はてなキーワード: 価値判断とは
社会の価値観を内面化できないっていうのは、人間(じんかん)で生きていけてないという意味で、
正直、うすら気持ち悪い奴だなぁという感じはある。
「痛さ」を強固な価値判断基準として重きをおいてるみたいだけど、言い換えれば「痛い」とは「社会の標準に沿ってない」ということとほぼ同義だよね。
「社会の価値観を内面化できない」ということを言ってるんだから、定義から「痛い」のは当たり前であって、「痛い」と指摘することは何も情報量を増やしてないと思うぞ。
ん?敢えて痛いことをしている人と天然さんとでは、改善の見込みがまるで違うと思うんだが?
残業常習者が会社を壊す|トンデモ人事部が会社を壊す|ダイヤモンド・オンライン
http://b.hatena.ne.jp/entry/diamond.jp/articles/-/84384
akagianne 社員が悪いような書き方をしているが、「突然の根拠のない方針変更」「明らかにキャパオーバーの業務」「過酷な人員削減」で、首が回らなくなっている担当者が多いはず。明らかな、雇用側からの責任転嫁だ 仕事 5 clicks
ひとつひとつ突っ込んでいくと、「突然の根拠のない方針変更」というのはお前程度の人間に説明する必要がないというだけのことであり、こういうこと書いてる時点で立場的には末端の上司の命令に従うだけの立場だということがわかる。
次に「明らかにキャパオーバーの業務」というが、これは実は明らかではなく、口だけで行動が伴わない人間に多い無駄口のひとつである。こういうことが全くないわけではないが、たいていは適切な仕事量であり、それどころか改善次第ではもっと多くの業務をこなしつつも余裕がある、それぐらいまでこぎつけることも多い。
ということを書くと、表題と矛盾しているじゃないか、と思う人もいるだろうが、そんなことはない。要は「多すぎる、少なすぎる」という価値判断は、お前自身がすることじゃねーんだよ、ということ。
最後に「過酷な人員削減」であるが、これは当然のことで、「今ある仕事量は常に適正だが、人員は最小化して回すのが正しい」ということでしかない。つまり、仕事量は常に適正だし、人員も多すぎるのは問題だが、少なすぎることは問題ではないということだ。なぜなら、人員が少ないというのは客観的な評価ではなくたいていが上と同じ個人の無駄口でしかなく、最適化すればむしろ適正だった、なんだ、前のほうが人多すぎじゃないか、となるのだ。
これに不満を持つのは結構だが、そこで不満持っててもロボットに取って代わるだけだし、己の無能を恨むんだな、というほかない。
ずっとバカにしていた相手が、ある日を境にノーベル賞級の偉人になった時、そんな経験をする人は、自分の価値判断や評価基準、人間を見る目を全面的に疑った方がいい。
ノーベル賞とまで言わずとも、仕事で成果を出した、というのも同じ。
その認識の仕方・考え方・価値観は、あらゆる面で、ノーベル賞級の人間とは別の方向を向いているということだから、ノーベル賞とは真逆の結果を出す人生を送る嵌めになり、自分の人生にも大いに影響を及ぼす事になる。
すくなくとも、株や競馬とかのギャンブルには向いていないので手を出さない方がいい。
そして、そんな経験をする時は、大幅に自分の価値観を修正し直さないと死ぬまで一生、成功とは無縁の、失敗をし続ける人生になるよ。
だとしたら、「同性愛は反社会的なのか」も「14歳の女性と和姦性交することは反社会的なのか」もどちらも価値判断を導くための質問なので、どちらかの(あるいは両方の)質問に対する回答を得たところで「反社会的という言葉の定義のすり合わせ」にはなり得ない(「反社会的」という単語を定義することにはなり得ない)ですよ。
○ 性的指向とは、恋愛・性愛対象として「どの性別の人を好きになるか/ならないか」という根本的な傾向のこと。性的指向が他者から「感染」することはない。
○ 異性の人しか好きにならない人は「異性愛者」、同性の人しか好きにならない人は「同性愛者」、異性の人を好きになることも同性の人を好きになることもある人は「両性愛者」と呼ばれる。
○ 「生物学的に異常」という表現がそもそも成り立ち得ない。近代以降の生物学はダーウィンの進化論を原理とするが、進化論は「環境に適応した動物が生き残る」という事実判断を示しているのであって、種や個体の在り方について「正しい/誤り」「正常/異常」などという価値判断を示しているわけではない。
○ ナチスドイツのように「優秀な遺伝子」の繁殖を至上命題とする「優生学(優生思想)」ならば事情は異なるが、生物学は「子孫繁栄」を種の目的として掲げているわけでもない。
○ 「性行為が生殖に結び付かないのに性欲がある」個体を「異常」とみなすならば、同性愛者だけではなく、不妊症の男女もまた「異常」ということになる。「生殖に結びつく能力を持たない」個体を「異常」とみなすならば、同性愛者一般ではなく、不妊症の男女(性的指向は問わない)のみが「異常」ということになる。
○ 生物学と異なり、医学では「正常/異常」という表現を使用し得る。
○ 1974年にアメリカ精神医学会は『DSM(精神障害の分類と診断の手引)』第3版で同性愛を治療対象から除外し、1993年にはWHO(世界保健機関)も『ICD(国際疾病分類)』改訂第10版で「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」と結論した。
○ 日本でも1994年に厚生省(現:厚生労働省)が『ICD』を公式基準として採用し、1995年には日本精神神経医学会が『ICD』を尊重するとの見解を示した。
○ 性的指向に「正常」も「異常」もないというのが現代医学の「常識」である。この「常識」を覆そうとするのは自由だが、同性愛が治療対象(医学的に「異常」)であることを証明するのは難度の高い試みだろう。
○ 「アブノーマル(異常)」が「ノーマル(正常・まとも)」の対義語であることを踏まえれば、仮に発言者に悪意がないとしても、「同性愛は異常」という主張は必然的にネガティヴな表現として理解される。
○ 同性愛には「異常(アブノーマル)」として排斥されてきた歴史もある。不特定多数を「誤解」させたいわけでもなければ、同性愛者が少数派であることを強調したい場合には最初から「少数派」や「マイノリティ」という単語を使用する必要がある。
○ 既述したように、「同性愛は生物学的に異常」という主張は「私が信じるところの『生物』の在り方として同性愛は異常」という思想的メッセージにすぎず、「同性愛は医学的に異常」という主張は事実に反している。現代の社会において「同性愛は異常」という主張は差別的発言として理解される。
○ 法務省人権擁護局の『主な人権課題』に基づけば、特定の人種や性別、性的指向を理由とする差別的発言は人権侵害にあたると考えられる。
○ 同性愛者や両性愛者は、誰もが自分の性的指向をカミングアウトしているわけではないし、誰に対してもカミングアウトしているわけでもない。実のところ、それは異性愛者も同様である。異性と交際・結婚していることは異性愛者である証とはならない。
○ 「同性愛は異常」という主張は、自分の周囲に同性愛者はいないと思い込んでいる人ほど発しやすい。しかし、実際には同性愛者や両性愛者はごくありふれた存在で、複数の調査によれば人口比3〜6%程度は存在するとされる。
○ 目の前に同性愛者がいる可能性を考慮せずに「同性愛は異常/気持ち悪い」と発言することは、実は目の前にX県出身者がいるのに「X県出身者は異常/気持ち悪い」と発言するのと同様、他者を侮蔑する行為である。偶然、その場に同性愛者やX県出身者がいなかったとしても、目の前にいる人の家族や友人が同性愛者やX県出身者かもしれない。
○ 日本の同性愛者や両性愛者の男性の中には、異性愛者の男性の約6倍もの自殺未遂経験者がいる。
○ 誰も他人の心の内を透視できないので、内心で何かを思う分には誰からも何も問題視されようがない。ただし、「同性愛は異常/気持ち悪い」という発想が「黄色人種は異常/気持ち悪い」「男性は異常/気持ち悪い」などの発想と同様の差別的思想であることはそろそろ理解されるべきだろう。
○ 自分が同性の人を愛せないことと、「同性愛は異常/気持ち悪い」と思うことは異なる。性的指向の合致しない人に恋愛・性愛の感情を抱かないのは自然だが、自分と異なる性的指向を嫌悪することは差別的思想によるものである。
○ 「同性愛は異常」と主張する人は、以下のいずれか、または複数の誤謬を自然なものと信じ込んでいる。
○ 実際には、生物の目的は生物学では説明されないし、同性愛は障害でも病気でもないし、同性愛者を気持ち悪いと思うことは自然な感情ではなく主観的な偏見である。これらの事実を示されたとき、事実を受け入れるか、それとも受け入れるのを拒んで「差別主義者」として生きるかは各自に委ねられている。
異性愛者は正常で、同性愛者は異常だ、と言う人がいる。本当だろうか?
なぜ異性愛者が正常なのかというと「人間は子孫を残すために生まれてきたからだ」と言う。
その「ために」は何のための「ために」なのだろうか?
事実として、多くの人間には、種を残すための本能のようなものが、遺伝子的にプログラミングされているらしい。
そう考えると、同性愛者というのは、プログラムの「バグ」のようなものにも見える。
しかしシンプルな理屈ほど、疑ってかからなければならない時もある。
ここで考えなければならないことは、「そのプログラムはなんの『ために』存在するのか?」ということではないだろうか。
なぜ種を残す本能が存在するのか? そもそもなぜ人間は、あるいは生物は、その種を後世に残そうとするのか?
難しい問題である。無茶苦茶ムズカシイ。なんとなれば、「人はなぜ生きるのか?」というような問題にも繋がってくるからだ。
科学は価値判断をしない、という文脈に立った上で言うならば、科学的に見て、人間が生きることに意味や目的や理由は存在しない。
あるひとりの人間が、人間としてこの世界に生まれたのは、単なる物理現象の膨大な積み重ねにすぎず、そこに必然性のようなものは全く無い。全く、である。
「人間は子孫を残すために生まれてきたんでしょ?」と言う人がいるかもしれないが、そういう人には逆に問いたい。「じゃあなんのために、人間は子孫を残すの?」と。
おそらくこの質問に回答できるのは、宗教的な議論だけだろう。「終末の日を待つため」とか。「自分を産んでくれた先祖に恩返しするため」とか。
しかしあえて言わせてもらうなら、あなたがこの世に存在するのは、先祖があなたのためを思って子孫を残そうと努力したおかげなどでは決して無い。ただ単に、「種の保存」という遺伝子的プログラムに従っただけのことである。身も蓋もないことを言えば、ただセックスしたいからセックスしたら子どもが生まれただけである。いや、ホントはもうちょっと複雑だろうけどね。
「よりよい種を残すことが人類の目的だ」というようなことを言う人もいるが、それも科学的に見て間違っている。
生物が進化するのは、環境に適応するため、である。「より良い」などという概念は、人間的な価値判断に過ぎない。
より正確に言うならば「多様な個体の内、環境に適応した個体が生き残る」という形で進化は進む。
人間が今の人間のカタチをしているのは、大雑把に言えば、単なる偶然に過ぎないのである。
どうも「人類は今まで子孫を残してきた」という事実と「だから全ての人間は子孫を残すべきだ」という価値判断をごっちゃにする人が多いようだ。事実と価値判断は分けて考えなければならない。
あなたが「全ての人間は子孫を残さなければならない」と考えるのは個人の自由だ。しかしそれはあくまでもあなたの個人的な思想であり、社会的な合意ではない。
あるいは、成員全てが子孫繁栄のためだけに邁進するような、そんなブラック企業じみた社会に、本邦はなりつつあるのだろうか? そうしたい人は結構いるみたいだが。
話を冒頭に戻そう。
確かに、人間のうちの多くが、「種の保存」を遺伝子的にプログラミングされている。
しかしだからといって、そのプログラムが多少ズレている人が、直ちに異常人間であるという話にはならない。
なぜなら、そのプログラムは、様々な偶然の積み重ねによって、そのような文字配列になっただけであり、あらかじめ種の保存を目的として書かれたものなどでは決して無いからだ。
もし足し算が出来ない表計算ソフトがあったとしたら、それはれっきとしたバグである。所与の目的と違う動作を、バグと呼ぶのだから。
しかし人間は、人間の遺伝子は、誰かによって何かの目的によって作られたプログラムでは無い。人間の遺伝子に目的は無い。「ために」も無い。
追記見た。
そうかそうか。差別とか政治的な正しさとかそういうことはすっかり了解した上で、そういうのはさておき純粋に個人の感覚的な話をしたいんだね。感覚的に嫌悪するのが当然と思っていたのに、いつの間にかそうでないことになっている気がするけど、あれれどうしたの皆そうじゃないの?実際のところどうなの?俺がおかしいの?って話だね。
だとしたら「やめようぜそんな条例って言いたい」ってくだりは混乱をまねいていて無用だったわ。
そうだなぁ。同性愛に限らず、そもそも人の属性のみをもって「きもっ」ってのが無いな。例えば皮膚疾患の拡大写真とか見ると「うっわぁぁ」って感じる。でもそれを患っている人について「きもっ」とは感じないよ。もちろん自分との個人的かかわりの中で「近づきたくねぇ」ってのは別としてね。電車の中でからんでくる酔っ払いとか。
元増田は、どう感じてるんだ?
それって掘り返せば差別意識を背景にした学習性の価値判断、つまり皆が差別しているから俺も差別しておこう、って身に付けた感覚だと私は思うんだけど、そうではなくて、皮膚疾患を見た時のような純粋に感覚的な嫌悪感情なの?
相手のいる性行為をしてみたいと
発作的にかなり強く思うこともあるが
したことがない。どういうことだ?
あと極めてまれなことだとは思うが、
異常だか奇妙だかと思う人が多い考えを、俺がかなり強く抱き続けているからというのも少しはあるだろう。
ただし、後者の信念によっては仮に特別に魅力的な異性が相手から接近してきたら抵抗できない気がする。
奇妙と感じる人が多いらしい信念の内容は、異性による性行為の結果として子供が新しく存在し始めることがあるが、
その結果を被る人にとって、存在し始めることが極めて悪い場合が恐らく1から3%くらいあり、
そのリスクを考えると、異性間の性行為に関わることは極めて大きな他者危害に加担することであるというものである。
この考えの萌芽は中1くらいからあった。
普通はこの類の考えは一時的に抱かれることはあっても、長く続くことはあまりないのではないか。
そうなるのは恐らく、性行為の相手ができて、性行為をすることによる自分の利益が極めて大きく感じられるため、
実際性行為には本人たちも望まない結果すら避けるための対策すらさせないだけの魅力があるらしいので、
上の強固な考えはその奇妙さと現に訂正されていないということから、
いわゆる精神病的な妄想なのではないかと考えて、少しお勉強したことがあるし、現在も精神医学にはかなり興味がある。
結論を言えば、上の考えの中で、妄想でありえるものは、存在し始めることが本人にとって悪い場合の割合くらいだと思われる。
ただ、一つのことを、それについて考えることが苦痛を伴っても考えざるを得ないという心理的特徴は、
ひょっとしたらさまざまな精神病の中核にあるものかもしれない。
激しい幻覚や妄想などはその性質によって引き起こされる睡眠不足などによる自然な結果のこともあるのではないか。
ちなみに、精神病の診断で奇妙さを基準にした場合、その点では診断する者の判断が一致しない場合がかなり多い。
実際の比率は忘れたが、幻聴と妄想の認知臨床心理学かガレティとヘムズレイの本に書いてあったと思う。
もちろん、上のような考えそのものが精神病の症状じゃないとしても、
精神病の影響によって生じた考えではあるかもしれない。
性行為に関わることの悪さをどれくらいだと感じているかというと、
生きることをよいことだと感じている人をふつうに殺すよりは悪いくらい。
かなり悪いと感じることをしている人々について仕方ないと思っているので、
たいていの殺人犯とかも仕方ないと考えなければならない。
その人の意見は、その人の価値観から作られるものだし、その人の価値観は、その人の人格から作られるものだし。
意見を否定するってことは、その人の価値判断にNOを突きつけるわけで、「その感じ方はおかしい」「そっちの方が大事だと思うのはおかしい」「その好みはおかしい」っていうのは、もうそれ人格に異を唱えてると受け取れるよ。
まあ、単に知識が欠けてるから、本来その人の価値観が求めてることとそれを得るために通したい意見がズレちゃってることもたまにあるけど、その場合は教えてあげれば聞いてくれる方が多いと思う。
それでも聞いてくれずに強く反発されるのは、大体、建前として表明してる価値観と本音での価値観が違ってる場合。
たとえば「仕事のプロジェクトを成功させたい」が建前の価値観で、それについて誰かが「そのためにはあなたの意見には合理的でないところがあるからこうした方がいい」って指摘してキレられたなら、それは本当に求めてるのは「仕事のプロジェクトで俺が主導権を握りたい」「活躍したい」とかだったりする。
でも、その「自分こそが一番活躍したい」っていうのを否定したら、それはもう人格否定だよね。周囲からしたら困った人格ではあるけどさ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ブサイクな人間が嫉妬や自虐に使い、肝心のイケメンの人格を排除している時点で、低俗なミームであることは自明だっただろう。
元ネタに込められた思いなんて、今では何処吹く風だ。
まあ“そういう人間”は、「ただし性格のいい人に限る」とかだったとしても分が悪いとは思うが。
最近ではそれがターゲットを変えて「童貞を殺す服」になっているのかな。
“彼ら”にはぜひとも逆に殺してやるくらいの気概を見せてもらいたいものだな。
なんなら「処女を殺す服」でも作ったらどうだ?
君の発明にしてくれて構わないぞ。
おいおい、君はまだそんな次元で話しているのか。
「ただしイケメンに限る」といった低俗なミームが風化してから何年経ったと思っている。
なのに、いまだそんな不毛な質問するのは、君の中で「外見だけで人を判断するなんて酷い」だとか、画一的な価値観を前提に語っているからだ。
君がよほど未成熟な人間でないのなら、そのような評価基準に是非を求めようだなんてことはナンセンスだと気づくはずだ。
そもそも人間は総体的に評価すべきで、各々で重視する側面はあっても、決して「それだけ」でいいわけではない。
住む部屋を探している人は何を重視するかはともかく、「その条件さえ満たせば後は何でもいい」とはまず思わないだろう。
また、現在進行形で対象を求めているかどうかでも、回答への真剣度は変わってくるしな。
いずれにしても総体的に評価すべき価値判断を、一つの要素だけ抜き出して語っても意味はない。
愛すべきは「要素」ではない、「人」だろう。
まあ、そこに君の求める真実があって、それで人生が豊かになるのならば好きにすればいい。
そ、そうか……。
偶然そうやって出会いに恵まれていない人を捕まえて「だから結婚できないんだよ!」なんて言うのはお門違いではあるのだが……。
君は高学歴高収入を「高望み」といっているが、もう少し考えてみて欲しい。
自分と同程度のスペックで、かつ一緒にいたいと思え、相手も君とパートナーになりたいと思っている。
それは、高学歴高収入と比べて本当にハードルが低いのかどうか。
それにハードル走も、それはそれで大変だと思うぞ。
……それらを踏まえたうえで結婚できるのか?
それは私が決めることじゃあない。
もしかしたら高学歴高収入の人と結婚できるかもしれないし、君のいったような条件の人と結婚できるかもしれない。
だが不確定要素が大きい以上、結婚の条件を弄ぶ人間に他者がいえることはそこまで多くないんだ。
いずれにしても、私がいえる教訓はこれだ。
「現実を見ろ」
陳腐な教訓だが、こんな所でいるかどうかも分からない人間を前提に語っている時点で、本当に理解している人は少ないんじゃないかな。
それにしても、いやはや……。
恋愛や結婚が自由になり、親戚などの「お節介システム」も廃れたのが現代だと思ったが。
今も形を変えて、そのシステムをお金を払ってまで求める人が多くいるとは。
各々が自由を追い求めた結果が今だとするなら、何とも難儀な話だな。
完璧に実践するのはムリでもある程度実践している人は4人以上いると思うけど。個人で実践できることだってあるわけで、そんな難題ではないよ。
不当な差別だのを無くしたいなら思想を直接広めてなんとかするんじゃなくて科学技術の発展に期待したほうがいいかなって思ってるよ
思想を直接広めれば問題が解決するわけじゃないってのはその通りかもしれないね。
ただ、あなたの言う「科学技術の発展」により男女差別を解決するにしたって、まず科学者や技術者たちの心に「男女平等という理念は大切だ」という価値判断がなければならないよね。さもなければ男女差別をあおる科学技術だって登場しかねない。科学者や技術者が「男女平等くっせー」と言ってるようじゃ話にならんわけでね。だから思想や理念を広めることも大事なんだよね。
国は創作するよ。
『歴史』は普通に創造物になりうるし、歴史認識は完全に創作物だよ。
『歴史』の場合はどちらか一方に都合の良い出来事のみを記載し、
『歴史認識』はさらに自由度が高く、出来事の評価を自在に書き換えることが出来る。
例えば、後世に影響のない些事に意義を付加して愛国心を煽るエピソードになったり、
併合された国が併合した国の投資や教育の成果を単なる良かったこととしてではなく、
あまりに強固な『歴史認識』を教育された人間とは事実ベースの会話ができなくなる。
全く恐ろしい話だよ。
母の臨終に駆けつけたおば(父の妹。母から見た「小姑」)は涙ながらに言った、「本当にありがとう。立派な子どもを産んでくれて。優秀な遺伝子を残してくれて。」と。
母とおばの間に、かつて「嫁VS小姑」みたいな争いは(少なくとも私が知る限り)なかった。おばは、つまらない嫌味を言う人でもない。
だから、きっとおばの心からの感謝の気持ちだったのだろう、「優秀な遺伝子を残してくれてありがとう」。
私は思う。せめて、「子どもたちを立派に育ててくれてありがとう」だったなら、母の短かった人生の後半すべてが労われたのではないかと。
あるいは「兄と結婚し、共に生きてくれてありがとう」だったなら、数々の苦労が報われたのではないかと。
でも「遺伝子を残す」って、母は「産む機械」であり「遺伝子の乗り物」であった、と言っているように私には聞こえた。
もしかしたらおば自身、そのように扱われ価値判断されてきた世代だからこそ、それは最大の賛辞だったのかもしれない。
それでも私は心の中で願った、「どうか、母はもう聞こえていませんように」と。