を理解しなくてはなりません
しない場合、自分の共感しなさをどのように伝えるか、と言った問題があります
すぐれて教育的な問題ですが、時間のなさ、カリキュラム、教師の能力、生徒の能力といった諸々の事情から、厳しいのが現実ですね
条件が整わないまま、価値判断を色濃く含んだ文章を取り扱うと、筆者の価値判断(読解ではなく)の押し付けみたいなことも生じる可能性があります
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形式段落を意味の上で大段落に分けて、第一段落…のように形式段落ごとにちまちまと読解した覚えがあるだろう
自分も未だにそのやり方を続けている
アクティブラーニングなんかが好きな人はたぶん生理的に受け付けないんだろう
現代文(特に評論)の読解には、大きく分けて2つの読み方がある
1つは、トップダウン式の読み方で、全体をざっと理解してから細部に及ぶという、いわば演繹的な読み方である
もう1つは、ボトムアップ式の読み方で、細部を精読してそれを有機的に繋ぎ合わせるという、いわば帰納的な読み方である
多くの国語教員は後者のやり方を取ってきた、特に中学高校の教員は
今、それが古式ゆかしいと批判されて、トレンディではないらしい
トレンディであるかないかじゃなくて、もっと別の方法から、自分はトップダウン式の読み方を授業に持ち込むのは反対だ
まずもって、トップダウン式の読み方というのは、まともに書かれた文章をまともに読もうとするとき、まともに使うことは稀であるように思う
そして、トップダウン式の読み方というのは、何より、それを履き違えた形で身に付いてしまうと、
「自分の都合のいい/自分が読める箇所だけを繋ぎ合わせて何となく理解した気になって、こんなもんだろう、と都合のいい物語を勝手に作り上げてしまう」
それに、ボトムアップの読み方すらできない人は、トップダウンの読み方なんて絶対無理
むしろ、もっともっと、細かい部分をきちんと読み込めるようにしないとダメだと思うぐらい
時代の流れだとか言うけど、
「過去より現在が常に正しくて、未来はもっと正しくなる」って考え、進歩主義以外の何物でもないと思うんだよね
「新しいものだから」とか、「時代の流れなんだ」とか、それは主張の正当性を裏打ちするものではないと思う
「進んでる」とか「遅れてる」とかそういうフレーズを価値判断と絡めて使う人は大抵、論理的に正当性を主張できないから、進歩で殴るしかない
オタクやめれば彼女ができるよ! と言われて、オタクをやめたけど彼女はできなかった。
童貞卒業すれば女の良さに目覚めるよ! と言われて、ソープで何度もやってみたけど、女性に対する感覚はあまり変わらなかった。
素人童貞卒業すればセックスを好きになれるよ! と言われて、死に物狂いで彼女を作ってセックスしたけど、正直風俗嬢と大して差がなかった。
ちょっと変態っぽいプレイをすればハマるかも! と言われて、彼女の理解を得て色々と試してみたけど、「まあ、こんなもんか」と感動もない。
その彼女とは1年くらい付き合った後、自分はまだ好きだったけど、色々事情があって彼女と別れることになった。
彼女が仕事をキャリアップしたくて海外に行くのがメインの理由だったから、いちおう喧嘩別れじゃないのが唯一の救い。
別れの理由をそれ以上詳しく書くつもりはないけど、円満にお別れしたから後悔はあまりない。
でも、別れた翌々日の朝になって目覚めたら、なんか自分がニンジンを目の前に垂らされた馬車馬みたいでバカバカしくなってきた。
オタクをやめて彼女を作るのに必死になっていたときも、中毒者のように風俗に通っていたときも、別れた彼女と付き合っていたときも、
何か他人が自慢気に語る「幸せな私」みたいのに憧れつつけていただけだったんだな、と。
他人の感覚は知らないけど、彼女ができてもそんなに人生が猛烈に幸せになれたわけでもないし、
セックスはそれほど気持ちがいいものでも楽しいものでもなかった。少なくとも自分には何か特別な価値を見いだせるほどのものはなかった。
自分が何か人生に物足りなさを感じるたびに、物知り顔の人たちが「君はまだ本当の幸せを知らない」とでも言いたげな感じで
あれをすれば幸せになれる、これをすれば幸せになれる、みたいな主張をすることを真に受けて生きてきた。
はてな的に言えば、他人のマウンティングを真に受けて生きていた。人生の価値判断を他人にゆだねてきた。
プロ以外で経験人数ひとりで何言ってんだとツッコミが来ることを承知でいえば、
よく考えれば、他人が言うように「若い時は一日何回もオナニーした」というほど以前から性欲は強くなかったし、
女性に対する猛烈な性的欲求もなかった気がする。あくまで恋愛は承認欲求をベースに友達感覚の延長って感じだった。
そもそも感受性や身体感覚なんて人それぞれであって、セックスで天にも昇る心地になれる人もいれば、
自分のように「まあ、こんなものか」と大した感慨を抱かない人間もいるんだろう。
セックスが気持よくてしょうがいない人は、恋愛や性行為にのめり込むだろうし、そうでなければ淡白になる。
「君はまだ本当の愛を知らないんだよ」とかって言う人は、たぶん本気でそう言ってるんだろうけど、
それはその人と全く同じ感受性と身体感覚を兼ねそ備えてはじめて体験できる世界であって、
逆に、自分がとある分野でオタク(アニメ・マンガではない)をやっていたときの興奮は、
たぶん普通の感受性や身体感覚を持つ人には経験できないものだったのだろう。
(周りから「何がそんなに面白いの?」ってよく指摘されていたから)
どちらが正しいってことじゃない。他人は他人、自分は自分ってだけのことだ。
中年近い年齢になってやっとそんな当たり前のことに気付けた。
他人のマウンティングを真に受けて、自分はまだ本当の幸せを知らないんじゃないか、なんて自分に疑いを抱くのをやめるべきだったんだ。
人には自分の幸福を追求せざるを得ない業みたいなものがあって、それを他人に外注することはできない。
(そういう傾向が極端になれば、カルト宗教にハマったり、悪い人に貢いだりする方向へ向かうのかもしれない)
他人と同じように喜んだり楽しめないのはどうしようもない。それを前提にどうやって幸せになっていくか模索するしかない。
とりあえず童貞卒業して、恋愛をやって、それで別れて、ようやく当然の事実に気付かされたってだけの話だ。
たぶん多くの大人は社会人になる前にそういうことに気づいてる。だからみんなメンタルが強いんだろう。
つまり、ニンジンは他人からもらうんじゃなくて、自分で育てて自分で収穫するしかないんだ。
馬車馬のような人生をやめようと思ったら、不安や焦燥感、劣等感、孤独感なんかとうまく付き合っていくしかない。
これから先の人生でも幾度となくマウンティング受けていくんだろうけど、
正直もうそういう指摘をいちいち真に受けて焦ったり、したくないことしたり、苦しんだり悩んだりする必要はないんだな、って
そういう大切なことを学んだだけでも良しとしようと思う。
「オタクは差別されている!」とよく耳にする。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
そうだとしよう。だけど、すごくおおざっぱに言って「昔」と「今」とでは同じ「差別」でもその意味合いが違ってるんじゃないか?
「昔」、オタクはベタに差別されていた。仮にそうだとしよう。あの偉大なコミケを指して10万人の宮﨑勤が……と。
他方「今」、オタクが差別されているとするなら、それはオタク文化が社会に受け入れられる上でのアレルギー反応のようなものではないだろうか?
「オタク文化はアレルギ=悪だというのか?」そういう価値判断を下したいわけではない。「ある異質な文化が社会に受け入れられる際、必然的に一部の面倒な人から拒否反応が起きる」という現象を仮にアレルギーとマークしてるだけで、悪だといいたいわけじゃない。僕はオタク文化が大好きだ。最近では「三ツ星カラーズ」という漫画がオススメだ。
さて、普通に言って、オタク文化は浸透した。AKBは国民的アイドルだ。初音ミクとラブライブくらいなら誰でも知っている。ガルパンはいいぞ。あるいはハリウッドの超大作にオタク的なエッセンスが密輸入されているのを確認してほくそ笑んだり……色んなレベルはあるけど、着実に広まっていると言えるだろう。
「いや、オタクはまだまだ差別されている!」その指摘は正しい。この後触れる。
「ラブライブとかってヤンキーとオタクのあいのこみたいな層にウケたものでしょ?それオタク文化って言えるの?」その指摘も正しい。後で触れる。
そんな中、「碧志摩メグ」問題でも「のうりんポスター」問題でもいいが、仮に「オタクは差別されている!」と感じる事象があるとすれば、それはオタク文化が受け入れられようとしている上での、一種の拒否反応のようなものとして捉えると色々とスッキリしてくるのではないか?
「お前は「碧志摩メグ」や「のうりんポスター」をどう捉えているんだ!」それはここでは問題にしない。やりすぎと思うにせよ、そんな目くじら立てなくてと思うにせよ、ここではあえてフラットに事象を眺めることによって得られるものに注目したいのだ。一応いっておくと僕は、「碧志摩メグ」や「のうりんポスター」はさまざまな当事者の心境や、そのコンテンツをつくるに至る具体的な文脈、部外者による評価をどう判断するか、そもそも「当事者」と「部外者」をどのような基準で分けるのかいやそもそも分けられないのかなど多岐にわたる論点を抱えており、善悪の二元論で語ることは危険だという立場だ。これを世間では日和見と言うらしい。
つまり、すごく大雑把にいって「オタク文化は差別されている!」という時の「差別」は昔と今とではその意味合いが異なっていると言うことができる。ここからが本題だ。
たとえば、最近オタク文化に馴染んだ若いオタクが「差別されている!」と憤るのはもっともなことだ。こんなに素晴らしいオタク文化に拒否反応を示すなんて、と。
また、古風な「オタク的観点」から物事を捉えている人が「差別されている!」と感じるのももっともなことだ。かつてオタクは冬の時代を過ごしており、その余波は今でもあちこちに見出される。一貫した観点からオタク差別を捉えるのは妥当なことだし、有意義なことだとも思う。
しかし、昔ながらの「オタク的観点」をガッツリしょってるわけでもなく、かといって最近オタク文化に親しみはじめたわけでない、そんな中途半端な「オタク」であるにも関わらず、「オタクは差別されている!」という言説の歴史的に宿る差異にまったく無頓着であり、それなのに「オタクは差別されている!」と無邪気に発してしまう、そんな人達が僕は不思議で仕方がないのだ。
これは「真のオタクは……」というタイプの語り口に所属するものでは(おそらく)ない。文章としては同じものが、文脈によって複数の意味を宿すことについての注意力、恥ずかしい言葉を使えば「言葉に対する感性」の問題だ。
いまいちピンとこなかっただろうか?それなら申し訳ない。スルーしてくれれば幸いだ。
実は、僕はいくつかの具体的な顔を思い浮かべながらこの増田を書いている。あてはまらなかったり、なんか意味不明と感じたら、多分あなたにとって、それは的外れな問いなんだろう。
「そんな友人にも実は深い背景が……」と思われただろうか?一応、僕とその「顔」は深い関係を築いている。そして、僕のほうがどうやらオタクなのだ。
「そういうことって別にオタクだけに限らず……」その通り。そういう見方を全く否定するつもりはない。これは別にオタク文化を断罪したいのではなく、単に、実体験で感じたモヤモヤについての増田だ。
「そのような語り口自体が増田のオタクフォビア的な隠された政治性を暴露しており……」そういうつもりはないが、僕はその見方を否定できない。すごくラフに言って「にわかオタク」的なものに疲れているのは事実だ。とはいえ、あくまで対人関係での違和感が根っこにあり、そいつはたまたま「にわかオタクで」……、という順序だ、ってことを理解してくれれば幸いだ。
この増田がどこかに届くことはできるだろうか?
例の増田について。
殊更に「彼」の欠点を論う必要はないかなーと思ったけど別にいんじゃね、くらいの感じだった。
id:kakakauchi001 ブコメでなぜ女性の方が叩かれてるのか謎。そんなにはてブユーザー男性(童貞)の自尊心を傷つけたのか
id:shields-pikes いい女じゃん。高齢素人童貞を捨てたいと思ってる人は、こういう女性を探した方がいいよ。これをdisってる奴はこじらせ過ぎて終わってる。/大人なら告白せずにセックス、は恋愛に慣れた人のポジショントーク。
自分と反対する意見は全て童貞の戯言として切り捨てる姿勢、尊敬します。
id:echorev 頑張り方を間違えてる人にはちゃんとお説教してやらんとダメよ。後日ちゃんと話し合ってるしいい人だと思うよ。これを上から目線だなんて卑屈すぎだよ。
一行で矛盾してる。説教の意味を調べましょう。「アドバイス」で良かったんちゃう?
id:Pi7 一貫して「チンコの慰め道具としてではなく、一人の人間として私に向き合え」ということを主張していて、かつ童貞のチンコ暴走による失敗も許す寛容さ。天使のような優しさだな
燦然と輝く金字塔。どこをどう読んでも「彼」は儀礼的にホテルに誘ったとしか読めないこの文章にこれをたたきつけるセンス。
このブログ(http://ketudan.hatenablog.com/entry/2016/06/06/194014)でも言及があったけど、本当にひどい。
何がひどいってここまでの奴全部人気コメントトップ10に入ってるってこと。
ここから下もひどい。
id:tikani_nemuru_M 「お前がモテないこともコミュ障なことも顔がかっこよくないことも知っている」というのは価値判断ではなく事実認識である。事実認識に上から目線もクソもないというのにね・・・
事実でも悪口になることはある。「ハゲ」が罵倒語になっているという事実がある。
id:gomaberry これを上から目線と感じるとは。自信がないんだねぇ・・・・この増田さん相手思いじゃないですか。こういう人と付き合えばブコメの非モテくんでもぐっと成長するよ。
id:inmysoul 筆者が叩かれてる謎。優しさにあふれためっちゃいい女じゃないか。童貞共はアニメに出てくる少女みたいのは存在しないんだから女性に対する認識を改めろ。
id:kibarashi9 なんだよ童貞強盗に童貞警察がご立腹か。
id:sub_low これが上から目線と感じる人はこと恋愛においては完全に地底人というかダンゴムシだな。
あなたは「主体的な評価」と「世間的な評価」を区別したうえで、その両方で低評価がなされていると述べています。
ただこの場合、「主体的な評価」といっても、その評価基準は「世間的な評価」と同一(=顔やファッションセンスが洗練されていることを「良いこと」「重視されるべきこと」と考える点で同一)であり、
いやいや、例えば顔なんかは「世間では美人とされない顔だけど自分はすごく好み」とかいうことがあるよなー
元増田はそういう留保なくかっこわるいと言っているので、主体的にも「悪い」という評価をしてると言えるでしょう。
きちんと文を読んだ上で言えるのは、この女は相手の男に対する評価が事実判断としても価値判断としても「低」ということです。
少なくともそれ以外のことは述べて無い。
「その好きな理由」が全く出てこないんだけどね。
すっごい熱を入れて駄目であるとか低評価であるとかいうことは書き連ねながらね。
2.「自信をもってほしい」
これも全体の文意から考えて「顔やファッションセンスを重視する世間的な評価を内面化して劣等感を覚えたりしないでほしい」ということであって、
いやー、人にクンロクたれようと思う前にあんたこそちゃんと読んで欲しいな。
男がいつ劣等感を見せたんだよ?
書いてあることは「付き合ったことがないので友達にセオリーを聞いてその通りに頑張った」ということだけ。
童貞だのコミュ障だの不細工だのファッション最悪だのは全部女がいきなり言い募ったこと。
文を読む限り男は自分ではそんなこと言ってないんだよなあ。まして「劣等感を覚えて」ってどこから出てきた?
おれはちゃんと問題文読んで書いてある内容を分析や構成して語ってる。
あんたは問題文のどこにも書いてないことばっかり妄想で語ってる。
増田Bにしてみれば彼氏のことを好きな理由が何かあって、それをわざわざ書く必要はないと思ったのでしょう(書いてないことを少なくない人が不審がっているのが不思議です。子供を諭しているわけでもあるまいし、批判のあとには褒め言葉が続くというものではないでしょう)
何度でも言うけど
好きな相手のことでこんだけ長文を書いておいて、世間的・主体的低評価というかほとんど罵倒に当たることのみ書き連ねるというのは俺はなんか理由がある異様なことだと思うよ。
3.「キレて誤魔化さずに」
「そんな取り方をされるだなんて怒り心頭だろう」みたいに
1.「主体的な意味でも世間的な意味でも低評価を積み重ねてみせたのはこの女」
既に書いているように、「女性が「私はあなたを「値踏み」して好きになったんじゃないんだよ」という意味を込めて言及したであろう「スペックの低さ」」ということではないでしょうか。
あなたは「主体的な評価」と「世間的な評価」を区別したうえで、その両方で低評価がなされていると述べています。
ただこの場合、「主体的な評価」といっても、その評価基準は「世間的な評価」と同一(=顔やファッションセンスが洗練されていることを「良いこと」「重視されるべきこと」と考える点で同一)であり、
どちらも「私があなたを好きな理由とはかかわりがない」というのが、ここでの論旨でしょう。
要するに、元の文章に書かれているように「それをわかってて好きになったんだ」。
(もっとシンプルに「事実認識と価値判断は違う」ということかもしれませんが……)
2.「自信をもってほしい」
これも全体の文意から考えて「顔やファッションセンスを重視する世間的な評価を内面化して劣等感を覚えたりしないでほしい」ということであって、
言えることは「私があなたを顔やファッションの問題とは無関係に好きだ」ということであって、それ以上の意味を読み取るのは困難ではないでしょうか。
増田Bにしてみれば彼氏のことを好きな理由が何かあって、それをわざわざ書く必要はないと思ったのでしょう(書いてないことを少なくない人が不審がっているのが不思議です。子供を諭しているわけでもあるまいし、批判のあとには褒め言葉が続くというものではないでしょう)
3.「キレて誤魔化さずに」
と言われても、私は元増田(増田B)ではないのでキレる理由がないのだけど……。
何で私がキレてると思ったのでしょうか?
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
まあ、受け手の感性が絶対的な価値判断ではないという前提はもちろんある。
誤解している人も少なからずいるが、「論理的にみて妥当ではない」ことと「面白くない」はイコールではないからさ。
逆も同じことで、「論理的にみて妥当」であることと「面白い」はイコールじゃないだろう?
つまり、話の整合性であったりとか、論理的にみた妥当性とは「面白さ」を判断する要素の一つでしかないということさ。
「論理的にみて妥当ではない=面白くない」が基準ではない以上、その他の要素で「自分は面白くない」と言っているのと、本質的には同じなのだよ。
では、なぜ誤解している人が多いかというと、「論理的に見た妥当性」は人に自分の考えを理解させるのに効果的だからだ。
例えば、「ガルパンはいいぞ」というだけでは、共感できない他人はなぜ面白いのか分からないだろ?
それをストーリーや展開であったり、設定やキャラの造形であったりなどを様々な要素を説明していけば、「なぜ面白いと思ったのか」を理解してもらうことは可能なわけだ(共感するかは置いておくにしても)。
これは逆も然りだが、「面白くない」という感情は負の側面が強く反感を持たれやすい。
なので主張に正当性を持たせるために、より普遍的であろう要素を用いる。
それが「論理的にみた妥当性」によって作品が批判されやすい理由というわけだ。
まあ、非論理的で話にならないよりはマシだとは思うが。
最近、多少揶揄的なニュアンスと予防線を込めて政治的正しさ、あるいはPCについて言及されるケースをいくつか目にした。
なるほど、確かに過度な政治的正しさへの配慮は自由闊達な表現を陰に陽に萎縮させるものであろうし、形骸化された政治的正しさは単にナンセンスだ。
しかし他方で、「それとは全く別の問題として」、多くのことがらがある種の正しさをめぐって回っているように僕には見える。
たとえば(誇張した表現になるが)経済原理主義者は最適化・あるいは効率化こそが正しさを担保すると考えているフシがあるように思えるし、
過度にアニメの制作者サイドに寄り添い「楽しんでる!」と必死なタイプの消費者はあたかも楽しむことこそが正しさを調達するとでもいいたげなように感じられる。
(注意:僕はここで経済原理主義者や全肯定的アニメ消費者を批判したいわけではない。正しさの調達パターンをいささか戯画的に書き出してみたいのだ。
また、前者であれば最適化・後者であれば肯定的なスタンスが無意味であると断じたいわけでもない。
むろんそれぞれの立場から有益な結果・知見が引き出せることはあるだろう。
ただ僕は、あるタイプの信念・行動からある正しさへの意志をピックアップすることは「権利上」可能であるだろうという前提の上で思考実験してみたいのだ。)
さて、人がある物事に大して価値判断を下す際、無数の観点をとることができるように思えるが、ここでは大きく「正しさ」「効率性」「面白さ」の三つに分けられるとしよう。
たとえば学問では正しさが重視されるし、通常の社会では効率性が重視されるし、共同体では面白さが重視されるだろう。
(注意:学問的な「正しさ」と政治的「正しさ」とでは「正しさ」の意味するものが異なるのでは?というのは正当な指摘だ。
ここでは政治的正しさというフレーズに引きずられてこう命名したが、「真理」とラベルを貼れば言語ゲームの癒着は多少解消されると僕は考えている。
とはいえ、これでもまだ混同が起きているという疑問はあるだろう。しかしここはこれで議論を進めるのでご容赦いただきたい。)
しかし、学問で正しさを追求することが「楽しさ」を帯びることは多くの人が多かれ少なかれ知っていることであるし、
ある種の「面白さ」が正しさを担うことも趣味に熱中したことがある人なら知っていることだろう。
するとつまり「経済原理主義者」は「効率性」を追求することによって「正しさ」を調達するように見えるし、
「全肯定的アニメ消費者」は「楽しさ」を追求することによって「正しさ」を調達しているように思える。
(注意:ここで「そんな深いこと考えていないよ」というのは一旦はそうだ。
とはいえ、現に「そう見える」しこれはある種の無意識の考察だと考えてもらって差し支えない。)
ここで僕が言いたいのは「なぜ素直になれない!」ということだ。(もちろん僕がこの指摘をまぬがれているというつもりはない)
正しさを追求したいのであれば正しさを追求すればよいし、それ以外の効率性や面白さがウエイトを占めるケースであれば全力でそれに没入すればよいではないか。
いそいで付け加えておくと、僕はこのような「正しさ」の追求が悪であると言いたいわけではない。
しかしながらそこに、ある種のねじ曲がった欲望を見て取ってしまうのだ。
なぜ、ストレートに正しさや効率性や面白さを追い求めることができないのだろうか?
程よく住み分けることはできないのだろうか?
これは裏を返していえば、あらゆる価値判断のメタレベルには正しさをめぐる判断があり、結局全て(これはレトリックです)は政治であるということなのだろうか?
しかし、全てが政治であるとして、その裏側には欲望が張り付いているのだとしたら、それを上手く調節したり整流することも可能ではないのだろうか?
複数のものから選べってのがあったが、違和感だか疑問だかを覚えた。
「適当」って言葉になんか価値判断が入っている気がして違和感があったんだよな。
かなっていること。ふさわしいこと。
また、そのさま。「工場の建設に―な土地」「この仕事に―する人材」」
ってことなので、上の問題は条件だけにうまくあてはまることを課しているってことか。
詳述すれば、元の図形には規則性みたいなのがあって、仮にその規則性に従うとしたら、
どの図形が「適当」かってことだろうな。
俺が混乱したのは、
その規則性を仮に正しいとするのではなく、その規則性自体が適当か評価するという課題をも含むように思えて、
そうだとすると、そこにより基礎的な目的・要求についての価値判断も問われることになるってところか。
最初に見せられて疑問に思ったのは全部黄色で一か所だけ欠けていて、
まあ俺は黄色を選ぶが、正直何色でもいいじゃんってなるな。
情報ジャンキーの立場から、あの互助会問題を語ろうではないか。
「キュレーター」と名乗ると、こそばゆいんだが、おそらく私はキュレーターである。はてなブックマーク自体は9年ちょい使っている。この前10周年だった事を考えると、はてブが始まって1年半くらいから始めたユーザという事になる。古参だなぁ、いやはや年取ったわ。
そして私は情報ジャンキーだ。暇を見つけて、いや無理にでも暇を作って、ブクマブクマブクマたまにコメント。FeedlyとDiggとInoReaderを常用してて、1日に読むフィード数はたぶん4000を越えてる。というか、数えた事がない、数え切れなくて。情報を心地よく読む為だけに、ディスプレイは6枚つかってる。
でだ。互助会。あれ、はやく対策しないと、はてブは死にますよ。
なぜなら私がブクマしたエントリが跳ねなくなった。流されるようになった。流れる事自体は自然の摂理だから問題はないんだが、そのスピードが昔に比べて速い。すなわち互助会ノイズに埋もれて消えてしまうのだ。
多くの人や特に互助会ブロガーは初速にこだわってるが、普通は文章力のあるブロガーとは、あるとき突然、日の目を見る。「3ブクマ集めるまでが勝負」とか言ってるやつは、そもそもブクマのキュレーションの力を勘違いしてる。
ヒットするブログが生まれるには、ネットサーフィンするキュレーターが見つけて、すくい上げる流れがある。じわっと1ブクマついた記事に、誰かが2ブクマ目……数週間たって、3ブクマ目がついた瞬間、たった数時間の短い間、はてブ新着エントリに浮上し、多くの観測者によって評価される。そして跳ねるのだ。
私がほぼ初期に1getして、その後浮上したブログは、コンビニ店長、ハックルベリー先生、ひきこもり女子のいろいろえっち等があるが、どれも自分が非公開ブクマした後、数週間して伸びる、じわっとパターンである。
コンビニ店長が水戸駅で貞操を奪われそうになった話や、ハックルベリー先生の語る面白コンテンツ創作術(無名時代版)をリアルタイムで読んでいた人は少なかろう。そして不思議な事に、リアルタイムでそれを読んでも、実は大抵の人には面白さが分からない。これは私も謎なのだが、コンテンツって誰かが解釈を照らさないと、普通の人には善し悪しが判断できないみたいだ。
名もなき情報ジャンキーブックマーカーが己の感性で“良いエントリ”拾い上げ、ブクマコメントとタグで“読み方”を補完してる。これがはてブで良質なブログが発掘される構図だ。
で、ここ半年くらい、伸びないんだよな。拾い上げたつもりのブロガーが。はてブのアルゴリズムが変わったとか、私の読みが甘くなったとか、色々要因は解釈できるのだが、やはり大きいのはノイズが増えたからじゃないかと考えられる。過去にもライフハック系記事とか2chまとめとか、特定カテゴリが異常に伸びる時期があった。しかしその時と大きく違うのは、新着の流れる速さである。速すぎるし、ノイズが増えた。これでは多くの人々が面白い内容を見つけるタイミングを失う。
すなわち3ブクマを獲得したものの、人目に触れずに消えてしまうのだ。
互助会は、過去の信頼と審美で培われた新着エントリ欄を、数の力で押し上げてる。仲良しごっこは好きにすれば?と思う面もあるんだが、ノイズで新着ランキングが埋もれるとなると、話は別だ。良い書き手が流される為である。
私から見れば彼らは明らかに情報の読み方が浅く、能力が足りない。お友達ブログだけ読んでる奴は、読み方がなってない。「面白いと感じたからブクマしました」と抜かしているその感性を疑うべきである。少なくともブクマした記事と同内容の事をぐぐるべし。そして関連書を図書館で予約してはどうか。今時ネット予約が出来るから、30秒で注文できる。色々読んだ上でコメントするのも良いだろう。もう少しブコメに厚みを持たせられないのか(いやまぁ、古参ユーザでも頭悪そうな人もいるんですけれどね……)。
仲間内ばかり見ても読む力はつかない。あらゆるものを読まない事には審美眼は育たないのだ。そういうセンスを持たない人が「アフィリエイトで稼ぐ」とか「サロンはじめました」と言っても、失笑モノだ。なんだ君は、はてブに焼き畑農業しにきたのかい?己の親兄弟や友人知人にブログを見せても、恥ずかしくない文章を書くことを薦める。
死んだ後も、ブログは残るぞ。
こういうフリーライダーが増えれば、はてブがつまらなくなるのは必定だ。互助会ネットワークはひとつのカテゴリを新設して押し込んではどうか。「アフィリエイトネットワーク」なんかどうだろうか。ははは。私のようなキュレーターは、面白いブログを見つければ、カテゴリに丁寧に分類するから、新設カテゴリに互助会を振り分けて貰う方が問題はないのだ。
はてなも上場したし、私も歳を取った。時代は変わるものだ。ランキングがノイズにまみれ、はてブキュレーションシステムが死ぬのも、時代の流れか。
私のような日陰ブックマーカーも、隠れた実力ブロガーも、雑踏にまみれて消えゆく存在なのかもしれない。
関連エントリ
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追記と一部ブコメの返信
id:zuiji_zuisho うーん、互助会の肩を持つつもりはないけど、この増田の話も眉唾だ。誰も見てないようなブログが、増田の非公開ブクマ(どこに露出することもない)、その後に火が付いて伸びるってほとんどオカルトじゃないか。
ごめん、ちょっと書き方が悪かったな。昔は公開ブクマだった(というより、公開ブクマしかなかった)。自分は数ヶ月毎にはてブを整理する上、ファン機能が嫌いなので、全文自動保存スクリプトを回した後、非公開にするという使い方をしてるというだけなんだ。なので実際はブックマーク時は公開ブクマである。
とはいえ、私と同じような動き方をしている人は何人かいる事は確かで、どこからともなくやってきて、ブクマして去って行く人を知っている。そして非公開ブクマをしても、3ブクマキュレーションは成立していると思える。おそらく私と同じようにRSSリーダー、キーワードRSS、Googleアンテナ、Tumbler、他サービスのタグRSS経由でやってくるのだろう。
ネットに公開されている以上、誰も見ていないはありえない。
すまないけど、結局「俺が思う『面白い』が絶対的に正しい」と言ってるようにしか見えない。ユーザー層の移り変わりもあるだろうし、自分の感性が多数派でなくなる時もあるだろう。数で勝つしかないのだ。
互助会批判を見てて、とある大手新聞社の人から聞いた「新聞生き残る理論」を思い出した。要するに、「新聞は情報の重要度によって扱いの大きさを変えて序列をつける役割を持っている。一般人には情報の優劣など判断できないため、新聞のその役割は必要なのだ」という話だった。
新聞が「少人数のプロの記者が情報の重要度を判断する」メディアだとしたら、はてブは「不特定多数のアマチュアブクマカーの投票数(ブクマ)によって情報の重要度」を扱い(ホテントリ入りか否か)が変わるメディアだ。
もとい、はてブは「不特定多数のブクマカーの投票数(ブクマ)」によって情報の扱い(ホテントリ入りか否か)が変わるメディアだ。
情報の価値判断の正当性はそのメディアのキモだ。新聞がそれを「プロの記者」が担保しているとすれば、はてブにおけるそれは「ブクマカーの投票数」になる。互助会批判は、言ってみれば、その正当性への疑議だ。
さっきブクマした「古参の自称敏腕ブクマカー増田」の言い分は、大手マスコミ側の理屈と似てる。両者に共通するのは「自分達の価値判断こそ正しく、大多数の一般人には情報の価値判断など出来ないのだ」と思っている点だ。
だが、はてブの「不特定多数のブクマカーの投票数によって情報の序列を決める」という仕組みでは、彼ら「敏腕ブクマカー」の投票活動は埋もれてしまうことがある。彼らが如何に敏腕であろうと、「一票の価値」は変わらないからだ。まぁお気に入りもあるからそうとも言い切れんが。
面倒になってきたのでまとめると、はてブはよくも悪くも「数」で決まるメディアなので、ある程度の「衆愚化」はしょうがない。嫌気が差してきたブクマカーの望むホテントリを「作る」には、さらなる精鋭を育て、暗愚を数で上回るしかない。
それが難しければ、もう少数精鋭のキュレーターが結託して新しいはてブに替わるメディアを作るしかないんじゃないだろうか。
ルールを厳格化したりすることで、多少の衆愚化は避けられるかもしれないけど、遅かれ早かれどこかでまた似たような問題が起こってくるような気がする。
はてブが特異なのは、集合知と集合愚のバランスである。そこが絶妙ゆえに、キュレーションメディアとして評価されていた。互助会問題によりそこが変わろうとしている。対策はarata2515氏が書くように、古参ブックマーカの移動の他にはないだろう。
玄人めいて書いたが、実は私自身も「本当に価値のある記事・伸びるブログ」は、リアルタイム……つまりブクマした瞬間は、よく分かっていない。たがしかし、何千と読んでいる中で、フッと違った感触を得る事がある。これは本当に不思議で、形容しがたいのだが。平原で四つ葉のクローバーを探すのに近い。あるいはSTGでいつのまにかレアキャラを撃ち倒していた感覚というべきか。つまり、実に些細なのだ。
はてブの利用者みなが、ブログを繊細に読めとは言わない。時代の変化もあろう。しかし、声の大きく粗暴なやつが、静かに価値を語る者をかき消すならば、残念に思える。
引越しかないかね、やっぱり。
マットデイモンが火星から脱出する大人気の映画と迷ったが、同行者の強い推しと自分の直感を信じてこの映画を見た。
もしも建物が話せたら http://www.uplink.co.jp/tatemono/
結果は大正解であった。
とにかく淡々としていてこれといった見せ場がない。建物がすごく良い話をするかとおもったのだが、そうでもない。建物の中でドラマが起きるわけでもない。結果、強く推していたはずの同行者は上映開始10分で寝るし(例えば刑務所の建物は「私の中と外は全然違う、でも外のことは全然知らない」とかシリアスに言う。深い意味でもあるのだろうか?たぶん意味は無いと思う。)僕も、ビールを飲みながら観たせいもあり大変気持ちよく眠れた。
さて、ここまでならただの批判的なイヤミになってしまうが、そうではない。
僕はこの映画と出会って新たな遊びのジャンルを開拓することができた。ビールを片手に日曜の昼下がりにウツラウツラしながら映画を観るというレクリエーションである。そして、この映画はそのジャンルにおいて非常に高得点だと思う。綺麗な風景と落ち着いた音楽。そしてどちらもちょっとヒネリが効いてて良い。建物の話がたいくつな大学の講義のようで懐かしい。実際、同行者は上映後に「気持ちの良い映画(を見ながらの昼寝)だったね!」と爽やかに微笑んでいたし、僕も心底同感で幸福であった。
んー、なんで工学系だと思ったんだろ。
人文系でも社会系でもreasonableかどうかって議論はするよ。
ただ、そこで背景となる「理屈」っていう枠組みはある意味自由に設定できるんで、自然現象と一致する「理屈」を探すっていうアプローチと違うってのはわかるけど。
合理的かどうか、というのは単に設定した理屈に現象があっているかどうかを言っているんであって、そのこと自体に価値判断は含まれないと思うけど。(もちろん、「今はこのフレームで議論するんだ」という前提のもとでは、非合理性は避けるべきものであるけれど)
(追記:いや、設定した理屈と現象との乖離についてなぜ非合理になってるか、を考えることもあるな。つまりそこには別の「理屈」が存在する可能性があるわけで、それは何かとか。議論してる主体が非合理じゃあ議論にならないけど、対象の非合理性はそれ自体が対象になり得る)